Ornette Coleman - The Shape of Jazz to Come (Atlantic,1959)Full Album
http://www.youtube.com/watch?v=Lbt9DDolcag&sns=em
Recorded May 22, 1959
Released October 1959, Atlantic 1317
A1. Lonely Woman - 00:00
A2. Eventually - 05:01
A3. Peace - 09:24
B1. Focus on Sanity -18:25
B2. Congeniality - 25:18
B3. Chronology - 32:07
All Titles Composed By Ornette Coleman
[Personnel]
Ornette Coleman - alto saxophone
Don Cherry - cornet
Charlie Haden - bass
Billy Higgins - drums
このアルバムの邦題は『ジャズ来るべきもの』といい、アメリカ盤発売からすぐに日本盤が発売され高い評価を得た。オーネットの登場はセンセーショナルなものだった。現在でもこの作品はジャズ史上の最重要アルバムと目されている。では、オーネット・コールマンの位置づけはどれほどのものになるだろうか。
昭和53年刊の書籍『Jazz&Jazz 歴史にみる名盤カタログ800』(講談社)は同時刊行された『Rock&Rock』と共に80年代まで増補改訂され、広く読まれたレコード・ガイドブックだが、その序文の総論では「1900年代から今日にいたるまでのジャズを築いてきた偉大なミュージシャンの名をあげるとき、チャーリー・パーカー、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、オーネット・コールマンの六人はとりわけ巨大な存在としてジャズ史上にその名をとどめている」とし、「しかしマイルスとコールマンを除いて、四人はすでにこの世にない」と続けている。マイルスもまた1991年に逝去して、84歳の高齢で現役ミュージシャンであり続けているオーネットはここに名前の上がった他の誰より長い楽歴を誇ることになった。
また、ジャズ史上最高の小編成レギュラー・バンドとしてルイ・アームストロングのホット・ファイヴ、カウント・ベイシーのカンサス・シティ・セヴン(レスター・ヤング在籍)、オリジナル・チャーリー・パーカー・クインテット(マイルス・デイヴィス在籍)、オリジナル・マイルス・デイヴィス・クインテット(ジョン・コルトレーン在籍)、ジョン・コルトレーン・カルテット、オーネット・コールマン・カルテットが六大バンドとして上げられることが多い。アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズやチャールズ・ミンガス・ジャズ・ワークショップはメンバーが流動的すぎてレギュラー・バンドとは言えないとしても、クリフォード・ブラウン&マックス・ローチ・クインテットはどうした、レニー・トリスターノ・セクステットは、ジェリー・マリガン・カルテットは、ときりがないが、先の序文総論でも年代を無視してコルトレーンをマイルスの先に置き、筆頭がチャーリー・パーカーで締めくくりがオーネット・コールマンなのは序列の意識が働いている。つまりパーカーを最重要ジャズマンとし、次にパーカーに先立つ巨匠を二人、またパーカーの薫陶を受けたマイルスとコルトレーンを上げ、マイルスはまだ現役だから後に置く。そしてパーカーから始まった表彰はオーネットで締めくくられる。
オーネットはモダン・ジャズ史上のアヴァンギャルド・ジャズの開祖とされることが多いが、チャーリー・パーカーのビバップ自体がジャズのアヴァンギャルド運動であり、19歳のマイルス・デイヴィスを含むパーカー・クインテットは1945年から録音を始めている。ビバップに対する白人ジャズ側の回答というべきレニー・トリスターノの初期キーノート・レーベルへの録音は46年には開始されている。トリスターノの最初のフル・アルバム『奇才トリスターノ』、チャールズ・ミンガスの『直立猿人』、セロニアス・モンクの『ブリリアント・コーナーズ』がいずれも1956年のリリースで、トリスターノはアルバム発売を機にいっそうジャズ界の第一線から身を引き、ミンガスとモンクはこれが長い試行錯誤を経た出世作となった。また、インディーズのため評価はずっと遅れたが、フリー・プロデューサーのトム・ウィルソン(60年代にはボブ・ディラン、サイモン&ガーファンクル、フランク・ザッパ&マザーズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを手がける)が設立したトランジション・レーベルからセシル・テイラーの『ジャズ・アドヴァンス』、サン・ラの『ジャズ・バイ・サン・ラ』が発表されたのも同年になる。
オーネット自身はロサンゼルスのコンテンポラリー・レーベルから『サムシング・エルス!』で58年にデビュー、『ジャズ来るべきもの』の直前に第2作『トゥモロー・イズ・ザ・クエスチョン』1959を録音しているが、インディーズのためあまり話題にならなかった。だがモダン・ジャズ・カルテットのジョン・ルイスがオーネットに注目し、ルイスはアトランティック・レーベルのジャズ部門の監修者でもあったため、インディーズながらワーナー傘下で全国への配給網を持つアトランティックからの全国デビューが決まる。
ルイスはジャズ・ジャーナリズムの世界でも絶大な影響力があり、現役ジャズマンとしての実績と批評的見識では第一人者と尊敬されていた。モダン・ジャズ・カルテットはチャーリー・パーカーのバック・バンドの経験も多く、クラシックにも造詣の深いルイスのパーカー評「バッハ以来の音楽的発明」はジャズ界の定評になっていた。ジョン・ルイスがオーネット・コールマンを評した「パーカー以来のジャズの革命」はオーネットをたちまちジャーナリズムの注目の的にし、『ジャズ来るべきもの』発売から間もなくメンバー全員でロサンゼルスからニューヨークに進出を果たしたオーネット・コールマン・カルテットはジャズ・クラブのファイヴ・スポットと出演契約し、ライヴは大評判を呼んで契約延長を重ね、新人としては異例の6か月連続出演(週6日出演)を果たす。
リスナーはもちろんだがニューヨークの現役ジャズマンたちもこぞってオーネットのライヴを聴きに訪れた。傑作『カインド・オブ・ブルー』を発表したばかりのマイルス・デイヴィスはインタヴューでオーネットの音楽を批判し、ジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』は録音済みだったが同じアトランティック作品だったため発売はオーネットのブームが落ち着いた翌年に持ち越された。コルトレーンはオーネットの音楽に大きなショックを受けて、アルバム『アヴァンギャルド』でオーネット・カルテットのメンバーと共演する。ソニー・ロリンズもまたアルバム『アワー・マン・イン・ジャズ』でオーネット・カルテットのメンバーと共演し、ツアーまで行う。
オーネットが評判を呼んだためオーネットの友人のアルトサックス奏者(フルート、バス・クラリネットも手がける)エリック・ドルフィーもロサンゼルスからニューヨークへ単身進出する。ドルフィーは本格的なビバップからオーネット以上の奔放なプレイまでこなすヴァーサタイルなプレイヤーだったため、旧知のチャールズ・ミンガスのバンドとマイルスから独立したコルトレーンのバンドをかけもちし、自分のアルバムも出し、フィーチャリング・ソロイストとして多忙なセッションマンにもなった。チャールズ・ミンガスはトランペットのテッド・カーソンとドルフィーをオーネットのライヴに偵察に出し(自分は車の中で待っていたという)、オーネット・カルテットと同じピアノレス・カルテット編成でオーネットへのアンサー・アルバム『ミンガス・プレゼンツ・ミンガス』1960を制作する。ミンガスの盟友マックス・ローチも前後してオーネット影響下の『ウィ・インシスト!』をミンガスと同じインディーズのキャンディドからリリースする。
だが、プレスティッジ・レーベルのドルフィーにせよ、すでにメジャー・レーベルからのリリースを確保し評価面ではマイルスと同格の大家だったミンガスやローチさえも、オーネットに迫ったアルバムはインディーズでしか制作できなかったことは留意すべきだろう。キャンディドはセシル・テイラーの傑作『ワールド・オブ・セシル・テイラー』も制作しているが、これはオーネットよりさらにアヴァンギャルドな作風だった。また、サン・ラ&ヒズ・アーケストラもアヴァンギャルド・ジャズ流行の風潮に乗ってシカゴからニューヨークに進出し、インディーズのサヴォイから『フューチャリスティック・サウンズ・オブ・サン・ラ』1961年をリリースするが、1965年頃までは食料品店でメンバーがアルバイトしてようやく続けていた状態だったらしい。
オーネットは1959年と1960年のわずか1年半に、アトランティックに、
1. The Shape of Jazz to Come (Atlantic, 1959)
2. Change of the Century (Atlantic, 1959)
3. This Is Our Music (Atlantic, 1960)
4. John Lewis:Jazz Abstraction(Atlantic,1960)
5. Free Jazz (Atlantic, 1960)
6. Ornette! (Atlantic, 1961)
7. Ornette on Tenor (Atlantic, 1961)
8. The Art of the Improvisers (Atlantic, 1959-61 [1970])
9. Twins (Atlantic, 1961 [1971])
10. To Whom Who Keeps a Record (Atlantic, 1959-60 [1975])
の10枚のアルバムを残す。8.~10.は契約満了後の未発表曲集だが、ジョン・ルイスのアルバム参加と『This Is Our Music』収録のガーシュウィン・ナンバー『Embraceble You』(パーカーの愛奏曲でもある)を除いて、すべてオーネットのオリジナル曲なのもすごい。
オーネットの音楽性は疾走する不規則なビートがどんどんずれていき、ベースは持続音を保ちコード進行をリードせず、トランペットとアルトサックスはコード・チェンジやドラムスのビートから自由に出入りするものだった。音程は恣意的に変化し、パーカーが理論化したビバップのデフォルメだった。ただしアルバムは評判ほどはヒットせずアトランティックからの諸作後、オーネットはレコード契約を失う。だが65年にはオーネットはベースとドラムスだけを従えた新トリオでヨーロッパ・ツアーの敢行によるカムバックを果たし、再びジャズ界の第一線ミュージシャンに返り咲きする。
それらの起点が『ジャズ来るべきもの』であり、現在ではジャズの古典の名声も定着して、むしろ気合いの入ったノリノリの好盤になっている。今でもアヴァンギャルド・ジャズとして聴けるかは別として、現在でもジャズとして新鮮な魅惑を備えたアルバムなのは間違いない。感覚はむしろロックに近い。当時オーネットは白いプラスチック・アルトを使っていることでも話題になった。ブラス製のサックスとは違う肉声に近い歪んだサウンドがたまらない。