今回も明治30年代の新体詩(文語自由詩)の代表的な詩人、蒲原 有明(かんばら ありあけ / 本名・隼雄(はやお) / 1875年<明治8年>3月15日 - 1952年<昭和27年>2月3日)の第4詩集『有明集』1908(明治41年1月 / 33歳)巻頭のソネット(14行詩)連作所収詩編についてご紹介していきたい。この詩集は有明生前4冊の単行詩集の掉尾を飾るもので、
・第1詩集『草わかば』1902(明治35年1月 / 27歳。代表作「牡蠣の殻」収録。以下年齢は当時の慣習に従い数え歳とする)
・第2詩集『獨弦哀歌』1903(明治36年5月 / 28歳。代表作「あだならまし」収録)
・第3詩集『春鳥集』1905(明治38年7月 / 30歳。代表作「朝なり」収録)
に続くものだった。その後有明の単行詩集は途絶え、以降の新詩集は既刊詩集所収の詩編を改作した全詩集と選詩集に新作を加えたものになる。
(a)『有明詩集』1922(大正11年6月 / 47歳)は改訂版の既刊4詩集の全詩集に新作詩集「自畫像」「散文詩と翻訳」を加えた700ページを超える大著となり、
・(a)'『有明詩集 改訂版』1922(大正14年年11月 / 50歳)ではさらに増補改訂が行われる。作品改訂はさらに選詩集ごとに進められ、
・(b)『有明詩抄』岩波文庫1928(昭和3年12月 / 53歳)
・(c)『現代詩人全集 蒲原有明集』1930(昭和5年8月 / 55歳)
・(c)'『現代詩人全集 蒲原有明集』新潮文庫・戦前版(cの文庫化)1935(昭和10年8月 / 60歳)
と、有明の改作癖は文学史家でもある詩人・日夏耿之介(1890-1971)らによって激しく批判されながらも止まなかった。敗戦後にも、
・『定本春鳥集』1947(昭和22年8月 / 72歳)で『春鳥集』全編の再改訂、
・(d)『有明全詩抄 (詩人全書)』1950(昭和25年7月 / 75歳)
に至るまで自作の改作が続く。以上、(a)から(d)まで(『定本春鳥集』も含む)はすべて有明自身による改訂版で、改稿・改題や選出、配列もすべて詩人自身が監修した全詩集または自選集となっている。
・(e)『蒲原有明全詩集 (創元選書)』1952(昭和27年3月 / 77歳)は初版以来初めて第1~第4詩集の復刻を許可したもので、
・(f)『蒲原有明詩集 (矢野峰人編)』新潮文庫新版1952(昭和27年3月 / 77歳)では初めての他選詩集で底本は(e)が用いられたが、(e)(f)の校了前の1952(昭和27年)2月に77歳で逝去。(f)への序文が絶筆になった。
さらに没後編纂された決定版全詩集には、
・(g)『定本蒲原有明全詩集』河出書房1957(昭和32年2月 / 没後5年)では有明最終改訂稿を本文に全異本の校違と生前詩集未収録詩編が集成された。本文としては(a)'~(c)に(d)で選出改訂された最終型を加えたもの、といえる。だが『定本蒲原有明全詩集』で定められた最終稿は屋上屋を重ねたに過ぎず、後に各種文学全集や新たに編まれた有明選詩集では(e)『蒲原有明全詩集 (創元選書)』に倣ってオリジナル詩集本文を採用するのが慣用化されて広く読まれており、現在では(a)~(e)に至る有明後半生の改訂稿を読み較べることの方が容易でなくなっている(現在では岩波文庫『有明詩抄』が数年おきに増刷されているのみになる)。
『有明集』刊行当時の蒲原有明(33歳・同詩集口絵著者近影より)
前回では「月しろ」の異文を改作ごとに4通りご紹介したが、「月しろ」が改訂版(a)(b)(c)(d)中(b)の岩波文庫版『有明詩抄』には収められなかったように「智慧の相者は我を見て」は(c)の新潮社『現代詩人全集』(新潮文庫戦前版で単独再刊)には選出されなかった。改訂版(a)(b)(c)(d)のすべてに収録されているのは「茉莉花」で、全8編の「豹の血」でも白眉をなすこれら3編でも改作の度合いがもっとも少ないのも「茉莉花」になる。そこで今回は「智慧の相者は我を見て」の変遷を見てみたい。
*
有明集 / 明治41年1月(1908年・有明33歳)易風社刊(昭和47年・日本近代文学館刊「名著復刻全集」初版本翻刻版)
智慧の相者は我を見て
智慧(ちゑ)の相者(さうじや)は我を見て今日(けふ)し語(かた)らく、
汝(な)が眉目(まみ)ぞこは兆(さが)惡(あ)しく日曇(ひなぐも)る、
心弱くも人を戀ふおもひの空の
雲、疾風(はやち)、襲(おそ)はぬさきに遁(のが)れよと。
噫(ああ)遁(のが)れよと、嫋(たを)やげる君がほとりを、
緑牧(みどりまき)、草野(くさの)の原のうねりより
なほ柔かき黒髮の綰(わがね)の波を、----
こを如何(いか)に君は聞き判(わ)きたまふらむ。
眼をし閉(とづ)れば打續く沙(いさご)のはてを
黄昏(たそがれ)に頸垂(うなだ)れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獸(けもの)かととがめたまはめ、
その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に一色(ひといろ)の物憂き姿、----
よしさらば、香(にほひ)の渦輪(うづわ)、彩(あや)の嵐に。
(「文章世界」明治40年6月発表)
*
有明詩集 増訂版/ 大正14年11月(1922年・有明50歳)書肆アルス社刊収録「有明集」改題「豹の血しほ」より
智慧の相者は我を見て
智慧の相者(さうじや)は我を見て、警(いまし)めていふ、
----汝(な)が眉目(まみ)は兆惡(さがあ)しくこそ日曇(ひなぐも)れ、
心弱くもあだし人(びと)戀ひわたりなば、
夜(よ)の疾風(はやぢ)やがて襲(おそ)はむ、遁(のが)れよと。
噫(ああ)、遁れよと、嫋(たを)やげる君がほとりを、
緑牧(みどりまき)、草野(くさの)の原のうねりよりも
なほ柔らかき黒髪(くろがみ)の綰(わが)ねの波を、----
そを如何に君は聞き判(わ)きたまふらむ。
眼(め)をし閉れば黄昏(たそがれ)の沙(いさご)のはてを、
頸垂(うなじた)れ、たどりゆく影の浮び來(く)る、
----飢(う)ゑてさまよふ獸(けもの)かと、とがめたまはじな。
その影ぞ君を遁れてゆくものの
うらぶれ姿、あな醜(しこ)め、いまは惑はず、
湍(たぎ)ち湧(わ)く戀の渦輪(うずわ)に、禊(みそ)ぎしてまし。
*
有明詩抄/岩波文庫1928(昭和3年12月 / 53歳)*1994(平成6年)第16刷
智慧の相者は我を見て
「智慧(ちゑ)」の相者(さうじや)は我(われ)を見て警(いまし)めていふ。
汝(な)が眼(まみ)は兆惡(さがあ)しくこそ日曇(ひなぐも)れ、
心弱くも他人(あだしびと)戀ひわたりなば、
夜(よ)の疾風(はやぢ)やがて襲(おそ)はむ、遁(のが)れよと。
噫、遁れよと、嫋(たを)やげる君がほとりを、
緑牧(みどりまき)、草野(くさの)の原のうねりよりも
なほ柔(やわら)かき黒髪の綰(わがね)の波を。----
そを如何に君は聞き判(わ)きたまふらむ。
眼(め)をし閉(とづ)れば黄昏(たそがれ)の沙(いさご)の涯(はて)を、
頸垂(うなじた)れ辿(たど)りゆく影の浮び來(く)る。----
飢(う)ゑてさまよふ獸(けもの)かと、咎(とが)めたまはじな。
これぞわがうらぶれ姿(すがた)、惡醜(いなしこ)め。
今は惑はず、渦潮(うづしほ)の戀におもむき、
湍(たぎ)ち湧(わ)く海に禊(みそ)がむ。 溺(おぼ)るるもよし。
*
有明全詩抄 (詩人全書) / 昭和25年7月(1950年・有明75歳)酣燈社刊
智慧の相者は我を見て
智慧(ちゑ)の相者(さうじや)は我(われ)を見て警(いまし)めていふ。
「汝(な)が眼(まみ)は兆惡(さがあ)しくこそ日曇(ひなぐも)れ、
心弱くも他人(あだしびと)戀ひわたりなば
夜(よ)の疾風(はやぢ)やがて襲(おそ)はむ、遁(のが)れよ」と。
噫、「遁れよ」と、嫋(たを)やげる君がほとりを、
緑牧(みどりまき)、草野(くさの)の原のうねりよりも
なほ柔(やわら)かき黒髪の綰(わがね)の波を。----
そをいかに君は聞き判(わ)きたまふらむ。
目(め)をし閉(と)づれば黄昏(たそがれ)の沙(いさご)の涯(はて)を、
頸垂(うなじた)れ、たどりゆく影の浮び來(く)る。----
「飢(う)ゑてさまよふ獸(けもの)か」と、咎(とが)めたまはじな。
これぞわがうらぶれ姿、惡醜(いなしこめ)。
今は惑(まど)はず、渦潮(うづしほ)の戀におもむき、
湍(たぎ)ち沸(わ)く海に禊(みそ)がむ。溺(おぼ)るるもよし。
*
この改作はオリジナルの4詩集からアルス版『有明詩集』への改作編入がなされた全詩編でも後にもっとも批判されたもので、その批判も『有明集』刊行当時の難解詩としての批判ではなく、文学的芸術性という本来の観点からのものだった。明治大正の現代詩を初めて体系的に文学史化した功績は日夏耿之介に帰すことができ、日夏の延長線上に大正と昭和の詩の連続性が立てられ明治以降の現代詩史の見取り図ができたと言っても過言ではないが、日夏が明治現代詩の最高の達成と評価したのが薄田泣菫(1877-1945)と蒲原有明だった。日夏の評価は明治期の現代詩史のスタンダードになったが(大正期については、日夏自身が大正期に属する実作者の詩人でもあり、また昭和期以降の現代詩理解に限界があったために昭和期との連続性を含めた大正詩史の理解には至らなかった)、日夏は有明のオリジナル詩集に最大の評価を与えるとともに、『有明詩集』以降の有明の改作を逐字的に批判することで『有明集』の達成を逆照射する、という立場を取った。
日夏は、日夏自身『有明集』中最高の1編に数える巻頭詩「智慧の相者は我を見て」の改作を特に問題視したのは改作の度合いが特に甚だしかったからであり、『有明詩集』では「月しろ」や「茉莉花」も大きく改作されているとはいえ『有明詩抄』や『現代詩人全集 蒲原有明集』では「月しろ」はかなりの程度、「茉莉花」はほとんどオリジナルに戻されている。日夏の激しい有明の改作批判は『明治大正詩史』新潮社(上下)1929(昭和4年)中の泣菫・有明論の章において詩の読者層に広まったが(定本となった『増補改訂明治大正詩史』刊行は戦後の1948~1949=昭和23~24年)、『現代詩人全集 蒲原有明集』1930(昭和5年)序文、またそれに先立つ『有明詩抄』1928(昭和3年)序文でも自作の改作についての自嘲的な言及があるので、日夏からの批判のみに左右されて「月しろ」や「茉莉花」を徐々に原に復して行ったというのでもないだろう。戦後の『有明全詩抄 (詩人全書)』1950(昭和25年7月 / 75歳)は有明自身による最終選詩集になったが、復原された箇所が目立つ一方で新たな改稿箇所も加えられている。
日夏が特に批判した行を上げてみると、確かにこれらを音韻の上でも、表現方法としても改悪と指摘するのは的を射ているといえる。先に『有明集』、後にアルス版『有明詩集』から引いた。
(第1連)
智慧(ちゑ)の相者(さうじや)は我を見て今日(けふ)し語(かた)らく、
汝(な)が眉目(まみ)ぞこは兆(さが)惡(あ)しく日曇(ひなぐも)る、
↓
智慧の相者(さうじや)は我を見て、警(いまし)めていふ、
----汝(な)が眉目(まみ)は兆惡(さがあ)しくこそ日曇(ひなぐも)れ、
(第3連)
眼をし閉(とづ)れば打續く沙(いさご)のはてを
黄昏(たそがれ)に頸垂(うなだ)れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獸(けもの)かととがめたまはめ、
↓
眼(め)をし閉れば黄昏(たそがれ)の沙(いさご)のはてを、
頸垂(うなじた)れ、たどりゆく影の浮び來(く)る、
----飢(う)ゑてさまよふ獸(けもの)かと、とがめたまはじな。
(第4連)
その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に一色(ひといろ)の物憂き姿、----
よしさらば、香(にほひ)の渦輪(うづわ)、彩(あや)の嵐に。
↓
その影ぞ君を遁れてゆくものの
うらぶれ姿、あな醜(しこ)め、いまは惑はず、
湍(たぎ)ち湧(わ)く戀の渦輪(うずわ)に、禊(みそ)ぎしてまし。
↓
(『有明詩抄』版第4連)
これぞわがうらぶれ姿(すがた)、惡醜(いなしこ)め。
今は惑はず、渦潮(うづしほ)の戀におもむき、
湍(たぎ)ち湧(わ)く海に禊(みそ)がむ。 溺(おぼ)るるもよし。
日夏の指摘は表現が甚だしく説明的になっていること、それによって詩句の衝撃性が失われ音楽性が間延びしていることで、オリジナルの鋭い言い切りの大半が『有明詩集』では歯切れの悪いものになった。『有明詩抄』では『有明詩集』から第1連~第3連を修正した上で第4連がほとんど別物になり、『有明全詩抄』は『有明詩抄』の修正といえる。日夏の批判を受けた後も「智慧の相者は我を見て」は『有明詩集』での改訂稿を以降の選集の基本にしたことがわかる。第4連はさらに大きく改作されたが、
(『有明集』)
その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に一色(ひといろ)の物憂き姿、----
よしさらば、香(にほひ)の渦輪(うづわ)、彩(あや)の嵐に。
↓
(『有明全詩抄』)
これぞわがうらぶれ姿、惡醜(いなしこめ)。
今は惑(まど)はず、渦潮(うづしほ)の戀におもむき、
湍(たぎ)ち沸(わ)く海に禊(みそ)がむ。溺(おぼ)るるもよし。
そして第1連は意味の上では変わりがないのだが、
(『有明集』)
智慧(ちゑ)の相者(さうじや)は我を見て今日(けふ)し語(かた)らく、
汝(な)が眉目(まみ)ぞこは兆(さが)惡(あ)しく日曇(ひなぐも)る、
心弱くも人を戀ふおもひの空の
雲、疾風(はやち)、襲(おそ)はぬさきに遁(のが)れよと。
↓
(『有明全詩抄』)
智慧(ちゑ)の相者(さうじや)は我(われ)を見て警(いまし)めていふ。
「汝(な)が眼(まみ)は兆惡(さがあ)しくこそ日曇(ひなぐも)れ、
心弱くも他人(あだしびと)戀ひわたりなば
夜(よ)の疾風(はやぢ)やがて襲(おそ)はむ、遁(のが)れよ」と。
明らかにオリジナルの『有明集』本文の方が勝れる。だが有明が生涯を賭した、数え歳75歳だから晩年の総決算でもあっただろう決定稿は『有明全詩抄』の方だった(有明自身の序文が遺稿になった歿年刊行の新潮文庫新版『蒲原有明詩集(矢野峰人編)』本文も『有明全詩抄』を底本にしている)。ニュアンスとして言えることは自我の分裂に直面して明確な対決の意志を表明した『有明集』版に対し、『有明詩集』以降、特に第4連が苛烈さを増した『有明詩抄』以降では精神的危機への対決後の敗北感が老残の感慨となって詩の結句となっている。この違いは大きい。有明にとっては30歳の稿本に留まることはできず、75歳の改訂まで(またはその改稿をも)「智慧の相者は我を見て」の決定稿は獲られなかった。それを誰が単純に改悪と指弾して済まされるだろうか。