前回までで明治30年代後半~40年代を代表する象徴主義詩人・蒲原有明(1875-1952)の紹介はいったん区切りとしたいが、有明はひと言で言うと表現は文語文体にとどまりながらも形式は和歌(短歌)でも俳諧(俳句)でもない、またアカデミックな漢詩でもない、平民的な和漢混交文としての自由詩の可能性を明治時代にようやく示し得た詩人だった。理論的には、明治の詩(短歌、俳句、漢詩や外国語詩作も含めて)の可能性は森鴎外(1962-1922)の掌上にあったと見るとすっきりする。与謝野鉄幹主宰の短歌と詩の同人誌「明星」、正岡子規主宰の俳句とエッセイ(散文によるリアリズムの実践で、当時は「写生文」と呼ばれた)の同人誌「ホトトギス」とも青年時代の鴎外が創刊した文芸同人誌「しがらみ草紙」(1889年=明治22年~)、「めざまし草」(1896年=明治29年~)の系譜を継いだものだった。「しがらみ草紙」創刊の同年に総合誌「国民之友」夏季付録として発表された訳詩集『於母影』は鴎外が中心に監修して鴎外周辺の文学サークルの精鋭たちが寄稿したアンソロジーであり、日本の現代詩はまず『於母影』の訳詩から始まった。鴎外は「新体詩」と呼ばれた明治時代の文語自由詩の創始者でもあったので、晩年まで日本の現代詩に関心を持ち続け、萩原朔太郎の『月に吠える』1917年(大正6年)をいち早く絶賛したのでも知られている。新体詩の最盛期には薄田泣菫(1877-1945)の作風を難じながら蒲原有明を賞賛しており、鴎外自身による最大の詩集は『うた日記』1907年(明治40年9月)がある。
これは妹の翻訳家・訳詩家の小金井喜美子あての書簡からも当時創作力の絶頂にあった薄田泣菫・蒲原有明を意識した作品集で、1904年(明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に第2軍軍医部長として出征していた従軍時に書かれ、「明星」や佐々木信綱主宰の「心の花」などに掲載された偶成詩から成る。形式は新体詩、漢詩、短歌、俳句などあらゆる詩型を試作しており、翌1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任する記念の意味合いもあったと思わ5れる。石川啄木の『あこがれ』、上田敏訳詩集『海潮音』、有明の『春鳥集』が1905年(明治38年)、伊良子清白の『孔雀船』と泣菫の『白羊宮』が1906年(明治39年)で、『うた日記』の1907年=明治40年を挟み1908年(明治41年)には『有明集』の他に『虚子句集』、若山牧水の『海の声』が出ている。この牧水歌集はすでに大正の詩歌に足をかけていて、1909年=明治42年には北原白秋『邪宗門』、三木露風『廃園』が、1910年=明治43年には吉井勇『酒ほがい』と啄木『一握の砂』、日本初の口語自由詩集の川路柳虹『路傍の花』が、1911年=明治44年には白秋の『思ひ出』、啄木『呼子と口笛』(歿後発表)があり、1912年=明治45年(大正元年)に啄木が夭逝して『悲しき玩具』を残すと、翌1913年=大正2年には白秋『桐の花』『東京景物詩』、露風『白き手の猟人』、斎藤茂吉『赤光』、永井荷風訳詩集『珊瑚集』が発表されている。鴎外の『うた日記』はいわば明治新体詩の総決算になったが、『有明集』のように作者の全身を賭けた詩集ではなかった。有明の詩は大正~昭和、そして現在に至るまで詩としての感動を保ち続けるが、鴎外の詩は形式改革だけが作詩の動機だったので明治新体詩の時代が過ぎると同時に役目を終えていた、とも言える。
形式と内容は不可分のものだが、有明の詩が作品の内実には備えながらも表現ではその手前に留まり踏み込めなかった領域が大正・昭和の詩にとっては重要な主題になる。それは官僚詩人(軍医総監は軍人としては将軍位に相当する)である森鴎外にはその詩では描けなかった領域でもあり(小説では『半日』『ヰタ・セクスアリス』、さらに後期の時代小説連作で対決するが)、日本文学そのものが近代に入って初めて直面したテーマだった。端的に言えばそれは反権力と性のふたつで、国家権力下の個人という問題自体が社会の近代化以降生まれてきたことによる。明治末の蒲原有明でも陸軍砲兵工廠(『春鳥集』収録「誰かは心伏せざる」)や銀行(同詩集収録「魂の夜」)では間接的な軍備・資本主義批判を行い、『有明集』のソネット連作「豹の血」が異様な性愛体験を下敷きにしているのは明らかだが、有明の技法はその性質上テーマよりも言語による現実のフィクション化に向かいがちだった。
大正時代の現代詩はまず口語自由詩への指向が目的化されたが、萩原朔太郎『月に吠える』に先立って高村光太郎(1883-1956)の画期的詩集『道程』があった。大正詩の始まりを告げる詩集の中でも、白秋の『邪宗門』『思い出』でもなく露風『廃園』でもなく、また『月に吠える』でもなく室生犀星『抒情小曲集』1918、日夏耿之介『転身の頌』1917、佐藤春夫『殉情詩集』1921でもない。口語自由詩ならではの表現を真っ先に打ち出した『道程』は、反権力の詩と性愛の詩を芸術至上主義の詩よりも多く収録し、そこには明治末の詩が向かった象徴主義とは異なった現実把握があった。反権力の詩に「寝付の国」を、性愛の詩に「淫心」がひとりの詩人に同居するのは、高村光太郎にとってのリベラリズムの表明だったろう。
明治44年、自宅アトリエにて、29歳の高村光太郎
根付の国 高村 光太郎
頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして、
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人
(十二月十六日)
(明治44年1月=1911「スバル」に発表、詩集『道程』大正3年10月=1914年抒情詩社刊に収録)
*
淫心 高村 光太郎
をんなは多淫
われも多淫
飽かずわれらは
愛慾に光る
縦横無礙(むげ)の淫心
夏の夜の
むんむんと蒸しあがる
瑠璃(るり)黒漆の大気に
魚鳥と化して躍る
つくるなし
われら共に超凡
すでに尋常規矩の網目を破る
われらが力のみなもとは
常に創世期の混沌に発し
歴史はその果実に生きて
その時劫(こう)を滅す
されば
人間世界の成壌は
われら現前の一点にあつまり
われらの大は無辺際に充ちる
淫心は胸をついて
われらを憤らしめ
万物を拝せしめ
肉身を飛ばしめ
われら大声を放つて
無二の栄光に浴す
をんなは多淫
われも多淫
淫をふかめて往くところを知らず
万物をここに持す
われらますます多淫
地熱のごとし
烈烈----
(八月二十七日)
(大正3年9月「我等」発表、詩集『道程』大正3年10月=1914年抒情詩社刊に収録)
*
高村光太郎に少し遅れて出発した萩原朔太郎は高村に生涯敬意を払っていたが、朔太郎の弟子を任じる西脇順三郎は高村光太郎の詩を「豪傑の詩」と生涯嫌い続けた。一方、萩原朔太郎の第2詩集『青猫』と同年(大正12年=1923年)に『こがね虫』でデビューした金子光晴(1895-1975)は自分を萩原朔太郎以上の詩人と自負していた。方向性において金子は朔太郎をライヴァル視し、高村光太郎や西脇順三郎とは親しかったが、金子光晴の本領が発揮されたのは朔太郎と共通する方向性のうち芸術至上主義的なものを振り捨てて、金子流の象徴主義の発展によって本来象徴主義とは相容れない、折衷するのが難しい権力批判の詩と人間の実存的なエロティシズムの詩を同じ比重で書けるようになった30歳代後半からだった。
金子は早熟にして晩成型の詩人だったが、反権力の詩として「おっとせい」、同年に書かれて別の詩集に収録されたエロティシズムの実存主義詩「洗面器」を見ると、権力批判において饒舌で暴露的、性において簡略で暗示的なのが高村光太郎の「寝付の国」「淫心」とは逆になっているのに気づく。高村光太郎と金子光晴は20代半ばに約2年間のヨーロッパ留学体験という共通点があり、それは森鴎外や夏目漱石にもあったのだが、鴎外は軍医、漱石は国立大学英文科教授としての官費留学で厳しい成果が求められた。永井荷風の留学は文学青年の私財による趣味留学で性質が異なる。斎藤茂吉の留学は私立病院院長としてのもので、鴎外や漱石と同じ職業的目的があった。高村の場合は彫刻家の家系だったために新たなヨーロッパ式の彫刻術を学ぶためだったが、高村は注文職人としての彫刻ではなく芸術表現としての彫刻に目覚めて帰朝してくることになった。金子光晴は自分の留学体験を永井荷風に近い、ヨーロッパでの生活体験によって西洋文学理解を深めるためのもの、と自覚があり、1920年の25歳当時にして実家からの遺産1億円を2年弱で使い果たす壮絶な留学をしている。詩集『鮫』は42歳の詩集で、無駄に遊んだ留学体験が詩人にとっては着実な糧となった例だろう。しかもこの詩集は24冊ある金子光晴の詩集の9冊目で、戦時中は詩集を発表できず、次の詩集は11年後にようやく刊行される。年代的にも『道程』と『鮫』では執筆時期に25年あまりを隔てているが、『道程』の延長線上からは「おっとせい」や「洗面器」は出てこないのを思えば、金子光晴がどれほど現代詩の表現領域を拡大してみせたかがこの2編には凝縮されている。
昭和13年、詩集『鮫』刊行翌年、44歳の金子光晴
金子光晴詩集 鮫 / 昭和12年8月=1937年人民社刊
おっとせい 金子 光晴
一
そのいきの臭えこと。
口からむんと蒸れる、
そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしていること。
虚無をおぼえるほどいやらしい、 おお、憂愁よ。
そのからだの土嚢のやうな
づづぐろいおもさ。かったるさ。
いん気な弾力。
かなしいゴム。
そのこころのおもひあがっていること。
凡庸なこと。
菊面。
おほきな陰嚢。
鼻先があをくなるほどなまぐさい、やつらの群衆におされつつ、いつも、
おいらは、反対の方角をおもってゐた。
やつらがむらがる雲のやうに横行し
もみあふ街が、おいらには、
ふるぼけた映画でみる
アラスカのやうに淋しかった。
二
そいつら。俗衆といふやつら。
ヴォルテールを国外に追ひ、フーゴー・グロチウスを獄にたたきこんだのは、
やつらなのだ。
バダビアから、リスボンまで、地球を、芥垢と、饒舌で
かきまはしているのもやつらなのだ。
くさめをするやつ。髭のあひだから歯くそをとばすやつ。かみころすあくび、きどった身振り、しきたりをやぶったものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人だとさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そいつらは互ひに夫婦だ。権妻だ。やつらの根性まで相続ぐ倅どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あるひは朋党だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむすびあひの、からだとからだの障壁が、海流をせきとめるやうにみえた。
おしながされた海に、霙のやうな陽がふり濺いだ。
やつらのみあげる空の無限にそうていつも、金網があった。
…………けふはやつらの婚姻の祝ひ。
きのふはやつらの旗日だった。
ひねもす、ぬかるみのなかで、砕氷船が氷をたたくのをきいた。
のべつにおじぎをしたり、ひれとひれをすりあはせ、どうたいを樽のやうにころがしたり、 そのいやしさ、空虚さばっかりで雑閙しながらやつらは、みるまに放尿の泡で、海水をにごしていった。
たがひの体温でぬくめあふ、零落のむれをはなれる寒さをいとうて、やつらはいたはりあふめつきをもとめ、 かぼそい声でよびかはした。
三
おお。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が 、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこしも気づかずにゐた。
みだりがはしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは表情を匍ひまわり、
……………文学などを語りあった。
うらがなしい暮色よ。
凍傷にただれた落日の掛軸よ!
だんだら縞のながい陰を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝礼してゐる奴らの群衆のなかで
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、 反対をむいてすましてるやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むかうむきになってる
おっとせい。」
(昭和12年4月「文学案内」に発表、詩集『鮫』昭和12年8月=1937年人民社初版200部刊に収録)
*
洗面器 金子 光晴
(僕は長いあひだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが爪硅(ジャワ)人たちはそれに羊(カンピン) や魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたえて、花咲く合歓木の木陰でお客を待ってゐるし、その同じ洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ しゃぼりしゃぼりとさびしい音をたてて尿をする。)
洗面器のなかの
さびしい音よ。
くれてゆく岬(タンジョン)の
雨の碇泊(とまり)。
ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。
人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。
洗面器のなかの
音のさびしさを。
(昭和12年10月「人民文庫」発表、詩集『女たちへのエレジー』昭和24年5月=1949年創元社刊に収録)