山村暮鳥(1884-1924)、結核療養のため休職中の最晩年の近影。逝去前年の大正12年=1923年、終焉の地となった茨城県大洗町にて。
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詩集の第1部「1915 III-V」には大正4年3月~5月制作の詩編から9編、第2部「1914 V-」には大正3年5月制作詩編から2編、今回の第3部「1914 VII-XII」には大正3年7月~12月制作詩編から12編が収められ、次回ご紹介する第4部「1915 I-II」には大正4年1月~2月制作詩編から12編がまとめれています。詩集本編の収録作品は全35編、全4部はほぼ均等な分量になっています。第1詩集『三人の處女』(大正2年=1913年5月)刊行後に刊行ぎりぎりまで収録作品の制作・発表が続けられた『聖三稜玻璃』(大正4年=1915年12月)までの間に暮鳥がさまざまな同人誌に手当たり次第に発表した作品は総数200編以上になり、月産平均10編を超えるそうですから、200編からの35編とは詩集採用詩編は2割に満たなかったことになります。40歳で亡くなった暮鳥の作品数は57歳で亡くなった萩原朔太郎の4倍以上になり、最晩年まで旺盛な詩作を続けた室生犀星(享年72歳)や金子光晴(享年80歳)に匹敵します。しかし暮鳥が生前に7冊の詩集にまとめた作品は全詩作の3割にも満たないのです。
暮鳥は貧しい小作農の生まれで、複雑な家庭事情から一家は東北各地を転々とし離合集散を繰り返しました。暮鳥の生育環境や実家の経済力を鑑みると神学校進学~日本聖教会伝道師という進路は優秀な学力による奨学金制度を得なければ不可能だったでしょう。萩原朔太郎や中原中也のように実家が大病院で遺産で暮らしていたのでもなく、高村光太郎のように江戸時代から続いた彫刻師の家系として手に職があるわけでもなく、宮澤賢治や太宰治のように実家が大地主の豪農だったのでもありません。その上、暮鳥は職業的聖職者としての適性に問題があり次々にトラブルを招きました。暮鳥の宣教は教会本部の方針を逸脱しており、詩人であることが不信感に輪をかけました。暮鳥独自の解釈による難解な宣教や指導力の弱さは信徒から罷免の訴えが出て、何度となく教会本部に担当伝道所をたらいまわしにされています。暮鳥は聖書研究以外に文学研究会も先々の伝道所で主宰したので、暮鳥に兄事する文学青年たちからは非常に慕われました。
30代始めから暮鳥には結核の兆候があり、牧師の業務も休職が増えて生計が逼迫したので童話・童謡集を晩年5年間で10冊、地方新聞連載の長編小説を4作書いています。大正8年(1919年)6月には教会本部から12月までの休職期間で完治しないと伝道師を解雇、と通達され、当然半年で完治する病状ではありませんから事実上の免職でした。その後晩年5年間(とはいえ35歳~40歳)は、暮鳥は文学研究会に集っていた青年たち(最盛時には76名)からの住居の提供や(田舎の家の離れ等ですが)食糧の提供を受けながら、現金収入はわずかに童話や小説の原稿料きりになりました。夫人と女児ふたりの家庭でしたが、石川啄木のように夫人にも結核を感染させて命取りになり、子どもも病死という悲惨なことにはならず、5年間真剣に結核療養に務めたようです。夫人もお嬢さんがたも長寿でした。暮鳥に薫陶を受けた詩人たちは故人をしのぶ暮鳥会を続け、暮鳥歿後92年になる現在でも歿後会員によって活動が受け継がれています。暮鳥は群馬県出身で宣教師時代は秋田県各地、茨城県各地を転々としましたが、晩年は茨城県大洗町で療養に専念し同地で亡くなりました。遺稿・遺品は暮鳥未亡人(1979年歿)から暮鳥会に託され、暮鳥会によって茨城県立図書館に一括寄贈され常設展が行われています。
今回の第3部は極端に断片化した文体、ひらがな詩の試みと意図的なかな・漢字表記の不規則さ、文脈を無視した唐突な宗教的イメージ(しかも神・仏・キリスト教の恣意的な混合)、具象詩なのか隠喩詩なのかわからない視点と文体、弁証法的発想ではまったくない異様なイメージの衝突による一元的なイメージの相殺、など『聖三稜玻璃』期の暮鳥の短詩の特徴のショーケースの観があります。第1部の「1915 III-V」に較べるとまだ過渡期ではありますが、第2部「1914 V-」の大作散文詩「A FUTUR」(同人誌掲載時は「肉體の合奏の行進曲」というタイトルだったそうです。改題して正解です)を短詩に分割した試みが「1914 VII-XII」だったのがわかります。第4部「1915 I-II」ではさらに練れな作風になり、最新作の第1部に回帰する構成になっています。
しかし本当にこの詩集は伊良子清白『孔雀船』(明治39年=1906年)からは10年も、石川啄木『啄木遺稿』(大正2年=1913年)収録作品からは5年未満しか経っていないのでしょうか。「秋澄み//電線うねり/電線目をつらぬき」(「模様』)、「かみのけに/ぞつくり麦穂」(「光」)、「百足(むかで)ちぎれば/ゆび光り」(「持戒」)、「むぎのはたけのおそろしさ……」(「印象」)、「銀魚はつらつ/ゆびさきの刺疼き」(「十月」)、「寂光さんさん/泥まみれ豚//秋冴えて/わが瞳の噴水/いちねん/山羊の角とがり」(「楽園」)などの鮮やかな奇想、美しいひらがなの4行詩「発作」を1語も書きかえられる他の詩人はいないでしょう。旧約聖書「創世記」の禁断の樹をモチーフにした2行4連のひらがな詩「曼陀羅」も宗教的というよりもむしろ童話的な幻想性を感じさせます。
第3部最高の作品はたった5行の短詩「岬」でしょう。魚が晴れた夜空に灯台の明かりに集まってくる光景ですが、「岬の光り/岬のしたにむらがる魚ら」(「魚」の読みは「うを」でしょう)と灯台という言葉は一度も使わずに情景を述べ、「岬にみち尽き/そら澄み」という簡素な副詞節で光景の絶対的な真実性を導いた上で「岬に立てる一本の指。」と灯台そのものを神秘的な「指」に幻視します。生命本能としての信仰の発生を描いた宗教詩と取るのがもっとも素朴で妥当ではありますが、これは明らかに既成宗教のどんな教義にとっても異端なのです。おそらく暮鳥にはその自覚がなかったので、職業的聖職者としての不適格と幻視者としての詩人的卓越性が同居したことに暮鳥の不幸も栄光もあったのです。
『聖三稜玻璃』初版=四方貼函入り型押し三方山羊革表紙特製本/にんぎょ詩社・大正4年(1915年)12月10日発行
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1914 VII-XII
樂園 山村暮鳥
寂光さんさん
泥まみれ豚
ここにかしこに
蛇からみ
秋冴えて
わが瞳(め)の噴水
いちねん
山羊の角とがり。
(大正3年=1914年11月「地上巡禮」)
發作 山村暮鳥
なにかながれる
めをとぢてみよ
おともなくながれるものを
わがふねもともにながれる。
(大正4年=1915年3月「地上巡禮」)
曼陀羅 山村暮鳥
このみ
きにうれ
ひねもす
へびにねらはる。
このみ
きんきらり。
いのちのき
かなし。
(大正3年=1914年10月「地上巡禮」)
かなしさに 山村暮鳥
かなしさに
なみだかき垂れ
一盞の濁酒ささげん。
秋の日の水晶薫り
餓ゑて知る道のとほきを
おん手の葦
おん足の泥まみれなる。
(大正3年=1914年10月「地上巡禮」)
岬 山村暮鳥
岬の光り
岬のしたにむらがる魚ら
岬にみち盡き
そら澄み
岬に立てる一本の指。
(大正4年=1915年4月「詩歌」)
十月 山村暮鳥
銀魚はつらつ
ゆびさきの刺疼(うづ)き
眞實
ひとりなり
山あざやかに
雪近し。
(大正3年=1914年11月「地上巡禮」)
印象 山村暮鳥
むぎのはたけのおそろしさ……
むぎのはたけのおそろしさ
にほひはうれゆくゐんらく
ひつそりとかぜもなし
きけ、ふるびたるまひるのといきを
おもひなやみてびはしたたり
せつがいされたるきんのたいやう
あいはむぎほのひとつびとつに
さみしきかげをとりかこめり。
(初出誌不詳)
持戒 山村暮鳥
草木を
信念すれば
雪ふり
百足(むかで)
ちぎれば
ゆび光り。
(大正3年=1914年11月「風景」)
光 山村暮鳥
かみのけに
ぞつくり麥穗
滴る額
からだ青空
ひとみに
ひばりの巣を發見(みつ)け。
(大正3年=1914年8月「郷土文藝」)
氣稟 山村暮鳥
鴉は
木に眠り
豆は
莢の中
秋の日の
眞實
丘の畑
きんいろ。
(大正3年=1914年12月「詩歌」)
模樣 山村暮鳥
かくぜん
めぢの外
秋澄み
方角
すでに定まり
大藍色天
電線うなる
電線目をつらぬき。
(初出誌不詳)
銘に 山村暮鳥
廢園の
一木一草
肉心
磁器
晶玉
天つひかりの手
せんまんの手
その手を
おびえし水に浸し
目あざやか。
(大正3年=1914年9月「潮」)