30年前の記憶はともかく、花束はその時、7年半ほど前のその頃には確実にあった。ここで誰かが死んだんだな、と月並みなことを思ったのを思い出す。自分自身がもっとも死に近い状態だったので、死人の眼で現世の花を見ている気分がした。具体的には供花が現実の世界にあるならば、自分は死者の側にいるような疎外感を感じた。被害者意識とは違うものだ。故人は自分に捧げられた花を、当然見ることはできない。しかし花を供え続けられるのは、生きている遺族なり友人なりが惜別の思いを忘れたくないからで、あの世のことはこの世からはわからないのと同様、この世のことは生きている人だけで決めることだ。
だから誰かがこの場所に花束をきちんきちんと交換しに来て、踏切にさしかかる人はいつも新しい花束を目にすることになる。それがいつ始まったことかもわからないし、いつまで続けられることかも知れない。こうしたことは善し悪しで決めることではないし、また合理性の面から見るべきことでもない。生活は習慣や作法から成り立っており、惰性という原動力がなければそれらを維持するのは難しい。供花する人は、供花によって自分たちの余生を鼓舞しているのだ。およそ故人たちへの弔いの意味はそのあたりにある。