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映画日記2018年2月6日・7日/日本の昭和10~20年代時代劇(1)

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 コスミック出版『名作映画 サイレント劇場』に続いて同社の9枚組DVDボックスセット『時代劇傑作集』を観ていきたいと思います。収録されているのは昭和10年~昭和28年の時代劇映画9作で、すべてトーキー以降の作品です。こちらは『サイレント劇場』と違って著名作がかなり入っており、観たことがある作品も多い上に文献資料も相当あるので感想に詰まった時にはヒントを資料から拾えそうです。'20年代サイレント時代劇は3作ずつ感想文を書き1記事にまとめたため疲労感が半端ではなかったので、『時代劇傑作集』は9枚組・長編映画9本ですが手持ちのDVDから同年代の時代劇映画を1本足して10本、2作ずつ感想文をまとめることにしました。昭和10年度作品から始まり昭和28年度作品で終わるので、たかだか10本とは言え「日本の昭和10~20年代時代劇」と名銘ってもいいでしょう。昭和20年8月の敗戦を境い目に、5作が戦前・戦中作品、5作が戦後作品となります。昔はこの辺も地上波の深夜番組でよくテレビ放映されていたのになあと思うと今さらながらもっと観ておくんだったと悔やまれますが、トーキー以降の作品はかなりDVD化も進んでいるので(それでもまだまだですが)、この辺りまで来るともう現代映画の範疇に入ると言っても鑑賞の困難なく観ることができます。ご覧になる機会があればぜひ構えずにお楽しみください。特に今回の山中貞雄監督作品2作は日本映画ベストテン級の名作と定評あるものです。

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●2月6日(火)
山中貞雄『丹下左膳餘話 百萬両の壺』(日活京都撮影所'35/6/15)*92min, B/W

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○解説(キネマ旬報日本映画データベースより) 百萬両の隠し場所が描かれたこけ猿の壺を巡る争奪戦を軽妙にユーモアをもって描いたコメディ時代劇。怪人・丹下左膳が活躍する林不忘の原作をアメリカ映画「歓呼の涯」(1932)をヒントに大胆にアレンジしている。監督は「国定忠治」の山中貞雄。脚色は同作でもコンビを組んだ三村伸太郎。撮影は「小鼓兄弟」の安本淳。音楽は「火の玉小僧 海賊退治」の西梧郎。出演は、丹下左膳が当たり役の大河内傳次郎、歌手の喜代三、「お洒落旗本」の沢村国太郎。戦後、タイトルクレジットの一部やおしゃかの文吉らとの乱闘場面ほかが削除され92分の短縮版となる。削除されたシーンはその後長い間幻となっていたが、2004年乱闘シーンの一部が音声欠如ながらも新版DVDに収録された。
○あらすじ(同上) 柳生対馬守(阪東勝太郎)は、祖先が百万両の隠し場所を記した地図を「こけ猿の壺」に塗り込んでいたことを知る。しかしその「こけ猿の壺」は江戸の不知火道場に養子に出した弟・柳生源三郎(沢村国太郎)に餞別として渡してしまっていた。急ぎ江戸屋敷に使いを送り、何も知らない源三郎から壺を取り上げようとする。その源三郎は養子の弱みで妻の萩乃(花井蘭子)には頭が上がらず、毎日屋敷で腐る日々を過していた。城主となった兄と違い古く小汚い壺しか相続してこなかった源三郎に嫌みを言う萩乃だった。そこに兄からの使者がやってくる。その言動を不審に思った源三郎はとうとう壺の謎を聞き出す。源三郎は喜んで萩乃に報告するが、萩乃は既に壺を通りかかった屑屋の茂十(高勢實乗)に売り払ってしまっていた。その屑屋が住む長屋に突き出し屋の七兵衛(清川荘司)と安吉(宗春太郎)親子がいた。安吉が取ってきた金魚の入れ物用に屑屋はこけ猿の壺を譲り渡す。七兵衛は大店の旦那と詐称して毎晩、女将・お藤(喜代三)が営む矢場に遊びに出かけていた。その矢場には隻眼隻腕の浪人・丹下左膳(大河内傳次郎)がお藤のヒモ兼用心棒として居候していた。矢に難癖をつけて暴れる鬼の健太(大河内傳次郎)とおしゃかの文吉(高松文麿)。それを諫めた七兵衛との間に騒動が起るが、左膳が割って入る。用心のため左膳は帰宅する七兵衛を送っていくが、嘘がばれたくない七兵衛は長屋の手前で別れる。その直後逆恨みした健太らに七兵衛は刺されてしまう。異変を察知し引き返した左膳は七兵衛を負ぶって店に引き返す。七兵衛は残された安吉を心配しながら事切れる。翌日。源三郎が壺探索にかこつけて矢場に現れる。萩乃の前ではいやいや出発するが、久々の開放感に足取り軽い。左膳とお藤は七兵衛の店を探すが見あたらない。通りかかった屑屋のおかげで大店の話は嘘だということが判明する。一人残された安吉を不憫に思い、二人は安吉を店に連れて帰る。口では迷惑といいつつも二人は安吉を溺愛しながら育て始める。安吉は元の家からこけ猿の壺だけをもって来ていたが、壺を目の前にしても源三郎は店に務めるお久(深水藤子)との浮気に夢中で気付かないでいた。源三郎から百万両の壺の顛末を聞いた左膳だが、左膳も店の者も誰も安吉が抱える壺がそのこけ猿の壺だとは気付かなかった。不注意から金魚を死なせてしまった安吉のために左膳と源三郎とお久は連れだって金魚釣りに出かける。が、しかしその現場を萩乃に目撃されてしまう。そうとは知らない源三郎の元に屑屋を見つけたという知らせが届く。屑屋からの情報で安吉が持っている壺が探していたこけ猿の壺だとようやく気付いた源三郎だが、浮気続行のためそれを隠したままにしておこうと決める。翌日出かけようとする源三郎だが、浮気に怒る萩乃に咎められ屋敷に軟禁されてしまう。一方江戸屋敷では、江戸中から壺を買い取り、その中からこけ猿の壺を見つけ出そうとしていた。メンコの代わりに大判で遊んでいた両替商の息子に勝った安吉だが、お藤にたしなめられそれを返しに向かうが、その途中で大判を盗まれてしまう。両替商が大判を、小判で60両を返せと怒鳴り込んでくる。左膳とお藤は明日には返すと両替商を追い出す。金の工面のことから言い争う左膳とお藤の声を聞いた安吉はいたたまれなくなり置き手紙を残して家出してしまう。町中を探し回った左膳とお藤はなんとか安吉を見つけ、優しい言葉をかけるのだった。一発逆転を夢見、賭場に繰り出す左膳だったが結局すってしまう。その帰り道に鬼の健太とすれ違った左膳は敵討ちに健太を斬り殺す。健太の亡骸を遅れてきたおしゃかの文吉が見つける。なんとかして外に出ようと塀を乗り越えようとする源三郎だが、泥棒と間違えられ門弟に袋だたきに遭う。免許皆伝という触れ込みだが実は剣術の腕はからっきしな源三郎であった。万策尽きた左膳は道場破りで金を稼ごうと出かける。安吉はせめてもの足しになればと壺を売りに行こうと決める。左膳が道場破りに向かった道場は偶然にも源三郎がいる不知火道場だった。左膳は門弟を簡単に打ち破る。しぶしぶ立ち向かおうとしていた源三郎だが、道場破りが左膳と気づき、わざと負けてくれと頼む。60両で商談成立した左膳はわざと負け、源三郎を称える。それにすっかり騙される萩乃だった。源三郎から安吉の壺がこけ猿の壺だと聞かされた左膳が家に戻ると、既に安吉は壺を売りに柳生江戸屋敷に出かけてしまっていた。急いで安吉を追って家を出た左膳を、仲間を従えたおしゃかの文吉が襲う。大立ち回りの末左膳は文吉らを撃退する。このため出遅れた左膳だが間一髪安吉が壺を売るのに間に合うのだった。すっかり道場で面目を得た源三郎は、鼻高々に壺探索に出かける。矢場に着いた源三郎は、壺が見つかってしまっては浮気が出来なくなるからなと言い、当分壺は左膳たちに預けると告げるのだった。

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 ポスターを見ると本作は戦後『新編 丹下左膳』と改題されて再公開されたのがわかります。しかし真ん中にちょび安を挟んで左に丹下左膳、右に矢場の女将お藤が真面目な表情で座っているスチール写真が端的に本作を表しているように、これは剣豪映画の丹下左膳ではなく左膳とお藤がちょび安を囲んで疑似親子関係を築いていくマイホーム・コメディなのです。丹下左膳はもちろん伊藤大輔監督の日活(大秦撮影所)の第1回トーキー作品『丹下左膳』'33/11/15(キネマ旬報ベストテン第6位)の大ヒットによって大河内傳次郎の当たり役だったのですが、山中貞雄の本作はあくまでも『丹下左膳餘話』で、ニヒルでハードボイルドな隻眼隻腕の剣豪丹下左膳はここではバカボンのパパのような存在になっている。バカボンのパパは言いすぎにしても山中の年長の親友だった小津安二郎がサイレント時代からすでに描いていたような女房に頭の上がらない亭主どころか、完全に内縁の奥さんのお藤(江戸時代どころか戦前は子供が生まれるまでは内縁なのが普通で、堅気の商売でなければなおのことでしょう)の尻に敷かれていて、お藤が左膳に頼みごとをすると「何でおれが……やでい」「お願いよ」「やでい」カットが変わるとお藤の頼み通りのことをまんざらでもない様子にしている左膳、というギャグがくり返し出てきます。孤児のちょび安を道場に通わせると言い出す左膳、寺子屋に行かせるわよとお藤、「親の仇の討ち方を寺子屋で学べるけえ」「これからは寺子屋で勉強していなきゃ駄目よ」「道場に行かせるんでい」「寺子屋よ」「道場!」「寺子屋!」カット変わって習字の帳面をめくるお藤と左膳、「まだ寺子屋も五日目なのに偉いわねえ」「うーむ、てえしたもんでえ」と、万事がそんな調子です。つまり左膳とお藤の愛の確認はそうした習慣化した口げんかにあるのですが、それが裏目に出ることもあるのが本編でもっとも感動的なシークエンスになります。ちょび安が壺を抱えて家出する場面がそれで、小判をメンコ代わりに遊んでいた子供たち相手にちょび安が大勝ちしてしまって返しに行こうとしてすぐ目をつけられていたスリに遭う、小判を取られた相手の子供の親が返せと文句を言いに来る。お藤と左膳はちょび安を責めないでいつもの調子で「うー、何にせよ悪いのはちょび安に返しに行かせたおめえだ」「あんたよ、あんな壺売っておけば……」「おめえだ」「あんたよ」といがみあい、ふすま越しに聞いていたちょび安がいたたまれなくなり自分の胴体ほどもある父の形見のこけ猿の壺を抱えてよちよちと裏路地に出ていく。ちょび安の姿がないのに気づいたお藤と左膳が慌てて探しに出かけてちょび安はあっけなく見つかりますが、ちょび安への愛情が矢場の女将とそのヒモの用心棒の関係を子供に注ぐ愛によって夫婦の愛に変化させて初めて母親の情、父親の情を知り、三人がひとつの家庭に結びついたのを示す感動的な名場面です。
 キネマ旬報社『日本映画史』(昭和51年刊)では本作を小津や清水宏の小市民映画に影響された「小市民的道徳時代劇」「その確証」とし、「とにかくニヒリスト左膳の大河内がお藤姉御とチョビ安の家庭でダメ親父になっている喜劇」「映画狂で映画ばかり見ているうちにこういう作品が生まれてくるという見本」(この章は山本喜久男執筆)と揶揄していますが、同章ではこのトーキー初期の時期の伊藤大輔監督『堀田隼人』'33(片岡千恵蔵主演)、『丹下左膳・剣戟編』'34、『新納鶴千代』'35(阪東妻三郎主演)を左翼弾圧時代による時代相の挫折感の反映とし、「挫折の中で頼れるのは自分の剣だけ、つまり命がけの技術だけという不景気の切実さがそこにあり、この切実さがこれら日蔭者ヒーロー支持の心情であった」という初期トーキー期の時代劇への観点が前提となっています。この『日本映画史』では伊藤大輔の映画技術や発想を歌舞伎や講談由来の映画的展開とし、一方「映画作法の技術やスタイルをアメリカ映画や小市民映画から導入し、従来のニヒリズムに対して市民道徳を展開する世代が台頭した。すなわちマゲをつけた現代劇作家、稲垣浩、山中貞雄、伊丹万作である」としています。『日本映画史』の筆者は不景気から戦争拡大時代に移ると伊藤が日蔭者時代劇から「競争社会の究極の倫理である戦争そのもの」へと同化した「体制御用時代劇」に移っていった、という指摘もしているのですが、どうもキネマ旬報社『日本映画史』はサイレント期の牧野プロ作品を「乱闘剣戟時代劇」、山中貞雄の本作を「小市民的道徳時代劇」、戦時下の伊藤作品を「体制御用時代劇」と斬って捨てるような左翼民主主義的な発想の差別的表現が目立ちます。笑いあり人情ありアクションありの本作は別に小市民的道徳を説いている映画ではなく、ごく日常的な次元に丹下左膳を置くとこうなるというだけのことで、超越的存在ではない丹下左膳だから「小市民的」というのは左翼民主主義の民主主義の部分すらあまりに衆愚主義的な見方でしょう。左膳とお藤は庶民的腐れ縁カップルかもしれませんが世間の基準では堅気とはとても言えない賭場の女将とその情夫です。
 左膳が修羅場をくぐった隻眼隻腕の異形であるアウトローなのはこの映画でも動きません。それがあどけない孤児を預かることになって粋や利欲とは関係ない純粋な愛情が生まれてくるのを本人たちも気恥ずかしがりながらも受け入れていく、その過程が適切なエピソードの積み重ねと一応物語の主眼である剣術道場主・柳生源三郎(沢村国太郎)のこけ猿の壺探しと平行して描かれますが、この百万両の壺は源三郎にとっては兄に取り返されなければいいだけのただの面子のためだけにあり、お藤と左膳にとっては孤児ちょび安の父親の唯一の形見の大事な壺だからというだけであり、ちょび安にとっては亡き父のくれた愛着のある金魚鉢というだけの価値しかありません。しかし百万両よりただの面子だったり金魚鉢だったりするのが価値がないとは言えないので、金魚が死んでしまったためにわざわざ左膳と源三郎が源三郎のお気に入りでいい仲になっている矢場の娘お久を連れて金魚釣りに出かける場面は傑作で、この時に源三郎が尻に敷かれている妻・萩乃に壺探しそっちのけで遊び歩いているのがバレてしまうことからお藤の尻に敷かれる左膳と萩乃の尻に敷かれる源三郎に男の友情が芽生えていくのを小市民的道徳と軽んじられるでしょうか。29歳で従軍先の戦地で病没、事実上の戦死を遂げた山中貞雄(1909-1938)はまだサイレント時代の22歳の監督デビュー作『抱寝の長脇差』(嵐寛寿郎プロ'32)から天才を謳われ、日活入社後は大河内傳次郎主演作、片岡プロに出向しての片岡千恵蔵主演作を手がけながら'34年からはトーキー作品に移り、出兵当日が封切り日となった『人情紙風船』'37が遺作となるまで監督作品26作(うち共同監督作品2作)のうち数秒~数分の断篇以外の現存作品は本作『丹下左膳餘話 百萬両の壺』、『河内山宗俊』(日活大秦'36/11/30)、『人情紙風船』の3作だけでトーキー時代にも多くの作品が失われた事情をうかがわせるものですが、かろうじて戦後までフィルムが残ったこの3作だけで日本映画史上最高の天才監督との評価を不動としています。このうち前記『日本映画史』でも評価が高く、公開当時キネマ旬報ベストテン4位にランクされ、戦後のたび重なる映画史ベストテン・アンケートでも定番作品になっているのは『人情紙風船』でテレビ用作品でも4度リメイクされていますが(本作も監督津田豊滋、主演豊川悦司の『丹下左膳 百万両の壷』2004でリメイクされています)出来は3作とも甲乙つけ難い名作です。ただ『河内山宗俊』は『人情紙風船』に先んじて劇団前進座を主要キャストにした河原崎長十郎、中村翫右衛門主演作で凄絶な悲劇作品であり、原節子(1920~2015)の15歳の女優デビュー作という華があってもすでに作風は『人情紙風船』に移行しているのでコメディ映画の監督としての山中のセンスと力量を堪能できるのは本作『丹下左膳餘話 百萬両の壺』しかない。後はサイレント時代の山中の脚本家時代の脚本提供作品『右門一番手柄 南蛮幽霊』(東亜キネマ京都撮影所'27)がむしろ『河内山宗俊』『人情紙風船』より『丹下左膳餘話~』の山中時代劇喜劇を伝えてくれる作品で、他には『山中貞雄作品集』全3巻にまとめられたシナリオから失われた数々の映画を想像するしかありません(そのうち数本は戦後に再映画化されていますが、製作年代の観客の嗜好に合わせた作風になるのは仕方ないことでしょう)。全監督作品の1/8、たった3本でいずれも名作から1本選ぶのはあまり意味がありませんが、『河内山宗俊』『人情紙風船』だけだったら、または他に現存作品があったとしてもこれらの系列に並ぶ悲劇作品ばかりだったらと思うと『丹下左膳餘話~』が残されていて本作に良かったと思えます。それは現存作品『河内山宗俊』『人情紙風船』の3作をくり返し観てもしみじみ感じられるのです。

●2月7日(水)
山中貞雄『人情紙風船』(P.C.L.映画製作所'37/8/25)*86min, B/W

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○解説(キネマ旬報日本映画データベースより) 江戸深川の長屋を舞台にそこに暮らす人間がやがて破滅に向かう様を描いた時代劇。「髪結新三」としても知られる歌舞伎の演目「梅雨小袖昔八丈」を基にペシミズム溢れた内容となっている。監督は「森の石松」の山中貞雄。この作品の封切り日に召集を受け中国に出征、その地で戦病死、この作品が遺作となった。脚本は山中と長くコンビを組む三村伸太郎。撮影は「お嬢さん」の三村明。音楽は太田忠。出演は「戦国群盗伝」の河原崎長十郎、中村翫右衛門、山岸しづ江ら前進座の面々。
○あらすじ(同上) 江戸深川の貧乏長屋で老浪人が首つり自殺した。竹光なので切腹できなかったのだ。目明し弥吉(市川楽三郎)の検分のため外出できない長屋の人々はくさる。長屋に住む髪結いの新三(中村翫右衛門)は、強欲な大家・長兵衛(助高屋助蔵)をそそのかして、故人への餞と称して大宴会を開く。新三の壁隣には、紙風船の内職を営む、浪人海野又十郎(河原崎長十郎)とその妻おたき(山岸しづ江)が住んでいた。新三は自分で賭場を開き、地元を取り仕切る大親分弥太五郎源七(市川笑太郎)の怒りを買っていた。源七の子分が新三を連れ出しに来たが、新三は隣の又十郎の部屋に逃げ込み難を逃れる。又十郎は亡き父の知人毛利三左兵衛(橘小三郎)に士官の途を求めるが、毛利はそれを迷惑に思い、色よい返事はしない。毛利は質屋の白子屋久左衛門(御橋公)を訪ねる。店主の娘お駒(霧立のぼる)を家老の子息が見初めたためその縁を取り繕うとしていたのである。お駒はそんな自分の運命に耐えられなかった。彼女は店の番頭忠七(瀬川菊乃丞)と出来ていたが、忠七は何も出来ないでいた。白子屋の店先で毛利を待っていた又十郎だが、毛利の依頼で白子屋が差し向けた源七の子分らに叩きのめされる。それを救おうとした新三だが逆に子分らに捕まり、源七の元に連れて行かれる。散々絞られた新三だが、気に入らない源七の鼻をあかそうと再び賭場を開く。しかし源七の子分らに踏み込まれ一文無しとなる。又十郎は毛利が迷惑がっていることに気付いているが、他に仕官の手はなく、おたきにはそのことを伏していた。そして父の手紙さえ渡せれば毛利は受け入れてくれるに違いないと望みをおたきに話すのだった。だが毛利は手紙を受け取ることはせず、又十郎は長屋の側の居酒屋でわびしく酒を飲むのだった。その夜、金のない新三は元手を作るべく髪結いの商売道具を質に入れるため白子屋を訪ねるが、忠七にコケにされ憤慨する。翌日おたきは向島の姉に会いに出かける。その夜は縁日だったが大雨となる。そこでお駒を見かけた新三は昨夜の仕返しに彼女を誘拐する。雨の中毛利に懇願する又十郎だったが毛利は拒絶、二度と姿を見せるなと言い放し父の手紙を雨中に放り棄てる。雨に濡れながら呆然と立ち尽くす又十郎。帰宅した又十郎は新三がお駒を誘拐してきたことを知る。翌朝白子屋の命を受け源七らが新三を訪ね、お駒を帰すよう説得する。金を渡し穏便に済ませようとする源七に対して新三は、源七が頭を丸めて土下座すればお駒を帰すと言う。交渉決裂に憤慨しながら源七らは長屋を去る。実はお駒は隣の又十郎の部屋に匿われていたのだった。この騒ぎを聞き大家の長兵衛がやってくる。源七をコケに出来て満足したからこのままお駒を帰すつもりだった新三に対して、強欲な長兵衛は身代金をせしめようと提案、交渉は自分に任せろと白子屋に乗り込む。交渉は成立し50両の金をせしめた長兵衛がお駒を連れ戻しに帰ってくる。長兵衛は半分の25両を自分の手間賃と言い、呆れた新三はそれを飲む。まとまった金が入った新三は長屋の連中に酒を奢ると宣言。又十郎にも分け前を渡し、居酒屋に連れ出す。帰宅したおたきは長屋の女房達の立ち話から、又十郎が悪事に荷担したことを知る。居酒屋で又十郎はこの件で毛利が困っていたことを聞き、溜飲を下げるのだった。白子屋に戻ったお駒に対して忠七は駆け落ちしようと告げる。ほろ酔いで帰宅し寝入った又十郎をおたきは刺し殺し、自害する。新三は顔を潰された怒りに燃える源七と死を覚悟して対決する。翌朝又十郎とおたきの心中を見つける長屋の住民。長兵衛に伝えに向かう子供が落とした紙風船が溝にはまり静かに流されていくのだった。

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 筈見恒夫(1908-1958)『映畫作品辭典』(昭和29年・弘文堂アテネ文庫)「『人情紙風船』(日. P・C・L. 1937)日華事変に散華した時代劇一代の才人山中貞雄の最後の作品. 裏長屋に住むもろもろの人々の日常描写の中に, 武士の面目のために死ぬ無為の浪人又十郎(河原崎長十郎)と, 意地にかけて権勢に楯を突き通す髪結新造(中村翫右衛門)の二人がクローズ・アップされている。前進座の総出演に、霧立のぼるが共演. 三村伸太郎のオリジナル・シナリオ.」
 田中純一郎(1902-1989)『日本映画発達史 II 無声からトーキーへ』(昭和37年・中央公論社)「『人情紙風船』J・O蚕の社作品。原作・脚色三村伸太郎。演出山中貞雄。撮影三田明。主演前進座一座、霧立のぼる。江戸巷談の髪結新造を通して、庶民の情感をリアルに描いた佳作。ベストテン第七位。(昭和一二・八・二五、日比谷映画劇場)」「山中貞雄の『人情紙風船』は、彼が東宝に入社して演出した最初の作品であり、また彼の最後の作品ともなった。それは、この映画完成後間もなく、山中貞雄は日華事変に従軍し、昭和一三年九月一七日、中部戦線で戦病死(三〇歳)を遂げたからである。」
 山本喜久男(1931-)『日本映画史』(昭和51年・キネマ旬報社)「8 戦時体制下の映画作家たち」より「しかし小津が現実の疎外情況に目を向けたように、山中も『街の入墨者』'35で前科者の疎外を時代劇で展開し、さらにPCL『人情紙風船』'37(脚本・三村伸太郎)で現代に近づこうとした。貧しい失業者の巣である長屋を脱出できない人びと。無法者は無法者同士で潰し合い、浪人は就職運動に疲れ果て、女房の無理心中で死ぬ。生きてはここを出られない長屋で生き残った人びとが通夜の酒をたのしみにする。浪人の内職の紙風船が人びとの運命を象徴して転がってゆく。主演・中村翫右衛門が語るように、この作品はジャック・フェデールの『ミモザ館』'34が下敷きになっている(「悲劇喜劇」一九五〇年十二月号)。すぐれた山中の雰囲気描写は時代の不安を時代劇にみごとに反映した。こうして山中は出征し、一九三八年(昭和13年)九月、二十九歳の若さで戦病死した。」
 フランソワ・トリュフォー(1932-1985)/山田宏一・蓮實重彦『トリュフォー 最後のインタビュー』(平成26年・平凡社、初出・昭和60~63年「リュミエール」)「最も心うたれたのはキャメラと演出が緊密にからみ合い、一分の隙もない完璧な画作りに成功している点です。」
 四方田犬彦(1953-)『日本映画史110年』(平成26年・集英社新書)「実はジャック・フェデーの『ミモザ館』が換骨奪胎されて隠されている。全体の雰囲気はゴーリキーの『どん底』を意識し踏襲したところがあり、映画のジャンルとしてはグランドホテル形式が採用されている。そして江戸が舞台のはずだが、京都生まれの監督はそこに路地で育った自分の少年時代へのノスタルジアをそっと重ねあわせている。」
○ランキング
1937年「キネマ旬報ベストテン」第4位
1979年「日本公開外国映画ベストテン(キネ旬戦後復刊800号記念」(キネ旬発表)第4位
1989年「日本映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)」(キネ旬発表)第13位
1989年「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)第10位
1995年「オールタイムベストテン・日本映画編」(キネ旬発表)第4位
1999年「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第18位
2009年「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊90周年記念)」(キネ旬発表)第23位(『丹下左膳余話 百萬両の壺』日本映画部門7位)
 以上、主な評価を抜き出してきました。田中純一郎『日本映画発達史』でキネマ旬報ベストテン7位としているのが他の文献と一致しませんが、日本映画部門4位、総合7位ということだったのかもしれません。本作はパブリック・ドメイン化の利もあって中国、台湾、韓国版DVDも多く出回っているアジア圏での日本映画の人気作品でもありますが、キネマ旬報のオールタイム・ベストテン順位が徐々に下がってきている一方『丹下左膳余話 百萬両の壺』が新たに『人情紙風船』以上の人気でランクインしてきているのが注目されます(『河内山宗俊』のランクイン記録はありません)。引用してきた評価の中でいちばんしっくり来るのは内容の悲劇性にはあえて触れていないトリュフォーの讃辞でしょう。剣戟シーンのない時代劇のため現存プリントにほぼ欠損がない(『丹下左膳餘話~』にも『河内山宗俊』にも剣戟シーンが戦後GHQによる検閲で一部カットされ、数分の欠損がある)こともありますが、映画全体の無駄のなく緊張感のある、しかし落ち着いて自信に満ちた余裕ある語り口が美しい画面の連続で沁みわたります。山中の運命は同時代のフランスの夭逝監督ジャン・ヴィゴ(1905-1934)を連想させ、ヴィゴはのち推理小説作家になった親友のクロード・アヴリーヌ(代表作『U路線の定期乗客』創元推理文庫、『サンタクロース殺人事件』晶文社)とともに10作以上の長編映画の企画を温めながら実験的ドキュメンタリーの中編「ニースについて」'30、短編「競演選手ジャン・タリス」'31、中編劇映画「新学期 操行ゼロ」'33('45まで検閲により上映禁止)、唯一の長編劇映画『アタラント号』'34(オリジナル89分版が検閲を通らず、配給会社によって65分に短縮され『貨物船は行く』と改題公開)の初公開直後に29歳で結核の悪化から病没しました。『アタラント号』は戦後に数次に渡って復源版の作成が試みられ、'60年代以降は映画史オールタイム・ベストテンの常連ランク作品になり'90年にはほぼ完全な復源が実現、最新のレストア版は2001年に作成されています。全作品を合計しても2時間半しかない個人映画作家ヴィゴを、監督作品26作中散佚の事情で現存作品3作、現存シナリオ21本が残るプロの映画人だった山中と安易に比較はできませんが、悲しい映画『人情紙風船』にもあふれているのは創作の喜びであり、『アタラント号』も一見他愛ない新婚夫婦のもめ事コメディ(アントニオーニ原案のフェリーニの単独処女長編『白い酋長』'52の影響源と思われる)に見えて絶妙な省略法で語られない部分には陰惨な真っ暗闇が潜んでいるのと好一対をなしています。フェーデの『ミモザ館』(日本公開昭和11年1月29日・キネマ旬報ベストテン第1位)が引き合いに出されている通り、『ミモザ館』自体は興行的には不振だったそうですが、'30年代半ばの日本ではクレールの『巴里の屋根の下』'30、『巴里祭』'33、フェデーの『外人部隊』'33、デュヴィヴィエの『白き処女地』'34、『地の果てを行く』'35、『我等の仲間』'36、ルノワールの『どん底』'36、カルネの『ジェニイの家』'36など「詩的リアリズム」と呼ばれる抒情的メロドラマが非常に愛されていました。これはフランス以外の諸外国でも同様だったようでイングマール・ベルイマン(1918-2007)もアメリカのフィルム・ノワールに先立つ影響源として'30年代フランス映画を上げていますが、フランス本国ではベルイマンが脚光を浴びた'50年代半ばには'30年代のフランス映画監督はジャン・ルノワール以外過去の遺物とされて異端だったサシャ・ギトリ、マックス・オフュルス、ジャン・グレミヨンらとともにジャン・ヴィゴの名前が上がってきたわけです。フランス映画の新人賞ジャン・ヴィゴ賞は'53年に設立され現在でも続いていますが山中貞雄賞は早くも友人の映画人たちによって昭和18年に設立されたものの第1回に黒澤明『姿三四郎』'43、木下惠介『花咲く港』'43に与えられて休止しました。大戦末期ですから続けようがなかったのでしょうが、山中より2歳年下の黒澤、4歳年下の木下の第1長編に賞が与えられたのは戦後映画の第1線に立ったのがこの二人と思うと歴史とは作られたようによくできているものです。
 見事な遺作という感傷的な理由を抜きにしても『人情紙風船』は絶句するしかない完成度を誇る作品で、『丹下左膳餘話~』や『河内山宗俊』も同等の名作とはいえ演出・構成の隙のなさと風格では突出した出来を示しており、それが山中貞雄の1本というとまず『人情紙風船』が上がる理由になっていますが、『丹下左膳餘話~』の喜劇映画としての面白さ、『河内山宗俊』の時代劇らしい重厚さと一転してフランス映画の「詩的リアリズム」派のペシミズム的傾向をあまりに巧みに摂取した結果本当に「マゲを結った現代劇」そのものになってしまっている。映画としての虚構性がある程度あってこそドラマの凝縮性にはリアリティが保障されるので昭和12年の日本というわけにはいきませんが(その場合現代日本の時事的現実感を導入しなければならなくなります)、関東大震災前の明治大正東京市の下町のさらに最底辺の人々という設定でもあまり大差はなくなります。フランス映画を直接的に連想させないためには西洋文化的な要素の入り込まない世界にしなければならない。そうなると明治大正でも時流に乗って羽振りの良い不人情な毛利三左兵衛や冷酷な質屋の白子屋久左衛門は近代的な洋装の実業家や高利貸しに描かないわけにはいかないので、やはり江戸が舞台の時代劇の体裁を取らざるを得なくなる。すると時代劇の結構の中では自暴自棄な生き方を選ぶ髪結新造(中村翫右衛門)は説得力のあるキャラクターですが(霧立のぼるのお駒と番頭忠吉がちゃっかりしていて憎くなります)、一方の主人公である浪人又十郎(河原崎長十郎)の無力感があまりに現代人のキャラクターをお江戸の素浪人に投影したようで、役者たちが素晴らしく演出が見事ですから観ていて不自然には感じませんし、又十郎の性格にも長十郎の名演と数々の胸に迫る名場面が強く印象に残ることから共感を持って観ることができますが(又十郎と無理心中する女房おたきを演じる山岸しづ江は長十郎の実の夫人ですが、毛利への求職も成らずお駒誘拐の片棒を担がされたくらいで思いつめて無理心中するかよと思うものの陰気な女房の感じは十分出ています)、やはり浄瑠璃、歌舞伎、人情本の江戸文芸の世界と'30年代フランス映画を接ぎ木して磨きをかけたゆえの完成度という観は否めません。犠牲的な悲劇的結末を大立ち回りの槍ぶすまの大往生で締めくくる『河内山宗俊』の時代劇らしさには収まるべくして収まったカタルシスがあり、『丹下左膳餘話~』はコメディですから古典的なこけ猿の壺探しをアメリカ人情喜劇タッチで描くこと自体がコメディの肝になっていました。『人情紙風船』の繊細で丁寧、かつ端正な演出は本当に画面の隅々まで行き届いていて、無駄な所作がひとつもないというよりカットひとつも観逃すのが惜しいように全編に見所が満ちています。開き直って最後の無駄死にを覚悟し多勢に無勢の血闘に望む新造も一介の不景気な髪結いの貧乏町人だからこそ悲愴であり、由緒ある血筋で礼儀正しくひたすら耐えしのぶ浪人武士の又十郎が誇り高く陰気な女房の手にかかって無理心中の末路を迎えるのも皮肉だからこそ悲しいのですが、これを山中と長十郎率いる前進座が昭和12年にやりたかった通り最上の映画になったとはいえ遺作にしたかったとは思えない。『丹下左膳餘話~』や『河内山宗俊』が完成度では本作におよばないにせよ到達点を感じさせる、しかもまだ発展可能な印象を受ける作品なのに対して『人情紙風船』は山中には通過点だったろう、そしてこの方向への発展はないだろうと思わせる作風です。贅沢な不満を言えばそれに尽きますし、近年『丹下左膳餘話~』の方に評価の上昇が見られるのも納得のいく気がするのです。

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