●1月26日(木)
『フレンジー』Frenzy (米ユニヴァーサル'72)*116min, Technicolor; 日本公開昭和47年(1972年)7月22日/ゴールデングローブ賞作品賞(ドラマ部門)・監督賞・脚本賞・作曲賞ノミネート、カンヌ国際映画祭特別招待作品
○あらすじ(同上) ロンドンを流れるテムズ河岸に、首に縞柄のネクタイをまきつけた全裸の女の死体が打ちあげられた。その頃、リチャード・ブラニー(ジョン・フィンチ)は勤め先の酒場をクビになり、友人のラスク(バリー・フォスター)のところにやってきた。それから2年前に離婚したブレンダ(バーバラ・リー・ハント)の経営する結婚相談所にきて、自分の不遇を訴えた。翌日、ブレンダのオフィスにロビンソンという偽名を使ってラスクがやってきてブレンダを凌辱し、ネクタイで絞殺した。ラスクが帰って数分後、ブラニーが訪れたが、鍵がかかっていたため引き返そうとする姿をブレンダの秘書が目撃した。そのために彼は殺人犯として追われる身になった。ブラニーは酒場で一緒に働いていたバブス(アンナ・マッシー)を誘ってホテルに泊まったが、支配人に通報され危機一髪で脱出した。その途中、戦友のポーター(クライヴ・スウィフト)に会いパリ行きを持ちかけられ、翌日ビクトリア駅で落ちあうことにした。酒場をやめたバブスは、ラスクに自分の部屋があくから自由に使えと勧められ、彼女もラスクの手によってネクタイで絞殺された。彼は、バブスの死体をジャガイモ袋につめてトラックに投げ込んだが、殺す間際にネクタイピンをもぎとられたことを知り、発車したトラックに飛び乗った。かろうじてトラックを脱すると、開かれた袋からジャガイモが続々ころがり、深夜の路上にバブスの裸の死体が転がり落ちた。オックスフォード警部(アレック・マッコーウェン)は続々証拠固めを進め、ブラニーを追っていた。バブスが殺されたことを知り、戦友からも見はなされたブラニーは救いをラスクに求め、青果市場へやってくる。ラスクはブラニーを自分の部屋にかくまい、彼のバッグにバブスの服をつめ、警察に密告した。ブラニーの無罪は立証できず判決を受けるが、オックスフォード警部は、最後まで「覚えていろラスク」とわめき続けるブラニーを思いだし、何かしっくりこなかった。刑務所内で頭を打って病院に送られたブラニーは、ラスクに復讐するために病院を脱走。この頃ラスクを調べ、証拠をつかみ始めた警部は、ブラニーの脱走を聞きラスクのアパートに向かった。ブラニーは、ラスクのベッドを鉄棒でなぐりつけた。しかし毛布の下には全裸の女の死体があるだけだった。警部が部屋に足をふみ入れる。その時、死体をつめ込むために箱を持ってきたラスクが部屋に入ってくる……。これでようやくブラニーの無罪は立証されて、晴れて自由の身になった。
以降、さらなるフォスターの犯行とフィンチの逃亡が並行して描かれていきますが、つまりこれは『下宿人』以来『間違われた男』を含んだ数多い冤罪ものに『恐喝(ゆすり)』『サボタージュ』『疑惑の影』『ロープ』『私は告白する』『ダイヤルMを廻せ!』『サイコ』『マーニー』と続いてきた犯罪者側の動きを追った作品系列を合わせたものですが、冤罪を着せられるフィンチにしても変態犯罪者のフォスターにしても、舞台背景となるロンドンの描き方にしても華やかなところがまるでない。俳優自身に魅力が欠けるのではなくうまい役者たちですが決してスター俳優でもなければ性格が悪く感じのよくない男を演じており、女優たちもおよそ美女とは言えないキャスティングで総じて俳優たちのほとんどが品のないキャラクターを与えられている。これに較べれば『サイコ』のアンソニー・パーキンズも『マーニー』のティッピ・ヘドレンもまだまだ優雅なキャラクターだったわけで、しがないロンドンの景気の悪そうな感じでは『サボタージュ』以来かもしれませんがオスカー・ホモルカとシルヴィア・シドニーの夫婦だってこれほど下卑てはいませんでした。『舞台恐怖症』から20年ぶりにイギリスで撮影し、渡米以来もっとも低予算の200万ドルで製作されたのも『引き裂かれたカーテン』『トパーズ』で損失が大きかったのもあるでしょうが、ノー・スター映画という異例のキャスティングを含めて純粋に演出だけで勝負する覚悟で取り組んだのが本作なのでしょう。具体的には『サイコ』でやったことをさらに徹底してやる。『サイコ』では使ったスター俳優も今度は使わない。演技はうまいが美男美女ではなくギャラも安くてスターでない分役柄に気をつかわなくていい俳優を使う。こうして見てくると一見『下宿人』+『サイコ』の本作は結果的にヒッチコックの作品でこれまでになかったまったく新しいタイプの映画なに見えてきます。となると確かに『サイコ』的な要素もありますが、題材や内容から『サイコ』の発展となっているというよりも『救命艇』や『ロープ』『ハリーの災難』『間違えられた男』で行った映画的な実験の延長に『サイコ』や『鳥』『マーニー』があり、それら実験的な作品の系列でもまだやっていなかったことが本作で初めてできる時代が到来したとも言えるのではないか。女性のヌードは『マーニー』のヒロインのフラッシュ・バックによる過去の解明でほんの一瞬出てきましたが、『映画術』には本当は錯乱したヒロインのセックス・シーンを使いたかった、とヒッチコック自身が述べています。1964年にはそれは描けなかったのですが、1972年には暴力的なレイプ未遂と絞殺シーンを堂々と描くことができた。作中でヌード、またはセミヌードの死体は4人出てきますが、冒頭の死体はまだ観客が犯人を知らない段階で出てくるので、バーバラ・リー・ハントが殺害されるシーンでようやく犯人像と死体を対応させながら観ることになる。次の殺害はフォスターが被害者を自室に連れ込むとカメラがトラック・バックしていき、階段を下りて建物の外に出て待機する、という具合にカメラの1カットの長い移動ショットで殺害が行われた時間経過を暗示します。この後、じゃがいも袋に詰め込んだ死体を夜になってゴミ捨て場に遺棄しに行き、被害者が自分のネクタイピンをもぎとったのに気づいて死体を暴きに行くと死体と一緒にゴミ処理場へと運ばれるトラックの荷台に乗る羽目に陥る。この被害者の殺害シーンは直接描かれていませんが殺害シーンはハントの殺害で描いたので、今度の殺害は死体から証拠を取り戻す方にサスペンスの重点を移しています。
この死体が発見されるとともに犯人の工作によりフィンチが逮捕され、フィンチにとってはこれで真犯人が判明するのですが犯人の工作の方がものをいって終身刑が宣告される。真犯人はあいつだ、とフィンチが叫んで暴れても相手にされない。ここから後がスコットランド・ヤードのアレックス・マッコーウェンのオックスフォード警部の活躍になるのですが、護送中わざと怪我を負って入院先の警察病院から患者仲間の協力で脱走したフィンチと、真犯人を突き止めたマッコーウェンの警部と、トランクを抱えて戻ってきたフォスターがベッドにネクタイ絞殺されたヌードの女の死体が横たわるフォスターの部屋で鉢合わせするラスト・シーンのブラック・ユーモアは強烈です。ヒッチコックの映画のラスト・シーンは一筆書きのようなあっけない、くどい説明などせずあっさりポロッとした下げが多く、『めまい』の場合に賛否両論あったりもするのですが『裏窓』の無言の下げなどは満場一致で最高でしょう。本作はフィンチとフォスターが立ちすくむ間に立ったマッコーウェンの警部がフォスターを一瞥し「ネクタイしてないな」、そこで映画は終わってしまいますが、本作も「エログロ路線」とか「全盛期ほどでは」とか「年を感じる」とか余計な難癖をつける人もいるわけです。全盛期、というよりは'50年代とは意匠が異なるのは当然でしょう。旧来型のスター俳優中心企画の映画の時代ではなくなった、上流階級の豪奢な生活をきらびやかに描けば夢見る観客を惹きつけられる時代ではなくなった、グレース・ケリーの復帰作を撮りたいヒッチコックではなくなった、年を取って撮りたい映画だけを作るのに躊躇がなくなったというだけです。また、フランソワ・トリュフォーの指摘する通り冤罪を着せられた男が無実を証明する過程で出会ったヒロインとの間にロマンスが生まれるという作品でもありません(そういう先例は『間違えられた男』くらいですが、あれは実話映画という建て前がありました)。照れもあるのかヒッチコックは『映画術』では恋愛の話になるとすぐにセックスの方に持っていく(例外はアルマ夫人だけで、ヒッチコックは生涯「尻に敷かれた亭主」のセルフ・イメージを大事にしたかったようで、これはマゾヒスト的支配欲の特徴でもあります)のですが、ヒッチコックの映画に稀薄なものがあるとすればまさにロマンス要素がそれで、男女の間に恋愛感情があるというのが表現できずエロティシズムだけしか描けない、つまり恋愛イコール性という考え方しかできない様子がある。カトリック育ちの禁欲的感覚に由来するものかもしれませんがカトリックでもラテン国家のイタリアやフランスがそういう文化的傾向とは思えず、プロテスタントとカトリックが混在するイギリスとアイルランドの特殊事情かもしれませんが、本作の犯人像の女性憎悪などはレイプしたい→インポテンツ→絞殺する、とまるでヒッチコックの映画作りの暗喩そのもので、ヒッチコックに限らず映画製作すべてのメタファーとしてもいいくらいです。『フレンジー』が『鳥』以来の傑作になったのはテーマうんぬんを超えてひさしぶりに冴えた演出が映画全体を引き締めているからですが作りたくて作った映画であることがありありと感じられるのが何よりやる気を感じさせ、陰惨で残虐なのに暗くない不思議な映画を作り出しています。ご覧のかたによっては殺人シーンは不愉快に感じられるかもしれませんが、ヒッチコックには調子のいかれたユーモア感覚があって悪ふざけが露骨に出たのがこの作品の乗りの良さを生んでもいれば、いつもより観客の不快を顧慮しない遠慮のなさにもなっています。そしてそれが、映画製作のメタファーそのものの犯罪と犯人像を描いたものになったのは偶然ではないでしょう。
●1月27日(金)
『ファミリー・プロット』Family Plot (米ユニヴァーサル'76)*120min, Technicolor; 日本公開昭和51年(1976年)7月28日
○あらすじ(同上) アメリカのある大都市の高級住宅地。ジュリア・レインバード(キャスリーン・ネスビット)という金持の老嬢の邸に、降霊術師ブランチ・タイラー(バーバラ・ハリス)が呼ばれた。ジュリア・レインバードは、40年前、彼女の妹のハリエットが生んだ父なし子の男児を、見知らぬ他人のもとへやってしまった。だが、ハリエットが死に、血のつながった身内が、この甥1人になってしまった現在、何とかしてこの甥を探し出し、自分の財産を譲ってやりたいと思い、ブランチに甥を見つけ出してほしい、と依頼したのだった。レインバート邸を辞したブランチをタクシーが待ちうけていた。その運転手ジョージ・ラムレイ(ブルース・ダーン)は、ブランチの情夫であり、しかも、彼女の霊のお告げというのは、すべてジョージが探偵もどきにかき集めた情報で、ブランチはその情報を神がかり的演技で言っているにすぎないのであった。2人を乗せた車が、危うく若い女を轢きかけた。この女、フラン(カレン・ブラック)は、警察のパイロット養成所に入り、1粒のダイヤモンドを受け取ると、警察に準備させたヘリコプターに乗って、とあるゴルフ場に着陸させた。ここで彼女を待っていたのはアーサー・アダムソン(ウィリアム・ディヴェイン)で、ダイヤが本物であることを確認すると、車で逃亡した。この2人、実は億万長者を誘拐し、その身代金としてダイヤを受け取ったのだった。市内の隠れ家に戻って来た2人は、ダイヤをクリスタルのシャンデリアの中に隠した。一方、ジョージは、ジュリア・レインバードの甥を養子にしたという夫婦の消息を追って、バーロー・クリークという田舎町にやって来た。だが夫婦子供とも既に死んでおり、確かに墓まで建てられていた。しかし、息子エドワードの墓石が新しいことに気づいたジョージは、墓石屋からジョージの墓の下には何も埋まっていないことを聞き出し、さらに役場にリチャードの死亡証明書を申請したマロニー(エド・ローター)といううらぶれたガソリン・スタンドの経営者に目をつけた。そのマロニーが、色々と嗅ぎまわっているジョージのことを報告した相手は、表向きは宝石店を経営しているアダムソンだった。その頃、ジョージとブランチは子供に洗礼を授けた司教に会うべく教会に行った。ところが、突然飛び出したフランとアダムソンが、大勢の信者の目前で司教を誘拐してしまった。そしてアダムソンは、マロニーにブチンチとジョージを殺すように命令した。マロニーは2人を郊外のドライブインへ誘い、隙を見て車のブレーキに細工を加えた。急な山道でブレーキのきかない車に乗って危機一髪の目にあったブランチとジョージだったが、車ごと崖から墜落したのはマロニー自身だった。ついにブランチは遺産相続人がアダムソンであることを調べ、彼の家を訪ねた。アダムソンはそこで初めて、ブランチとジョージが自分を捜し求めていた理由が、自分にとって不利な事どころか大金がころがり込んでくる話であるのを知ったのだが、丁度、車に積んでいた牧師をブランチに見られてしまい、やむなく彼女を捕まえて監禁した。一方、ジョージもブランチの伝言によってアダムソンの家を訪ね、戻らないブランチを不審に思って家に忍び込んだ。そして、ブランチを助け出すとともに、人質の牧師と交換してダイヤを受け取り、意気揚々として戻ってきたフランとアダムソンを掴まえたのだった。
映画が進行するにつれダーンとハリスはディヴェインが探している甥と確信し、どうやらやばい事情で他人になりすましているみたいだがディヴェインを大富豪老嬢に引き合わせなければ報償金1万ドルはもらえないので、訳ありでも何でもいいからさっさとディヴェインをつかまえたい。その間にもディヴェインとブラックは要人誘拐と身の代金代わりのダイヤモンド集めにせっせといそしんでおり、ダーンとハリスの抹殺に失敗してなおも彼らが追ってくるのは自分とブラックとの犯行を暴くためとしか思えない、とすれちがいが続きます。ディヴェインとブラックがクールでエレガントなのに較べてダーンとハリスの様子を探りに行けば、アパートの前で「最近さっぱりじゃないのよ!」「ステーキも毎晩じゃ飽きるんだよ」とわめいているという調子で、「あれはどういうこと?」とブラックが訊けば、ディヴェインが「欲求不満な女がセックスをせがんで男が閉口している会話だ」と鼻白んだ区長で解説する。ダーン=ハリスとディヴェイン=ブラックはそれほど違う世界の住人なので、ディヴェイン=ブラックの食事の描写はありませんが監禁した人質の要人の食事にフランス料理と年代物のワインを出すセンスの悪党ですからハンバーガーが常食のどたばた喜劇の下町素人探偵とアルセーヌ・ルパンの世界の住人ほどの違いがあります。エド・ローターに殺されかかる山道のカーチェイス場面などは完全にどたばた喜劇で、助手席のハリスが360度ひっくり返えって足をバタバタさせるなどまるっきりサイレント喜劇の乗りですがヒッチコックがここまで馬鹿馬鹿しい喜劇演出を平気でやってのけたのは初めてで、それもクールな悪党カップルのディヴェイン=ブラックとの対比という必然があってのことですから本作では浮いていない。ヒッチコックは『めまい』で病的なムードを漂わせた後『サイコ』からは残虐行為とグロテスク描写が始まり、それが傑作『フレンジー』ではいかれたブラック・ユーモアまで高まっていたのですが、本作では残虐とグロテスク趣味がなくなり軽快で適度に俗っぽい洗練されたコメディ・ミステリーになっている。この作風もこれまであったようでなかったもので、悪党カップルはエレガントですがヒッチコック映画ではエレガントなのは主人公たちの役割でした。お洒落なヒゲに魅惑的な低音でエレガントにしゃべるディヴェインにしても金髪のかつらを脱ぐとブルネット美女のクールなブラックにしてもヒッチコックもノリノリなら俳優たちもノリノリで、ヒッチコックの持論はずっと「俳優は家畜のように扱え」だったはずですが『フレンジー』と本作では明らかに若い世代の俳優たちが映画を若々しくしてくれるのを歓迎しています。ヒッチコックは俳優の自発性が映画を良くするなど考えたこともない監督で「指示した通りに動く」俳優を良しとしていた人ですから、『フレンジー』でも本作でも基本的な演出態度は変わらなかったと思われます。『サイコ』『鳥』まではそれで成功し、『マーニー』ではそれが微妙な結果を招いた。続く『引き裂かれたカーテン』ではポール・ニューマンとジュリー・アンドリュースを生かせず、国際オールスター・キャストの『トパーズ』では支離滅裂なことになってしまった。ところが低予算の無名キャスト作品『フレンジー』ではヒッチコックの演出通り演技する俳優たちが無色のはずなのに面白いように存在感があり、映画がみるみるうちに若返っていく手応えを感じた。美男美女が登場しそれらしく振る舞う映画でなくても面白い映画はできる、そうなると残虐シーンもグロテスクな映像も必要ない。主人公カップルが下品で貧乏、悪党カップルがエレガントで金持ちでもいいじゃないか、という発想にちょうど当てはまる原作小説も見つけた、B級映画の脇役俳優にもいい人材がいる。むしろそういう俳優を使った方が映画に若い感覚が出るんじゃないか。
と、監督生活50年の直感が一瞬にしてひらめいたのでしょう。正確には『引き裂かれたカーテン』『トパーズ』『フレンジー』と作ってきた最近10年の実績がヒッチコックを自然に導いた結果が『ファミリー・プロット』で、カー・チェイス場面のように編集までB班監督に任せたような雑なシーンもあればブルネットの美女がかつらをかぶってブロンド美女に化けるヒッチコック好みの趣味もあり、鮮やかなカット割りも流麗な長回しもありますが『フレンジー』よりもさらに衒いがない。雑なシーンは雑ならばこその楽しさがあり念の入った撮影でも観客が技法よりサスペンスに集中できるよう技術の気配を消してある。主要人物の少なさでは『マーニー』よりは多いもののショーン・コネリーのような圧倒的な存在感の主演俳優がいるわけではなくいんちき霊媒師の女とタクシー運転手の男のカップルが紳士怪盗気取りの悪党とその助手の美女をとっちめる話です。ヒッチコックはぎりぎり晩年まで次回作のプリプロダクションを進めていましたから遺作のつもりは毛頭なかったでしょうが、コミカルだけれど陰惨な『フレンジー』の次が『ファミリー・プロット』になったのは殺人ものやスパイものはさんざんやってきたからあと何作撮れるかはともかく最後くらいは軽いもので終わりたい、たとえばこんな、というつもりで作ったのがこれだったように思えてならず、もしシナリオの準備稿とロケハンまで進めていた次作『みじかい夜』が『ファミリー・プロット』より往年のヒッチコックに近い濃密な内容になったとしても、いざとなったら軽く済ませる引退作の見本にこれを作っておきたかったヒッチコックの慈しみのようなものが『ファミリー・プロット』を暖かい映画にしています。ヒッチコックほどの監督のキャリアでも『シャンパーニュ』'28から『ウィンナー・ワルツ』'33の時期、『白い恐怖』'45から『舞台恐怖症』'50の時期、『マーニー』'64からの3作といった具合に安定感を欠いて次作に期待を持てなくなるような作品を作っていた不調な時期もたびたびありました。それを言えば製作ペースが3年あまり空くようになった『引き裂かれたカーテン』以降の時期も『フレンジー』『ファミリー・プロット』の2作で好転こそすれ挽回したとは言えず、『ファミリー・プロット』の翌年病に倒れ車椅子生活に進行していった健康状態の悪化は結果的には次回作の実現を不可能にしました。半分は悪ふざけの好きなじいさんがシャレで作ったようなサスペンス・コメディが『ファミリー・プロット』だったのかもしれません。こんな冗談みたいなものがおれの遺作かよ、とでも言うような。こんなの死にぞこないのじいさんだって作れるぜ、というような。しかしそのじいさんがヒッチコックであればこれほど見事な映画、数々のきらびやかな名作を押さえても永遠の最新作であるような逸品ができるのです。溝口健二(1898-1956)はまだ初老と言っていい年齢で亡くなりましたが、溝口の遺作『赤線地帯』'56もそんな映画でした。ヒッチコックが影響関係をとぼけ続けたフリッツ・ラング(1890-1976)の引退作『怪人マブゼ博士』'60やヒッチコックのスペイン生まれの異母兄弟と言えるルイス・ブニュエル(1900-1983)の遺作『欲望のあいまいな対象』'77もそうですし、ヒッチコック永遠の舎弟フランソワ・トリュフォー(1932-1984)の遺作『日曜日が待ち遠しい!』'83もそうです。ヒッチコックの他のどの傑作と較べても『ファミリー・プロット』は新しい。もし次作『みじかい夜』が撮れたとしてもこれほど新しくはなかったかもしれないのです。