(『沈黙』日本再公開時ポスター)
'60年代ベルイマン作品は第23作『鏡の中にある如く』'61、第24作『冬の光(原題・聖体拝受者/洗礼受洗者たち)』'62、第25作『沈黙』'63の通称「神の沈黙(不在)」三部作から始まりました。ベルイマンにはこれまでも第14作~第16作『愛のレッスン』'54、『女たちの夢』'55、『夏の夜は三たび微笑む』'55の「恋愛コメディ三部作」(コメディというには苦い作品も含みます)があり、'60年代後半には第28作、第29作、第31作の『狼の時刻』'68、『恥』'68、『情熱』'69の「孤島三部作」がありますが、恋愛コメディ三部作は偶然三部作になったもので、孤島三部作は明らかに「神の沈黙」三部作の成果を踏まえたものですから『鏡の~』『冬~』『沈黙』の三部作はベルイマンが初めて大規模な三部作構想に取り組んだものでした。遺作『サラバンド』2003と同年にリリース中だったベルイマンDVD全集でもこの三部作各編(のちボックス化)には撮り下ろしベルイマン自作解説インタビューが特別収録されており、85歳のベルイマンにとっても45歳の年に完成した「沈黙三部作」は格別の意欲作にして自信作だったのがうかがわれます。実際この三部作はベルイマン後半生の作風を決定したもので極端にミニマムなプロットと設定、一見これまでとは一変したかのような凝縮された映像文体など、ベルイマン作品の典型とされる特徴はこの三部作に先立つ作品、この三部作以後の作品ともにこれを基準とされるようになったほどでした。あらすじを簡略に書けば2~3行で済んでしまうような作品をどう紹介すればいいのか迷いますが、観方によってはとてつもなく眠く退屈極まりないベルイマン映画のピークは'60年代の二つの三部作にあるかもしれません。
●7月25日(火)
『鏡の中にある如く』Sasom i en spegel (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'61)*85min, B/W, Standard ; 日本公開昭和39年(1964年)7月
・ベルリン国際映画祭国際カトリック映画事務局賞・アカデミー賞外国語映画賞受賞作。三部作を通じて撮影は今作から前作までのグンナル・フィッシェルに代わってスヴェン・ニイクヴィスト(以後遺作『サラバンド』を除く全作品を担当)、美術はこれまで通りP・A・ルンドグレーンが手がけるが、音楽は本作こそこれまでのエーリック・ノードグレーンが起用されるものの三部作を通してバッハ、礼拝歌曲の使用が主になる。本作の簡単なあらすじは、海辺の別荘でヴァカンス中の作家ダーヴィッド(グンナル・ビョーンストランド)とその娘カーリン(ハリエット・アンディション)、カーリンの弟ミーヌス(ラーシュ・パスゴート)とカーリンの夫の医師マッティン(マックス・フォン・シードウ)はカーリンの精神疾患の消長に翻弄されるが悪化する一方のカーリンは夫とともにヘリコプターで病院に緊急搬送されていき、不仲だったダーヴィッドとミーヌス父子は初めて互いを理解しあう、というもの。カーリンは父の日記から自分と弟が食品の買い物で不在中に夫が父に自分の精神疾患を伝えてそれが回復の望みがなく、また父が作家的な興味から自分を注意深く観察しているとを知って錯乱を深め、父と夫の両者から突き放されたショックから密かに弟ミーヌスに近親相姦を迫る。マッティンはダーヴィッドの冷酷さを責めるがダーヴィッドもヴァカンス直前に自殺未遂を起こしており、さらにカーリンに母親も同じ病気だったことで強い自責の念を抱いているのを告白する。大きな発作の後で一時小康状態を取り戻したカーリンは父を許し、神が蜘蛛になって現れ体を這い回る幻覚を見た、とヘリコプターに乗る直前に語る。ハリエット・アンディションがヒロインのベルイマン映画といえば映画デビュー作でベルイマン第12作『不良少女モニカ』'53なわけで、ビョーンストランドもこれまで飄々としたブルジョワ中年男役が主だったから本作のアンディションとビョーンストランドは'50年代までのベルイマン作品からすれば思いもよらない神経症的な役になったわけで、本作を先に観ていると'50年代までのアンディションとビョーンストランドが同一人物と思えなくなる。ストーリー上で本来相当ショッキングなはずの近親相姦シーンは浮き上がっておらず、最初観た時は強く印象に残るが観直すと意外とあっさりしていて暗示程度に見える。弟ミーヌスは作家志望で父に認めてもらえないコンプレックスを抱いているが、ミーヌス役の少年俳優は17歳という設定の割には幼すぎて現実の17歳はこんなものだろうが父親への愛憎を感じさせる演技には至っていない。ヒロインの病状は作中では統合失調症になっているが、医学的にはこの病相は統合失調症とは考えられないと指摘されており(一過性の統合失調様状態ではあるかもしれないが)、医学的症状としてのヒステリー(代償行動)には陥っているかもしれないが映画に精神医学的要素を持ち込む危険性を感じる。映画が始まって延々4人だけのキャストで話が続くのでどうなるかと思うと最後まで4人しか出てこないのはかなりの離れ技を観た気にさせられる。三部作を通して言えるが、ベルイマンが『第七の封印』『野いちご』で時の人になった直後に台頭してきたフランスのヌーヴェル・ヴァーグ作品群と、ベルイマンを抜いて時の人になったイタリアのミケランジェロ・アントニオーニへの対抗心が強く感じられ、アントニオーニと並ぶフェデリコ・フェリーニはベルイマンより早く出世していたし親好もあり作風も重ならなかったが、アントニオーニの作風には脅威を抱いたのがアントニオーニの『情事』'60と本作を照合すると伝わってくる。新カメラマンのニイクヴェスト、美術のルンドグレーン、またキャストたちと何度も参考試写したのではないか。次作ではアントニオーニには撮れない宗教的題材を直接扱ったのは同じ土俵ではまずいと悟ったのかもしれない。アンディションやフォン・シードウをもってしてもこの作風のベルイマンにはアントニオーニ作品のような官能性には欠ける。そこが神経症(といっても千差万別だが)でも北欧人と南欧人との違いかもしれない。
●7月26日(水)
『冬の光』Nattvardsgasterna (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'62)*77min, B/W, Standard ; 日本公開昭和50年(1975年)9月
・OCIC国際カトリック映画局グランプリ、ウィーン宗教映画週間最優秀外国映画賞受賞作。原題の「聖体拝受者」はプロテスタントでは普通簡単に「(洗礼)受洗者」と呼ばれるが、スウェーデン国外では英題『Winter Light』に倣って各国語での"冬の光"のタイトルで通用している。あらすじ、田舎町の教区を受け持つ寡夫の中年牧師トーマス(グンナル・ビョーンストランド)は小学校教員マッタ(イングリッド・テュリーン)からの求婚にも乗り気になれず宣教の仕事にも疲労していたが、ノイローゼの信徒の漁師ヨーナス(マックス・フォン・シードウ)の妻カーリン(グンネル・リンドブロム)からの相談でヨーナスと面会した直後にヨーナスの猟銃自殺を知り衝撃を受けたまま午後に巡回する教区内の教会に向かい、マッタ以外の列席者が誰もいない礼拝堂で祈祷を始める。教区内の複数教会を一人の牧師が担当するのは過疎地域ではよくあることで、明治大正の日本でもそうだった。深刻顔はいつも通りのフォン・シードウ演じる漁師ヨーナスのノイローゼは中国の核実験のニュース以来だったと説明される。原水爆が話題にされた最初のベルイマン作品は第6作『牢獄』'49だが、大国よりも周縁的な小国の方が現に日本の例があるわけで、冷戦下の核実験や原水爆開発状況に過敏だったかと思われる。またもや陰鬱な役柄のビョーンストランド演じる牧師トーマスは妻を亡くした後亡妻を美化しており、それがマッタから寄せられる寂しいオールド・ミス的愛情を受け入れられない原因になっている。トーマスの信仰への動揺はヨーナスの妻カーリンの相談に頼りにならず、ヨーナスとの面会もヨーナスの不安を和らげるどころか自発的な動機もなく世襲牧師になったトーマス自身の神への疑問と疑問を抱いたまま宣教師を続ける自分の愚痴を披露してしまい、ヨーナスの遺体の搬送後にカーリンに祈りをともにしようとしてあっさり拒絶される。さびれた教会に着くと教会執事(地方の小教会では教会執事やオルガン奏者は民間人が行う)からはキリストの真の苦しみは磔刑の苦しみではなく処刑が決まるや否や信徒に見捨てられた苦しみと神から見捨てられた苦しみなのではないか、とトーマスが失った真剣な信仰への問いかけを寄せられ、オルガン奏者はマッタにあいつはまだ亡くなった奥さんにこだわってやがる、美人でもなければ身持ちも悪く、トーマスが一方的にのぼせ上がっていただけさ、と暴露する。テュリーン演じるマッタの男ひでり的田舎町のオールド・ミスぶりがトーマスを辟易させている面もふくめて、宗教的題材を扱ってもこういう俗な点はきっちり押さえるところが意地の悪い北欧人ベルイマンらしい。先に触れたアントニオーニへの対抗心は1987年刊(原著)の『ベルイマン自伝』(日本語版・新潮社1989年)からも推察され「映画がドキュメントでないとすれば、それは夢である。そういう意味では、もっとも偉大なのはタルコフスキーである。彼は夢遊病者のような確かさで夢の世界を動きまわり、けっして説明することがない。私は、彼がいとも自然に動きまわっている部屋の扉を一生涯、叩き続けているようなものだ。フェリーニや黒澤明、ブニュエルもタルコフスキーと同じ世界の中にいる。アントニオーニはそこから外へ飛び出したが、彼独特の倦怠感に息が詰まって死んでしまった」と1986年に急逝したばかりのタルコフスキー(1932年生)には甘いがアントニオーニ(1912年生)は2007年7月30日逝去で奇しくもベルイマンと同年月日逝去で当時現存、しかも半身不随で不如意な半引退という気の毒な状態だったのに、死んでしまった、と公に(しかも1987年にもなって)書いてしまうほど目の上のたんこぶだったのがわかる。ヌーヴェル・ヴァーグについてはその監督たちからベルイマンは持ち上げられていたから悪い気はしなかったが、ベルイマンの初期作品は『第七の封印』や『野いちご』のような方向でなければアントニオーニの『女ともだち』'56、『さすらい』'57、『情事』'60、『夜』'61、『太陽はひとりぼっち』'62のような方向に向かう可能性もあったわけで、あんなのならおれだってできたのにと悔しさ倍増だったのが『鏡の~』『冬~』『沈黙』の病人映画三部作に結実した。しかし天然素材のアントニオーニに較べてベルイマンは頭で作った観があり、客観的な正常人の視点もどうしても映画の中に持ち込んでしまう。それが漁師の妻カーリンや教会執事、オルガン奏者に現れている。前作『鏡の~』も父親や夫、弟は正常人の感覚を失わずに幕を下ろしたわけで、ならばといっそう大胆にしたのが三部作最大の挑戦になった最終作『沈黙』だったのだろう。
●7月27日(木)
『沈黙』Tystnaden (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'63)*92min, B/W, Standard ; 日本公開昭和39年(1964年)5月/再公開昭和53年(1978年)6月
・スウェーデン芸術院年間最優秀映画賞、黄金の蕾監督賞受賞作。ついに主要登場人物3人(姉妹と妹の息子)だけ、主題となる事件もないミニマムの極みに至った三部作最終作。脇役もホテルの老ボーイ(ホーカン・ヤーンベルイ)、カフェのウェイター(ビルィエル・マルムスティーン)、小人芸人一座(エドゥアルデーニ一座)しか出てこない。あらすじは、スウェーデンへ戻る旅程で体調を崩し言葉の通じないヨーロッパの小国に宿を取った翻訳家のエステル(イングリッド・テュリーン)、幼い息子ユーハン(ヨルゲン・リンドストレム)を連れた妹アンナ(グンネル・リンドブロム)の3人はホテルの部屋で酒をあおり煙草をふかしながら翻訳の仕事をしながら息抜きのたびにオナニーにふけるエステル、息子を放っておいて夜の街に男あさりに出るアンナ、小人芸人一座に忍び込んで弄ばれたり母の情事を目撃したり夜の街路を進む戦車に気づいたりするユーハンと三者三葉の夜を過ごし、翌朝アンナは息子ユーハンを連れて姉を置いて先に列車で発っていく。姉妹仲は最初から最後まで悪くなぜ一緒に旅程についていたのか説明されないまま映画は続くが、何しろ行動からも正反対の性格なのは一目瞭然なので、姉はユーフォリア(多幸症)で妹はインフォマニア(淫乱症)というひどい設定にスウェーデン本国では女性観客から嫌われる映画として悪名を轟かした。エステルには男性嫌悪症もあって、発作時に「私は臭い精液から生まれてきたから私の体中が精液臭い」というモノローグもあり、つまりこれはベルイマンの男性嫌悪映画ですらある。初期ベルイマン作品の常連主人公マルムスティーンもいきずりの男で顔さえ正面から写されないという扱い。アンナ役リンドブロムは『第七の封印』の聾唖の孤児少女、前作『冬の光』の漁師の妻カーリンを経てこの役だが、部屋にこもってオナニー三昧の役よりはニンフォマニアックの方が外向的なだけまだ正常かもしれない。息子ユーハンは母の情事に驚きもせず伯母エステルにお母さんは?と訊かれ「面白かったよ」と答えるから慣れっこなのがわかる。エステルはルーム・サーヴィスや発作(パニック発作らしい演出が見られる)のたびに老ボーイを呼んで、職業柄なんとかこの国の言葉を理解しようとするので、その時覚えたHadjek(意味は最後まで説明されない)という単語を旅立つ甥のユーハン少年の手紙に書くが、ユーハンにはもちろんわからない。綴りからすると東欧的で、カフカ的イメージが投影されているのかもしれない。車中で手紙にじっと見入るユーハン少年の表情のクローズアップが本作の最終カットで、ちなみに三部作の映像はフィックス(固定)ショットの長回しでカメラが動くショットがほぼ排除されているのも大きな映像文体上の特徴になっている。ラスト・ショットのユーハン少年のクローズアップを観ると、言葉の通じないホテルの老ボーイも一応はそうだが、『鏡の~』の弟ミーヌス同様ユーハン少年が登場人物中唯一病的な大人の世界に今のところ汚染されていない(ミーヌス少年は姉にペッティングされ、ひょっとしたら関係を持ったかもしれないが、性的頽廃を自覚するには至らない)人物のように描かれている。それはまあ子供だからなのだが、伯母エステルと母アンナとの犬猿の仲にも動じないのは17歳のミーヌス少年以上に精神年齢の高さか、無垢の強靭さを感じさせ、どうしようもない姉妹の行状を対比的に描いているのが映画の本筋ながらユーハン少年の視点だけが唯一映画の客観的視点になっている。だがやはりアントニオーニへの対抗作品だとすればアントニオーニの映画には客観的視点どころか視点人物すら排除してしまって商業映画の限界にまで迫ってしまっているので、ベルイマンの意欲作にはなっているがアントニオーニの領域を奪還するような作品にはなっていない。これは優劣ではなくあくまで資質だから欠点ではないが、アントニオーニへのしこりが残ったのは先に引いた『ベルイマン自伝』での悪口でも明らかでアントニオーニとベルイマンほど著名な映画監督が同じ日に没したのは妙な因縁を感じる。なお本作は各国版ポスターがやたらと豊富で、その割にスウェーデン本国版はあっさりしたポスターしかない。プロモーション・コンセプトの統一が強化された現在では考えられないこのやりたい放題ぶりをお楽しみください。
*[ 原題の表記について ]スウェーデン語の母音のうちaには通常のaの他にauに発音の近いaとaeに近いaの3種類、oには通常のoの他にoeに発音の近い2種類があり、それぞれアクセント記号で表記されます。それらのアクセント記号は機種依存文字でブログの文字規格では再現できず、auやoeなどに置き換えると綴字が変わり検索に不便なので、不正確な表記ですがアクセント記号は割愛しました。ご了承ください。
'60年代ベルイマン作品は第23作『鏡の中にある如く』'61、第24作『冬の光(原題・聖体拝受者/洗礼受洗者たち)』'62、第25作『沈黙』'63の通称「神の沈黙(不在)」三部作から始まりました。ベルイマンにはこれまでも第14作~第16作『愛のレッスン』'54、『女たちの夢』'55、『夏の夜は三たび微笑む』'55の「恋愛コメディ三部作」(コメディというには苦い作品も含みます)があり、'60年代後半には第28作、第29作、第31作の『狼の時刻』'68、『恥』'68、『情熱』'69の「孤島三部作」がありますが、恋愛コメディ三部作は偶然三部作になったもので、孤島三部作は明らかに「神の沈黙」三部作の成果を踏まえたものですから『鏡の~』『冬~』『沈黙』の三部作はベルイマンが初めて大規模な三部作構想に取り組んだものでした。遺作『サラバンド』2003と同年にリリース中だったベルイマンDVD全集でもこの三部作各編(のちボックス化)には撮り下ろしベルイマン自作解説インタビューが特別収録されており、85歳のベルイマンにとっても45歳の年に完成した「沈黙三部作」は格別の意欲作にして自信作だったのがうかがわれます。実際この三部作はベルイマン後半生の作風を決定したもので極端にミニマムなプロットと設定、一見これまでとは一変したかのような凝縮された映像文体など、ベルイマン作品の典型とされる特徴はこの三部作に先立つ作品、この三部作以後の作品ともにこれを基準とされるようになったほどでした。あらすじを簡略に書けば2~3行で済んでしまうような作品をどう紹介すればいいのか迷いますが、観方によってはとてつもなく眠く退屈極まりないベルイマン映画のピークは'60年代の二つの三部作にあるかもしれません。
●7月25日(火)
『鏡の中にある如く』Sasom i en spegel (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'61)*85min, B/W, Standard ; 日本公開昭和39年(1964年)7月
・ベルリン国際映画祭国際カトリック映画事務局賞・アカデミー賞外国語映画賞受賞作。三部作を通じて撮影は今作から前作までのグンナル・フィッシェルに代わってスヴェン・ニイクヴィスト(以後遺作『サラバンド』を除く全作品を担当)、美術はこれまで通りP・A・ルンドグレーンが手がけるが、音楽は本作こそこれまでのエーリック・ノードグレーンが起用されるものの三部作を通してバッハ、礼拝歌曲の使用が主になる。本作の簡単なあらすじは、海辺の別荘でヴァカンス中の作家ダーヴィッド(グンナル・ビョーンストランド)とその娘カーリン(ハリエット・アンディション)、カーリンの弟ミーヌス(ラーシュ・パスゴート)とカーリンの夫の医師マッティン(マックス・フォン・シードウ)はカーリンの精神疾患の消長に翻弄されるが悪化する一方のカーリンは夫とともにヘリコプターで病院に緊急搬送されていき、不仲だったダーヴィッドとミーヌス父子は初めて互いを理解しあう、というもの。カーリンは父の日記から自分と弟が食品の買い物で不在中に夫が父に自分の精神疾患を伝えてそれが回復の望みがなく、また父が作家的な興味から自分を注意深く観察しているとを知って錯乱を深め、父と夫の両者から突き放されたショックから密かに弟ミーヌスに近親相姦を迫る。マッティンはダーヴィッドの冷酷さを責めるがダーヴィッドもヴァカンス直前に自殺未遂を起こしており、さらにカーリンに母親も同じ病気だったことで強い自責の念を抱いているのを告白する。大きな発作の後で一時小康状態を取り戻したカーリンは父を許し、神が蜘蛛になって現れ体を這い回る幻覚を見た、とヘリコプターに乗る直前に語る。ハリエット・アンディションがヒロインのベルイマン映画といえば映画デビュー作でベルイマン第12作『不良少女モニカ』'53なわけで、ビョーンストランドもこれまで飄々としたブルジョワ中年男役が主だったから本作のアンディションとビョーンストランドは'50年代までのベルイマン作品からすれば思いもよらない神経症的な役になったわけで、本作を先に観ていると'50年代までのアンディションとビョーンストランドが同一人物と思えなくなる。ストーリー上で本来相当ショッキングなはずの近親相姦シーンは浮き上がっておらず、最初観た時は強く印象に残るが観直すと意外とあっさりしていて暗示程度に見える。弟ミーヌスは作家志望で父に認めてもらえないコンプレックスを抱いているが、ミーヌス役の少年俳優は17歳という設定の割には幼すぎて現実の17歳はこんなものだろうが父親への愛憎を感じさせる演技には至っていない。ヒロインの病状は作中では統合失調症になっているが、医学的にはこの病相は統合失調症とは考えられないと指摘されており(一過性の統合失調様状態ではあるかもしれないが)、医学的症状としてのヒステリー(代償行動)には陥っているかもしれないが映画に精神医学的要素を持ち込む危険性を感じる。映画が始まって延々4人だけのキャストで話が続くのでどうなるかと思うと最後まで4人しか出てこないのはかなりの離れ技を観た気にさせられる。三部作を通して言えるが、ベルイマンが『第七の封印』『野いちご』で時の人になった直後に台頭してきたフランスのヌーヴェル・ヴァーグ作品群と、ベルイマンを抜いて時の人になったイタリアのミケランジェロ・アントニオーニへの対抗心が強く感じられ、アントニオーニと並ぶフェデリコ・フェリーニはベルイマンより早く出世していたし親好もあり作風も重ならなかったが、アントニオーニの作風には脅威を抱いたのがアントニオーニの『情事』'60と本作を照合すると伝わってくる。新カメラマンのニイクヴェスト、美術のルンドグレーン、またキャストたちと何度も参考試写したのではないか。次作ではアントニオーニには撮れない宗教的題材を直接扱ったのは同じ土俵ではまずいと悟ったのかもしれない。アンディションやフォン・シードウをもってしてもこの作風のベルイマンにはアントニオーニ作品のような官能性には欠ける。そこが神経症(といっても千差万別だが)でも北欧人と南欧人との違いかもしれない。
●7月26日(水)
『冬の光』Nattvardsgasterna (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'62)*77min, B/W, Standard ; 日本公開昭和50年(1975年)9月
・OCIC国際カトリック映画局グランプリ、ウィーン宗教映画週間最優秀外国映画賞受賞作。原題の「聖体拝受者」はプロテスタントでは普通簡単に「(洗礼)受洗者」と呼ばれるが、スウェーデン国外では英題『Winter Light』に倣って各国語での"冬の光"のタイトルで通用している。あらすじ、田舎町の教区を受け持つ寡夫の中年牧師トーマス(グンナル・ビョーンストランド)は小学校教員マッタ(イングリッド・テュリーン)からの求婚にも乗り気になれず宣教の仕事にも疲労していたが、ノイローゼの信徒の漁師ヨーナス(マックス・フォン・シードウ)の妻カーリン(グンネル・リンドブロム)からの相談でヨーナスと面会した直後にヨーナスの猟銃自殺を知り衝撃を受けたまま午後に巡回する教区内の教会に向かい、マッタ以外の列席者が誰もいない礼拝堂で祈祷を始める。教区内の複数教会を一人の牧師が担当するのは過疎地域ではよくあることで、明治大正の日本でもそうだった。深刻顔はいつも通りのフォン・シードウ演じる漁師ヨーナスのノイローゼは中国の核実験のニュース以来だったと説明される。原水爆が話題にされた最初のベルイマン作品は第6作『牢獄』'49だが、大国よりも周縁的な小国の方が現に日本の例があるわけで、冷戦下の核実験や原水爆開発状況に過敏だったかと思われる。またもや陰鬱な役柄のビョーンストランド演じる牧師トーマスは妻を亡くした後亡妻を美化しており、それがマッタから寄せられる寂しいオールド・ミス的愛情を受け入れられない原因になっている。トーマスの信仰への動揺はヨーナスの妻カーリンの相談に頼りにならず、ヨーナスとの面会もヨーナスの不安を和らげるどころか自発的な動機もなく世襲牧師になったトーマス自身の神への疑問と疑問を抱いたまま宣教師を続ける自分の愚痴を披露してしまい、ヨーナスの遺体の搬送後にカーリンに祈りをともにしようとしてあっさり拒絶される。さびれた教会に着くと教会執事(地方の小教会では教会執事やオルガン奏者は民間人が行う)からはキリストの真の苦しみは磔刑の苦しみではなく処刑が決まるや否や信徒に見捨てられた苦しみと神から見捨てられた苦しみなのではないか、とトーマスが失った真剣な信仰への問いかけを寄せられ、オルガン奏者はマッタにあいつはまだ亡くなった奥さんにこだわってやがる、美人でもなければ身持ちも悪く、トーマスが一方的にのぼせ上がっていただけさ、と暴露する。テュリーン演じるマッタの男ひでり的田舎町のオールド・ミスぶりがトーマスを辟易させている面もふくめて、宗教的題材を扱ってもこういう俗な点はきっちり押さえるところが意地の悪い北欧人ベルイマンらしい。先に触れたアントニオーニへの対抗心は1987年刊(原著)の『ベルイマン自伝』(日本語版・新潮社1989年)からも推察され「映画がドキュメントでないとすれば、それは夢である。そういう意味では、もっとも偉大なのはタルコフスキーである。彼は夢遊病者のような確かさで夢の世界を動きまわり、けっして説明することがない。私は、彼がいとも自然に動きまわっている部屋の扉を一生涯、叩き続けているようなものだ。フェリーニや黒澤明、ブニュエルもタルコフスキーと同じ世界の中にいる。アントニオーニはそこから外へ飛び出したが、彼独特の倦怠感に息が詰まって死んでしまった」と1986年に急逝したばかりのタルコフスキー(1932年生)には甘いがアントニオーニ(1912年生)は2007年7月30日逝去で奇しくもベルイマンと同年月日逝去で当時現存、しかも半身不随で不如意な半引退という気の毒な状態だったのに、死んでしまった、と公に(しかも1987年にもなって)書いてしまうほど目の上のたんこぶだったのがわかる。ヌーヴェル・ヴァーグについてはその監督たちからベルイマンは持ち上げられていたから悪い気はしなかったが、ベルイマンの初期作品は『第七の封印』や『野いちご』のような方向でなければアントニオーニの『女ともだち』'56、『さすらい』'57、『情事』'60、『夜』'61、『太陽はひとりぼっち』'62のような方向に向かう可能性もあったわけで、あんなのならおれだってできたのにと悔しさ倍増だったのが『鏡の~』『冬~』『沈黙』の病人映画三部作に結実した。しかし天然素材のアントニオーニに較べてベルイマンは頭で作った観があり、客観的な正常人の視点もどうしても映画の中に持ち込んでしまう。それが漁師の妻カーリンや教会執事、オルガン奏者に現れている。前作『鏡の~』も父親や夫、弟は正常人の感覚を失わずに幕を下ろしたわけで、ならばといっそう大胆にしたのが三部作最大の挑戦になった最終作『沈黙』だったのだろう。
●7月27日(木)
『沈黙』Tystnaden (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'63)*92min, B/W, Standard ; 日本公開昭和39年(1964年)5月/再公開昭和53年(1978年)6月
・スウェーデン芸術院年間最優秀映画賞、黄金の蕾監督賞受賞作。ついに主要登場人物3人(姉妹と妹の息子)だけ、主題となる事件もないミニマムの極みに至った三部作最終作。脇役もホテルの老ボーイ(ホーカン・ヤーンベルイ)、カフェのウェイター(ビルィエル・マルムスティーン)、小人芸人一座(エドゥアルデーニ一座)しか出てこない。あらすじは、スウェーデンへ戻る旅程で体調を崩し言葉の通じないヨーロッパの小国に宿を取った翻訳家のエステル(イングリッド・テュリーン)、幼い息子ユーハン(ヨルゲン・リンドストレム)を連れた妹アンナ(グンネル・リンドブロム)の3人はホテルの部屋で酒をあおり煙草をふかしながら翻訳の仕事をしながら息抜きのたびにオナニーにふけるエステル、息子を放っておいて夜の街に男あさりに出るアンナ、小人芸人一座に忍び込んで弄ばれたり母の情事を目撃したり夜の街路を進む戦車に気づいたりするユーハンと三者三葉の夜を過ごし、翌朝アンナは息子ユーハンを連れて姉を置いて先に列車で発っていく。姉妹仲は最初から最後まで悪くなぜ一緒に旅程についていたのか説明されないまま映画は続くが、何しろ行動からも正反対の性格なのは一目瞭然なので、姉はユーフォリア(多幸症)で妹はインフォマニア(淫乱症)というひどい設定にスウェーデン本国では女性観客から嫌われる映画として悪名を轟かした。エステルには男性嫌悪症もあって、発作時に「私は臭い精液から生まれてきたから私の体中が精液臭い」というモノローグもあり、つまりこれはベルイマンの男性嫌悪映画ですらある。初期ベルイマン作品の常連主人公マルムスティーンもいきずりの男で顔さえ正面から写されないという扱い。アンナ役リンドブロムは『第七の封印』の聾唖の孤児少女、前作『冬の光』の漁師の妻カーリンを経てこの役だが、部屋にこもってオナニー三昧の役よりはニンフォマニアックの方が外向的なだけまだ正常かもしれない。息子ユーハンは母の情事に驚きもせず伯母エステルにお母さんは?と訊かれ「面白かったよ」と答えるから慣れっこなのがわかる。エステルはルーム・サーヴィスや発作(パニック発作らしい演出が見られる)のたびに老ボーイを呼んで、職業柄なんとかこの国の言葉を理解しようとするので、その時覚えたHadjek(意味は最後まで説明されない)という単語を旅立つ甥のユーハン少年の手紙に書くが、ユーハンにはもちろんわからない。綴りからすると東欧的で、カフカ的イメージが投影されているのかもしれない。車中で手紙にじっと見入るユーハン少年の表情のクローズアップが本作の最終カットで、ちなみに三部作の映像はフィックス(固定)ショットの長回しでカメラが動くショットがほぼ排除されているのも大きな映像文体上の特徴になっている。ラスト・ショットのユーハン少年のクローズアップを観ると、言葉の通じないホテルの老ボーイも一応はそうだが、『鏡の~』の弟ミーヌス同様ユーハン少年が登場人物中唯一病的な大人の世界に今のところ汚染されていない(ミーヌス少年は姉にペッティングされ、ひょっとしたら関係を持ったかもしれないが、性的頽廃を自覚するには至らない)人物のように描かれている。それはまあ子供だからなのだが、伯母エステルと母アンナとの犬猿の仲にも動じないのは17歳のミーヌス少年以上に精神年齢の高さか、無垢の強靭さを感じさせ、どうしようもない姉妹の行状を対比的に描いているのが映画の本筋ながらユーハン少年の視点だけが唯一映画の客観的視点になっている。だがやはりアントニオーニへの対抗作品だとすればアントニオーニの映画には客観的視点どころか視点人物すら排除してしまって商業映画の限界にまで迫ってしまっているので、ベルイマンの意欲作にはなっているがアントニオーニの領域を奪還するような作品にはなっていない。これは優劣ではなくあくまで資質だから欠点ではないが、アントニオーニへのしこりが残ったのは先に引いた『ベルイマン自伝』での悪口でも明らかでアントニオーニとベルイマンほど著名な映画監督が同じ日に没したのは妙な因縁を感じる。なお本作は各国版ポスターがやたらと豊富で、その割にスウェーデン本国版はあっさりしたポスターしかない。プロモーション・コンセプトの統一が強化された現在では考えられないこのやりたい放題ぶりをお楽しみください。
*[ 原題の表記について ]スウェーデン語の母音のうちaには通常のaの他にauに発音の近いaとaeに近いaの3種類、oには通常のoの他にoeに発音の近い2種類があり、それぞれアクセント記号で表記されます。それらのアクセント記号は機種依存文字でブログの文字規格では再現できず、auやoeなどに置き換えると綴字が変わり検索に不便なので、不正確な表記ですがアクセント記号は割愛しました。ご了承ください。