'70年代のベルイマン作品は半数は失敗作なのは前回触れた通りですが、一般的には不調のイメージがないのは『叫びとささやき』'73、『ある結婚の風景』'73/74、『魔笛』'75、そして今回ご紹介する『秋のソナタ』'78という人気作があるからでしょう。失敗作の系列は『愛のさすらい(ザ・タッチ)』'71、『鏡の中の女』'76、『蛇の卵』'77、『夢の中の人生』'80と続きますがこれらはほとんど顧みられないので失敗作はなかったことになっている印象があります。観直してみて'70年代のベルイマンは『叫びとささやき』に尽きるかな、とも思いますが『秋のソナタ』はイングリッド・バーグマンの遺作となった作品で、バーグマンはもともとスウェーデン出身でハリウッドに渡った女優ですが、これまでベルイマン作品に出演したハリウッド俳優はエリオット・グールドとデイヴィッド・キャラダインしかいないので『秋のソナタ』はベルイマン作品空前絶後のスター映画になりました。今回ご紹介する3作の次はベルイマンの監督引退記念作品『ファニーとアレクサンデル』'82になり、その後劇映画の監督作品はテレビ用の自画像的小品『リハーサルの後で』'84、さらに20年あまりを経て『ある結婚の風景』の後日談的な本当の遺作『サラバンド』2003が製作されます。長編劇映画全42作、『秋のソナタ』は監督デビュー32年目にしてベルイマン第38作目に当たる作品です。
●8月11日(金)
『秋のソナタ』Hostsonaten (西ドイツ/ペルゾナフィルム'78)*89min, Eastmancolor, Widescreen ; 日本公開昭和56年(1981年)10月、キネマ旬報ベストテン第2位、文化庁芸術祭最優秀賞受賞
・長年に渡る国際的ピアニストの母と娘の微妙な絆と確執を描く。西ドイツ作品だが本作は撮影のスヴェン・ニイクヴィスト以外も北欧のスタッフで制作。ゴールデングローヴ賞外国語映画賞、ニューヨーク批評家協会賞主演女優賞。ノルウェー北部の田園地方の牧師館で暮らすエーヴァ(リヴ・ウルマン)とヴィクトル(ハールヴァル・ビョルク)は年が離れた夫婦だが温和で静かな平和な生活を送っている。エーヴァはピアニストとして華やかな生活を送ってきた母シャロッテ(イングリッド・バーグマン)を母の愛人レオナルドの逝去の知らせを受けて牧師館に7年ぶりに招く。エヴァは妹で退行性脳性麻痺を病んでいるヘレーナ(レーナ・ニーマン)を同居させており、母と会わせるという目的もあった。ヘレーナの同居をエヴァから聞き、急に苛立ちの表情を見せるシャロッテ。夕食後、エーヴァに弾かせたショパンのプレリュードに冷徹にアドヴァイスしながら自信に満ちて模範演奏する母の表情を見つめるエーヴァ。その夜、ヴィクトルにエーヴァのことを尋ねたシャルロッテは、エヴァが息子エーリックを生んだ時の幸福そうな様子や4歳になる直前にエリックが溺死した時のことなどを知る。夜ふけ、夢にうなされるシャロッテ。酔ったエーヴァは、それまで内に秘めていた母ヘの怒りを爆発させる。いつも自分や父をおいて演奏旅行に出ていった母。いつも自分のことしか考えない、ヘレーナと向かい合うのも避けてばかりいる、と一方的な娘の攻撃にシャロッテは弁解するが母娘はついに和解できない。翌日、母シャロッテは旅立っていき、エーヴァは母に詫びる手紙を書いてヴィクトルに託す。本作はまずイングリッド・バーグマン(1915-1982)の出演が決定してからシナリオが書き下ろされたらしく、映画で母と娘の確執を描いた作品は思い当たらないのでやってみたそうだが、それはさておき(『ステラ・ダラス』はどうなる?)おそらく本作はバーグマンのギャラだけで製作予算の半分は占められただろうし、それでもハリウッド作品よりは一桁安いギャラだろうがロッセリーニ以来のアート系ヨーロッパ映画ということでバーグマンも妥協したに違いない。現場ではベルイマンのシナリオに文句をつけ他の俳優やスタッフは凍りついたという裏話がある。さて、ベルイマン作品にバーグマンが出演すること自体メタ映画的なのだがそれはベルイマン自身も分かっていて、本作はのっけから牧師(ビョルク)が観客に自分と妻(ウルマン)との馴れ初めと姑(バーグマン)の来訪予定を説明する場面から始まる。別にメタ映画的な効果を狙ったものではなく手っ取り早い設定の理解のためなのだがベルイマンの作品でメタ映画的趣向が初めて現れたのは謎の老人が「これから語るお話は……」と映画を始まる第2作『われらの恋に雨が降る』'46と古く、さらに複雑化したのが映画の構想を登場人物たちがディスカッションする冒頭のシークエンスの後で字幕タイトルではなくナレーションでクレジットが読み上げられる第6作『牢獄』'49で、以降の作品では多かれ少なかれ時間構成の整理や多元描写に直接的な解説が入るようになり、『魔術師』'58、『処女の泉』'60に続くファンタジー喜劇の第22作『悪魔の眼』'60では堂々と司会者が作品の設定と進行を解説する。それを言えば『夏の夜は三たび微笑む』'56や『第七の封印』'57の短いエピローグも自作自註的なものだし『野いちご』'57も主人公の一人称モノローグがプロローグとエピローグをなす。ベルイマンの監督デビュー時は戦前フランス映画の影響下で当時全盛期のフィルム・ノワールの作劇法を参考にしたそうだから、フィルム・ノワール特有の倒叙時制やモノローグの多用は当然下地になっているに違いなく、『牢獄』や『悪魔の眼』の場合は低予算・省スケジュールの条件から苦肉の策でメタ映画になったことが知られる。『悪魔の眼』以降、つまり'60年代作品のベルイマンは様式化とメタ映画化がどんどん進行して'70年代作品でもそれは変わらなかった。『叫びとささやき』や『ある結婚の風景』などの成功作ではメタ映画的趣向が自然に溶け込んでいるが失敗作では失敗に輪をかけることになった。バーグマンのギャラに予算が取られた分本作の製作は実質低予算映画並みになったはずで冒頭の設定解説から黄信号が点滅するが、そこを何とかクリアするとメジャー映画の大女優バーグマンらしい余裕の演技がベルイマン作品には明らかに異質ながら、ウルマンの演技の質との対照がそのまま本作の母と娘の確執に置き換わってどこか座りの悪い場面が続く。バーグマンが台詞に文句をつけたのもバーグマンとしては根拠があるというか、ベルイマン作品のリアリティの水準はハリウッド映画の基準よりも一旦抽象化されたもので、舞台劇のリアリティが一般的に映画のリアリティとは異なるのと事情は似ている。バーグマンはベルイマンの師グスタフ・モランデル作品のヒロインでハリウッドに招聘されたスウェーデン出身女優だが、スウェーデン映画というか北欧文化全体にはある種の神秘主義的傾向が19世紀からあってベルイマンのような世話物(人情劇)映画専門の映画監督にもそれがある。物質的なハリウッド映画には皆無な要素だしバーグマンの前夫ロッセリーニもイタリア映画らしいラテン的な官能性がありベルイマンのような貧血映画はバーグマンには縁遠い世界になっていた。一方ウルマンの役柄通りの萎縮した演技はいつものベルイマン作品以上に際立ち、小娘のようになっている。バーグマンはとても撮影当時62歳には見えない口元、ほうれい線、肌の張りが40代でも通る若々しさで実年齢とのギャップを思うと何だかすごい。バーグマンはガン宣告を受けたばかりで苦痛は撮影中にも始まっていたという。退行性脳性麻痺患者の次女ヘレーナは本物の患者を起用しているらしく(役名と本名が同じ)これもちょっとすごい。バーグマン出演によってテーマの分かりやすい映画になったからか'40年代末~'50年代前半のベルイマン映画のような感触もある。『叫びとささやき』とほぼ同じ長さの作品だが10人ほどの登場人物が濃密な劇を組み上げる『叫びとささやき』の大作感は本作にはなく、小品佳作程度に留まるまとまり具合がある。悪くないがこの内容なら日本映画にもっと良い作品(溝口や成瀬なら本作程度は水準作)がある気がする。本作の日本での人気は日本映画に似ているからかもしれない。
●8月12日(土)
『フォール島の記録II』Faro-dokument 1979 (スウェーデン/シネマトグラフ社'79)*100min, B/W & Eastmancolor, Standard テレビ用ドキュメンタリー、劇場公開 ; 日本未公開、映像ソフト未発売
・1970年の『フォール島の記録』の続編で前作の倍近い長さの長編ドキュメンタリー作品になっている。ベルイマンが『仮面/ペルソナ』'66のロケハン中にバルト海中央のゴットランド島の北端に接する小島フォール島を見つけて住居を建て移住したのは1966年~1967年にかけてのことで、『仮面/ペルソナ』と『狼の時刻』'68からの孤島三部作、『愛のさすらい(ザ・タッチ)』'71はフォール島とゴットランド島で撮影された。1969年製作の前作のドキュメンタリーからちょうど10年、インタビューの比重の多かった69年版より今回は島の生活と景物に多くの場面を費やしている。ゴットランド本島への架け橋は10年後でも実現していず島民はフェリーで本島へ行き来する。島に住む農夫の老詩人が紹介される。また、69年版でインタビューに登場したスクールバスの子供たちが現在の姿と対照される。子供たちは10年経って事務員や工事夫、学生、地下鉄運転手になっている。農村風景、夏の避暑客たち。農村では69年版の子供たちも今では農作業する若い農夫になっている。観光客たちが去った秋の海岸。スクールバスで今学校に通う子供たちのインタビューが入る。島に残って働きたい、という子供が以前よりは増えている。学校の教師が予算の申請がなかなか通らない、とこぼす。農家の庭で豚肉の解体作業が行われる。冬が訪れる。漁船が海に乗り出していく。前作「69」を観ている方が感動できるが骨をうずめるつもりでベルイマン本人が移住しただけの覚悟はある。『ある結婚の風景』の各部にも毎回フォール島の風景がクレジットのナレーションのタイトルバックに使われていたがベルイマン自身のプライヴェート・フィルムで観光客誘致の意図があったのだろう。このドキュメンタリーでも観光地としての発展を期待する内容が出てくる。フォール島にかけてはベルイマン以上によく知る映画監督はいないという自負があり、概略は「69」で済ませたから本作はその後日談と一種の観光映像でフォール島の魅力をアピールしてみせた、というかベルイマン自身がこれほど愛着を持っていること自体を訴えている。農民老詩人が全編の随所に登場するのもベルイマンが島民に知己を見つけたからだろう。「69」の子供たちの10年後の再取材にもドキュメンタリー専門監督であるかのような律儀さと几帳面な丁寧さがうかがえて感動的。100分の長編ドキュメンタリーだが劇映画以上に見どころが多く、前作「69」から構想10年、1年以上かけて撮影された重みが伝わってくる。地元愛を盛り込んだドキュメンタリー映画だからと言ってはそれきりだがこの愛には不純物がなく心に染み入る。ベルイマンの劇映画では画面を観ているだけで幸福感に浸れる作品などないだけになおさら美しく感じられる。これは「69」と2作一組で日本盤映像ソフト化が望まれる作品だが、あまりに非商業的内容でベルイマン一斉再発売の日本初ソフト化というきっかけでもないと無理だろうか。2018年のベルイマン生誕100周年記念には現在多数廃盤のベルイマン作品の再発売があるだろうか。
●8月13日(日)
『夢の中の人生』Aus dem Leben der Marionetten (西ドイツ/ペルゾナフィルム, バイエルン州立劇団'80)*100min, B/W & Eastmancolor, Widescreen ; 日本未公開、映像ソフト発売
・これなども日本未公開・映像ソフト廃盤状態で再発売が望まれる作品。『蛇の卵』'77以来続く西ドイツ作品で前作『秋のソナタ』では北欧人スタッフだったが、今回は撮影のスヴェン・ニイクヴィスト以外は再びまた西ドイツのスタッフが勤め、ベルイマン作品としては異例の映画出演経験のない西ドイツの地方劇団員がキャストに起用された異色作。舞台も現代の西ドイツという設定。原題直訳は『マリオネットたちの人生より』。衝動的殺人の裏に隠された人間関係の破掟を複雑な時制の交錯で描く。内向的性格の青年ペーター(ロバート・アルツィフォン)は、ある日娼館を訪ねて衝動的に相手の娼婦(リタ・ルッセク)を殺してしまう。事件の二週間前、彼は精神分析医イェンスン教授(マーティン・ベンラート)にファッション・モデルの妻カタリーナ(クリスティーネ・ブッヒェンガー)との精神的疎通の問題でカウンセリングを受け、イェンスン教授とカタリーナの不倫を勘づき、さらにカタリーナのエージェントの名物業界人ティム(ヴァルター・シュミディンガー)がペーターの母の証言ではペーターと同性愛関係にあった疑惑と、ティムがペーターを被害者の娼婦に紹介した経緯が語られる。精神異常で無罪ながら拘置されたペーターがようやく訪れた平穏に淡々と拘置所の一室で過ごす様子が描かれて映画は終わる。アントニオーニというよりファスビンダーみたいだなというのが率直な印象で、オリジナル脚本の要素以上にキャストとスタッフの持ち込んだテイストが'70年代末の西ドイツの雰囲気をもたらした結果だと思われる。第1次・第2次大戦間ドイツを舞台にした『蛇の卵』よりも現代ものだけにその辺りははっきりと出ており、西ドイツ映画でも北欧人スタッフで撮影された『秋のソナタ』は内容はベルイマン従来のスウェーデン映画だったから環境が作品のカラーを左右する面は大きい。『蛇の卵』がフリッツ・ラング風怪奇スリラーだとしたら本作はドイツ表現主義風異常心理犯罪映画で、古臭いとも言えるがベルイマンより20歳若手のファスビンダーにも『なぜR氏は発作的に殺人を犯したか?』'70や『少しの愛だけでも』'76のような強烈な不条理犯罪ものの秀作はある。西ドイツのファスビンダーの同世代監督たちにも同様の指向があり、エドガー・ライツの『カルディラック』'69など真っ先に思い浮かぶ。ファスビンダーは演劇畑出身という点でもベルイマンと共通しており、本作に起用された劇団もファスビンダーと同世代の新しい世代の劇団でベルイマン書き下ろしの本作の脚本に通じる指向性の劇団だったのだろう。ベルイマンの器用な面が出たというかこれではプロデュースと脚本提供だけしてドイツの若手監督に任せても良かったのではないかというか、完全に西ドイツの映画になり切っていてベルイマン色は限りなく稀薄に近い。最新作は常に遺作のつもりで撮る、と'70年代以降ベルイマンは発言しているが本作はおそらく本当の監督引退記念作品『ファニーとアレクサンデル』'82の準備に入っており、本作は邪推だがスタッフ、キャストともノーギャラ(ベルイマンとニイクヴィスト除く)という好条件でも舞い込んできて実現した企画ではないか。ちなみに本作は冒頭とラストのシークエンス(プロローグとエピローグ部分)だけがカラーで本編はB/W、これも非商業的劇映画を撮りたくなった意欲の現れと取れる。面白いかというと当時のドイツ映画ほど面白さを捨てた映画はなく本作も例に洩れないが、アントニオーニ的実存主義から本作に転換し'70年代を締めくくったのはベルイマン本人には意図せずして一気に若返り的な効果があって、明らかな失敗作だが講演集『ベルイマンは語る』で擁護しているのも新鮮な気分で撮れたからだろう。これが長編劇映画39作目、次はいよいよ引退記念作品になる。
*[ 原題の表記について ]スウェーデン語の母音のうちaには通常のaの他にauに発音の近いaとaeに近いaの3種類、oには通常のoの他にoeに発音の近い2種類があり、それぞれアクセント記号で表記されます。それらのアクセント記号は機種依存文字でブログの文字規格では再現できず、auやoeなどに置き換えると綴字が変わり検索に不便なので、不正確な表記ですがアクセント記号は割愛しました。ご了承ください。
●8月11日(金)
『秋のソナタ』Hostsonaten (西ドイツ/ペルゾナフィルム'78)*89min, Eastmancolor, Widescreen ; 日本公開昭和56年(1981年)10月、キネマ旬報ベストテン第2位、文化庁芸術祭最優秀賞受賞
・長年に渡る国際的ピアニストの母と娘の微妙な絆と確執を描く。西ドイツ作品だが本作は撮影のスヴェン・ニイクヴィスト以外も北欧のスタッフで制作。ゴールデングローヴ賞外国語映画賞、ニューヨーク批評家協会賞主演女優賞。ノルウェー北部の田園地方の牧師館で暮らすエーヴァ(リヴ・ウルマン)とヴィクトル(ハールヴァル・ビョルク)は年が離れた夫婦だが温和で静かな平和な生活を送っている。エーヴァはピアニストとして華やかな生活を送ってきた母シャロッテ(イングリッド・バーグマン)を母の愛人レオナルドの逝去の知らせを受けて牧師館に7年ぶりに招く。エヴァは妹で退行性脳性麻痺を病んでいるヘレーナ(レーナ・ニーマン)を同居させており、母と会わせるという目的もあった。ヘレーナの同居をエヴァから聞き、急に苛立ちの表情を見せるシャロッテ。夕食後、エーヴァに弾かせたショパンのプレリュードに冷徹にアドヴァイスしながら自信に満ちて模範演奏する母の表情を見つめるエーヴァ。その夜、ヴィクトルにエーヴァのことを尋ねたシャルロッテは、エヴァが息子エーリックを生んだ時の幸福そうな様子や4歳になる直前にエリックが溺死した時のことなどを知る。夜ふけ、夢にうなされるシャロッテ。酔ったエーヴァは、それまで内に秘めていた母ヘの怒りを爆発させる。いつも自分や父をおいて演奏旅行に出ていった母。いつも自分のことしか考えない、ヘレーナと向かい合うのも避けてばかりいる、と一方的な娘の攻撃にシャロッテは弁解するが母娘はついに和解できない。翌日、母シャロッテは旅立っていき、エーヴァは母に詫びる手紙を書いてヴィクトルに託す。本作はまずイングリッド・バーグマン(1915-1982)の出演が決定してからシナリオが書き下ろされたらしく、映画で母と娘の確執を描いた作品は思い当たらないのでやってみたそうだが、それはさておき(『ステラ・ダラス』はどうなる?)おそらく本作はバーグマンのギャラだけで製作予算の半分は占められただろうし、それでもハリウッド作品よりは一桁安いギャラだろうがロッセリーニ以来のアート系ヨーロッパ映画ということでバーグマンも妥協したに違いない。現場ではベルイマンのシナリオに文句をつけ他の俳優やスタッフは凍りついたという裏話がある。さて、ベルイマン作品にバーグマンが出演すること自体メタ映画的なのだがそれはベルイマン自身も分かっていて、本作はのっけから牧師(ビョルク)が観客に自分と妻(ウルマン)との馴れ初めと姑(バーグマン)の来訪予定を説明する場面から始まる。別にメタ映画的な効果を狙ったものではなく手っ取り早い設定の理解のためなのだがベルイマンの作品でメタ映画的趣向が初めて現れたのは謎の老人が「これから語るお話は……」と映画を始まる第2作『われらの恋に雨が降る』'46と古く、さらに複雑化したのが映画の構想を登場人物たちがディスカッションする冒頭のシークエンスの後で字幕タイトルではなくナレーションでクレジットが読み上げられる第6作『牢獄』'49で、以降の作品では多かれ少なかれ時間構成の整理や多元描写に直接的な解説が入るようになり、『魔術師』'58、『処女の泉』'60に続くファンタジー喜劇の第22作『悪魔の眼』'60では堂々と司会者が作品の設定と進行を解説する。それを言えば『夏の夜は三たび微笑む』'56や『第七の封印』'57の短いエピローグも自作自註的なものだし『野いちご』'57も主人公の一人称モノローグがプロローグとエピローグをなす。ベルイマンの監督デビュー時は戦前フランス映画の影響下で当時全盛期のフィルム・ノワールの作劇法を参考にしたそうだから、フィルム・ノワール特有の倒叙時制やモノローグの多用は当然下地になっているに違いなく、『牢獄』や『悪魔の眼』の場合は低予算・省スケジュールの条件から苦肉の策でメタ映画になったことが知られる。『悪魔の眼』以降、つまり'60年代作品のベルイマンは様式化とメタ映画化がどんどん進行して'70年代作品でもそれは変わらなかった。『叫びとささやき』や『ある結婚の風景』などの成功作ではメタ映画的趣向が自然に溶け込んでいるが失敗作では失敗に輪をかけることになった。バーグマンのギャラに予算が取られた分本作の製作は実質低予算映画並みになったはずで冒頭の設定解説から黄信号が点滅するが、そこを何とかクリアするとメジャー映画の大女優バーグマンらしい余裕の演技がベルイマン作品には明らかに異質ながら、ウルマンの演技の質との対照がそのまま本作の母と娘の確執に置き換わってどこか座りの悪い場面が続く。バーグマンが台詞に文句をつけたのもバーグマンとしては根拠があるというか、ベルイマン作品のリアリティの水準はハリウッド映画の基準よりも一旦抽象化されたもので、舞台劇のリアリティが一般的に映画のリアリティとは異なるのと事情は似ている。バーグマンはベルイマンの師グスタフ・モランデル作品のヒロインでハリウッドに招聘されたスウェーデン出身女優だが、スウェーデン映画というか北欧文化全体にはある種の神秘主義的傾向が19世紀からあってベルイマンのような世話物(人情劇)映画専門の映画監督にもそれがある。物質的なハリウッド映画には皆無な要素だしバーグマンの前夫ロッセリーニもイタリア映画らしいラテン的な官能性がありベルイマンのような貧血映画はバーグマンには縁遠い世界になっていた。一方ウルマンの役柄通りの萎縮した演技はいつものベルイマン作品以上に際立ち、小娘のようになっている。バーグマンはとても撮影当時62歳には見えない口元、ほうれい線、肌の張りが40代でも通る若々しさで実年齢とのギャップを思うと何だかすごい。バーグマンはガン宣告を受けたばかりで苦痛は撮影中にも始まっていたという。退行性脳性麻痺患者の次女ヘレーナは本物の患者を起用しているらしく(役名と本名が同じ)これもちょっとすごい。バーグマン出演によってテーマの分かりやすい映画になったからか'40年代末~'50年代前半のベルイマン映画のような感触もある。『叫びとささやき』とほぼ同じ長さの作品だが10人ほどの登場人物が濃密な劇を組み上げる『叫びとささやき』の大作感は本作にはなく、小品佳作程度に留まるまとまり具合がある。悪くないがこの内容なら日本映画にもっと良い作品(溝口や成瀬なら本作程度は水準作)がある気がする。本作の日本での人気は日本映画に似ているからかもしれない。
●8月12日(土)
『フォール島の記録II』Faro-dokument 1979 (スウェーデン/シネマトグラフ社'79)*100min, B/W & Eastmancolor, Standard テレビ用ドキュメンタリー、劇場公開 ; 日本未公開、映像ソフト未発売
・1970年の『フォール島の記録』の続編で前作の倍近い長さの長編ドキュメンタリー作品になっている。ベルイマンが『仮面/ペルソナ』'66のロケハン中にバルト海中央のゴットランド島の北端に接する小島フォール島を見つけて住居を建て移住したのは1966年~1967年にかけてのことで、『仮面/ペルソナ』と『狼の時刻』'68からの孤島三部作、『愛のさすらい(ザ・タッチ)』'71はフォール島とゴットランド島で撮影された。1969年製作の前作のドキュメンタリーからちょうど10年、インタビューの比重の多かった69年版より今回は島の生活と景物に多くの場面を費やしている。ゴットランド本島への架け橋は10年後でも実現していず島民はフェリーで本島へ行き来する。島に住む農夫の老詩人が紹介される。また、69年版でインタビューに登場したスクールバスの子供たちが現在の姿と対照される。子供たちは10年経って事務員や工事夫、学生、地下鉄運転手になっている。農村風景、夏の避暑客たち。農村では69年版の子供たちも今では農作業する若い農夫になっている。観光客たちが去った秋の海岸。スクールバスで今学校に通う子供たちのインタビューが入る。島に残って働きたい、という子供が以前よりは増えている。学校の教師が予算の申請がなかなか通らない、とこぼす。農家の庭で豚肉の解体作業が行われる。冬が訪れる。漁船が海に乗り出していく。前作「69」を観ている方が感動できるが骨をうずめるつもりでベルイマン本人が移住しただけの覚悟はある。『ある結婚の風景』の各部にも毎回フォール島の風景がクレジットのナレーションのタイトルバックに使われていたがベルイマン自身のプライヴェート・フィルムで観光客誘致の意図があったのだろう。このドキュメンタリーでも観光地としての発展を期待する内容が出てくる。フォール島にかけてはベルイマン以上によく知る映画監督はいないという自負があり、概略は「69」で済ませたから本作はその後日談と一種の観光映像でフォール島の魅力をアピールしてみせた、というかベルイマン自身がこれほど愛着を持っていること自体を訴えている。農民老詩人が全編の随所に登場するのもベルイマンが島民に知己を見つけたからだろう。「69」の子供たちの10年後の再取材にもドキュメンタリー専門監督であるかのような律儀さと几帳面な丁寧さがうかがえて感動的。100分の長編ドキュメンタリーだが劇映画以上に見どころが多く、前作「69」から構想10年、1年以上かけて撮影された重みが伝わってくる。地元愛を盛り込んだドキュメンタリー映画だからと言ってはそれきりだがこの愛には不純物がなく心に染み入る。ベルイマンの劇映画では画面を観ているだけで幸福感に浸れる作品などないだけになおさら美しく感じられる。これは「69」と2作一組で日本盤映像ソフト化が望まれる作品だが、あまりに非商業的内容でベルイマン一斉再発売の日本初ソフト化というきっかけでもないと無理だろうか。2018年のベルイマン生誕100周年記念には現在多数廃盤のベルイマン作品の再発売があるだろうか。
●8月13日(日)
『夢の中の人生』Aus dem Leben der Marionetten (西ドイツ/ペルゾナフィルム, バイエルン州立劇団'80)*100min, B/W & Eastmancolor, Widescreen ; 日本未公開、映像ソフト発売
・これなども日本未公開・映像ソフト廃盤状態で再発売が望まれる作品。『蛇の卵』'77以来続く西ドイツ作品で前作『秋のソナタ』では北欧人スタッフだったが、今回は撮影のスヴェン・ニイクヴィスト以外は再びまた西ドイツのスタッフが勤め、ベルイマン作品としては異例の映画出演経験のない西ドイツの地方劇団員がキャストに起用された異色作。舞台も現代の西ドイツという設定。原題直訳は『マリオネットたちの人生より』。衝動的殺人の裏に隠された人間関係の破掟を複雑な時制の交錯で描く。内向的性格の青年ペーター(ロバート・アルツィフォン)は、ある日娼館を訪ねて衝動的に相手の娼婦(リタ・ルッセク)を殺してしまう。事件の二週間前、彼は精神分析医イェンスン教授(マーティン・ベンラート)にファッション・モデルの妻カタリーナ(クリスティーネ・ブッヒェンガー)との精神的疎通の問題でカウンセリングを受け、イェンスン教授とカタリーナの不倫を勘づき、さらにカタリーナのエージェントの名物業界人ティム(ヴァルター・シュミディンガー)がペーターの母の証言ではペーターと同性愛関係にあった疑惑と、ティムがペーターを被害者の娼婦に紹介した経緯が語られる。精神異常で無罪ながら拘置されたペーターがようやく訪れた平穏に淡々と拘置所の一室で過ごす様子が描かれて映画は終わる。アントニオーニというよりファスビンダーみたいだなというのが率直な印象で、オリジナル脚本の要素以上にキャストとスタッフの持ち込んだテイストが'70年代末の西ドイツの雰囲気をもたらした結果だと思われる。第1次・第2次大戦間ドイツを舞台にした『蛇の卵』よりも現代ものだけにその辺りははっきりと出ており、西ドイツ映画でも北欧人スタッフで撮影された『秋のソナタ』は内容はベルイマン従来のスウェーデン映画だったから環境が作品のカラーを左右する面は大きい。『蛇の卵』がフリッツ・ラング風怪奇スリラーだとしたら本作はドイツ表現主義風異常心理犯罪映画で、古臭いとも言えるがベルイマンより20歳若手のファスビンダーにも『なぜR氏は発作的に殺人を犯したか?』'70や『少しの愛だけでも』'76のような強烈な不条理犯罪ものの秀作はある。西ドイツのファスビンダーの同世代監督たちにも同様の指向があり、エドガー・ライツの『カルディラック』'69など真っ先に思い浮かぶ。ファスビンダーは演劇畑出身という点でもベルイマンと共通しており、本作に起用された劇団もファスビンダーと同世代の新しい世代の劇団でベルイマン書き下ろしの本作の脚本に通じる指向性の劇団だったのだろう。ベルイマンの器用な面が出たというかこれではプロデュースと脚本提供だけしてドイツの若手監督に任せても良かったのではないかというか、完全に西ドイツの映画になり切っていてベルイマン色は限りなく稀薄に近い。最新作は常に遺作のつもりで撮る、と'70年代以降ベルイマンは発言しているが本作はおそらく本当の監督引退記念作品『ファニーとアレクサンデル』'82の準備に入っており、本作は邪推だがスタッフ、キャストともノーギャラ(ベルイマンとニイクヴィスト除く)という好条件でも舞い込んできて実現した企画ではないか。ちなみに本作は冒頭とラストのシークエンス(プロローグとエピローグ部分)だけがカラーで本編はB/W、これも非商業的劇映画を撮りたくなった意欲の現れと取れる。面白いかというと当時のドイツ映画ほど面白さを捨てた映画はなく本作も例に洩れないが、アントニオーニ的実存主義から本作に転換し'70年代を締めくくったのはベルイマン本人には意図せずして一気に若返り的な効果があって、明らかな失敗作だが講演集『ベルイマンは語る』で擁護しているのも新鮮な気分で撮れたからだろう。これが長編劇映画39作目、次はいよいよ引退記念作品になる。
*[ 原題の表記について ]スウェーデン語の母音のうちaには通常のaの他にauに発音の近いaとaeに近いaの3種類、oには通常のoの他にoeに発音の近い2種類があり、それぞれアクセント記号で表記されます。それらのアクセント記号は機種依存文字でブログの文字規格では再現できず、auやoeなどに置き換えると綴字が変わり検索に不便なので、不正確な表記ですがアクセント記号は割愛しました。ご了承ください。