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映画日記2017年12月11日・12日/アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)のほぼ全作品(6)

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 第6回の今回までで採り上げたヒッチコックの監督第12作『殺人!』、第13作『スキン・ゲーム(いかさま勝負)』にいたる12作品の中で、後年ヒッチコックのトレードマークとなる犯罪スリラー/サスペンス映画は『下宿人』'26、『恐喝(ゆすり)』'29、そして今回の『殺人!』の3作しかありません。ヒッチコックが犯罪スリラー/サスペンス映画を連続して撮るようになるのは'34年の『暗殺者の家』、'35年の『三十九夜』からで、それからようやくヒッチコックは『間諜最後の日』'36、『サボタージュ』'36、『第3逃亡者』'37、『バルカン超特急』'38とサスペンス/スリラーの快作を連発するようになります(ハリウッド進出直前の『巌窟の野獣』'39は変な映画でしたが)。また『殺人!』はエリック・ロメールとクロード・シャブロルの共著『ヒッチコック』'57でイギリス時代のヒッチコックの3大傑作(『リッチ・アンド・ストレンジ(おかしな成金夫婦)』'32、『三十九夜』と並び)とされている作品です。この作品はヒッチコックのスリラー映画の中でも珍しく真犯人探しの探偵映画なので、あらすじ、感想文ともに犯人や真相、結末をにごした作文に気をつかいました。また『スキン・ゲーム(いかさま勝負)』は「まったくの押しつけ企画で撮りたい映画ではなかった。何も言うことはないよ」と監督本人が語り、ロメールもヒッチコック最低の作品としていますが、先入観なしで観ればけっこう見所のある、捨てたものではない1本です。なお、今回も『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社刊、山田宏一・蓮實重彦訳)からの発言は例によって多少表現を変えて引用させていただきました。

●12月11日(月)
『殺人!』Murder! (英ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ'30)*98min, B/W; 日本公開平成6年(1994年)1月14日

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○製作=ジョン・マックスウェル/原作(小説・戯曲)=クレメンス・ディーン、ヘレン・シンプソン『ジョン卿登場』/脚色=アルフレッド・ヒッチコック、アルマ・レヴィル/台詞=ベン・W・レヴィ/撮影=J・J・コックス/美術=J・F・ミード/音楽=ジョン・レインダース/編集=ルネ・ハリスン、エミール・デ・ルエル
○あらすじ 1930年のある夜、ロンドンの下町に住む巡業劇団の座長テッド(エドワード・チャップマン)と女優ドゥーシー(フィリス・コンスタム)夫婦は近所の喧騒に目を醒ます。それは近所に下宿しているテッド夫妻の劇団の女優エドナの家からで、エドナは火掻き棒で撲殺され現場には劇団の女優ダイアナ(ノア・ベアリング)が茫然自失状態で居合わせていた。ダイアナは現行犯逮捕され、精神鑑定で意識喪失を認められたが、陪審員の討議の結果有罪で死刑判決が下る。陪審員のひとりジョン・メニエ卿(ハーバート・マーシャル)は最後まで有罪判決に反対するが押し切られてしまう。ダイアナはエドナとの関係に男性が関与しているのを疑われていたが、その名を決して明かさなかった。ジョン卿は有名な劇作家・演出家・俳優で、かつて少女時代からジョン卿のファンだったというダイアナの訪問を受け巡業劇団での俳優修行を勧めたこともあり、責任を感じるとともにダイアナの性格に無罪を確信していた。ジョン卿は独自に調査を開始し、犯人は劇団関係者にいると直観して真相を知り罠にかけるためにテッド夫婦を新作の上演主に雇い入れ、テッド夫婦の劇団やエドナの下宿を訪ねて第三者がいた確証を得る。ジョン卿は獄中のダイアナに面会し、ダイアナの洩らしたひと言から犯人像と動機をつかみ、劇団関係者に該当者を見つけ、エドナ殺人事件を題材にした新作舞台劇の構想を披露して犯人を追い込んでいく……。

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 まず構成から言えばヒロインが逮捕され死刑判決までが30分(逮捕までが10分、裁判が20分)、主人公ジョン卿の犯罪捜査で真犯人が判明するまで40分、残り20分で犯人を追いつめ事件に決着がつくまでを描いています。今回みたいにヒッチコックの映画ばかり毎日観て10日目を過ぎると、ヒッチコックの映画は律儀に約10分刻みに構成されているのに注意するでもなく気づきます。つまりヒッチコックはシークエンスを映画の1リール(10分前後)単位で収まるように作っており、普通映画はここまで杓子定規でないので1シーンどころか1カットがリールをまたがることも珍しくありません。フィルム時代の映画ではリール交換の印が右上のパンチ穴で示されていましたから、それがよくわかります。映像ソフト用にリマスタリングされているものはオリジナル・ネガまたはプリントによって上映用のパンチ穴のないマスターをなるべく使うか、デジタル処理でパンチ穴を消してありますが、B級映画の廉価版ソフトなどでは上映用プリントのままになっていることも多いのでリール交換の印に注意しながら観るのも一興です。つまりヒッチコックは上映の際にリール交換のうまくない上映技師がぎこちないタイミングで映写しても観客が興ざめしないようにリール単位でシーン、シークエンスがきちんと終わっているように気をつけていました。第1作『快楽の園』はそういう観点で観なかったので頃合いを見計らって観直そうと思っていますが、フィルム散佚作品の第2作『山鷲』を過ぎて第3作『下宿人』ははっきり構成を意識した作品になっていて、以降の作品はすべてリール単位できちんと切れる構成が守られています。古い年代の映画ですからいろいろな事情で部分的に削られた異なるヴァージョンがどの作品にもありますが、リール単位の区切りを厳守(リールごとの長さは必ずしも同じではありません)という原則は守られています。
 犯罪サスペンス映画第2作『恐喝(ゆすり)』では事件まで30分、中盤30分強、恐喝者の逃走が終わりから20分(恐喝者の事故死が逃走から10分目)という構成でした。さかのぼれば『ダウンヒル(下り坂)』はプロローグ、ロンドン編、パリ編、マルセイユ編、エピローグという構成があり、『ふしだらな女』は前半の回想を含む離婚裁判、後半の前半部は避暑地でヒロインが再婚にいたるロマンス、後半部は再婚後にスキャンダラスな過去が暴かれてしまうまでとなっており、『リング』『農夫の妻』『シャンパーニュ』『マンクスマン(マン島の人々)』までのサイレント作品、『恐喝(ゆすり)』と『殺人!』の間の『ジュノーと孔雀』を含めてもヒッチコックの映画の劇的構成は明快です。その由来のひとつは原作が舞台劇(戯曲)である作品が多いことで、戯曲はだいたい3幕で構成され1幕の中に1場、2場という具合の分割があります。戯曲の映画化の多さ(次作『スキン・ゲーム(いんちき勝負)』も戯曲の映画化です)は演劇国イギリスならではの事情でしょう。ヒッチコック原案の『リング』は戯曲の映画化作品ほど厳密な構成ではなく、外部ライターによる書き下ろし原案の『シャンパーニュ』は明らかに舞台劇を意識した構成です。小説を原作にした『マンクスマン(マン島の人々)』は先行映画化作品があり、出世作の『下宿人』は犯罪スリラーですから構成の様式化に利があったのがヒッチコックにとって自己の資質に目覚めたきっかけになったのだと思います。
 本作はまだトーキー技術が撮影同時録音だった時代でしたのでドイツ人俳優を起用したドイツ版『メアリー』Mary ('31)が同時に作られたそうですが、ドイツ語訳された台本のニュアンスに自信が持てず演出に苦労したとヒッチコックは語り、フランス人監督が第二次大戦中でアメリカに亡命して監督した英語作品があまり成功しなかったのも同じ理由ではないか、と所見を述べています。本作の原作者のうちシンプソン単独の小説を原作に後にヒッチコックは『山羊座のもとに』'49も作っており、『殺人!』は面白く作れた会心作で好きな自作だが都市部でヒットしたものの地方では惨敗だったと無念がっています。ほとんど感想らしい感想を述べずに感想文を書いてきましたが、本作は形式的に見事で、構成の巧妙さだけで興味を引っ張っていくだけの面白さのある作品です。しかし探偵推理映画の常として(ヒッチコック自身は『ハムレット』風趣向と言っていて、犯人を追いつめる手段は犯罪を再現する劇を提示する、とハムレットが母と母の再婚した叔父クローディアスに父王殺しの劇を上演してみせるのになぞらえていますが、一方当時流行の探偵推理小説作家ヴァン・ダイン風の心理戦でもあります)冷酷で非人間的な発想から組み立てられている面が強く、結局は勧善懲悪を装った一方的な懲罰劇でしかないゆえに人間性への侮辱を本質とした内容なのが気になります。芸術技巧的洗練の代償がこうした内容の空疎化を伴わざるを得ないならば、確かに面白い映画だけにそれを進展と呼んでいいものか疑問にもなる、そういう嫌な感じもする秀作になっています。

●12月12日(火)
『スキン・ゲーム(いかさま勝負)』The Skin Game (英ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ'31)*85min, B/W; 日本未公開(特集上映、テレビ放映、映像ソフト発売)

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○製作=ジョン・マックスウェル/原作(戯曲)=ジョン・ゴールズワージー/脚色=アルフレッド・ヒッチコック、アルマ・レヴィル/撮影=ジャック・コックス、チャールズ・マーティン/美術=/編集=ルネ・ハリスン、A・ゴベット
○あらすじ 新興成金の実業家ホーンブロワー氏(エドマンド・グウェン)は田園地帯の名家ヒルクリスト家の領地の周辺を買収し、工業地にしようと計画を進めていた。土地売却の際に旧来の住人に立ち退きを迫らない、という約束を平気で破るホーンブロワーにヒルクリスト夫妻(C・V・フランス、ヘレン・ヘイ)は怒りを隠さない。ホーンブロワー家の次男ロルフ(フランク・ロートン)とヒルクリスト家の娘ジル(ジル・エズモンド)は交際していたが、親たちは快く思わない。ホーンブロワー氏はヒルクリスト夫妻にヒルクリスト家以外の土地はすべて買収して工場にしてやると宣言する。競売でヒルクリスト家の隣家の土地が売りに出され、ヒルクリスト家の従僕ドーカー(エドマンド・チャップマン)が策略を立てて代理入札合戦の末に法外な値で隣家は第三者に渡ったかと見えたが、ホーンブロワー氏はヒルクリスト家に落札者は自分の代理人だとあざ笑いに来る。ヒルクリスト氏はホーンブロワーの手口をスキン・ゲーム(いかさま)と怒り、ならばこちらも手口を選ばないと応じるがホーンブロワー氏は勝ち誇る。だがオークション会場でドーカーが連れてきた男(R・E・ジェフリー)の姿にヒルクリスト家の長男チャールズ(ジョン・ロングデン)の嫁、クロエ(フィリス・コンスタム)が蒼ざめ、卒倒せんばかりだったのをヒルクリスト夫人は見逃さなかった。ドーカーの調査で、ホーンブロワー家の自慢の美人の嫁で第1子懐妊中のクロエには、実業家の実家の倒産後に離婚請負業者が仕立てる「夫の愛人」役を勤めて生計を立てていた時期があったとドーカーが連れてきた業者の男と、依頼人の男のひとり(ジョージ・バンクロフト)によって決定的に判明する。ドーカーとヒルクリスト夫人は消極的なヒルクリスト氏とジルを押し切ってクロエの秘密の代償に隣家の土地を落札価格の半額で譲渡することをホーンブロワー氏を呼び出して受諾させる。クロエは居間のヒルクリスト氏とジルを訪ねてきて秘密を懇願し、ヒルクリスト氏とジルは同情して秘密を誓う。しかしチャールズは妻への疑惑を深めてドーカーを脅迫し、すべてを聞き出してヒルクリスト家に乗り込んできて、カーテンの影に隠れたクロエに気づかず妻を罵倒して騙されたと悔しがる。チャールズが去りジルがカーテンを開けるとクロエがいない。ヒルクリスト氏とジルは危険を察してクロエを探しに出る。チャールズの剣幕に秘密を破ったと激怒したホーンブロワー氏と、それはチャールズが脅迫したからだと言明するドーカーとヒルクリスト夫人が居間に下りてくると、沼に投身自殺したクロエの遺体が夫に運ばれてくる。こんな土地などもう居たくもない、だが必ず復讐してやると食ってかかるホーンブロワー氏にヒルクリスト氏は静粛に謝罪するが、ホーンブロワー氏は偽善者め、と罵り去っていく。実家同士は決裂するがジルとロルフは結ばれる。

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 本作は同じヒット舞台劇を原作にしたバーナード・ドクサット=プラット監督の同名作品(イギリス・オランダ'20)のリメイクで、ホーンブロワー氏役のエドマンド・グウェン、ヒルクリスト夫人役のヘレン・ヘイはサイレント版でも同じ役で出演していたそうです。「ヒッチコックの最低の作品……楽しいオークションの場面と結末部分の美しいショットだけを選り分けておくだけにしよう」とエリック・ロメールが評していますし(前出『ヒッチコック』'57)、先に引いた通りヒッチコック自身が「まったくの押しつけ企画で撮りたい映画ではなかった。何も言うことはないよ」とオムニバス・レビュー映画『エルストリー・コーリング』'30並みにあっさりと片づけていて、トリュフォーもそれ以上突っこまない(『映画術』)と『農夫の妻』『マンクスマン(マン島の人々)』『ジュノーと孔雀』並み、ないしそれ以下、つまり最低の扱いを受けています。これに『ふしだらな女』を加えてもいいですが、こうした普通映画(メロドラマ、コメディ)のヒッチコックは後年のサスペンス/スリラー映画の巨匠ヒッチコックを期待するとかえって素直に観られないので、本作『スキン・ゲーム(いんちき勝負)』までで12作中犯罪スリラー映画は3作きりだったと思えば、4本に3本は普通映画だったのがここまでのヒッチコック作品です。
 なので'20年代後年~'30年代前半の初期8年間のヒッチコックは普通映画(メロドラマ、コメディ)を主体にたまに犯罪スリラーも撮る監督で、サイレント時代~トーキー初期の映画はジャンルに特化した作品しか現在あまり顧みられませんから、つまりこの時代の普通映画を比較対象にヒッチコック作品を観る見方が現代の観客には難しいということになります。イギリス映画はハンガリー人のコルダ兄弟の活躍まで国際的にはローカルなものでした。ヒッチコック作品はイギリス国内ではほとんどがヒットした実績があり、監督がハリウッド進出後に大成功したため例外的に現在でも残っているので、同時代の映画と観較べようにも肝心のイギリス映画は観られず、せいぜいアメリカ映画、ドイツ映画、フランス映画、北欧映画、日本映画と観較べるくらいしかできません。またヒッチコック作品がイギリスでヒットしたのもアメリカ映画やドイツ映画の消化が巧みだったからと考えられ、逆に言えばイギリス時代のヒッチコック映画はアメリカ・ドイツ映画的要素を引いて考えれば当時のイギリス映画の傾向が推察できるというものでしょう。ただでさえ舞台劇が原作の上に映画としても良かれ悪しかれ演劇的要素の強い『ジュノーと孔雀』『スキン・ゲーム(いんちき勝負)』、また続く『リッチ・アンド・ストレンジ(おかしな成金夫婦)』'32、『第十七番』'32、『ウィンナー・ワルツ』'33(その次が『暗殺者の家』'34)の普通映画3作のうち、ヒッチコック自身が共同原案の『リッチ・アンド・ストレンジ(おかしな成金夫婦)』以外は『第十七番』『ウィンナー・ワルツ』はまたもや舞台劇原作ですし犯罪サスペンス『恐喝(ゆすり)』『殺人!』も原作は舞台劇なので、『ウィンナー・ワルツ』までの16作のうち9作までが舞台劇の映画化だったのが監督デビュー8年目までのヒッチコックだというイギリスの映画界事情が浮かんできます。
 舞台劇というのは映画以上に水物ですから、観客の好みの時流に合わせた、内容がすたれやすくても仕方のないものです。シェイクスピアの時代だって何十人という人気劇作家がいてシェイクスピアしか残らなかったのは、シェイクスピアが突出していたのもありますが他の劇作家のアイディアがシェイクスピアひとりで代表されていたとも言えるので、成金実業家役のホーンブロワー氏を演じた人気俳優エドマンド・グウェンの当たり役だったからサイレント時代の映画化に続いてトーキー版リメイクが企画されたという本作もヒッチコックは押しつけ企画だ、だがヒットしたと言うように、特にヒッチコックの手柄ではなくイギリス演劇界の力とイギリス映画界の技術力によって面白い、かつイギリス流に差別的で不愉快なユーモアと残酷さの効いた娯楽映画になっています。ロメールの指摘通り映画としての見所は長々、しかしスリリングに描かれるオークション(ヒロインのクロエの過去がほのめかされるのも含め)、そして悲劇的クライマックスですが、一方的に真犯人が糾弾される『殺人!』と違って登場人物全員(犠牲者含む)の愚かさが招いた悲劇ですから客観的な皮肉が効き、かつ人間の本性への悲観的洞察がある。これもヒッチコックの手柄ではないので、『ふしだらな女』『農夫の妻』や『マンクスマン』『ジュノーと孔雀』同様ただのイギリス映画としてヒッチコックのブランドを外して観れば十分楽しめ、古典イギリス映画の風格が味わえる作品です。『恐喝(ゆすり)』『殺人!』を含め古典イギリス映画は舞台劇の映画化作品が主流だった(この傾向は長く続きます)、それも今観て古風な面白さがある。もしヒッチコックが初期から犯罪サスペンス専門の映画監督だったらこれらは現代の観客には知ることのできない種類の映画だったと思えば、むしろヒッチコック初期の普通映画は違った基準で楽しむべきものでしょう。

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