北村透谷(門太郎)・明治元年(1868年)12月29日生~明治27年(1894年)5月16日逝去(縊死自殺、享年25歳)。明治26年=1893年夏(24歳)、前年6月生の長女・英子と。
透谷歿後初の全集『透谷全集』は『蓬莱曲』以外の詩集の部には「ゆきだをれ」「ほたる」「蝶のゆくへ」「雙蝶のわかれ」「眠れる蝶」「露のいのち」「髑髏舞」「彈琴」「みゝずのうた」の9編しか採っておらず、これは生前雑誌発表作品すら網羅していないばかりか「ほたる」は生前発表型を採っているのに「彈琴」は生前発表型の「彈琴と嬰児」ではなく未発表の初稿型を採る、など選択基準が釈然としません。しかし明治26年9月発表の「蝶のゆくへ」「眠れる蝶」、10月発表の「雙蝶のわかれ」、11月発表の「露のいのち」の明治26年秋の4編は透谷晩年の絶唱というべき名作で、さすがにこれらは落とせなかったようです。まず4行4連の「蝶のゆくへ」は詩人の自画像と言えるものですが、この平易な心情吐露はそれまでの長編詩の透谷にはなかったものです。
蝶 の ゆ く へ
舞ふてゆくへを問ひたまふ、
心のほどぞうれしけれ、
秋の野面をそこはかと、
尋ねて迷ふ蝶が身を。
行くもかへるも同じ関、
越え来し方に越えて行く。
花の野山に舞ひし身は、
花なき野辺も元の宿。
前もなければ後もまた、
「運命」(かみ)の外には「我」もなし。
ひら/\/\と舞ひ行くは、
夢とまことの中間(なかば)なり。
(「蝶のゆくへ」全文)
次の「眠れる蝶」も一見似た詩型ですが、10行3連はそれぞれ1連ごとに4行+6行で応答・完結しており、第1連が第2連に、さらに第1・2連が第3連に累積していき、抒情詩から思弁詩へ高める重層的効果が試みられています。
眠 れ る 蝶
けさ立ちそめし秋風に、
「自然」のいろはかはりけり。
高梢(たかえ)に蝉の声細く、
茂草(しげみ)に虫の歌悲し。
林には、
鵯(ひよ)のこゑさへうらがれて、
野面には、
千草の花もうれひあり。
あはれ、あはれ、蝶一羽、
破れし花に眠れるよ。
早やも来ぬ、早やも来ぬ秋、
万物(ものみな)秋となりにけり。
蟻はおどろきて穴索(もと)め、
蛇はうなづきて洞に入る。
田つくりは、
あしたの星に稻を刈り、
山樵(やまがつ)は、
月に嘯むきて冬に備ふ。
蝶よ、いましのみ、蝶よ、
破れし花に眠るはいかに。
破れし花も宿仮れば、
運命(かみ)のそなへし床なるを。
春のはじめに迷ひ出で、
秋の今日まで酔ひ酔ひて、
あしたには、
千よろづの花の露に厭き、
ゆふべには、
夢なき夢の数を経ぬ。
只だ此のまゝに『寂』として、
花もろともに滅(き)えばやな。
(「眠れる蝶」全文)
さらに沈痛な響きをともなって静かに語られるのが「雙蝶のわかれ」で「蝶のゆくへ」「眠れる蝶」と本編の蝶詩編三部作では唯一パートナーをともなう蝶の詩編です。2行4連と4行4連が交互に現れる詩ですが、2行の連は二匹の蝶を描き、4行の連はその二匹の置かれた閉塞的状況を詠んでいます。蝶詩編三部作はいずれも名作ですが一長一短があり、特に「雙蝶のわかれ」はやや説明的な上に前2編の内容に対して屋上屋な気味がありますが、これほど寡作な詩人に過分な要求は不当でしょう。
雙 蝶 の わ か れ
ひとつの枝に双つの蝶、
羽を収めてやすらへり。
露の重荷に下垂るゝ、
草は思ひに沈むめり。
秋の無情に身を責むる、
花は愁ひに色褪めぬ。
言はず語らぬ蝶ふたつ、
齊しく起ちて舞ひ行けり。
うしろを見れば野は寂し、
前に向へば風冷し。
過ぎにし春は夢なれど、
迷ひ行衛は何処ぞや。
同じ恨みの蝶ふたつ、
重げに見ゆる四(よつ)の翼(はね)。
双び飛びてもひえわたる、
秋のつるぎの怖ろしや。
雄(を)も雌(め)も共にたゆたひて、
もと来し方へ悄れ行く。
もとの一枝(ひとえ)をまたの宿、
暫しと憩うふ蝶ふたつ。
夕告げわたる鐘の音に、
おどろきて立つ蝶ふたつ。
こたびは別れて西ひがし、
振りかへりつゝ去りにけり。
(「雙蝶のわかれ」全文)
先の「雙蝶のわかれ」で二匹の蝶はなぜ、どこへ別れて行ってしまったのか。次の散文詩は「蝶」のメタファーは使わず、透谷にしてはもっとも口語に近い文体で「雙蝶のわかれ」の自作解説に近い内容の詩編になっています。この文語とも口語ともつかない文体と散文詩ならではの飛躍と音楽性は新鮮で、21世紀の現代詩にも応用が可能なスタイルを持っています。
露 の い の ち
待ちやれ待ちやれ、その手は元へも
どしやんせ。無残な事をなされゐ。その
手の指の先にても、これこの露にさはる
なら、たちまち零ちて消えますぞへ。
吹けば散る、散るこそ花の生命とは
悟つたやうな人の言ひごと。この露は何
とせう。咲きもせず散りもせず。ゆふべ
むすんでけさは消る。
草の葉末に唯だひとよ。かりのふし
どをたのみても。さて美い夢一つ、見る
でもなし。野ざらしの風颯々と。吹きわ
たるなかに何がたのしくて。
結びし前はいかなりし。消えての後
はいかならむ。ゆふべとけさのこの間も。
うれひの種となりしかや。待ちやれと言
つたはあやまち。とく/\消してたまは
れや。
(「露のいのち」全文)
さて、透谷最後の詩編とされるのが5行×22連=110行の「みゝずのうた」で、自殺の翌月に透谷が創設同人だった文芸誌「文學界」に発表されました。透谷歿後の未発表詩編は他にもありますが、それらは明治26年中に成立したものと特定されています。「みゝずのうた」だけが作品の規模からも唯一明治27年作品の可能性があるのですが、前書きに「この夏行脚してめぐりありけるとき」とあるとなると5月に逝去した明治27年の作品とは考えづらいことになります。初期未発表習作詩編には『蓬莱曲』脱稿、印刷中に短詩「地龍子」(もぐら)の着想を得た(明治24年5月12日)との記載があり、これは着想では「みゝずのうた」の先駆をなす散文詩の小品でした。おそらく「みゝずのうた」の着想は早くて『新體梅花詩集』に感化された明治24年晩夏~初秋、それが無理としても 明治25年晩夏~初秋、 明治26年晩夏~初秋とも考えられますが、これがいち早く「文學界」同人によって遺稿として発表されたのは明治27年になっても透谷が機会があれば発表可能なかたちで手許に置いていたためと考えられ、透谷最後の遺稿詩編と目される根拠もそこにあります。これは蟻にたかられた蚯蚓の必死の攻防を描いた他愛ないコミック詩ですが、透谷がこの作品に執着心していたこと自体がむしろ透谷自身の内心の鬱屈を感じさせるものでしょう。
島崎藤村編『透谷全集』大正11年(1922年)3月・春陽堂刊
み ゝ ず の う た
この夏行脚してめぐりありけるとき、或朝ふとおもしろき草花の咲けるところに出でぬ。花を眺むるに余念なき時、わが眼に入れるものあり、これ他の風流漢ならずして一蚯蚓なり。をかしきことありければ記しとめぬ。
わらじのひものゆるくなりぬ、
まだあさまだき日も高からかに、
ゆふべの夢のまださめやらで、
いそがしきかな吾が心、さても雲水の
身には恥かし夢の跡。
つぶやきながら結び果てゝ立上り、
歩むとすれば、いぶかしきかな、
われを留むる、今を盛りの草の花、
わが魂は先づ打ち入りて、物こそ忘れめ、
この花だにあらばうちもえ死なむ。
そこはふは誰ぞ、わが花の下を、
答へはあらず、はひまはる、
わが花盗む心なりや、おのれくせもの、
思はずこぶしを打ち挙げて
うたんとすれば、「やよしばし。
「おのれは地下に棲みなれて
花のあぢ知るものならず、-
今朝わが家を立出でゝより、
あさひのあつさに照らされて、
今唯だ帰らん家を求むるのみ。
「おのれは生れながらにめしひたり、
いづこをば家と定むるよしもなし。
朝出る家は夕べかへる家ならず、
花の下にもいばらの下にも
わが身はえらまず宿るなり。
「おのれは生れながらに鼻あらず、
人のむさしといふところをおのれは知らず、
人のちりあくた捨つるところに
われは極楽の露を吸ふ、
こゝより楽しきところあらず。
「きのふあるを知らず
あすあるをあげつらはず、
夜こそ物は楽しけれ、
草の根に宿借りて
歌とは知らず歌うたふ。」
やよやよみゝず説くことを止めて
おのがほとりに仇あるを見よ、-
知恵者のほまれ世に高き
蟻こそ来たれ、近づきけれ、
心せよ、いましが家にいそぎ行きね。
「君よわが身は仇を見ず、
さはいへあつさの堪へがたきに、
いざかへんなん、わが家に、
そこには仇も來らまじ、安らかに、
またひとねむり貪らん。」
そのこといまだ終らぬに、
かしこき仇は早や背に上れり、
こゝを先途と飛び躍る、
いきほひ猛し、あな見事、
仇は土にぞうちつけらる。
あな笑止や小兵者、
今は心も強しいざまからむ、-
うちまはる花の下、
惜しやいづこも土かたし、
入るべき穴のなきをいかん。
またもや仇の来らぬうちと
心せくさましをらしや、-
かなたに迷ひ、こなたに惑ひ、
ゆきてはかへり、かへりては行く、
まだ帰るべき宿はなし。
やがて痍(いたみ)もおちつきし
敵はふたゝびまとひつ、-
こゝぞと身を振り跳ねをどれば、
もろくも再びはね落され、
こなたを向きて後退(あとじ)さる。
二つ三つ四ついつしかに、敵の数の、
やうやく多くなりけらし、
こなたは未だ家あらず、
敵の陣は落ちなく布きて
こたびこそはと勇むつはもの。
疲れやしけむ立留まり、
こゝをいづこと打ち案ず、-
いまを機会(しほ)ぞ、かゝれと敵は
むらがり寄るを、あはれ悟らず、
たちまち背には二つ三つ。
振り払ひて行かんとすれば、-
またも寄せ來る新手のつはもの、-
踏み止りて戦はんとすれば
寄手は雲霞のごとくに集りて、
幾度跳ねても払ひつくせず。
あさひの高くなるまゝに、
つちのかわきはいやまして、
のどをうるほす露あらず、
悲しやはらばふ身にしあれば
あつさこよなう堪へがたし。
受けゝる手きずのいたみも
たゝかふごとになやみを増しぬ。
今は払ふに由もなし、
為すまゝにせよ、させて見む、
小兵奴らわが背にむらがり登れかし。
得たりと敵は馳せ登り、
たちまちに背を蓋ふほど、-
くるしや許せと叫ぶとすれど、
声なき身をばいかにせむ、
せむ術なくてたふれしまゝ。
おどろきあきれて手を差し伸れば
パツと散り行く百千の蟻、-
はや事果しかあはれなる、
先に聞し物語に心奪はれて、
救ひ得させず死なしけり。
ねむごろに土かきあげ、
塵にかへれとはうむりぬ。
うらむなよ、凡そ生とし生けるもの
いづれ塵にかへらざらん、
高きも卑きもこれを免のがれじ。
起き上ればこのかなしさを見ぬ振に、
前にも増せる花の色香、-
汝(いまし)もいつしか散りざらむ、
散るときに思ひ合せよこの世には
いづれ絶えせぬ命ならめや。
(「文學界 第十八號」明治27年=1894年6月30日)
*仮名づかいは原文のまま、詩の表題と発表誌は正字を残し、本文は略字体に改めました。「みゝずのうた」の特殊句読点(白ゴマ点/白抜き句点)は「、-」に置き換えました。
透谷歿後初の全集『透谷全集』は『蓬莱曲』以外の詩集の部には「ゆきだをれ」「ほたる」「蝶のゆくへ」「雙蝶のわかれ」「眠れる蝶」「露のいのち」「髑髏舞」「彈琴」「みゝずのうた」の9編しか採っておらず、これは生前雑誌発表作品すら網羅していないばかりか「ほたる」は生前発表型を採っているのに「彈琴」は生前発表型の「彈琴と嬰児」ではなく未発表の初稿型を採る、など選択基準が釈然としません。しかし明治26年9月発表の「蝶のゆくへ」「眠れる蝶」、10月発表の「雙蝶のわかれ」、11月発表の「露のいのち」の明治26年秋の4編は透谷晩年の絶唱というべき名作で、さすがにこれらは落とせなかったようです。まず4行4連の「蝶のゆくへ」は詩人の自画像と言えるものですが、この平易な心情吐露はそれまでの長編詩の透谷にはなかったものです。
蝶 の ゆ く へ
舞ふてゆくへを問ひたまふ、
心のほどぞうれしけれ、
秋の野面をそこはかと、
尋ねて迷ふ蝶が身を。
行くもかへるも同じ関、
越え来し方に越えて行く。
花の野山に舞ひし身は、
花なき野辺も元の宿。
前もなければ後もまた、
「運命」(かみ)の外には「我」もなし。
ひら/\/\と舞ひ行くは、
夢とまことの中間(なかば)なり。
(「蝶のゆくへ」全文)
次の「眠れる蝶」も一見似た詩型ですが、10行3連はそれぞれ1連ごとに4行+6行で応答・完結しており、第1連が第2連に、さらに第1・2連が第3連に累積していき、抒情詩から思弁詩へ高める重層的効果が試みられています。
眠 れ る 蝶
けさ立ちそめし秋風に、
「自然」のいろはかはりけり。
高梢(たかえ)に蝉の声細く、
茂草(しげみ)に虫の歌悲し。
林には、
鵯(ひよ)のこゑさへうらがれて、
野面には、
千草の花もうれひあり。
あはれ、あはれ、蝶一羽、
破れし花に眠れるよ。
早やも来ぬ、早やも来ぬ秋、
万物(ものみな)秋となりにけり。
蟻はおどろきて穴索(もと)め、
蛇はうなづきて洞に入る。
田つくりは、
あしたの星に稻を刈り、
山樵(やまがつ)は、
月に嘯むきて冬に備ふ。
蝶よ、いましのみ、蝶よ、
破れし花に眠るはいかに。
破れし花も宿仮れば、
運命(かみ)のそなへし床なるを。
春のはじめに迷ひ出で、
秋の今日まで酔ひ酔ひて、
あしたには、
千よろづの花の露に厭き、
ゆふべには、
夢なき夢の数を経ぬ。
只だ此のまゝに『寂』として、
花もろともに滅(き)えばやな。
(「眠れる蝶」全文)
さらに沈痛な響きをともなって静かに語られるのが「雙蝶のわかれ」で「蝶のゆくへ」「眠れる蝶」と本編の蝶詩編三部作では唯一パートナーをともなう蝶の詩編です。2行4連と4行4連が交互に現れる詩ですが、2行の連は二匹の蝶を描き、4行の連はその二匹の置かれた閉塞的状況を詠んでいます。蝶詩編三部作はいずれも名作ですが一長一短があり、特に「雙蝶のわかれ」はやや説明的な上に前2編の内容に対して屋上屋な気味がありますが、これほど寡作な詩人に過分な要求は不当でしょう。
雙 蝶 の わ か れ
ひとつの枝に双つの蝶、
羽を収めてやすらへり。
露の重荷に下垂るゝ、
草は思ひに沈むめり。
秋の無情に身を責むる、
花は愁ひに色褪めぬ。
言はず語らぬ蝶ふたつ、
齊しく起ちて舞ひ行けり。
うしろを見れば野は寂し、
前に向へば風冷し。
過ぎにし春は夢なれど、
迷ひ行衛は何処ぞや。
同じ恨みの蝶ふたつ、
重げに見ゆる四(よつ)の翼(はね)。
双び飛びてもひえわたる、
秋のつるぎの怖ろしや。
雄(を)も雌(め)も共にたゆたひて、
もと来し方へ悄れ行く。
もとの一枝(ひとえ)をまたの宿、
暫しと憩うふ蝶ふたつ。
夕告げわたる鐘の音に、
おどろきて立つ蝶ふたつ。
こたびは別れて西ひがし、
振りかへりつゝ去りにけり。
(「雙蝶のわかれ」全文)
先の「雙蝶のわかれ」で二匹の蝶はなぜ、どこへ別れて行ってしまったのか。次の散文詩は「蝶」のメタファーは使わず、透谷にしてはもっとも口語に近い文体で「雙蝶のわかれ」の自作解説に近い内容の詩編になっています。この文語とも口語ともつかない文体と散文詩ならではの飛躍と音楽性は新鮮で、21世紀の現代詩にも応用が可能なスタイルを持っています。
露 の い の ち
待ちやれ待ちやれ、その手は元へも
どしやんせ。無残な事をなされゐ。その
手の指の先にても、これこの露にさはる
なら、たちまち零ちて消えますぞへ。
吹けば散る、散るこそ花の生命とは
悟つたやうな人の言ひごと。この露は何
とせう。咲きもせず散りもせず。ゆふべ
むすんでけさは消る。
草の葉末に唯だひとよ。かりのふし
どをたのみても。さて美い夢一つ、見る
でもなし。野ざらしの風颯々と。吹きわ
たるなかに何がたのしくて。
結びし前はいかなりし。消えての後
はいかならむ。ゆふべとけさのこの間も。
うれひの種となりしかや。待ちやれと言
つたはあやまち。とく/\消してたまは
れや。
(「露のいのち」全文)
さて、透谷最後の詩編とされるのが5行×22連=110行の「みゝずのうた」で、自殺の翌月に透谷が創設同人だった文芸誌「文學界」に発表されました。透谷歿後の未発表詩編は他にもありますが、それらは明治26年中に成立したものと特定されています。「みゝずのうた」だけが作品の規模からも唯一明治27年作品の可能性があるのですが、前書きに「この夏行脚してめぐりありけるとき」とあるとなると5月に逝去した明治27年の作品とは考えづらいことになります。初期未発表習作詩編には『蓬莱曲』脱稿、印刷中に短詩「地龍子」(もぐら)の着想を得た(明治24年5月12日)との記載があり、これは着想では「みゝずのうた」の先駆をなす散文詩の小品でした。おそらく「みゝずのうた」の着想は早くて『新體梅花詩集』に感化された明治24年晩夏~初秋、それが無理としても 明治25年晩夏~初秋、 明治26年晩夏~初秋とも考えられますが、これがいち早く「文學界」同人によって遺稿として発表されたのは明治27年になっても透谷が機会があれば発表可能なかたちで手許に置いていたためと考えられ、透谷最後の遺稿詩編と目される根拠もそこにあります。これは蟻にたかられた蚯蚓の必死の攻防を描いた他愛ないコミック詩ですが、透谷がこの作品に執着心していたこと自体がむしろ透谷自身の内心の鬱屈を感じさせるものでしょう。
島崎藤村編『透谷全集』大正11年(1922年)3月・春陽堂刊
み ゝ ず の う た
この夏行脚してめぐりありけるとき、或朝ふとおもしろき草花の咲けるところに出でぬ。花を眺むるに余念なき時、わが眼に入れるものあり、これ他の風流漢ならずして一蚯蚓なり。をかしきことありければ記しとめぬ。
わらじのひものゆるくなりぬ、
まだあさまだき日も高からかに、
ゆふべの夢のまださめやらで、
いそがしきかな吾が心、さても雲水の
身には恥かし夢の跡。
つぶやきながら結び果てゝ立上り、
歩むとすれば、いぶかしきかな、
われを留むる、今を盛りの草の花、
わが魂は先づ打ち入りて、物こそ忘れめ、
この花だにあらばうちもえ死なむ。
そこはふは誰ぞ、わが花の下を、
答へはあらず、はひまはる、
わが花盗む心なりや、おのれくせもの、
思はずこぶしを打ち挙げて
うたんとすれば、「やよしばし。
「おのれは地下に棲みなれて
花のあぢ知るものならず、-
今朝わが家を立出でゝより、
あさひのあつさに照らされて、
今唯だ帰らん家を求むるのみ。
「おのれは生れながらにめしひたり、
いづこをば家と定むるよしもなし。
朝出る家は夕べかへる家ならず、
花の下にもいばらの下にも
わが身はえらまず宿るなり。
「おのれは生れながらに鼻あらず、
人のむさしといふところをおのれは知らず、
人のちりあくた捨つるところに
われは極楽の露を吸ふ、
こゝより楽しきところあらず。
「きのふあるを知らず
あすあるをあげつらはず、
夜こそ物は楽しけれ、
草の根に宿借りて
歌とは知らず歌うたふ。」
やよやよみゝず説くことを止めて
おのがほとりに仇あるを見よ、-
知恵者のほまれ世に高き
蟻こそ来たれ、近づきけれ、
心せよ、いましが家にいそぎ行きね。
「君よわが身は仇を見ず、
さはいへあつさの堪へがたきに、
いざかへんなん、わが家に、
そこには仇も來らまじ、安らかに、
またひとねむり貪らん。」
そのこといまだ終らぬに、
かしこき仇は早や背に上れり、
こゝを先途と飛び躍る、
いきほひ猛し、あな見事、
仇は土にぞうちつけらる。
あな笑止や小兵者、
今は心も強しいざまからむ、-
うちまはる花の下、
惜しやいづこも土かたし、
入るべき穴のなきをいかん。
またもや仇の来らぬうちと
心せくさましをらしや、-
かなたに迷ひ、こなたに惑ひ、
ゆきてはかへり、かへりては行く、
まだ帰るべき宿はなし。
やがて痍(いたみ)もおちつきし
敵はふたゝびまとひつ、-
こゝぞと身を振り跳ねをどれば、
もろくも再びはね落され、
こなたを向きて後退(あとじ)さる。
二つ三つ四ついつしかに、敵の数の、
やうやく多くなりけらし、
こなたは未だ家あらず、
敵の陣は落ちなく布きて
こたびこそはと勇むつはもの。
疲れやしけむ立留まり、
こゝをいづこと打ち案ず、-
いまを機会(しほ)ぞ、かゝれと敵は
むらがり寄るを、あはれ悟らず、
たちまち背には二つ三つ。
振り払ひて行かんとすれば、-
またも寄せ來る新手のつはもの、-
踏み止りて戦はんとすれば
寄手は雲霞のごとくに集りて、
幾度跳ねても払ひつくせず。
あさひの高くなるまゝに、
つちのかわきはいやまして、
のどをうるほす露あらず、
悲しやはらばふ身にしあれば
あつさこよなう堪へがたし。
受けゝる手きずのいたみも
たゝかふごとになやみを増しぬ。
今は払ふに由もなし、
為すまゝにせよ、させて見む、
小兵奴らわが背にむらがり登れかし。
得たりと敵は馳せ登り、
たちまちに背を蓋ふほど、-
くるしや許せと叫ぶとすれど、
声なき身をばいかにせむ、
せむ術なくてたふれしまゝ。
おどろきあきれて手を差し伸れば
パツと散り行く百千の蟻、-
はや事果しかあはれなる、
先に聞し物語に心奪はれて、
救ひ得させず死なしけり。
ねむごろに土かきあげ、
塵にかへれとはうむりぬ。
うらむなよ、凡そ生とし生けるもの
いづれ塵にかへらざらん、
高きも卑きもこれを免のがれじ。
起き上ればこのかなしさを見ぬ振に、
前にも増せる花の色香、-
汝(いまし)もいつしか散りざらむ、
散るときに思ひ合せよこの世には
いづれ絶えせぬ命ならめや。
(「文學界 第十八號」明治27年=1894年6月30日)
*仮名づかいは原文のまま、詩の表題と発表誌は正字を残し、本文は略字体に改めました。「みゝずのうた」の特殊句読点(白ゴマ点/白抜き句点)は「、-」に置き換えました。