蒲原 有明(かんばら ありあけ / 1875年<明治8年>3月15日 - 1952年<昭和27年>2月3日)は、東京麹町(現在の千代田区)生まれの日本の詩人。本名、隼雄(はやお)。
D・G・ロセッティに傾倒し、複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人として明治30年代の新体詩(文語自由詩)の代表的な詩人となり第1詩集『草わかば』1902(明治35年)、『獨弦哀歌』1903(明治36年)、『春鳥集』1905( 明治38年)の3詩集は森鴎外の激賞を受ける。だが最大の達成を示した第4詩集『有明集』1908(明治41年)は技巧の難解さから当時の新進詩人たちに一斉に批判の対象になり、私生活の問題もあって作品発表は激減。改訂版全詩集に新作詩集を加えた『有明詩集』1922(大正11年)以降は旧作の改作に没頭し改訂版選詩集『有明詩抄』1928(昭和3年)、『蒲原有明詩集』1935(昭和10年)、『定本春鳥集』1947(昭和22年)、『有明全詩抄』1950(昭和25年)に至るまで自作の改作を続けた。1952年(昭和27年)に『有明詩集』以来初めて全詩集の初版内容を復刻した『蒲原有明全詩集』の刊行を許可したが、同年、同書の校了前に77歳で逝去。萩原朔太郎が終生、明治最高の革新的詩人として有明の後継者を自負していたことでも知られる。
今回は『有明集』全48編・訳詩4編から、詩集巻頭の連作ソネット「豹の血」8編中、傑作と名高い3編をご紹介する。テキストは後年の改稿によらず、『有明集』初版によった。
有明集/ 初版本/明治41年(1908年)1月・易風社刊
*
智慧の相者は我を見て
智慧(ちゑ)の相者(さうじや)は我を見て今日(けふ)し語(かた)らく、
汝(な)が眉目(まみ)ぞこは兆(さが)惡(あ)しく日曇(ひなぐも)る、
心弱くも人を戀ふおもひの空の
雲、疾風(はやち)、襲(おそ)はぬさきに遁(のが)れよと。
噫(ああ)遁(のが)れよと、嫋(たを)やげる君がほとりを、
緑牧(みどりまき)、草野(くさの)の原のうねりより
なほ柔かき黒髮の綰(わがね)の波を、----
こを如何(いか)に君は聞き判(わ)きたまふらむ。
眼をし閉(とづ)れば打續く沙(いさご)のはてを
黄昏(たそがれ)に頸垂(うなだ)れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獸(けもの)かととがめたまはめ、
その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に一色(ひといろ)の物憂き姿、----
よしさらば、香(にほひ)の渦輪(うづわ)、彩(あや)の嵐に。
(「文章世界」明治40年6月発表)
月しろ
淀(よど)み流れぬわが胸に憂(うれ)ひ惱みの
浮藻(うきも)こそひろごりわたれ黝(くろ)ずみて、
いつもいぶせき黄昏(たそがれ)の影をやどせる
池水(いけみづ)に映るは暗き古宮(ふるみや)か。
石の階(きざはし)頽(くづ)れ落ち、水際(みぎは)に寂びぬ、
沈みたる快樂(けらく)を誰かまた讃(ほ)めむ、
かつてたどりし佳人(よきひと)の足(あ)の音(と)の歌を
その石になほ慕ひ寄る水の夢。
花の思ひをさながらの祷(いのり)の言葉、
額(ぬか)づきし面(おも)わのかげの滅(き)えがてに
この世ならざる縁(えにし)こそ不思議のちから、
追憶(おもひで)の遠き昔のみ空より
池のこころに懷かしき名殘(なごり)の光、
月しろぞ今もをりをり浮びただよふ。
(「文庫」明治40年6月発表・初出題名「月魂(つきしろ)」)
茉莉花
咽(むせ)び嘆かふわが胸の曇り物憂き
紗(しや)の帳(とばり)しなめきかかげ、かがやかに、
或日は映(うつ)る君が面(おも)、媚(こび)の野にさく
阿芙蓉(あふよう)の萎ぬえ嬌なまめけるその匂ひ。
魂(たま)をも蕩(た)らす私語(ささめき)に誘はれつつも、
われはまた君を擁(いだ)きて泣くなめり、
極祕の愁、夢のわな、----君が腕(かひな)に、
痛ましきわがただむきはとらはれぬ。
また或宵は君見えず、生絹(すずし)の衣(きぬ)の
衣(きぬ)ずれの音のさやさやすずろかに
ただ傳ふのみ、わが心この時裂けつ、
茉莉花(まつりくわ)の夜(よる)の一室(ひとま)の香(か)のかげに
まじれる君が微笑(ほほゑみ)はわがの痍(きず)を
もとめ來て沁(し)みて薫(かを)りぬ、貴(あて)にしみらに。
(「新思潮」明治40年10月発表)
解説は次回でお送りしたい。これらの詩編は当時有明が陥っていた破滅的な恋愛経験が反映したもので、具体的なシチュエーションは詩句の中で語られており、決して思索的概念から発想されたものではなく、生々しい情念に象徴主義による普遍的な抽象表現を試みることで精神的危機を昇華し、有明以前には類例のない抒情詩を実現したものと言える。でも一読して何を語っているのかわからない詩なのも確かで、そこが現代詩の源流たるゆえんでもある。また、有明において概念語の多くは、仏教思想に由来する(一例として「快楽(けらく)」とは快楽ではなく、仏教では禁欲による精神的浄化を意味する)ことを次回では解説したい。
D・G・ロセッティに傾倒し、複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人として明治30年代の新体詩(文語自由詩)の代表的な詩人となり第1詩集『草わかば』1902(明治35年)、『獨弦哀歌』1903(明治36年)、『春鳥集』1905( 明治38年)の3詩集は森鴎外の激賞を受ける。だが最大の達成を示した第4詩集『有明集』1908(明治41年)は技巧の難解さから当時の新進詩人たちに一斉に批判の対象になり、私生活の問題もあって作品発表は激減。改訂版全詩集に新作詩集を加えた『有明詩集』1922(大正11年)以降は旧作の改作に没頭し改訂版選詩集『有明詩抄』1928(昭和3年)、『蒲原有明詩集』1935(昭和10年)、『定本春鳥集』1947(昭和22年)、『有明全詩抄』1950(昭和25年)に至るまで自作の改作を続けた。1952年(昭和27年)に『有明詩集』以来初めて全詩集の初版内容を復刻した『蒲原有明全詩集』の刊行を許可したが、同年、同書の校了前に77歳で逝去。萩原朔太郎が終生、明治最高の革新的詩人として有明の後継者を自負していたことでも知られる。
今回は『有明集』全48編・訳詩4編から、詩集巻頭の連作ソネット「豹の血」8編中、傑作と名高い3編をご紹介する。テキストは後年の改稿によらず、『有明集』初版によった。
有明集/ 初版本/明治41年(1908年)1月・易風社刊
*
智慧の相者は我を見て
智慧(ちゑ)の相者(さうじや)は我を見て今日(けふ)し語(かた)らく、
汝(な)が眉目(まみ)ぞこは兆(さが)惡(あ)しく日曇(ひなぐも)る、
心弱くも人を戀ふおもひの空の
雲、疾風(はやち)、襲(おそ)はぬさきに遁(のが)れよと。
噫(ああ)遁(のが)れよと、嫋(たを)やげる君がほとりを、
緑牧(みどりまき)、草野(くさの)の原のうねりより
なほ柔かき黒髮の綰(わがね)の波を、----
こを如何(いか)に君は聞き判(わ)きたまふらむ。
眼をし閉(とづ)れば打續く沙(いさご)のはてを
黄昏(たそがれ)に頸垂(うなだ)れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獸(けもの)かととがめたまはめ、
その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に一色(ひといろ)の物憂き姿、----
よしさらば、香(にほひ)の渦輪(うづわ)、彩(あや)の嵐に。
(「文章世界」明治40年6月発表)
月しろ
淀(よど)み流れぬわが胸に憂(うれ)ひ惱みの
浮藻(うきも)こそひろごりわたれ黝(くろ)ずみて、
いつもいぶせき黄昏(たそがれ)の影をやどせる
池水(いけみづ)に映るは暗き古宮(ふるみや)か。
石の階(きざはし)頽(くづ)れ落ち、水際(みぎは)に寂びぬ、
沈みたる快樂(けらく)を誰かまた讃(ほ)めむ、
かつてたどりし佳人(よきひと)の足(あ)の音(と)の歌を
その石になほ慕ひ寄る水の夢。
花の思ひをさながらの祷(いのり)の言葉、
額(ぬか)づきし面(おも)わのかげの滅(き)えがてに
この世ならざる縁(えにし)こそ不思議のちから、
追憶(おもひで)の遠き昔のみ空より
池のこころに懷かしき名殘(なごり)の光、
月しろぞ今もをりをり浮びただよふ。
(「文庫」明治40年6月発表・初出題名「月魂(つきしろ)」)
茉莉花
咽(むせ)び嘆かふわが胸の曇り物憂き
紗(しや)の帳(とばり)しなめきかかげ、かがやかに、
或日は映(うつ)る君が面(おも)、媚(こび)の野にさく
阿芙蓉(あふよう)の萎ぬえ嬌なまめけるその匂ひ。
魂(たま)をも蕩(た)らす私語(ささめき)に誘はれつつも、
われはまた君を擁(いだ)きて泣くなめり、
極祕の愁、夢のわな、----君が腕(かひな)に、
痛ましきわがただむきはとらはれぬ。
また或宵は君見えず、生絹(すずし)の衣(きぬ)の
衣(きぬ)ずれの音のさやさやすずろかに
ただ傳ふのみ、わが心この時裂けつ、
茉莉花(まつりくわ)の夜(よる)の一室(ひとま)の香(か)のかげに
まじれる君が微笑(ほほゑみ)はわがの痍(きず)を
もとめ來て沁(し)みて薫(かを)りぬ、貴(あて)にしみらに。
(「新思潮」明治40年10月発表)
解説は次回でお送りしたい。これらの詩編は当時有明が陥っていた破滅的な恋愛経験が反映したもので、具体的なシチュエーションは詩句の中で語られており、決して思索的概念から発想されたものではなく、生々しい情念に象徴主義による普遍的な抽象表現を試みることで精神的危機を昇華し、有明以前には類例のない抒情詩を実現したものと言える。でも一読して何を語っているのかわからない詩なのも確かで、そこが現代詩の源流たるゆえんでもある。また、有明において概念語の多くは、仏教思想に由来する(一例として「快楽(けらく)」とは快楽ではなく、仏教では禁欲による精神的浄化を意味する)ことを次回では解説したい。