三好達治(1900.8-1964.4)昭和29年9月/54歳
(撮影・浜谷浩)
詩集『測量船』第一書房「今日の詩人叢書」
第二巻、昭和5年12月20日刊(外箱)
書籍本体
三好達治揮毫色紙
三たび村野四郎(1901-1975)による「名著復刻全集 近代文学館」(日本近代文学館刊、昭和44年)収録の別冊「作品解題」で「この詩集一巻によって、新しい抒情詩人としての三好達治の名声は決定的になった」とする『測量船』評を抜粋引用しますと、
「昭和五年に出されたこの処女詩集『測量船』は、前述のように昭和新詩の記念的な名詩集とされているが、その歴史的意義は、明治大正と引きつがれてきた日本抒情詩を変革したところにある。この詩集の初期作品、たとえば『乳母車』でも『甃のうへ』を見ても、すでに抒情性の質的変化を明瞭にうかがうことができる。」
「そこにあるのは、古い抒情詩における没我の情緒ではなく、感触の冷たい燃え上ることのない情緒であって、それこそ近代主知が生んだ自我意識の所産であった。それが自然の諷詠にしろ、甘美な回顧にしろ、つねにその情緒の底に沈んでいるのは、不安に色どられた孤独、虚無感をおびた懐疑であった。そしてそれがモダニズム特有のアイロニカルな諷刺と諧謔などの主知的方法によって、新しい抒情のすがたに造形されているのであった。こうした新しい詩的情緒は、藤村にも独歩にも、また有明にも白秋にも、絶対に見出すことはできない性質のものである。当時この詩集は、幾人かの批評家によって、或いは蕉風の俳諧に通ずるものがあるとか、少しく古典的に谷川の水のように澄み渡っているとか、いずれもとんちんかんに賞讃されたけれど、後年、阪本越郎が<ニヒリズムの中に転々としているようだ>といい、吉田精一が<それは一種の虚妄の美しさ、或は美しい虚妄というものの創造であり、それが伝統的な自然や環境にすがって趣致をととのえている>と評したのは、さすがに鋭くて正しい見方というべきである。」「かくして、三好が堀辰雄、丸山薫とともに昭和抒情詩の新しい牙城『四季』を創刊したのは、その後四年目の昭和九年十月のことであった。」
行き届いた解説ですが、村野がここに上げた「この詩集の初期作品、たとえば『乳母車』でも『甃のうへ』」については「感触の冷たい燃え上ることのない情緒」や村野の引用した吉田精一の評「一種の虚妄の美しさ、或は美しい虚妄というものの創造」でこそあれ、「不安に色どられた孤独、虚無感をおびた懐疑」とまで呼べるとは思えず、やはり村野の引用した阪本越郎の評「ニヒリズムの中に転々としている」とまでは言えないでしょう。詩集の中でもっとも典型的に『測量船』時代の作風を示すと見える「菊」(「花ばかりがこの世で私に美しい……」昭和5年2月)、「郷愁」(「蝶のやうな私の郷愁!……」昭和5年2月)、「Enfance finie」(詩集初出後「詩と詩論」昭和6年4月に掲載)なども抒情と機知の融合が見事で、
蝶のやうな私の郷愁!……。蝶はいくつか籬(まがき)を越え、午後の街角(まちかど)に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣りの部屋で二時が打つ。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」
(「郷愁」全行)
――と並んで国語教科書採用率の高い、
海の遠くに島が……、雨に椿の花が堕ちた。鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。
約束はみんな壊れたね。
海には雲が、ね、雲には地球が、映つてゐるね。
空には階段があるね。
今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣(わか)れよう。床(ゆか)に私の足跡が、足跡に微かな塵が……、ああ哀れな私よ。
僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。
(「Enfance finie」全行)
――も「不安に色どられた孤独、虚無感をおびた懐疑」や「ニヒリズムの中に転々としている」例には上げられないでしょう。しかし、ほぼ年代順に並べられた詩集『測量船』中もっとも初期の創作であり(大正15年6月~翌昭和2年3月)、甘美な抒情が光る巻頭からの5編(「春の岬」「乳母車」「雪」「甃のうへ」「少年」)に続いて、散文詩、または陰惨な題材の詩が3編並び不安感が高まるのは急な、しかも用意周到な転調を感じさせます。
夕暮が四方に罩(こ)め、青い世界地図のやうな雲が地平に垂れてゐた。草の葉ばかりに風の吹いてゐる平野の中で、彼は高い声で母を呼んでゐた。
街ではよく彼の顔が母に肖(に)てゐるといつて人々がわらつた。釣針のやうに脊なかをまげて、母はどちらの方角へ、点々と、その足跡をつづけていつたのか。夕暮に浮ぶ白い道のうへを、その遠くへ彼は高い声で母を呼んでゐた。
しづかに彼の耳に聞えてきたのは、それは谺(こだま)になつた彼の叫声であつたのか、または遠くで、母がその母を呼んでゐる叫声であつたのか。
夕暮が四方に罩め、青い雲が地平に垂れてゐた。
(「谺」昭和2年3月、全行)
この湖水で人が死んだのだ
それであんなにたくさん舟が出てゐるのだ
葦(あし)と藻草(もぐさ)の どこに死骸はかくれてしまつたのか
それを見出した合図(あひづ)の笛はまだ鳴らない
風が吹いて 水を切る艪(ろ)の音櫂(かい)の音
風が吹いて 草の根や蟹の匂ひがする
ああ誰かがそれを知つてゐるのか
この湖水で夜明けに人が死んだのだと
誰かがほんとに知つてゐるのか
もうこんなに夜が来てしまつたのに
(「湖水」発表誌不詳、全行)
鹿は角に麻縄をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その青い眼はすみ、きちんと風雅に坐つてゐた。芋が一つころがつてゐた。
そとでは桜の花が散り、山の方から、ひとすぢそれを自転車がしいていつた。
脊中を見せて、少女は藪を眺めてゐた。羽織の肩に、黒いリボンをとめて。
(「村」昭和2年6月、全行)
ただ、これらの後で明るい機知の詩が多く作られますし、抒情と機知の融合の成果は「郷愁」「Enfance finie」に引いた通りです。『測量船』の特徴は「湖水」「村」の延長線上でさらに陰惨でマゾヒスティックな感覚の増した作品、主に散文詩の「鴉」や「庭」「夜」「鳥語」「私と雪と」があることです。特に「鴉」と「鳥語」の印象は強烈で、村野四郎の指摘にある「不安に色どられた孤独、虚無感をおびた懐疑」はこれらの散文詩を詩集の中心に置いた見方と言えるでしょう。『測量船』にあり、以後の三好の詩集ではほとんど見られなくなったのはこの系統にある詩です。
太陽はまだ暗い倉庫に遮ぎられて、霜の置いた庭は紫いろにひろびろと冷めたい影の底にあつた。その朝私の拾つたものは凍死した一羽の鴉であつた。かたくなな翼を紡錘(つむ)の形にたたむで、灰色の瞼(まぶた)をとぢてゐた。それを抛げてみると、枯れた芝生に落ちてあつけない音をたてた。近づいて見ると、しづかに血を流してゐた。
晴れてゆく空のどこかから、また鴉の啼くのが聞えた。
(「庭」全行、昭和4年12月)
柝(たく)の音は街の胸壁に沿つて夜どほし規則ただしく響いてゐた。それは幾回となく人人の睡眠の周囲を廻ぐり、遠い地平に夜明けを呼びながら、ますます冴えて鳴り、さまざまの方向に谺(こだま)をかへしてゐた。
その夜、年若い邏卒は草の間に落ちて眠つてゐる一つの青い星を拾つた。それはひいやりと手のひらに滲み、あたりを蛍光に染めて闇の中に彼の姿を浮ばせた。あやしんで彼が空を仰いだとき、とある星座の鍵がひとところ青い蕾(ボタン)を喪つてほのかに白く霞んでゐた。そこで彼はいそいで睡つてゐる星を深い痲酔から呼びさまし、蛍を放すときのやうな軽い指さきの力でそれを空へと還してやつた。星は眩ゆい光を放ち、初めは大きく揺れながら、やがては一直線に、束の間の夢のやうにもとの座に帰つてしまつた。
やがて百年が経ち、まもなく千年が経つだらう。そしてこの、この上もない正しい行ひのあとに、しかし二度とは地上に下りてはこないだらうあの星へまで、彼は、悔恨にも似た一条の水脈のやうなものを、あとかたもない虚空の中に永く見まもつてゐた。
(「夜」全行、昭和4年12月)
この「庭」「夜」の流れならば、まだしも抒情性を残した方向に発展させて、
今日私をして、なほ口笛を吹かせるのは何だらう?
古い魅力がまた私を誘つた。私は靴を穿いて、壁から銃を下ろした。私は栖居(すまひ)を出た。折から雪が、わづかに、眩しくもつれて、はや遅い午後を降り重ねてゐた。犬は、しかし思ひ直してまた鎖にとめた。「私は一人で行かう。」そして雪こそ、霏々(ひひ)として織るその軽い織ものから、私に路を教へた。私はそれに従つた、――寧ろいさんで。
私は林に入つた。はたと、続いて落ちる枯枝の音と鳥の羽搏きと。樹立の垂直はどこまでも重なりあつて、互に隠しあひ、それが冷めたく溜息つく雰囲気で私を支配した。私から何ものかが喪はれた。(ここには、生命があつて灯火がない。)私はそれを好んだ。恐らく私は疲れてゐたから。
やがて日没の空が見え、林がきれた。そこに時刻の波紋が現れた。私は静かに銃器に装填した。(どこかで雪が落ちた。)私は額をあげ、眼深くした帽子の庇(ひさし)を反らし、樹立にぐつと肩を寄せた。射程が目測され、私の推測が疑ひのない一点の上に結ばれた。床尾の金具が、冷めたく肩に滲みた。私は息を殺した。緊張の中に鋼(はがね)のやうな倦怠が味はれた。そして微かな最後の契機を、ただ軽く食指が残したとき、――然り、獲物はそこに現れた。(しかも、この透視の瞬間にあつて、なほ私が如何に無智な者であつただらう!)獲物の歩並(あしなみ)は注視され、引鉄(ひきがね)が落ちた。泥とともに浅い雪が飛沫をあげた。硫黄の香りが流れた。この素早い嗅覚の現在が、まるで記憶の、漠とした遠い過去のやうに思はれた。
私は獲物に向つて進んでいつた。しかし、それも狩猟者の喜びでではなかつた。獲物の野猪(しし)は、日暮(にちぼ)に黝(くろ)ずんだ肢体をなほ逞(たく)ましく横たへてゐた。その下で、流れ出る血が泥に吸はれてゐた。ふと、私は促されるやうに背後を顧みた。そして私は総(すべ)てを了解した!
私の立つてゐた樹立の蔭に、今また私と同じ人影が、黄昏から彼の推測の一点に私を切り離して、狙撃者の眼深にした帽子の庇を反らし、私と同じ外套の襟を立て、その息を殺した照準の中に、既に私を閉ぢこめてゐた。
「よろしい、もはや! 私は斃れるだらう! まるで何かの小説の中の……」
――早や、私は横ざまに打ち倒れた。銃声が轟いた……、記憶の遠い谺に。
そして、しかし今一度意識が私に帰つてきた。私は力めて、ただ眼を強く見開いた。視覚の最後の印象に、恰もそこに私自身を見るやうに、暮色の曇り空を凝視した。その凝視を続けようとした。しかし間もなく瞼は落ちた。私は傷ついて私の獲物の上に折り重なつてゐた。(あの狙撃者が、私に近づいて来るだらう。彼は、あらゆる点で私と一致してゐたから。)そして私の下の野獣が、もはやその刺(とげ)に満ちた死屍が、麻酔に入らうとする私にとつての、優しい魅力であつた。その時私は聴いたのである。私の下の死屍、寧ろ私と同じい静物から、それの中に囁く声を、「私と雪と……」
(「私と雪と」全行、昭和5年1月)
この「私と雪と」も完成度の高い詩集中の代表作ですが、「私と雪と」という措辞は本来日本語の構文ではないのが肝要です。「郷愁」で日本語の「海」とフランス語の「mer」、日本語の「母」とフランス語の「me're」を掛けたように「私と雪と」は西洋語の直訳調で、ボードレールの散文詩集の初の日本語完訳版『巴里の憂鬱』(昭和4年12月刊)の翻訳者であり東京帝国大学仏文科卒業生で、堀口大學訳編のフランス近・現代詩アンソロジー『月下の一群』(大正14年9月刊)の愛読者だった三好ならではの措辞でもあります。このはいからぶりが詩を土着的な猪狩りではなく西洋的に洗練されて抒情的なものに見せているのですが、直接的にフランス語を使って内向的に陰惨な内容を強調している例もあります。「鳥語」がそうです。
私の窓に吊された白い鸚鵡は、その片脚を古い鎖で繋がれた金環(かなわ)のもうすつかり錆びた円周を終日噛りながら、時としてふと、何か気紛れな遠い方角に空虚なものを感じたやうに、いつもきまつて同じ一つの言葉を叫ぶ。
――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。
実は、それは甲高く発音される仏蘭西語で、J'ai tue'……と云ふだけの、ほんの単純な言葉だから、こんな風に訳したのではすつかり私の空想になつてしまふのである。しかしまたこの私の空想にも理由がある。
最初私は、私の工夫から試みにそれを J'ai tue'…… le temps と補つて見て、その下で、毎日それを気にもしないで、秩序のない私の読書を続けてゐた。つまり、
――キノフモケフモワタシハムダニヒヲスゴス。
と、さう云つて、彼女は私の窓で無邪気に頸をかしげてゐたのである。そしてそれから後、ある日ふとした会話の機みから初めて、その言葉の不吉な意味を私に暗示したのは、この家の痩せて背の高い女中のローズであつた。薔薇(ローズ)と呼ばれる年とつたその女中は、今私のゐるここの一家の人人と共に、永い年月を、長崎から神戸を経て、こんな風に東京の郊外で住まふやうになるまで、彼女の運命と時間を、主家の住居の一隅でいつも正直に過ごして来たものらしい。
「……けれど、どうも変ですわね。うちの人達はみんな、それを聞くのを、きつと厭やなのに違ひありません。」
私は、それに就てはもう何も彼女から聞きたくなかつた。ただ新しく、云はばこの家族の隙間に、一室を借りただけの私にとつて、知らぬ他国から遠く移つて来た人達の、その瑣々とした、歴史の永く変遷した昔の出来事の詳しい穿鑿(せんさく)などは、も早や趣味としても好ましくなかつたのである。何故なら、凡そどのやうな事の真実も、所詮は自由なイデエの、私の空想よりも遥かに無力であつたから。
―― J'ai tue'……ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。J'ai tue'…… J'ai tue'……。
それにしても、しかしいつたい何のために、誰が誰を殺したのだらう? それも何時? どこで? どんな風にして? ――よろしい、消え去つた昔のことはどちらでもいい! それよりも先づ第一に、その言葉を信ずるなら、この金環に繋がれてゐる鳥が誰かを殺したのに相違ない。そこで一瞬の間に、私の想像がすぐに奇怪なデサンの織布(しよくふ)を織りあげる。たとへば私はここの主婦にかう云つて尋ねるだらう。
――答へて下さい、きつとかうなんでせう。昔、あなたの家のお祖父さまが、あなたの良人(マリ)に仰しやつたのです。どうかお前は、私がゐなくなつたら、もうこの国には住まないで、遠い東の、日本の国へでも行つて暮してお呉れ、この私はもうそんな遠い旅行に耐へられない年齢としになつたが、しかしお前は行つてお呉れ。どうか、それの詳しい理由は訊かないで、私の唯一の頼みだから、もうすぐ私が死んでしまつたなら、早く、私のこの願ひを実行してお呉れ。と、きつとそんな風に仰しやつたのです。あなたの良人マリに。
――さうですわ。なくなつた良人のジャンが、いつかそんなことを私に教へました。あなたもまた、それをあのジャンからいつかお聞きになつたのでせうか?
――いいえ、私はあなたのジャンを知りません。……そして、それからある日のこと、お祖父さまは朝のベッドの上で、誰も知らない間に冷めたくなつておしまひになつたのです。部屋の中には、何も平生と少しも変つたところがありませんでした。それにたつた一つお祖父さまの枕もとに吊されてあつたあの生きものの鸚鵡だけが、さうでせう、気がついて見ればその朝から、あんなに不吉なことを叫び始めたのです。それでその当座は、どうかしてあれを捨ててしまひたいとも思つて見たのでせうが、破れ靴でさへ捨て場に困るものを、まして生きてゐる鳥の捨て場所もないし、鳥の言葉が単純に、その意味の通り、お祖父さまの生涯を早めたとは、たとへ子供にだつて、素直にさうと信じらるべきことでもなし、その上あんなにお祖父さまは、永い年月の間あの鸚鵡を可愛がつてゐらつしやつたのだから、それは今になつて見れば、あのお祖父さまの思出の、生き残つてゐる唯一のものなんだし、それをこの家から失くすることは誰にも出来ないのでせう。
――さうです。それは事実と少しも違つて居りません。あなたの仰しやることは、私にとつても、この家族の誰にとつても、決して嬉しいことではありませんが、私は正直に答へませう。
たとへこの会話が、私の想像の上であらうとも、私はもうここで、それを打切らなければならない礼儀を知つてゐる。
事実はあまりに明瞭だ。夜明けに死んだジャンの父は、恐らくその生涯の半ばよりも永い間、誰にも秘密にした言葉を胸に抱いて、そのために不思議なほど無口な生涯を続けてゐたものであらう。そして幾度となく不眠の夜を過ごしたものに違ひない。実に、彼がこの世を去つた日の、その明方に到るまで、彼は予感の、それが最後の夜となりさうなあはれな恐怖に戦きながら、遥かに遠く過ぎ去つた昔の日の、制しがたかつた情熱の、激しい悔恨を繰り返してゐたのに違ひない。そして、その憂鬱の堆積の、一夜の疲労と入り混つて、僅かに慰められたやうに感じられたその明方に、もう窓硝子の白くなつてゐるのに気づかず、ふと彼は、追憶の壊れ落ちる胸から、祈りのやうに、吐息のやうに、心の忘れられない言葉を呟いたのである。すると枕もとから、まだ眠つてゐる筈のこの鸚鵡が、はつきりと、快活な夜明けの声で、その言葉を再び彼の耳に繰り返したのである。
――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。
然り、今度は鳥の言葉が彼を殺した。そしてこの鳥はそれから後、彼女のかたく繋がれた運命の、もうすつかり錆びた金環の円周の中で、永くその言葉を叫び続けてゐる。私は日に幾度となく、この、嘗ては彼の悔恨であり、今はまた彼女の悔恨であるところの、さう思へば不思議に懐かしい言葉を聞くのである。
――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。
この言葉は、しかしいつとなくそれを聞く私の心に深く滲み入り、日に日に私の記憶と入り混つて了つた。そしてやがてもう今では、嘗て昔の日に、私が人を殺したのだと、さう云つて、誰かが私の上に罪を露(あば)いたとしても、私は恐らくそれを否定しないであらう。今日も、私の無秩序な読書と、窓に咲き誇るダーリアの上で、鳥はその同じ言葉を繰り返してゐるのである。――君も私の部屋に来て、この鳥の言葉を聞くがいい。もし君にして、人を殺した記憶がなく、なほかつその遠い悔痕が欲しいなら。
(「詩神」昭和4年12月)
この「鳥語」は、三好の親友の詩人、丸山薫が昭和2年に同人誌「椎の木」(三好も参加)に発表した初期詩編との関連が阪本越郎に指摘されています。やはり鳥の鳴き声を詠んだ詩です。
静かな昼さがりの縁さきに
父は肥つて風船玉のやうにのつかり
母は半ば老いて その傍で毛糸を編む
いま 春のぎやうぎやうしも来て啼かない
この富裕に病んだ風景を
誰がさつきから泣かしてゐるのだ
オトウサンヲキリコロセ
オカアサンヲキリコロセ
それは築山の奥に咲いてゐる
黄色い薔薇の葩(はな)びらをむしりながら
またしても泪に濡れて叫ぶ
ここには見えない憂鬱な顫(ふる)へごゑであつた
オトウサンナンカキリコロセ
オカアサンナンカキリコロセ
ミンナキリコロセ
(丸山薫「病める庭園」全行)
三好の「鳥語」のオウムに対して丸山の詩の「ぎやうぎやうし」(行行子=ヨシキリ)はウグイス科の小鳥ですが、詩集に収録されるのが遅れた(第3詩集『幼年』昭和10年6月刊)一見他愛ないこの詩が、奇妙な童話性で戦後の吉岡実の悪夢的な詩との類縁を感じさせるのも面白いことです。三好の詩に戻れば、同人誌「詩神」に「鳥語」を発表した同月に、「鳥語」と同趣向の発想で、より凝縮されてさらに陰惨な印象を残す点では詩集でも随一の作品があります。
風の早い曇り空に太陽のありかも解らない日の、人けない一すぢの道の上に私は涯しない野原をさまようてゐた。風は四方の地平から私を呼び、私の袖を捉へ裾をめぐり、そしてまたその荒まじい叫び声をどこかへ消してしまふ。その時私はふと枯草の上に捨てられてある一枚の黒い上衣を見つけた。私はまたどこからともなく私に呼びかける声を聞いた。
――とまれ!
私は立ちどまつて周囲に声のありかを探した。私は恐怖を感じた。
――お前の着物を脱げ!
恐怖の中に私は羞恥と微かな憤りを感じながら、余儀なくその命令の言葉に従つた。するとその声はなほ冷やかに、
――裸になれ! その上衣を拾つて着よ!
と、もはや抵抗しがたい威厳を帯びて、草の間から私に命じた。私は惨めな姿に上衣を羽織つて風の中に曝されてゐた。私の心は敗北に用意をした。
――飛べ!
しかし何といふ奇異な、思ひがけない言葉であらう。私は自分の手足を顧みた。手は長い翼になつて両腋に畳まれ、鱗をならべた足は三本の指で石ころを踏んでゐた。私の心はまた服従の用意をした。
――飛べ!
私は促されて土を蹴つた。私の心は急に怒りに満ち溢れ、鋭い悲哀に貫かれて、ただひたすらにこの屈辱の地をあとに、あてもなく一直線に翔(かけ)つていつた。感情が感情に鞭うち、意志が意志に鞭うちながら――。私は永い時間を飛んでゐた。そしてもはや今、あの惨めな敗北からは遠く飛び去つて、翼には疲労を感じ、私の敗北の祝福さるべき希望の空を夢みてゐた。それだのに、ああ! なほその時私の耳に近く聞えたのは、あの執拗な命令の声ではなかつたか。
――啼け!
おお、今こそ私は啼くであらう。
――啼け!
――よろしい、私は啼く。
そして、啼きながら私は飛んでゐた。飛びながら私は啼いてゐた。
――ああ、ああ、ああ、ああ、
――ああ、ああ、ああ、ああ、
風が吹いてゐた。その風に秋が木葉をまくやうに私は言葉を撒いてゐた。冷めたいものがしきりに頬を流れてゐた。
(「鴉」昭和4年12月、全行)
この「鴉」は「詩と詩論」発表ですが、詩で鴉というと19世紀以来西洋文脈の詩ではポーの「大鴉」でしょう。ポーの詩では体躯堂々とした鴉が詩人にくり返し「Nevermore」と啼くのですが、三好の詩も強迫的でこれほどマゾヒスティックな詩は『測量船』でも際立っています。「鳥語」「鴉」を代表作とすれば村野四郎や阪本越郎の強調する「不安に色どられた孤独、虚無感をおびた懐疑」と「ニヒリズムの中に転々としている」性格は了解できますが、この詩集は2行分かち書き短歌の韻律を踏襲した、
春の岬旅のをはりの鴎どり
浮きつつ遠くなりにけるかも
(「春の岬」昭和2年3月、全行)
――から始まる詩集でもあるのです。また、「鳥語」「鴉」で描かれているのは「虐げられた詩人」という古典的なイメージと自意識であり、三好ばかりのオリジナルなものではなく大正期、昭和初期の詩人にも多く見られるものでした。その場合でも、やはり筆頭に上がるのは三好の師事した萩原朔太郎の、あまり好まれていない散文詩になるでしょう。しかし萩原も含めて、同時代の詩人たちの散文詩と『測量船』の散文詩を較べると三好の詩がいかに意識的な操作によって書かれているかが浮かび上がるようで、また村野の指摘する「近代主知が生んだ自我意識」の「主知的方法」と「ニヒリズム」が果たしてひとりの詩人の中で同時に一致するものかが疑問にもなるのです。
(引用詩の用字、かな遣いは初版詩集複製本に従い、明らかな誤植は訂正しました。)
(※以下次回)
(撮影・浜谷浩)
詩集『測量船』第一書房「今日の詩人叢書」
第二巻、昭和5年12月20日刊(外箱)
書籍本体
三好達治揮毫色紙
三たび村野四郎(1901-1975)による「名著復刻全集 近代文学館」(日本近代文学館刊、昭和44年)収録の別冊「作品解題」で「この詩集一巻によって、新しい抒情詩人としての三好達治の名声は決定的になった」とする『測量船』評を抜粋引用しますと、
「昭和五年に出されたこの処女詩集『測量船』は、前述のように昭和新詩の記念的な名詩集とされているが、その歴史的意義は、明治大正と引きつがれてきた日本抒情詩を変革したところにある。この詩集の初期作品、たとえば『乳母車』でも『甃のうへ』を見ても、すでに抒情性の質的変化を明瞭にうかがうことができる。」
「そこにあるのは、古い抒情詩における没我の情緒ではなく、感触の冷たい燃え上ることのない情緒であって、それこそ近代主知が生んだ自我意識の所産であった。それが自然の諷詠にしろ、甘美な回顧にしろ、つねにその情緒の底に沈んでいるのは、不安に色どられた孤独、虚無感をおびた懐疑であった。そしてそれがモダニズム特有のアイロニカルな諷刺と諧謔などの主知的方法によって、新しい抒情のすがたに造形されているのであった。こうした新しい詩的情緒は、藤村にも独歩にも、また有明にも白秋にも、絶対に見出すことはできない性質のものである。当時この詩集は、幾人かの批評家によって、或いは蕉風の俳諧に通ずるものがあるとか、少しく古典的に谷川の水のように澄み渡っているとか、いずれもとんちんかんに賞讃されたけれど、後年、阪本越郎が<ニヒリズムの中に転々としているようだ>といい、吉田精一が<それは一種の虚妄の美しさ、或は美しい虚妄というものの創造であり、それが伝統的な自然や環境にすがって趣致をととのえている>と評したのは、さすがに鋭くて正しい見方というべきである。」「かくして、三好が堀辰雄、丸山薫とともに昭和抒情詩の新しい牙城『四季』を創刊したのは、その後四年目の昭和九年十月のことであった。」
行き届いた解説ですが、村野がここに上げた「この詩集の初期作品、たとえば『乳母車』でも『甃のうへ』」については「感触の冷たい燃え上ることのない情緒」や村野の引用した吉田精一の評「一種の虚妄の美しさ、或は美しい虚妄というものの創造」でこそあれ、「不安に色どられた孤独、虚無感をおびた懐疑」とまで呼べるとは思えず、やはり村野の引用した阪本越郎の評「ニヒリズムの中に転々としている」とまでは言えないでしょう。詩集の中でもっとも典型的に『測量船』時代の作風を示すと見える「菊」(「花ばかりがこの世で私に美しい……」昭和5年2月)、「郷愁」(「蝶のやうな私の郷愁!……」昭和5年2月)、「Enfance finie」(詩集初出後「詩と詩論」昭和6年4月に掲載)なども抒情と機知の融合が見事で、
蝶のやうな私の郷愁!……。蝶はいくつか籬(まがき)を越え、午後の街角(まちかど)に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣りの部屋で二時が打つ。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」
(「郷愁」全行)
――と並んで国語教科書採用率の高い、
海の遠くに島が……、雨に椿の花が堕ちた。鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。
約束はみんな壊れたね。
海には雲が、ね、雲には地球が、映つてゐるね。
空には階段があるね。
今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣(わか)れよう。床(ゆか)に私の足跡が、足跡に微かな塵が……、ああ哀れな私よ。
僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。
(「Enfance finie」全行)
――も「不安に色どられた孤独、虚無感をおびた懐疑」や「ニヒリズムの中に転々としている」例には上げられないでしょう。しかし、ほぼ年代順に並べられた詩集『測量船』中もっとも初期の創作であり(大正15年6月~翌昭和2年3月)、甘美な抒情が光る巻頭からの5編(「春の岬」「乳母車」「雪」「甃のうへ」「少年」)に続いて、散文詩、または陰惨な題材の詩が3編並び不安感が高まるのは急な、しかも用意周到な転調を感じさせます。
夕暮が四方に罩(こ)め、青い世界地図のやうな雲が地平に垂れてゐた。草の葉ばかりに風の吹いてゐる平野の中で、彼は高い声で母を呼んでゐた。
街ではよく彼の顔が母に肖(に)てゐるといつて人々がわらつた。釣針のやうに脊なかをまげて、母はどちらの方角へ、点々と、その足跡をつづけていつたのか。夕暮に浮ぶ白い道のうへを、その遠くへ彼は高い声で母を呼んでゐた。
しづかに彼の耳に聞えてきたのは、それは谺(こだま)になつた彼の叫声であつたのか、または遠くで、母がその母を呼んでゐる叫声であつたのか。
夕暮が四方に罩め、青い雲が地平に垂れてゐた。
(「谺」昭和2年3月、全行)
この湖水で人が死んだのだ
それであんなにたくさん舟が出てゐるのだ
葦(あし)と藻草(もぐさ)の どこに死骸はかくれてしまつたのか
それを見出した合図(あひづ)の笛はまだ鳴らない
風が吹いて 水を切る艪(ろ)の音櫂(かい)の音
風が吹いて 草の根や蟹の匂ひがする
ああ誰かがそれを知つてゐるのか
この湖水で夜明けに人が死んだのだと
誰かがほんとに知つてゐるのか
もうこんなに夜が来てしまつたのに
(「湖水」発表誌不詳、全行)
鹿は角に麻縄をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その青い眼はすみ、きちんと風雅に坐つてゐた。芋が一つころがつてゐた。
そとでは桜の花が散り、山の方から、ひとすぢそれを自転車がしいていつた。
脊中を見せて、少女は藪を眺めてゐた。羽織の肩に、黒いリボンをとめて。
(「村」昭和2年6月、全行)
ただ、これらの後で明るい機知の詩が多く作られますし、抒情と機知の融合の成果は「郷愁」「Enfance finie」に引いた通りです。『測量船』の特徴は「湖水」「村」の延長線上でさらに陰惨でマゾヒスティックな感覚の増した作品、主に散文詩の「鴉」や「庭」「夜」「鳥語」「私と雪と」があることです。特に「鴉」と「鳥語」の印象は強烈で、村野四郎の指摘にある「不安に色どられた孤独、虚無感をおびた懐疑」はこれらの散文詩を詩集の中心に置いた見方と言えるでしょう。『測量船』にあり、以後の三好の詩集ではほとんど見られなくなったのはこの系統にある詩です。
太陽はまだ暗い倉庫に遮ぎられて、霜の置いた庭は紫いろにひろびろと冷めたい影の底にあつた。その朝私の拾つたものは凍死した一羽の鴉であつた。かたくなな翼を紡錘(つむ)の形にたたむで、灰色の瞼(まぶた)をとぢてゐた。それを抛げてみると、枯れた芝生に落ちてあつけない音をたてた。近づいて見ると、しづかに血を流してゐた。
晴れてゆく空のどこかから、また鴉の啼くのが聞えた。
(「庭」全行、昭和4年12月)
柝(たく)の音は街の胸壁に沿つて夜どほし規則ただしく響いてゐた。それは幾回となく人人の睡眠の周囲を廻ぐり、遠い地平に夜明けを呼びながら、ますます冴えて鳴り、さまざまの方向に谺(こだま)をかへしてゐた。
その夜、年若い邏卒は草の間に落ちて眠つてゐる一つの青い星を拾つた。それはひいやりと手のひらに滲み、あたりを蛍光に染めて闇の中に彼の姿を浮ばせた。あやしんで彼が空を仰いだとき、とある星座の鍵がひとところ青い蕾(ボタン)を喪つてほのかに白く霞んでゐた。そこで彼はいそいで睡つてゐる星を深い痲酔から呼びさまし、蛍を放すときのやうな軽い指さきの力でそれを空へと還してやつた。星は眩ゆい光を放ち、初めは大きく揺れながら、やがては一直線に、束の間の夢のやうにもとの座に帰つてしまつた。
やがて百年が経ち、まもなく千年が経つだらう。そしてこの、この上もない正しい行ひのあとに、しかし二度とは地上に下りてはこないだらうあの星へまで、彼は、悔恨にも似た一条の水脈のやうなものを、あとかたもない虚空の中に永く見まもつてゐた。
(「夜」全行、昭和4年12月)
この「庭」「夜」の流れならば、まだしも抒情性を残した方向に発展させて、
今日私をして、なほ口笛を吹かせるのは何だらう?
古い魅力がまた私を誘つた。私は靴を穿いて、壁から銃を下ろした。私は栖居(すまひ)を出た。折から雪が、わづかに、眩しくもつれて、はや遅い午後を降り重ねてゐた。犬は、しかし思ひ直してまた鎖にとめた。「私は一人で行かう。」そして雪こそ、霏々(ひひ)として織るその軽い織ものから、私に路を教へた。私はそれに従つた、――寧ろいさんで。
私は林に入つた。はたと、続いて落ちる枯枝の音と鳥の羽搏きと。樹立の垂直はどこまでも重なりあつて、互に隠しあひ、それが冷めたく溜息つく雰囲気で私を支配した。私から何ものかが喪はれた。(ここには、生命があつて灯火がない。)私はそれを好んだ。恐らく私は疲れてゐたから。
やがて日没の空が見え、林がきれた。そこに時刻の波紋が現れた。私は静かに銃器に装填した。(どこかで雪が落ちた。)私は額をあげ、眼深くした帽子の庇(ひさし)を反らし、樹立にぐつと肩を寄せた。射程が目測され、私の推測が疑ひのない一点の上に結ばれた。床尾の金具が、冷めたく肩に滲みた。私は息を殺した。緊張の中に鋼(はがね)のやうな倦怠が味はれた。そして微かな最後の契機を、ただ軽く食指が残したとき、――然り、獲物はそこに現れた。(しかも、この透視の瞬間にあつて、なほ私が如何に無智な者であつただらう!)獲物の歩並(あしなみ)は注視され、引鉄(ひきがね)が落ちた。泥とともに浅い雪が飛沫をあげた。硫黄の香りが流れた。この素早い嗅覚の現在が、まるで記憶の、漠とした遠い過去のやうに思はれた。
私は獲物に向つて進んでいつた。しかし、それも狩猟者の喜びでではなかつた。獲物の野猪(しし)は、日暮(にちぼ)に黝(くろ)ずんだ肢体をなほ逞(たく)ましく横たへてゐた。その下で、流れ出る血が泥に吸はれてゐた。ふと、私は促されるやうに背後を顧みた。そして私は総(すべ)てを了解した!
私の立つてゐた樹立の蔭に、今また私と同じ人影が、黄昏から彼の推測の一点に私を切り離して、狙撃者の眼深にした帽子の庇を反らし、私と同じ外套の襟を立て、その息を殺した照準の中に、既に私を閉ぢこめてゐた。
「よろしい、もはや! 私は斃れるだらう! まるで何かの小説の中の……」
――早や、私は横ざまに打ち倒れた。銃声が轟いた……、記憶の遠い谺に。
そして、しかし今一度意識が私に帰つてきた。私は力めて、ただ眼を強く見開いた。視覚の最後の印象に、恰もそこに私自身を見るやうに、暮色の曇り空を凝視した。その凝視を続けようとした。しかし間もなく瞼は落ちた。私は傷ついて私の獲物の上に折り重なつてゐた。(あの狙撃者が、私に近づいて来るだらう。彼は、あらゆる点で私と一致してゐたから。)そして私の下の野獣が、もはやその刺(とげ)に満ちた死屍が、麻酔に入らうとする私にとつての、優しい魅力であつた。その時私は聴いたのである。私の下の死屍、寧ろ私と同じい静物から、それの中に囁く声を、「私と雪と……」
(「私と雪と」全行、昭和5年1月)
この「私と雪と」も完成度の高い詩集中の代表作ですが、「私と雪と」という措辞は本来日本語の構文ではないのが肝要です。「郷愁」で日本語の「海」とフランス語の「mer」、日本語の「母」とフランス語の「me're」を掛けたように「私と雪と」は西洋語の直訳調で、ボードレールの散文詩集の初の日本語完訳版『巴里の憂鬱』(昭和4年12月刊)の翻訳者であり東京帝国大学仏文科卒業生で、堀口大學訳編のフランス近・現代詩アンソロジー『月下の一群』(大正14年9月刊)の愛読者だった三好ならではの措辞でもあります。このはいからぶりが詩を土着的な猪狩りではなく西洋的に洗練されて抒情的なものに見せているのですが、直接的にフランス語を使って内向的に陰惨な内容を強調している例もあります。「鳥語」がそうです。
私の窓に吊された白い鸚鵡は、その片脚を古い鎖で繋がれた金環(かなわ)のもうすつかり錆びた円周を終日噛りながら、時としてふと、何か気紛れな遠い方角に空虚なものを感じたやうに、いつもきまつて同じ一つの言葉を叫ぶ。
――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。
実は、それは甲高く発音される仏蘭西語で、J'ai tue'……と云ふだけの、ほんの単純な言葉だから、こんな風に訳したのではすつかり私の空想になつてしまふのである。しかしまたこの私の空想にも理由がある。
最初私は、私の工夫から試みにそれを J'ai tue'…… le temps と補つて見て、その下で、毎日それを気にもしないで、秩序のない私の読書を続けてゐた。つまり、
――キノフモケフモワタシハムダニヒヲスゴス。
と、さう云つて、彼女は私の窓で無邪気に頸をかしげてゐたのである。そしてそれから後、ある日ふとした会話の機みから初めて、その言葉の不吉な意味を私に暗示したのは、この家の痩せて背の高い女中のローズであつた。薔薇(ローズ)と呼ばれる年とつたその女中は、今私のゐるここの一家の人人と共に、永い年月を、長崎から神戸を経て、こんな風に東京の郊外で住まふやうになるまで、彼女の運命と時間を、主家の住居の一隅でいつも正直に過ごして来たものらしい。
「……けれど、どうも変ですわね。うちの人達はみんな、それを聞くのを、きつと厭やなのに違ひありません。」
私は、それに就てはもう何も彼女から聞きたくなかつた。ただ新しく、云はばこの家族の隙間に、一室を借りただけの私にとつて、知らぬ他国から遠く移つて来た人達の、その瑣々とした、歴史の永く変遷した昔の出来事の詳しい穿鑿(せんさく)などは、も早や趣味としても好ましくなかつたのである。何故なら、凡そどのやうな事の真実も、所詮は自由なイデエの、私の空想よりも遥かに無力であつたから。
―― J'ai tue'……ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。J'ai tue'…… J'ai tue'……。
それにしても、しかしいつたい何のために、誰が誰を殺したのだらう? それも何時? どこで? どんな風にして? ――よろしい、消え去つた昔のことはどちらでもいい! それよりも先づ第一に、その言葉を信ずるなら、この金環に繋がれてゐる鳥が誰かを殺したのに相違ない。そこで一瞬の間に、私の想像がすぐに奇怪なデサンの織布(しよくふ)を織りあげる。たとへば私はここの主婦にかう云つて尋ねるだらう。
――答へて下さい、きつとかうなんでせう。昔、あなたの家のお祖父さまが、あなたの良人(マリ)に仰しやつたのです。どうかお前は、私がゐなくなつたら、もうこの国には住まないで、遠い東の、日本の国へでも行つて暮してお呉れ、この私はもうそんな遠い旅行に耐へられない年齢としになつたが、しかしお前は行つてお呉れ。どうか、それの詳しい理由は訊かないで、私の唯一の頼みだから、もうすぐ私が死んでしまつたなら、早く、私のこの願ひを実行してお呉れ。と、きつとそんな風に仰しやつたのです。あなたの良人マリに。
――さうですわ。なくなつた良人のジャンが、いつかそんなことを私に教へました。あなたもまた、それをあのジャンからいつかお聞きになつたのでせうか?
――いいえ、私はあなたのジャンを知りません。……そして、それからある日のこと、お祖父さまは朝のベッドの上で、誰も知らない間に冷めたくなつておしまひになつたのです。部屋の中には、何も平生と少しも変つたところがありませんでした。それにたつた一つお祖父さまの枕もとに吊されてあつたあの生きものの鸚鵡だけが、さうでせう、気がついて見ればその朝から、あんなに不吉なことを叫び始めたのです。それでその当座は、どうかしてあれを捨ててしまひたいとも思つて見たのでせうが、破れ靴でさへ捨て場に困るものを、まして生きてゐる鳥の捨て場所もないし、鳥の言葉が単純に、その意味の通り、お祖父さまの生涯を早めたとは、たとへ子供にだつて、素直にさうと信じらるべきことでもなし、その上あんなにお祖父さまは、永い年月の間あの鸚鵡を可愛がつてゐらつしやつたのだから、それは今になつて見れば、あのお祖父さまの思出の、生き残つてゐる唯一のものなんだし、それをこの家から失くすることは誰にも出来ないのでせう。
――さうです。それは事実と少しも違つて居りません。あなたの仰しやることは、私にとつても、この家族の誰にとつても、決して嬉しいことではありませんが、私は正直に答へませう。
たとへこの会話が、私の想像の上であらうとも、私はもうここで、それを打切らなければならない礼儀を知つてゐる。
事実はあまりに明瞭だ。夜明けに死んだジャンの父は、恐らくその生涯の半ばよりも永い間、誰にも秘密にした言葉を胸に抱いて、そのために不思議なほど無口な生涯を続けてゐたものであらう。そして幾度となく不眠の夜を過ごしたものに違ひない。実に、彼がこの世を去つた日の、その明方に到るまで、彼は予感の、それが最後の夜となりさうなあはれな恐怖に戦きながら、遥かに遠く過ぎ去つた昔の日の、制しがたかつた情熱の、激しい悔恨を繰り返してゐたのに違ひない。そして、その憂鬱の堆積の、一夜の疲労と入り混つて、僅かに慰められたやうに感じられたその明方に、もう窓硝子の白くなつてゐるのに気づかず、ふと彼は、追憶の壊れ落ちる胸から、祈りのやうに、吐息のやうに、心の忘れられない言葉を呟いたのである。すると枕もとから、まだ眠つてゐる筈のこの鸚鵡が、はつきりと、快活な夜明けの声で、その言葉を再び彼の耳に繰り返したのである。
――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。
然り、今度は鳥の言葉が彼を殺した。そしてこの鳥はそれから後、彼女のかたく繋がれた運命の、もうすつかり錆びた金環の円周の中で、永くその言葉を叫び続けてゐる。私は日に幾度となく、この、嘗ては彼の悔恨であり、今はまた彼女の悔恨であるところの、さう思へば不思議に懐かしい言葉を聞くのである。
――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。
この言葉は、しかしいつとなくそれを聞く私の心に深く滲み入り、日に日に私の記憶と入り混つて了つた。そしてやがてもう今では、嘗て昔の日に、私が人を殺したのだと、さう云つて、誰かが私の上に罪を露(あば)いたとしても、私は恐らくそれを否定しないであらう。今日も、私の無秩序な読書と、窓に咲き誇るダーリアの上で、鳥はその同じ言葉を繰り返してゐるのである。――君も私の部屋に来て、この鳥の言葉を聞くがいい。もし君にして、人を殺した記憶がなく、なほかつその遠い悔痕が欲しいなら。
(「詩神」昭和4年12月)
この「鳥語」は、三好の親友の詩人、丸山薫が昭和2年に同人誌「椎の木」(三好も参加)に発表した初期詩編との関連が阪本越郎に指摘されています。やはり鳥の鳴き声を詠んだ詩です。
静かな昼さがりの縁さきに
父は肥つて風船玉のやうにのつかり
母は半ば老いて その傍で毛糸を編む
いま 春のぎやうぎやうしも来て啼かない
この富裕に病んだ風景を
誰がさつきから泣かしてゐるのだ
オトウサンヲキリコロセ
オカアサンヲキリコロセ
それは築山の奥に咲いてゐる
黄色い薔薇の葩(はな)びらをむしりながら
またしても泪に濡れて叫ぶ
ここには見えない憂鬱な顫(ふる)へごゑであつた
オトウサンナンカキリコロセ
オカアサンナンカキリコロセ
ミンナキリコロセ
(丸山薫「病める庭園」全行)
三好の「鳥語」のオウムに対して丸山の詩の「ぎやうぎやうし」(行行子=ヨシキリ)はウグイス科の小鳥ですが、詩集に収録されるのが遅れた(第3詩集『幼年』昭和10年6月刊)一見他愛ないこの詩が、奇妙な童話性で戦後の吉岡実の悪夢的な詩との類縁を感じさせるのも面白いことです。三好の詩に戻れば、同人誌「詩神」に「鳥語」を発表した同月に、「鳥語」と同趣向の発想で、より凝縮されてさらに陰惨な印象を残す点では詩集でも随一の作品があります。
風の早い曇り空に太陽のありかも解らない日の、人けない一すぢの道の上に私は涯しない野原をさまようてゐた。風は四方の地平から私を呼び、私の袖を捉へ裾をめぐり、そしてまたその荒まじい叫び声をどこかへ消してしまふ。その時私はふと枯草の上に捨てられてある一枚の黒い上衣を見つけた。私はまたどこからともなく私に呼びかける声を聞いた。
――とまれ!
私は立ちどまつて周囲に声のありかを探した。私は恐怖を感じた。
――お前の着物を脱げ!
恐怖の中に私は羞恥と微かな憤りを感じながら、余儀なくその命令の言葉に従つた。するとその声はなほ冷やかに、
――裸になれ! その上衣を拾つて着よ!
と、もはや抵抗しがたい威厳を帯びて、草の間から私に命じた。私は惨めな姿に上衣を羽織つて風の中に曝されてゐた。私の心は敗北に用意をした。
――飛べ!
しかし何といふ奇異な、思ひがけない言葉であらう。私は自分の手足を顧みた。手は長い翼になつて両腋に畳まれ、鱗をならべた足は三本の指で石ころを踏んでゐた。私の心はまた服従の用意をした。
――飛べ!
私は促されて土を蹴つた。私の心は急に怒りに満ち溢れ、鋭い悲哀に貫かれて、ただひたすらにこの屈辱の地をあとに、あてもなく一直線に翔(かけ)つていつた。感情が感情に鞭うち、意志が意志に鞭うちながら――。私は永い時間を飛んでゐた。そしてもはや今、あの惨めな敗北からは遠く飛び去つて、翼には疲労を感じ、私の敗北の祝福さるべき希望の空を夢みてゐた。それだのに、ああ! なほその時私の耳に近く聞えたのは、あの執拗な命令の声ではなかつたか。
――啼け!
おお、今こそ私は啼くであらう。
――啼け!
――よろしい、私は啼く。
そして、啼きながら私は飛んでゐた。飛びながら私は啼いてゐた。
――ああ、ああ、ああ、ああ、
――ああ、ああ、ああ、ああ、
風が吹いてゐた。その風に秋が木葉をまくやうに私は言葉を撒いてゐた。冷めたいものがしきりに頬を流れてゐた。
(「鴉」昭和4年12月、全行)
この「鴉」は「詩と詩論」発表ですが、詩で鴉というと19世紀以来西洋文脈の詩ではポーの「大鴉」でしょう。ポーの詩では体躯堂々とした鴉が詩人にくり返し「Nevermore」と啼くのですが、三好の詩も強迫的でこれほどマゾヒスティックな詩は『測量船』でも際立っています。「鳥語」「鴉」を代表作とすれば村野四郎や阪本越郎の強調する「不安に色どられた孤独、虚無感をおびた懐疑」と「ニヒリズムの中に転々としている」性格は了解できますが、この詩集は2行分かち書き短歌の韻律を踏襲した、
春の岬旅のをはりの鴎どり
浮きつつ遠くなりにけるかも
(「春の岬」昭和2年3月、全行)
――から始まる詩集でもあるのです。また、「鳥語」「鴉」で描かれているのは「虐げられた詩人」という古典的なイメージと自意識であり、三好ばかりのオリジナルなものではなく大正期、昭和初期の詩人にも多く見られるものでした。その場合でも、やはり筆頭に上がるのは三好の師事した萩原朔太郎の、あまり好まれていない散文詩になるでしょう。しかし萩原も含めて、同時代の詩人たちの散文詩と『測量船』の散文詩を較べると三好の詩がいかに意識的な操作によって書かれているかが浮かび上がるようで、また村野の指摘する「近代主知が生んだ自我意識」の「主知的方法」と「ニヒリズム」が果たしてひとりの詩人の中で同時に一致するものかが疑問にもなるのです。
(引用詩の用字、かな遣いは初版詩集複製本に従い、明らかな誤植は訂正しました。)
(※以下次回)