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厚切りソーハカ丼の逆襲

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 おとといの半額惣菜、昨日の海老天丼に続いてまたもや献立(食材、料理)日記になる。自炊している人間は献立ネタはやたら繁雑になるか、さもなくば単調になるかのどちらかに傾きがちだと思うが、筆者のような独居老人の場合基本的に献立が「一品料理」になるのは仕方あるまい。しかし一汁一菜ではあるのだから、一品料理だって献立、それなりに工夫したメニューではある。そして今回のソーハカ丼の逆襲だが、昨日は海老天丼だったので今回はカツ丼が逆襲に来た、その程度の意味の逆襲になる。もちろん天丼やカツ丼が交互に逆襲してくるならこんなに嬉しいことはない。諸手を上げて歓迎する。では厚切りソーハカ丼とは何か。画像の通りの代物がそれになる。

 これが厚切りソーハカ丼「である」とつい書いてしまいそうになるが、普段このブログでは「である」止め文末表現を使うことはほとんどない。今日まで続く日本語の口語文体の確立は明治後半の20年間を要したが、だいたい「~です」「~ます」調(山田美妙系)と「~だ」止め・または「~だった」止め(坪内逍遙~二葉亭四迷系)、それから「~である」調(正岡子規~夏目漱石系)の3系統が定着しているが、このうち「~である」体は口語文体の中では文語的性格が強いのは、「です・ます」「~だ・~だった」が日常の生活言語に使われるのに対して「~である」を会話に使うことなどめったにないことでもわかる。せいぜい演説や文書の朗読に限られたもので、口語であって口語ではないようなものだろう。

 ちなみにこのブログの文体は一人称代名詞を使わない一人称文体で、文末表現は上記3系統の口語のどれにも偏らない現在形を多用している。文体的特徴としてはハードボイルド小説の様式に近いものなのだが、この調子で延々ウンチクを垂れていては、そんなことより厚切りソーハカ丼とは何かという説明はどうなっているのだ、としびれを切らすかたもさぞかし多かろうと思われる。実は本題からはどうでもいい前置きを長々書くのはこのブログでは常套手段なので、こんな前説は本来必要はないのだが、それにも一応それらしい理由はあるのだ。厚切りソーハカ丼とは厚切りハムカツのソースかけ丼飯で、それを略すと(厚切り)ソーハカ丼。大して捻りのあるネーミングでもない。それだけでは献立日記の体裁をなさないので寄り道から話題に入ってみたということである。あ、この「である」は現在形の表現で、いわゆる「~である」体の「である」ではないですよ。

 予定では明日の正午記事では(略称)カラタマ丼というのを、もう写真も撮ってある。カラタマといってもケムール人の操るガラモンの入っている巨大隕石状コクーンではない。あれはガラダマです、とわざとらしく特撮ネタに誘導しておいて、期待感を煽っておいてガッカリされても自業自得だが、カラタマ丼については昨日の海老天丼日記と同様、明日の献立日記でだらだら書くので乞御期待。今日の本題である厚切りソーハカ丼についておしゃべりさせていただく。そもそも世の中にはソースカツ丼というのがあるのだ、と知っている人は当然に思っているし、知らない人は全然知らない。少なくとも関東育ちの食生活歴の人なら、カツ丼というとめんつゆで玉子とじにしたものを思い浮かべるものと思われる。

 関東ではカツ丼はソバ屋のメニューだからではないだろうか。ソバ屋は江戸時代から存在するが、カツ丼は明治開化以降の和食化された洋食だろう。80年代に日本人フランス留学生がガールフレンドを殺害して遺体を食べていた、という事件を起こしたが、どうやってというとすき焼きにして食べていたという。文学専攻で川端康成とフランス文学の関連の研究者だったそうで、川端康成が書きそうなことを現実にやってしまったところがこわい。なんだか不気味な寄り道をしてしまったが、畜肉食はせいぜい鶏肉程度だった日本に牛肉食や豚肉食の文化がもたらされて、それがステーキやカツレツではなくすき焼きやカツ丼から普及したのはごく自然なことだった。基本はソバ屋、またはうどん屋の調理法だったからだろう。それで関東は文化圏としては関東以北を総合したものだから、カツ丼においてはしょう油由来の天つゆ系の玉子とじ丼が主流になった。ポークステーキでも「とん漬け」といえば味醂で染み込ませた味噌漬けを差すが、これなどいかにも東北発祥の食文化との関連を感じさせる。

 だが、ソースカツ丼というのも世の中には存在していて、これは丼飯の上に千切りキャベツを敷いてトンカツを乗せ、適量のソースを満遍なくかけたもので、隅にしょうが漬けが添えてあることもある。近所のスーパーでも天つゆ玉子とじカツ丼をお弁当コーナーに置いている店もあれば、別の店ではソースカツ丼が置いてあり、両方を置いてある店もあるかといえば、それはない。天つゆ玉子とじカツ丼かソースカツ丼か、そのどちらかしか置いていない。これはそれぞれの店の惣菜・お弁当担当責任者の意思が働いているからこその現象だが、近隣の外食店ではソースカツ丼を出す店が皆無なのを思うと相当思い切った裁量ではある。

 ソースカツ丼が「和食化された洋食」とすれば異色なのは、これがポークカツの千切りキャベツ添えとご飯・汁物なら普通のトンカツ定食になるのだが、定食どころか丼飯に千切りキャベツとポークカツをそのまま乗っけてしまったところだ。さすがに味噌汁は味噌汁お碗のままだが、この場合ソースカツ丼とは天つゆ玉子とじカツ丼とはまったく異質で、たまたま丼の姿をしているトンカツ定食と見た方が良いのではないか、と考える。海老天丼などはうな丼と同じで、あれはおつゆの染みたご飯をいただくものという和食ならではの発想だろう。黒澤明の遺作『まあだだよ』1993は内田百間を主人公にした映画だが、百間はうな重が好物でウナギは捨ててタレの染みたご飯だけ食べていたという。だがソースカツ丼の場合カツを捨てたらキャベツとご飯しか残らないではないか。

 あれこれ書いているうちにソースカツ丼の例外性がなんとなくあぶり出されてきた恰好だが(本当か?)、実際今回載せているのは厚切りソースカツなので、厳密にはソースカツ丼ではないが似たようなものだろう。ハムカツというのも不思議な存在の惣菜で、ハムをトンカツ並みの衣の厚い揚げ物にするというのはどういうセンスか、これをテーマにするだけでもわざわざ駄文をものせるような気がする。画像では包丁でスライスしてあるのがよくわからないが、厚切りハムカツとはハッタリではなく、厚さ1cmは裕にあった上に衣が厚いのでほとんど平均的な文庫本ほどの厚さのあるハムカツだったのには刃を入れてみて瞠目した。実は内心では、包丁を当てたらペチャッと半分くらいに潰れると思っていたからだ。おお、と感心する反面、お前本当にハムカツか?とおちょくられたような気持にもなったのだった。

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