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Channel: 人生は野菜スープ(または毎晩午前0時更新の男)
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John Coltrane - My Favorite Things (Atlantic, 1961)

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John Coltrane - My Favorite Things (Atlantic, 1961) Full Album expect
A1 : https://youtu.be/681-mXSMAj8
A2, B1, B2 : https://www.youtube.com/playlist?list=PLPY1IpHd3UkPvbb4Y6Qn2yPoBZee97KWR
Recorded in October 21, 24, 26, 1960
Released by Atlantic Records Atlantic SD-1361, March 1961
(Side one)
1. My Favorite Things ( Oscar Hammerstein II, Richard Rodgers) - 13:41
2. Every Time We Say Goodbye (Cole Porter) - 5:39
(Side two)
1. Summertime (Ira Gershwin, DuBose Heyward, George Gershwin) - 11:31
2. But Not for Me (Ira Gershwin, George Gershwin) - 9:34
[ Personnel ]
John Coltrane - soprano saxophone on side one and tenor saxophone on side two
McCoy Tyner - piano
Steve Davis - double bass
Elvin Jones - drums

 ジョン・コルトレーン(テナー&ソプラノ・サックス/1926-1967)の強みは、こういうアーティスティックな挑戦が自然にコマーシャルな成功に結びついたアルバムを、キャリアの節目節目にしっかりものにできたからだ。ビ・バップ以来ジャズ・ミュージシャンの意識は短期間のうちに向上したが、R&Bルーツの大衆音楽を黒人文化の人種的アイディンティティと考えるブラック・ナショナリズム的立場からはモダン・ジャズのジャズマンたちは音楽的にエリート主義に走って、黒人文化の音楽としてのジャズの本来の姿を見失っている、という批判もあった。カリスマと崇拝者からなる一種の秘密組織であり、大衆から乖離して一般の人気も影響力も失ってしまった、ともされた。
 ジョン・コルトレーンは齢40にして闘病死したが、大別してプレスティッジ在籍時代、アトランティック在籍時代、インパルス在籍時代に分けられるキャリアのうち、もともとR&Bの会社であるアトランティック在籍時代に人気ジャズマンの地位を固めたのに強みがあった。コルトレーンの作風は実験的なジャズの最尖鋭を行くものと批評家やマニア受けもしながら、同時に大衆的にも訴求力の高いエモーショナルなスタイルを備えていた。マイルス・デイヴィスのバンド・メンバーを勤めながら量産したプレスティッジへの諸作で一流ジャズマンとの評価を勝ち得、インディーズでも大手ワーナー・ブラザースから全米配給される老舗のアトランティックに新人スターとして移籍、ちょうどマイルスのバンドからも独立して、ここでめきめきと知名度を上げ、マイルスを超える若手黒人ジャズマンのヒーローに目されるにいたる。マイルスは表向き大人の態度だったが、内心相当焦っていたらしく、コルトレーンの急逝する1967年まではマイルスの活動は不安定になる。インパルスとなると、大手ABCパラマウントが発足させた新しいジャズ・レーベルだったが、コルトレーンは看板スター・ジャズマンとして株まで分配されるジャズ部門の幹部待遇で迎えられたのだった。それも直接には、アトランティック在籍時代の華々しい業績による。
 (Original Atlantic "My Favorite Things" LP Liner Notes)

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 発売順にアトランティックでのコルトレーンのアルバムを上げると、
(1) Giant Steps; rel.1960-01 (rec.1959-05-04, 1959-05-05, 1959-12-02) with Tommy Flanagan(p), Wynton Kelly(p), Paul Chambers(b), Art Taylor(ds), Jimmy Cobb(ds), Cedar Walton(p), Lex Humphries(ds)
(2) Coltrane Jazz; rel.1961-02 (rec.1959-11-24, 1959-12-02, 1960-10-02) with Wynton Kelly(p), Paul Chambers(b), Jimmy Cobb(ds), McCoy Tyner(p), Steve Davis(b), Elvin Jones(ds)
(3) My Favorite Things; rel.1961-03 (rec.1960-10-21, 1960-10-24, 1960-10-26 ) with McCoy Tyner(p), Steve Davis(b), Elvin Jones(ds)
(4) Milt Jackson - Bags & Trane; rel.1961-12 (rec.1959-01-15) with Milt Jackson(vib), John Coltrane(ts), Hank Jones(p), Paul Chambers(b), Connie Kay(ds)
(5) Ole Coltrane; rel.1962-02 (rec.1961-05-25) with Eric Dolphy(fl, as), Freddie Hubbard(tp), McCoy Tyner(p), Reggie Workman(b), Art Davis(b), Elvin Jones (ds)
 のリーダー作4作(1)(2)(3)(5)と、ミルト・ジャクソンのリーダー作(4)の5枚がアトランティック在籍中に発売され、
(6) Coltrane Plays the Blues; rel.1962-07 (rec.1960-10-24) with McCoy Tyner(p), Steve Davis(b), Elvin Jones(ds)
(7) Coltrane's Sound; rel.1964-06 (rec.1960-10-24, 1960-10-26) with McCoy Tyner(p), Steve Davis(b), Elvin Jones(ds)
(8) The Avant-Garde (co-leader); rel.1966-0? (rec.1960-06-28, 1960-07-08) with Don Cherry (co-leader, tp), Charlie Haden(b), Percy Heath(b), Ed Blackwell(ds)
 が正式なインパルス移籍専属後に拾遺発売されている。インパルス移籍第1作『Africa/Brass』 (録音1961-05-23, 1961-06-07 )は1961年11月発売だったが、アトランティックとの契約満了のために『Africa/Brass』 より後に録音された(5)『Ole Coltrane』が発売された。(6)(7)(8)のうち実際はドン・チェリーのファースト・リーダー作に参加したものが共作名義になった『The Avant-Garde』はともかく、『Coltrane Plays the Blues 』『Coltrane's Sound』は『My Favorite Things』 との同一セッションから生まれた3部作というべき名盤で、コルトレーンがリーダーではない『Bags & Trane』『The Avant-Garde』は傍流としても(当然『Bags~』はミルト・ジャクソン、『The Avant-Garde』はドン・チェリーのコンセプトで作られている)、録音順に並べ直せば『Giant Steps』『Coltrane Jazz』『My Favorite Things』『Coltrane Plays the Blues』『Coltrane's Sound』『Ole Coltrane』には主題の提示と発展がある。
 まず『Giant Steps』『Coltrane Jazz』は対になるアルバムで、『Giant Steps』の手法の再検討が『Coltrane Jazz』というアルバムだった。ここまでやれば同じ手法をくり返す必要はない。コルトレーンが『Giant Steps』で突き詰めたのはビ・バップのコード分解・代用コード手法の究極の細分化と、それに伴うあらゆる転調のパターンで、『Giant Steps』がジャズのソロイストの必修練習曲になったのはその極端な音楽的合理性にあり、ジャズのアドリブ・ソロを音高だけに限定したその発想は後世のジャズマンに必ずしも良い影響ばかりを与えはしなかったが、コルトレーン自身が『Giant Steps』システムとは別のジャズの方向性をマイルス・デイヴィスの『Kind of Blue』参加経験から予感していた。『My Favorite Things』でついにコルトレーンは念願のレギュラー・メンバーを見つける(ウィントン・ケリーやポール・チェンバース、ジミー・コブはマイルスのバンドから借りてきたメンバーだった)。マッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズがそうで、ベーシストの定着は1962年までかかったが、1966年まで続くコルトレーンの黄金カルテットを支えたマッコイとエルヴィンはコルトレーン同様、サウンドだけでも記名性のある存在感を誇るプレイヤーだった。
? (Original Atlantic "My Favorite Things" LP Side 1 Label)

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 コルトレーンがレコーディング上でソプラノサックスを使用したのはドン・チェリーとの『The Avan-Garde』での方が早いが、同アルバムは前記の通り1966年まで未発表にされている。ソプラノサックスの音域はちょうどテナーサックスより1オクターヴ上になり、運指も同一だが、ジャズですらあまり用いられることのない楽器で、戦前からのジャズマンではシドニー・ベシェがクラリネットに相当する用法で名ソロイストだった。ディキシーランド・ジャズでは使われることもあり、セシル・テイラー・ユニットのスティーヴ・レイシーが50年代では珍しいソプラノサックスの新人プレイヤーだった。コルトレーンは共演バンドのメンバーの誰かが楽屋に忘れて行ったソプラノサックスを預かり、自宅へ持ち帰って吹いてみた。他人の楽器をいじるのは当然、吹いてみたなど普通は絶対してはならないこととされる。それはともかく「おお?」と思ったコルトレーンは自分もソプラノサックスを買ってしまう。
 コルトレーンがソプラノサックスから引き出したのは、一種の東洋音楽的ムードだった。それはシカゴでサン・ラが、デトロイトでユゼフ・ラティーフが先鞭をつけていたが、スタイルとしてはすっきりとしたサックスとピアノ・トリオだけのワンホーン・カルテットで、ベシェやレイシーのような洗練された音色ではなくあえて生硬でぶっきらぼうな音で、しかもこのアルバムの時点で言えば発声も運指もたどたどしいままで提示してのけたのは、マッコイやエルヴィンの絶妙なサポートはすでに完成しており、コルトレーンにはまだ不満な力量のベーシストだったらしいがスティーヴ・デイヴィスのベースも悪くない。後にカルテットのレギュラー・メンバーになるジミー・ギャリソンに較べると軽いが、この時点ではデイヴィスくらいの軽さが適度だったとも思える。コルトレーンはアルバム発売後ほとんどのステージで『My Favorite Things』を演奏し続け、晩年の1966年、1967年にはこれ1曲だけで1時間あまりの長時間演奏をくり広げたが、ワルツ・テンポといい、構成の自由度の高さといい、コルトレーンにとってのライフ・ワークとなったのはこの『Sound of Music』からのミュージカル曲でユダヤ音楽との親近性を持つ短調のワルツ「My Favorite Things」だった。
? (Original Atlantic "My Favorite Things" LP Side 2 Label)

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 ソプラノサックスの使用曲はテーマ吹奏が美しい「Every Time We Say Goodbye」(フィリップ・マーロウが引用するほど流行したスタンダード)があり、3部作をまたいで『Ole Coltrane』もソプラノサックスのアルバム(フレディ・ハバード、エリック・ドルフィーの参加で集団即興の実験に進んでいる)があるが、テナーによる「Summertime」と「But Not For Me」も意表を突く代理コード解釈を基本的にはトニックの移動による1コード解釈からアドリブ・ソロをとる、という『Giant Steps』の手法を『Kind of Blue』の手法と折衷させる、という鮮やかな手並みを見せる。これをブルース・フォームで試した曲が『Coltrane Plays the Blues』にまとめられ、『My Favorite Things』の続編としてはスタンダード2曲・オリジナル4曲の構成でインパルス移籍後のカルテット作品をすでに予告するような『Coltrane's Sound』が編まれる。アトランティック時代のコルトレーンにはアルバムのアウトテイク集がさらに1枚あるが、各アルバムのボーナス・トラックで済む内容のもので、何よりアトランティック社長ネスヒ・アーティガンのアーティストの意志を尊重したプロデュース、後に大プロデューサーになる(実質的には当時すでに音楽的プロデューサー)トム・ダウドのざっくりしたエンジニアリングのとらえた音が素晴らしい。同じ人がデレク&ザ・ドミノスの『Layla and Other Assorted Love Songs』やオールマン・ブラザース・バンドの『At Fillmore East』もプロデュースするのだと思うとぞくぞくする。
 ジャズの世界では安上がりなグロス請けで、プレスティッジでもブルー・ノートでもルディ・ヴァン・ゲルダーばかりを(ヴァン・ゲルダーの自宅スタジオと録音料金が込みだったことで)頻用した結果、むしろ標準であるべきトム・ダウドやフィル・ラモーン(コロンビア系を多く手がける)、ナチュラルな録音が素晴らしいロイ・デュナン(コンテンポラリー・レーベル専属)など、本来音楽のあるがままを伝える録音がないがしろにされてきた悪しき伝統が生まれた。コルトレーン自身も何10回も世話になった気安さからか、インパルスの看板アーティストになり録音場所、アルバムタイトル、アルバムジャケット、選曲にいたるまでセルフ・プロデュース権を獲得すると(恐ろしいことだが、当時アーティストがそれらに決定権を持つのは特別待遇アーティストでなければならなかった)プレスティッジ時代のヴァン・ゲルダー・スタジオを録音場所に選ぶことになる。今度は自分で選べるのにまたヴァン・ゲルダー・スタジオというのは、コルトレーンにはアトランティックでの録音はプレスティッジ時代よりくつろげなかったのか、トム・ダウドの録音にヴァン・ゲルダーとはまったく違う良さを格別感じなかったのかもしれない。そしておそらくギャラの良さからか、インパルス時代のヴァン・ゲルダー録音は格段に向上するのだった。

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