・夕ぐれの暮れの絶え間をひとしきり 夕べは朝を耐へかねてみよ
について、「これは石原さんの作品だという了解のもとでなければ、よめない短歌だ」とする。続けて「俳句のほうがはるかにいい。『発想一発』のよさばかりでなく、氏の年期のこもる分野でもあるからだろう」と誰もが納得のいく意見を述べている。そして「俳句の二句目(『死者ねむる眠らば繚乱たる真下』)は、詩にも起こされて」いると指摘し、次の詩を引用している。
『死者の理由』
りょうらんたる真下
死者は終りまで黙(モダ)しついだ
黙しぬくことが
ついに死者の理由であったのか
黙すことで存在を主張する
それが
死者ということであったのか
死につつ生きつづけ
生きつつ死につづけ
凝然とうごめきつづける
群落のうえへ
なおも華麗に
火は降(クダ)りついだ
〈返句〉打ちあげて華麗なものの降(クダ)りつぐ
(詩集「足利」77より)
この返句は「詩の世界」に『死者ねむる…』の句と同時発表されたもの。藤井は「これらは技巧の世界ではなく、詩と俳句が」「すべて死からのメッセージであるかのように統率されて」「おきかえられ」ている、と評している。
同様に短歌に先立って詩が成立していた例として、74年発表の散文詩を引く。
『藤1』
幽明のそのほとりを 装束となって花は降った もろすぎるものの苛酷な充実が 死へ向けて垂らすかにみえた そのひと房を。
おしなべて音響はひかりへ変貌し さらに重大なものが忘却をしいられるなかを すでにためらいを終え りょうらんと花はくだった
(詩集「北條」75より)
だがこれは、同じ『藤』の短歌である『今生の水面を垂りて相逢わず藤は他界を逆向きて立つ』とおきかえられるだろうか?