前作『白い恐怖』からヒッチコック作品も戦後公開作品に入り、第32作『汚名』からは製作も戦後の作品になります。第33作『パラダイン夫人の恋』でヒッチコックはセルズニック・スタジオの専属契約監督契約を満了し、第34作(次回紹介)の『ロープ』からは自分自身のプロダクションを設立してフリーの監督になるのですが、ハリウッド進出第1作で監督第24作の『レベッカ』から第33作『パラダイン夫人~』までヒッチコックはセルズニックの契約監督だったのに企画優先主義のセルズニックは『レベッカ』『白い恐怖』『パラダイン夫人~』の3作にしかセルズニック・スタジオ製作作品にヒッチコックを起用せず、この間の『海外特派員』から『救命艇』『汚名』にいたる7作品は他社にヒッチコックが貸し出されて監督したものでした。結果的にセルズニック・スタジオ以外での作品によってヒッチコックのサスペンス/スリラー映画監督としての地位は定まったのですが、他社でのヒット実績にもかかわらずセルズニックを通して天引きされたギャラが支払われるという待遇にヒッチコックが搾取を感じていたのは想像するまでもありません。ヒッチコックがフリーの立場でプロデューサー兼監督になり、企画から収益まで作品の全権を握るようになるのは『ロープ』からで、今回の2作はイギリス時代から続いた雇われ監督としての最後から2作になるのが『汚名』『パラダイン夫人~』それぞれにプラスにもマイナスにも働いているように思えます。なお、今回も『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社刊、山田宏一・蓮實重彦訳)からの発言は例によって多少表現を変えて引用させていただきました。
●1月6日(土)
『汚名』Notorious (RKO'46)*101min, B/W; 日本公開昭和年(1949年)11月1日、昭和58年(1983年)1月/アカデミー賞助演男優賞(クロード・レインズ)・脚本賞(ベン・ヘクト)ノミネート
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 「断崖」「疑惑の影」のアルフレッド・ヒッチコックが「ガス燈」「ジキル博士とハイド氏(1941)」のイングリッド・バーグマンと「独身者と女学生」のケーリー・グラントを主役として監督した1946年作品。脚本は「運命の饗宴」やヒッチコック作品「呪縛」のベン・ヘクトが書き下ろしたもので、撮影は現在監督に転じて名を挙げている「春を手さぐる」等のテッド・テズラフで、音楽は「ママの思い出」のロイ・ウェッブが作曲した。助演はクロード・レインズ、「ゾラの生涯」のルイス・カルハーン、映画初出演の舞台女優レオポルディーン・コンスタンチン、「少年牧場」のモローニ・オルセン、かつてドイツ映画の監督だったラインホルト・シュンツェルその他である。
○あらすじ(同上) アリシア・ハバーマン(イングリッド・バーグマン)は売国奴の父を持ったために心ならずも悪名高き女として全米に宣伝されていた。ある夜うさ晴らしに開いたパーティで、彼女はデブリン(ケーリー・グラント)というアメリカの連邦警察官と知り合った。デブリンは南米に策動するナチ一味を探る重要な職務にあった。セバスチャン(クロード・レインズ)をよく知っているアリシアを利用する目的で近づいたのだったが、やがて彼女に強く引かれるようになった。一緒に南米に行き、リオ・デ・ジャネイロでの楽しいあけくれに、二人の愛情は日毎に深まり、アリシアはデブリンの愛によって、その昔の純情さを取り戻していった。が間もなく、彼女は命令でセバスチャンを探ることになったが、彼が以前父親の相棒だったことから、アリシアは容易にセバスチャン邸に入り込むことに成功し計画通りに彼は彼女を恋するようになった。一夜、彼の邸でナチ・スパイ連の晩餐会が催されたが、その時出された一本のぶどう酒に対する一味の一人の男の態度とそれに次いで起こった彼の変死にアリシアは強い疑念を持った。セバスチャンの花嫁となった彼女は、家中を見回ることが出来たが、地下室の酒蔵にだけは入れなかった。デブリンとの打ち合わせによって、一夜またパーティが催され、アリシアは酒蔵の鍵をセバスチャンから盗み取りデブリンに渡した。目的の酒瓶を辛うじて盗み出して彼は逃げ去ったが、嫉妬から絶えずデブリンを監視していたセバスチャンはかぎつけてしまった。ぶどう酒の瓶を見て取り乱した男の殺された前例からも、セバスチャンはアリシアが酒蔵を調べた事を仲間に疑われてはならなかった。母親(レオポルディーネ・コンスタンチン)と二人の共謀で、アリシアは毒入りコーヒーで徐々に死へ導かれていった。一方例の酒瓶の中には原子爆弾のウラニウム鉱が入れてあることが分かった。アリシアは病み衰えながらも、ウラニウムの出所を聞き出そうとたえず気を配ったが、アンダーソン博士(ラインホルト・シュンツェル)の不用意に口から出た言葉でそれを悟った。使命を終えて逃れようとしたアリシアは力つきて倒れてしまった。だが敵中に唯一人とり残されたアリシアの許にデブリンはかけつけた。愛する者の敏感さで、デブリンは彼女の身の危険を感じたのだ。デブリンのアリシア救出によって、ナチ仲間はセバスチャンの失策を知った。セバスチャンには死の制裁が下された。アリシアがデブリンの愛によって全快する日は恐らく間もないだろう。
ヒッチコック作品で最多主演回数の男性俳優はケーリー・グラントとジェームズ・スチュアートで各4作、女優ではイングリッド・バーグマンとグレース・ケリーが各3作。スチュアートの主演作ではケリーとは『裏窓』'54で共演があるもののバーグマンとの顔合わせはありませんが、グラントは本作('46年)でバーグマンと、『泥棒成金』'55でケリーと共演しています。バーグマンのヒッチコック作品主演作3作『白い恐怖』'45、本作、『山羊座のもとに』'49のうち本作が一番の出来になったのもグラントとの共演による面が大きいでしょう。グラントのヒッチコック作品主演作は『断崖』'41、本作、『泥棒成金』『北北西へ進路を取れ』'59と広い時期に渡り、それぞれジョーン・フォンテーン、バーグマン、ケリー、エヴァ・マリー・セイントと相手役の女優も華やかなのに対して、スチュアートの主演は『ロープ』'48、『裏窓』'54、『知りすぎていた男』'56、『めまい』'58と集中しており、ヒロインの比重もグラント主演作より小さい(そもそも『ロープ』などはヒロインがいない)のは、グラントとスチュアートのキャラクターの違いというものでしょう。スチュアートだって二枚目ですがグラントのような色気には欠けますし、ついにヒッチコック作品に出演の機会がなかったゲーリー・クーパーは色気のある二枚目ですがグラントのようなうさんくささに欠けるのです。本作は鬼才ベン・ヘクト本気のオリジナル脚本作品ですが、ヘクトはもともとジャーナリスト上がりでセンセーショナルな話題に着目し、いかれたキャラクターとシチュエーションをもてあそぶのが好きな作家です。映画製作には元来山師的な側面があり、芸事一般には大なり小なりギャンブル的(勝負事的)な性格がありますが、中でも映画は経済的には相当大規模なギャンブルであり、ギャンブルにつきものなのがうさんくささといかがわしさでそれが人を魅了するのは言うまでもありませんから、ヘクト脚本とグラントの相性がヒッチコックの腕前によって最上級に生かされたのが本作の成功に結びついたのでしょう。その中心にバーグマンという大輪の花があったのでますます焦点の明快な映画になっている強みがあります。
しかし本作は全編まんべんなく演出の行き届いた作品なのがひと言で映画の代名詞的な見所を語りづらくしているとも言えて、『レベッカ』なら「ダンヴァース夫人」、『断崖』なら「毒入りミルク」、『疑惑の影』なら「未亡人殺し(のジョゼフ・コットン)」といった具合に誰もが一致して抱くような映画全体を集約する強烈なイメージの点では突出した場面のないのがヒッチコックの代表作に上げるには比較的地味に見せていて、やや損をしています。ブラジルのリオを舞台にしながら逃走・追跡型のサスペンスではなくひたすら見張ってスパイしているだけの話ですから『三十九夜』以来の逃亡冒険型サスペンスではなく、『レベッカ』『断崖』『疑惑の影』系列の舞台限定型を突き詰めていった作品と言えるでしょう。そうなると作品を集約する強いポイントがあるのとないのではずいぶん印象が違ってきます。ヒッチコックの映画はだいたい序盤20分~30分で設定を描ききって、中盤ではスリルとサスペンスでじわじわと話を進めていき、ラストの10分~20分で怒涛のようにクライマックスが訪れる3幕劇的構成(または中盤を前半・後半に分割して見れば交響曲的4楽章構成)になっていますが、見所満載でグラントとバーグマンのロマンス描写が多い上に凝ったカメラワークがあり(キスシーンが長い長い、5分近く続くキスすらあるので撮影も凝りに凝っています)、ワイン貯蔵庫と鍵をめぐるサスペンスと細かなカットバックではらはらさせる手腕など上げればきりがないほどで、心憎い残酷なエンディングまで緊張感は緩みない充実した出来でこの緊張感の持続はヒッチコック作品中でもトップクラスなのですが、グラントとバーグマンの好演もあいまって特定の強いポイントを上げるとなるとここぞといった映画の核心を凝縮した要素が特定できない、という欲張りな物足りなさも出てきます。本作の日本初公開時、植草甚一、双葉十三郎氏ら古くからのヒッチコック支持の映画批評家の讃辞に対して淀川長治氏が「ベン・ヘクトの脚本とヒッチコックのセンスが合っていない。ヘクト脚本のこのヒロイン像ならばバーグマンではなくシェリー・ウィンターズあたりではないだろうか」(大意)と評しているのも意表を突いた指摘で、確かに『レベッカ』『断崖』のジョーン・フォンテーン、『疑惑の影』のテレサ・ライトが作品の一部になっているのに較べるとバーグマンは『汚名』という1作に収まりきらない過剰な存在感があります。グラントとバーグマンの取り合わせが強すぎて映画『汚名』の主演がこの二人というよりも、グラントとバーグマンというスターの映画になってしまっていないか。またワイン貯蔵庫と鍵のサスペンスみたいな趣向は特に本作のような設定・内容の作品でなくてもできることで、そこで本作ならではのキャラクターを上げるとすればむしろ逃亡ナチスの残党組織の一員を演じる助演のクロード・レインズが浮かんできます。
本作『汚名』はドイツ人移民1世でナチスの潜伏スパイをしていた父を持つアメリカ生まれの娘(バーグマン)が、諜報部員(グラント)にマークされているうちに愛しあうようになるが、諜報部上層部の指令で女はブラジル逃亡ナチス組織の一員を誘惑して結婚しその陰謀をスパイする役目を命じられ、諜報部員の男はスパイに送りこんだ恋人との連絡係になる、という話です。スリルとサスペンスはヒロインがいつまでバレずに重要機密を探り出せるか、との一点にかかりますが、まず設定からして人類最古の職業(スパイと売春)が国外逃亡ナチスの残党狩りのために正当化される。それをやっているのが主人公とヒロインで、逃亡ナチス残党組織の一員(「首領」というキネマ旬報のあらすじは誤りで、残党組織のボスは別の人物で、ヒロインが誘惑して結婚する相手の邸宅でいつも会合が行われているだけ)の独身中年男のクロード・レインズはまんまと騙されてスパイを妻にしてしまうわけです。本作を最愛のヒッチコック作品に上げるフランソワ・トリュフォーの好みは、まさしく『汚名』が性的な背徳性の充満した愛と裏切りの物語であること、大衆的な映画で扱うには微妙で大胆なテーマを見事なスパイ・サスペンスのスリラー映画に仕立て上げた大手腕への同業者ならではの賛嘆であると思われ、事実トリュフォーはヒッチコックが『裏窓』や「ヒッチコック劇場」の諸作品で多くを原作にしたサスペンス作家コーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)の原作をもとに『黒衣の花嫁』'67、『暗くなるまでこの恋を』'69と長編2作を撮っています(『映画術』原著は'66年刊行です)。『汚名』のような映画を作りたいがヒッチコックのような撮り方をしてもヒッチコックにはおよばない、また『汚名』のように一見何でもないようでいて陰惨なほどアモラルなセンスはアメリカ映画の明快な娯楽性の中ではできてもフランス文化の風土では頽廃性ばかりが目立ってしまう。この映画は主人公をレインズの側にすれば、惚れた女に脈ありとのぼせ上がって結婚してみれば自分を破滅させるために敵組織が送り込んだ美人スパイだった、という衝撃の裏切り映画でもあるわけです。ヴィジュアル的にも中年の小男のレインズと大柄で肩幅も広いバーグマンでは殴りあったらレインズの負けになりそうな組み合わせで、そういう男の哀感すらあります。トリュフォーもレインズとバーグマンの対照を絶讃し、ヒッチコックも自慢している。優れた映画監督ほどそうした残酷な感覚を持っているので、バーグマンとグラントの役柄からは一応ハッピーエンドなのですが仲間からの処刑確定で取り残されたレインズの姿で終わるラストシーンはあっけらかんとした悪意を観客に投げつけてこれも勧善懲悪の極地には違いありません。舞台限定型サスペンスの見事な達成を認めながら、トリュフォーとは逆に感覚的に本作が好きになれない方も案外多いのではないでしょうか。ヒッチコック作品でバーグマン主演作の3作中もっとも成功したのが本作でもあれば、あとの2作『白い恐怖』『山羊座のもとに』ともどもどこか親しめなさが漂うのがバーグマン主演作共通の特色でもあり、困ったことにバーグマン主演作は色気はあってもユーモアは皆無なのです。
●1月7日(日)
『パラダイン夫人の恋』The Paradine Case (米セルズニック・スタジオ=UA'47)*115min, B/W; 日本公開昭和28年(1953年)2月24日
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) デイヴィッド・O・セルズニック(「風と共に去りぬ」)が製作し、アルフレッド・ヒッチコックが「汚名」に次いで監督したスリラー1947年。ロバート・シチェンズの原作小説をアルマ・レヴィルとジェームズ・ブリディが潤色し製作者セルズニック自身が脚色した。撮影は「探偵物語」のリー・ガームス、音楽は「陽のあたる場所」のフランツ・ワックスマンの担当。主演は「キリマンジャロの雪」のグレゴリー・ペック、「超音ジェット機」のアン・トッド、それに「第三の男」のアリダ・ヴァリ(本作品が米映画初出演)で、「青いヴェール」のチャールズ・ロートン、「追はぎ」のチャールズ・コバーン、「女海賊アン」のルイ・ジュールダン、エセル・バリモア、ジョーン・テッツェル、レオ・G・キャロルらが助演する。
○あらすじ(同上) 英国の名門パラディーン家の未亡人マッデリーナ(アリダ・ヴァリ)は、突然、夫を毒殺した嫌疑で起訴された。1946年の春のことである。アッデリーンは類まれな美貌の持ち主で、戦傷を受けて盲になった夫パラディーン大佐に献身した良妻として知られていたが、ある日、パラディーン大佐が何者かに殺害され、その真相は謎を秘めたままになっていた。夫人は知己のシモン・フレイカー卿(チャールズ・コバーン)に弁護を頼んだが、卿は自分の友人で若くて敏腕な弁護士アンソニー・キーン(グレゴリー・ペック)を推薦した。キーンの妻ゲイ(アン・トッド)は貞淑な女で、夫にこの事件を担当するよう勧めるのだった。キーンは初めてパラディーン夫人に会ってその美しさに心を奪われ、彼女の無罪を信ぜずにはいられなかった。キーンは調査を進めるうちに、パラディーン家の家令アンドレ・ラトゥール(ルイ・ジュールダン)がこの事件に関係あることを知った。パラディーン家の別荘だったヒンドレイ荘にラトゥールを尋ねたキーンは、ラトゥールが口をきわめてパラディーン夫人を罵るのを聞いて、職責を忘れて彼と言い争った。キーンはこのいきさつを夫人に告げたが、夫人はただラトゥールを巻きぞえにするなというだけだった。ゲイは夫がパラディーンにひかれていることを知っており、彼がそのために弁護をしくじりはしまいかと気づかった。いよいよ公判が開始され、老裁判長ホーフィールド(チャールズ・ロートン)も夫人の美貌に魅せられたようだった。キーンはラトゥールにパラディーン大佐の死因は自殺だと証言させようとしたが失敗した。夫人は再びキーンにラトゥールをかばうよう忠告したが、彼にとってはラトゥールに殺人の罪を負わせる以外に夫人を救う道はなかった。2回目の公判でキーンはラトゥールの自殺幇助をひき出そうとして失敗し、かえって追いつめられたラトゥールはパラディーン夫人との情事を自供してしまった。そして退廷後間もなく自殺を遂げた。これを聞いた夫人は、ついに夫を毒殺したと自白した。夫人はラトゥールに駆け落ちを迫って拒まれ、夫を亡きものにしたのだ。弁護に失敗し名誉を失墜したキーンはフレイカー卿の家に身をかくしていたが、やがて愛妻ゲイに暖かく迎えられた。
前説の通りヒッチコックのセルズニックのプロダクションとの専属契約満了を迎えて、セルズニック・スタジオにヒッチコックが残した最後の作品が本作ですが、イギリス時代のスリラー作品以前の諸作はともあれハリウッド進出後のヒッチコック作品中これと『山羊座のもとに』'49の2作はヒッチコック映画と認めたくない、と批判する評者が多いのがタイトルからして面白い映画とはまったく期待できなさそうなこの『パラダイン夫人の恋』で、実は邦題自体が法廷ミステリー映画の本作には種を明かしてしまっているので原題はそっけなく『パラディン事件(The Paradine Case)』となっており、映画を観てもはっきりと「パラダイン」ではなく「パラディン」と発音されている(キネマ旬報のあらすじでも「パラディーン」となっている)のに『パラダイン夫人の恋』なのは語感とムードの問題でこういう邦題になったのでしょう。そっけない曲のタイトルにやたら「恋の~」「涙の~」「悲しき~」と邦題がついていた時代があったのです。プロデューサーズのセルズニックが脚本にダメ出しした挙げ句セルズニック自身が脚本の最終稿の脚本家になり、おかげで撮影と脚本執筆が同時進行になってしまったという本作にヒッチコックはキャスティングがことごとく駄目、イギリスが舞台なのにグレゴリー・ペックが駄目、アリダ・ヴァリが駄目、役柄を考えるとルイ・ジュールダンも駄目、ジュールダンの役はヒッチコックとしてはもっと野卑な感じのある、ずばり海賊役者のロバート・ニュートンを使いたかったと言い、トリュフォーは「最高ですね」と賛意を表しつつペックの妻役のアン・トッドも駄目、と口車に乗っています。最高裁判事役のチャールズ・ロートンとその老妻役のエセル・バリモア(二人ともヒッチコックと同年輩ですから実年齢より老け役ですが)はさすがの名演ではないかと思いますが、主演格の俳優たちがミスキャストでは仕方がない、というのが本作へのヒッチコックの口ぶりからは伝わってきます。
感想文書こう、その前にポスターを集めておこうと検索してみるといやはやこれはどうしたことか、ヒッチコックがまずキャスティングについて本作への不満を洩らしたのもむべなるかな、セルズニックが映画のヒットはスターで決まるという大雑把な時代のハリウッドのスター至上主義プロデューサーだったのが脚本も兼ねた本作では露骨に顕れたというか、何なのでしょうこのグレゴリー・ペック、アン・トッド、チャールズ・ロートン、チャールズ・コバーン、エセル・バリモア、ルイ・ジュールダン、(書き文字レタリングで姓だけ)ヴァリとビリング(キャスト序列)順に7大スターを並べ立てたこのポスターは。本作前後のヒッチコック作品中日本未公開に終わったものは『救命艇』『山羊座のもとに』『舞台恐怖症』がありますが、このキャスティング至上方針は良くてもアメリカ本国内でしか通用しないもので、よく本作が日本公開にこぎ着けたものです。しかも戦後のアメリカ映画界ではセルズニックのようなプロデューサー・システムは急速に時代遅れのものになりつつあり、セルズニックが売り出したバーグマンは『山羊座のもとに』の後イタリアへ去ってしまいますし、ペックは大成しますがセルズニックのお抱え俳優を離れ保守派なりの戦後映画の潮流にうまくすくい上げられたからでした。7大スター競演などという発想は『グランド・ホテル』'32から『風と共に去りぬ』'39までのニューディール政策期のハリウッド景気の産物であり、第二次世界大戦中には抑えられていたその趣向が大戦後の景気回復時にも通用すると考えていたのがセルズニックでしたし実際に戦後にもセルズニックはヒット作を送り出すプロデューサーでしたが、観客の嗜好はセルズニックの狙いとは必ずしも一致しなかったので、スター主義ではなく企画力に世相の需要の機を見る敏はさすがに備えていたために戦後の『白昼の決闘』'46、『ジェニイの肖像』'48、『第三の男』'49、『終着駅』'53、『武器よさらば』'57などのヒット作も作り出せたのです。これらはセルズニック製作によるヒッチコックの戦後作『白い恐怖』『パラダイン夫人の恋』よりも観客に訴える力のある作品でした。セルズニックのプロデューサーとしての出世作が『キング・コング』'33だったのも注意すべきことで、ハリウッド黄金時代の映画プロデューサーたちをタイクーン(大君)と呼んだのは作家として凋落した後半生をハリウッドのシナリオ・ライターとして過ごしたF・スコット・フィッツジェラルドでしたが、ハリウッドのタイクーンたちとはみんなハッタリで世渡りしていたのです。『レベッカ』でセルズニックのハッタリに乗って大成功したヒッチコックでしたが、『パラダイン夫人~』のハッタリはヒッチコックでなくてもどうしようもなかったでしょう。と書いてふとワイラーだったらセルズニック企画に乗りつつ上乗な映画に仕上げたかもしれない、という気もしてきます。ワイラーは当時としてはアメリカ映画界にあってヨーロッパ映画的な感覚を持った珍しい監督でしたが、ヘンリー・ジェイムズやシンクレア・ルイスの原作小説の映画化や戦時下のイギリス市民を描いた『ミニヴァー夫人』、また『ローマの休日』'53でアカデミー賞受賞作を出しているようにアメリカ人の憧憬するイギリス人やヨーロッパ文化を描いている。その辺が根っからのイギリス人で、ことイギリスものになるとこだわりが生じるヒッチコックとは違います。
本作は後年に、やはりイギリスが舞台でタイロン・パワー、マレーネ・ディートリヒ、チャールズ・ロートン主演の法廷ミステリー『情婦』'58と比較されますが、『情婦』のビリー・ワイルダーはドイツ文化圏出身監督の流れ(ルビッチ、カーティス、ディターレ、シオドマクら)を汲んでアメリカ的の感覚の摂取がうまい。ドイツは内陸国ですから輸出入しか産業の道はなく、それが経済的には工業技術の先鋭化や政治的には侵略戦争への指向になっていたのですが、国際感覚がヒッチコックのように融和の方向ではなく同化の徹底に向かいますからアメリカ人の考えるイギリス社会として描く感覚が身についているわけです(ワイラーもドイツ系アメリカ人でした)。一方現代に日本人の目から観るとヒッチコックがことごとくミスキャストだと言うペック、トッド、ヴァリ、ジュールダンの嘘くさい芝居が明らかに映画監督の演出方針の不統一が見えて、ばらばらに撮って貼りつけたような不自然さが露骨でドラマ本来の筋立てやキャラクターと乖離しており、ヒッチコック自身が全然納得していないまま撮り上げたのが歴然としているのが不評の原因なのはもっともですが、年代順にヒッチコック作品を毎日観るなどという馬鹿な見方をしていると面白くてたまらない。たぶん吹き替え短縮版テレビ放映の時には真っ先にカットされたであろうチャールズ・ロートンとエセル・バリモアの夫婦の会話など大スター一族バリモア家のエセル・バリモアを映画にねじ込むための無理矢理なエピソードで、まっすぐペックに依頼が行かずチャールズ・コバーン経由なのもコバーンを出したかったからでしょう。何だかクライマックスでバタバタと解決してしまった後のエンディングでアン・トッドの見せ場を作ってハッピーエンドになるのもわざとらしく、このトッドはトッドだけ取り出せば名演ですが、ロートンとバリモア夫婦にしてもペックとトッド夫婦にしても、夫婦だけの会話場面になると日本映画みたいな人情風情が漂ってくるのが本来ドライなユーモアを好むヒッチコックとしては違和感があります。『汚名』よりはきつくないとはいえ強いて言えばロートンの助平親父ぶりに見られる以外にはユーモアのかけらもないのがアリダ・ヴァリの氷のような演技で、アン・トッドのような愛妻がいながらヴァリに一目惚れして狂態をさらすにいたるペックに全然説得力がないのが本作でセルズニックとの契約も満了することだし、と本作をプロデューサーに丸投げしてしまったヒッチコックの最後っ屁とすら思わせる投げやりさがあり、長い人生こういう作品もあっていいのではないかとペーソスすら感じさせる幸徳がかろうじてある、観客の心の広さに訴える力を認めてあげたい気もしてくるのです。しかし本作のアリダ・ヴァリはヒッチコック映画最悪のヒロインで、真のヒロインはアン・トッドとはいえヴァリほどヒッチコックがヒロインを魅力的に撮るのを放棄した例は後にも先にもないのではないでしょうか。『第三の男』で芸風をパクられた恨みでもあったのでしょうか。もっとも『第三~』のヴァリも巷間名高いほど魅力的には見えず、演技するファッション・モデルというのがヴァリの女優としての格でしょう。ならば本作も企画段階でヒッチコックのできることは限界があったという、つまりはそういう作品と見てその上で孤軍奮闘を讃えたいところです。本作に限らずこの映画日記は基本的には判官贔屓が主旨なのです。
●1月6日(土)
『汚名』Notorious (RKO'46)*101min, B/W; 日本公開昭和年(1949年)11月1日、昭和58年(1983年)1月/アカデミー賞助演男優賞(クロード・レインズ)・脚本賞(ベン・ヘクト)ノミネート
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 「断崖」「疑惑の影」のアルフレッド・ヒッチコックが「ガス燈」「ジキル博士とハイド氏(1941)」のイングリッド・バーグマンと「独身者と女学生」のケーリー・グラントを主役として監督した1946年作品。脚本は「運命の饗宴」やヒッチコック作品「呪縛」のベン・ヘクトが書き下ろしたもので、撮影は現在監督に転じて名を挙げている「春を手さぐる」等のテッド・テズラフで、音楽は「ママの思い出」のロイ・ウェッブが作曲した。助演はクロード・レインズ、「ゾラの生涯」のルイス・カルハーン、映画初出演の舞台女優レオポルディーン・コンスタンチン、「少年牧場」のモローニ・オルセン、かつてドイツ映画の監督だったラインホルト・シュンツェルその他である。
○あらすじ(同上) アリシア・ハバーマン(イングリッド・バーグマン)は売国奴の父を持ったために心ならずも悪名高き女として全米に宣伝されていた。ある夜うさ晴らしに開いたパーティで、彼女はデブリン(ケーリー・グラント)というアメリカの連邦警察官と知り合った。デブリンは南米に策動するナチ一味を探る重要な職務にあった。セバスチャン(クロード・レインズ)をよく知っているアリシアを利用する目的で近づいたのだったが、やがて彼女に強く引かれるようになった。一緒に南米に行き、リオ・デ・ジャネイロでの楽しいあけくれに、二人の愛情は日毎に深まり、アリシアはデブリンの愛によって、その昔の純情さを取り戻していった。が間もなく、彼女は命令でセバスチャンを探ることになったが、彼が以前父親の相棒だったことから、アリシアは容易にセバスチャン邸に入り込むことに成功し計画通りに彼は彼女を恋するようになった。一夜、彼の邸でナチ・スパイ連の晩餐会が催されたが、その時出された一本のぶどう酒に対する一味の一人の男の態度とそれに次いで起こった彼の変死にアリシアは強い疑念を持った。セバスチャンの花嫁となった彼女は、家中を見回ることが出来たが、地下室の酒蔵にだけは入れなかった。デブリンとの打ち合わせによって、一夜またパーティが催され、アリシアは酒蔵の鍵をセバスチャンから盗み取りデブリンに渡した。目的の酒瓶を辛うじて盗み出して彼は逃げ去ったが、嫉妬から絶えずデブリンを監視していたセバスチャンはかぎつけてしまった。ぶどう酒の瓶を見て取り乱した男の殺された前例からも、セバスチャンはアリシアが酒蔵を調べた事を仲間に疑われてはならなかった。母親(レオポルディーネ・コンスタンチン)と二人の共謀で、アリシアは毒入りコーヒーで徐々に死へ導かれていった。一方例の酒瓶の中には原子爆弾のウラニウム鉱が入れてあることが分かった。アリシアは病み衰えながらも、ウラニウムの出所を聞き出そうとたえず気を配ったが、アンダーソン博士(ラインホルト・シュンツェル)の不用意に口から出た言葉でそれを悟った。使命を終えて逃れようとしたアリシアは力つきて倒れてしまった。だが敵中に唯一人とり残されたアリシアの許にデブリンはかけつけた。愛する者の敏感さで、デブリンは彼女の身の危険を感じたのだ。デブリンのアリシア救出によって、ナチ仲間はセバスチャンの失策を知った。セバスチャンには死の制裁が下された。アリシアがデブリンの愛によって全快する日は恐らく間もないだろう。
ヒッチコック作品で最多主演回数の男性俳優はケーリー・グラントとジェームズ・スチュアートで各4作、女優ではイングリッド・バーグマンとグレース・ケリーが各3作。スチュアートの主演作ではケリーとは『裏窓』'54で共演があるもののバーグマンとの顔合わせはありませんが、グラントは本作('46年)でバーグマンと、『泥棒成金』'55でケリーと共演しています。バーグマンのヒッチコック作品主演作3作『白い恐怖』'45、本作、『山羊座のもとに』'49のうち本作が一番の出来になったのもグラントとの共演による面が大きいでしょう。グラントのヒッチコック作品主演作は『断崖』'41、本作、『泥棒成金』『北北西へ進路を取れ』'59と広い時期に渡り、それぞれジョーン・フォンテーン、バーグマン、ケリー、エヴァ・マリー・セイントと相手役の女優も華やかなのに対して、スチュアートの主演は『ロープ』'48、『裏窓』'54、『知りすぎていた男』'56、『めまい』'58と集中しており、ヒロインの比重もグラント主演作より小さい(そもそも『ロープ』などはヒロインがいない)のは、グラントとスチュアートのキャラクターの違いというものでしょう。スチュアートだって二枚目ですがグラントのような色気には欠けますし、ついにヒッチコック作品に出演の機会がなかったゲーリー・クーパーは色気のある二枚目ですがグラントのようなうさんくささに欠けるのです。本作は鬼才ベン・ヘクト本気のオリジナル脚本作品ですが、ヘクトはもともとジャーナリスト上がりでセンセーショナルな話題に着目し、いかれたキャラクターとシチュエーションをもてあそぶのが好きな作家です。映画製作には元来山師的な側面があり、芸事一般には大なり小なりギャンブル的(勝負事的)な性格がありますが、中でも映画は経済的には相当大規模なギャンブルであり、ギャンブルにつきものなのがうさんくささといかがわしさでそれが人を魅了するのは言うまでもありませんから、ヘクト脚本とグラントの相性がヒッチコックの腕前によって最上級に生かされたのが本作の成功に結びついたのでしょう。その中心にバーグマンという大輪の花があったのでますます焦点の明快な映画になっている強みがあります。
しかし本作は全編まんべんなく演出の行き届いた作品なのがひと言で映画の代名詞的な見所を語りづらくしているとも言えて、『レベッカ』なら「ダンヴァース夫人」、『断崖』なら「毒入りミルク」、『疑惑の影』なら「未亡人殺し(のジョゼフ・コットン)」といった具合に誰もが一致して抱くような映画全体を集約する強烈なイメージの点では突出した場面のないのがヒッチコックの代表作に上げるには比較的地味に見せていて、やや損をしています。ブラジルのリオを舞台にしながら逃走・追跡型のサスペンスではなくひたすら見張ってスパイしているだけの話ですから『三十九夜』以来の逃亡冒険型サスペンスではなく、『レベッカ』『断崖』『疑惑の影』系列の舞台限定型を突き詰めていった作品と言えるでしょう。そうなると作品を集約する強いポイントがあるのとないのではずいぶん印象が違ってきます。ヒッチコックの映画はだいたい序盤20分~30分で設定を描ききって、中盤ではスリルとサスペンスでじわじわと話を進めていき、ラストの10分~20分で怒涛のようにクライマックスが訪れる3幕劇的構成(または中盤を前半・後半に分割して見れば交響曲的4楽章構成)になっていますが、見所満載でグラントとバーグマンのロマンス描写が多い上に凝ったカメラワークがあり(キスシーンが長い長い、5分近く続くキスすらあるので撮影も凝りに凝っています)、ワイン貯蔵庫と鍵をめぐるサスペンスと細かなカットバックではらはらさせる手腕など上げればきりがないほどで、心憎い残酷なエンディングまで緊張感は緩みない充実した出来でこの緊張感の持続はヒッチコック作品中でもトップクラスなのですが、グラントとバーグマンの好演もあいまって特定の強いポイントを上げるとなるとここぞといった映画の核心を凝縮した要素が特定できない、という欲張りな物足りなさも出てきます。本作の日本初公開時、植草甚一、双葉十三郎氏ら古くからのヒッチコック支持の映画批評家の讃辞に対して淀川長治氏が「ベン・ヘクトの脚本とヒッチコックのセンスが合っていない。ヘクト脚本のこのヒロイン像ならばバーグマンではなくシェリー・ウィンターズあたりではないだろうか」(大意)と評しているのも意表を突いた指摘で、確かに『レベッカ』『断崖』のジョーン・フォンテーン、『疑惑の影』のテレサ・ライトが作品の一部になっているのに較べるとバーグマンは『汚名』という1作に収まりきらない過剰な存在感があります。グラントとバーグマンの取り合わせが強すぎて映画『汚名』の主演がこの二人というよりも、グラントとバーグマンというスターの映画になってしまっていないか。またワイン貯蔵庫と鍵のサスペンスみたいな趣向は特に本作のような設定・内容の作品でなくてもできることで、そこで本作ならではのキャラクターを上げるとすればむしろ逃亡ナチスの残党組織の一員を演じる助演のクロード・レインズが浮かんできます。
本作『汚名』はドイツ人移民1世でナチスの潜伏スパイをしていた父を持つアメリカ生まれの娘(バーグマン)が、諜報部員(グラント)にマークされているうちに愛しあうようになるが、諜報部上層部の指令で女はブラジル逃亡ナチス組織の一員を誘惑して結婚しその陰謀をスパイする役目を命じられ、諜報部員の男はスパイに送りこんだ恋人との連絡係になる、という話です。スリルとサスペンスはヒロインがいつまでバレずに重要機密を探り出せるか、との一点にかかりますが、まず設定からして人類最古の職業(スパイと売春)が国外逃亡ナチスの残党狩りのために正当化される。それをやっているのが主人公とヒロインで、逃亡ナチス残党組織の一員(「首領」というキネマ旬報のあらすじは誤りで、残党組織のボスは別の人物で、ヒロインが誘惑して結婚する相手の邸宅でいつも会合が行われているだけ)の独身中年男のクロード・レインズはまんまと騙されてスパイを妻にしてしまうわけです。本作を最愛のヒッチコック作品に上げるフランソワ・トリュフォーの好みは、まさしく『汚名』が性的な背徳性の充満した愛と裏切りの物語であること、大衆的な映画で扱うには微妙で大胆なテーマを見事なスパイ・サスペンスのスリラー映画に仕立て上げた大手腕への同業者ならではの賛嘆であると思われ、事実トリュフォーはヒッチコックが『裏窓』や「ヒッチコック劇場」の諸作品で多くを原作にしたサスペンス作家コーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)の原作をもとに『黒衣の花嫁』'67、『暗くなるまでこの恋を』'69と長編2作を撮っています(『映画術』原著は'66年刊行です)。『汚名』のような映画を作りたいがヒッチコックのような撮り方をしてもヒッチコックにはおよばない、また『汚名』のように一見何でもないようでいて陰惨なほどアモラルなセンスはアメリカ映画の明快な娯楽性の中ではできてもフランス文化の風土では頽廃性ばかりが目立ってしまう。この映画は主人公をレインズの側にすれば、惚れた女に脈ありとのぼせ上がって結婚してみれば自分を破滅させるために敵組織が送り込んだ美人スパイだった、という衝撃の裏切り映画でもあるわけです。ヴィジュアル的にも中年の小男のレインズと大柄で肩幅も広いバーグマンでは殴りあったらレインズの負けになりそうな組み合わせで、そういう男の哀感すらあります。トリュフォーもレインズとバーグマンの対照を絶讃し、ヒッチコックも自慢している。優れた映画監督ほどそうした残酷な感覚を持っているので、バーグマンとグラントの役柄からは一応ハッピーエンドなのですが仲間からの処刑確定で取り残されたレインズの姿で終わるラストシーンはあっけらかんとした悪意を観客に投げつけてこれも勧善懲悪の極地には違いありません。舞台限定型サスペンスの見事な達成を認めながら、トリュフォーとは逆に感覚的に本作が好きになれない方も案外多いのではないでしょうか。ヒッチコック作品でバーグマン主演作の3作中もっとも成功したのが本作でもあれば、あとの2作『白い恐怖』『山羊座のもとに』ともどもどこか親しめなさが漂うのがバーグマン主演作共通の特色でもあり、困ったことにバーグマン主演作は色気はあってもユーモアは皆無なのです。
●1月7日(日)
『パラダイン夫人の恋』The Paradine Case (米セルズニック・スタジオ=UA'47)*115min, B/W; 日本公開昭和28年(1953年)2月24日
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) デイヴィッド・O・セルズニック(「風と共に去りぬ」)が製作し、アルフレッド・ヒッチコックが「汚名」に次いで監督したスリラー1947年。ロバート・シチェンズの原作小説をアルマ・レヴィルとジェームズ・ブリディが潤色し製作者セルズニック自身が脚色した。撮影は「探偵物語」のリー・ガームス、音楽は「陽のあたる場所」のフランツ・ワックスマンの担当。主演は「キリマンジャロの雪」のグレゴリー・ペック、「超音ジェット機」のアン・トッド、それに「第三の男」のアリダ・ヴァリ(本作品が米映画初出演)で、「青いヴェール」のチャールズ・ロートン、「追はぎ」のチャールズ・コバーン、「女海賊アン」のルイ・ジュールダン、エセル・バリモア、ジョーン・テッツェル、レオ・G・キャロルらが助演する。
○あらすじ(同上) 英国の名門パラディーン家の未亡人マッデリーナ(アリダ・ヴァリ)は、突然、夫を毒殺した嫌疑で起訴された。1946年の春のことである。アッデリーンは類まれな美貌の持ち主で、戦傷を受けて盲になった夫パラディーン大佐に献身した良妻として知られていたが、ある日、パラディーン大佐が何者かに殺害され、その真相は謎を秘めたままになっていた。夫人は知己のシモン・フレイカー卿(チャールズ・コバーン)に弁護を頼んだが、卿は自分の友人で若くて敏腕な弁護士アンソニー・キーン(グレゴリー・ペック)を推薦した。キーンの妻ゲイ(アン・トッド)は貞淑な女で、夫にこの事件を担当するよう勧めるのだった。キーンは初めてパラディーン夫人に会ってその美しさに心を奪われ、彼女の無罪を信ぜずにはいられなかった。キーンは調査を進めるうちに、パラディーン家の家令アンドレ・ラトゥール(ルイ・ジュールダン)がこの事件に関係あることを知った。パラディーン家の別荘だったヒンドレイ荘にラトゥールを尋ねたキーンは、ラトゥールが口をきわめてパラディーン夫人を罵るのを聞いて、職責を忘れて彼と言い争った。キーンはこのいきさつを夫人に告げたが、夫人はただラトゥールを巻きぞえにするなというだけだった。ゲイは夫がパラディーンにひかれていることを知っており、彼がそのために弁護をしくじりはしまいかと気づかった。いよいよ公判が開始され、老裁判長ホーフィールド(チャールズ・ロートン)も夫人の美貌に魅せられたようだった。キーンはラトゥールにパラディーン大佐の死因は自殺だと証言させようとしたが失敗した。夫人は再びキーンにラトゥールをかばうよう忠告したが、彼にとってはラトゥールに殺人の罪を負わせる以外に夫人を救う道はなかった。2回目の公判でキーンはラトゥールの自殺幇助をひき出そうとして失敗し、かえって追いつめられたラトゥールはパラディーン夫人との情事を自供してしまった。そして退廷後間もなく自殺を遂げた。これを聞いた夫人は、ついに夫を毒殺したと自白した。夫人はラトゥールに駆け落ちを迫って拒まれ、夫を亡きものにしたのだ。弁護に失敗し名誉を失墜したキーンはフレイカー卿の家に身をかくしていたが、やがて愛妻ゲイに暖かく迎えられた。
前説の通りヒッチコックのセルズニックのプロダクションとの専属契約満了を迎えて、セルズニック・スタジオにヒッチコックが残した最後の作品が本作ですが、イギリス時代のスリラー作品以前の諸作はともあれハリウッド進出後のヒッチコック作品中これと『山羊座のもとに』'49の2作はヒッチコック映画と認めたくない、と批判する評者が多いのがタイトルからして面白い映画とはまったく期待できなさそうなこの『パラダイン夫人の恋』で、実は邦題自体が法廷ミステリー映画の本作には種を明かしてしまっているので原題はそっけなく『パラディン事件(The Paradine Case)』となっており、映画を観てもはっきりと「パラダイン」ではなく「パラディン」と発音されている(キネマ旬報のあらすじでも「パラディーン」となっている)のに『パラダイン夫人の恋』なのは語感とムードの問題でこういう邦題になったのでしょう。そっけない曲のタイトルにやたら「恋の~」「涙の~」「悲しき~」と邦題がついていた時代があったのです。プロデューサーズのセルズニックが脚本にダメ出しした挙げ句セルズニック自身が脚本の最終稿の脚本家になり、おかげで撮影と脚本執筆が同時進行になってしまったという本作にヒッチコックはキャスティングがことごとく駄目、イギリスが舞台なのにグレゴリー・ペックが駄目、アリダ・ヴァリが駄目、役柄を考えるとルイ・ジュールダンも駄目、ジュールダンの役はヒッチコックとしてはもっと野卑な感じのある、ずばり海賊役者のロバート・ニュートンを使いたかったと言い、トリュフォーは「最高ですね」と賛意を表しつつペックの妻役のアン・トッドも駄目、と口車に乗っています。最高裁判事役のチャールズ・ロートンとその老妻役のエセル・バリモア(二人ともヒッチコックと同年輩ですから実年齢より老け役ですが)はさすがの名演ではないかと思いますが、主演格の俳優たちがミスキャストでは仕方がない、というのが本作へのヒッチコックの口ぶりからは伝わってきます。
感想文書こう、その前にポスターを集めておこうと検索してみるといやはやこれはどうしたことか、ヒッチコックがまずキャスティングについて本作への不満を洩らしたのもむべなるかな、セルズニックが映画のヒットはスターで決まるという大雑把な時代のハリウッドのスター至上主義プロデューサーだったのが脚本も兼ねた本作では露骨に顕れたというか、何なのでしょうこのグレゴリー・ペック、アン・トッド、チャールズ・ロートン、チャールズ・コバーン、エセル・バリモア、ルイ・ジュールダン、(書き文字レタリングで姓だけ)ヴァリとビリング(キャスト序列)順に7大スターを並べ立てたこのポスターは。本作前後のヒッチコック作品中日本未公開に終わったものは『救命艇』『山羊座のもとに』『舞台恐怖症』がありますが、このキャスティング至上方針は良くてもアメリカ本国内でしか通用しないもので、よく本作が日本公開にこぎ着けたものです。しかも戦後のアメリカ映画界ではセルズニックのようなプロデューサー・システムは急速に時代遅れのものになりつつあり、セルズニックが売り出したバーグマンは『山羊座のもとに』の後イタリアへ去ってしまいますし、ペックは大成しますがセルズニックのお抱え俳優を離れ保守派なりの戦後映画の潮流にうまくすくい上げられたからでした。7大スター競演などという発想は『グランド・ホテル』'32から『風と共に去りぬ』'39までのニューディール政策期のハリウッド景気の産物であり、第二次世界大戦中には抑えられていたその趣向が大戦後の景気回復時にも通用すると考えていたのがセルズニックでしたし実際に戦後にもセルズニックはヒット作を送り出すプロデューサーでしたが、観客の嗜好はセルズニックの狙いとは必ずしも一致しなかったので、スター主義ではなく企画力に世相の需要の機を見る敏はさすがに備えていたために戦後の『白昼の決闘』'46、『ジェニイの肖像』'48、『第三の男』'49、『終着駅』'53、『武器よさらば』'57などのヒット作も作り出せたのです。これらはセルズニック製作によるヒッチコックの戦後作『白い恐怖』『パラダイン夫人の恋』よりも観客に訴える力のある作品でした。セルズニックのプロデューサーとしての出世作が『キング・コング』'33だったのも注意すべきことで、ハリウッド黄金時代の映画プロデューサーたちをタイクーン(大君)と呼んだのは作家として凋落した後半生をハリウッドのシナリオ・ライターとして過ごしたF・スコット・フィッツジェラルドでしたが、ハリウッドのタイクーンたちとはみんなハッタリで世渡りしていたのです。『レベッカ』でセルズニックのハッタリに乗って大成功したヒッチコックでしたが、『パラダイン夫人~』のハッタリはヒッチコックでなくてもどうしようもなかったでしょう。と書いてふとワイラーだったらセルズニック企画に乗りつつ上乗な映画に仕上げたかもしれない、という気もしてきます。ワイラーは当時としてはアメリカ映画界にあってヨーロッパ映画的な感覚を持った珍しい監督でしたが、ヘンリー・ジェイムズやシンクレア・ルイスの原作小説の映画化や戦時下のイギリス市民を描いた『ミニヴァー夫人』、また『ローマの休日』'53でアカデミー賞受賞作を出しているようにアメリカ人の憧憬するイギリス人やヨーロッパ文化を描いている。その辺が根っからのイギリス人で、ことイギリスものになるとこだわりが生じるヒッチコックとは違います。
本作は後年に、やはりイギリスが舞台でタイロン・パワー、マレーネ・ディートリヒ、チャールズ・ロートン主演の法廷ミステリー『情婦』'58と比較されますが、『情婦』のビリー・ワイルダーはドイツ文化圏出身監督の流れ(ルビッチ、カーティス、ディターレ、シオドマクら)を汲んでアメリカ的の感覚の摂取がうまい。ドイツは内陸国ですから輸出入しか産業の道はなく、それが経済的には工業技術の先鋭化や政治的には侵略戦争への指向になっていたのですが、国際感覚がヒッチコックのように融和の方向ではなく同化の徹底に向かいますからアメリカ人の考えるイギリス社会として描く感覚が身についているわけです(ワイラーもドイツ系アメリカ人でした)。一方現代に日本人の目から観るとヒッチコックがことごとくミスキャストだと言うペック、トッド、ヴァリ、ジュールダンの嘘くさい芝居が明らかに映画監督の演出方針の不統一が見えて、ばらばらに撮って貼りつけたような不自然さが露骨でドラマ本来の筋立てやキャラクターと乖離しており、ヒッチコック自身が全然納得していないまま撮り上げたのが歴然としているのが不評の原因なのはもっともですが、年代順にヒッチコック作品を毎日観るなどという馬鹿な見方をしていると面白くてたまらない。たぶん吹き替え短縮版テレビ放映の時には真っ先にカットされたであろうチャールズ・ロートンとエセル・バリモアの夫婦の会話など大スター一族バリモア家のエセル・バリモアを映画にねじ込むための無理矢理なエピソードで、まっすぐペックに依頼が行かずチャールズ・コバーン経由なのもコバーンを出したかったからでしょう。何だかクライマックスでバタバタと解決してしまった後のエンディングでアン・トッドの見せ場を作ってハッピーエンドになるのもわざとらしく、このトッドはトッドだけ取り出せば名演ですが、ロートンとバリモア夫婦にしてもペックとトッド夫婦にしても、夫婦だけの会話場面になると日本映画みたいな人情風情が漂ってくるのが本来ドライなユーモアを好むヒッチコックとしては違和感があります。『汚名』よりはきつくないとはいえ強いて言えばロートンの助平親父ぶりに見られる以外にはユーモアのかけらもないのがアリダ・ヴァリの氷のような演技で、アン・トッドのような愛妻がいながらヴァリに一目惚れして狂態をさらすにいたるペックに全然説得力がないのが本作でセルズニックとの契約も満了することだし、と本作をプロデューサーに丸投げしてしまったヒッチコックの最後っ屁とすら思わせる投げやりさがあり、長い人生こういう作品もあっていいのではないかとペーソスすら感じさせる幸徳がかろうじてある、観客の心の広さに訴える力を認めてあげたい気もしてくるのです。しかし本作のアリダ・ヴァリはヒッチコック映画最悪のヒロインで、真のヒロインはアン・トッドとはいえヴァリほどヒッチコックがヒロインを魅力的に撮るのを放棄した例は後にも先にもないのではないでしょうか。『第三の男』で芸風をパクられた恨みでもあったのでしょうか。もっとも『第三~』のヴァリも巷間名高いほど魅力的には見えず、演技するファッション・モデルというのがヴァリの女優としての格でしょう。ならば本作も企画段階でヒッチコックのできることは限界があったという、つまりはそういう作品と見てその上で孤軍奮闘を讃えたいところです。本作に限らずこの映画日記は基本的には判官贔屓が主旨なのです。