●1月10日(水)
『舞台恐怖症』Stage Fright (英米WB'50)*110min, B/W; 日本未公開(テレビ放映、映像ソフト発売)
○あらすじ ロンドンの王立演劇学校の学生イヴ(ジェーン・ワイマン)はドライヴ中に好意を寄せている同級生ジョナサン(リチャード・トッド)に出会い、警察に追われる彼を救う。ジョナサンはイヴにミュージカルのスターのシャーロット(マレーネ・ディートリッヒ)との交際と、シャーロットの家を訪ねると嫉妬から喧嘩になったシャーロットが火掻き棒で夫を撲殺したばかりで、シャーロットをかくまう代わりに自分に嫌疑がかかったと血のついたシャーロットのドレスを見せる。ジョナサンに助けを求められたイヴは父のギル提督(アラステア・シム)と親しい青年警部スミス(マイケル・ワイルディング)に相談し、シャーロットのメイドを買収して代理メイドとして近づき、シャーロットの信用を得る。スミス警部と調査を重ねたギル提督は、シャーロットの舞台で客席から血で汚れた人形を見せ、シャーロットを追いつめる。シャーロットは事件への関与を自白する。が、実際にシャーロットの夫を殺したのはシャーロットに誘惑されたジョナサンで、シャーロットはステージ監督との不倫のためにジョナサンを夫殺しに誘導したのだった。ジョナサンはイヴを利用して自分を無実と立証させようとしていたが、イヴはすでにスミス警部と恋に落ちていた。ジョナサンはイヴが真相を知ったと気づき、ステージの裏でイヴを殺そうと追いつめる。騒ぎに驚いた裏方が緞帳を下ろし、ジョナサンは緞帳の落下に潰されて絶命する。イヴはスミス警部に救出されて事件は幕を下ろす。
あの『映画術』でさえフランソワ・トリュフォーがヒッチコック作品でも唯一「キャリアにおける汚点でこそあれ、決して名誉にはならない作品だと思いますが」と切り出しているのが本作で、大冊『映画術』'66はトリュフォーが賞賛する、ヒッチコックが謙遜しつつ延々苦心談を語る、というのが基本ですが、ヒッチコックもトリュフォーも現役監督のプライドをかけてあれは駄目これは良いと(ヒッチコック自身が率先して自作に否定的評価を下し、トリュフォーが美点を拾い上げる場合や、明らかに成功作の場合は詳細に分析しあって長所を数え上げ瑕瑾を惜しむという具合に)腑分けしているのですが、訊き手のトリュフォーの方から汚点とまで強く断定して対話を始めているのは、例外的に『巌窟の野獣』'39を含めて『暗殺者の家』'34以前ではヒッチコック自身が「不出来」「屑」「忘れた」と貶めている作品はかなりありますが、汚点とはただならない呼ばわりです。これにはさすがにヒッチコックも守りに入ってディートリッヒが華麗なのにメイドに変装する役だなんて地味だとワイマンがすねた裏話を始めとする楽屋裏秘話を披露していますが、ヒッチコックもトリュフォーも本来インタビューの場でもサーヴィス精神にあふれた監督ですから何だかこの作品の場合だけ対話が異様にぎこちなくなっている。『サボタージュ』'37でもトリュフォーが映画でやっていいことと悪いことがある、と啖呵を切ってヒッチコックが「うん、君の言う通りだ」と押し切られる場面がありましたが、『サボタージュ』には一応ドラマ上の必然性があったのでクライマックスではそれを受けた演出がある、とヒッチコックが弁解する余地がありました。
実は本作の決定的弱点は、あらすじでは客観的叙述になっていますが映像話法の上でこれをやっては観客が納得できない「偽のフラッシュバック」を開巻堂々とやっていて、ヒッチコックの計算ではこれは間接話法になるはずだから嘘が混じっても構わないのではないか、という読みがあったわけです。「ところが映像でやると観客には受け入れられないんだな。どうしてだろう」とヒッチコックはまだ納得がいかないようで、確かに本作と同年に『羅生門』'50があり、『羅生門』影響下には『夏の遊び』'51から『処女の泉』'60にいたるベルイマンの諸作や『去年マリエンバートで』'61があり、フラッシュバックやカットバックのトリックは'40年代のフィルム・ノワール作品の再評価や'60年代のヌーヴェル・ヴァーグ作品で『映画術』のインタビュー時点ではヒッチコックにはどうして『舞台恐怖症』だけが、という気持があったでしょう。しかし実際本作の「偽のフラッシュバック」はこれはないだろという気にさせるもので、英米合作のイギリス撮影が'30年代のヒッチコック作品を連想させる雰囲気をかもし出す一方で登場人物たちのキャラクターに説得力があまりに欠けるため、全体の整合性には欠けるもののキャラクター造型は強烈だった前作『山羊座のもとに』よりもドラマに緊張感と推進力が稀薄、と欠点ばかりが気になります。正確には「気になる」以前に眠くなるほどなので、キャラクター造型とドラマ構成次第ではフラッシュバックの問題も映画に有効に働いたかもしれません。映画上のドラマの錯覚の点では後に『めまい』'58、『サイコ』'60で見事な成果を見せるヒッチコックですが、本作の冒頭は『第3逃亡者』'37冒頭でやった手とヒッチコックの中では大差なかったのかもしれないと思えないでもありません。しかしどうやれば本作が納得いくものになったか、脚本が夫人のアルマ・レヴィル名義ですから実質的にヒッチコック自身の脚本作品だけに本作は低予算企画を狙ってしくじったようにも見えるのです。
●1月11日(木)
『見知らぬ乗客』Strangers on a Train (米WB'51)*101min, B/W; 日本公開昭和28年(1953年)5月9日/アカデミー賞撮影賞(白黒部門)ノミネート
○あらすじ(同上) アマチュア・テニス選手として名の通っているガイ・ヘインズ(ファーリー・グレンジャー)は、ワシントンから故郷メトカルフへ離婚のため帰る途中、列車の中で不思議な青年ブルーノ・アントニー(ロバート・ウォーカー)と知り合った。ブルーノは、ガイが最近妻ミリアム(ローラ・エリオット)と不和になり、モートン上院議員(レオ・G・キャロル)の娘アン(ルース・ローマ)と結婚したがっていることを知っていて、自分の父を殺してくれるならミリアムを殺してやろうと申し出たのである。むろんガイはこの交換殺人を一笑に付したが、ブルーノは遊園地の草原で本当にミリアムを殺してしまった。ガイはアリバイが不充分なまま刑事の尾行を受けることになったが、そのスキを狙ってブルーノははしつこく返礼殺人をガイに迫るのだった。ガイも、ガイからこの事実を知ったアンも、心からブルーノに翻意を促したが、彼はいよいよ狂的になって行き、ついにフォレスト・ヒルの試合当日、ブルーノは車中でガイからかすめたライターを現場に置いてくる計画をたてていることが判った。ガイは必死に試合をすすめ、敵に辛勝して尾行刑事をまき、ブルーノを遊園地に追った。2人はメリーゴーランド上で対決、あわてた刑事の一弾が係の男を倒したので、突然急転をはじめたメリーゴーランドの上の格闘は凄絶をきわめるものとなった。つにい回転木馬は心棒から折れてみじんに崩け、ガイは外へ放り出されたが、ブルーノは敢えなく下敷きとなって息絶えた。その手の中に握られていたライターによって、ガイの容疑が晴れたのはいうまでもない。
本作はヒッチコックのアメリカ映画第14作になりますが、アメリカ企画ながら英米合作でイギリスでイギリス人スタッフ、キャストで撮影された前2作『山羊座のもとに』『舞台恐怖症』のモヤモヤが晴れたかのようなすっきりした作品です。古巣のエルストリー撮影所は錦を飾る気分で居心地は良かったかもしれませんが、渡米生活10年を経てハリウッドの水に馴染んだヒッチコックにはイギリス撮影はかえって調子を崩したようで、『山羊座~』のように妙に重くなってしまうか『舞台~』のように妙に軽くなってしまうかで、舞台設定がロンドンだった『パラダイン夫人の恋』で始まった不調が本場での撮影で尾を引いた格好でした。本作の原作小説からの交換殺人のアイディアをヒッチコックは簡単に「もともと馬鹿馬鹿しい話だ」とかたづけていますが、これはさすがと言うべきで馬鹿な話を馬鹿馬鹿しくなく見せるのが映画の真骨頂です。脚本にレイモンド・チャンドラーが噛んでいますが同じイギリス生まれのアメリカ移住者でもヒッチコックとはまったく気が合わずヒッチコックはチャンドラーを「使い物にならなかった」と言ってのけ、チャンドラーはヒッチコックに真剣にクレジットから外してほしいと訴えていたようですが人気作家であるチャンドラーの名前は使えるのでヒッチコックはクレジットに残した、という逸話もあります。こういうところもヒッチコックがハリウッドで身につけたショービズ、つまり水商売感覚でした。本作でヒロインの妹役で重要な脇役になるのはヒッチコック令嬢のパトリシア・ヒッチコックです。変質者的殺人者のロバート・ウォーカーが殺したファーリー・グレンジャーの尻軽妻(浮気相手の子を妊娠しているが、グレンジャーがアマチュア・テニス界のマネーメイキング・スターになったため離婚に応じない)がかけていた眼鏡が本作ではグレンジャーがヒロインからプレゼントされたライターと並ぶ鍵となる小道具で、眼鏡とライターをちらつかせてグレンジャーに交換殺人の実行を迫るウォーカーは業を煮やしてヒロイン家のパーティーにまでやってきますが、眼鏡をかけたパトリシアが絞殺したグレンジャーの妻の面影に重なり卒倒してしまいます。パトリシアはおいしい役をもらったもので、これもヒッチコックの洒落の利いたファンサーヴィスの一部でしょう。パトリシアは女優業には歩まず父のプロダクションのスタッフになりましたが、ヒッチコック没後「父の映画はエンタテインメントで父自身の性癖や嗜好を表したものではない」と声明を出して世人を鼻白ませました。
話を持ち出したウォーカーがさっさと殺人を実行する一方、主人公のグレンジャーの方は殺人犯になどなる気はないわけです。しかしウォーカーがしつこく脅迫してくる、主人公から打ち明けられたヒロインがウォーカー家を訪ねてウォーカーのお母さんに訴えても「うちの子はもともと変だから」と相手にされない(このお母さんもいかれていることが気味の悪い絵を描く趣味としてあらかじめ暗示されています)。ウォーカーの父親殺しの計画書を渡された主人公が交換殺人に応じてしまうのか、計画書とおりグレンジャーが深夜のウォーカー邸に忍びこむサスペンス(しかも階段に番犬!)と意外な成りゆき。ここまでが最高で、ヒッチコックが自慢しトリュフォーも賛同する主人公のテニス試合とウォーカーが落とした下水溝からライターを拾おうとするカットバックはちょっと取ってつけたような感じがします(グリフィス的とも言えますし、クロード・シャブロルの『美しきセルジュ』'58のクライマックスのカットバックの出典はこれなのかと思われますが)。大クライマックスのメリーゴーランドの大暴走はミニチュアによるスクリーンプロセスと実物のメリーゴーランドの合成が巧みなのには舌を巻きますが、トリュフォーもこれはさすがに駄目押しがすぎないかとあきれ半分、一方ヒッチコックはやりたかったことができて満足した様子で撮影苦心談を語っていますが、サゲは見事に決まっているもののここでは犯罪者が自業自得の事故死を遂げればいいので、そもそもメリーゴーランドの暴走なんてあり得るのか、ありだとしてもこんなにすごい勢いで回るのか、回ったとしても同軸上で回っているだけの暴走がそんなに面白いかと疑問は残ります。映像自体はわけもわからないくらい凝っていますが、このメリーゴーランドのシークエンスは始まった途端にどうなるか先が読めてしまうのでサスペンスそのものは大して感じない、単なるアクションで真にドラマのクライマックスにはなっていない印象を受けます。メリーゴーランドが崩落してようやくドラマは結末に進むので、真のサスペンスが宙吊りだとすればこのメリーゴーランドのシークエンスは引き延ばしにとどまっているように見えるのです。しかしこんなことはそれこそ瑕瑾なので、サスペンス映画のクライマックスが結末の追いかけっこなのは理にかなっていますし、『レベッカ』や『海外特派員』、『断崖』『逃走迷路』『疑惑の影』『救命艇』『白い恐怖』『汚名』『ロープ』と成功作を追ってくるとクライマックスはいまいち平凡ながらそこまでの運びの構成の巧みさ、無駄のなさ、道具立てのうまさ、何よりこれまでの作品より主人公もヒロインも日常的な感覚を備えた現実感のある人物像なので作品世界そのものが安定した語り口に感じられ、その分異常性を持つ犯罪者の造型も現実味に支えられながらいっそう作品の中で際だっていること。つまり『サイコ』や『鳥』'63、『マーニー』'64まで続くヒッチコックの黄金期とも言うべき要素がすべて出揃ったのが本作『見知らぬ乗客』であり、前作『舞台恐怖症』までとはまるで別の映画監督のように映画自体がすっきりとしていること。『ロープ』では逆に青年犯罪者を演じていたグレンジャーも追いつめられる主人公には適役で、本作がヒッチコックの復活作と呼ばれ、見事な会心作になっているのはまさに再びイギリス映画の世界からアメリカに戻った心機一転の製作だったからでしょう。ここしばらくの不調も本作を生みだすための試行錯誤であり、礎石となったと認めずにはいられません。