●12月5日(火)
『リング』The Ring (英ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ'27)*89min, B/W, Silent; 日本未公開(特集上映、テレビ放映、映像ソフト発売)
○あらすじ 縁日名物の見世物小屋で"ワン・ラウンド・ジャック"と評判の見世物ボクサー、ジャック・サンダー(カール・ブリッソン)はどんな相手でも1ラウンドで倒して無敗を誇っていたが、ある日挑戦者のボブ・コルビー(イアン・ハンター)に初めて敗北してしまう。実はコルビーはプロボクサーで世界ヘヴィー級チャンピオンだった。コルビーのマネージャー、ウェア(フォレスター・ハーヴェイ)はジャックに目をつけ、コルビーのスパークリング・パートナーに引き抜く。やがてコルビーはジャックの婚約者メイベル(リリアン・ホール=デイヴィス)に惹かれ、メイベルに2匹の蛇の絡みあう紋様の高価な腕輪をプレゼントしてキスを迫るが、メイベルは躊躇するも腕輪は受け取る。それはコルビーがジャックを倒した懸賞金で買ったものだった。翌日ジャックはメイベルの腕輪に気づくが、メイベルは嘘をついてコルビーとの交際を隠す。ジャックはオーディションに合格しコルビーの正式なスパークリング・パートナーになる。これを機にジャックとメイベルは結婚式を上げるが、メイベルはコルビーからの思慕を思い切れない。披露宴でコルビーはジャックとの最初の戦いについて冗談を飛ばし、ジャックはこれからは妻のために誰にも負けないと宣言する。ジャックとコルビーは軽く模擬戦を披露するが、ジャックはその後花嫁がコルビーと親しげな様子なのを疑い始める。ジャックはコルビーとの公式戦を決意し、ヘヴィー級チャンピオンのタイトル戦に必要なランクに達するために次々と挑戦者を倒していき、ついにコルビーとのタイトル戦の権利を手に入れる。ジャックは友人の興行師(ハリー・テリー)やトレイナー(ゴードン・ハーカー)を招いて自宅でパーティーを開き、コルビーとの世界タイトル戦を発表しようとするが、夜中まで待ってもメイベルは現れない。友人たちが去った後、ジャックはコルビーの車で送られてきたメイベルを目撃して問い詰める。ジャックはメイベルの腕輪の意味を悟り、コルビーの肖像画を叩き壊す。ジャックはコルビーがいるクラブに行き、コルビーはジャックに一杯おごろうとするがジャックはコルビーが乾杯する前に彼をノックアウトする。 ジャックは自分が公式戦の相手だとコルビーに伝え、リングで決着をつけようと果たしあいを申し入れる。公式戦が始まり、最終ラウンドまで互角だった試合はコルビーに有利になる。ジャックはメイベルが男たちの戦いに苦しむのを見て決断を迫り、最後の力を絞ってコルビーを倒す。メイベルを取り戻したジャックはメイベルの腕輪を外してコルビーに返す。
当時の規定はどうなっていたのか、主人公もライヴァルもヘヴィー級とはとても思えない体格ですが、それは別とすれば映画の中盤でついに腕輪をコルビーが自分を倒した懸賞金で買って妻に与えたと白状させ、「だったらこの腕輪の金の出所は俺ってことだな」と主人公が妻に結婚指輪のように腕輪をする場面などからっとしたユーモアとエロティシズムがあります。これもヒッチコックが自慢しているシーンで、本作が夫人名義ながら実際はヒッチコック本人の脚本だと思わせるのもシナリオの次元で演出効果を考えた運びがほとんど決まっているからです。また本作までのヒッチコック作品では、ロンドンの下町風景も出てきますがそれも含めて、本作はアメリカ映画に近い作風が観られます(グリフィスの『散り行く花』『夢の街』などもロンドンが舞台の映画でした)。ボクシングを軸にしてテンポ良く進むからでしょう。また、ヒッチコックが自負している間接的な暗示の演出もアメリカ映画では'20年代初頭にはより洗練された例がざらにあり、それが本作の価値を落としはしませんが格別に秀でたものとは言えない一因になっています。ヒッチコックはそれまで主にラングやムルナウのドイツ映画を最先端の映画技法として目標にしていた、本作ではドイツ映画からの影響を抑えてアメリカ映画の方に向いてみた、そういう意味で新鮮な試みだったと思われます。
タイトルの『リング』がボクシングのリングと作中で重要な小道具となる腕輪(ブレスレット)に二重に掛けてあるのは言うまでもないでしょう。すなわちセックスとスポーツですが、これがヨーロッパ的とは言えずアメリカ的なテーマ設定なのもまた、言うまでもありません。映像がアメリカ映画とは異なるヨーロッパ的感覚なのでアメリカ映画の模倣には陥っていないとも言えますが、ヨーロッパ的な映像なのにテーマはアメリカ的という違和感も招いているのは否めません。たやすく男に押し切られてしまうタイプの女を演じるリリアン・ホール=デイヴィスは性的な危うさを感じさせる好演ですし、主人公のカール・ブリッソンはヒッチコックのサイレント最終作『マンクスマン(マン島の人々)』'29でまたもや寝取られ男(今度は漁師)の役で好演を見せますが、役者は悪くない、演出もことさら個性的ではないとはいえ工夫を凝らして上手くいっている割に、訴えかけてくるものや意外性に乏しい作品という印象を受けます。「凝った割にヒットしなかった」(『映画術』)というのもヒッチコックの成功作にあるサスペンスの中にエモーショナルな喚起性がともなう域に達しておらず、登場人物の図式が見えてくる全体の1/4あたりでもう結末まで読めてしまい、せっかくの技巧も生きていないからではないでしょうか。その点で、ヒッチコックが不満とする『ダウンヒル(下り坂)』や『ふしだらな女』の方がずっと作者の意図を越えた成果を上げていたように思えるのです。
●12月6日(水)
『農夫の妻』The Farmer's Wife (英ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ'28)*130min, B/W, Silent; 日本未公開(特集上映、テレビ放映、映像ソフト発売)
○あらすじ 農場主サミュエル・スウィートランド(ジェームソン・トーマス)は妻ティビー(モーリー・エリス)に先立たれて娘もすぐに嫁ぎ、家政婦のミンタ(リリアン・ホール=デイヴィス)と従僕アッシュ(ゴードン・ハーカー)の3人だけの生活になる。妻の遺言に従って再婚を決意したサミュエルは娘の結婚披露宴にやってきた女性たちの中から近隣の候補者リストを作成する。まずサミュエルは未亡人ルイーザ(ルイーズ・ハウンズ)にプロポーズするが、女性らしさのまるでない堂々たる体躯の高慢なルイーザは女性の自立を説いてプロポーズを一笑に伏す。次にサミュエルは不感症のオールドミス然とした痩せぎすのティルザ(モード・ギル)にプロポーズし、激しく拒絶されて激怒して帰ってくる。家政婦ミンタはサミュエルを心配するが従僕アッシュはサミュエルの奮闘を嘲るようになる。サミュエルは自宅のパーティーで歌手を呼んでリサイタルを開き、今度は太って若作りしたオールドミスのメアリー(オルガ・スレード)にプロポーズするが、誰があんたみたいなじいさんととあざ笑われてお前がそれを言うかと罵倒してしまい、メアリーはヒステリーを起こして卒倒する。サミュエルは落胆のあまり家政婦ミンタに諦めようとぼやくが、従僕アッシュがミンタにサミュエルが笑い物になっていて恥ずかしいよと洩らしているのを耳にして奮起し、地元の宿屋で酒場の女将をしているマーシー(ルース・メイトランド)へのプロポーズに向かう。マーシーへのプロポーズも失敗に終わるが、ミンタのサミュエルへの愛が明らかになる。一方ティルザとメアリーは相談してサミュエルからのプロポーズを受けてもよいと決めてスウィートランド家に訪ねてくる。サミュエルはミンタの存在に初めて気づき、もし求婚を受け入れてくれるなら亡き妻がミンタにプレゼントしたドレスを着てくれないか、と申し入れる。ティルザとメアリーを応対するサミュエルの前にドレスに着替えてきた美しいミンタが現れ、サミュエルはミンタを再婚相手だと紹介する。ティルザとメアリーは呆気にとられ、メアリーは再びヒステリーを起こして卒倒する。
字幕だらけという印象など特に受けないのは、主人公がプロポーズする台詞が毎回同じだから(「私は近々再婚します」「まあ、おめでとうございます」「その幸運な女性は誰だと思います?」「どなたなんですか」「おめでとう、それはあなたです!」)というのもありますが、字幕と映像が小気味よくかみあっているからでしょう。太った若作りのオールドミスのメアリーがヒステリーを起こすと当然字幕では何のフォローもない、というギャグ(台詞にわざと字幕を出さないギャグ)も本作は巧みです。フランス版タイトルと違って求婚は未亡人とオールドミスの3人に続いて世間慣れした酒場の女将、それから家政婦のミンタと5人なのですが、酒場の女将に求婚する頃にはさすがに疲れ果て、プライドも地に落ちて「短い返事でいいんです、3文字だけでも」と「Yes」と言わせたい主人公に、酒場の女将は「もっと短い言葉もあるわ」と「No」を匂わせます。原作戯曲の通りとしてもさりげなく情けないユーモアの漂う演出です。やはり原作戯曲によるとしてもエンディングでドレス姿に着替えてくるリリアン・ホール=デイヴィスは目の醒めるような美しさで、主人公がわざわざグロテスクな女性(酒場の女将は例外ですが)ばかりに求婚してきた後だけに、たぶん身分違い(本作の舞台はウェールズということになっており、屋外場面はウェールズ・ロケです)で視野に入らなかった家政婦ミンタが光り輝く場面です。発想自体は単純な嫁探しの人情劇ですし、ヒッチコック自身が脚色しているにもかかわらずサスペンスなど薬にしたくてもない作品ですが(だからヒッチコック本人も記憶に残らなかったのでしょう)、『リング』と同じジョン・J・コックスの撮影は、特に本作では北欧映画を思わせる室内セットで見事です。『快楽の園』『下宿人』のバロン・ヴェンティミグリア、『ダウンヒル(下り坂)』『ふしだらな女』のクロード・L・マクドネルと当時のイギリスの映画カメラマンはドイツ映画をよく研究した成果があり、ドイツ映画のカメラマンが研究していたのは北欧映画ですから島国の英語圏ながらイギリス映画がアメリカ映画と違うのはヨーロッパ的映像でしょう。ヒッチコックが「あまり覚えていないな」といいながら悪くも言っていないのは、サスペンスには欠けるからあまり凝りようもなかった代わり、こういう皮肉の訊いた田舎喜劇を嫌いではなかったからだと思われます。後に『ハリーの災難』という念願の田舎喜劇を撮ったのと嗜好は同じでしょう。
本作がやや切れ味が悪いのは最初から90分台の映画として作られていなかったからで、最初から短縮版94分を観ても特に不満はありませんが、130分版を観ると冗長な替わりにくどいほどの充実感があり、だったら削るのではなく最初から凝縮されたシナリオで100分未満の映画にまとめて欲しかった、というところです。まず滑り出しで臨終の床についている主人公の妻ティビーが描かれますが、それから主人公が娘を嫁に出して邸宅が主人公と家政婦ミンタ、従僕アッシュの3人だけになってしまうまでが短縮版ばかりでなく全長版でも流れが悪く、どういう時間経過で主人公の妻が亡くなり、娘が嫁に行ったかすんなり入ってきません。妻ティビーの死の場面や葬儀の場面がないのは原作戯曲通りなのかもしれませんが、娘が嫁に行って3人だけ、という場面まで主人公が寡夫になったという描写がないので(だいたい想像はつきますが、この作品は主人公が寡夫になったことから始まる話なので)重要な情報がすっぽり抜けたまま話が始まってしまった印象があります。『リング』であれだけ暗示ずくしだったのですからこの導入部は気になります。もっと詳細だったものを刈り込んでこうなったとも考えられます。妻ティビーの病床に続いてミンタが洗濯物を干すシーンが延々続きますが、えーと、妻ティビーは亡くなったということかな、というのはそのくらいで、娘の嫁入りが描かれるのなら喪が明けたくらいの描写はあってしかるべしでしょう。しかし、人情喜劇として本作はヒッチコックが自負する力作『リング』よりずっと人物に血の通った、面白い作品です。ドライヤーの家庭喜劇『あるじ』'25と似たような、アメリカの喜劇映画にはない田舎くささがあります。この田舎くささは都会的洗練とは別に純度の高いもので、一見サスペンスとは無縁だからこそしっかり観客の興味を惹きつける魅力があります。サイレント映画『農夫の妻』、およそ現代の観客にアピールしそうにない代物ながら、これがなかなかあなどれないのです。