『鳥』The Birds (米ユニヴァーサル'63)*120min, Technicolor; 日本公開昭和38年(1963年)7月5日、昭和48年(1973年)1月/アカデミー賞視覚効果賞ノミネート、ゴールデングローブ賞最優秀新人女優賞受賞(ティッピ・ヘドレン)、カンヌ国際映画祭招待作品、ベンガル映画ジャーナリスト協会賞外国映画部門1位、同賞監督賞受賞
○あらすじ(同上) 突然、舞い降りてきた1羽のかもめがメラニー・ダニエルズ(ティッピー・ヘドレン)の額をつつき飛び去った。これが事件の発端だった。不吉な影がボデガ湾沿いの寒村を覆った。若い弁護士ブレナー(ロッド・テイラー)は異様な鳥の大群を見て、ただならぬ予感に襲われた。そして、ほどなくブレナーの予感は現実となった。鳥の大群が人間を襲い始めたのだ。アニー(スザンヌ・プレシェット)の勤める小学校の庭では、無数のかもめが生徒を襲撃した。メラニーが恋人ブレナー家へ夕食によばれた夜、暖炉の煙突から突然、すずめに似たフィンチが何百羽となく舞い込んできた。が、ブレナーがやっとのことで追い払った。どこからともなく飛来してくる鳥の群れはますます増える一方だった。そして、ついに鳥による惨死者が出た。農夫が目玉をくり抜かれて死んでいたのだ。授業中のアニーは、ふいにメラニーの来訪を受け、外を見て足がすくんだ。おびただしい鴉の群れが校庭の鉄棒を黒々とうずめていたからだ。鋭い口ばしをとぎ、鴉の大群が小学生を襲った。ブレナーの妹をかばったアニーは、無残にも鴉の群れにつつき殺された。この襲撃を機に、今まで不気味な動きを見せていた鳥の大群が、せきを切ったように人家に殺到してきた。顔といわず手といわず彼らの襲撃は凄絶をきわめた。もはや一刻の猶予もない。ブレナーは失神したメラニーを家族と一緒に車に乗せサンフランシスコへの脱出を決心した。
本作は生物学的、または合理的でもいいですが鳥がなぜいきなり襲ってくるようになったかの説明もないのでヒッチコックの映画でもとりわけ異色に見えますし、そこが本作の思い切った魅力でもあります。特に何の解決もないこの世の終わりのような結末は『渚にて』'59や『博士の異常な愛情』'64などの第3次世界大戦勃発核戦争ものならば悲劇的にもブラック・ユーモア的にもなりますが、『鳥』ではもっと人智を超えたところで世界の仕組みが狂ってしまっているので突き放し方はそれらの人類破滅もの映画よりも衝撃力があり、原作の短編小説からは「鳥類が突然人を襲い始める」というアイディアを借りているだけで、エヴァン・ハンター(『暴力教室』原作者であり「87分署」シリーズのエド・マクベインと同一作家)の脚本をヒッチコックがこれでもかと凝った映画に仕上げたものですが、シナリオの次元で成立している作品でないのは映画そのものを観れば一目瞭然です。流行作家ハンターの名を残してあるとはいえ映像化の実現できるアイディアの組み合わせと演出は監督ヒッチコックの発想と工夫がなければできないもので、脚本の発注と実際の撮影台本時点でヒッチコックの指示と監督自身による詳細な絵コンテがアニメーション作品並みに作成されていたのは『映画術』にも抜粋された図版からでもうかがわれ、実際にディズニーのアニメーション作品のスタッフの手を借りているほどで、前作『サイコ』から3年とかつてないほど間が空いたのは特大ヒット作の次だけに慎重を期したのもあるでょうが、あまりに凝った作品のために『サイコ』からの収益をつぎ込んでプロダクション段階で時間と手間がたっぷりかかった事情が想像できます。「熱中するあまり製作中はイライラし通しだった」とヒッチコック自身が述懐しているくらいなのは『映画術』のインタビュー時にはまだ記憶が新しかったのもあると思われますが、それ以上にこれほどに通常ならばコントロール不可能なほどの演出を思いついては実現可能かどうか取捨選択していく作業の凄まじさがあり、専門の鳥の調教師との打ち合わせも大変だったでしょうし可能な限り実演撮影し不可能な部分は特殊撮影や映像効果で補う、その場合も素材映像だけで膨大なカットが必要になるというと、本作の120分のために何百時間ものフィルムが回されたか気が遠くなります。
一見異色ですし同趣向の作品が他にない点でも突然変異的な印象も受ける本作ですが、「こんなことが本当に起こったらたまらない」ようなことを極限まで追求し、「いくら何でも普通ここまで凝らない」ほどの演出・映像で作品化してきたのがヒッチコックだと思えば、本作もヒッチコック映画の基本的な発想から外れてはいないことになります。『映画術』でヒッチコック自身が『下宿人』は主人公の正体が不明のままの結末にしたかった、また『断崖』は夫が妻を毒殺する結末にしたかったと、どちらも映画会社の意向でハッピーエンドで終わる映画にせざるを得なかったと語っており、ヒッチコック没後『私は告白する』も主人公が冤罪を記せられたまま死刑になる結末がヒッチコックの構想だったと明らかになりましたから、'60年代以降の製作条件なら『鳥』のように結末で観客を突き放して終わってしまう作品もあり得たかもしれないのです。そういう作品がもっと作られなかったのは佳作『マーニー』や傑作『フレンジー』『ファミリー・プロット』では伏線から解決までがばっちり決まった作品という意図があったからでもあり、冷戦スパイ映画の『引き裂かれたカーテン』『トパーズ』ではヒッチコック自身に妥協があったからでした。『鳥』で明らかにヒッチコックが息抜きしているのは鳥の本格派無差別襲撃直前にロッド・テイラーとティッピ・ヘドレンが町の大衆食堂で鳥の襲撃の噂話に遭遇し、アマチュア鳥類学者の老婦人が得意気に知識を披露して鳥の襲撃などあり得ない、と説けばカトリック信者のアイルランド系のアル中労働者風中年男が「この世の終わりだ!」とご機嫌に合いの手を入れたり聖書を引用し「この世の終わりだ!」と呵々大笑する、といった遊びのシーンがここだけ長いので、トリフォーは「あの長いシーンは必要でしたでしょうか」と唯一ケチをつけているのに対しヒッチコックは中盤からの鳥の襲撃とクライマックスの間にあれがあるからいいんだよ、と弁明しており、これはトリフォーの疑問通りにドラマの進行上では不要なシークエンスには違いありませんが、ヒッチコックの説明通りにこれがあるからさらに鳥の襲撃がエスカレートするクライマックスが引き立ち、またアメリカ西海岸の海辺の田舎町のムードを凝縮して見せるには映画のこの位置で、長さもこれでちょうど良かったと思えます。また大衆食堂外でクライマックスの鳥の本格派無差別襲撃が始まってガソリンスタンドの大爆発が起こり(このシークエンスのカット割りには息を飲みます)、それまで談笑していた人々が一斉に凍りつきよそ者のティッピ・ヘドレンに「あんたが町に来てからおかしくなったんだ!」とリンチ寸前のパニックに陥る、そのシーンも観客の「ヘドレン演じるヒロインが疫病神みたいな映画だな」という疑問を封じる役目を果たしており、ガソリンスタンドのシークエンスの目撃者となる大衆食堂の人々を紹介するためにもその前の食堂内のシークエンスは必要で、ここで事件は一気に町全体が巻き込まれていることが登場人物たちにも観客にも決定的になります。本作が亜流動物パニック映画と一線を画しているのは『鳥』では本格派無差別襲撃の開始までをじっくり観せるのが映画の主眼になっているのに対してB級作品はここから映画を始めてしまうことで、それが『鳥』に残酷恐怖映画の方向ではなくサスペンス映画の領域で勝負している映画の品格を保たせている、とも言えます。その違いはご覧になったどなたもが腑に落ちると思います。
●1月23日(火)
『マーニー』Marnie (米ユニヴァーサル'64)*131min, Technicolor; 日本公開昭和39年(1964年)8月29日、平成26年(2014年)1月25日
○あらすじ(同上)R社にマーニー(ティッピー・ヘドレン)と名のる女が求職に応募した。面接したマーク(ショーン・コネリー)は彼女が金庫泥棒であることを見破っていたが、彼女にひかれるまま、雇うことにした。やがて機会が訪れると、彼女は金庫から紙幣を盗み出し、いつものように遠い田舎の農場に逃げた。だが、事情を見抜いていたマークが駆けつけていた。彼は彼女の盗癖を彼女も意識しない隠れた原因だと考えていた。彼は衝動的に彼女と結婚しようと決意した。2人は新婚旅行に出かけたが、彼が花嫁を抱擁しようとすると、異常なおびえをみせて彼を避け、彼のどのような愛情の表現に対しても、身体を縮めてしりごみした。旅行から帰った2人は外見上は夫婦らしく暮らしたが、実際は別々の寝室で過ごしていた。そのうち、マーニーは彼女の過去のことを少しずつ喋りはじめた。過去5回ほど金庫破りをしていて、5万ドルを盗んでいた。その後も色々いやな事が起こり、彼女はマークと別れようと決心した。彼女は先ず彼の事務所へ行った。金庫を開けたとき、彼がそばに来ていた。いよいよ、彼女は彼を母親のバーニス(ルイス・レタム)に会わせねばならないことを悟った。バーニスとの会見で、マーニーの常軌を逸した行動の謎が解けてきた。バーニスは昔娼婦だった。マーニーが5歳の時、母親にいたずらした水夫を夢中で殺してしまった。以後、母親はその件を秘密にし、マーニーには男を遠ざけて育てた。マーニーは母親に対して何事かわけのわからない特別の恩を感じていたらしく、そのために盗みを働き、母親に貢いでいたというわけだった。マーニーは初めて自分の行動を支配していた無意識の動機をさとり、自己破壊の精神衝撃から解放され、マークとの再出発の自信をとり戻した。
一方ショーン・コネリーの方は、前作『鳥』の主演俳優にコネリーの出演を望んでいたが007シリーズの新作とスケジュールが重なって実現しなかった、という経緯があったようです。ヒッチコックは晩年にケーリー・グラントとともに出席した映画人のパーティーでコネリーと同席してコネリーが誰だかわからなかったという話がありますが、それはコネリーの容貌がコネリー自身のイメージ・チェンジのために'60年代とは激変していたから当然なので、コネリーは007役をこれが最後と思いながら嫌々レギュラー出演していたくらい本来ローレンス・オリヴィエの流派とも言える正統的なイギリスの演技派俳優だった人ですから、『マーニー』にイギリス風のムードが漂っているのはコネリーの重厚で色男、色男なのに重厚な存在感あってのものでしょう。フランソワ・トリフォーも本作のコネリーを絶讃しているくらいで、『マーニー』を観て『白い恐怖』と『めまい』を連想しないのは困難なくらい本作はその旧作2本の焼き直しの観が強いのですが『マーニー』独自の味はコネリーとヘドレンの主演によるところが大きく感じます。キャスティングと演出の的確さも監督の手柄としてもなおコネリーほどの旬の千両役者あってこその成功と言えるのは本作は心理学的ミステリー映画としてもシナリオが穴だらけで『白い恐怖』『めまい』と較べてもご都合主義な設定を強引に押し通しており、1945年(『白い恐怖』)や1958年(『めまい』)ならともかく1964年の映画でこれほど設定にリアリティを欠くのはかなりの綱渡りで際どい成功にも見えることです。ヒッチコック作品が一面アメリカでは女性蔑視との批判を受けてきたのは男性が女性を飼育(支配)するような作品が目立つからで、ハリウッド進出第1作『レベッカ』から『断崖』『疑惑の影』『汚名』など成功した作品ほどその傾向が強いのは皮肉ですが、これが嫌みにならないには男性主人公の俳優の存在感が物を言います。誤解されがちですがこうした支配欲はサディズム的というよりマゾヒズム的なもので、サディズム的欲望はせいぜいタイプの好み程度で人格的支配までを望まず相手を特定しませんが、マゾヒズム的欲望は相手を特定して人格的に支配し自分を徹底的に魅了してくれる存在であることを望むものです。本質的な女性蔑視ならばどちらがまずいか、まあ両方まずいのですが、ジョン・フォードやハワード・ホークス、ウィリアム・ワイラーでも、ジョージ・キューカーやマーク・サンドリッチ、ヴィンセント・ミネリでも生粋のハリウッド映画監督はきちんと男性と対等に自立したヒロインを描いてきました。ヒッチコック映画の場合イギリス時代の『三十九夜』や『第3逃亡者』『バルカン超特急』の方が男性と対等なヒロインを描いていて、ハリウッド進出後に『レベッカ』のジョーン・フォンテーンを始めとして虐められるヒロインを描くようになったのはヒッチコックにはアメリカ人の女性優遇文化が偽善に見えたのかもしれません。イングリッド・バーグマン主演作では次第にコントロールが利かなくなり、グレース・ケリーの場合も初起用作は『ダイヤルMを廻せ!』だったのは暗示的で、『裏窓』『泥棒成金』が珍しくハリウッド出身監督の作ったような後味の良い映画になったのもヒッチコックが本当に幸せだったからでしょう。男性俳優の場合はやはりケーリー・グラントをカムバックさせた『泥棒成金』と『北北西へ進路を取れ』でしょうし、グラントがあと20歳若かったら『マーニー』の起用もあり得たかもしれません。
映画監督は多忙なので他人の映画を観る暇のある職業ではない(自分の映画と関係のある映画の参考試写を観る程度で手一杯)のが一般的でしょうが、ヒッチコックの場合イギリス時代には同時代のイギリス映画はスルーしても最新のアメリカ映画・ヨーロッパ映画だけは追いかけていたに違いなく、イギリス時代の作品の方がハリウッド映画の女性像に近いのはそのせいかもしれません。渡米後はかえってハリウッド映画の主流とは疎遠な気分になったのではないか。『鳥』で最高のシークエンスに主人公の妹の通う小学校の授業が終わるのをヒロインが外のベンチで一服しながら待っていると、何もなかったジャングルジムを振り返るたびに鳥が一羽また一羽と増えていき、煙草を1本喫い終わる頃にはジャングルジムが鳥だらけで真っ黒になっていて慌てて小学校に入って女教師に避難を勧めると鳥の襲撃が始まる、というすごいのがありますが、『キートンのセブン・チャンス』'25で7時までに結婚していなければ遺産相続できないバスター・キートンが最後の手段で夕刊に広告を出し、教会の最前列で待っていると無人だった教会に振り返るたびに自前のウェディング・ドレスの女性が一人また一人と増えていき、ついに教会に入りきれないほどの花嫁でごった返して慌てて逃げ出すと花嫁の大群が追いかけてくる、というのをヒッチコックが観ていないわけはありません。1925年というとヒッチコックの監督デビュー作『快楽の園』の年ですからアメリカ映画がどれほど進んでいたかがわかる例ですが、さすがにトリフォーも『セブン・チャンス』を思い出せなかったようで、ヒッチコックも公開当時観ていたとしても40年前の映画(つまりヒッチコックの監督デビューも40年前です)から無意識から引っ張り出してきたようなものでしょう。無意識といえば『鳥』では主人公(ロッド・テイラー)の母親の未亡人(ジェシカ・タンディ)が息子に近づく女を寄せつけまいとして以前小学校の女教師(スザンヌ・プレシェット)と息子との交際を断ち切った設定になっており、これは『レベッカ』のダンヴァース夫人以来のヒロインの虐め役ポジションの女性で『マーニー』ではコネリーの亡くなった奥さんの妹(ダイアン・ベーカー)が小姑格でヒロインを密告しますが、『鳥』の場合は未亡人の母親のヒロインへの警戒・敵対心が明らかに鳥の襲撃を招いているように見えるわけです。こういうのは無意識の想像力が働いていないと作り出せない種類のもので、逆に作為的に作り出したものならこれほどの力は持たないと言えるので、『マーニー』の場合はドラマに合理的な辻褄を合わせようとしてヒロインのPTSD症状にこれはないんじゃないかというような照明効果(フィルター処理かもしれませんが)を加え、他にやりようがなかったかもしれませんが長いフラッシュ・バックによる回想シーンの挿入でヒロインの過去を解明する手法(『山羊座のもとに』のイングリッド・バーグマンならワンシーン・ワンカットの長台詞で見事にやってのけたことです)に頼る、などヒッチコックともあろう人がと思えるような安易さが映画全体を不安定にしており、『サイコ』『鳥』ではテレビ・シリーズ監修から学んだ成果がプラスと出ていたものが『マーニー』では微妙で、『レベッカ』は結局ジョーン・フォンテーンよりもローレンス・オリヴィエで持っていた映画だったのが本作のヘドレンとコネリーのウェイトでも言えそうです。ヒッチコックらしい鮮やかさが確かなのはヘドレンの2度描かれる金庫破りのシーンで、次いでヘドレンの乗馬趣味のシーンでしょう。どちらもPTSDによる男性嫌悪症の代償行為と一応理由がつけられていますがそれが金庫破りと乗馬である必然性は薄いどころか極端にし過ぎでリアリティを損ねていますが、それを言えば赤色恐怖、男性嫌悪という症例も都合の良い時だけ出てきて説得力はもとよりないので、若い女の金庫破り、若い女の乗馬シーンを撮りたいという関心だけが金庫破りシーンや乗馬シーンを生き生きと描き出しており、設定やプロットはその口実でしかないとも言えます。またそうしたシーンではヒロイン女優の演技力も関係ないので(乗馬もとりあえず乗れれば後はスタントで利きます)、かえって俳優の演技力に頼るのではなく映像演出に全力を注げるわけです。フランソワ・トリフォーは本作がいっそ3時間あったらもっと良かったのにといかにも本人が映画監督らしい欲目を出した感想をヒッチコックに洩らしていますが(『映画術』)、3時間は無謀だとしても本作は実現できた効果と映画自体の構想に観客が期待し納得したいだけの内容が十分語りつくされていない印象を受けるのもトリフォーの指摘通りで、ヒッチコックの映画は出来不出来の消長こそあれ作品ごとの燃焼度・完結感は高いものでした。しかし『マーニー』は今回はまずまず、だが次あたりはやばいぞと嫌な予感がするヒッチコックのキャリアの曲がり角を感じさせる作品で、それが続く2作『引き裂かれたカーテン』『トパーズ』で本当にそうなってしまったのはあながちヒッチコックばかりに原因があるとは言えず、ヒッチコック映画と時代の相性が悪かったのが映画にはっきり現れてしまったとも見えます。次回の感想文はヒッチコック映画ではいちばん苦労することになりそうです。