前回は先に佐佐木幸綱による論考から見たが、藤井貞和「〈形〉について~日本的美意識の問題」ではもっと現代詩詩人が短詩型定型詩に向う時の機微に触れており、結論は佐佐木の「表現することの虚しさ」と近いとしても、論法に大きな屈折と飛躍があり、きわめて脈絡がたどりづらい。
「(石原の)短歌には、ふしぎなほど、あらがいの感情がこもる。なにかが立ちのぼり、まとわりついてくるように動く。これが『情緒の持続』と氏がのべたところのものであり、それの効果だ、ということになるのであろうか」
藤井は続いて、石原が短歌に本格的な取り組む端緒となった「病中詠」(『現代詩手帖』77年3月)に移り、そこではさらに「この動きが増幅されており、逆効果といってもいいほど、ときに激しい。しかし、著者のなかにあらがい出てきた作品群であることを想うと、ふと、この作品の『発表』ということが、疑問にも考えられてくる」と評している。これが藤井による石原短歌の評価の前提とするなら、作品自体が評価に値しない、という主張とも取れる。だが藤井はこれを結論とはしない。
そのまま続けて藤井は「効果が出すぎているのは、まさに短歌の形式のせいかとふいに想われる」と述べ、「当然のことかも知れないが、リズムがときに激しいほどここにはある」と、またもや論旨が飛躍する。
「しかし」と藤井は続けて「これが、氏のリズムか。氏のリズムであったか。けれどもまたそのリズムをすかして、生きづいている呼吸がある」「これは、石原氏ののこした謎ではないのか」そして、「この作品群をまえにして、居ずまいを正さないわけにゆかない。それだけが私にのこされたしぐさか」として、先に紹介した11首を例歌として引用する。
あながち批判的に決めつけるわけではないが、ここでの石原短歌と藤井の批評にはあの保田輿重郎の、日本浪漫派の発想が影を落としてはいないか。石原の短歌が藤井を日本浪漫派的な発想に赴かせたか、藤井自身が保田輿重郎が伊東静雄を(萩原朔太郎の先駆的示唆があったにせよ)日本浪漫派の発想に近づけて読み解いたのか。
続けて藤井は石原の「病中詠」を自動記述的に書かれたものと推定する。その根拠として、短歌とも俳句とも言えない一首(句)、
・弦を断つ弦は弓にも 琴にも張るものを
を挙げている。詩人ならではの直観だろう。
「(石原の)短歌には、ふしぎなほど、あらがいの感情がこもる。なにかが立ちのぼり、まとわりついてくるように動く。これが『情緒の持続』と氏がのべたところのものであり、それの効果だ、ということになるのであろうか」
藤井は続いて、石原が短歌に本格的な取り組む端緒となった「病中詠」(『現代詩手帖』77年3月)に移り、そこではさらに「この動きが増幅されており、逆効果といってもいいほど、ときに激しい。しかし、著者のなかにあらがい出てきた作品群であることを想うと、ふと、この作品の『発表』ということが、疑問にも考えられてくる」と評している。これが藤井による石原短歌の評価の前提とするなら、作品自体が評価に値しない、という主張とも取れる。だが藤井はこれを結論とはしない。
そのまま続けて藤井は「効果が出すぎているのは、まさに短歌の形式のせいかとふいに想われる」と述べ、「当然のことかも知れないが、リズムがときに激しいほどここにはある」と、またもや論旨が飛躍する。
「しかし」と藤井は続けて「これが、氏のリズムか。氏のリズムであったか。けれどもまたそのリズムをすかして、生きづいている呼吸がある」「これは、石原氏ののこした謎ではないのか」そして、「この作品群をまえにして、居ずまいを正さないわけにゆかない。それだけが私にのこされたしぐさか」として、先に紹介した11首を例歌として引用する。
あながち批判的に決めつけるわけではないが、ここでの石原短歌と藤井の批評にはあの保田輿重郎の、日本浪漫派の発想が影を落としてはいないか。石原の短歌が藤井を日本浪漫派的な発想に赴かせたか、藤井自身が保田輿重郎が伊東静雄を(萩原朔太郎の先駆的示唆があったにせよ)日本浪漫派の発想に近づけて読み解いたのか。
続けて藤井は石原の「病中詠」を自動記述的に書かれたものと推定する。その根拠として、短歌とも俳句とも言えない一首(句)、
・弦を断つ弦は弓にも 琴にも張るものを
を挙げている。詩人ならではの直観だろう。