エリック・ロメールの長編劇映画監督デビュー作は1962年本国(フランス)公開の『獅子座』ですが、日本初一般公開作品は1983年の長編第10作『海辺のポーリーヌ』(1985年6月公開)でした。ロメールの存在自体は早く知られ、映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の映画批評家から監督デビューしたクロード・シャブロル('58年初長編)、フランソワ・トリフォー(同'59年)、ジャン=リュック・ゴダール(同'60年)と互して'59年には『獅子座』を完成させていましたが、やはり日本初一般公開作品が1988年の長編第12作『彼女たちの舞台』(1991年2月公開)になったジャック・リヴェットとともに長い間非商業施設の特殊上映でしか作品が紹介されていない伝説的映画監督だったのです。リヴェットの長編デビュー作『パリはわれらのもの』も'58年から2年がかりで完成され、本国公開はようやく'61年と難航した作品でしたが、『獅子座』は完成後も上映のあてが立たず3年間お蔵入りした後'62年にようやく単館公開されたいわくつきの作品になります。リヴェットが1928年生まれ、シャブロルとゴダールが1930年生まれ、トリフォーが1932年生まれと監督デビューは早かったのに較べてロメールは1920年生まれ、自主製作ながらロメールとリヴェットが1950年頃から短編映画を撮り続けていたのに、この二人の長編デビュー作は不遇でした。1971年刊の佐藤忠男『ヌーベルバーグ以後』は'50年代末~'60年代の世界映画の新たな潮流をまとめたコンパクトな好著で、シャブロルの『いとこ同士』、トリフォーの『大人は判ってくれない』、ゴダールの『勝手にしやがれ』と並び匹敵する作品として『パリはわれらのもの』と『獅子座』に的確な理解と評価がされています。しかし『獅子座』は1990年まで日本では一般公開されず、『パリは~』に至っては2017年6月にようやく日本版の映像ソフトが出たほどで、リヴェットやロメールの初期作品はあまり観られているとは言えません。ロメールの場合は『海辺のポーリーヌ』が海で水着で女子高生でひと夏の恋と手頃な内容だったので夏休み映画として公開されたので(リヴェットの『彼女たちの舞台』も演劇サークルの女子大生4人の青春ドラマ扱いでした)、2時間半かけて謎だらけの陰謀劇が謎のまま終わる『パリは~』や道楽者の中年男がホームレスになってうろうろする『獅子座』はフランス本国ですら一般の観客には受けず、批評家と一部の熱心な観客からしか注目されなかったのです。リヴェットはその後'80年代まで寡作を強いられますが、ロメールは中短編を経て長編劇映画第2作『コレクションする女』'67でベルリン国際映画祭・銀熊賞を受賞し、長編第3作『モード家の一夜』'69で全米映画批評家協会賞・脚本賞、ニューヨーク映画批評家協会賞・脚本賞、第4作『クレールの膝』'70ではフランスの年間最優秀映画賞であるルイ・デリュック賞を受賞し、一流監督として認められます。長編第5作『愛の昼下がり』'72で1963年の中短編『モンソーのパン屋の女の子』『シュザンヌの生き方』から始まる、ロメールの出世作となった連作「六つの教訓話」シリーズは完結しますので、そこまでを初期ロメール作品としてDVDのオマケについている初期の自主製作短編もまとめて観直してみました。
●11月25日(土)
『獅子座』Le Signe du lion (AJYMフィルム'59製作、'62公開)*100min, B/W; 日本公開1990年12月
(キネマ旬報外国映画紹介より)
[ 解説 ] 自称作曲家の中年ボヘミアンが、浮き沈みの激しい獅子座の運勢にもてあそばれ、不運と幸運の間を駆けめぐる様を描いた心理ドラマ。「緑の光線」のエリック・ロメールの35ミリ長編処女監督作であり、同じ年に製作された「勝手にしやがれ」や「大人は判ってくれない」と並ぶヌーヴェル・ヴァーグの記念碑的作品である。製作はクロード・シャブロル。伯母の遺産でプロダクションを興したシャブロルの逸話が、この作品にヒントを与えたとも言われている。台詞は「いとこ同志」「太陽がいっぱい」なども手掛けたポール・ジェゴフ。撮影は、クルーゾーの「密告(1943)」やコクトーの「オルフェ」などのニコラ・エイエ。主演のジェス・ハーンは、B級映画に数多く出演していたがこれが初主演作。この作品はゴダール、トリュフォーらのヌーヴェル・ヴァーグのスターの陰に隠れ、製作されてから3年後の1962年5月2日にパリ1館でしかロードショー公開されなかったという不遇の道を歩んだが、同年のカイエ・デュ・シネマ誌ではベスト5に選ばれ批評的には決して悪くなかった。
[ あらすじ ] 6月22日…自称作曲家ピエール(ジェス・ハーン)のもとに一通の電報が届く。伯母が死に、その莫大な遺産が彼と従兄に遺されたというのだ。突然の吉報に有頂天になったピエールは、さっそくパリ・マッチ誌で働くジャン・フランソワ(ヴァン・ドード)を呼び出して金を借り、仲間を呼び集めて派手にパーティを楽しむ。7月13日…友人たちの多くはヴァカンスに出かけてしまった。しかし、ピエールはアパルトマンから追い立てられ、小さなホテルに身をおいていた。伯母の遺産は遺言で全額従兄の手に渡ってしまったのだ。ホテル代さえなく、頼みの綱のジャン・フランソワも出張中で何度電話してもつかまらない。7月30日…セーヌ河畔の古本屋で本を売り、パンとアンチョビを買うピエール。やがてホテルも追い出された彼は偶然友人に会い、仕事を紹介されるが、ようやくたどり着いた郊外の家に元締めは留守。金もなく歩いてセーヌ河畔まで戻ったピエールだが、市場で万引きをしようとして、店主にこっぴどく殴られる。そこを助けてくれたのはルンペン(ジャン・ル・プーラン)だった。ピエールは彼について、カフェでパフォーマンスの相手を務めることになる。8月22日…ヴァカンスの季節も終わり、ジャン・フランソワも出張から戻って来た。ピエールの身を案じる彼は友人たちに居場所を尋ねるが誰もが無関心。そんな折、新聞に記事が出た。ピエールの従兄が死に、遺産が彼に転がり込むことなったのだ。それを知ってピエールは有頂天になるが……。
*
主人公がホームレスという設定の映画で、もっとも有名なのはチャップリンの短編喜劇(1914年~1918年)でしょうがそれは喜劇こそなので、チャップリンですらドラマ性が不可欠な長編映画では主人公がホームレスの設定は『街の灯』'31くらいですから、シリアスな長編劇映画ではめったにないでしょう。西部劇や時代劇に登場する流れ者も一応職業なので該当しないとすれば、ノルウェーのノーベル賞作家クヌート・ハムスン(1859-1952)の出世作で世界初のホームレス小説と言われる長編小説『飢え』1890に相当するようなホームレス映画は本作の前にはジャン・ルノワールの『素晴らしき放浪者』'32と小津安二郎の『東京の宿』'35、後にはレオス・カラックスの『ポン・ヌフの恋人』'91くらいしか思い当たりませんが、ルノワール作品はホームレスを食客に迎えたブルジョワ一家の騒動を描いた風刺コメディ、カラックス作品は激しい恋愛ドラマなので力点はホームレス生活を描くことではなく、社会の規範から逸れた人間と社会規範に護られた人間の社会の対比から話を作り出しているものです。高校の文学教師をしながら映画批評を書き、夏休みを利用して本作を監督したロメールがハムスンの『飢え』を知らないわけはなく(直接に意識していたとは限りませんが)、本作がチャップリンともルノワールとも違う、孤独なホームレスの生活描写を主眼とした作品なのは、当時フランスには紹介されていなかった『東京の宿』(これは幼い二人の息子連れの男ですが)と並んで際立っています。あるいは第二次世界大戦敗戦直後のイタリアのネオ・レアリズモ作品に類似した題材の映画があるかもしれません。ゴミ捨て場を漁って生ゴミにありつくシーンなど笑えない諧謔があります。
本作を選んだゴダール選の1962年映画ベストテンは錚々たるもので、1位『ハタリ!』(ホークス)、2位『ヴァニーナ・ヴァニニ』(ロッセリーニ)、3位『鏡の中にある如く』(ベルイマン)、4位『突然炎のごとく』(トリフォー)、5位『獅子座』、6位『女と男のいる舗道』(ゴダール)、7位『戦場』(ドフジェンコ)、8位『乾いた太陽』(リチャード・ブルックス)、9位『すごい野郎』(クロード・ド・ジブレ)、10位『昼下りの決闘』(ペキンパー)と未見の作品も入っていますが、この内7、8本でも'62年と限定せずに映画史ベストテン級の作品が並んでいるのは壮観です。ゴダールの最高傑作のひとつ『女と男の~』をトリフォー、ロメールより少し下位(それでも6位)に置いているのは謙譲と自信の両方が表れていて面白いですが、本作は佐藤忠男氏が前記著書で「浮浪者の目から見たパリ」という着想から描かれる現実の不安感、その心象が要となっていると的確に評しています。1971年の時点で佐藤氏の理解は行き届いていて、同書ではヌーヴェル・ヴァーグの起点がロッセリーニとブレッソンにあるとはっきり指摘しており、これは佐藤氏の独断ではなくゴダールやトリフォーたちの発言や批評でも明言されていることですが、彼らと同世代の佐藤氏(1930年生まれ)はロッセリーニの『戦火のかなた』'46やブレッソンの『抵抗』'56の初公開時の衝撃に裏打ちされた実感による共感を伴った理解なのでロッセリーニもブレッソンも過去の映画になっていた'70年代にはかえって浸透しない映画史観でした。また'70年代にはロメールやリヴェットは日本未紹介ながら中途半端に古い監督になっていましたし、ポピュラーな大ヒット作を出したわけでもないので話題作を持つ後進の若手監督よりも一般公開が遅れてしまいます。ロメールはちょうど親しみやすい作品を作り始めた頃に新作が順次公開されたので、さかのぼって初期作品から全作品が劇場公開、また特殊上映であっても映像ソフト発売されました。いまだに未紹介作品の残るリヴェットよりも恵まれていると言えますが、『獅子座』は「カイエ」派ヌーヴェル・ヴァーグ監督のデビュー作でもひときわ大胆な作品です。
ひと足先に日本の太陽族映画のブームが先駆をつけていましたが、ヌーヴェル・ヴァーグの作品の多くは青年世代を描いた映画でもありました。監督たちも戦後に成人した世代でしたし、映画界自体も人口分布の変化から年齢層の青年化した観客への対応を迫られており、それまでの大人向けの映画のような社会的地位のある登場人物を描いた映画ではなく青年世代をそのまま描いた映画が求められていました。シャブロル、トリフォー、ゴダール、リヴェットらのデビュー作も主人公たちは青年(トリフォーの場合は少年)です。カイエ派の中で唯一40男で家庭を持ち、ボヘミアンだったシャブロルたちと違って教職という堅い職に就いていたロメールが題材に選んだのが、ホームレスに転落していく中年独身ボヘミアンというのは相当な皮肉のこもった着想です。これは社会的地位の確定しない青年層に向けた陰画でもありますし、親の仕送りやアルバイトでぶらぶらしながらでかい夢を見て暮らしているパリの多くの青年~中年ボヘミアン全体への皮肉にもなるので、誇張したコメディにもなりますし、またコメディにした方が観客へのサーヴィスにもなりますが、そういう顧慮や媚びは一切ありません。また観客の共感を誘うような視点も排しています。それだけ高いレベルの鑑賞を一般観客にも要求しているので、長編デビュー作で試みるにはあまりに挑発的でもあり、またデビュー作以外ではできない試みでもあります。
カイエ派のヌーヴェル・ヴァーグ監督が共通して目指したのは映画の自然な流露感にあると思いますが、ゴダールやリヴェットの場合は即興的な偶発性、シャブロルはちょっと厄介ですがシニカルな機知に富み、トリフォーの場合は一人称映画的な個人性に特色が発揮されていると一応は言えそうで、ロメールは一見そのどれでもでありそうで、カイエ派の仲間の誰よりも徹底した個人映画なのが最大の特徴でしょう。商業劇映画はスタッフ、キャスト含めて100人~1000人単位の規模の人員で作られる集団製作ですし、監督の作家性を主張したカイエ派の映画でも事情は同じです。またトリフォーのように自伝的な映画、ゴダール、またシャブロルのように強烈に個性的な映画をデビュー作にしても観客への訴求力は共感に基づくことから免れられません。それが商業映画としての消費される宿命なら、ロメールとリヴェットは商業映画デビュー作でとても商業映画とは言えないような作品を作ってしまった人でしょう。リヴェットについてはさておき、ロメールの場合は映画の集団製作のプロセス抜きにいきなり映画があるような個人映画的感覚があり、それが自己満足とは違うのはこれも観客の鑑賞を求めて、観客の理解をもって初めて完結する映画であることです。ただしそれは共感や陶酔ではなく、従来の劇映画を楽しむのとは異なる鑑賞基準を観客に求めているので、ロメール(そしてリヴェット)は長編第2作を撮る機会をまるまる5年あまり待つことになりました。
しかしリヴェットの『パリはわれらのもの』同様、本作はひとりの映画監督の発想の原点が凝縮されたデビュー作で、一見似ても似つかない恋愛映画の監督となるロメールですがじっくり観るとこれが出発点と納得のいく作品です。一般的な映画としては異色作でしょうがロメール作品と思えば異色でも何でもないことからもそれは明らかで、感嘆すべきはこれほど突拍子もない、自主製作短編しか経験のない監督の映画に、よく意図を汲んだスタッフとキャストが集まったことです。本作に「隙のない完成度」と言うのは似合わないようでもあり、しかしそれが決して筋違いでもないのは動かし難い確かな表現に達していることでもわかります。また本作はロメール作品の原点ではありますが、敷居が高そうでいて案外そうでもないのはデビュー作ならではの一回性が魅力となっているからなのも間違いないでしょう。こういう映画は若いうちに観て、面白くも何ともなくても後から効いてくる種類のものです。
●11月26日(日)
「六つの教訓話」シリーズ (Six contes moraux)第1話「モンソーのパン屋の女の子」La Boulange're de Monceau (レ・フィルム・デュ・ロザンジュ'63製作、'74公開)*26min, B/W; 日本公開1996年8月
「六つの教訓話」シリーズ (Six contes moraux)第2話『シュザンヌの生き方』La Carrie're de Suzanne (レ・フィルム・デュ・ロザンジュ'63製作、'74公開)*53min, B/W; 日本公開1996年8月
(キネマ旬報外国映画紹介より)
『モンソーのパン屋の女の子』
[ 解説 ] ヌーヴェルヴァーグの名匠エリック・ロメールの初期の短編で、「六つの教訓話」シリーズの第1作。製作・主演はステュディオ・アフリカのG・ドロクレスと、ロメールと共に製作会社「レ・フィルム・デュ・ロザンジュ」を設立し、のちに監督となったバルベ・シュロデール(バーベット・シュローダー)。ロメールは最初、このシリーズの映画化の予算を得られず、とりあえず小説の形で執筆しており、原作小説集の形でも出版している(邦訳・早川書房)。撮影はジャン=ミシェル・ムーリスとブリュノ・バルベで、ゼンマイ式の小型カメラで撮影された関係でショットの長さは最長で20秒、撮影は無声で音は編集後に付け加えられている。語り手の主人公の声は音声録音時にバルベ・シュロデールの都合がつかず、のち「田舎の日曜日」「ひとりぼっちの狩人たち」を監督するベルトラン・タヴェルニェが声を吹き替えた。共演は「ハタリ」のミシェル・ジラルドンほか。
[ あらすじ ] 私(ベルベ・シュロデール)は法学生、親友のシュミット(フレド・ユンク)と一緒のとき、シルヴィ(ミシェル・ジラルドン)とすれ違い、彼女に興味を覚える。いざこざがあった後、私はたまたま彼女と道でぶつかって再会、荷物を落としてしまったお詫びにとお茶に誘うが、今日は忙しいからと断られる。そのご一週間たっても彼女から連絡はない。私はシルヴィを探して町を歩きまわり、毎日のように同じパン屋でサブレを買うようになる。シルヴィが現れないのでやけになった私はこのパン屋の売り子ジュリエット(クローディーヌ・スブリエ)をデートに誘う。承諾の印は、土曜にサブレを注文したときに二枚包むこと。約束の土曜、彼女はサブレを二枚包み、私は店の外で待つことにする。そこへシルヴィが通りかかり、私は慌てて彼女を食事に誘った。シルヴィは実はこのパン屋の向かいに住んでおり、足を捻挫して二週間ほど家から出られなかったのだが、ただ毎日窓から私のことを見ていたのだという。私はシルヴィと結婚する。半年後、例のパン屋に戻ってみると、売り子は別の娘に代わっていた。
『シュザンヌの生き方』
[ 解説 ] ヌーヴェルバーグ、「カイエ・デュ・シネマ」派のリーダー格であるエリック・ロメールの「六つの教訓話」シリーズ第2作。製作はロメールと共に製作会社「レ・フィルム・デュ・ロザンジュ」を設立し、のちに監督となったバルベ・シュロデール(アメリカ進出後はバーベット・シュローダー)。脚本・台詞もロメール自身。音楽にはモーツァルト作曲、歌劇『フィガロの結婚』の抜粋が使われている。出演はカトリーヌ・セー、フィリップ・ブーザン、クリチャン・シャリエールのほか、のちに教訓話の第3話『コレクションする女』(特別上映のみ)や「リスボン物語」に主演したパトリック・ボーショー、のちに「ママと娼婦」やロメールの「O侯爵夫人」などを製作するピエール・コトレルが顔を出している。
[ あらすじ ] 薬学科の学生ベルトラン(フィリップ・ブーザン)が友人ギヨーム(クリスチャン・シャリエール)とカフェで会っているとき、ギヨームはたまたま隣に座ったシュザンヌ(カトリーヌ・セー)に声をかける。ギヨームは彼女を自宅のパーティーに誘う。パーティーでベルトランは密かに心を寄せるアイルランド人留学生のソフィー(ディアーヌ・ウィルキンソン)と話したがったのだが、すでにギヨームのべったりのシュザンヌのことばかりが目につく。招待客が帰ったあと、ギヨーム、シュザンヌ、それにベルトランの三人は降霊術をやる。ギヨームは夜も遅いから二人に泊まるようにいい、シュザンヌを母の寝室に寝かせるが、そのあと彼女に合流する。ベルトランは二人の寝ている側から上着をとって帰る。その後一週間、シュザンヌはギヨームにぞっこんだが、彼の方は迷惑している。ベルトランはシュザンヌを軽蔑しつつも同情する。シュザンヌは彼を商業高等学院の学園祭に誘う。そこにはソフィーも来ているはずだ、と言って。シュザンヌのおかげでベルトランはソフィーと初めて話すことができ、ソフィーが真面目な彼がおよそ正反対の性格のギヨームと親友同士なのを不思議がる。翌日から、ギヨームは毎日のようにシュザンヌにたかって彼女をなぶりものにする。ある日シュザンヌは、ギヨームと別れて昨夜知り合ったスコットランド人と結婚することにしたと言う。ベルトランが復活祭の休みから戻り、両親から貰った洋服代4万フランを本のページに隠す。ある晩、タクシー代もなくなったシュザンヌが彼の部屋に泊まる。それからしばらくして、ベルトランは例の4万フランがなくなっているのに気づき、シュザンヌを疑うが、ソフィーは憤慨して犯人はギヨームに違いないと言い、突然思い出したように、シュザンヌが前に自分のつきあったことのあるフランク(パトリック・ボーコット)と結婚するはずだと告げる。ベルトランは突然、今までシュザンヌを馬鹿にしていた自分の過ちに気づいた。夏のプールで、ベルトランとソフィーはシュザンヌとフランクに会う。ベルトランはシュザンヌの豊満な体を見つめる。「学期末が近づき、ソフィーとも別れ、僕は落第しそうだった」とベルトランの独白。
「パリのナジャ」Nadja a' Paris (レ・フィルム・デュ・ロザンジュ'64)*13min, B/W; 日本未公開(映像ソフト発売)
「紹介またはシャルロットとステーキ」Pre'sentation ou Charlotte et son steak (ギイ・ド・レイ'51撮影、'61完成・公開)*10min, B/W: 日本未公開(映像ソフト発売)
(日本版映像ソフト解説より)
本ディスクのみの同時収録作品『紹介またはシャルロットとステーキ』は、20歳のジャン=リュック・ゴダールが主演した貴重な習作。プリントが長らくラボに眠っていたが、ゴダールが『勝手にしやがれ』で有名になった後、見つけだされ、アンナ・カリーナとステファーヌ・オドランの声で二人の女性の役を吹き替えて公開された。 パリ国際大学都市に住む留学生ナジャ・テジックの生活を、彼女自身のナレーションで語る記録映画『パリのナジャ』は、初期ロメールの自然主義的な作風を知る上でも貴重な魅力的な短編だ。
*
この「モンソーのパン屋の女の子」と『シュザンヌの生き方』の2作は'63年に連続して撮られ、未公開作品のまま仲間うちで上映されるに止まりましたが、ロメールの一流映画監督としての声価が定着した'74年に2本立てで一般公開されました。長編デビュー作『獅子座』は職業監督として成功したシャブロルのプロダクション製作でしたが、この2作に始まる「六つの教訓話」シリーズの成立は解説の通りで、次の『コレクションする女』'67からは長編映画になりロメールへの評価を決定する出世作になります。短編「モンソーの~」と中編『シュザンヌ~』を合わせて短めの長編映画の長さですが、16mmフィルムの低予算製作かつ当然セットなどはない全編ロケ撮影で、『獅子座』に輪をかけて個人映画っぽい内容かというとさにあらず、起承転結を備えたドラマでちゃんと劇映画になっています。初期短編「紹介またはシャルロットとステーキ」やこの2作の直後の短編ドキュメンタリー映画「パリのナジャ」も撮影はサイレント、音声はアフレコで、その分「モンソー~」と『シュザンヌ~』は一人称の語り手(主人公)がずっと語り続けているのが物語を圧縮する効果にもなって2作とも十分に長編映画に匹敵する満足感がある替わり、これならヴォイス・オーヴァー(ナレーション)ではなく台詞と現実音からなる構成で観たい気にもなりますが、映像化実現可能な構想というとひとまず短編を試し、中編に進み、長編映画はそれからと現実的なプランがあったのでしょう。「モンソー~」「シュザンヌ~」と続けて観ると、ひとりの青年の打ち明け話にもうひとりの青年が打ち明け話で応えているような、中短編の連作ならではの効果があります。ちなみに小説版の翻訳は『六つの本心の話』という邦題で1996年に刊行されていますが小説版と映画の長さは必ずしも対応せず、「モンソー~」こそ16ページと短いですが『シュザンヌ~』は90分~110分ある長編映画の第3作以降と小説版では同じくらいの長さになっています。
連作「六つの教訓話」はだいたい同じパターンから成っていて、ブルジョワ階級でそこそこ真面目でもあれば恋愛経験もそれなりの青年が本命の女性を見つける、そちらが進展する前に恋愛術では青年よりうわ手な女性に出逢って惹きつけられるが、結局は本命の女性に戻って結婚する、というのが作品ごとに多少の変化はありますが「六つの教訓話」のテンプレートです。これはカイエ誌の主宰者で指導的批評家だったアンドレ・バザン(1918-1958)が絶賛したアメリカの西部劇映画監督バッド・ベティカー(1916-2001)がランドルフ・スコット主演で製作した『七人の無頼漢』'56から始まるスコット主演の7本の西部劇連作、後にプロダクションの名を取って「ラナウン・サイクル」と呼ばれるシリーズを連想させます。連作は『反撃の銃弾』'57、『日没の決断』'57、『ブキャナン 馬に乗る』'58、『決闘ウエストバウンド』'58、『孤独に馬を走らせろ』'59、『決闘コマンチ砦』'60と続きましたが、従来とは変質していた戦後西部劇の風潮の中であえて'30年代西部劇の大スター、スコットを使ってコテコテの復讐西部劇のパターンを踏襲したものです。平和な西部の情景→流れ者の主人公登場→中年人妻または未亡人登場→悪党が一向に加わる→そしてドロドロの死闘へ、というのが金を巡る疑心暗鬼、銃撃戦、悪党同士の潰し合い、奇妙な因縁、からくりの全貌、ラストの決闘とどの作品も70分台のコンパクトな尺数に詰め込まれているのが「ラナウン・サイクル」連作です。ロメールの「六つの教訓話」がフランス映画の恋愛ドラマの伝統に属しているようで奇妙な違和感があるのは、ベティカーの西部劇のように過剰なまでにジャンル映画の定型を徹底した結果、セルフ・パロディすれすれに成立したシリーズだからでしょう。
それにしても『獅子座』は室内場面は映画の最初の方だけでしたしホームレス主人公なので気になりませんでしたが、パリのフランス人というのは未成年の酒・煙草はもとよりゴミのポイ捨ては当たり前だわ、他人の部屋に土足は靴文化としてもマッチ棒や煙草の灰、吸い殻は平気で床に捨てるわ、路上駐車があまりに多いのでかえって整然として見えるわで西部劇時代の西部移民と大して違いはありません。50年前のフランス人だからかもしれませんが、今や子供に観せるのは公共道徳的によくないことばかりで、フランス映画に限らず日常的な世相を描いた西洋映画から日本でヒット作が出なくなった(日常離れしたものしか当たらない)のも西洋文化への憧れも稀薄になって、しかも日本人の日常感覚とはズレている分仕方ないのかな、とも思わされます。外国のものは外国のものとして一定の距離をとりながら観ればいいだけですが、映画館に足を運ぶ観客層は昔よりはるかに正直で保守的になっていて異文化のものには寄りつかない。人気コミックスの実写映画化や国産長編アニメの方がダイレクトな魅力があるのは当然でしょう。ロメールの映画は生前に日本で受け入れられましたが、没後は映像ソフトも次々と廃盤になっています。俳優に較べても映画監督は新作がなくなる没後は忘れられやすく、メディアは新しいものを優先する仕組みですから年代の古いものはよほどの付加価値がないと顧みられません。話が逸れましたが、それほどロメールの16mm作品「モンソー~」『シュザンヌ~』には日本人の日常感覚とありありと違う日常が流れているのが面白く、また『獅子座』同様、積極的に観客が映画を感じとろうとしないと雲をつかむような印象しか残さない厄介なあいまいさがあります。
ロメールの映画が感情移入を阻むのは通常の映画の物語は価値感の推移が中心に仕組まれており、それは普通登場人物の関係性の転換から自然に性格の変化が描かれる、という具合に進むのをロメールは度外視していて、むしろ登場人物たちは映画の冒頭と結末ではまったく懲りずに同じ性格のままです。『獅子座』の結末は主人公が散々な目に遭っていながら元の木阿弥に戻っていきますし、「六つの教訓話」も他人との関わりで変化するような性格の登場人物は出てきません。これは同時代の日本映画の最前線にいた羽仁進の『不良少年』'61が、本物の元少年犯罪者たちを起用し生活を再現させて当時の不良少年の生態を描きながら、未成年鑑別所(少年院)に収監され懲役刑の一環である作業労働から勤労の喜びを覚えて更正する、という結末に収斂させてしまったのと大きな対照をなしています。かというと大島渚の映画のように犯罪の正当化を通して社会を告発する、というのでもありません。大島渚はフランスのヌーヴェル・ヴァーグ作品の無思想性と自作に一線を引きましたが、一見無思想ならロメールはカイエ派の監督たちでも際立って社会性の稀薄な作風に見えます。しかしフランスの伝統的な人間主体思想であるユマニスト、モラリスト的立場にもっとも立脚しているのが高校の現役文学教師ロメールでもあったので、思想という時に社会思想とは別の次元で考察され、一貫性を主張できる人間性の追求もまた思想には違いなくて、羽仁進や大島渚のような社会改革の主張が陥りやすい合目的性の性格の強い映画の、個々の人間があまりに強く作者の作為を反映していまう陥穽を避けており、ロメール映画の作者と作中人物を切り離して描いた方法もそうした思想的な裏打ちを伴うものです。共感、感情移入を排した作風はそれゆえでしょう。
このシリーズの最初の2作や初期短編も映像だけ観るとやはり『獅子座』同様サイレント映画のように見えるかもしれませんが、完全に音声を取り除いて音楽と字幕(インタータイトル)、または解説音声で構成したら別物になってしまいます。『獅子座』は主人公のホームレス生活が始まるとほとんど台詞はなく、逆に「モンソー~」『シュザンヌ~』はヴォイス・オーヴァーと台詞がずっと続きますが、『獅子座』では現実音、「モンソー~」『シュザンヌ~』ではヴォイス・オーヴァーが映像に不可欠で、映像だけでは完結していないのがサイレント映画との違いです。つまりロメールの映画では音声の沈黙は沈黙としての意味を持ちますが、サイレント映画は伴奏音楽は流れっぱなしでも構わず喧騒も沈黙も映像自体が表現するものです。またサイレント映画の解説音声とロメール映画のサウンド効果は明らかに別物で、映像と音声は別々の角度から映画を表現して多重的な効果を生んでいます。
連作「六つの教訓話」でももっとも初期の中短編ということもあり、いろいろな面でこの2編は第2長編『コレクションする女』以降4作のシリーズ後半作品への習作の意味合いが強いでしょう。残念なのはヒロインたちに魅力が欠けることで、「モンソー~」は短編だから何とか持っていますが小1時間ある『シュザンヌ~』は二人のヒロイン(本命とよろめき)の顔に同じ箇所(左頬)に目立つホクロがあるのは意味があるわけでもなし、どうにかならなかったのかと思います。男性俳優にも魅力がなく、平均的なパリの青年男女を描いているにしろ映画の話術だけでどうにか成っている観があり、充実した中短編ではあるが窮屈な感じもして、シリーズの長編『コレクションする女』『モード家の一夜』『クレールの膝』『愛の昼下がり』から1、2作でも観てからでないと妙味がわからず、さすがに佳作ばかりの長編との比較では見劣りがするのは仕方ないでしょう。長編も『コレクションする女』ではまだ実験的で、よく練れた作品は『モード家の一夜』からになります。ただしデビュー長編『獅子座』からひと足飛びに第3長編の『モード家~』は飛躍があり、中短編と第2長編の「モンソー~」『シュザンヌ~』『コレクション~』があればこそ『獅子座』の監督が『モード家~』に到達したのがご覧になると腑に落ちる仕組みになっています。また、個人映画にとどまらない内容とはいえ一般公開を前提に作られた作品ではありませんから(だからこそ一層妥協のない作品にできたとも言えますが)、実際公開が『愛の昼下がり』'72でシリーズ完結後の'74年になった通り「六つの教訓話」の長編4作を観た後の方が意図のよくわかるのがこの第1話と第2話です。ロメールに限らず、中短編は試作と思って観る方が長編劇映画の監督には多いですし、ロメールの他の初期短編もいずれ撮る長編作品への手習いといった観が強いものです。
●11月25日(土)
『獅子座』Le Signe du lion (AJYMフィルム'59製作、'62公開)*100min, B/W; 日本公開1990年12月
(キネマ旬報外国映画紹介より)
[ 解説 ] 自称作曲家の中年ボヘミアンが、浮き沈みの激しい獅子座の運勢にもてあそばれ、不運と幸運の間を駆けめぐる様を描いた心理ドラマ。「緑の光線」のエリック・ロメールの35ミリ長編処女監督作であり、同じ年に製作された「勝手にしやがれ」や「大人は判ってくれない」と並ぶヌーヴェル・ヴァーグの記念碑的作品である。製作はクロード・シャブロル。伯母の遺産でプロダクションを興したシャブロルの逸話が、この作品にヒントを与えたとも言われている。台詞は「いとこ同志」「太陽がいっぱい」なども手掛けたポール・ジェゴフ。撮影は、クルーゾーの「密告(1943)」やコクトーの「オルフェ」などのニコラ・エイエ。主演のジェス・ハーンは、B級映画に数多く出演していたがこれが初主演作。この作品はゴダール、トリュフォーらのヌーヴェル・ヴァーグのスターの陰に隠れ、製作されてから3年後の1962年5月2日にパリ1館でしかロードショー公開されなかったという不遇の道を歩んだが、同年のカイエ・デュ・シネマ誌ではベスト5に選ばれ批評的には決して悪くなかった。
[ あらすじ ] 6月22日…自称作曲家ピエール(ジェス・ハーン)のもとに一通の電報が届く。伯母が死に、その莫大な遺産が彼と従兄に遺されたというのだ。突然の吉報に有頂天になったピエールは、さっそくパリ・マッチ誌で働くジャン・フランソワ(ヴァン・ドード)を呼び出して金を借り、仲間を呼び集めて派手にパーティを楽しむ。7月13日…友人たちの多くはヴァカンスに出かけてしまった。しかし、ピエールはアパルトマンから追い立てられ、小さなホテルに身をおいていた。伯母の遺産は遺言で全額従兄の手に渡ってしまったのだ。ホテル代さえなく、頼みの綱のジャン・フランソワも出張中で何度電話してもつかまらない。7月30日…セーヌ河畔の古本屋で本を売り、パンとアンチョビを買うピエール。やがてホテルも追い出された彼は偶然友人に会い、仕事を紹介されるが、ようやくたどり着いた郊外の家に元締めは留守。金もなく歩いてセーヌ河畔まで戻ったピエールだが、市場で万引きをしようとして、店主にこっぴどく殴られる。そこを助けてくれたのはルンペン(ジャン・ル・プーラン)だった。ピエールは彼について、カフェでパフォーマンスの相手を務めることになる。8月22日…ヴァカンスの季節も終わり、ジャン・フランソワも出張から戻って来た。ピエールの身を案じる彼は友人たちに居場所を尋ねるが誰もが無関心。そんな折、新聞に記事が出た。ピエールの従兄が死に、遺産が彼に転がり込むことなったのだ。それを知ってピエールは有頂天になるが……。
*
主人公がホームレスという設定の映画で、もっとも有名なのはチャップリンの短編喜劇(1914年~1918年)でしょうがそれは喜劇こそなので、チャップリンですらドラマ性が不可欠な長編映画では主人公がホームレスの設定は『街の灯』'31くらいですから、シリアスな長編劇映画ではめったにないでしょう。西部劇や時代劇に登場する流れ者も一応職業なので該当しないとすれば、ノルウェーのノーベル賞作家クヌート・ハムスン(1859-1952)の出世作で世界初のホームレス小説と言われる長編小説『飢え』1890に相当するようなホームレス映画は本作の前にはジャン・ルノワールの『素晴らしき放浪者』'32と小津安二郎の『東京の宿』'35、後にはレオス・カラックスの『ポン・ヌフの恋人』'91くらいしか思い当たりませんが、ルノワール作品はホームレスを食客に迎えたブルジョワ一家の騒動を描いた風刺コメディ、カラックス作品は激しい恋愛ドラマなので力点はホームレス生活を描くことではなく、社会の規範から逸れた人間と社会規範に護られた人間の社会の対比から話を作り出しているものです。高校の文学教師をしながら映画批評を書き、夏休みを利用して本作を監督したロメールがハムスンの『飢え』を知らないわけはなく(直接に意識していたとは限りませんが)、本作がチャップリンともルノワールとも違う、孤独なホームレスの生活描写を主眼とした作品なのは、当時フランスには紹介されていなかった『東京の宿』(これは幼い二人の息子連れの男ですが)と並んで際立っています。あるいは第二次世界大戦敗戦直後のイタリアのネオ・レアリズモ作品に類似した題材の映画があるかもしれません。ゴミ捨て場を漁って生ゴミにありつくシーンなど笑えない諧謔があります。
本作を選んだゴダール選の1962年映画ベストテンは錚々たるもので、1位『ハタリ!』(ホークス)、2位『ヴァニーナ・ヴァニニ』(ロッセリーニ)、3位『鏡の中にある如く』(ベルイマン)、4位『突然炎のごとく』(トリフォー)、5位『獅子座』、6位『女と男のいる舗道』(ゴダール)、7位『戦場』(ドフジェンコ)、8位『乾いた太陽』(リチャード・ブルックス)、9位『すごい野郎』(クロード・ド・ジブレ)、10位『昼下りの決闘』(ペキンパー)と未見の作品も入っていますが、この内7、8本でも'62年と限定せずに映画史ベストテン級の作品が並んでいるのは壮観です。ゴダールの最高傑作のひとつ『女と男の~』をトリフォー、ロメールより少し下位(それでも6位)に置いているのは謙譲と自信の両方が表れていて面白いですが、本作は佐藤忠男氏が前記著書で「浮浪者の目から見たパリ」という着想から描かれる現実の不安感、その心象が要となっていると的確に評しています。1971年の時点で佐藤氏の理解は行き届いていて、同書ではヌーヴェル・ヴァーグの起点がロッセリーニとブレッソンにあるとはっきり指摘しており、これは佐藤氏の独断ではなくゴダールやトリフォーたちの発言や批評でも明言されていることですが、彼らと同世代の佐藤氏(1930年生まれ)はロッセリーニの『戦火のかなた』'46やブレッソンの『抵抗』'56の初公開時の衝撃に裏打ちされた実感による共感を伴った理解なのでロッセリーニもブレッソンも過去の映画になっていた'70年代にはかえって浸透しない映画史観でした。また'70年代にはロメールやリヴェットは日本未紹介ながら中途半端に古い監督になっていましたし、ポピュラーな大ヒット作を出したわけでもないので話題作を持つ後進の若手監督よりも一般公開が遅れてしまいます。ロメールはちょうど親しみやすい作品を作り始めた頃に新作が順次公開されたので、さかのぼって初期作品から全作品が劇場公開、また特殊上映であっても映像ソフト発売されました。いまだに未紹介作品の残るリヴェットよりも恵まれていると言えますが、『獅子座』は「カイエ」派ヌーヴェル・ヴァーグ監督のデビュー作でもひときわ大胆な作品です。
ひと足先に日本の太陽族映画のブームが先駆をつけていましたが、ヌーヴェル・ヴァーグの作品の多くは青年世代を描いた映画でもありました。監督たちも戦後に成人した世代でしたし、映画界自体も人口分布の変化から年齢層の青年化した観客への対応を迫られており、それまでの大人向けの映画のような社会的地位のある登場人物を描いた映画ではなく青年世代をそのまま描いた映画が求められていました。シャブロル、トリフォー、ゴダール、リヴェットらのデビュー作も主人公たちは青年(トリフォーの場合は少年)です。カイエ派の中で唯一40男で家庭を持ち、ボヘミアンだったシャブロルたちと違って教職という堅い職に就いていたロメールが題材に選んだのが、ホームレスに転落していく中年独身ボヘミアンというのは相当な皮肉のこもった着想です。これは社会的地位の確定しない青年層に向けた陰画でもありますし、親の仕送りやアルバイトでぶらぶらしながらでかい夢を見て暮らしているパリの多くの青年~中年ボヘミアン全体への皮肉にもなるので、誇張したコメディにもなりますし、またコメディにした方が観客へのサーヴィスにもなりますが、そういう顧慮や媚びは一切ありません。また観客の共感を誘うような視点も排しています。それだけ高いレベルの鑑賞を一般観客にも要求しているので、長編デビュー作で試みるにはあまりに挑発的でもあり、またデビュー作以外ではできない試みでもあります。
カイエ派のヌーヴェル・ヴァーグ監督が共通して目指したのは映画の自然な流露感にあると思いますが、ゴダールやリヴェットの場合は即興的な偶発性、シャブロルはちょっと厄介ですがシニカルな機知に富み、トリフォーの場合は一人称映画的な個人性に特色が発揮されていると一応は言えそうで、ロメールは一見そのどれでもでありそうで、カイエ派の仲間の誰よりも徹底した個人映画なのが最大の特徴でしょう。商業劇映画はスタッフ、キャスト含めて100人~1000人単位の規模の人員で作られる集団製作ですし、監督の作家性を主張したカイエ派の映画でも事情は同じです。またトリフォーのように自伝的な映画、ゴダール、またシャブロルのように強烈に個性的な映画をデビュー作にしても観客への訴求力は共感に基づくことから免れられません。それが商業映画としての消費される宿命なら、ロメールとリヴェットは商業映画デビュー作でとても商業映画とは言えないような作品を作ってしまった人でしょう。リヴェットについてはさておき、ロメールの場合は映画の集団製作のプロセス抜きにいきなり映画があるような個人映画的感覚があり、それが自己満足とは違うのはこれも観客の鑑賞を求めて、観客の理解をもって初めて完結する映画であることです。ただしそれは共感や陶酔ではなく、従来の劇映画を楽しむのとは異なる鑑賞基準を観客に求めているので、ロメール(そしてリヴェット)は長編第2作を撮る機会をまるまる5年あまり待つことになりました。
しかしリヴェットの『パリはわれらのもの』同様、本作はひとりの映画監督の発想の原点が凝縮されたデビュー作で、一見似ても似つかない恋愛映画の監督となるロメールですがじっくり観るとこれが出発点と納得のいく作品です。一般的な映画としては異色作でしょうがロメール作品と思えば異色でも何でもないことからもそれは明らかで、感嘆すべきはこれほど突拍子もない、自主製作短編しか経験のない監督の映画に、よく意図を汲んだスタッフとキャストが集まったことです。本作に「隙のない完成度」と言うのは似合わないようでもあり、しかしそれが決して筋違いでもないのは動かし難い確かな表現に達していることでもわかります。また本作はロメール作品の原点ではありますが、敷居が高そうでいて案外そうでもないのはデビュー作ならではの一回性が魅力となっているからなのも間違いないでしょう。こういう映画は若いうちに観て、面白くも何ともなくても後から効いてくる種類のものです。
●11月26日(日)
「六つの教訓話」シリーズ (Six contes moraux)第1話「モンソーのパン屋の女の子」La Boulange're de Monceau (レ・フィルム・デュ・ロザンジュ'63製作、'74公開)*26min, B/W; 日本公開1996年8月
「六つの教訓話」シリーズ (Six contes moraux)第2話『シュザンヌの生き方』La Carrie're de Suzanne (レ・フィルム・デュ・ロザンジュ'63製作、'74公開)*53min, B/W; 日本公開1996年8月
(キネマ旬報外国映画紹介より)
『モンソーのパン屋の女の子』
[ 解説 ] ヌーヴェルヴァーグの名匠エリック・ロメールの初期の短編で、「六つの教訓話」シリーズの第1作。製作・主演はステュディオ・アフリカのG・ドロクレスと、ロメールと共に製作会社「レ・フィルム・デュ・ロザンジュ」を設立し、のちに監督となったバルベ・シュロデール(バーベット・シュローダー)。ロメールは最初、このシリーズの映画化の予算を得られず、とりあえず小説の形で執筆しており、原作小説集の形でも出版している(邦訳・早川書房)。撮影はジャン=ミシェル・ムーリスとブリュノ・バルベで、ゼンマイ式の小型カメラで撮影された関係でショットの長さは最長で20秒、撮影は無声で音は編集後に付け加えられている。語り手の主人公の声は音声録音時にバルベ・シュロデールの都合がつかず、のち「田舎の日曜日」「ひとりぼっちの狩人たち」を監督するベルトラン・タヴェルニェが声を吹き替えた。共演は「ハタリ」のミシェル・ジラルドンほか。
[ あらすじ ] 私(ベルベ・シュロデール)は法学生、親友のシュミット(フレド・ユンク)と一緒のとき、シルヴィ(ミシェル・ジラルドン)とすれ違い、彼女に興味を覚える。いざこざがあった後、私はたまたま彼女と道でぶつかって再会、荷物を落としてしまったお詫びにとお茶に誘うが、今日は忙しいからと断られる。そのご一週間たっても彼女から連絡はない。私はシルヴィを探して町を歩きまわり、毎日のように同じパン屋でサブレを買うようになる。シルヴィが現れないのでやけになった私はこのパン屋の売り子ジュリエット(クローディーヌ・スブリエ)をデートに誘う。承諾の印は、土曜にサブレを注文したときに二枚包むこと。約束の土曜、彼女はサブレを二枚包み、私は店の外で待つことにする。そこへシルヴィが通りかかり、私は慌てて彼女を食事に誘った。シルヴィは実はこのパン屋の向かいに住んでおり、足を捻挫して二週間ほど家から出られなかったのだが、ただ毎日窓から私のことを見ていたのだという。私はシルヴィと結婚する。半年後、例のパン屋に戻ってみると、売り子は別の娘に代わっていた。
『シュザンヌの生き方』
[ 解説 ] ヌーヴェルバーグ、「カイエ・デュ・シネマ」派のリーダー格であるエリック・ロメールの「六つの教訓話」シリーズ第2作。製作はロメールと共に製作会社「レ・フィルム・デュ・ロザンジュ」を設立し、のちに監督となったバルベ・シュロデール(アメリカ進出後はバーベット・シュローダー)。脚本・台詞もロメール自身。音楽にはモーツァルト作曲、歌劇『フィガロの結婚』の抜粋が使われている。出演はカトリーヌ・セー、フィリップ・ブーザン、クリチャン・シャリエールのほか、のちに教訓話の第3話『コレクションする女』(特別上映のみ)や「リスボン物語」に主演したパトリック・ボーショー、のちに「ママと娼婦」やロメールの「O侯爵夫人」などを製作するピエール・コトレルが顔を出している。
[ あらすじ ] 薬学科の学生ベルトラン(フィリップ・ブーザン)が友人ギヨーム(クリスチャン・シャリエール)とカフェで会っているとき、ギヨームはたまたま隣に座ったシュザンヌ(カトリーヌ・セー)に声をかける。ギヨームは彼女を自宅のパーティーに誘う。パーティーでベルトランは密かに心を寄せるアイルランド人留学生のソフィー(ディアーヌ・ウィルキンソン)と話したがったのだが、すでにギヨームのべったりのシュザンヌのことばかりが目につく。招待客が帰ったあと、ギヨーム、シュザンヌ、それにベルトランの三人は降霊術をやる。ギヨームは夜も遅いから二人に泊まるようにいい、シュザンヌを母の寝室に寝かせるが、そのあと彼女に合流する。ベルトランは二人の寝ている側から上着をとって帰る。その後一週間、シュザンヌはギヨームにぞっこんだが、彼の方は迷惑している。ベルトランはシュザンヌを軽蔑しつつも同情する。シュザンヌは彼を商業高等学院の学園祭に誘う。そこにはソフィーも来ているはずだ、と言って。シュザンヌのおかげでベルトランはソフィーと初めて話すことができ、ソフィーが真面目な彼がおよそ正反対の性格のギヨームと親友同士なのを不思議がる。翌日から、ギヨームは毎日のようにシュザンヌにたかって彼女をなぶりものにする。ある日シュザンヌは、ギヨームと別れて昨夜知り合ったスコットランド人と結婚することにしたと言う。ベルトランが復活祭の休みから戻り、両親から貰った洋服代4万フランを本のページに隠す。ある晩、タクシー代もなくなったシュザンヌが彼の部屋に泊まる。それからしばらくして、ベルトランは例の4万フランがなくなっているのに気づき、シュザンヌを疑うが、ソフィーは憤慨して犯人はギヨームに違いないと言い、突然思い出したように、シュザンヌが前に自分のつきあったことのあるフランク(パトリック・ボーコット)と結婚するはずだと告げる。ベルトランは突然、今までシュザンヌを馬鹿にしていた自分の過ちに気づいた。夏のプールで、ベルトランとソフィーはシュザンヌとフランクに会う。ベルトランはシュザンヌの豊満な体を見つめる。「学期末が近づき、ソフィーとも別れ、僕は落第しそうだった」とベルトランの独白。
「パリのナジャ」Nadja a' Paris (レ・フィルム・デュ・ロザンジュ'64)*13min, B/W; 日本未公開(映像ソフト発売)
「紹介またはシャルロットとステーキ」Pre'sentation ou Charlotte et son steak (ギイ・ド・レイ'51撮影、'61完成・公開)*10min, B/W: 日本未公開(映像ソフト発売)
(日本版映像ソフト解説より)
本ディスクのみの同時収録作品『紹介またはシャルロットとステーキ』は、20歳のジャン=リュック・ゴダールが主演した貴重な習作。プリントが長らくラボに眠っていたが、ゴダールが『勝手にしやがれ』で有名になった後、見つけだされ、アンナ・カリーナとステファーヌ・オドランの声で二人の女性の役を吹き替えて公開された。 パリ国際大学都市に住む留学生ナジャ・テジックの生活を、彼女自身のナレーションで語る記録映画『パリのナジャ』は、初期ロメールの自然主義的な作風を知る上でも貴重な魅力的な短編だ。
*
この「モンソーのパン屋の女の子」と『シュザンヌの生き方』の2作は'63年に連続して撮られ、未公開作品のまま仲間うちで上映されるに止まりましたが、ロメールの一流映画監督としての声価が定着した'74年に2本立てで一般公開されました。長編デビュー作『獅子座』は職業監督として成功したシャブロルのプロダクション製作でしたが、この2作に始まる「六つの教訓話」シリーズの成立は解説の通りで、次の『コレクションする女』'67からは長編映画になりロメールへの評価を決定する出世作になります。短編「モンソーの~」と中編『シュザンヌ~』を合わせて短めの長編映画の長さですが、16mmフィルムの低予算製作かつ当然セットなどはない全編ロケ撮影で、『獅子座』に輪をかけて個人映画っぽい内容かというとさにあらず、起承転結を備えたドラマでちゃんと劇映画になっています。初期短編「紹介またはシャルロットとステーキ」やこの2作の直後の短編ドキュメンタリー映画「パリのナジャ」も撮影はサイレント、音声はアフレコで、その分「モンソー~」と『シュザンヌ~』は一人称の語り手(主人公)がずっと語り続けているのが物語を圧縮する効果にもなって2作とも十分に長編映画に匹敵する満足感がある替わり、これならヴォイス・オーヴァー(ナレーション)ではなく台詞と現実音からなる構成で観たい気にもなりますが、映像化実現可能な構想というとひとまず短編を試し、中編に進み、長編映画はそれからと現実的なプランがあったのでしょう。「モンソー~」「シュザンヌ~」と続けて観ると、ひとりの青年の打ち明け話にもうひとりの青年が打ち明け話で応えているような、中短編の連作ならではの効果があります。ちなみに小説版の翻訳は『六つの本心の話』という邦題で1996年に刊行されていますが小説版と映画の長さは必ずしも対応せず、「モンソー~」こそ16ページと短いですが『シュザンヌ~』は90分~110分ある長編映画の第3作以降と小説版では同じくらいの長さになっています。
連作「六つの教訓話」はだいたい同じパターンから成っていて、ブルジョワ階級でそこそこ真面目でもあれば恋愛経験もそれなりの青年が本命の女性を見つける、そちらが進展する前に恋愛術では青年よりうわ手な女性に出逢って惹きつけられるが、結局は本命の女性に戻って結婚する、というのが作品ごとに多少の変化はありますが「六つの教訓話」のテンプレートです。これはカイエ誌の主宰者で指導的批評家だったアンドレ・バザン(1918-1958)が絶賛したアメリカの西部劇映画監督バッド・ベティカー(1916-2001)がランドルフ・スコット主演で製作した『七人の無頼漢』'56から始まるスコット主演の7本の西部劇連作、後にプロダクションの名を取って「ラナウン・サイクル」と呼ばれるシリーズを連想させます。連作は『反撃の銃弾』'57、『日没の決断』'57、『ブキャナン 馬に乗る』'58、『決闘ウエストバウンド』'58、『孤独に馬を走らせろ』'59、『決闘コマンチ砦』'60と続きましたが、従来とは変質していた戦後西部劇の風潮の中であえて'30年代西部劇の大スター、スコットを使ってコテコテの復讐西部劇のパターンを踏襲したものです。平和な西部の情景→流れ者の主人公登場→中年人妻または未亡人登場→悪党が一向に加わる→そしてドロドロの死闘へ、というのが金を巡る疑心暗鬼、銃撃戦、悪党同士の潰し合い、奇妙な因縁、からくりの全貌、ラストの決闘とどの作品も70分台のコンパクトな尺数に詰め込まれているのが「ラナウン・サイクル」連作です。ロメールの「六つの教訓話」がフランス映画の恋愛ドラマの伝統に属しているようで奇妙な違和感があるのは、ベティカーの西部劇のように過剰なまでにジャンル映画の定型を徹底した結果、セルフ・パロディすれすれに成立したシリーズだからでしょう。
それにしても『獅子座』は室内場面は映画の最初の方だけでしたしホームレス主人公なので気になりませんでしたが、パリのフランス人というのは未成年の酒・煙草はもとよりゴミのポイ捨ては当たり前だわ、他人の部屋に土足は靴文化としてもマッチ棒や煙草の灰、吸い殻は平気で床に捨てるわ、路上駐車があまりに多いのでかえって整然として見えるわで西部劇時代の西部移民と大して違いはありません。50年前のフランス人だからかもしれませんが、今や子供に観せるのは公共道徳的によくないことばかりで、フランス映画に限らず日常的な世相を描いた西洋映画から日本でヒット作が出なくなった(日常離れしたものしか当たらない)のも西洋文化への憧れも稀薄になって、しかも日本人の日常感覚とはズレている分仕方ないのかな、とも思わされます。外国のものは外国のものとして一定の距離をとりながら観ればいいだけですが、映画館に足を運ぶ観客層は昔よりはるかに正直で保守的になっていて異文化のものには寄りつかない。人気コミックスの実写映画化や国産長編アニメの方がダイレクトな魅力があるのは当然でしょう。ロメールの映画は生前に日本で受け入れられましたが、没後は映像ソフトも次々と廃盤になっています。俳優に較べても映画監督は新作がなくなる没後は忘れられやすく、メディアは新しいものを優先する仕組みですから年代の古いものはよほどの付加価値がないと顧みられません。話が逸れましたが、それほどロメールの16mm作品「モンソー~」『シュザンヌ~』には日本人の日常感覚とありありと違う日常が流れているのが面白く、また『獅子座』同様、積極的に観客が映画を感じとろうとしないと雲をつかむような印象しか残さない厄介なあいまいさがあります。
ロメールの映画が感情移入を阻むのは通常の映画の物語は価値感の推移が中心に仕組まれており、それは普通登場人物の関係性の転換から自然に性格の変化が描かれる、という具合に進むのをロメールは度外視していて、むしろ登場人物たちは映画の冒頭と結末ではまったく懲りずに同じ性格のままです。『獅子座』の結末は主人公が散々な目に遭っていながら元の木阿弥に戻っていきますし、「六つの教訓話」も他人との関わりで変化するような性格の登場人物は出てきません。これは同時代の日本映画の最前線にいた羽仁進の『不良少年』'61が、本物の元少年犯罪者たちを起用し生活を再現させて当時の不良少年の生態を描きながら、未成年鑑別所(少年院)に収監され懲役刑の一環である作業労働から勤労の喜びを覚えて更正する、という結末に収斂させてしまったのと大きな対照をなしています。かというと大島渚の映画のように犯罪の正当化を通して社会を告発する、というのでもありません。大島渚はフランスのヌーヴェル・ヴァーグ作品の無思想性と自作に一線を引きましたが、一見無思想ならロメールはカイエ派の監督たちでも際立って社会性の稀薄な作風に見えます。しかしフランスの伝統的な人間主体思想であるユマニスト、モラリスト的立場にもっとも立脚しているのが高校の現役文学教師ロメールでもあったので、思想という時に社会思想とは別の次元で考察され、一貫性を主張できる人間性の追求もまた思想には違いなくて、羽仁進や大島渚のような社会改革の主張が陥りやすい合目的性の性格の強い映画の、個々の人間があまりに強く作者の作為を反映していまう陥穽を避けており、ロメール映画の作者と作中人物を切り離して描いた方法もそうした思想的な裏打ちを伴うものです。共感、感情移入を排した作風はそれゆえでしょう。
このシリーズの最初の2作や初期短編も映像だけ観るとやはり『獅子座』同様サイレント映画のように見えるかもしれませんが、完全に音声を取り除いて音楽と字幕(インタータイトル)、または解説音声で構成したら別物になってしまいます。『獅子座』は主人公のホームレス生活が始まるとほとんど台詞はなく、逆に「モンソー~」『シュザンヌ~』はヴォイス・オーヴァーと台詞がずっと続きますが、『獅子座』では現実音、「モンソー~」『シュザンヌ~』ではヴォイス・オーヴァーが映像に不可欠で、映像だけでは完結していないのがサイレント映画との違いです。つまりロメールの映画では音声の沈黙は沈黙としての意味を持ちますが、サイレント映画は伴奏音楽は流れっぱなしでも構わず喧騒も沈黙も映像自体が表現するものです。またサイレント映画の解説音声とロメール映画のサウンド効果は明らかに別物で、映像と音声は別々の角度から映画を表現して多重的な効果を生んでいます。
連作「六つの教訓話」でももっとも初期の中短編ということもあり、いろいろな面でこの2編は第2長編『コレクションする女』以降4作のシリーズ後半作品への習作の意味合いが強いでしょう。残念なのはヒロインたちに魅力が欠けることで、「モンソー~」は短編だから何とか持っていますが小1時間ある『シュザンヌ~』は二人のヒロイン(本命とよろめき)の顔に同じ箇所(左頬)に目立つホクロがあるのは意味があるわけでもなし、どうにかならなかったのかと思います。男性俳優にも魅力がなく、平均的なパリの青年男女を描いているにしろ映画の話術だけでどうにか成っている観があり、充実した中短編ではあるが窮屈な感じもして、シリーズの長編『コレクションする女』『モード家の一夜』『クレールの膝』『愛の昼下がり』から1、2作でも観てからでないと妙味がわからず、さすがに佳作ばかりの長編との比較では見劣りがするのは仕方ないでしょう。長編も『コレクションする女』ではまだ実験的で、よく練れた作品は『モード家の一夜』からになります。ただしデビュー長編『獅子座』からひと足飛びに第3長編の『モード家~』は飛躍があり、中短編と第2長編の「モンソー~」『シュザンヌ~』『コレクション~』があればこそ『獅子座』の監督が『モード家~』に到達したのがご覧になると腑に落ちる仕組みになっています。また、個人映画にとどまらない内容とはいえ一般公開を前提に作られた作品ではありませんから(だからこそ一層妥協のない作品にできたとも言えますが)、実際公開が『愛の昼下がり』'72でシリーズ完結後の'74年になった通り「六つの教訓話」の長編4作を観た後の方が意図のよくわかるのがこの第1話と第2話です。ロメールに限らず、中短編は試作と思って観る方が長編劇映画の監督には多いですし、ロメールの他の初期短編もいずれ撮る長編作品への手習いといった観が強いものです。