今回はベルイマン脚本によるスウェーデン映画界の大家グスタフ・モランデルの作品『エヴァ』'48とベルイマン自身の監督作品の第6作・第7作目に当たる『牢獄』'49と『渇望』'49を取り上げます。特に『牢獄』はベルイマン最初の重要作とされるもので、作品にムラのあるベルイマンとしては強い集中力を感じさせる小品ながら印象的な一作です。監督デビューから3年間で7作、となればそろそろ独自の作風に進んでもいい頃で、出来不出来は別にしても『牢獄』『渇望』の2作は後年のベルイマン作品の作風の先駆を示す転機になりました。タイトルからして、これまでの諸作よりいっそう重みを感じさせるもので、楽しい映画を期待する観客を寄せつけない覚悟が感じられます。これには終戦間もない世相の悲観的思潮が背景になっているのも考慮すべきでしょう。
●7月7日(金)
グスタフ・モランデル(ベルイマン/モランデル共同脚本)『エヴァ』Eva (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'48)*94min, B/W, Standard
・グスタフ・モランデル(1888-1973)はアルフ・シューベルイと並ぶサイレント時代からのSF社の大ヴェテラン監督でスウェーデン時代のグレタ・ガルボの演技指導やハリウッド渡米前のイングリッド・バーグマン主演作品(『間奏曲』'36など)でも知られ、生涯に長編劇映画の監督作64本はスウェーデン映画史上最多作品数を誇る。1947年の『顔のない女』もベルイマンと合作のオリジナル脚本作品だったが映像ソフト化されておらず、ベルイマン参加作品で現在観られるのは本作きりになる。ベルイマンの短編小説を原作にモランデルとベルイマンが合作シナリオにしたもので、話は初期のベルイマンらしい趣向のものだが映画は当たりが柔らかくシューベルイの強迫的な『もだえ』と対照的。海軍ラッパ手の出兵から帰郷してきた駅長の息子ボウ(ビルイェル・マルムスティーン)には12歳の時に家出し、拾われた芸人一家の全盲の10歳の少女マッテを連れ出し停車中の蒸気機関車でマッテとともに旅立とうとして脱輪事故で死なせてしまった過去があった。ボウの帰郷を故郷の人々は大歓迎し、老いた両親に時々家事を手伝いに来てくれる近所の娘エヴァ(エーヴァ・スティーベルイ)の話を聞いてお礼に挨拶に行きエヴァに恋をする。エヴァは祖父母と住んでおり、祖父は寝たきりで余命いくばくもなかった。祖母の願いで古いトランペットを祖父に吹いて聞かせ、エヴァとともに聖書を朗読するうちに、ボウにはマッテを死なせた時の死の恐怖が蘇ってくる。いたたまれず外に出たエヴァと初めてキスして戻るとエヴァの祖父は息を引き取っていた。ボウはストックホルムに出て友人ヨーラン夫妻の家に下宿するが、妻スーサンは露骨にボウを誘惑し、ヨーランも面白がってけしかける。エヴァの写真を破られ怒ったボウはスーサンに強引にキスしてヨーランに殴り倒される。スーサンに起こされたボウはヨーランがキッチンで酔って眠っていること、今ならガス自殺を装って殺すチャンスとそそのかされてガス管を切りに行き、ドアに施錠する。ヨーランは起き出して騒ぎ始めるが物音は止む。「ぼくのせいじゃない!」と叫ぶ自分の声でボウは目覚める。ヨーラン夫妻はいつもと変わりない様子でボウにどうしたのかと訊く。破れたエヴァの写真を見てどこから夢だったのかボウは戸惑うが、ヨーランに引っ越すと告げて荷作りを始める。スーツケースを下げたエヴァが訪ねてくる。ボウはエヴァと一緒に新しい引っ越し先を探す。夏に妊娠したエヴァとヴァカンスに行ったボウは早朝の散歩で溺死したドイツの少年兵の死体を見つけてロッジの管理人と納屋に運ぶ。不審に思い納屋を覗いたエヴァはショックを受ける。気分転換に小島で風景を見ながら、今は幸福だけれど生きる意味がわからない、と二人で話している最中エヴァを陣痛が見舞う。二人は急いでモーターボートで引き返し、ボウの脳裏にマッテやスーサンの記憶が走る。元気に生まれた男児に夫婦は生きる意味を見つけた、と語り合う。主人公の帰郷で始まるベルイマン作品はこれまでの5作中『インド行きの船』『闇の中の音楽』『愛欲の港』と直前まで3作連続し、『危機』はヒロインの上京、『われらの恋に雨が降る』はカップルの新しい土地での新生活から始まるので設定や基本的プロットはほとんど初期ベルイマン作品のヴァリエーションみたいなもの。モランデル作品のネーム・ヴァリューか蒸気機関車転覆など低予算のベルイマン作品ではできなかったシーンもある。本作を見るとマルムスティーンは本来こういう青春映画の俳優なんだな、と合点がいく。途中フィルム・ノワール風の変わった展開になるが基本的には子供の誕生で終わるハッピーエンドのボーイ・ミーツ・ガールものでそつなく観られるロマンス映画になっている。そうなると過去の全盲の少女マッテの死のエピソードやヨーラン夫妻に翻弄されて見る悪夢のエピソード、ドイツの少年兵の溺死体のエピソードが浮いてしまい、北欧演劇/映画らしい露悪趣味からすればこれもありかと思うがプロット上では枝葉的で構成が緩んでいる。主役のボウとエヴァの恋愛に絞って描いたらもっと良かったのに、と思うと結末も唐突に感じられ、ベルイマンやモランデルが、というよりスウェーデン映画特有のあまり深くない深刻趣味が鼻につかなくもない。スウェーデン映画はロマンス映画とホームドラマが半々で9割5部を占めるというが(つまり日本映画と大差ないが)、本作がその典型ならテーマの統一と豊かな細部の配置では平均的なアメリカ西部劇にも及ばないように感じる。
●7月8日(土)
『牢獄』Fangelse (スウェーデン/テラフィルム'49)*76min, B/W, Standard : https://youtu.be/iV7Pe0WVCMs (English Subtitles)
・早い時期の包括的ベルイマン論『ベルイマンの世界』で著者ジャック・シクリエが「ベルイマンの初期の5本の作品を知らなくても、われわれは彼の本質的なものを見失うことはない。しかしマニフェストとしての決定的な重要性を持つ『牢獄』を観ずにはベルイマンを知り、理解することはできない」と着目した第6作。新作撮影中の映画監督マッティン(ハッセ・エクマン)のもとにノイローゼで精神病院に入院し退院したばかりの恩師ポールが「地上の地獄」をテーマにした映画の企画を持ちかける。老教授ポールは広島に原爆が投下された後、現実そのものが地獄になったのだと主張する。マッティンがシナリオも手がける作家のトーマス(ビルイェル・マルムステーン)に相談すると、作家は「ぼくもこの世の地獄をテーマにした話を暖めている」と言い、売春婦ビルギッタ(ドーリス・スヴェードルンド)とそのヒモ、ペーテルの物語を語り出した。「では映画を始めよう。監督はイングマール・ベルイマン、出演者は……撮影は……音楽は……」とクレジットがナレーションされる。ビルギッタはやっと産んだペーテルの子を育てたい。だがペーテルは反対し、同居するペーテルの姉リネアが赤ん坊を連れ去る。なおも売春を続けさせられるビルギッタは警察の手入れを逃れアパートの地下倉庫に隠れるが、インディアンごっこをしていた少年に驚かされ、さらに警察に捕まる。一方、トーマスは仕事に行き詰まり、妻のソフィ(エーヴァ・ヘニング)と心中を企む。ソフィは彼の頭を瓶で殴って気絶させ逃げ出したが、気づいたトーマスは自分がソフィを殺したと思い込み警察に自首した。警察署の中でトーマスは捕まったビルギッタと出会う。子を失ったビルギッタと仕事と生活に行き詰まったトーマスは共感しあい秘密のアパートに転がり込む。ビルギッタは妄想にとらわれ悪夢を見るが、夢の中のトーマスは悪魔の姿をしていた。その頃リネアが捨てた赤ん坊は死体で発見される。ペーテルに教えられトーマスの居場所を突き止めたソフィはトーマスに戻るよう願うがトーマスは聞き入れず、トーマスに求愛されたビルギッタはソフィの来訪からペーテル姉弟のアパートに戻るが以前通りサディストの常連客を取らされ、苦しみに耐え切れずアパートの地下倉庫で少年の落としていったナイフで自殺し、発見したペーテルは泣き崩れる。結局トーマスはソフィの待つ家に帰って和解する。撮影所を再び訪ねた老教授ポールにマッティンはあの映画の企画は実現できそうにないと答える。ベルイマン映画は初期作品を見ても男女は出会ってすぐ肉体関係を結ぶし、福祉制度と管理社会は裏腹ですぐ行政が私生活に介入してくるしでスウェーデン社会というのも最先端資本主義が独裁制社会主義に限りなく接近したように見えるが(戦前からのスウェーデンの猛烈な反共思潮は近親憎悪なのではないか)、本作敷いては後年のベルイマン作品のような発想はベルイマンがやらなくても北欧圏の映画から誰かがやったのではないか、と思わせる。つまり本作はあまりに作為に満ちて誇張と露悪趣味が横溢しているのだが、革命以前のロシア文学的な生々しい頽廃も確かにあって、映画は文学のようにパーソナルには創作できないからこうした作風は主流にはならないが、どこかから噴き出したように湧いて出るものだろう。西洋でのベルイマン評価はあまりに文学的でベルイマンをイプセンやストリンドベルイの後継者のように持ち上げているが、本作の場合後年のベルイマン作品の主要テーマの大半が一気に出揃った(次作で強調される夫婦関係についてもトーマスとソフィの夫妻の関係で先取りされている)というより、こうした要素の組み合わせで創作することで何が浮かび上がってくるか、という一種の実験演劇的発想が肝だったように見える。ナレーションで本作のクレジットを映画内に組み込むというメタ映画的手法自体がそうで、シナリオ作家がテーマを探す彷徨劇と見るとそれがそのまま内容になっている本作は戦後の商業映画からのメタ映画としては画期的に早く、前5作までで習練してきたところで創作意欲が高まっていたのだろう。プロデューサーのローレンス・マルムステットから低予算なら何でも良いと言われ、ヒッチコックの『ロープ』'48にヒントを得た長回しから最小限のフィルムで撮影し通常の映画の2/3の予算で仕上げたという。作風の確立後には図式性が目立つベルイマン作品だが本作ではまだ混沌とした面に魅力があると同時に、観客自身が一旦内容を図式化して観賞しないと狙いがつかみ辛い難がある。またこんなことを地獄と言うなら日本人的な感覚なら世界はとっくに地獄で何ら目新しくないじゃないか、とも思えてきて、せっかくの映画なのだからもっと先にある何かを観たいと思わせられるのも確かだろう。
●7月9日(日)
『渇望』Torst (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'49)*84min, B/W, Standard
・この作品から前作までの6作の音楽を担当したエールランド・フォン・コッホからモランデルの『エヴァ』も担当していたエーリック・ノードグレーンに音楽が替わる(第12作『不良少女モニカ』'53まで)。コッホの音楽は控えめに使われていたが初期ベルイマン作品のムードによく合っていた。本作のノードグレーンはまだ遠慮がちか更に控えめ。さて疾走する列車に「1946 バーゼル」とテロップが重なり始まる本作、バレリーナのルート(エーヴァ・ヘニング)は昔、不倫相手ラウルとの蜜月中に本妻アストリッドに見下され、妊娠したためラウルに捨てられたばかりか堕胎手術により不妊症になった過去を持つ。今は美術史家の夫バッティル(ビルイェル・マルムステーン)と第二次世界大戦後のドイツを列車で旅行中にラウル夫妻と再会してルートはますます苛立つ。足を怪我し、子供を持つ夢もバレエの夢も断たれたルートは、そのストレスから夫との口論が絶えない。一方ストックホルムではルートのバレエ仲間だったヴィオーラ(ビルギット・テーングロート)が夫を亡くし、脳手術後の不調も重なって受診していた(その時偶然バッティルも待合室の装飾工事をしていた)精神科医のローセングレンに肉体関係を迫られ、偶然会ったバレエ学校時代のヴァールボルイ(ミミ・ネルソン)に同居を誘われて彼女のアパートに行く。学校時代と違い荒んだ生活にヴィオーラ同様ヴァールボルイも翻弄されており、同性愛を迫るヴァールボルイを振り切って街に出たヴィオーラは港に身を投げて自殺する。旅行中のルートの饒舌はますます激しくなっていく。途中の停車駅では、戦争で家や親をなくしたドイツ人の老若男女が車窓に向かって食品や金銭を乞う手を伸ばす。バッティルはおしゃべりを止めないルートをビール瓶で殴り殺す夢を見る。バッティルは妻にそれを打ち明け、夫婦とはなんだろうとルートに問うが答えが見つからないまま列車はストックホルムに着こうとしていた。夫婦はただどこまでも孤独なのなら、傷つけあいながらも一緒に居続けることを約束する。つい3年前の『われらの恋に雨が降る』とは打って変わった夫婦喧嘩映画で、旅行中の車中を現在に過去が交錯する構成はのちのベルイマン作品の典型となるもの。その点で前作『牢獄』と併せて善くも悪くもベルイマンらしさが一気に濃厚になってきた。ただしヒロインのルート(前作の作家の妻ソフィと同じエーヴァ・ヘニングが演じる)が夫にぶつける不満の饒舌は度を越して支離滅裂で、しかも映画は途中からもう一人のヒロイン、未亡人ヴィオーラの話と交錯してこの平行話法はうまく噛み合っていない。また夫婦関係を主題とした映画なのか、バレエ学校の同窓生同士のヒロインがかたや倦怠期、かたや未亡人という対照を描きたいのか混乱を生んでいる。前作『牢獄』ですら作家トーマスが手回し映写機で娼婦ビルギッタと観るサイレント喜劇映画のシークエンスのような余裕と遊びも本作にはない。ヒロインのルートも男性不信になる嫌な過去があるのはわかるが(過去のエピソードもあまり上出来とはいえないどころか、本作の場合辟易するほど陳腐一歩手前だが)、未亡人ヴィオーラよりも精神科を受診すべきはルートだろうと思わせるくらい病的に多弁・多動でこれではバッティルがぶん殴って黙らせる夢を見る(この夢のシークエンスはぶっきらぼうで良い)のも至極もっともに見える。男の忍耐を描いた映画なら皮肉にしてもそう見えるが、ベルイマンの意図は女性視点による女性の自我解放だろうからここでも作意と表現が割れている。ドイツ領停車間の餓えた民衆の阿鼻叫喚もドキュメント的というより恐怖症的で、いったいにベルイマンの神経症的な女性キャラクター造型は男の女嫌いよりも女性が女性に対する同性憎悪的に見え、ホークスやルノワールのような大らかな人間好き・女好きと対極にあるように見える。『われらの恋に~』のホームレスのヒロインや前作の娼婦ビルギッタに対する暖かい憐憫と較べるとブルジョワ家庭の女性に厳しいのがベルイマンの社会批判にもなり、男性不信にもなっているのだが、本作のように題材の分裂がテーマの不統一を招いてしまう例にもなる。前作の作家トーマスといい、本作の夫バッティルといい、常連俳優とはいえビルイェル・マルムスティーンも難役で大変だったろうなあと思う。
*[ 原題の表記について ]スウェーデン語の母音のうちaには通常のaの他にauに発音の近いaとaeに近いaの3種類、oには通常のoの他にoeに発音の近い2種類があり、それぞれアクセント記号で表記されます。それらのアクセント記号は機種依存文字でブログの文字規格では再現できず、auやoeなどに置き換えると綴字が変わり検索に不便なので、不正確な表記ですがアクセント記号は割愛しました。ご了承ください。
●7月7日(金)
グスタフ・モランデル(ベルイマン/モランデル共同脚本)『エヴァ』Eva (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'48)*94min, B/W, Standard
・グスタフ・モランデル(1888-1973)はアルフ・シューベルイと並ぶサイレント時代からのSF社の大ヴェテラン監督でスウェーデン時代のグレタ・ガルボの演技指導やハリウッド渡米前のイングリッド・バーグマン主演作品(『間奏曲』'36など)でも知られ、生涯に長編劇映画の監督作64本はスウェーデン映画史上最多作品数を誇る。1947年の『顔のない女』もベルイマンと合作のオリジナル脚本作品だったが映像ソフト化されておらず、ベルイマン参加作品で現在観られるのは本作きりになる。ベルイマンの短編小説を原作にモランデルとベルイマンが合作シナリオにしたもので、話は初期のベルイマンらしい趣向のものだが映画は当たりが柔らかくシューベルイの強迫的な『もだえ』と対照的。海軍ラッパ手の出兵から帰郷してきた駅長の息子ボウ(ビルイェル・マルムスティーン)には12歳の時に家出し、拾われた芸人一家の全盲の10歳の少女マッテを連れ出し停車中の蒸気機関車でマッテとともに旅立とうとして脱輪事故で死なせてしまった過去があった。ボウの帰郷を故郷の人々は大歓迎し、老いた両親に時々家事を手伝いに来てくれる近所の娘エヴァ(エーヴァ・スティーベルイ)の話を聞いてお礼に挨拶に行きエヴァに恋をする。エヴァは祖父母と住んでおり、祖父は寝たきりで余命いくばくもなかった。祖母の願いで古いトランペットを祖父に吹いて聞かせ、エヴァとともに聖書を朗読するうちに、ボウにはマッテを死なせた時の死の恐怖が蘇ってくる。いたたまれず外に出たエヴァと初めてキスして戻るとエヴァの祖父は息を引き取っていた。ボウはストックホルムに出て友人ヨーラン夫妻の家に下宿するが、妻スーサンは露骨にボウを誘惑し、ヨーランも面白がってけしかける。エヴァの写真を破られ怒ったボウはスーサンに強引にキスしてヨーランに殴り倒される。スーサンに起こされたボウはヨーランがキッチンで酔って眠っていること、今ならガス自殺を装って殺すチャンスとそそのかされてガス管を切りに行き、ドアに施錠する。ヨーランは起き出して騒ぎ始めるが物音は止む。「ぼくのせいじゃない!」と叫ぶ自分の声でボウは目覚める。ヨーラン夫妻はいつもと変わりない様子でボウにどうしたのかと訊く。破れたエヴァの写真を見てどこから夢だったのかボウは戸惑うが、ヨーランに引っ越すと告げて荷作りを始める。スーツケースを下げたエヴァが訪ねてくる。ボウはエヴァと一緒に新しい引っ越し先を探す。夏に妊娠したエヴァとヴァカンスに行ったボウは早朝の散歩で溺死したドイツの少年兵の死体を見つけてロッジの管理人と納屋に運ぶ。不審に思い納屋を覗いたエヴァはショックを受ける。気分転換に小島で風景を見ながら、今は幸福だけれど生きる意味がわからない、と二人で話している最中エヴァを陣痛が見舞う。二人は急いでモーターボートで引き返し、ボウの脳裏にマッテやスーサンの記憶が走る。元気に生まれた男児に夫婦は生きる意味を見つけた、と語り合う。主人公の帰郷で始まるベルイマン作品はこれまでの5作中『インド行きの船』『闇の中の音楽』『愛欲の港』と直前まで3作連続し、『危機』はヒロインの上京、『われらの恋に雨が降る』はカップルの新しい土地での新生活から始まるので設定や基本的プロットはほとんど初期ベルイマン作品のヴァリエーションみたいなもの。モランデル作品のネーム・ヴァリューか蒸気機関車転覆など低予算のベルイマン作品ではできなかったシーンもある。本作を見るとマルムスティーンは本来こういう青春映画の俳優なんだな、と合点がいく。途中フィルム・ノワール風の変わった展開になるが基本的には子供の誕生で終わるハッピーエンドのボーイ・ミーツ・ガールものでそつなく観られるロマンス映画になっている。そうなると過去の全盲の少女マッテの死のエピソードやヨーラン夫妻に翻弄されて見る悪夢のエピソード、ドイツの少年兵の溺死体のエピソードが浮いてしまい、北欧演劇/映画らしい露悪趣味からすればこれもありかと思うがプロット上では枝葉的で構成が緩んでいる。主役のボウとエヴァの恋愛に絞って描いたらもっと良かったのに、と思うと結末も唐突に感じられ、ベルイマンやモランデルが、というよりスウェーデン映画特有のあまり深くない深刻趣味が鼻につかなくもない。スウェーデン映画はロマンス映画とホームドラマが半々で9割5部を占めるというが(つまり日本映画と大差ないが)、本作がその典型ならテーマの統一と豊かな細部の配置では平均的なアメリカ西部劇にも及ばないように感じる。
●7月8日(土)
『牢獄』Fangelse (スウェーデン/テラフィルム'49)*76min, B/W, Standard : https://youtu.be/iV7Pe0WVCMs (English Subtitles)
・早い時期の包括的ベルイマン論『ベルイマンの世界』で著者ジャック・シクリエが「ベルイマンの初期の5本の作品を知らなくても、われわれは彼の本質的なものを見失うことはない。しかしマニフェストとしての決定的な重要性を持つ『牢獄』を観ずにはベルイマンを知り、理解することはできない」と着目した第6作。新作撮影中の映画監督マッティン(ハッセ・エクマン)のもとにノイローゼで精神病院に入院し退院したばかりの恩師ポールが「地上の地獄」をテーマにした映画の企画を持ちかける。老教授ポールは広島に原爆が投下された後、現実そのものが地獄になったのだと主張する。マッティンがシナリオも手がける作家のトーマス(ビルイェル・マルムステーン)に相談すると、作家は「ぼくもこの世の地獄をテーマにした話を暖めている」と言い、売春婦ビルギッタ(ドーリス・スヴェードルンド)とそのヒモ、ペーテルの物語を語り出した。「では映画を始めよう。監督はイングマール・ベルイマン、出演者は……撮影は……音楽は……」とクレジットがナレーションされる。ビルギッタはやっと産んだペーテルの子を育てたい。だがペーテルは反対し、同居するペーテルの姉リネアが赤ん坊を連れ去る。なおも売春を続けさせられるビルギッタは警察の手入れを逃れアパートの地下倉庫に隠れるが、インディアンごっこをしていた少年に驚かされ、さらに警察に捕まる。一方、トーマスは仕事に行き詰まり、妻のソフィ(エーヴァ・ヘニング)と心中を企む。ソフィは彼の頭を瓶で殴って気絶させ逃げ出したが、気づいたトーマスは自分がソフィを殺したと思い込み警察に自首した。警察署の中でトーマスは捕まったビルギッタと出会う。子を失ったビルギッタと仕事と生活に行き詰まったトーマスは共感しあい秘密のアパートに転がり込む。ビルギッタは妄想にとらわれ悪夢を見るが、夢の中のトーマスは悪魔の姿をしていた。その頃リネアが捨てた赤ん坊は死体で発見される。ペーテルに教えられトーマスの居場所を突き止めたソフィはトーマスに戻るよう願うがトーマスは聞き入れず、トーマスに求愛されたビルギッタはソフィの来訪からペーテル姉弟のアパートに戻るが以前通りサディストの常連客を取らされ、苦しみに耐え切れずアパートの地下倉庫で少年の落としていったナイフで自殺し、発見したペーテルは泣き崩れる。結局トーマスはソフィの待つ家に帰って和解する。撮影所を再び訪ねた老教授ポールにマッティンはあの映画の企画は実現できそうにないと答える。ベルイマン映画は初期作品を見ても男女は出会ってすぐ肉体関係を結ぶし、福祉制度と管理社会は裏腹ですぐ行政が私生活に介入してくるしでスウェーデン社会というのも最先端資本主義が独裁制社会主義に限りなく接近したように見えるが(戦前からのスウェーデンの猛烈な反共思潮は近親憎悪なのではないか)、本作敷いては後年のベルイマン作品のような発想はベルイマンがやらなくても北欧圏の映画から誰かがやったのではないか、と思わせる。つまり本作はあまりに作為に満ちて誇張と露悪趣味が横溢しているのだが、革命以前のロシア文学的な生々しい頽廃も確かにあって、映画は文学のようにパーソナルには創作できないからこうした作風は主流にはならないが、どこかから噴き出したように湧いて出るものだろう。西洋でのベルイマン評価はあまりに文学的でベルイマンをイプセンやストリンドベルイの後継者のように持ち上げているが、本作の場合後年のベルイマン作品の主要テーマの大半が一気に出揃った(次作で強調される夫婦関係についてもトーマスとソフィの夫妻の関係で先取りされている)というより、こうした要素の組み合わせで創作することで何が浮かび上がってくるか、という一種の実験演劇的発想が肝だったように見える。ナレーションで本作のクレジットを映画内に組み込むというメタ映画的手法自体がそうで、シナリオ作家がテーマを探す彷徨劇と見るとそれがそのまま内容になっている本作は戦後の商業映画からのメタ映画としては画期的に早く、前5作までで習練してきたところで創作意欲が高まっていたのだろう。プロデューサーのローレンス・マルムステットから低予算なら何でも良いと言われ、ヒッチコックの『ロープ』'48にヒントを得た長回しから最小限のフィルムで撮影し通常の映画の2/3の予算で仕上げたという。作風の確立後には図式性が目立つベルイマン作品だが本作ではまだ混沌とした面に魅力があると同時に、観客自身が一旦内容を図式化して観賞しないと狙いがつかみ辛い難がある。またこんなことを地獄と言うなら日本人的な感覚なら世界はとっくに地獄で何ら目新しくないじゃないか、とも思えてきて、せっかくの映画なのだからもっと先にある何かを観たいと思わせられるのも確かだろう。
●7月9日(日)
『渇望』Torst (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'49)*84min, B/W, Standard
・この作品から前作までの6作の音楽を担当したエールランド・フォン・コッホからモランデルの『エヴァ』も担当していたエーリック・ノードグレーンに音楽が替わる(第12作『不良少女モニカ』'53まで)。コッホの音楽は控えめに使われていたが初期ベルイマン作品のムードによく合っていた。本作のノードグレーンはまだ遠慮がちか更に控えめ。さて疾走する列車に「1946 バーゼル」とテロップが重なり始まる本作、バレリーナのルート(エーヴァ・ヘニング)は昔、不倫相手ラウルとの蜜月中に本妻アストリッドに見下され、妊娠したためラウルに捨てられたばかりか堕胎手術により不妊症になった過去を持つ。今は美術史家の夫バッティル(ビルイェル・マルムステーン)と第二次世界大戦後のドイツを列車で旅行中にラウル夫妻と再会してルートはますます苛立つ。足を怪我し、子供を持つ夢もバレエの夢も断たれたルートは、そのストレスから夫との口論が絶えない。一方ストックホルムではルートのバレエ仲間だったヴィオーラ(ビルギット・テーングロート)が夫を亡くし、脳手術後の不調も重なって受診していた(その時偶然バッティルも待合室の装飾工事をしていた)精神科医のローセングレンに肉体関係を迫られ、偶然会ったバレエ学校時代のヴァールボルイ(ミミ・ネルソン)に同居を誘われて彼女のアパートに行く。学校時代と違い荒んだ生活にヴィオーラ同様ヴァールボルイも翻弄されており、同性愛を迫るヴァールボルイを振り切って街に出たヴィオーラは港に身を投げて自殺する。旅行中のルートの饒舌はますます激しくなっていく。途中の停車駅では、戦争で家や親をなくしたドイツ人の老若男女が車窓に向かって食品や金銭を乞う手を伸ばす。バッティルはおしゃべりを止めないルートをビール瓶で殴り殺す夢を見る。バッティルは妻にそれを打ち明け、夫婦とはなんだろうとルートに問うが答えが見つからないまま列車はストックホルムに着こうとしていた。夫婦はただどこまでも孤独なのなら、傷つけあいながらも一緒に居続けることを約束する。つい3年前の『われらの恋に雨が降る』とは打って変わった夫婦喧嘩映画で、旅行中の車中を現在に過去が交錯する構成はのちのベルイマン作品の典型となるもの。その点で前作『牢獄』と併せて善くも悪くもベルイマンらしさが一気に濃厚になってきた。ただしヒロインのルート(前作の作家の妻ソフィと同じエーヴァ・ヘニングが演じる)が夫にぶつける不満の饒舌は度を越して支離滅裂で、しかも映画は途中からもう一人のヒロイン、未亡人ヴィオーラの話と交錯してこの平行話法はうまく噛み合っていない。また夫婦関係を主題とした映画なのか、バレエ学校の同窓生同士のヒロインがかたや倦怠期、かたや未亡人という対照を描きたいのか混乱を生んでいる。前作『牢獄』ですら作家トーマスが手回し映写機で娼婦ビルギッタと観るサイレント喜劇映画のシークエンスのような余裕と遊びも本作にはない。ヒロインのルートも男性不信になる嫌な過去があるのはわかるが(過去のエピソードもあまり上出来とはいえないどころか、本作の場合辟易するほど陳腐一歩手前だが)、未亡人ヴィオーラよりも精神科を受診すべきはルートだろうと思わせるくらい病的に多弁・多動でこれではバッティルがぶん殴って黙らせる夢を見る(この夢のシークエンスはぶっきらぼうで良い)のも至極もっともに見える。男の忍耐を描いた映画なら皮肉にしてもそう見えるが、ベルイマンの意図は女性視点による女性の自我解放だろうからここでも作意と表現が割れている。ドイツ領停車間の餓えた民衆の阿鼻叫喚もドキュメント的というより恐怖症的で、いったいにベルイマンの神経症的な女性キャラクター造型は男の女嫌いよりも女性が女性に対する同性憎悪的に見え、ホークスやルノワールのような大らかな人間好き・女好きと対極にあるように見える。『われらの恋に~』のホームレスのヒロインや前作の娼婦ビルギッタに対する暖かい憐憫と較べるとブルジョワ家庭の女性に厳しいのがベルイマンの社会批判にもなり、男性不信にもなっているのだが、本作のように題材の分裂がテーマの不統一を招いてしまう例にもなる。前作の作家トーマスといい、本作の夫バッティルといい、常連俳優とはいえビルイェル・マルムスティーンも難役で大変だったろうなあと思う。
*[ 原題の表記について ]スウェーデン語の母音のうちaには通常のaの他にauに発音の近いaとaeに近いaの3種類、oには通常のoの他にoeに発音の近い2種類があり、それぞれアクセント記号で表記されます。それらのアクセント記号は機種依存文字でブログの文字規格では再現できず、auやoeなどに置き換えると綴字が変わり検索に不便なので、不正確な表記ですがアクセント記号は割愛しました。ご了承ください。