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現代詩の起源(15); 高村光太郎詩集『典型』より「暗愚小傳」(vii・了)

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(昭和22年=1947年7月、岩手県にて。長編詩「暗愚小傳」発表月の高村光太郎<1883-1956>・65歳)

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高村光太郎詩集『典型』昭和25年(1950年)10月25日・中央公論社刊(昭和26年5月・第2回読売文学賞受賞)

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 詩集『典型』高村光太郎自装口絵

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 長編詩「暗愚小傳」について、また同作品を収録した生前の単行最終詩集である詩集『典型』について逐語的に読み解いていけばおそらく高村光太郎の初期詩編まで遡って膨大な詩人論を展開しなければならないでしょう。それは筆者の手に剰りますし、ここではひとまず普段めったに読まれることのない戦時下の日本の代表的な戦争翼賛詩との比較によって、他の詩人にはおよそこれほどの個性と強度は見られない、戦争翼賛詩でも戦後の自己批判詩でも変わりない高村の詩的発想の一貫性に絞って話題を進めてきたつもりです。
 高村に関しては極めつけと言える優れた批評がすでにあり、それは昭和31年(1956年)4月1日、享年74歳の逝去によって芸術家高村の全業績を改めて見直す気運が高まったことにありました。昭和46年(1971年)までの歿後15年間に高村に関する伝記、批評、回想などが単行本26冊、雑誌特集号8冊が刊行されています。一般的に作家の生前にはあまり伝記的事実や業績の評価をまとめた批評は出づらく、それは批評対象となる作家の生涯と業績が完結していないからには当然なのですが、高村歿後には1冊の回想録、1冊の写真集が刊行された後に早くもその後の高村論の基盤となる2冊の評伝的作家論が世に出ました。1冊は当時新進詩人・批評家だった吉本隆明の『高村光太郎』(昭和32年7月刊)で、当時もっとも若い世代の戦後詩人による同書の反響は大きく吉本は昭和41年版、昭和45年版、昭和48年版と15年以上をかけて増補改訂版を再刊します。もう1冊は萩原朔太郎の三好達治と並ぶ秘書を勤めた愛弟子かつ民衆派社会主義詩人として草野心平とともに同人詩誌「歴程」の中心人物という現代詩の生き証人・伊藤信吉の『高村光太郎-その詩と生涯』(昭和33年3月刊)で、アプローチは異なりますがこの2冊はタブーの解禁まで昭和40年代まで待たなければならなくなる、戦時下の高村の戦争翼賛詩人時代をも考慮に入れた点でようやく公平な批評を可能にしたものでした。翌昭和34年には高村にもっとも近しい草野心平によって『高村光太郎読本』(2月刊)、文献集『高村光太郎研究』(3月刊)、『高村光太郎と智恵子』(4月刊)が編まれ基本的資料が集成されます。

 伊藤信吉の評伝は冷静ながら情理兼ね備えた高村に寄り添った内容と言えるものですが、吉本隆明の『高村光太郎』は激越なものでした。吉本は反代々木系の新左翼の先駆けのような論者でしたから前回引用した小田切秀雄による戦争責任論の欺瞞性は当然叩きますが、強いて言えば吉本の長編詩人論は当時の実存主義的文学論に属するもので、マルクシズム的な社会的分析とフロイディズム的な精神心理学的分析の折中によって高村の生涯と業績がどのように形成されていったかを詳細に追ったものです。吉本は10代だった戦時下に高村・草野編の宮澤賢治全集と高村光太郎を愛読しており、戦時下の愛国詩人だった高村をかつては全面的に肯定しながら読んでいた、という世代です。『道程』から始まった高村の業績がなぜ「猛獣篇」『智恵子抄』から『記録』『をぢさんの詩』『大いなる日に』の戦争翼賛詩集三部作の詩人になり、敗戦を受けては詩集『典型』のようなものになったか。これは社会主義文学を奉じる共産党をバックにした新日本文学会的には小田切のような一時的な戦争責任論で終わってしまうので、吉本は旧来の詩人論とはまったく次元の異なる発想の長編詩人論で批評のレヴェルを一変させることに成功しました。
 伊藤信吉、草野心平らは30年あまりに及ぶ高村との長い親好に基づく理解なので吉本のような桎梏はなく、吉本にしてみれば伊藤や草野は高村伝の中の登場人物というべき存在です。ただし吉本より数歳年長で高村と共有するものは何もない小田切のような批評家が敗戦後の風潮に乗って戦争責任者として高村を告発するのは批評でも何でもない、単なる文学の政治的裁断でしかなく、政治的裁断によって文学の価値基準とするのは文学自体の自律性すら理解していない噴飯ものの暴言、事実言葉の暴力とすら言えるでしょう。吉本の『高村光太郎』が激越なのは高村に対して情け容赦ないのではなく、そうした無責任な高村論を一蹴する激越さです。吉本の高村への関心は長く続き、高村研究の第一人者である北川太一と共同編集・全巻解説した『高村光太郎選集』全6巻(昭和41年12月~昭和45年3月刊、春秋社)は筑摩書房からの『高村光太郎全集』全18巻から詩、評論、随筆、日記、書簡、翻訳を精選し詳細な書き下ろし解説を併載した優れた選集です。また「現代詩手帖別冊・現代詩読本」の「高村光太郎」の巻(昭和54年刊。昭和60年に新装単行本化)でも北川太一氏が年譜と資料監修を担当し、巻頭座談会での高村光太郎討議に吉本氏が当たっており、鮎川信夫・大岡信と3者の討議ですがやはり長年高村に打ち込んできた吉本氏の発言に重みがあります。『現代詩読本・高村光太郎』は丁寧に選択された文献集としても長く読める必読書ですが、理解力に富んだ大岡信の発言もさることながら詩的直感でずばずばと下発言で高村光太郎の本質的資質にあらゆる角度から迫る鮎川信夫の剃刀のような知性は驚くべきもので、吉本氏の熟考された発言とは別に、例えば高村の詩は読者がつい乗せられてしまうような強さが特色になっている所に問題はないか、という吉本~大岡発言に次ぐ発言で鮎川は「与えられた表現と別のものが入っているということはあったと思う、この(高村流の)表現の形ではね」として高村の明治44年(1911年)1月発表、詩集『道程』大正3年(1914年)10月収録の傑作、

   根 付 の 国  

 頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして、
 魂をぬかれた様にぽかんとして
 自分を知らない、こせこせした
 命のやすい
 見栄坊な
 小さく固まつて、納まり返つた
 猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

 --を上げ、鮎川は「これはすごい詩ですよね。こういうことを書いてしまうと、かならず一生涯のいつかは裏目がでるんだよ(笑)。だから戦争詩でまさにその逆が過激に出てくるわけでしょう。ぼくらだって日本なんてということはしょっちゅう言うけど、こういう表現はしないですよ。しないし、またできもしないのね。それだけ面白いというかイデオロギー的にも過激になる人なのね、逆に。このまま一生いくはずがないよ、そういう感じがある。どこかでかならず反動が出るんで、それが時代とどう交錯するかなんだけど、その交錯が非常に不幸なことになってしまったわけでしょう、彼の場合は戦争期でね」と生き馬の眼を抜くような洞察力を発揮しています。鮎川は吉本をデビューさせた戦後の詩人グループ「荒地」のリーダーで、吉本の『高村光太郎』は大きな業績ですが「荒地」グループでは共通見解だった下地があったのがうかがえます。
 この『現代詩読本・高村光太郎』と『高村光太郎選集』でおおむね高村の全貌は理解できますが、全6巻の選集(古書値はごく安価です)が荷が重いようでしたら北川太一編『高村光太郎詩集』(旺文社文庫、初版昭和44年)が文庫版の1巻本選集としてもっとも充実した内容です。旺文社文庫は廃刊になっているので古書で入手するしかありませんが他の詩人の選詩集でも充実した内容で探すだけの価値があり、丁寧な編集、詳しい注釈とデータ、解説と年譜が完備しており他社からの文庫版『高村光太郎詩集』とは一線を画しており『高村光太郎選集』のさらに凝縮版と言えるもので、他に文庫版高村光太郎詩集で単なる選集以上の意義があるのは高村生前に詩人自身により自選された岩波文庫版『高村光太郎詩集』とやはり高村生前刊行の新潮文庫版草野心平新編『智恵子抄』で高村自身が関わっただけあって内容自体は良いものですが、ともに収録詩編に偏りがあります。春秋社版『高村光太郎選集』はそのまま全6巻文庫化されて普及するのが望ましいものですが、全6巻中15年戦時下の文業が第4巻と第5巻を占める(もちろんこれは戦争詩だけの時期ではなく、第4巻は「猛獣篇時代~後期」『智恵子抄』の時期でもありますが、第5巻は完全に戦争詩の時代です)とあっては戦争詩に対して単純な倫理的裁断を先入観とした読者にはかえって高村の詩業を誤解させかねないでしょう。GHQ的検閲基準は今なお日本人の歴史的価値判断を抑圧していると言ってよく、詩は読者自身が能動的に読まないと理解できないものですが検閲とは体の良い理解の放棄の言い訳になるものです。

 鮎川信夫ら「荒地」グループに遅れて登場したのは「ユリイカ(第1次)」に依ってデビューした、「荒地」グループより年少の詩人たちでした。大岡信もその一員ですが、「ユリイカ(第1次)」の詩人でもっとも早く登場した中村稔には、高村光太郎詩集『典型』を斎藤茂吉歌集『白き山』と比較して論じた「斎藤茂吉序論」(「文学」昭和38年10月)があります。斎藤茂吉は明治15年生まれ、昭和28年逝去。高村光太郎は明治16年生まれ、昭和31年逝去とまったくの同時代人です。茂吉は戦争末期から山形県に疎開し敗戦後の昭和21年~22年に疎開地で歌集『白き山』(昭和24年刊)を執筆、同時期に岩手県に疎開していた高村はやはり敗戦後に疎開地で「暗愚小傳」を執筆していました。茂吉は昭和25年に歌集『ともしび』(大正14年~昭和3年執筆の未発表歌集)で読売文学賞を受賞、高村は「暗愚小傳」収録の詩集『典型』で昭和26年読売文学賞を受賞します。「この二人の詩人について一応の知識を持っている者であれば、比較してみたいという欲望を感じない方がむしろ不思議である。(中略)茂吉は大正二年『赤光』を出版し、光太郎は大正三年『道程』を出版して、歌人として、又は詩人としてほとんど決定的な評価を受けた。そしてこの二人は大平洋戦争に遭遇したさいにどう処したか。(中略)この二人の巨人が演じた驚くべき狂態と戦争下で残した累々たる愚作。」
 そして中村稔は敗戦後の茂吉と高村の生活環境を評伝的に比較検討してこう述べます。「しかし、このような事情の類似にもかかわらず、この両者の間には決定的な違いがある。それは、茂吉が『白き山』を残し、光太郎は『典型』を残したということである。つまり、『白き山』が茂吉の生涯をつうじて到達しえた頂点のひとつ、たぶん『赤光』『あらたま』におけるそれともならぶ頂点のひとつであろうと思われるのに対し、『典型』はこの詩人の晩年を飾った作品ではない。むしろ『典型』はおそろしく貧困な詩集である。」そして詩集表題作「典型」を「詩に造型しようとする詩的な想像力をおしのける、烈しい自己弁解の意欲」「あまりに安易な自己充足」とし、「そういう結果として、この作品はあまりに説明的すぎ、表現に詩としての奥ゆきと拡がりがない。おそらくこの詩集中でかろうじて詩の境界内にとどまっているものは「雪白く積めり」の他一、二を数えるにすぎまい。」と厳しく断じています。「雪白く積めり」は『白き山』の詩境に近い。しかし『白き山』は感動的な歌集であるとしても中村氏にある種の苛立たしさを感じさせる。高村は内的必然か「暗愚小傳」を書いたが、「悲惨はその結果が弁解に終始し、空疎な説明以外のものをほとんど造型できなかった」にしろ「高村光太郎には、ひょっとしたら自分の詩は誤っていたのではないか、自分の生は誤っていたのではないか、じぶんがうちたてていた価値体系は誤っていたのではないか、という疑問が敗戦を契機に再三訪れたはずである。しかし、こうした疑問ほど斎藤茂吉に遠いものはなかった。」それが現代詩の宿命的な不安であり詩集『典型』を悲惨な作品にしたのと対照的に、短歌という定型詩への居直りは堂々たる歌集『白き山』という名作を生んだのであれば、短歌の現代性とは、一方が自由詩であり一方が定型詩であるのは詩の本質においてある苛立たしさを含んではいないか。中村稔がこの「序論」を巻頭に置いた長編歌人論『斎藤茂吉私論』をまとめたのは20年あまりを費やした昭和58年でした。中村氏はソネット詩型(14行詩)に専念する、戦後詩人中では形式的にはむしろ古風な詩人とされますが、氏においてもソネット詩型は短歌的伝統詩型ではない積極的な自由詩であり高村の『典型』と茂吉の『白き山』に、『典型』では自由詩の散文化の陥穽(たとえそれが詩人の内的必然によるとしても)、『白き山』に伝統的定型への依存による思考停止の陥穽(たとえそれが歌集としては見事だとしても)を見るのは中村氏の現代詩への鋭敏な問題意識の現れでしょう。これは今なお解決されない問題で、短歌、俳句、自由詩がばらばらに詩として存在し交渉がないほど問題自体が霧消しかねないものです。

 一方'70年代の代表作に「日本の大詩人は虚子と茂吉」と書いて論議を巻き起こした「荒地」グループで鮎川信夫と並ぶ詩人、田村隆一にも強烈な高村光太郎論「癌細胞」(「ユリイカ」昭和34年2月)があります。田村はほぼ吉本隆明の『高村光太郎』を常識とした現代詩の真摯な読者に対して「たしかに光太郎の詩作態度は『道程』から戦争詩を経て戦後の「暗愚小傳」にいたるまでいささかの変化もないようです。ただ、作品の完成度というよりも、ある時期の詩が「物言う批評」か、物を言わない「批評」にすぎないかという点で、それぞれの時期における彼の詩的活動に対する評価がちがってくるのではないかと思われます。多くの批評家によって、彼は、同時代のいかなる詩人よりも「思想的な詩人」として規定されていますが、それも「物言う批評」が他の詩人たちから彼を強烈に識別させただけのことで、光太郎自身に厳密な意味での「思想」を見出すことは、すくなくとも私にはできません。むしろ、彼は「思想」などという曖昧なものを信じなかったにちがいないのです。彼は詩人である前に、なにより彫刻家であり、「物」を徹底的に信じなければ、その仕事が成立しない世界に属している人間なのです。」とし、「私たちが光太郎の詩の世界で、まず第一に求めなければならないことは、彼の「思想」でもなければ「情緒」でもありません。「文学的には進歩のない」(註・高村の随筆「某月某日」より)詩作態度に「よってしか」彼が求められなかったものを、求めなければならないのです。」という地点から吉本隆明、伊藤信吉よりもさらに進んだ論旨に向かいます。例えば伊藤氏は高村の詩句に求道性を見て「これを個人的真実の追求という倫理的人間の立場に限定しないで、それを突き破ることはできないのか」と高村の可能性と限界を惜しみますが、田村氏の見解では「光太郎の詩は、その生涯を通じて、その時と場所を問わず、ネガティヴな形であらわわれ、破壊的な要素によって成立してきた」ので「クリエイティヴの力がそもそも根源的に欠けている光太郎の詩意識から、倫理的詩人や芸術的詩人を探し出してくるのは、むしろ私には滑稽に思えるのです。」と身も蓋もありません。
 また伊藤氏が資本主義社会批判詩である「猛獣篇」詩編中の「象の銀行」「白熊」2編が戦争詩集『記録』にも編入され反アメリカ詩として意味を変えられているのを問題とするのにも田村隆一は当初のモチーフからすれば当然と一蹴し、さらに高村の初期作品から戦時下の詩編まで検討して「青春の当初に「故郷」(註・バーナード・リーチに献じた初期詩編「廃頽者より」の「君に故郷あり/余に故郷なし」より)を喪失した強烈なデカダンスの心は、あらゆる破壊的な力を動員して「故郷」の再発見に、戦ってきたのです。この詩人にとって、詩ははじめから戦争詩でした。」「大平洋戦争は、光太郎にとって、おそらく最後の「故郷」再発見のチャンスでした。彼の不幸は、生硬な漢語のなかに「故郷」を見出そうとしたことです。そして、孤独な天皇しか、彼には見出せなかったことです。」とし、この高村論のタイトルの由来であるアメリカの現代詩人リチャード・エバハート(1904-2005)の作品「癌細胞」を全行紹介します。以下引用します。

   癌 細 胞  リチャード・エバハート

 今日 私は癌細胞の写真を見た
 威嚇的な態度の気味悪い形態を。
 それらは試験管からはみ出し増殖していた、
 威嚇的な態度の気味悪い形態が。
 向うの世までも広がってゆく悪性の笑う群れ。
 それは芸術そのもののようだった、芸術家の心のようだった。
 強烈な震蘯器、新しい形態の作り手、
 この始末にならぬ形を見ようとひかれる者もあるのだ。
 それはまた来るべき未来の世界なのだ。
 かれらの言葉ほど活力のあるものはない
 致命的な、きらめく、不規則な星、
 残忍なる宇宙のデザイン
 狂おしい癌細胞たちの熱病的ダンス。
 ああ全く大したことだ、私は時間という
 積み重なる潤沢の中をそれらと共に飛んだ、
 それらの溌剌たる、美しい、すばやくてほっそりした身振りに写るは
 私の悪意。しかもかれらの荒れまわるなかにも
 私には芸術家風の姿勢が見えたのだ、
 多量の流動の仲の固まった形が。
 私は思うのだ、レオナルドは無関心のうちに
 尖った鉛筆で正確にそれらを描いて
 見たであろうと。

 田村隆一は「余計な註釈をくわえるまでもありますまい。私はただ高村光太郎の戦争詩を含めた詩的世界のすべてを、ちょうどレオナルドのような眼であなたにながめていただきたかったからです。」と締めくくっています。これは田村隆一ならではの芸なので真似ると痛いだけですが、高村論が先にあったのかエバハートの詩から高村論を着想したのかわからないくらい強烈な下げです。いずれにしろ戦後詩人第1世代の田村隆一、第2世代の中村稔ともども高村光太郎については極めて厳しく、『現代詩読本・高村光太郎』で鮎川信夫、吉本隆明、大岡信とも務めて高村に寄り添った見解を披露しているのはすでに歴史上の人物として距離感がとれる時代になったからでしょう。ただし高村が宮澤賢治とともに一種人格的な、宗教的とさえ言える信奉者を読者に持つ詩人として異様なことは3氏とも認めた上で距離を置いているように思います。また『現代詩読本』のシリーズでは各巻代表詩50選が掲載されますが、鮎川・吉本・大岡3氏とも詩集『典型』からは1編も選ばず、戦争詩「堅冰いたる」「沈思せよ蒋先生」「琉球決戦」や最晩年の詩からは数編が選ばれています。文学全集類では高村光太郎は萩原朔太郎、宮澤賢治とともに必ず巻が立てられ、詩集『道程』『智恵子抄』とともに『典型』は必ず収録されますが、高村の作品歴史上の重要な作品とはされても高村の全詩作品中最長の力作である長編詩「暗愚小傳」が巻の半分を占める詩集『典型』は単行詩集それ自体はほとんど評価されない不幸な詩集です。
 もし田村隆一が評したように高村が真にネガティヴで、破壊的で、クリエイティヴィティを欠いていた詩人なら、そうした詩人を口語自由詩の時代最大の確立者とした日本の現代自由詩とはどういうことになるのか。中村稔が「雪白く積めり」の他一、二編しか自律性のある詩作品がない、とまで酷評する詩集『典型』こそが田村隆一の論を証明するにせよ、少なくともそれは、前回にも引用した、

「過去一、二年秋間の詩のベストセラーは高村光太郎詩集『典型』だということも注目すべき現象だ。なぜ。もちろん日本人の多くはこうした人間のタイプの偉さを好むからだ。またそういう人間が一般に詩人として愛されているということがわかる。日本文学の伝統中には漢詩の流れがある。国士の憂鬱と東洋流の原始主義が美しく混入されている。この忠孝愛国の詩は天にうそぶき地にこくすのだ。土を耕しロマン・ロランを読むこの愛国の英雄豪傑は、菊をつむ陶淵明よりも雄大で悲壮である。」
(西脇順三郎「日本人好みの詩」・初出昭和26年11月29日「朝日新聞」、詩論集『斜塔の迷信』昭和32年5月刊収録)

 --という指摘通りの意味では成功したのは確かです。「土を耕しロマン・ロランを読むこの愛国の英雄豪傑(高村)は、菊をつむ陶淵明よりも雄大で悲壮である。」という皮肉の壮大さは壮大すぎて皮肉と気づかれず平然と大新聞の文化欄に掲載されたようですが、おそらく高村にも通じない種類の皮肉だったでしょう。引用箇所全文が皮肉のかたまりであるこの西脇による詩集『典型』評は残酷さに気づかないほど冷酷非情に的中した批評ですが、同時に高村光太郎はどんな批評を受けようともすでに変わるには遅過ぎた詩人だったのが痛感されます。西脇の人気が的中しているのであれば的中しているほど高村は生涯求道詩人であるかのごとき姿勢を崩せませんでした。これをしも癌細胞と呼ぶならば、あまりに一人の詩人に対して厳しすぎるようにも思えるのです。

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