日頃思うのだが、ふと考えたのだが、人間を二つに分けると(1)感情型と(2)感覚型に区別することができるのではないか。その場合、感覚というのは受動的な状態なのは言うまでもないが、では感情はといえば食欲に近い本能なのではないか。
本題に移ると、食物連鎖とは一種の進化論的サイクルを形成していると考えられる。高次に進化した種がその源泉となった種を食らうわけだが、ならばヤキソバが主食の人間はヤキソバが進化したものか、カレーが主食の人間はカレーが、ラーメンが主食の人間は、ギョーザが主食の人間は、牛丼が主食の人間は牛丼が……と果てしなく追跡していくことができる。できないかもしれないが、そこに拘泥するのは些末な問題に過ぎない。
そこでタイトルにした「殺人ヤキソバ」だが、その前提として「本能に善悪の区別はない」ことを確認しておきたい。これは感情の領域ではなく感覚の次元であることも明白であると思う。では、殺人とは本能の領域で行われた時にどうなるか。動物の大半の行動からも知られる通り(ごく稀な反射的・遊戯的例外はあるというが)殺害は食餌、または生殖テリトリーの確保以外には行われない。
生殖テリトリーの確保が殺傷行為の主要要件なのは人間界でも多く見られる。これをいわゆる色情と呼ぶ。だがその大半は話せば判る事情をこじらせたもので、ここで本能と色情との混同が発生する。色情が感情の領域ならば、それは本来あるべき本能と矛盾を来しているというしかない。
ならば参考にすべきは世の中で食通と呼ばれる人種にあって、食欲が感覚と感情のいずれかに属するかではなかろうか。具体例としてはインスタント乾麺の袋麺ヤキソバ--
次に生麺の調理例--
--だがこれではまだサンプルとして不足がある。調査結果は随時ご報告したい。
(続く)
*タイトル、写真、本文はいずれもフィクションであり、実在の人物、製品、ヤキソバとは関係ありません。