●12月3日(日)
『ダウンヒル(下り坂)』Downhill (英ゲインズボロー'27)*82min, B/W, Silent; 日本未公開(特集上映、テレビ放映、映像ソフト発売)
○あらすじ ロンドンの貴族の子息ロディ(アイヴァ・ノヴェロ)はパブリック・スクールの名門校の生徒でラグビーのスター選手だったが、寄宿舎の相部屋にウェイトレスのメイベル(アネット・ベンソン)を引き込んだ友人ティム(ロビン・アーヴィン)を諫めるためにメイベルに紙幣を与えて追い返したばかりに、メイベルから恨まれて校長に堕胎費用を渡されたと罪をなすりつけられて、オックスフォード大学推薦進学の決まったティムをかばってティムとメイベルとの関係を秘密にするために罪をかぶってしまい、退学処分にされる。父のトーマス卿(ノーマン・マッキネル)からも勘当されて家を出たロディは何とか俳優の仕事を見つけ、親戚の遺産3万ポンドが転がりこんだのを機に意中の女優、ジュリア(イザベル・ジーンズ)にプロポーズして結婚する。だがジュリアは結婚前からのヒモのアーチー(イアン・ハンター)と図ってティムの資産を浪費・着服し、気づいたティムはイザベルと別れてパリに渡る。プロのダンサーになったロディは社交界の人気者になりジゴロの生活を楽しむが、あるばか騒ぎのパーティーの朝に、ロディに同情を寄せてくれた上品な貴婦人(シビル・ローダ)が、偶然差しこんだ朝日の光に無惨な老醜をさらけ出しているのを見て絶望する。マルセイユの貧民街で孤独な生活を送ることにしたロディは極貧の飢えに故郷ロンドンやアフリカ渡航の幻覚まで見るようになり、幻覚の中で水夫たちの憐れみを買うが、ついに窮して故郷ロンドンに帰る。するとロディの無実は家出中に証明されており、家族や学友、そして母校の人びとに暖かく迎えられたロディは再び学生生活に戻っていく。
またパリ編ではジゴロ生活、マルセイユ港のドヤ街編では阿片窟の住人なのが一目瞭然ですが、台詞字幕では意図的にぼかされています。これも映倫の目をはばかっての処置でしょう。パリ編のどんちゃん騒ぎの徹夜パーティーと明け方の空虚感(優しくしんみりと主人公に「こんな生活はいけないわ」と同情を示してくれた上品で美しい貴婦人が、朝の光で見ると実は無惨にやつれた老婆だったとわかる)はトリュフォーもパブリック・スクールの情景とともに絶賛しており、フェリーニの『甘い生活』'60の最後のエピソードよりはるかに鋭いものです。また、ドヤ街の阿片窟編になってからの15分は驚異的な一人称ショットの連続でカメラが動き出し、通常幻覚シーンはディゾルヴやオーヴァーラップなど映像処理で幻覚と表現される場合が多いのですが(『イージー・ライダー』'69ですらそうです)、ヒッチコックは映像処理を排して主観ショットで構成しているので現実と幻覚の区別がつかなくなった主人公の意識昏迷状態に踏み込んでいます。ムルナウの『最後の人』'24からの影響は明らかですが、さらに一歩進めた観があり、日本語文献・外国語文献問わずドヤ街編からロンドン帰還までの主人公の足どりに解釈の違いが文献ごとにまちまちなのはどこまでが主人公の幻覚・妄想で、現実の主人公の行動がどうなっているのか判然としないからです。「水夫たちにすら憐れまれ、アフリカ行きの船に乗るが間違ってイギリス行きの船に乗ってしまい」としている文献もありますが、実際はマルセイユ編全体が主人公の幻覚で阿片窟でヘロヘロになった挙げ句切羽詰まってロンドン帰還、と解釈するのが妥当でしょう。ヒッチコックもたいがいの映画がよくやる夢や幻覚を表すディゾルヴなどの映像処理はあえて排した、と明言しています。
映画としてもロンドン編はいかにもイギリス映画らしいズベ公女優に騙されるウブな青年(勘当されたのに親戚の遺産3万ポンドが転がりこんだのは不自然ですが)の自業自得劇、これは家出少年の世渡りを描いた『トム・ジョーンズ』からディケンズまでのイギリス文学の伝統的なパターンに出てくるようなエピソードでもありますが、それがパリ編になるといかにもフランス的な退廃した社交界を泳ぐジゴロ兼ダンサーの話になります。白塗りの主人公はルドルフ・ヴァレンティノみたいになります(ヴァレンティノもジゴロから二枚目スターになった俳優で、ヨーロッパを舞台にした映画の主人公ばかり演じていました)。これはフランス映画というよりも、ハリウッド映画が描いたようなパリでしょう。マルセイユ編になると港というのは無国籍特区ですから、ヒッチコックがやりたかったドイツ表現主義映画になる。結末ではロンドンに戻って万事めでたし(親友ティムの方はどうなった?)ですが、1本の映画で3か国映画の特色を盛り込んでいることになるので、これは原作戯曲が3部構成だからというだけでは出てこない発想でしょう。また、原作がメロドラマであっても映画の主眼が主人公の流転を追ったサスペンスにあるのも明白です。その点では、本作のアイヴァ・ノヴェロは存在感や説得力はありますがちっとも観客の共感を誘わない甘ったれのボンボンなので(やろうと思えば簡単に俳優やジゴロ、ダンサーとして成功しているし、遺産は浪費してしまうし)、こんな奴どうなろうと知ったことかという気にさせるのが物語上どうしようもない欠点でもあり、この映画はいったいどうやって話を落とすつもりだ、と醒めた見方で楽しむための映画なのが逆にサスペンスを減じている、長短相殺した要素のある作品です。しかし本作が相当大胆な実験的メロドラマなのが、この感想文で少しでもお伝えできていたらいいのですが。
●12月4日(月)
『ふしだらな女』Easy Virtue (英ゲインズボロー'27)*79min, B/W, Silent; 日本未公開(特集上映、テレビ放映、映像ソフト発売)
○あらすじ 人妻ラリータ(イザベル・ジーンズ)の離婚裁判が始まり、原告の夫オーブリー・フィルトン(フランクリン・ダイアル)は妻の不貞を主張した。しかしラリータに不貞の事実はなく、アル中で暴力的な夫の一方的な嫉妬によるものだと今や知る人はいない。ラリータは若い画家のクロード(エリック・ブランズビー・ウィリアムズ)のモデルをしていたが、クロードはラリータが夫の暴力に耐えているのに気づいて同情し、いつしかラリータを愛するようになっていた。ある日ついに泥酔してアトリエに乱入してきた夫はラリータを守ろうとするクロードともみ合いになり、護身用のピストルが暴発してクロードは絶命する。だが夫は抜け目なくクロードがラリータに書いていた手紙を法廷に提出し、陪審団はラリータに不貞の有罪判決を下す。ラリータは一躍不貞の女として話題になり、やむなくイギリスを去って名前をラリータ・グレイと改姓し、フランスのコート・ダジュールに身を置くことになる。誰からも知られずに幸福だったラリータはある日、テニスコートを通りかかってボールがぶつかってきたのをきっかけに貴族のホイットテイカー家の青年、ジョン(ロビン・アーヴィン)と知りあい、まもなく彼に求婚される。愛しているから何も問わない、というジョンの求婚を受けて結婚したラリータはジョンとともに帰国してウィッタカー家に入り、父のホイットテイカー老大佐(フランク・エリオット)に歓迎され気に入られるが、親戚の娘サラ(エニッド・スタンプ・テイラー)をジョンの嫁にと考えていた母のホイットテイカー夫人(ヴァイオレット・フェアブラザー)と二人の妹には疑惑の目を向けられる。やがてラリータが悪名高い「不貞の女」フィルトン夫人ではないかと疑い始めた夫人は娘たちに新聞記事を探させ、法廷から出てきたラリータの写真を載せた新聞記事を探し出す。夫人はラリータにこれからジョンに正体を知らせると言い渡して娘たちとジョンの部屋に向かう。老大佐は愛されているなら大丈夫、と慰めるがラリータは彼が愛しているのは家族だけです、とつぶやき、邸に立ち寄っていたサラにあなたがジョンと結婚するのよ、と告げてホイットテイカー家を去る。そして再びラリータは法廷でジョンとの離婚訴訟の被告席から立つ。法廷から出てくるラリータをカメラマンたちが取り囲む。ラリータはカメラマン、新聞記者たちを見据えて、"Shoot! There's nothing left to kill."(撮りなさい!失うものは何もないわ)と言い放つ。
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(オリジナル舞台劇版ポスター)
本作も基本的には2部構成の映画で、構成がはっきりしているのは舞台劇の脚色作品ならではのことかもしれません(演劇は幕、場の単位で区切られた構成を持つのが普通です)。第1部も第2部も破局に終わる結婚の話ですが、第1部は法廷場面から始まってヒロイン視点の回想による起訴までのいきさつが描かれます。このヒロインのアル中暴力夫は本当にどうしようもない奴で、ヒロイン役のイザベル・ジーンズは『ダウンヒル(下り坂)』では主人公を騙すヒモつきズベ公女優を演じていましたが(ヒモ役のイアン・ハンターは弁護士役で出てきます。主要キャストはゲインズボロー社の専属俳優だったのでしょう)、本作では観客の同情を誘う役。もっともそういう男と結婚して、しかも絵画モデルという危ない職業を続けているのでは脇が甘かったとしか言いようもないですが、一応悲運のヒロインとして観客を感情移入させるのには成功しています。陪審員団は容赦なくヒロインを死亡した画家(カーテン越しの揉み合いなので事故死とも自殺とも殺人とも取れるピストルの暴発。これも文献で解釈が分かれますが、事故と見るのが妥当でしょう)と不義密通の関係にあったと有罪判決を下して離婚が成立します。日本でも北原白秋が暴力夫に悩む人妻と姦通罪で告訴され巣鴨プリズン(その跡地が池袋サンシャインシティ)に投獄されたのが明治45年(1912年)、同じような事情で夫に脅迫された有島武郎が人妻と心中したのが大正12年(1923年)ですから外国のこととは言えません。離婚万歳じゃないか、と言えないのは本作のヒロインのように不貞罪で有罪離婚だと財産分与を失ってしまうので、夫は経済的な損失なしに離婚できるということです。モデルをやってはいるもののヒロインと夫は上層ブルジョワ階級以上と見られ、夫婦共有の資産はすべて夫の方にいく。逆に妻が夫を姦通罪で起訴はできないのは日本もイギリスも同じだったようですが、何しろ女性には相続権すらなかった時代です。ヒロイン自身の、または(映画には出てきませんが)実家の資産が裕福であるという設定なのは、離婚してもすぐフランスの高級避暑地に移住していることでも明らかです。
疑わしきは罰せよ、という風潮は今も昔も変わらないので、本作は現代でも観客に訴える力があるでしょう。第2部となる後半は貴族の坊ちゃん(『ダウンヒル(下り坂)』で主人公の友人ティムを演じたロビン・アーヴィン)にプロポーズされて結婚してしまい、イギリスの夫の実家で暮らし始めるもすぐに姑・小姑に疑われてまたまた離婚訴訟の法廷に立つまでの話で、誰にも身の上を知られない避暑地でのびのびしすぎたばっかりにうかつにもイギリス貴族の坊ちゃんのプロポーズを受けてしまう、というヒロインの油断も一応説得力はあります。また義父には気に入られ義母・義妹たちには疑われる、というのも類型的ですが類型ならではの自然さがあって、ヒロインが一切弁明しないのもようやく自分が甘かった、と目が醒めたというところでしょう。それでも義父の老大佐が優しいのが泣かせますが、このおじいちゃんに家長の権威がまるでないのはおそらく婿養子の立場なのだろうと思われます。映画の第1部となる前半がヒロインがいかに有罪になるか、というサスペンスならば第2部となる後半はヒロインの経歴がいつまでバレずに済むか、というサスペンスに主眼を置いているために本作は明快なスリルに富んでおり(ですから青年とヒロインの結婚自体はサスペンス以前の設定条件で、ヒッチコックが電話交換手の場面で凝っても観客にはサスペンスにはならないのです)、結末の法廷場面は一瞬で済ませて(つまり偽称結婚で有罪判決と暗示して)ラストのヒロインの大見得の場に至りますが、ヒッチコック作品中珍しく救いのない結末とされるもののヒロインのこの開き直りはこれはこれで爽快感があってアメリカの破滅型悪女映画的な痛快さがあり、かえって現代的な突き抜け方を感じさせます。自信作で会心のヒット作『下宿人』に続いて舞台劇の脚色もの2作とあってはヒッチコックには不満もあったでしょうが、作者の意図を超えて案外面白い作品になる、ということもあるでしょう。ヒッチコックでなければ撮れなかった作品ではなかったかもしれませんが、安定した力量ではデビュー作『快楽の園』から格段の進展が見られます。今回の2作でもまだ20代(サイレント作品8作はすべて20代の作品ですが)だと思うと、早すぎたかもしれないデビューを実にうまく生かせた監督だと思うのです。