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現代詩の起源(2); 高村光太郎と金子光晴(b)

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 ただでさえ馴染みの薄い人が大半の明治~昭和の歴史的詩歌という題目ですし、前回までを読み返して文面が取りつきづらいと感じたので、今後は文体を変えて「です・ます」調で書くことにします。今回も高村光太郎(たかむら こうたろう、初期雅号は高村砕雨。戸籍名の読みは「みつたろう」。1883年=明治16年3月13日 - 1956年=昭和31年4月2日)と金子光晴(かねこ みつはる、1895年=明治28年12月25日 - 1975年=昭和50年6月30日)を並べてみました。高村光太郎は実は現代史の上では案外座りの良い位置づけがしづらい詩人と言えるのがまず問題となります。現代詩史の上で蒲原有明(1875-1952)の次に来るのは北原白秋(1885-1942)、次いで萩原朔太郎(1886-1942)という流れを重視するのは根拠があり、象徴主義詩の日本的消化という観点でも、破格文法による口語自由詩の成立過程の面でも、有明から白秋を経由し萩原朔太郎に至ってこそ現代詩の基礎が確立されたと言えて、高村は長い詩歴にもかかわらず後の宮澤賢治(1896-1933)、中原中也(1907-1937)ともどもその登場に詩史的な系列を持たない詩人でした。金子光晴の詩歴の長さは高村光太郎以上ですが、大戦による文化の断絶を挟んでいる度合いが高村にはなし得なかった成果を上げており、同世代の西脇順三郎(1894-1982)と並んで50歳代を超えてから大きい影響力を持った大詩人と認知されました。
 今日、石川啄木(1986-1912)、高村光太郎、宮澤賢治、中原中也らはむしろ日本の詩の主流だったかのような錯覚があります。しかし明治後期には河井醉茗(1874-1965)や横瀬夜雨(1878-1934)らが有明や啄木以上に広く読まれており、大正時代に白秋と同等で朔太郎以上の影響力を持った、いわゆる詩壇のボス的詩人は三木露風(1889-1964)と川路柳虹(1888-1959)でした。醉茗や夜雨にはまだ文学的価値を認められますが、野心家だけが実質だった露風と柳虹、また大正の流行詩人で姿勢は誠実だった生田春月(1892-1930、船上投身自殺)には今日の読者にはほとんど詩的価値を見出せないでしょう。第二次世界大戦前の日本では、現在も読むに耐える詩人で文筆だけの収入で身を立てていたのは白秋、朔太郎と並ぶ白秋の弟子だった室生犀星(1889-1962)、朔太郎と犀星に私淑した三好達治(1900-1964)くらいで、佐藤春夫(1892-1964)を含めても犀星と春夫は小説による収入が大半だったので、純粋に詩人では白秋と達治だけとも言えます。啄木は新聞社の編集月給で、高村は請負彫刻収入で、宮澤賢治は小学校教員収入だけではなく生家の農地地主収入で、朔太郎と中原は生涯実家からの仕送りと実家の資産の利子で生活していました。
昭和13年、詩集『鮫』刊行翌年、44歳の金子光晴

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 ここまで名前を上げただけでもすでに17人の詩人が並びます。中でも際立った境遇にいたのは、詩人としてデビューする前に相続遺産をほとんど使い果たし、禁治産者同然の身の上になってから詩人になった、まるでシャルル・ボードレール(仏・1821-1867)の日本版のような詩人が金子光晴でした。金子は光太郎、賢治、中原同様に白秋系でも露風系でもなく(一時柳虹系に接近したが、出世には結びつかなかった)、いわば詩壇ではアウトサイダーだった光太郎(初期には石川啄木とともに与謝野鉄幹(1873-1935)・晶子(1878-1942)の「明星」に依りました。啄木、高村、谷崎潤一郎(1886-1965)は同世代です)、賢治、金子、吉田一穂(1998-1974)、高橋新吉(1901-1987)、中原らをまとめて勧誘し同人誌仲間にしたのが同人誌「学校」「銅鑼」「歴程」を主宰した草野心平(1903-1988)でした。草野の組織化を目指さない組織力が、党派性の稀薄なアウトサイダー詩人たちの存在を知らしめた役割は大きいでしょう。大正~昭和戦前期に最大の影響力があった小説家は横光利一(1898-1947)と川端康成(1899-1972)ですが、横光・川端は常に青年詩人の動向に注目していたことでも知られます。三好達治、梶井基次郎(1901-1932)、北川冬彦(1900-1990)を通して彼らが参加した同人誌「詩と詩論」、三好が朔太郎と芥川龍之介(1892-1927)の愛弟子・堀辰雄(1904-1953)と創刊した「四季」、北川が主宰した「詩・現実」に注目し、草野主宰の「歴程」とも詩人同士の交流も盛んで、菊池寛(1888-1948)の文藝春秋社からこれら当時の同人誌詩人たちや、文学研究同人誌ですが小林秀雄(1902-1983)の『文学界』への後援金を引き出し、またジャーナリズムへの仕事を仲介したのも横光・川端の功績です。
 高村光太郎の戦前の知名度は意外にも知る人ぞ知るといった存在で、むしろ彫刻家として名高く、詩人として巨匠たる認知度を獲たのは第二次大戦後、特に詩集『典型』(昭和25年=1950年10月・中央公論社刊)の読売文学賞受賞がきっかけになるようです。『典型』の刊行に続いて翌年にかけ、新潮文庫と角川文庫版高村光太郎詩集、『智恵子抄』の新版、創元社版の『高村光太郎詩集』、中央公論社からの初の『高村光太郎選集』全6巻が刊行されました。創元社版詩集、中央公論社版選集が全詩集、全集を謳えなかったのは、高村の歿後の全集でようやく再録されることになる戦争詩・戦時中の時評が生前にはなかったことにされていたからです。高村光太郎詩集は戦前には第1詩集『道程』(大正3年=1914年)以来『道程 改訂版』(昭和15年=1940年)、『智恵子抄』(昭和16年=1941年)しかないようなものでした。詩人として通受けする高い評価を受けていたのは昭和4年=1929年に、まだ『道程』しか既刊詩集がないにもかかわらず新潮社『現代詩人全集』第4巻を萩原朔太郎、室生犀星との3人集で刊行されていることでもわかります。この選詩集は『道程』から約半数の40編に加えて『道程』以後の新作70編を収録した、戦前の刊行ではもっとも充実したもので、『道程 改訂版』や『智恵子抄』の刊行された大東亜戦争の時期には反権力的な詩は収録を見送られたのです。
明治44年「根付の國」執筆翌年、自宅アトリエにて29歳の高村光太郎

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 さらに問題だったのは、自由主義的な反体制詩人と思われていた高村が太平洋戦争が勃発するや、愛国的戦意発揚詩人となって『大いなる日に』(昭和17年=1942年)、『をぢさんの詩』(昭和18年=1943年)、『記録』(昭和19年=1944年)と戦争詩集を多作したことで、敗戦直前に再刊された『道程 再訂版』も自由主義的な作品を大幅に削除したものでした。つまり戦前~戦時中の高村光太郎には戦後のアメリカ軍駐留時代には発禁とされた作品が半数を占める、という事実が名声を得た晩年の高村に影を落としていました。高村と並んで戦争詩集を多作して敗戦後に闇を抱えた詩人に三好達治がいます。真珠湾攻撃の翌昭和17年=1942年~8月に敗戦を迎える昭和20年=1945年まで、3年ほどで9冊の詩集を刊行したうち3冊が選詩集、『捷報いたる』(昭和17年)、『寒析』(昭和18年)、『千戈永言』(昭和20年)が大部の戦争詩集で、『千戈永言』などは敗戦45日前の刊行でした。ですが三好には同時期に『朝菜集』(昭和18年)、『花筐』(昭和19年)、『春の旅人』(昭和20年)などまったく戦時臭のない純粋な抒情詩の詩集の名作があり、職業詩人として技術的に愛国詩の依頼と自発的な抒情詩を書き分けていたとも取れます。当時大学生の世代だった戦後の詩誌「荒地」の同人らの証言では、戦時中の商業誌各誌は巻頭に競って高村光太郎か三好達治の戦争詩を掲載していたのが印象深かったと機会があるごとに語られていました。
 しかし高村は戦争詩を書く時も全力で本気・真剣でした。詩集『典型』では高村は戦時中は必死で自己暗示をかけていたのだ、という苦しく苦い弁明をしています。昭和25年には高村の戦争詩は完全に絶版にされ、事実上発禁措置を受けていたので『典型』は敗戦を生き延びた日本人、なおかつ戦時中の高村光太郎の詩を覚えているのが前提となった特殊な詩集でした。「読売文学賞は高村光太郎詩集『典型』が受賞した」と当時、西脇順三郎(西脇は戦時中に完全にジャーナリズムから隠遁していました)はエッセイに書いています、「これは現代の日本人が詩とはどんなものかと考えているかを示している」。西脇は高村が大嫌いで、別のエッセイでは「豪傑の詩」と書いています。西脇が萩原朔太郎を師と目したのは、萩原の詩が中性的・植物的と考えたからでした。西脇は自分の詩は萩原を進めて女性的とすら自負していました。一方、秘書を勤めていたほど萩原に師事した三好達治は萩原に中国詩(漢詩)の概念で言う「悲憤慷慨」の精神の近代化を見ており、もし萩原朔太郎が悲憤慷慨の詩人なら高村光太郎と本質は同じものとなるでしょう。ならば金子光晴はどうか。今回はすでに相当長い前置きを使ってしまったので、再び金子光晴「おっとせい」を前回の誤写を正して再掲載し、併せて高村光太郎詩集から「おっとせい」に直接つながる作風の佳作を『道程』以後の昭和初期作品から集めてみました。高村の詩が商業誌作品ではなく同人誌掲載なのにもご注意ください。解説はまた次回になりますが、関連はお読みになればおわかりいただけると思います。
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金子光晴詩集 鮫 / 昭和12年8月=1937年人民社刊

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  おっとせい  金子 光晴



そのいきの臭えこと。
口からむんと蒸れる、

そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしてること。
虚無(ニヒル)をおぼえるほどいやらしい、 おゝ、憂愁よ。

そのからだの土嚢のやうな
づづぐろいおもさ。かったるさ。

いん気な彈力。
かなしいゴム。

そのこゝろのおもひあがってゐること。
凡庸なこと。

菊面(あばた)
おほきな陰嚢(ふぐり)

鼻先があをくなるほどなまぐさい、やつらの群衆におされつつ、いつも、
おいらは、反對の方角をおもってゐた。

やつらがむらがる雲のやうに横行し
もみあふ街が、おいらには、
ふるぼけた映画(フイルム)でみる
アラスカのやうに淋しかった。




そいつら。俗衆といふやつら。
ヴォルテールを國外に追ひ、フーゴー・グロチウスを獄にたゝきこんだのは、
やつらなのだ。
バダビアから、リスボンまで、地球を、芥垢(ほこり)と、饒舌(おしやべり)
かきまはしてゐるのもやつらなのだ。

(くさめ)をするやつ。髯のあひだから齒くそをとばすやつ。かみころすあくび、きどった身振り、しきたりをやぶったものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人(きちがひ)だとさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そいつらは互ひに夫婦(めおと)だ。権妻だ。やつらの根性まで相続(うけつ)ぐ倅どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あるひは朋黨だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむすびあひの、からだとからだの障壁が、海流をせきとめるやうにみえた。

をしながされた海に、霙のやうな陽がふり濺いだ。
やつらのみあげる空の無限にそうていつも、金網(かなあみ)があった。

……………けふはやつらの婚姻の祝ひ。
きのふはやつらの旗日だった。
ひねもす、ぬかるみのなかで、砕氷船が氷をたゝくのをきいた。

のべつにおじぎをしたり、ひれとひれをすりあはせ、どうたいを樽のやうにころがしたり、 そのいやしさ、空虚(むな)しさばっかりで雑閙しながらやつらは、みるまに放尿の泡(あぶく)で、海水をにごしていった。

たがひの體温でぬくめあふ、零落のむれをはなれる寒さをいとふて、やつらはいたはりあふめつきをもとめ、 かぼそい聲でよびかはした。




おゝ。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が 、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこしも氣づかずにゐた。
みだりがはしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは表情を匍ひまわり、
……………文學などを語りあった。

うらがなしい暮色よ。
凍傷にたゞれた落日の掛軸よ!

だんだら縞のながい陰を曳き、みわたすかぎり頭をそろえて、拝禮してゐる奴らの群衆のなかで
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、 反對をむいてすましてるやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むかうむきになってる
おっとせい。」

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(昭和12年=1937年4月「文学案内」に発表、詩集『鮫』昭和12年8月・人民社初版200部刊に収録)
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高村光太郎詩集 道程 / 大正3年10月(1914年)抒情詩社刊

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  根付の國  高村 光太郎

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして、
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人
           (十二月十六日)

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(明治44年1月=1911年1月「スバル」に発表、詩集『道程』大正3年=1914年10月・抒情詩社刊に収録)
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高村光太郎詩集 猛獣篇 / 昭和37年=1962年4月・銅鑼社刊250部限定版

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  ぼろぼろな駝鳥  高村 光太郎

何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢやないか。
頸があんまり長過ぎるぢやないか。
雪の降る國にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な頭が無邊大の夢で逆(さか)まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。

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高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」肉筆原稿

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(昭和3年=1928年3月「銅鑼」発表、初出型の6行目「何しろみんなお茶番過ぎるぢやないか」を削除、初出では行末句読点なし。昭和26年=1951年9月「 高村光太郎詩集(創元選書) / 昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録、昭和37年=1962年4月「猛獣篇」銅鑼社250部限定版に再収録)
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高村光太郎詩集(創元選書) / 昭和26年=1951年9月・創元社刊

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  のつぽの奴は黙つてゐる  高村 光太郎

 『舞臺が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割方持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は來てるでせうな。壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。萬能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい氣な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の餘興は、結城孫三郎の人形に、姐さん達の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』

 『皆さん、食堂をひらきます。』

滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
スチユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ。老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。
何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考えてゐる。
何時(いつ)と如何にとを考えてゐる。

高村光太郎父・仏具彫刻師高村光雲( 嘉永5年=1852年 - 昭和9年=1934年)、昭和3年喜寿祝賀会にて

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(昭和5年=1930年9月「詩・現実」発表。のち、初出型の最終行「何時(いつ)と如何にとを考えてゐる。」を削除。初出型のまま「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録)
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  似顔  高村 光太郎

わたくしはかしこまつてスケツチする
わたくしの前にあるのは一箇の生物
九十一歳の鯰は奇觀であり美である
鯰は金口を吸ふ
----世の中の評判などかまひません
心配なのは國家の前途です
まことにそれが氣がかりぢや
寫生などしてゐる美術家は駄目です
似顔は似なくてもよろしい
えらい人物といふ事が分ればな
うむ----うむ(と口が六寸ぐらゐに伸びるのだ)
もうよろしいか
佛さまがお前さんには出來ないのか
それは腕が足らんからぢや
寫生はいけません
氣韻生動といふ事を知つてゐるかね
かふいふ狂歌が今朝出來ましたわい----
わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て
一片の弧線をも見落とさないやうに寫生する
このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝國資本主義發展の全實歴を記録する
九十一歳の鯰よ
わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ

大倉財閥設立者・男爵大倉喜八郎(天保8年=1837年 - 昭和3年=1928年)肖像

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高村光太郎「大倉喜八郎の首」大正15年=1926年制作塑像

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(昭和6年=1930年3月「詩・現実」発表。 「高村光太郎詩集(創元選書)」昭和26年=1951年9月・創元社刊に収録 )

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