今回で第4回になる高村光太郎(1883年=明治16年3月13日 - 1956年=昭和31年4月2日)と金子光晴(1895年=明治28年12月25日 - 1975年=昭和50年6月30日)の読み較べですが、毎回同じ詩を引用して冗長になっているのはご容赦ください。実際の詩に当たるのに「前回の引用を参照」としたのでは不親切という考えからあえて引用をくり返させていただいているのです。まず高村の文明批判的な詩の代表作とされる「ぼろぼろな駝鳥」の原型は「根付の國」、と再度強調しておきます。「根付の國」で「日本人」と名指ししたものが「ぼろぼろな駝鳥」では動物園のダチョウに置き換えられているわけで、その点では高村の発想にほとんど変化はありません。「ぼろぼろな駝鳥」の結句「人間よ、/ もう止せ、こんな事は。」を「根付の國」の結句に置いてもいい。動物園のダチョウに日本人のみすぼらしさを見ているだけで、1911年の詩と1928年の詩では技巧だけが変化していて、それが詩として表現を向上させているとは素直に受け取れません。高村はどちらの詩においても、自分を批判者の側に置き、いわば日本人に自分を含めていないのです。ごく通俗的に言えば、正しい警世詩人であろうとしているにすぎない、ともいえます。「根付の國」「ぼろぼろな駝鳥」が正義感と気迫で訴求力があるにしても、詩の価値は道徳性ではないことは言うまでもないでしょう。そして倫理的な洞察力でも、これらが深い思想性を持っているとは言えない通俗性は否定できません。
*
高村光太郎詩集 猛獣篇 / 昭和37年=1962年4月・銅鑼社刊250部限定版
ぼろぼろな駝鳥 高村 光太郎
何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢやないか。
頸があんまり長過ぎるぢやないか。
雪の降る國にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な頭が無邊大の夢で逆(さか)まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。
高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」肉筆原稿
(昭和3年=1928年3月「銅鑼」発表、のち初出型の6行目「何しろみんなお茶番過ぎるぢやないか」を削除、初出では行末句読点なし。「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録、昭和37年=1962年4月「猛獣篇」銅鑼社250部限定版に再収録)
*
高村光太郎詩集 道程 / 大正3年10月(1914年)抒情詩社刊
根付の國 高村 光太郎
頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして、
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人
(十二月十六日)
(明治44年1月=1911年1月「スバル」に発表、詩集『道程』大正3年=1914年10月・抒情詩社刊に収録)
*
一方、高村には自分自身を登場人物にした戯曲的な詩があります。それは芸術家同士の交友関係を描いた詩、智恵子夫人との生活を描いた詩を含めてナルシシズム的な側面もありますが、「根付の國」や「ぼろぼろな駝鳥」の延長で文明批判的な詩に高村自身を登場人物とするとどうなるか。それが明治仏具彫刻界の巨匠である父・高村光雲の喜寿祝いの会に取材した「のつぽの奴は黙つてゐる」や、本人から高村に依頼された明治きっての財界人・男爵大倉喜八郎の塑像制作風景を描いた「似顔」といった詩で、まず題材の特異さがはっきり反抒情詩的である面白さがあります。内容的にはエッセイのようなものですが、どちらの詩も前半を俗物自身の語り、後半を高村の内面の声に分けており、実は後半はあまり面白くない。要するに高村自身の俗物批判には意外性はなく平凡なのですが、俗物の語りを再現した前半は高村の現実直視の姿勢、観察力、注意深さを表して見事です。もっとも「のつぽの~」は実際の語りというより高村が観察から想像した俗衆たちの陰口でしょうし、「似顔」も大倉喜八郎の語りをそのまま再現したのではないでしょう。純粋にエッセンスだけを客観的に活写しているので、高村自身の肉声になる後半は詩の情景解説だけの役割の蛇足とも言えます。
それでもこれらが「根付の國」や「ぼろぼろな駝鳥」より進展が見られるのは手法・技巧の巧さだけではなく、高村自身が通俗喜劇的状況にいる自分を意識し、超越的芸術家ではいられない滑稽な立場を描くようになったことにもよります。高村の本業は彫刻家ですから『道程』の青年時代は彫刻とは詩と同様に自分にとって芸術かどうか真剣に悩んでいました。しかし40代ともなると生活のために請け負う依頼彫刻にも造形美術家として興味を持てる心の余裕ができます。高村の場合は彫刻は仕事でも芸術家たる自負は詩への逃げ場があったとも言えるでしょう。ですが高村の詩がこの後『智恵子抄』の時代へ、そして戦争詩へとなびいていくのは、高村に常に自分を「正しい」と考える立場に向かう志向性があったからと思えるので(それは戦後の懺悔詩集『典型』でも変わりません)、自分自身をも風諭的に見る姿勢の詩はこの時期が最後と言えるのです。
*
高村光太郎詩集(創元選書) / 昭和26年=1951年9月・創元社刊
のつぽの奴は黙つてゐる 高村 光太郎
『舞臺が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割方持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は來てるでせうな。壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。萬能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい氣な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の餘興は、結城孫三郎の人形に、姐さん達の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』
『皆さん、食堂をひらきます。』
滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
スチユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ。老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。
何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考えてゐる。
何時(いつ)と如何にとを考えてゐる。
高村光太郎父・仏具彫刻師高村光雲(嘉永5年=1852年 - 昭和9年=1934年)、昭和3年喜寿祝賀会にて
(昭和5年=1930年9月「詩・現実」発表。のち、初出型の最終行「何時(いつ)と如何にとを考えてゐる。」を削除。初出型のまま「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録)
*
似顔 高村 光太郎
わたくしはかしこまつてスケツチする
わたくしの前にあるのは一箇の生物
九十一歳の鯰は奇觀であり美である
鯰は金口を吸ふ
----世の中の評判などかまひません
心配なのは國家の前途です
まことにそれが氣がかりぢや
寫生などしてゐる美術家は駄目です
似顔は似なくてもよろしい
えらい人物といふ事が分ればな
うむ----うむ(と口が六寸ぐらゐに伸びるのだ)
もうよろしいか
佛さまがお前さんには出來ないのか
それは腕が足らんからぢや
寫生はいけません
氣韻生動といふ事を知つてゐるかね
かふいふ狂歌が今朝出來ましたわい----
わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て
一片の弧線をも見落とさないやうに寫生する
このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝國資本主義發展の全實歴を記録する
九十一歳の鯰よ
わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ
大倉財閥設立者・男爵大倉喜八郎(天保8年=1837年 - 昭和3年=1928年)肖像
高村光太郎「大倉喜八郎の首」大正15年=1926年制作塑像
(昭和6年=1931年3月「詩・現実」発表。「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録)
*
高村光太郎への同時代詩人たちの評価は、高村を敬愛した草野心平らの若手詩人たちの「銅鑼」~「学校」~「歴程」以外ではおおむね敬して遠ざける風潮がありました。明治象徴主義の継承者を自認する詩史研究家で芸術至上主義詩人の日夏耿之介は高村を孤高のエピキュリアンとして詩史の傍流に位置づけ、北原白秋派・三木露風派・川路柳虹派のどれにも属なさいことから多くの詩壇的詩人も日夏に準じた見解を取り、白秋門下の萩原朔太郎は高村を民主主義詩人と限定して巨匠と認め、萩原の盟友室生犀星は高村の超俗的態度に反感すら抱いていました。犀星は高村との交友関係は萩原以上にありましたが、智恵子夫人は高村家に出入りする詩人たちをはっきり見下した態度を隠さず、すでに精神疾患の兆候があったので仕方のないことですが、そんな智恵子夫人を描いた詩では夫人を美化する一方の高村の詩に欺瞞を感じていました。金子光晴のエッセイを読むと、金子は高村について高く評価しながらもほぼ犀星と近い感想を持っています。
高村光太郎の潔癖症的倫理観に較べ、20代半ばで養父の遺産1億円(1920年当時)を2年ほどで使いはたし、30歳で結婚後には夫婦で上海~パリ~マレーと7年間に渡って無銭放浪した凄まじい生活力の詩人だった金子光晴には、おそらく高村光太郎が書いているような詩は詩といえる以前のものでした。20代半ばに2年間のヨーロッパ生活、30代には7年間のアジア~ヨーロッパ(しかも途中で日中戦争~大東亜戦争が開戦しています)放浪という激動期に、金子は8冊の詩集をまとめましたが刊行できたのは半数の4冊に過ぎません。アジア~ヨーロッパ流浪から帰国して着手したのが詩集『鮫』収録の長詩7編で、これは金子のもっとも痛烈な反権力の詩集になり、驚異的なことには詩壇へのデビュー詩集『こがね虫』(大正12年=1923年)の象徴主義詩の手法がここでも一貫していることです。『詩集 鮫』は前詩集で夫人の森三千代との共同詩集『鱶沈む』(昭和2年=1927年)から10年後の刊行でしたが(『鱶沈む』以降7年間の放浪生活があったわけです)、『詩集 鮫』に続く『落下傘』『蛾』『女たちへのエレジー』『鬼の兒の歌』は戦時中に書かれながら刊行は叶わず敗戦後の昭和23年~昭和24年(1948年~1949年)に刊行され、『詩集 鮫』以前の未刊詩集4冊も昭和26年=1951年時点での全詩集『金子光晴詩集(創元選書)』でようやく発表されました。金子には30代と40代に詩集をまとめても刊行できないブランクが10年ずつあり、その半ばに唯一発表されたのが『詩集 鮫』です。普通これほど10年ずつ2次ものブランクがあると詩人のキャリアには致命的です。また『詩集 鮫』からの10年間は金子はアジア~ヨーロッパでの生活経験から日本の敗戦を確信し、疎開生活を転々としながら敗戦後に発表を期した大部の戦況悪化のドキュメント詩集を書きためていました。戦時中には意志的にファシズム詩人となった高村とはまったく対照的でした。
ある意味金子は時代遅れな芸術至上主義的象徴主義詩人として、当時の詩人ではもっとも徹底していたとも言えます。金子の象徴主義は時間をかけて思想にまで昇華されていたので、大東亜戦争という現実への憎悪とそれを支える日本の国民性に激しく敵対しました。そして詩でははっきりと国家の堕落を攻撃しながらも、市民としては国家に取り込まれながら悪態をつくのが精一杯、という皮肉がこの詩を単なる社会批判の詩よりも一歩進めています。高村は「根付の國」や「ぼろぼろな駝鳥」、「のつぽの奴は黙つてゐる」と「似顔」でも俗衆を告発するか、俗衆からの屈辱に抵抗しようとする立場にとどまりました。金子は嫌悪し攻撃する相手が実は自分と変わらない俗衆であることへの絶望と倦怠がある。高村のように決め台詞で終わっておらず、「おっとせい」は結句からまた冒頭に戻ると、実は詩人の自画像にもなっている重層的構造の詩なのです。
しかし「おっとせい」は強烈な嫌悪から始まる第1連から外向的な攻撃性が圧倒的なあまり、注意深く再読すればことごとく自虐的な退廃の詩でもあることになかなか気づきづらい。それは3章からなる長詩の中で「おっとせい」的俗衆へのさまざまな罵倒をくり広げるボキャブラリーの豊富さ、語りの息の長さ、多彩な暗喩をくり出す知識の豊富さが読者を眩惑してしまうからで、真のテーマはおっとせい的な俗衆の告発ではなく、それが誰の中にも潜んでいる基本的な人間社会の虚しさに問いかけが投げ返ってくるやるせなさ、しかも現代日本のみならず国家を形成する人間の営み自体が生みだす虚無を自覚しないほど俗衆とは幸福でいられるという痴呆的な状態を「おっとせい」ははっきりと指摘しましたが、これが高村光太郎の詩よりも一読して明解さに欠けるのはやむを得ないでしょう。高村の詩にある「正義」がここでは多義的に展開されて単一の正義は解体されています。「人間よ、/ もう止せ、こんな事は。」と締めるには、金子は人間社会がある限り「もう止せ」にはならないと喝破している。高村の詩より深い洞察へと進んでいるが、訴求力や直接的な感動においては「ぼろぼろな駝鳥」に及ばない、とも言えるのです。そこに現代詩の発展過程に生じた日常的なコミュニケーション言語との乖離があり、金子が戦時中に書いていた詩は金子の予想通りの敗戦が実現しなければ読者と現実を共有できなかったでしょう。大傑作『詩集 鮫』ですら自費出版の200部を共有する読者はなく、金子は敗戦まで沈黙を余儀なくされたのです。その間、高村がそれまでとは予期し得なかった国家貢献詩人になっていたのは、金子が「おっとせい」で描いた以上の腐敗が現実化したようなものでした。金子が「むかうむきになってる / おっとせい。」と言っているのは、ほとんどすべての詩人が戦争詩の強要をされる事態に実現されたのです。
*
金子光晴詩集 鮫 / 昭和12年8月=1937年人民社刊
おっとせい 金子 光晴
一
そのいきの臭えこと。
口からむんと蒸れる、
そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしてること。
虚無(ニヒル)をおぼえるほどいやらしい、 おゝ、憂愁よ。
そのからだの土嚢のやうな
づづぐろいおもさ。かったるさ。
いん気な彈力。
かなしいゴム。
そのこゝろのおもひあがってゐること。
凡庸なこと。
菊面(あばた)。
おほきな陰嚢(ふぐり)。
鼻先があをくなるほどなまぐさい、やつらの群衆におされつつ、いつも、
おいらは、反對の方角をおもってゐた。
やつらがむらがる雲のやうに横行し
もみあふ街が、おいらには、
ふるぼけた映画(フイルム)でみる
アラスカのやうに淋しかった。
二
そいつら。俗衆といふやつら。
ヴォルテールを國外に追ひ、フーゴー・グロチウスを獄にたゝきこんだのは、
やつらなのだ。
バダビアから、リスボンまで、地球を、芥垢(ほこり)と、饒舌(おしやべり)で
かきまはしてゐるのもやつらなのだ。
嚏(くさめ)をするやつ。髯のあひだから齒くそをとばすやつ。かみころすあくび、きどった身振り、しきたりをやぶったものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人(きちがひ)だとさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そいつらは互ひに夫婦(めおと)だ。権妻だ。やつらの根性まで相続(うけつ)ぐ倅どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あるひは朋黨だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむすびあひの、からだとからだの障壁が、海流をせきとめるやうにみえた。
をしながされた海に、霙のやうな陽がふり濺いだ。
やつらのみあげる空の無限にそうていつも、金網(かなあみ)があった。
……………けふはやつらの婚姻の祝ひ。
きのふはやつらの旗日だった。
ひねもす、ぬかるみのなかで、砕氷船が氷をたゝくのをきいた。
のべつにおじぎをしたり、ひれとひれをすりあはせ、どうたいを樽のやうにころがしたり、 そのいやしさ、空虚(むな)しさばっかりで雑閙しながらやつらは、みるまに放尿の泡(あぶく)で、海水をにごしていった。
たがひの體温でぬくめあふ、零落のむれをはなれる寒さをいとふて、やつらはいたはりあふめつきをもとめ、 かぼそい聲でよびかはした。
三
おゝ。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が 、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこしも氣づかずにゐた。
みだりがはしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは表情を匍ひまわり、
……………文學などを語りあった。
うらがなしい暮色よ。
凍傷にたゞれた落日の掛軸よ!
だんだら縞のながい陰を曳き、みわたすかぎり頭をそろえて、拝禮してゐる奴らの群衆のなかで
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、 反對をむいてすましてるやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むかうむきになってる
おっとせい。」
(昭和12年=1937年4月「文学案内」に発表、詩集『鮫』昭和12年8月・人民社初版200部刊に収録)