萩原朔太郎(1886-1942)、詩集『氷島』刊行1年前、個人出版誌「生理」(昭和8年6月~昭和10年2月、全5号)創刊の頃、47歳。
前回は1回で2、3回分の分量を費やし話題を広げてしまったのでどう引き継いだらいいか頭を抱えてしまいますが、詩集『氷島』についてご紹介しようとすると昭和改元を迎えて生涯の後半生に入った萩原朔太郎の文業に一通り触れないわけにはいきません。萩原の前半生はいくつかの段階があり、それぞれの時期に対応する単行詩集・小詩集が上げられるのですが、それは必ずしも直線的な発展ではなく自然に生じた変遷でした。しかし昭和3年(1928年)3月刊の全詩集『萩原朔太郎詩集』でそれまでの詩作を集成した萩原は、以降は詩集『氷島』を唯一の新作詩集として刊行するだけでその後は旧詩集の増補改訂版の『定本青猫』や選詩集の『宿命』しか編まずに昭和17年5月に57年の生涯を閉じました。それでも『氷島』が昭和9年6月刊、『定本青猫』が昭和11年3月刊、『宿命』が昭和14年9月刊ですから詩人としての現役感は生涯ありましたし、それまで詩集以外には「情調哲学(アフォリズム=警句)」と名銘たれたエッセイ集『新しき欲情』1冊を大正11年(1922年)に発表しただけだった萩原が、昭和3年2月刊の詩論集『詩論と感想』から昭和15年10月刊の随想集『亜帯』までに情調哲学/アフォリズム集3冊、詩論集3冊、古典評釈集2冊、随想随筆集2冊、小説1冊の計11冊に編著3冊の自著を刊行しています。昭和年代の詩集4冊を合わせれば15冊にも上るわけです。
昭和16年に入って執筆の減った萩原は同年夏に体調を崩し、そのまま隠棲同然になって歿年を迎えますが、昭和年代の萩原の全文業の中心にある詩集こそ『氷島』であって、10冊あまりの批評やエッセイは『氷島』によって支えられ、また詩集『氷島』にもっとも純粋に結晶していると考えられるのです。『氷島』に先立つ批評・エッセイ集は詩集収録詩編の創作と平行して書かれたものですし、『氷島』刊行以降萩原はほとんど詩作を絶ち、『定本青猫』にも詩集収録洩れの旧作を2編増補したきり、最後の詩集『宿命』にも新作は少数の散文詩(6編)しかありませんが、アフォリズム集『虚妄の正義』(昭和4年10月)、『絶望の逃走』(昭和10年10月)、『港にて』(昭和15年7月)、詩論集『詩論と感想』(昭和3年2月)、『詩の原理』(昭和3年12月)、『純正詩論』(昭和10年4月)、『詩人の使命』(昭和12年3月)、古典評釈集『恋愛名歌集』(昭和6年=1931年5月)、『郷愁の詩人与謝蕪村』(昭和11年3月)、文学文化論集『無からの抗争』(昭和12年8月)、『日本への回帰』(昭和13年3月)、『帰郷者』(昭和15年7月)、随筆・随想集『廊下と室房』(昭和11年5月)、『阿帯』(昭和15年10月)はいずれも『氷島』と響きあう内容を感じさせるものです。唯一例外としては、昭和10年8月同人誌発表、11月刊の小説『猫町』は翌年3月刊行の『定本青猫』との関連が強いと思われる、大正時代の詩想に戻ったような雰囲気を湛えた短編小説です。
萩原の詩集では初めて『氷島』は、詩編ごとの自作解説「詩篇小解」を併載した詩集です。第2詩集『青猫』には巻末に詩論「自由詩のリズムに就て」が収録されていましたが『青猫』所収作品に直接言及して解説したものではありませんでした。むしろ第4詩集『純情小曲集』で序文を同人誌時代からの盟友の室生犀星に依頼し詩集前半の初期詩集「愛憐詩篇」について、跋文を群馬同郷の後輩詩人の萩原恭次郎(血縁・姻戚関係なし)に依頼して詩集後半の近作「郷土望景詩」について作品の背景を解説してもらった例の方が『氷島』の「詩篇小解」に近いでしょう。生前最後の自選詩集となった第8詩集『宿命』は「郷土望景詩」『氷島』、第7詩集『定本青猫』(『青猫』増補改訂版)からの選集を前半の抒情詩集に、既刊のアフォリズム「情調哲学」集『新しき欲情』『虚妄の正義』『絶望の逃走』からの断章に新作6編を加えて新たに散文詩集としたものを後半に配した抒情詩と散文詩の選詩集で、やはり巻末に「散文詩小解」を併載しています。前述の通り昭和年代に入ってからは萩原は抒情詩の創作が減少しエッセイと詩論、批評家としての文筆活動の方が増加したので、自作についても多くを語りたくなったのだと思われます。また『氷島』収録の新作は萩原自身の体験・生活環境を題材としたものが大半を占めるので詩集巻末に一括して自作解説を掲載したかったのでしょう。『宿命』の「散文詩小解」はもともとエッセイ集として書かれた著書からの抜粋を散文詩としたものですから補足を書けばきりがなかったでしょうし、実際本文の散文詩よりも「小解」の方が長い断章も少なくありません。
しかし『氷島』の場合は、「詩篇小解」がなければ読者にとってわかりづらい内容の詩集であることも確かで、萩原朔太郎の伝記的文献を頼りにひもとかなければ背景が判然とせず、印象が結ばない作品でもあるのは否めないでしょう。「詩篇小解」も実はそれほど詳細に作品の成立過程を明らかにしている行文ではないのですが、伝統詩(和歌、俳諧)の詞書のように読者を作品に導く前提の役割を果たしており、この詩集は一回詩集の序文から詩編本文、「詩篇小解」と一通り読んでからまた序文に戻って再読するのを読者に要求するような構成になっています。『宿命』の「散文詩小解」にはそれほど本文との照応を求める性質はなく、「散文詩小解」自体で独立したエッセイとも読めるような補足的なものなので新たに書き足された「情調哲学」断章とも言えるものですが、『氷島』の「詩篇小解」は詩編本文と不即不離の関係で一冊の詩集を構成しているとも言え、収録詩編を読み通した後に控える「詩篇小解」は詩集全体の振り返りであり再び巻頭に戻って『氷島』を読み返させるだけの重みと訴求力があります。もし詩編単位で「小解」が詞書として詩編ごとに個別に分割されていたらこれらの効果は異なり、『伊勢物語』風の歌物語のような構成になっていたでしょう。萩原自身は詩編本文と「小解」は別、というだけの意図だったかもしれませんが、私的な内容を匂わせる『氷島』詩編本文の後に読みようによれば詩作品よりも調子の高い「小解」が置かれた効果はおそらく萩原の意図以上に強いインパクトがあり、他人が萩原のような芸術至上主義的な純粋詩の詩人にそう指摘すれば詩人本人は躍起になって否定すると思われますが、萩原自身は詩集本文に匹敵するほどの熱意を込めて「詩篇小解」を書き、詩集巻末に配したに違いないのです。
その傍証となるのは「詩篇小解」にも扉ページを設け、本文詩篇より号数を落としていますが各編の見出しはゴシック体で詩編と同じ号数の大活字を用い、組版も「情調哲学」や散文詩と同様に意を凝らしてあることからも明らかです。ゴシック体と号数の大小は再現できませんが、このブログの用字制約で精一杯『氷島』の組版に近づけて「詩篇小解」を再現してみましょう。まず扉ページに大活字で「詩篇小解」のタイトルが置かれ、次の見開きに再び「詩篇小解」と題して各詩編の小解本文が並びます。『氷島』本文詩編は各編ごとに片起こし、または見開きにページを改めていますがさすがに「詩編小解」は追い込み(ページを改めず行空けで続く)に組まれているものの、これが一般的な意味で解説らしい解説ではないのは散文的な内容伝達を一義的としたものとは思えない行文にも強く感じられます。第1回で『氷島』全編はご紹介済みですが、今回は特に「詩篇小解」だけを切り離して読んでみたいと思います。
萩原朔太郎詩集『氷島』昭和9年(1934年)6月1日・第一書房刊(外函)
詩集『氷島』本体表紙
詩 篇 小 解
詩 篇 小 解
漂 泊 者 の 歌(序 詩) 斷崖に沿うて、陸橋の下を歩み行く人。そは我が永遠の姿。寂しき漂泊者の影なり。卷頭に掲げて序詩となす。
歸 郷 昭和四年。妻は二兒を殘して家を去り、杳として行方を知らず。我れ獨り後に殘り、蹌踉として父の居る上州の故郷に歸る。上野發七時十分、小山行高崎廻り。夜汽車の暗爾たる車燈の影に、長女は疲れて眠り、次女は醒めて夢に歔欷す。聲最も悲しく、わが心すべて斷腸せり。既にして家に歸れば、父の病とみに重く、萬景悉く蕭條たり。
乃 木 坂 倶 樂 部 乃木坂倶樂部は麻布一聯隊の附近、坂を登る崖上にあり。我れ非情の妻と別れてより、二兒を家郷の母に托し、暫くこのアパートメントに寓す。連日荒妄し、懶惰最も極めたり。白晝(ひる)はベットに寢ねて寒さに悲しみ、夜は遲く起きて徘徊す。稀れに訪ふ人あれども應へず、扉(どあ)に固く鍵を閉せり。我が知れる悲しき職業の女等、ひそかに我が孤窶を憫む如く、時に來りて部屋を掃除し、漸く衣類を整頓せり。一日辻潤來り、わが生活の荒蕪を見て唖然とせしが、忽ち顧みて大に笑ひ、共に酒を汲んで長嘆す。
品 川 沖 觀 艦 式 昭和四年一月、品川沖に觀艦式を見る。時薄暮に迫り、分列の式既に終りて、觀衆は皆散りたれども、灰色の悲しき軍艦等、尚錨をおろして海上にあり。彼等みな軍務を終りて、歸港の情に渇ける如し。我れ既に生活して、長く既に疲れたれども、軍務の歸すべき港を知らず。暗憺として碇泊し、心みな錆びて牡蠣に食はれたり。いかんぞ風景を見て傷心せざらん。鬱然として怒に耐へず、遠く沖に向て叫び、我が意志の烈しき渇きに苦しめり。
珈 琲 店 醉 月 醉月の如き珈琲店は、行くところの侘しき場末に實在すべし。我れの如き悲しき痴漢、老いて人生の家郷を知らず、醉うて巷路に徘徊するもの、何所にまた有りや無しや。坂を登らんと欲して、我が心は常に渇きに耐へざるなり。
新 年 新年來り、新年去り、地球は百度廻轉すれども、宇宙に新しきものあることなし。年年歳歳、我れは昨日の悔恨を繰返して、しかも自ら悔恨せず。よし人生は過失なるも、我が欲情するものは過失に非ず。いかんぞ一切を彈劾するも、昨日の悔恨を悔恨せん。新年來り、百度過失を新たにするも、我れは尚悲壯に耐へ、決して、決して、悔いざるべし。昭和七年一月一日。これを新しき日記に書す。
火 我が心の求めるものは、常に靜かなる情緒なり。かくも優しく、美しく、靜かに、靜かに、燃えあがり、音樂の如く流れひろがり、意志の烈しき惱みを知るもの。火よ! 汝の優しき音樂もて、我れの夕ベの臥床の中に、眠りの戀歌を唄へよかし。我れの求めるものは情緒なり。
國 定 忠 治 の 墓 昭和五年の冬、父の病を看護して故郷にあり。人事みな落魄して、心烈しき飢餓に耐へず。ひそかに家を脱して自轉車に乘り、烈風の砂礫を突いて國定村に至る。忠治の墓は、荒寥たる寒村の路傍にあり。一塊の土塚、暗き竹藪の影にふるへて、冬の日の天日暗く、無頼の悲しき生涯を忍ぶに耐へたり。我れ此所を低徊して、始めて更らに上州の蕭殺たる自然を知れり。路傍に倨して詩を作る。
監 獄 裏 の 林 前橋監獄は、利根川に望む崖上にあり。赤き煉瓦の長壘、夢の如くに遠く連なり、地平に落日の影を曳きたり。中央に望樓ありて、悲しく四方よもを眺望しつつ、常に囚人の監視に具ふ。背後(うしろ)に楢の林を負ひ、周圍みな平野の麥畠に圍まれたり。我れ少年の日は、常に麥笛を鳴らして此所を過ぎ、長き煉瓦の塀を廻りて、果なき憂愁にさびしみしが、崖を下りて河原に立てば、冬枯れの木立の中に、悲しき懲役の人人、看守に引かれて石を運び、利根川の淺き川瀬を速くせり。
戀 愛 詩 四 篇 「遊園地にて」「殺せかし! 殺せかし!」「地下鐵道にて」「昨日にまさる戀しさの」等凡て昭和五――七年の作。今は既に破き棄てたる、日記の果敢なきエピソードなり。我れの如き極地の人、氷島の上に獨り住み居て、そもそも何の愛戀ぞや。過去は恥多く悔多し。これもまた北極の長夜に見たる、侘しき極光(おーろら)の幻燈なるべし。
郷 土 望 景 詩(再 録) 郷土望景詩五篇、中「監獄裏の林」を除き、すべて前の詩集より再録す。「波宜亭」「小出新道」「廣瀬川」等、皆我が故郷上州前橋市にあり。我れ少年の日より、常にその河邊を逍遙し、その街路を行き、その小旗亭の庭に遊べり。蒼茫として歳月過ぎ、廣瀬川今も白く流れたれども、わが生の無爲を救ふべからず。今はた無恥の詩集を刊して、再度世の笑ひを招かんとす。稿して此所に筆を終り、いかんぞ自ら懺死せざらむ。
詩集 氷島 完
最後の「詩集 氷島 完」は特大号数の活字(「詩集 氷島」はゴシック体)で組まれています。これがこの位置にあるのは、「詩篇小解」を含めて詩集『氷島』は編まれているということに他なりません。また「詩篇小解」が詩編本文の収録順になっている(「戀愛詩四篇」「郷土望景詩(再録)」のみ一括)ことからは、「詩篇小解」は基本的には『氷島』の詩編収録配置がほぼ決定してから書かれたものと見て良いでしょう。刊行までに多少の入れ替えはあったかもしれませんが少なくとも巻頭詩「漂泊者の歌(序詩)」の位置は動かず、また詩集奥付の前ページには小活字で、
校正覺書
本書の假名遣並に用字措辭の類は、凡て
著者平生の慣用に從ふこと前著に同斷。
辻野久憲
とありますから、詩編の位置の入れ替えがあったとしても「詩篇小解」も校正を委された辻野久憲(1909-1937)によって調整されたでしょう。辻野久憲は三好達治・北川冬彦・梶井基次郎らによる同人誌「詩・現實」出身で大学在学中に伊藤整・永松定とジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』'22の本邦初訳を手掛けて注目され(昭和5年=1930年開始~昭和9年完結)、やがてカトリック(『ユリシーズ』もカトリック作家による小説でした)の道に進んでヴァレリーやモーリアックの著書を訳出しながらカトリシズム的立場に立った文芸批評家となり、「詩・現実」の後は三好が堀辰雄・丸山薫と立ち上げた「四季」の同人となったことから京阪神の「コギト」「日本浪漫派」の同人とも親しく交わり、穏厚で誠実な人柄と深い学識から知友の敬愛を集め、もっとも萩原に愛された文学青年の一人です。『氷島』前後の萩原の著作の校訂だけでなく、第一書房が萩原の詩と散文の一巻本選集『萩原朔太郎人生讀本』(昭和11年10月刊)を企画した時も萩原の指名で編集・校訂と註釈に当たったのは辻野でした。辻野は翌昭和12年に結核で亡くなりますから(享年28歳)『萩原朔太郎人生讀本』は辻野のほとんど最後の仕事と言ってよく、これには萩原による辻野への経済的支援の目的も働いていたでしょうし、辻野を自分の一巻本選集を委せるに足る身近で最も適任の若い世代の理解者と目していたことでもあります。萩原が相談者としていた若い世代の詩人には三好達治、伊藤信吉が秘書的な立場で師事しており、中野重治も親しい詩人でした。同書の刊行時には『氷島』の批判者だった三好は萩原と距離を置くようになっていた頃で、伊藤はたまに東京に出てくるだけの群馬との往復生活をしており、中野は共産党からの転向者としてマークされている文学者でしたから、彼らに萩原の一巻本選集を依頼するには事情が許さなかったと思われます。
中野重治の回想文によると萩原は徹底して人と人は対等であるという態度が身についた人で、15歳以上年下の中野にもごく自然に書いたばかりの自作の感想を求めることがあったそうです。それはのち『氷島』に収められる作品だったそうですが、そういえば高村光太郎の生前最後の詩集『典型』(昭和25年刊)も親交の深かった若手詩人の宮崎稔に編集・校訂を任せたものでした。高村は戦争末期に疎開した先の岩手県で戦後も独居生活を続け、出版実務に関して自分で編集作業を行える環境も上京の機会もなかった事情もありますから同断には語れませんが、萩原もまた『氷島』の編集に関して校訂者の辻野久憲に意見を仰いだ可能性はあるのではないか、と想像するのは必ずしも無理ではないのではないか、と『萩原朔太郎人生讀本』の編者に指名したことからもあり得るのではないでしょうか。萩原は第一詩集『月に吠える』から自分が主宰または参加した同人誌に至るまで内容はもちろん装幀や組版、紙質まで好みをはっきり反映させてきた人です。ほとんどが自費出版や出版社との折半だったからわがままを通せて、8冊ある生前のオリジナル詩集の中で萩原本人によるものか指定による装幀でないのは新潮社の「現代詩人叢書」の第14巻として刊行された第3詩集『蝶を夢む』と創元社の「創元選書」第24巻として刊行された第8詩集『宿命』だけであり、この2冊は萩原の詩集の中では例外的に出版社からの求めに応じたもので、内容も『蝶を夢む』は第1詩集『月に吠える』と第2詩集『青猫』に未収録になっていた拾遺詩集で、『宿命』は萩原自選による既刊の詩とアフォリズムの選集です。『氷島』に「詩篇小解」を付したことについて批評家である辻野に是非を訊ねたのは大いに考えられることで、この詩集の最初の読者も校訂者である辻野なのですから、詩集書き下ろしの「詩篇小解」の部の出来映えは雑誌発表済みの個々の詩編よりも詩集編集中の苦心があったと思われます。仮に「詩篇小解」が詩集『氷島』に併載されていなかったら、独立した散文詩的自作解説エッセイとして発表されてもおかしくない、読み応えのある内容を備えており、萩原は新作詩集刊行同様、依頼されて詩を書くことなどほとんどなかった(詩の求めがあると近作から選んで送る、という具合だったといいます)そうですから「詩篇小解」も辻野の提案ではなく萩原の自発的な跋文だっただろうと思われますが、自作解説というにはそれ自体が詩的すぎ、散文詩ではなく明らかに自作自註としての内容を持つ「詩篇小解」は身振りの大きい文語体の散文ながら萩原には珍しく読者の顔が見えるような近さから書かれた印象を受けるエッセイであり、それは辻野を始めとする昭和年代からの若い世代への親近感から生まれたものに感じられます。つまり「詩篇小解」の訴えている内容は要約すれば「詩と経験」ということで、萩原と同世代の詩友や読者を念頭にしたとは思えないのです。だとすれば萩原が自身の経験によって『氷島』を書き上げてしまったのち新作詩編の発表がほとんどなくなり、その代わり批評家・エッセイストとしての文筆活動が盛んになったのは筋道が立っているとも言えそうですし、『氷島』を書いてしまったばかりに新作詩の創作ができなくなってしまったのならばなおのこと詩集『氷島』の性格が気になります。詩人にその詩作のキャリアを終わらせてしまうような詩集とはいったいどのような意義を持つのでしょうか。
(引用文の用字、かな遣いは初版詩集複製本に従い、明らかな誤植は訂正しました。)
(※以下次回)
前回は1回で2、3回分の分量を費やし話題を広げてしまったのでどう引き継いだらいいか頭を抱えてしまいますが、詩集『氷島』についてご紹介しようとすると昭和改元を迎えて生涯の後半生に入った萩原朔太郎の文業に一通り触れないわけにはいきません。萩原の前半生はいくつかの段階があり、それぞれの時期に対応する単行詩集・小詩集が上げられるのですが、それは必ずしも直線的な発展ではなく自然に生じた変遷でした。しかし昭和3年(1928年)3月刊の全詩集『萩原朔太郎詩集』でそれまでの詩作を集成した萩原は、以降は詩集『氷島』を唯一の新作詩集として刊行するだけでその後は旧詩集の増補改訂版の『定本青猫』や選詩集の『宿命』しか編まずに昭和17年5月に57年の生涯を閉じました。それでも『氷島』が昭和9年6月刊、『定本青猫』が昭和11年3月刊、『宿命』が昭和14年9月刊ですから詩人としての現役感は生涯ありましたし、それまで詩集以外には「情調哲学(アフォリズム=警句)」と名銘たれたエッセイ集『新しき欲情』1冊を大正11年(1922年)に発表しただけだった萩原が、昭和3年2月刊の詩論集『詩論と感想』から昭和15年10月刊の随想集『亜帯』までに情調哲学/アフォリズム集3冊、詩論集3冊、古典評釈集2冊、随想随筆集2冊、小説1冊の計11冊に編著3冊の自著を刊行しています。昭和年代の詩集4冊を合わせれば15冊にも上るわけです。
昭和16年に入って執筆の減った萩原は同年夏に体調を崩し、そのまま隠棲同然になって歿年を迎えますが、昭和年代の萩原の全文業の中心にある詩集こそ『氷島』であって、10冊あまりの批評やエッセイは『氷島』によって支えられ、また詩集『氷島』にもっとも純粋に結晶していると考えられるのです。『氷島』に先立つ批評・エッセイ集は詩集収録詩編の創作と平行して書かれたものですし、『氷島』刊行以降萩原はほとんど詩作を絶ち、『定本青猫』にも詩集収録洩れの旧作を2編増補したきり、最後の詩集『宿命』にも新作は少数の散文詩(6編)しかありませんが、アフォリズム集『虚妄の正義』(昭和4年10月)、『絶望の逃走』(昭和10年10月)、『港にて』(昭和15年7月)、詩論集『詩論と感想』(昭和3年2月)、『詩の原理』(昭和3年12月)、『純正詩論』(昭和10年4月)、『詩人の使命』(昭和12年3月)、古典評釈集『恋愛名歌集』(昭和6年=1931年5月)、『郷愁の詩人与謝蕪村』(昭和11年3月)、文学文化論集『無からの抗争』(昭和12年8月)、『日本への回帰』(昭和13年3月)、『帰郷者』(昭和15年7月)、随筆・随想集『廊下と室房』(昭和11年5月)、『阿帯』(昭和15年10月)はいずれも『氷島』と響きあう内容を感じさせるものです。唯一例外としては、昭和10年8月同人誌発表、11月刊の小説『猫町』は翌年3月刊行の『定本青猫』との関連が強いと思われる、大正時代の詩想に戻ったような雰囲気を湛えた短編小説です。
萩原の詩集では初めて『氷島』は、詩編ごとの自作解説「詩篇小解」を併載した詩集です。第2詩集『青猫』には巻末に詩論「自由詩のリズムに就て」が収録されていましたが『青猫』所収作品に直接言及して解説したものではありませんでした。むしろ第4詩集『純情小曲集』で序文を同人誌時代からの盟友の室生犀星に依頼し詩集前半の初期詩集「愛憐詩篇」について、跋文を群馬同郷の後輩詩人の萩原恭次郎(血縁・姻戚関係なし)に依頼して詩集後半の近作「郷土望景詩」について作品の背景を解説してもらった例の方が『氷島』の「詩篇小解」に近いでしょう。生前最後の自選詩集となった第8詩集『宿命』は「郷土望景詩」『氷島』、第7詩集『定本青猫』(『青猫』増補改訂版)からの選集を前半の抒情詩集に、既刊のアフォリズム「情調哲学」集『新しき欲情』『虚妄の正義』『絶望の逃走』からの断章に新作6編を加えて新たに散文詩集としたものを後半に配した抒情詩と散文詩の選詩集で、やはり巻末に「散文詩小解」を併載しています。前述の通り昭和年代に入ってからは萩原は抒情詩の創作が減少しエッセイと詩論、批評家としての文筆活動の方が増加したので、自作についても多くを語りたくなったのだと思われます。また『氷島』収録の新作は萩原自身の体験・生活環境を題材としたものが大半を占めるので詩集巻末に一括して自作解説を掲載したかったのでしょう。『宿命』の「散文詩小解」はもともとエッセイ集として書かれた著書からの抜粋を散文詩としたものですから補足を書けばきりがなかったでしょうし、実際本文の散文詩よりも「小解」の方が長い断章も少なくありません。
しかし『氷島』の場合は、「詩篇小解」がなければ読者にとってわかりづらい内容の詩集であることも確かで、萩原朔太郎の伝記的文献を頼りにひもとかなければ背景が判然とせず、印象が結ばない作品でもあるのは否めないでしょう。「詩篇小解」も実はそれほど詳細に作品の成立過程を明らかにしている行文ではないのですが、伝統詩(和歌、俳諧)の詞書のように読者を作品に導く前提の役割を果たしており、この詩集は一回詩集の序文から詩編本文、「詩篇小解」と一通り読んでからまた序文に戻って再読するのを読者に要求するような構成になっています。『宿命』の「散文詩小解」にはそれほど本文との照応を求める性質はなく、「散文詩小解」自体で独立したエッセイとも読めるような補足的なものなので新たに書き足された「情調哲学」断章とも言えるものですが、『氷島』の「詩篇小解」は詩編本文と不即不離の関係で一冊の詩集を構成しているとも言え、収録詩編を読み通した後に控える「詩篇小解」は詩集全体の振り返りであり再び巻頭に戻って『氷島』を読み返させるだけの重みと訴求力があります。もし詩編単位で「小解」が詞書として詩編ごとに個別に分割されていたらこれらの効果は異なり、『伊勢物語』風の歌物語のような構成になっていたでしょう。萩原自身は詩編本文と「小解」は別、というだけの意図だったかもしれませんが、私的な内容を匂わせる『氷島』詩編本文の後に読みようによれば詩作品よりも調子の高い「小解」が置かれた効果はおそらく萩原の意図以上に強いインパクトがあり、他人が萩原のような芸術至上主義的な純粋詩の詩人にそう指摘すれば詩人本人は躍起になって否定すると思われますが、萩原自身は詩集本文に匹敵するほどの熱意を込めて「詩篇小解」を書き、詩集巻末に配したに違いないのです。
その傍証となるのは「詩篇小解」にも扉ページを設け、本文詩篇より号数を落としていますが各編の見出しはゴシック体で詩編と同じ号数の大活字を用い、組版も「情調哲学」や散文詩と同様に意を凝らしてあることからも明らかです。ゴシック体と号数の大小は再現できませんが、このブログの用字制約で精一杯『氷島』の組版に近づけて「詩篇小解」を再現してみましょう。まず扉ページに大活字で「詩篇小解」のタイトルが置かれ、次の見開きに再び「詩篇小解」と題して各詩編の小解本文が並びます。『氷島』本文詩編は各編ごとに片起こし、または見開きにページを改めていますがさすがに「詩編小解」は追い込み(ページを改めず行空けで続く)に組まれているものの、これが一般的な意味で解説らしい解説ではないのは散文的な内容伝達を一義的としたものとは思えない行文にも強く感じられます。第1回で『氷島』全編はご紹介済みですが、今回は特に「詩篇小解」だけを切り離して読んでみたいと思います。
萩原朔太郎詩集『氷島』昭和9年(1934年)6月1日・第一書房刊(外函)
詩集『氷島』本体表紙
詩 篇 小 解
詩 篇 小 解
漂 泊 者 の 歌(序 詩) 斷崖に沿うて、陸橋の下を歩み行く人。そは我が永遠の姿。寂しき漂泊者の影なり。卷頭に掲げて序詩となす。
歸 郷 昭和四年。妻は二兒を殘して家を去り、杳として行方を知らず。我れ獨り後に殘り、蹌踉として父の居る上州の故郷に歸る。上野發七時十分、小山行高崎廻り。夜汽車の暗爾たる車燈の影に、長女は疲れて眠り、次女は醒めて夢に歔欷す。聲最も悲しく、わが心すべて斷腸せり。既にして家に歸れば、父の病とみに重く、萬景悉く蕭條たり。
乃 木 坂 倶 樂 部 乃木坂倶樂部は麻布一聯隊の附近、坂を登る崖上にあり。我れ非情の妻と別れてより、二兒を家郷の母に托し、暫くこのアパートメントに寓す。連日荒妄し、懶惰最も極めたり。白晝(ひる)はベットに寢ねて寒さに悲しみ、夜は遲く起きて徘徊す。稀れに訪ふ人あれども應へず、扉(どあ)に固く鍵を閉せり。我が知れる悲しき職業の女等、ひそかに我が孤窶を憫む如く、時に來りて部屋を掃除し、漸く衣類を整頓せり。一日辻潤來り、わが生活の荒蕪を見て唖然とせしが、忽ち顧みて大に笑ひ、共に酒を汲んで長嘆す。
品 川 沖 觀 艦 式 昭和四年一月、品川沖に觀艦式を見る。時薄暮に迫り、分列の式既に終りて、觀衆は皆散りたれども、灰色の悲しき軍艦等、尚錨をおろして海上にあり。彼等みな軍務を終りて、歸港の情に渇ける如し。我れ既に生活して、長く既に疲れたれども、軍務の歸すべき港を知らず。暗憺として碇泊し、心みな錆びて牡蠣に食はれたり。いかんぞ風景を見て傷心せざらん。鬱然として怒に耐へず、遠く沖に向て叫び、我が意志の烈しき渇きに苦しめり。
珈 琲 店 醉 月 醉月の如き珈琲店は、行くところの侘しき場末に實在すべし。我れの如き悲しき痴漢、老いて人生の家郷を知らず、醉うて巷路に徘徊するもの、何所にまた有りや無しや。坂を登らんと欲して、我が心は常に渇きに耐へざるなり。
新 年 新年來り、新年去り、地球は百度廻轉すれども、宇宙に新しきものあることなし。年年歳歳、我れは昨日の悔恨を繰返して、しかも自ら悔恨せず。よし人生は過失なるも、我が欲情するものは過失に非ず。いかんぞ一切を彈劾するも、昨日の悔恨を悔恨せん。新年來り、百度過失を新たにするも、我れは尚悲壯に耐へ、決して、決して、悔いざるべし。昭和七年一月一日。これを新しき日記に書す。
火 我が心の求めるものは、常に靜かなる情緒なり。かくも優しく、美しく、靜かに、靜かに、燃えあがり、音樂の如く流れひろがり、意志の烈しき惱みを知るもの。火よ! 汝の優しき音樂もて、我れの夕ベの臥床の中に、眠りの戀歌を唄へよかし。我れの求めるものは情緒なり。
國 定 忠 治 の 墓 昭和五年の冬、父の病を看護して故郷にあり。人事みな落魄して、心烈しき飢餓に耐へず。ひそかに家を脱して自轉車に乘り、烈風の砂礫を突いて國定村に至る。忠治の墓は、荒寥たる寒村の路傍にあり。一塊の土塚、暗き竹藪の影にふるへて、冬の日の天日暗く、無頼の悲しき生涯を忍ぶに耐へたり。我れ此所を低徊して、始めて更らに上州の蕭殺たる自然を知れり。路傍に倨して詩を作る。
監 獄 裏 の 林 前橋監獄は、利根川に望む崖上にあり。赤き煉瓦の長壘、夢の如くに遠く連なり、地平に落日の影を曳きたり。中央に望樓ありて、悲しく四方よもを眺望しつつ、常に囚人の監視に具ふ。背後(うしろ)に楢の林を負ひ、周圍みな平野の麥畠に圍まれたり。我れ少年の日は、常に麥笛を鳴らして此所を過ぎ、長き煉瓦の塀を廻りて、果なき憂愁にさびしみしが、崖を下りて河原に立てば、冬枯れの木立の中に、悲しき懲役の人人、看守に引かれて石を運び、利根川の淺き川瀬を速くせり。
戀 愛 詩 四 篇 「遊園地にて」「殺せかし! 殺せかし!」「地下鐵道にて」「昨日にまさる戀しさの」等凡て昭和五――七年の作。今は既に破き棄てたる、日記の果敢なきエピソードなり。我れの如き極地の人、氷島の上に獨り住み居て、そもそも何の愛戀ぞや。過去は恥多く悔多し。これもまた北極の長夜に見たる、侘しき極光(おーろら)の幻燈なるべし。
郷 土 望 景 詩(再 録) 郷土望景詩五篇、中「監獄裏の林」を除き、すべて前の詩集より再録す。「波宜亭」「小出新道」「廣瀬川」等、皆我が故郷上州前橋市にあり。我れ少年の日より、常にその河邊を逍遙し、その街路を行き、その小旗亭の庭に遊べり。蒼茫として歳月過ぎ、廣瀬川今も白く流れたれども、わが生の無爲を救ふべからず。今はた無恥の詩集を刊して、再度世の笑ひを招かんとす。稿して此所に筆を終り、いかんぞ自ら懺死せざらむ。
詩集 氷島 完
最後の「詩集 氷島 完」は特大号数の活字(「詩集 氷島」はゴシック体)で組まれています。これがこの位置にあるのは、「詩篇小解」を含めて詩集『氷島』は編まれているということに他なりません。また「詩篇小解」が詩編本文の収録順になっている(「戀愛詩四篇」「郷土望景詩(再録)」のみ一括)ことからは、「詩篇小解」は基本的には『氷島』の詩編収録配置がほぼ決定してから書かれたものと見て良いでしょう。刊行までに多少の入れ替えはあったかもしれませんが少なくとも巻頭詩「漂泊者の歌(序詩)」の位置は動かず、また詩集奥付の前ページには小活字で、
校正覺書
本書の假名遣並に用字措辭の類は、凡て
著者平生の慣用に從ふこと前著に同斷。
辻野久憲
とありますから、詩編の位置の入れ替えがあったとしても「詩篇小解」も校正を委された辻野久憲(1909-1937)によって調整されたでしょう。辻野久憲は三好達治・北川冬彦・梶井基次郎らによる同人誌「詩・現實」出身で大学在学中に伊藤整・永松定とジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』'22の本邦初訳を手掛けて注目され(昭和5年=1930年開始~昭和9年完結)、やがてカトリック(『ユリシーズ』もカトリック作家による小説でした)の道に進んでヴァレリーやモーリアックの著書を訳出しながらカトリシズム的立場に立った文芸批評家となり、「詩・現実」の後は三好が堀辰雄・丸山薫と立ち上げた「四季」の同人となったことから京阪神の「コギト」「日本浪漫派」の同人とも親しく交わり、穏厚で誠実な人柄と深い学識から知友の敬愛を集め、もっとも萩原に愛された文学青年の一人です。『氷島』前後の萩原の著作の校訂だけでなく、第一書房が萩原の詩と散文の一巻本選集『萩原朔太郎人生讀本』(昭和11年10月刊)を企画した時も萩原の指名で編集・校訂と註釈に当たったのは辻野でした。辻野は翌昭和12年に結核で亡くなりますから(享年28歳)『萩原朔太郎人生讀本』は辻野のほとんど最後の仕事と言ってよく、これには萩原による辻野への経済的支援の目的も働いていたでしょうし、辻野を自分の一巻本選集を委せるに足る身近で最も適任の若い世代の理解者と目していたことでもあります。萩原が相談者としていた若い世代の詩人には三好達治、伊藤信吉が秘書的な立場で師事しており、中野重治も親しい詩人でした。同書の刊行時には『氷島』の批判者だった三好は萩原と距離を置くようになっていた頃で、伊藤はたまに東京に出てくるだけの群馬との往復生活をしており、中野は共産党からの転向者としてマークされている文学者でしたから、彼らに萩原の一巻本選集を依頼するには事情が許さなかったと思われます。
中野重治の回想文によると萩原は徹底して人と人は対等であるという態度が身についた人で、15歳以上年下の中野にもごく自然に書いたばかりの自作の感想を求めることがあったそうです。それはのち『氷島』に収められる作品だったそうですが、そういえば高村光太郎の生前最後の詩集『典型』(昭和25年刊)も親交の深かった若手詩人の宮崎稔に編集・校訂を任せたものでした。高村は戦争末期に疎開した先の岩手県で戦後も独居生活を続け、出版実務に関して自分で編集作業を行える環境も上京の機会もなかった事情もありますから同断には語れませんが、萩原もまた『氷島』の編集に関して校訂者の辻野久憲に意見を仰いだ可能性はあるのではないか、と想像するのは必ずしも無理ではないのではないか、と『萩原朔太郎人生讀本』の編者に指名したことからもあり得るのではないでしょうか。萩原は第一詩集『月に吠える』から自分が主宰または参加した同人誌に至るまで内容はもちろん装幀や組版、紙質まで好みをはっきり反映させてきた人です。ほとんどが自費出版や出版社との折半だったからわがままを通せて、8冊ある生前のオリジナル詩集の中で萩原本人によるものか指定による装幀でないのは新潮社の「現代詩人叢書」の第14巻として刊行された第3詩集『蝶を夢む』と創元社の「創元選書」第24巻として刊行された第8詩集『宿命』だけであり、この2冊は萩原の詩集の中では例外的に出版社からの求めに応じたもので、内容も『蝶を夢む』は第1詩集『月に吠える』と第2詩集『青猫』に未収録になっていた拾遺詩集で、『宿命』は萩原自選による既刊の詩とアフォリズムの選集です。『氷島』に「詩篇小解」を付したことについて批評家である辻野に是非を訊ねたのは大いに考えられることで、この詩集の最初の読者も校訂者である辻野なのですから、詩集書き下ろしの「詩篇小解」の部の出来映えは雑誌発表済みの個々の詩編よりも詩集編集中の苦心があったと思われます。仮に「詩篇小解」が詩集『氷島』に併載されていなかったら、独立した散文詩的自作解説エッセイとして発表されてもおかしくない、読み応えのある内容を備えており、萩原は新作詩集刊行同様、依頼されて詩を書くことなどほとんどなかった(詩の求めがあると近作から選んで送る、という具合だったといいます)そうですから「詩篇小解」も辻野の提案ではなく萩原の自発的な跋文だっただろうと思われますが、自作解説というにはそれ自体が詩的すぎ、散文詩ではなく明らかに自作自註としての内容を持つ「詩篇小解」は身振りの大きい文語体の散文ながら萩原には珍しく読者の顔が見えるような近さから書かれた印象を受けるエッセイであり、それは辻野を始めとする昭和年代からの若い世代への親近感から生まれたものに感じられます。つまり「詩篇小解」の訴えている内容は要約すれば「詩と経験」ということで、萩原と同世代の詩友や読者を念頭にしたとは思えないのです。だとすれば萩原が自身の経験によって『氷島』を書き上げてしまったのち新作詩編の発表がほとんどなくなり、その代わり批評家・エッセイストとしての文筆活動が盛んになったのは筋道が立っているとも言えそうですし、『氷島』を書いてしまったばかりに新作詩の創作ができなくなってしまったのならばなおのこと詩集『氷島』の性格が気になります。詩人にその詩作のキャリアを終わらせてしまうような詩集とはいったいどのような意義を持つのでしょうか。
(引用文の用字、かな遣いは初版詩集複製本に従い、明らかな誤植は訂正しました。)
(※以下次回)