●2月12日(月)
木村恵吾『三万両五十三次』(大映京都'52/1/25)*65min(オリジナル同), B/W
出演・大河内傳次郎(瓢箪の馬場蔵人)、轟夕起子(お蓮)、折原啓子(小百合)、河津清三郎(山際三左衛門)、菅井一郎(松居要三)、香川良介(植松求馬)、澤村國太郎(堀田備中守)、加東大介(牛若小僧)、寺島貢(南郷小彌太)、上田寛(三吉)、杉山昌三九(矢柄城之介)、南部彰三(相川惣八)、潮万太郎(亭主源兵衛)、葉山富之輔(目明し長兵衛)
○解説(キネマ旬報日本映画データベースより) 野村胡堂の原作から「馬喰一代(1951)」の木村恵吾がシナリオを書き、監督したもの。撮影は「ある婦人科医の告白」の長井信一が担当している。出演者の主なものは、「十六夜街道」の大河内傳次郎、「ある夜の出來事」の轟夕起子、「紅涙草」の折原啓子、「新撰組 第一部京洛風雲の巻」の河津清三郎に、菅井一郎、澤村國太郎、加東大介などである。尚、かつて日活で辻吉朗監督が同じ大河内傳次郎主演で撮ったものの再映画化である。
○あらすじ(同上) 黒船の相つぐ渡来に、国をあげて閉国か開港かの議論でわきかえっていたとき、各老堀田備中守は、強行に開港を主張し、反対派たる京都の公家たちを懐柔する資金三万両の黄金を京都へ送ることになった。その大任が、人々の予想に反し、一介の浪人馬場蔵人に与えられ、蔵人は、京都の寺へ寄進する十六菩薩だと称する十六個の荷物を八頭の馬に積んで京都への旅に出発した。それと同時に、日本橋から京都へ向う花嫁行列が、江戸切っての目明かし、雁金の長兵衛に守護されて出発した。三万両をねらう反幕派の浪士たち、欲にからんだ怪盗牛若小僧と女賊のお蓮の一味、大任を蔵人にさらわれた上、想いをかけた家老の娘小百合の心まで蔵人に奪われた恨みを抱く山際三左衛門、蔵人の身を案じた小百合までが、そのあとを追って同じ五十三次の旅へと続いた。こうして蔵人の行列は幾度か襲われ、その度に蔵人の奇策とあざやかな剣さばきとが危機をきり抜け、三左衛門のため追いつめられた小百合の危険をも救った。京都へ目と鼻の瀬田の大橋では、京都からの反幕派の浪士も加わり、牛若小僧もこれに便乗、前後からのはさみうちで、堀田家の一行も危ないかに見えたが、これも蔵人の機智と剣とで見事に切り抜け、一行は無事京都へ到着したのだった。いつしか蔵人の人柄にひきつけられていたお蓮も、大任を果たして江戸へ引きかえす蔵人のあとを追う小百合の姿を、あきらめの瞳で見送るのだった。
本作は剣戟よりも多数の登場人物が入り乱れてのお宝争奪戦の方に重点を置いた時代劇ですが、大河内傳次郎の戦前主演作のリメイク版になるそうですからオリジナルも好評だったのでしょう。原作も時代物作家の巨匠、野村胡堂です。監督の木村恵吾はもともと脚本家出身ですから本作も自作シナリオで取り組んでおり、リメイクにとどまらない意欲が感じられます。設定は幕末の開国派と攘夷派との抗争ですが主人公が開国派の使いなので、一応戦後日本への占領軍方針とは衝突しませんが、サイレント時代の『建国史 尊王攘夷』'27では開国派と攘夷派の抗争を描きながらどちらに立っても矛盾を生じる事態に気づいた上で、矛盾を矛盾のまま描き通す構想の大きさがありました。本作ではそのあたりを割り切った作りで、攘夷派=反動=倒幕派=悪役とすんなり図式に収めています。しかしそれだと、原作ではどうなっているのか知りませんが、こうも同じような悪役が(目的はそれなりに違いを設けてありますが)出てきては引っ込むプロットがオムニバス映画めいていて、1本の長編映画なら副登場人物たち同士にももっとドラマがあってもおかしくない、というか話が盛り上がっていきません。本作でも一応は主人公をめぐる人物たち同士の関わり合いが描かれてはいるのですが、大河内傳次郎演じる主人公はあくまで超然としていてドラマを通して変化していくようなキャラクターではない。本作の大河内の役柄は一見控えめで冴えない一介の浪人ながら意志は強く腕前も立つ、という主人公ですが映画の最初と途中と終わりでポテンシャルがまったく同じで、一世一代の大役を果たしたという感じなど全然感じさせないのです。そういう不言実行型の恬淡とした人物を描こうというのなら周辺人物たちが騒がしすぎ、誇張されすぎています。おそらく込み入った登場人物たちの出入りや騒動に次ぐ騒動、といった展開は原作準拠と思われますが、主人公を筆頭に登場人物の性格は配役に基づいた映画独自のものなのではないかと思われ、轟夕起子演じる女賊お蓮などはまり役で他の役者もシナリオが配役を念頭に書かれている感じがします。おそらく大河内傳次郎の主人公についてはオリジナルを叩き台にしたとしても好きに演らせたと思われ、それに合わせて他の曲者たちを設定していったところお話は波乱万丈なのにプロットの起伏は単調になってしまった。展開が読めてしまう、主人公に都合良すぎるのは娯楽映画では必ずしも欠点ではありませんが、まず主人公の浪人馬場蔵人が任務に忠実である説得力からして乏しく、開国派に対しても攘夷倒幕派についても等距離でいる方が自然に思えます。少なくともこの込み入った話の中ではそう思えます。明快な任務遂行型時代劇に仕立てようとしたところその明快さがかえってどこか突っ込みの浅い、いまいち印象の薄い作品にしていますが、昭和27年1月公開作品ですからまだ検閲が念頭にあったのかもしれません。
●2月13日(火)
大曾根辰夫『魔像』(松竹京都'52/5/1)*97min(オリジナル同), B/W
出演・阪東妻三郎(神尾喬之介)、阪東妻三郎(茨右近)、津島恵子(園絵)、山田五十鈴(お絃)、柳永二郎(大岡越前守)、三島雅夫(魚心堂)、香川良介(壁辰)、小林重四郎(金山寺屋音松)、小堀誠(脇坂山城守)、永田光男(戸部近江介)、海江田譲二(大迫玄蕃)、田中謙三(浅香慶之助)、戸上城太郎(神保造酒)
○解説(キネマ旬報日本映画データベースより) 製作は「相惚れトコトン同志」の小倉浩一郎。「旗本退屈男 江戸城罷り通る」の鈴木兵吾が故林不忘の原作より脚色した「大岡政談」もの。「鞍馬天狗 天狗廻状」の大曾根辰夫が監督し、「大江戸五人男」の石本秀雄が撮影している。出演者の顔ぶれは「稲妻草紙」の阪東妻三郎の二役、「波」の津島恵子、「箱根風雲録」の山田五十鈴、「西鶴一代女」の柳永二郎のほか、三島雅夫、香川良介、戸上城太郎など。
○あらすじ(同上) 千代田城御蔵番を勤める神尾喬之助は元旦早々組与頭の戸部近江介を急先峰に御番所の面々から年賀の礼を尽さなかったとつめよられた。近江介は懸想していた園絵が神尾の妻になった恨みもあったが、何よりも彼等が私腹を肥やしていることに実直生真面目な神尾が常に意見を差し挟む事を邪魔に思っていたからであった。彼等の余りなやり方に堪えられなくなった神尾は近江介を斬って姿を消した。そして彼は江戸っ子気質の御用聞き壁辰と音松の好意で、これも曲がった事が大嫌いという通称喧嘩屋夫婦、茨右近とお紘の家にかくまわれた。その右近がまた喬之助から事情をきき、彼が残る不正の御蔵番一味十七名に天誅を加えようというのには大賛成、喬之助の自宅から園絵をひそかにつれて来てやった。喬之助は次々と不正役人を倒して行った。今や戦々恐々の彼等は剣豪神保造酒に喬之助を討つ事を依頼したが、神保は園絵と引きかえにそれを承知した。騙されておびき出された園絵も、しかし魚心堂と名乗る当時名奉行の名の高い大岡越前守の親友に救われた。越前守は悪役人が大かた退治され主謀の脇坂山城守も御役御免になったのを知って、世をさわがせた喬之助を召取らせた。そこは名奉行のさばき、喬之助を人違いの左近と主張して江戸より追放だけ申渡した。魚心堂から無事送り届けられた園絵と共に、喬之助は心も晴々と旅に出るのだった。
本作は阪東妻三郎ほとんど晩年の作品で、翌'53年7月に阪妻は松竹京都の『あばれ獅子』(8月公開)撮影中に高血圧から倒れ、5日後の7月7日に脳内出血で急逝してしまいます。享年51歳でしたが、2役をこなす本作からは体調の不調は微塵も伺えません。『狐の呉れた赤ん坊』でもずぶずぶと子役時代の津川雅彦を肩車して川を渡っていましたが、先に略述した経歴でも監督の大曾根と主演俳優阪妻ではどちらが意欲的で進取の気迫で映画に取り組んでいた映画人だったかを言うのは容易ですがフェアではない気がします。アナーキスト出身の異色監督、悪麗之助(1902-1931)を監督デビューさせたのも阪妻プロでしたし(悪はその後月形龍之介プロ、市川右太衛門プロに招かれましたが29歳で夭逝、監督作品25本は1作も現存しないと思われていましたが2009年に月形主演作『荒木又右衛門』'30の30分弱の断篇が発見され、2011年に脚本から短縮版に編集されました)、 牧野プロから早い逝去に至るまで阪東妻三郎はサイレント時代から'50年代初頭までの日本映画史の主役の筆頭であり生き証人のような人でした。牧野プロでの『逆流』'24、ことに阪妻プロの『雄呂血』'25は世界の映画史のサイレント期の古典とされ、ジョセフ・フォン・スタンバーグが驚愕してロサンゼルスの日本人向け映画館に殺陣シーンの演出で何人斬られたか数えられるまで通ったと言われる作品です。同作が完全なプリントで今日観られるのもプロデューサーでもある阪東妻三郎が自宅に1本を保管しておいたからで、没後の遺品整理中に発見されたと言われますが70代の長寿を迎えられれば日本のダグラス・フェアバンクスかルドルフ・ヴァレンティノかと偉業を讃えられることもあり得た人で、それは本作のような戦後の娯楽作品でも一端が味わえます。本作は正義漢で堅物の侍、神尾喬之助(妻のお園に時代劇初出演の津島恵子)と喧嘩番長の町人、茨右近(喧嘩屋夫婦と評判の妻のお絃に山田五十鈴)を阪妻が二役で演じるのが趣向で、成り行きから不正役人のシンジケートを粛清しようと喬之助と右近が組むことになり、この二人はもともと間違えられるほど瓜二つという設定で、二人が対峙するシーンは合成処理で一人二役を演じています。喬之助は「~ござる」口調、右近はべらんめえの「~でえ」口調としゃべればすぐわかり、いかにも慎ましいお園と喧嘩女房の異名をとるお絃の女房二人の対照も楽しく、タイトルが禍々しく『魔像』となっていますがこれは喬之助と右近が瓜二つであるのを指しているので内容は勧善懲悪明朗時代劇で剣戟シーンもくどくはならない程度に豊富で、むしろコメディに近い乗りで、結末などは調子良すぎるんじゃないかというくらいにめでたく終わります。原作の時代小説は戦前の作品になるようですが、昭和27年の時代相だとこの筋書きは野暮な批評家に戦犯懲罰かレッドパージにこじつけて解釈されそうで、観客からはシーズン最高のヒットとなる歓迎を受けたのは本作のどのあたりか少し気になります。サイレント期の阪妻映画を観てチャンバラしていた世代が30代後半の映画観客になっていたノスタルジーも大きいかもしれません。だとすれば、阪東妻三郎急逝の前年に本作を観客の要望に応えるヒット作に仕立てた大曾根監督もまた、プログラム・ピクチャーの映画監督としては最善の仕事をしたと讃えるのが素直な鑑賞で、ただしここではサイレント時代の時代劇の毒気は意図せずにか意図的にか愛嬌に置き換えられてしまった観があるのも確かです。