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ザ・ヘルプフル・ソウル - ソウルの追求 (日本ビクター/ワールド, 1969)

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ザ・ヘルプフル・ソウル - ソウルの追求 The Helpful Soul First Album (日本ビクター/ワールド, 1969) Full Album
Released by Victor World Group SJET-8118, April 1969
(Side A)
A1. Blues for My Baby (Nakahara-Shoji-Chei-Tsukasa) : https://youtu.be/78bl884aOyI - 8:06
A2. Fire (Jimi Hendrix) : https://youtu.be/NqSHPhT8mkI - 2:42
A3. Peace For Fools (Nakahara-Shoji-Chei-Tsukasa) : https://youtu.be/y83X5AmZUM0 - 10:33
B4. You Got Me Floatin' (Jimi Hendrix) : https://youtu.be/sU8uboYnPME - 3:14
(Side B)
B1. Spoonful (Willie Dixon) : https://youtu.be/j7cyD1mrVn4 - 14:48
B2. Kansas City (Leiber-Stoller) : https://youtu.be/jNrGZk4ERfY - 3:42
B3. Crossroads (Robert Johnson) : https://youtu.be/jil3K3fh-YI - 5:13
(CD Bonus Track)
BT. Little Wing (Jimi Hendrix) : https://youtu.be/fJ9rofVguRw - 3:50
[ ザ・ヘルプフル・ソウル The Helpful Soul ]
ジーン・ショウジ - lead guitar, harmonica
チャールズ・チュー - bass, vocal(B1)
ジュニオ・ナカハラ - lead vocal, guitar
司 英一 - drums

 ニュー・ロック時代の日本のロック・アルバムの代表作のひとつ。ニュー・ロックとは1970年前後に欧米や日本のジャーナリズムでは普通に使われていた言葉で、60年代初頭にモーダル・ジャズやハイライフ、ジャズ・ロックやフリー・ジャズがまとめて「ニュー・シング」と呼ばれていたのと(その後から音楽傾向で分化されたのと)事情は似ています。各種文献を参照すると、早い話が1970年前後には脱ビート・グループ化した音楽性のロックであれば全部ニュー・ロックと呼ばれていたようです。ニュー・ロックの先駆をなすのはザ・ヤードバーズでしたが(『Five Live Yardbirds』1965.4、『The Yardbirds(Roger the Engineer)』1966.8)、1966年12月にはクリームのデビュー・アルバム『Fresh Cream』、ジミ・ヘンドリクスのデビュー・シングル「Hey Joe/Stone Free」が発表されます。ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスのフルアルバム『Are You Experienced?』はザ・ビートルズの『Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band』1967.6の前月に出て、ビートルズ作品はグラミー賞年間最優秀ポピュラー音楽アルバム賞を受賞しましたが、ビルボード誌の全米年間アルバム・チャートNo.1はジミのファースト・アルバムでした。
 ただしクリーム、ジミ・ヘンドリクスの登場をニュー・ロックの目安にするとしても、この頃にはビートルズやザ・ローリング・ストーンズもビート・グループでは括れないハイブリッドな音楽性のグループになっており、また後に古典的な評価を獲得する13thフロア・エレヴェーターズやラヴ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどは確実にポスト・ブリティッシュ・ビートと言える音楽性ながらあまりに独創的にすぎて同時代的には相応の評価もされず影響力も持ちませんでした。クリームと並び、ニュー・ロックのバンド中で最大級の影響を誇ったのはアルバム『Vanilla Fudge』1967.8でデビューしたヴァニラ・ファッジでしょう。クリーム、ジミと並べるのが忍びないような二流バンドですが、脱ビート・グループ時代のロック・バンドにとってアレンジとアンサンブルの見本を陳列したようなアルバム作りはたちまち欧米や日本でも模倣バンドが続出しました。ディープ・パープル、イエスがともにヴァニラ・ファッジのサウンドを参照してデビューしたのはよく知られています。つまりニュー・ロックとはヤードバーズやクリームのブルース・ロックがジミの超人的ギター・パフォーマンスで誇張されるとサイケデリック・ロックの典型例になり、またヴァニラ・ファッジ流の計算されたヘヴィ・サイケデリック・ロックがやがてハード・ロックやプログレッシヴ・ロックに発展していくまでの過渡期的スタイルでもありました。
(Original Victor World Group "The Helpful Soul First Album" LP Liner Cover)

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 日本の場合ではグループ・サウンズがビート・グループ段階のロックに当たるものとされ、ニュー・ロックと呼ばれるバンドは1968年~1969年当時トレンドとされたR&Bのバンドとして売り出された、という経緯があります。デビュー時からR&Bのグループとされたバンドはザ・ゴールデン・カップスでした。カップスはギター/ヴォーカルのケネス伊東の在籍した前期とケネス脱退後の後期に分けられ、ケネス脱退後のバンドはそれまでのガレージ・パンク的なサウンドからハード・ロックに転換します。前期のアルバムは、
1968.3: ザ・ゴールデン・カップス・アルバム
1968.9: ザ・ゴールデン・カップス・アルバム第2集
1969.3: ブルース・メッセージ/アルバム第3集
1969.8: スーパー・ライヴ・セッション
 の4作があります。デビュー作と第2集はガレージR&B、第3作とライヴ・アルバムはブルース・ロックに進んだものです。以下1968年~1969年にR&Bまたはブルース・ロックを標榜した日本のロック・アルバムを上げると、
1968.4: ザ・ダイナマイツ/ヤングサウンドR&Bはこれだ
1968.7: デ・スーナーズ/リズム・アンド・ブルース天国
1968.8: ザ・ボルテイジ/R&Bビッグヒット
1968.10: ズー・ニー・ヴーの世界/R&Bベスト・ヒット
1968.10: ザ・リード/ザ・リード・ゴーズR&B
1969:2: ザ・バーンズ/R&B・イン・東京
1969.4: ブルースの新星/パワー・ハウス登場
1969.4: ザ・ヘルプフル・ソウル/ソウルの追求
1969.10: ブルース・クリエーション
1969.11: ズー・ニー・ヴー/ゴールデン・ズーニーヴー
 があり、これらのバンドはアルバムを1~2枚しか残しませんでした。60年代末にR&B~ブルース・ロック系バンドに在籍していたミュージシャンはゴールデン・カップスを筆頭に1970年以降はハード・ロック、ないしヴァニラ・ファッジ~マウンテンを範にしたプレ・プログレッシヴ・ロックに向かいました。それがおおよそニュー・ロックの標準的スタイルで、1968年まではグループ・サウンズならではのガレージ・スタイルが残っていますが、1969年のアルバムでは70年代ロックのビート感覚が芽生えてきています。1969年にはまだぎりぎりグループ・サウンズのバンドが活動していましたが、パワー・ハウス、ザ・ヘルプフル・ソウル、ブルース・クリエーションはグループ・サウンズに数えられないでしょう。
(Original Victor World Group "The Helpful Soul First Album" LP Gatefold Inner Cover)

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 ヘルプフル・ソウルは神戸のアメリカン・スクールの生徒が1964年1月に結成したザ・ヤング・ビーツを前身で、メンバーは日米のハーフが中心でした。1966年、平均年齢16歳の頃にはメンバーも固まり、ブリティッシュ・ビート系グループの曲をレパートリーに神戸・三宮のジャズ喫茶のハコバンを勤めるまでになっていました。1968年3月に最年長メンバーの卒業を機会にプロ活動を決めたメンバーがヘルプフル・ソウルとしてレコード・デビューすることになります。1968年中はライヴ活動やテレビ出演で関西での知名度を広げ、年末までにはレコード契約にこぎつけました。この時点でグループ・サウンズとしてデビューするのは遅かったので、衰退期にあるポストGSにして本格的な日本のロック・バンドとしてデビューする幸運が舞い込んだわけです。
 メンバーの年齢も若く、ジーン・ショウジ(リード・ギター)が1947年生まれ、司英一(ドラムス)が1948年、ジュニオ・ナカハラ(ヴォーカル/ギター)が1949年、チャールズ・チェー(ベース/ヴォーカル)が1950年生まれと、1969年4月リリースのこのアルバムの制作時点では18歳~21歳になります。ヘルプフル・ソウルは1969年6月公開の虫プロダクションの長編アニメ『千夜一夜物語』のサントラを富田勲の音楽監督下で録音、7月発売のサントラ盤とシングル(チャールズ・チェーのヴォーカル曲)はデビュー作より売れたようですが、7月末のテレビ出演後にジュニオが留学のため渡米して実質的に解散したと見られます。1970年5月に2回のロック・フェスティヴァルにヘルプフル・ソウルの出演記録があるらしいものの、バンドとして存続していたのか詳細は不明です。
(Original Victor World Group "The Helpful Soul First Album" LP Side A Label)

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 ヘルプフル・ソウルの解散後、司栄一はジーン・ショウジは『千夜一夜物語』サントラの縁で富田勲の助手になりました。ジュニオ・ナカハラがジュニ・ラッシュと改名して小川勉・青木正行らと組み、ヴォーカリストについたトゥー・マッチ『Too Much』1971.7はヘヴィなブルース・ロック主体ですが、富田勲のストリングス・アレンジがフィーチャーされたバラード曲でプログレッシヴ・ロックのマニアにも人気の高いアルバムです。司英一が速水清司・永井光男らと組んだジプシー・ブラッドの、ミッキー・カーチスのプロデュースによる『ろっこうおろし』1972.12も『Too Much』同様、唯一作ながら日本のニュー・ロックの代表的アルバムとして知られます。パワー・ハウスやブルース・クリエーションが全曲カヴァーだったのに較べてヘルプフル・ソウルはA1、A3の優れたオリジナル曲があり、メンバー全員合作からもA3の後半がアイアン・バタフライの「In A Gada-Da-Vida」になるなどセッション的な曲としても発想の柔軟性とインプロヴィゼーション力が見られ、パワー・ハウスやブルース・クリエーションよりサイケデリック・ロック的で多彩な表現力に長けていたと言えます。ジミ・ヘンドリクス曲の「Fire」と「You Got Me Floatin'」はペルーの誇る伝説的サイケバンド、トラフィック・サウンドも1969年の『Bailar A Go Go』で取り上げていますが、ヘルプフル・ソウルの勝ちではないでしょうか。
 CD化の際発掘されたジミの「Little Wing」はエリック・クラプトン(デレク・アンド・ドミノス)のカヴァー以来カヴァーされるようになりましたが、ヘルプフル・ソウルの方が先で、このアルバムの録音時点ではジミ・ヘンドリクスは存命中なのです。「Spoonful」と「Crossroads」はそのままクリームの『Wheels of Fire』1968.8のC面からで、「Spoonful」はパワー・ハウスもブルース・クリエーションもアルバムに収めており、クリームとジミ・ヘンドリクスが当時の日本のブルース・ロックに与えた影響がうかがえます。チャールズ・チェーのヴォーカル曲「Kansas City」はビートルズ・ヴァージョンによるものでリード・ヴォーカルのジュニオに引けをとらず、『千夜一夜物語』サントラからシングル・カットされオリコン97位の小ヒットになった「アルディンのテーマ」もチャールズのヴォーカル曲です。チャールズ・チェーはアメリカ人の父、中国人の母で神戸の生まれ育ち(のち日本国籍に帰化)の人でジュニオ同様日本人離れした声質・発声に艶があり、1971年には山下毅雄が音楽担当のテレビ・シリーズ、アニメ『ルパン三世』(第1シリーズ)のOP・ED主題歌、作中歌に起用されました。ヘルプフル・ソウルのチャールズ・チェーというより、『ルパン三世』主題歌のチャーリー・コーセイという方が通りがいいかもしれません。

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