山村暮鳥(1884-1924)、大正2~4年頃(1913~1915年)、第1詩集『三人の處女』(大正2年)~第2詩集『聖三稜玻璃』成立時。
日本に初めてダダイズムが文芸記事に紹介されたのが大正9年(1920年)、20歳の少年詩人高橋新吉(1901-1987)が翻訳家・エッセイストの辻潤(1884-1944)を訪ねて兄事するようになったのが翌大正10年(1921年)で、同年には詩人平戸廉吉(1893-1922)が「日本未来派宣言運動」を発表します。平戸は精力的にマニフェストと詩のビラを街頭で配布し注目されましたが翌年28歳で急逝し、遺稿集『平戸廉吉詩集』の刊行は10年後になりました(昭和6年=1931年刊)。少年詩人吉行エイスケ(1906-1940)主宰の同人詩誌「ダダイズム」創刊が大正11年(1922年)で、日本初のダダイズム詩集『ダダイスト新吉の詩』が辻潤編で刊行され毀誉褒貶を呼んだのが大正12年(1923年)です。以降、代表的な日本のダダ詩集は大正14年(1925年)の北川冬彦(1900-1990)『三半規管喪失』、遠地輝武(1901-1967)『夢と白骨の接吻』、萩原恭次郎(1899-1938)『死刑宣告』、尾形亀之助(1900-1942)『色ガラスの街』、大正15年(1926年)の小野十三郎(1903-1996)『半分開いた窓』、北川冬彦『検温器と花』と続き、昭和期に入るとダダの詩人たちは共産主義、モダニズム、日常詩、抒情詩に移行してしまうのでダダは高橋新吉の一人一派に縮小し、詩誌「歴程」(草野心平主宰)の庶民的アナーキズムの気風に吸収された観がありますが、昭和8年に享年37歳で逝去した宮沢賢治(1896-1933)の生前唯一の自費出版詩集『春と修羅』(大正13年=1924年刊)は刊行当時ダダイズムの詩集として目利きの詩人たちに読まれ、年長の高村光太郎(1883-1956/詩集『道程』大正3年=1914年)、ほぼ同年の辻潤や金子光晴(1895-1975)、少し年少の高橋新吉や草野心平(1933-1988)、まだ10代の中原中也(1907-1937)に大きな影響を与えました。特に中原は高橋新吉と宮沢賢治の影響からダダイストとして出発した詩人です。中原は夭逝後に急激に名声を高めたので、かけ持ちしていた同人誌「歴程」「文学界」「四季」では中原の功績の奪いあいが起きる、という喜劇がありました。
芥川龍之介の自殺(昭和2年=1927年)後に川端康成とともに文壇の重鎮になった小説家は横光利一ですが、親友同士だった横光と川端は同時代の青年詩人たちと積極的に交流して、芥川の友人だった小説家・詩人の佐藤春夫、室生犀星(佐藤、室生ともに出自は詩人でしたが)とともに同人誌詩人たちを商業誌に紹介しました。生前に自費出版詩集と童話集を1冊ずつしか持てなかった宮澤賢治の膨大な遺稿が、草野心平中心の「歴程」グループとの縁で全6巻の全集刊行に実現したのも横光利一の口利きです。彼ら新しい世代の詩人・小説家たちは少数の例外を除く明治文学とは断絶している、という共通点がありました。その例外とは小説では自然主義小説の落ちこぼれだった徳田秋聲、岩野泡鳴、近松秋江であり、現代詩では明治39年(1906年)の『孔雀船』と薄田泣菫(1888-1945)『白羊宮』、明治41年(1909年)の蒲原有明(1876-1952)『有明集』と岩野泡鳴(1973-1920)『闇の盃盤』があり、明治42年(1910年)に北原白秋(1885-1942)が『邪宗門』、三木露風(1889-1964)が『廃園』でデビューすると明治の新体詩人たちは一夜にして旧世代の存在と目され沈黙に入りますが、その最高の詩集だけは読み継がれていきます。明治43年(1911年)には日本初の口語自由詩集と謳われた川路柳虹(1888-1959)『路傍の花』が白秋・露風に続く新しい世代の詩人のトップランナーに柳虹を持ち上げ、オーガナイザーとしての素質から柳虹は大正詩壇のボスになりますが、日本初の口語詩集というなら9月刊の『路傍の花』に先んじて河井醉茗(1874-1965)『霧』が同年5月に刊行されていました。もっとも柳虹は醉茗に師事しており、また高踏派的作風ながら線が細く白秋ほどのカリスマを持たない露風と共同で詩誌を主宰しアマチュア詩人たちにとってもっとも模倣しやすい大正現代詩の型を作り上げました。ですが柳虹指導下の大半の詩人たちの詩意識は、26歳の夭逝翌年に『啄木遺稿』(大正2年=1913年)で明治38年(1905年)の詩集『あこがれ』以降から最晩年の連作「心の姿の研究」や「呼子と口笛」、批評や批評が初めて単行本化された石川啄木(1886-1912)、また啄木と並び称されていた高村光太郎の第一詩集『道程』には遠く及ばなかったのは言うまでもありません。
川路柳虹が師であり顔の広い醉茗を介して門下生としていた若手詩人たちのうち、相互影響のあった「自由詩社」「自然と印象」「早稲田詩社」のグループは中軸メンバーに福士幸次郎(1889-1946/詩集『太陽の子』大正3年=1914年)や加藤介春(1885-1946/詩集『獄中哀歌』大正3年=1914年)、三富朽葉(1989-1917/『三富朽葉詩集』大正15年=1926年)がおり河井醉茗~川路柳虹の師系は彼ら実力のあるマイナー詩人を結びつけ、地味ながら活動の場を与えたことに功績があるでしょう。福士は後輩詩人たちに人格的影響を与えた風格があり、朽葉の遺稿詩集(訳詩、批評と論文、日記と書簡を含む全集)は青年詩人たちにかつての『啄木遺稿』に相当する必読書になりました。介春は萩原朔太郎(1886-1942)が詩集『転身の頌』(大正6年=1917年)の日夏耿之介(1890-1971)とともにもっとも共感する感性を表明した詩人です。また、大正期の詩集では千家元麿(1999-1948)『自分は見た』(大正7年=1918年)、西條八十(1982-1970)『砂金』(大正8年=1919年)、村山槐多1896-1919)『槐多の歌へる』(大正9年=1920年)、佐藤惣之助(1890-1942)『深紅の人』(大正10年=1921年)を数えておくべきでしょう。堀口大學編・訳『月下の一群』(大正14年=1925年)や柳虹門下の金子光晴『こがね蟲』(大正12年=1923年)、白秋門下の吉田一穂(1898-1973)の『海の聖母』(大正15年=1926年)になると、宮澤賢治の『春と修羅』同様、作風はすでに昭和に足をかけたものになります。
暮鳥がもっとも芸術的に近い位置にいたのが大正元年~2年(1912~1913年)に相次いで白秋主宰の詩誌「朱欒」に依り、白秋門下生三羽烏と呼ばれた吉川惣一郎こと大手拓次(1887-1934/詩集『藍色の蟇』昭和11年=1936年)、萩原朔太郎(詩集『月に吠える』大正6年=1917年、『青猫』大正12年=1923年)、室生犀星(詩集『愛の詩集』『純情小曲集』共大正7年=1918年)でした。「自然と印象」グループから出た暮鳥は『聖三稜玻璃』の発行を挟んだ大正4年~5年(1915~1916年)、室生犀星・萩原朔太郎と短期に終わった同人誌「卓上噴水」「LE PRISM」「感情」を共にしますが、独身で自由業(無職とも言いますが)だった若い犀星・萩原が親友になったようには、年長で伝道師の牧師職だった所帯持ちの暮鳥は気風が合わず、密接な交友はその2年間だけでした。『聖三稜玻璃』からの影響は萩原の『月に吠える』、犀星の『純情小曲集』に明らかですが十分に萩原や犀星の個性によって咀嚼されたものであり、萩原・犀星とも『聖三稜玻璃』を論じた重要な批評を数回に渡って書いていますが暮鳥を高く評価した上で『聖三稜玻璃』の限界や欠陥を突いたものになっています。それは萩原が犀星に、犀星が萩原には持たなかった不満でした。もっとも近い理解者(同人誌仲間)からも『聖三稜玻璃』は無条件で賞賛されたのではなく、この孤立は10年後に暮鳥が逝去するまで深まっていくのです。つまり今回延々述べた大正期の現代詩史は、まったく暮鳥を疎外して展開されたものでした。暮鳥に匹敵する孤立を抱えていたのは長い詩歴に生前刊行詩集を1冊も持てなかった大手拓次くらいでしょう。
山羊革表紙特製本という豪華装丁の限定版で自費出版された『聖三稜玻璃』は第2次大戦後に草野心平編の再刻本(『聖三稜玻璃』に他の詩集からの代表作を合わせたもの)が刊行されるまで新潮社『現代詩人全集』(昭和4年・石川啄木、三富朽葉との3人集)など選詩集への再録で部分的にしか読めなかったので、河出書房『日本現代詩体系』(昭和28年)に全編が収録されてからは文学全集類にようやく全編収録されるようになりましたが、『道程』や『月に吠える』、『純情小曲集』や宮澤賢治詩集、中原中也詩集のように親しまれてはいないでしょう。暮鳥はプロテスタント聖公会伝道師(牧師)でしたが、詩集の口絵にはレオナルド・ダ・ヴィンチの聖女を描いたデッサンが使われ、これはカトリックのイコンなのは言うまでもありません。題辞に引かれている「Chandogya Upa.」は仏教の聖典チャーンドーギヤ・ウパニシャッドで、ウパニシャッド(釈迦伝)でも最古に属する紀元前800年~500年に成立した巻です。詩集タイトルの「三稜玻璃」は三角錐のプリズムを差し、この詩集が聖なるプリズムからの屈折光を描いた詩編であるという自作解説ですが、このプロテスタント、古代仏教、カトリック、アジア的自然信仰と神秘主義、芸術至上主義の手当たり次第の混合は本来なら統一のかなう美的感覚ではなく、詩集刊行当時の批判的評価のほとんどが『聖三稜玻璃』の難解さ、表現の未熟さ、支離滅裂さを非難したものでした。それは大正4年時点でこの詩集を評価する尺度がなかったことに他なりませんが、1915年に不可解だった詩集が2016年になっても依然として不可解なまま読まれているのは稀有なことで、それは今年刊行された自費出版本が売れもせず好評でもなく2116年にも読まれ続ける可能性を考えればどれほど驚異的か推して知るべしでしょう。詩集全編は目次では1行空きでほぼ均等な4部に分かれ、本文中の該当ページに「1915 III-V」「1914 V-」「1914 VII-XII」「1915 I-II」と印刷された(作品制作年月を表す)トレーシング・ペーパーの小さな紙片が挟み込んであります。この詩集を翻刻した再刻本のすべてが初版本の章立てを見落としているので、この紹介では目次・本文に前記の挟み込み紙片の章立てを付け加えました。暮鳥自身の章立てに従って、詩集全編を4回に分けてご紹介していきます。詩編ごとに発表誌を末尾に記し、また表記の制限から傍点は下線に置き換えました。
『聖三稜玻璃』初版=四方貼函入り型押し三方山羊革表紙特製本/にんぎょ詩社・大正4年(1915年)12月10日発行
(着色型押し三方山羊革表特紙本)
草野心平編『聖三稜玻璃』再刻版=十字屋書店・昭和22年(1947年)7月発行
聖三稜玻璃 山村暮鳥
太陽は神々の蜜である
天涯は梁木である
空はその梁木にかかる蜂の巣である
輝く空氣はその蜂の卵である。
Chandogya Upa. III I. I.
こゝは天上で
粉雪がふつてゐる……
生きてゐる陰影
わたしは雪のなかに跪いて
その銀の手をなめてゐる。
聖ぷりずみすとに與ふ
尊兄の詩篇に鋭角な玻璃状韻律を發見したのは極めて最近である。其あるものに至つては手足を切るやうな刃物を持つてゐる。それは曾ての日本の詩人に比例なき新鮮なる景情を創つた。たとへば湧き上るリズムをも尊兄はその氣稟をもつて中途で斬つてしまふ。又多く尊兄に依つて馳駆される詩句のごときもまつたく尊兄の創造になるものである。寒嚴なる冬の日の朝、眼に飛行機を痛み、又、遠い砂山の上に人間の指一本を現實するは必ずしも幻惑ではない。尊兄にとつては女人の胴體のみが卓上に輝いてゐることを常に不審としないところである。他人が見て奇蹟呼ばはりするものも尊兄にはふだんの事だ。尊兄の愉楽はもはや官能や感覺上の遊技ではない。まことに恐るべき新代生活者が辿るものまにあの道である。玻璃、貴金属に及ぶ愛は直ちに樹木昆蟲に亘り、人類の上に壙がつてゐる。尊兄は曾根て昆蟲に眼をあたへてからもう久しくなつた。今、尊兄は怪しき金属の内部にある最も緻密な幽暗な光と相對してゐる。今、尊兄は癲癇三魚形の上に登つてゐる。まことに尊兄の見るところに依れば珈琲茶碗はへし曲り、テエブルは歪んでゐる。
真に嚴粛なるものは永遠の瞬間である。尊兄は自然人間に對して充分に嚴格なまなこを持つてゐる。その氣稟の余りに熾烈なるために物象を睨んで終ることがある。おどかして見やうとする心は正しき心ではない。私は尊兄の詩品におどかしを見るときほど不愉快なことがない。そのとき尊兄に憂欝が腐れかかつてゐる。態度のみで終るのだ。
尊兄の芸術について難解であるといふのは定評である。寡聞な私でさへ數多い手紙を未知既知の人から貰つた。ことごとく難解で、むづかしくて、ひとりよがりではないかといふ叫びである。ひとしきり私でさへ世評に動かされて、尊兄を不快におもつた。しかし私には言へないことを尊兄は言つてゐる。私には見えないものを尊兄は見てゐる。私の所持しないものを尊兄はもつてゐる。そこが私とは異つてゐるところだ。それだけ私とは偉いところの在る證左である。
私は思つてゐる。尊兄の詩が愈々苦しくなり、難解になり、尊兄ひとりのみが知る詩篇になることを祈つてゐる。解らなくなればなるほど解るのだといふ尊兄の立場を私は尊敬してゐる。誰にも解つて貰ふな。尊兄はその夏の夜に起る悩ましい情慾に似た淫心を磨いて光を與へることである。尊兄の理解者が一人でも殖えるのは尊兄の侮辱とまで極端に考へてもよいのだ。すくなくとも其位の態度で居ればよいのだ。解らなければ黙つて居れ。この言葉を尊兄のまはりに呟くものに與へてやりたく思ふ。
千九百十五年六月、故郷にて
室生犀星
目次
(1915 III-V)
囈語
大宣辭
曲線
手
だんす
圖案
妄語
烙印
愛に就て
(1914 V-)
青空に
A FUTUR
(1914 VII-XII)
樂園
發作
曼陀羅
かなしさに
岬
十月
印象
持戒
光
氣稟
模樣
銘に
(1915 I-II)
くれがた
さりゆてゑしよん
鑿心抄
肉
晝
汝に
燐素
午後
風景
誘惑
冬
いのり
1915 III-V
囈語 山村暮鳥
竊盜金魚
強盜喇叭
恐喝胡弓
賭博ねこ
詐欺更紗
涜職天鵞絨(びらうど)
姦淫林檎
傷害雲雀(ひばり)
殺人ちゆりつぷ
墮胎陰影
騷擾ゆき
放火まるめろ
誘拐かすてえら。
(大正4年=1915年6月「アルス」)
大宣辭 山村暮鳥
かみげはりがね
ぷらちなのてをあはせ
ぷらちなのてをばはなれつ
うちけぶるまきたばこ。
たくじやうぎんぎよのめより
をんなのへそをめがけて
ふきいづるふんすゐ
ひとこそしらね
てんにしてひかるはなさき
ぎんぎよのめ
あかきこつぷををどらしめ。
(大正4年=1915年3月「卓上噴水」)
曲線 山村暮鳥
みなそこの
ひるすぎ
走る自働車
魚をのせ
かつ轢き殺し
麗かな騷擾(さわぎ)をのこし。
(大正4年=1915年4月「卓上噴水」)
手 山村暮鳥
みきはしろがね
ちる葉のきん
かなしみの手をのべ
木を搖(ゆす)る
一本の天(そら)の手
にくしんの秋の手。
(大正3年=1914年11月「卓上噴水」)
だんす 山村暮鳥
あらし
あらし
しだれやなぎに光あれ
あかんぼの
へその芽
水銀歇私的利亞(ヒステリア)
はるきたり
あしうらぞ
あらしをまろめ
愛のさもわるに
烏龍(ウウロン)茶をかなしましむるか
あらしは
天に蹴上げられ。
(大正4年=1915年4月「卓上噴水」)
圖案 山村暮鳥
みなそこに壺あり
壺のなかなる蝙蝠は
やみよの紋章
ふね坂をのぼり
朧なる癲癇三角形
くされたる肉にさく薔薇
さてはかすかな愛の痙攣。
(大正4年=1915年4月「アルス」)
妄語 山村暮鳥
びおろんの胴の空間
孕める牝牛の蹄
眞實なるものには、すべて
或る一種の憂鬱がある。
くちつけのあとのとれもろ
麥の芽の青
またその色は藍で
金石のてざはり
ぶらさがつた女のあし
茶褐で雪の性
土龍(もぐら)の毛のさみしい銀鼠
黄の眩暈(めまひ)、ざんげの星
まふゆの空の飛行機
枯れ枝にとまつた眼つかち鴉。
(大正4年=1915年5月「卓上噴水」)
烙印 山村暮鳥
あをぞらに
銀魚をはなち
にくしんに
薔薇を植ゑ。
(大正4年=1915年5月「卓上噴水」)
愛に就て 山村暮鳥
瞳(め)は金貨
足あと銀貨
そして霙ふり
涕(はなみづ)垂らして
物質の精神の冬はきたつけが
もういつてしまつた。
(大正4年=1915年5月「卓上噴水」)