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映画日記2018年9月15日・16日 /『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(8)

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 マルセル・カルネの戦時下の作品『悪魔が夜来る』'42には今回散々な感想文を書いてしまったくらい観直して面白くなかったのですが、あれは自分でも不本意で感想文を書くくらいなら映画の場合に限らず良いところを見つけてこそで、『悪魔が夜来る』の場合はそれがまったく見つからない、しんどい作品でした。実はそれに続くカルネの『天井桟敷の人々』もあまり良い印象のない映画で、筆者は学生時代にリヴァイヴァル上映の有楽町の映画館の大スクリーンで初めて観ましたが、その頃バイト先の同僚だった女性から「人生の喜怒哀楽が全部入っている名作」と聞き、この人は雑誌の受け売りばかりしか話題がないような人で、取引先のサンプル商品を盗んでかけもちしていた同業種のバイト先に流すような人だったのもあって、そういう人が褒めるこの映画のどこが名作?という感想しかありませんでした。3時間級の古典映画でも学生時代に何度も観た『国民の創生』や『イントレランス』や、通俗歴史メロドラマとしてもハリウッドの大釜から生まれた4時間級のごった煮的大作『風と共に去りぬ』よりずっと貧弱な映画にしか思えませんでした。しかしその後映像ソフトで数回観直すうち、それなりに見所も見えてくるようになり、今ではやはりそれほどの名作とは思えませんがテレビ用映画のスペシャル番組程度に物語の面白さで一気に楽しめる作品という程度には観ていられるようになりました。『フランス映画パーフェクトコレクション』3セット30本もこの『天井桟敷の人々』からは戦後映画になり、ちょうど公開順からロベール・ブレッソンの第2作『ブローニュの森の貴婦人たち』が続くことになったのは、戦前フランス映画の伝統から出たカルネと、カルネより年長ながら監督デビューが遅く戦後フランス映画の革新者となったブレッソンの対照の意味でも感想文が書きやすそうな気がします。なお今回も作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。

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●9月15日(土)
『天井桟敷の人々』Les enfants du paradis (Pathe Cinema, 1945)*188min, B/W : 1945年3月9日フランス公開
監督:マルセル・カルネ(1906-1996)、主演:アルレッティ、ジャン=ルイ・バロー
・フランス映画界の巨匠マルセル・カルネが、パントマイム芸人バチストの恋愛模様を描いた映画史に残る傑作。下町の住民の人情も折り込んで、フランス映画の頂点に君臨し続けてきた傑作人間ドラマ。

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 日本公開昭和27年(1952年)2月20日、昭和27年度キネマ旬報外国映画ベストテン第3位。ちなみにこの年の外国映画ベストテンの5位までを上げると1位『チャップリンの殺人狂時代』'47、2位『第三の男』'49(キャロル・リード)、第4位『河』'51(ジャン・ルノワール)、第5位『ミラノの奇蹟』'51(ヴィットリオ・デ・シーカ)でした。敗戦7年目と思うとまずまず妥当な順位でしょう。『殺人狂時代』の1位、『河』(これはカラー作品なのも点を稼いだでしょうが)の4位はこのベストテンの見識を示すもので、『第三の男』『ミラノの奇蹟』の高評価は時代を反映しているので日本公開当時の好評も順当かな、と思えます。そこでこの『天井桟敷の人々』ですが、ドイツ占領下から解放されたフランス映画界の総力結集の大作としてフランス映画文化復興の旗印のような記念碑的作品のように観られたので、戦後の映画観客に大きな感動を呼び起こした映画と大島渚もエッセイに書いていました。しかしドイツと同盟国だった日本人がフランス人の反独抵抗運動を賛美するのが敗戦後の倒錯した思潮だったので、『悪魔が夜来る』や『天井桟敷の人々』への日本の映画批評での讃辞は日本がドイツ同様侵略戦争国だったことから目を逸らさせる欺瞞性があり、現に敗戦国日本は戦勝国アメリカ占領下が昭和27年まで続いていたような状況でした。それを思えば『天井桟敷の人々』に日本人が憧憬したのは敗戦状況下からの完全な解放だったとも取れるのですが、本作の「映画史上もっとも偉大な作品(の一つ)」という評価は西洋文化圏ではほとんど不動の評価となっており、カルネの場合全キャリアにまとわりつくのが'30年代フランス映画の「詩的リアリズム」出身映画監督という見方ですが、歴史メロドラマ大作の本作は史劇という点でもメロドラマという点でも大作という点でも「詩的リアリズム」にとどまらない巨大な叙事詩的作品と見られているようです。資料を引用するときりがありませんが、今回も公開当時のキネマ旬報の近着外国映画紹介を引いておきましょう。意外と言っては何ですが、実質的に長編映画2本分(第1部「犯罪大通り」110分、第2部「白い男」90分)の作品だけに、当時のキネマ旬報近着外国映画紹介には珍しいほど詠嘆調を入れない、必要最低限に簡略なあらすじにまとめています。
[ 解説 ]「港のマリイ」のマルセル・カルネが、「悪魔が夜来る」に引つづき三年三ケ月の歳月を要して完成した一九四四年度作品で前後篇三時間半に及ぶ長大作。「北ホテル」を除いて当時までのカルネ全作品に協力して来たジャック・プレヴェールがオリジナル・シナリオを担当、台詞を執筆している。撮影は「しのび泣き」のロジェ・ユベールと「みどりの学園」のマルク・フォサール、音楽は「港のマリイ」のジョゼフ・コスマと「めぐりあい」のモーリス・ティリエで、パントマイム場面の音楽はジョルジュ・ムウクの担当。音楽監督はコンセルヴァトワアルのシャルル・ミュンク(現在ボストン交響楽団の常任指揮者)である。美術はアレクサンドル・トローネ、装置)はリュシアン・バルザックとレイモン・ガビュッティが受持っている。出演者は「しのび泣き」のジャン・ルイ・バロー、「悪魔が夜来る」のアルレッティ、「火の接吻」のピエール・ブラッスール、「オルフェ」のマリア・カザレスを中心に、「バラ色の人生」のルイ・サルー、「悪魔が夜来る」のマルセル・エラン、「パリの醜聞」のピエール・ルノワール、以下ガストン・モド、ジャーヌ・マルカンらが大挙出演する。一八四〇年代、ルイ・フィリップ治下のパリ繁華街を舞台に、とりどりの人間群が織りなす人生の色模様をバルザック的な壮麗さで描いたカルネ・プレヴェルの代表作。劇の中心をなすバチスト・ドビュロオとフレデリック・ルメートルは共に実在の人物で、前者は本名シャルル、パントマイムのピエロ役の近代的創造者として知られている。
[ あらすじ ]第1部「犯罪大通り」1800年代のパリ。タンプル大通り、通称犯罪大通りで裸を売りものにしている女芸人ガランス(アルレッティ)はパントマイム役者バティスト(ジャン・ルイ・パロー)と知り合いになった。パティストは彼女を恋するようになった。無頼漢ラスネール(マルセル・エラン)や俳優ルメートル(ピエール・ブラッスール)もガランスを恋していた。パティストの出ている芝居小屋「フュナンピュール」座の座長の娘ナタリー(マリア・カザレス)はバティストを恋していた。ガランスにいい寄るにしてはバティストの愛はあまりに純粋であった。ラスネールといざこざを起したガランスは「フュナンビュール」に出演するようになった。ガランスの美貌にモントレ-伯(ルイ・サルー)が熱をあげた。 第2部「白い男」5年後、バティストはナタリーと結婚、一子をもうけていた。ガランスは伯爵と結婚していた。人気俳優になったルメートルのはからいでバティストはガランスに劇場のバルコニーで会うことが出来た。一方、劇場で伯爵に侮辱されたラスネールは風呂屋に伯爵を襲って殺した。バティストはガランスと一夜を過ごした。翌朝、バティストの前に現れたナタリーと子供の姿を見たガランスは、別れる決心をした。カーニバルで雑踏する街を去るガランスを追ってバティストは彼女の名を呼び続けた。
 ――第2部がヒロインが伯爵夫人となっているのは、第1部の結末でラスネールが起こした強盗事件にヒロインの関与が疑われて警察に「この方を呼んで」と伯爵の名刺を渡した幕引きからです。また偽盲人の乞食を演じるガストン・モド、劇団に衣装や小道具の用立てで出入りする故買屋を演じるピエール・ルノワールなど主人公たちの恋愛ドラマには直接関わらず映画のムードに厚みを与える人物はあらすじからは省かれていますが、『悪魔が夜来る』ではどうしちゃったのというくらい冴えのなかったプレヴェール脚本が本作では適度に緊密で適度に緩い人間ドラマを上手く作り上げています。昔「ネオ歌舞伎」などという売り文句で歌舞伎の現代劇的演出上演が流行った時期がありましたが、この映画は良かれ悪しかれそういうもので、娯楽性第一に観て楽しむものでしょう。チャップリンやロイド、キートン、ロン・チェイニーなどサイレント時代の真の名優の映画を観てしまうと、本作のジャン=ルイ・バローのパントマイム劇は演劇として舞台を観れば素晴らしいのでしょうが、映画で延々映されてもまったく面白みのないもので、舞台劇シーンをまるごと挿入しているのをカットすれば本作は前後編合わせて2時間程度で済んだはずですが、すし詰めの円筒形劇場の雰囲気込みのムード演出としてはこれも手なので、贅肉の多い映画ですがバスト自慢の女性みたいなものでしょう。胸の谷間や肩や背中の露出を強調する服飾趣味はフランスの民族衣装みたいなもので、それに文化的に高い美を感じる人は本作はもっと精神的な高さも感じるのかもしれませんが、手のこんで構えがでかい割には年齢相応・境遇性格相応の登場人物たちの説得力(アルレッティが包容力のある年増なのでもてるのも、マリア・カザレスがけっこうきつい性格が仇になっているのもわかります)はそれなりにあるものの案外普通のメロドラマ、観直し終えてみると意外と大作感の稀薄な娯楽作という感じで、これだったらヒロインも男も悲惨な運命に翻弄されながら徹底して傲慢な意地を貫きすれ違う『風と共に去りぬ』の方が上かな、とも思えますが、あれも『天井桟敷の人々』も意図するところはナショナリズムの鼓舞に役立つ大娯楽大作だったでしょうから、彼此はお国柄の違いの次元の話でしょうか。なお音楽監督シャルル・ミュンクはのちの大指揮者シャルル・ミンシュです。

●9月16日(日)
『ブローニュの森の貴婦人たち』Les Dames du Bois de Boulogne (Les Films Raoul Ploquin, 1945)*85min, B/W : 1945年9月21日フランス公開
監督:ロベール・ブレッソン(1901-1999)、主演:ポール・ベルナール、マリア・カザレス
・恋人に本意ではない別れの言葉を告げた女。しかし、男も同じ気持ちだったと返され、去られてしまう。女は男へ復讐を果たそうと、娼婦の過去をもつ女を紹介するが……。演出は「罪の天使たち」のR・ブレッソン。

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 日本劇場未公開、DVD発売平成15年(2003年)8月。ロベール・ブレッソンは年齢はヒッチコックより2歳下、ブニュエルより1歳下なだけでワイラーよりも2歳年上なくらいですが、長編監督デビューは'43年の『罪の天使たち』と遅く、82歳の監督作『ラルジャン』'83が遺作となるまで40年間(沒年まで新作企画を温めていたそうですから沒年までなら56年間)に長編13作しか残さなかった寡作の映画監督で、寡作の映画監督としてはエイゼンシュテイン、ドライヤー、アントニオーニ、キューブリック、タルコフスキーといった監督たちに並びます。一部の映画マニアの間でのブレッソン崇拝はたいへんなもので、ほとんど神格化された映画監督と言ってよく、反商業主義的な作品づくりを続けてきたこともありブニュエルを賞賛する批評家やマニアのブレッソン評はさながら聖者を崇めるがごとくで、戦後ヨーロッパ映画の原点を戦後ヨーロッパ映画の潮流全体からロベルト・ロッセリーニとロベール・ブレッソンの二人と考察たのは佐藤忠男氏(『ヌーベルバーグ以後』中公新書、昭和46年)でしたが、ブレッソンに対してニュートラルなのは『抵抗』'56や『スリ』'59を普通に新作映画として観ていた佐藤氏までの世代で、『スリ』の頃にすでにフランス本国でブレッソンの神格化が始まっていた以降にそれに乗っかって語られるようになってからはいけません。普通に他の映画監督同様に作品を追っていくと、長編デビュー作『罪の天使たち』はカトリックの尼僧院を舞台にした、レズビアン的というよりモノセックス的な閉鎖的なムードで描かれた若い尼僧たちのドロドロの愛憎劇で、これは女性だけで厳しい規律と上下関係を形成している集団でしたら相当普遍性のある内容ですから今観ても面白く、またブレッソンの映画がスタイルの確立を見たのは第3長編『田舎司祭の日記』'50以降というのが定評ですが『田舎司祭の日記』『抵抗』『スリ』では会話は最小限に切り詰められている替わりに字幕が多用され、全編に主人公のモノローグ(ナレーション)が流れるし音楽もまだ使われている。モノローグも音楽もなくなるのは『ジャンヌ・ダルク裁判』'62からで(ただし同作にともなってドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』を批判しているのは観客にしてみれば岡目八目ですが)、それ以前のモノローグ作品は『田舎司祭の日記』では成功しているが『抵抗』と『スリ』では不要な饒舌に陥っていると思います。ストイックな映像スタイルなら『罪の天使たち』でも始まっていて、またブレッソン映画の登場人物たちは孤独な人間ばかりですが、『罪の天使たち』のような閉鎖的人間関係を描いたものは以降はないので、この第2長編『ブローニュの森の貴婦人たち』も『罪の天使たち』とも『田舎司祭の日記』以降とも切れた位置にある作品です。本作は劇場未公開、DVD発売のみ(それ以前はシネクラブ等の特殊上映のみ)の作品なので、キネマ旬報映画データベースでの解説紹介文と、通販サイトAmazonでの作品説明文をご紹介しておきます。
[ 解説 ] 哲学者ディドロの原作を、詩人、ジャン・コクトーが台詞を担当し、ロベール・ブレッソン監督が映画化。恋人・ジャンを試すために別れを告げたエレーヌだが、期待と裏腹に別れを承諾されてしまう。裏切られたと感じたエレーヌは復讐を画策する。【スタッフ&キャスト】監督・脚本:ロベール・ブレッソン 原作:ドニ・ディドロ 台詞:ジャン・コクトー 撮影:フィリップ・アゴスティーニ 出演:ポール・ベルナール/マリア・カザレス/エリナ・ラブルデット/リュシエンヌ・ボゲール
[ 説明 ](Amazonレビュー) ロベール・ブレッソン監督作『ブローニュの森の貴婦人たち』は、愛と嫉妬が渦巻き、復しゅうとつぐないが交錯するメロドラマだ。ブレッソンの野心と、監督としての妥協案とのあいだに、心もとない緊張感が見え隠れしている。 美しいが嫉妬深い上流階級の貴婦人エレーヌ(マリア・カザレス)は、長年の恋人ジャン(ポール・ベルナールがいささか弱々しい役柄を演じている)の愛情をかきたてようと、心にもない別れ話を切り出す。しかし、あろうことか、あっさりと同意されてしまった。恨みをつのらせたエレーヌは、入念な復しゅうを企む。ひどく貧しい家計を助けるため、男たちを「楽しませること」までしている若いダンサー、アニエス(エリナ・ラブルデット)――彼女は母親(リュシエンヌ・ボゲール)に「私なんて売春婦も同然よ!」と叫んでいる――に、ジャンが恋をするよう仕向けた。そしてエレーヌはついに、公衆の面前でジャンに恥をかかせたのだった――。 身振りは大袈裟で芝居がかっているが、台詞の口調は実に控えめだ。芸達者な俳優をそろえ、ジャン・コクトーが台詞を磨き上げた(脚本は哲学者ドニ・ディドロの小説『運命論者ジャックとその主人』からの翻案)この作品は、古典フランス映画らしく様式化された台詞と、心理劇的な色合いをもつ演技によって、はっきりと特徴づけられている。こうした特徴は、ブレッソンの後期の作品にはまったく見られないものだ。簡素なセットと筋立て、ツボにはまった演技、そして感動的で心温まる結末からも、監督の手腕がうかがえる。ブレッソン監督みずからが認めた代表作ではないが、ここでストーリーを淡々とつづっていった彼の厳格な姿勢は、第3作『田舎司祭の日記』において大輪の花を咲かせている。(Sean Axmaker, Amazon.com)
 ――ブレッソンは基本的に自作脚本でのみ映画を製作した監督ですが、本作は例外的にジャン・コクトー(1889-1963)にブレッソンによるディドロの小説の小エピソードからの現代版の脚色台本の台詞監修を依頼しています。詩、小説、批評、戯曲、イラストと何でもこなして'32年には監督作の実験映画『詩人の血』、本作前年に『悲恋』'43の原作・脚本があり、'46年の『美女と野獣』から本格的に劇映画の監督に乗り出すコクトーですが、のちにジャック・リヴェットの短編映画『王手飛車取り』'56が「コクトーよりコクトー的」と言われたくらい本作も初めて観るとまるでコクトーが本格的な映画監督進出後に作った『双頭の鷲』'48や、ロッセリーニのコクトー原作の『アモーレ』'48みたいにコクトー的に見えるのですが、今回たまたまマリア・カザレスが準ヒロイン役の『天井桟敷の人々』と続けて観たせいか、またポール・ベルナールが情けない不良息子役だったのはフェデーの『ミモザ館』'35でしたが、マリア・カザレスが高飛車な役ですごいのがコクトーの『オルフェ』'50ですが、年齢差で置き換えれば『ブローニュの森の貴婦人たち』のマリア・カザレスと貧しい母子家庭の娘アニエス(エリナ・ラブルデット)を『天井桟敷の人々』のようにアルレッティ(『悪魔が夜来る』では悪魔の使いの女役でした)を貴婦人、カザレスをアニエス役という具合にもできるので、本作のカザレスは実に嫌な女の役を演じてはまり役ですが、映画の結末をかりそめの苦いハッピーエンドとしてもカザレスの役は一時的な復讐心の満足でしかないのでアニエス母子のパトロネアにまでなって経済的にも労力と時間も費やしてここまでする有閑婦人の執念と倦怠が気の毒になってくる、とも見えるのです。『天井桟敷の人々』のナタリー役も恋人一途なのが現実にはかえってうとましがられるような性格で、あまり褒めなかった割にはそこらへんはプレヴェール脚本とカルネ演出はきちっと押さえているので感心しましたし、カザレスの演技も十分に役柄を理解したものでした。本作のカザレスは結果が実れば自分自身には何も残らないような徒労に向かって一途に邁進するキャラクターなので、その原動力は破滅的衝動で、別れた恋人のベルナールは完全に手玉に取られてしまうのですが、ベルナールの中途半端な性格もカザレスの計算通りならば結末も中途半端なベルナールの性格が受け入れたハッピーエンドということになり、実際観ていてこいつはそういうやつなんだよな、とこの結末を不自然には感じません。台詞監修はコクトーでも映画自体の構想はそれほどコクトー的ではないと感じるのはそうした仕上がりになっているからで、この手練れた路線の映画監督にブレッソンが進まなかったのは愛憎メロドラマはこの1作でやり切った気持だったのかもしれません。

エルモ・ホープ Elmo Hope - デェ・ダア De-Dah (Celebrity, 1962)

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エルモ・ホープ Elmo Hope - デェ・ダア De-Dah (Elmo Hope) (Celebrity, 1962) : https://youtu.be/CPkK8c-BN0Y - 4:27
Recorded in New York, 1961
Released by Celebrity Records as the album "Here's Hope !", Celebrity 209, 1962
[ Personnel ]
Elmo Hope - piano, Paul Chambers - bass, Philly Joe Jones - drums

 エルモ・ホープは'53年にはブルー・ノート・レコーズの期待の進出ピアニストでした。ブルー・ノートからの第1作『Elmo Hope Trio - New Faces-New Sounds』はレコード番号BLP5029でBLP5030はトリオに加えて当時レギュラー・バンドだったというルー・ドナルドソン(アルトサックス)とクリフォード・ブラウン(トランペット)のクインテットで、'54年ライヴ録音のアート・ブレイキー・クインテットの『バードランドの夜』はブルー・ノート側の企画でブレイキーをドラムス、ピアノにホレス・シルヴァー、ベースにチャーリー・パーカーのバンド出身のカーリー・ラッセルを組ませてドナルドソン=ブラウン・クインテットからホープ、ヒース、フィリー・ジョーを外してドナルドソン=ブラウン・クインテットを乗っ取ったアルバムであり、その後ブルー・ノートは埋め合わせのように『New Faces-New Sounds, Elmo Hope Quintet, Vol,2』'54を製作しますがブルー・ノートでのホープのアルバムはこれが最後で、ホープはプレスティッジ、リヴァーサイド他ニューヨークのインディー・レーベルからの単発作品をほそぼそと作り、ロサンゼルスでもほそぼそとインディー・レーベルを渡り歩き、ニューヨーク復帰後もさらに弱小レーベルにほそぼそと売りこみを続けることになります。ジャズ史に残る『バードランドの夜』はホープを外してホレス・シルヴァー、フィリー・ジョーを外してブレイキーが乗っ取ったドナルドソン=ブラウン・クインテットのアルバムだったので、確かにあのアルバムはシルヴァーとブレイキーが仕切って名盤になったものですが、シルヴァーとブレイキーとドナルドソンはこのアルバムでブルー・ノートのスター・ミュージシャンになるので早い話この時点でブルー・ノートはホープを切ったも同然でした。パーシー・ヒースはディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーのサイドマン時代に組んでいたジョン・ルイスとミルト・ジャクソンのモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)に参加していましたし、奔放な性格でブルー・ノートでは問題児とされていたフィリー・ジョーは'55年にマイルス・デイヴィス・クインテットのドラマーに抜擢されます。クリフォード・ブラウンはマックス・ローチとの双頭リーダー・バンドに引き抜かれ'56年の交通事故死までジャズ史上最高のトランペット奏者の名声を今日にも不動にするので、出世もしなければ一流ジャズマンとしても記憶されなかったエルモ・ホープはいわば落ちこぼれのジャズ・ピアニストでした。
 しかしホープにはホープにしかないオリジナル曲と不器用転じて他のジャズ・ピアノにはない味わいがあり、筆者はCDの2in1版『High Hope ! / Here's Hope !』が愛聴盤で宝物ですが、20年前に当時結婚していた妻はまるでジャズには興味はなくアルバムの聴き分けなども全然できない女性でしたが、ホープのこのアルバムだけは「またそれ聴いているのね」と聴け分けがついて、それ以外のジャズ・ピアノのアルバムはバド・パウエルもセロニアス・モンクもソニー・クラークもビル・エヴァンスも全部一緒に聴こえるのにエルモ・ホープだけは他のジャズ・ピアノとの違いがわかる、というのが本当にあったわけです。ホープのジャズは、あるいはそこがジャズとしては二流なのかもしれませんが、なかなかのセンスのオリジナル曲なのにやろうとして実現できていない表現のもどかしさ、手練れたジャズマンなら巧みにこなしてしまう演奏がどこか一歩手前でとどまってしまう器量の小ささがあり、筆者の前妻は世界一かっこいいロックバンドはローリング・ストーンズ、渋いバンドならヤードバーズとバッファー・スプリングフィールド、'70年代のバンドではスティーリー・ダンが好きでロック3大名曲は「いとしのレイラ」「天国への階段」「ホテル・カリフォルニア」とごく普通の英米ロックのリスナーでしたが、それでもホープの演奏は他のジャズ・ピアノとちょっと違うと判別していたのは面白い意見でした。なおこの曲「デェ・ダア」の初レコーディングはホープのデビュー作『Elmo Hope Trio - New Faces-New Sounds』'53(BLP5029)からレコード番号もすぐ次(BLP5030)に、ホープが参加していたルー・ドナルドソン&クリフォード・ブラウン・クインテットのアルバムで演奏されています。

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ルー・ドナルドソン / クリフォード・ブラウン Lou Donaldson / Clifford Brown - De-Dah (Blue Note, 1953) : https://youtu.be/2L85u2GxgWA - 4:53
Recorded at WOR Studios, New York City, June 9, 1953
Released by Blue Note Records as the 10-inch album "Lou Donaldson/Clifford Brown - New Faces-New Sounds", BLP 5030, 1953
[ Personnel ]
Clifford Brown - trumpet, Lou Donaldson - alto saxophone, Elmo Hope - piano, Percy Heath - bass, Philly Joe Jones - drums

映画日記2018年9月17日・18日 /『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(9)

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 映画(舞台劇)はヒットせず、どちらかと言えば不評だったのに、主題歌(または挿入歌)はスタンダード化するロング・ヒットになった例は、レコード歌曲のオリジナル盤がヒットせずカヴァー盤がヒットして有名楽曲になった例と同じくらい調べてみると案外多いのですが、フランス産で国際的ヒットになったその手の曲の筆頭に上がるのが「枯葉」でしょう。「巴里の空の下」も戦後フランス産の国際的ヒット曲ですがそちらは相応に話題作(キネマ旬報外国映画昭和27年度ベストテン第9位)になった映画『巴里の空の下セーヌは流れる』'51主題歌だったのに対し、「枯葉」を書き下ろしテーマ曲としたマルセル・カルネ監督作品『夜の門』'46は本国公開も奮わず、カルネの前々作『悪魔は夜来る』、『天井桟敷の人々』は戦後日本公開されて大評判を呼びましたが『夜の門』は日本公開を見送られ、'80年代のホームヴィデオ普及時からヴィデオ、LD、21世紀になってはDVDで周期的に再発売されていますが、一般的にはカルネの作品の中ではあまり評価の高い作品ではないようです。今回ご紹介するもう1本『肉体の悪魔』は戦後フランス映画界のスター俳優になるジェラール・フィリップ(1922-1959)主演作品の2年目の日本紹介作品になり、またたく間にフィリップを日本でも若手外国映画俳優の人気スターにした作品です(キネマ旬報外国映画ベストテン昭和27年度第8位)。ちなみに『巴里の空に下セーヌは流れる』『肉体の悪魔』がベストテン入りしたキネマ旬報昭和27年度外国映画ベストテンの第1位~第3位は『チャップリンの殺人狂時代』'47、『第三の男』'49、カルネの『天井桟敷の人々』だったので、ジャーナリスティックな面でも『殺人狂時代』『第三の男』の問題作的性格と較べてもカルネ作品への人気は高かったので、『夜の門』の日本公開見送りは本国での不評の反映と思えます。一方ヒット作『肉体の悪魔』はのちに批評家時代のフランソワ・トリフォーが戦後フランス映画の傾向を示す最悪の作品と口をきわめて酷評する作品になり、トリフォーの攻撃は多分に党派的な戦略的意図も感じられるものですが、現在観直すと公開当時には『夜の門』が過小評価され『肉体の悪魔』は過大評価された(その反動で酷評もされた)作品で、前回の『天井桟敷の人々』『ブローニュの森の貴婦人たち』が戦後フランス映画映画の第一声を告げる作品としても映画の仕上がりは落ち着いたものだったのに較べて『夜の門』『肉体の悪魔』はああまだ終戦間もないんだなあという粗っぽさがあり、ヴェテラン監督カルネの『夜の門』その粗っぽさが不評を招き、新鋭監督(とはいえカルネより年長ですが)オータン=ララの『肉体の悪魔』はその粗さがスター性に富んだ新人俳優の起用もあって新鮮に迎えられたのでしょう。本国フランス同様、『肉体の悪魔』は前年(昭和26年)の日本公開作『パルムの僧院』'48、『悪魔の美しさ』'50で注目されていた日本でのジェラール・フィリップの人気を決定することにもなった作品でした。なお今回も作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。

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●9月17日(月)
『枯葉 ~夜の門~』Les portes de la nuit (Pathe Consortium Cinema, 1946)*107min, B/W : 1946年12月3日フランス公開
監督:マルセル・カルネ(1906-1996)、主演:ピエール・ブラッスール、イヴ・モンタン、ナタリー・ナッティエ
・工作員仲間レーモンの死を、彼の家族に知らせるためパリを訪れたディエゴ。自ら「運命」と名乗る男がディエゴに付きまとう……。主題歌の「枯葉」が有名な、M・カルネの『天井桟敷の人々』に続く代表作。

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 前書きの通り日本劇場未公開、映像ソフトでは'80年代半ばのレンタル・ヴィデオやLD普及時には未公開映画の目玉作品として出回っていて、その時は原題直訳の『夜の門』でした。DVD発売されてから有名な主題歌にあやかって『枯葉 ~夜の門~』に改題されていますが、ここでは初発売時の邦題が原題通りなのもあって『夜の門』を採ることにします。リリース年月日を調べてみましたがメディアがDVDになってからのリリースは記録があるものの('98年11月に日本盤初DVD化、2016年10月にHDマスターDVD/Blu-ray化、2018年8月にHDマスター版再リリース)、VHSヴィデオ、またはLD時代の未公開作品のリリースはあまり重視されていなくて映像ソフト発売年がはっきりしません。未公開作品か劇場公開作品かの違いは映画誌などでの扱いもまったく変わってくるので、かつては昔の映画やカルト・ムーヴィー作品の映像ソフト化は、プロモーションの都合上短期間(短ければ1~2週間)ミニシアター上映して「日本劇場公開作品」としてから映像ソフト化する、というのが現在でもまだ続いており、本作などもカルネの定評ある作品のリヴァイヴァル上映と2本立てで劇場公開していれば良かったのに、と惜しまれます。意表を突いてアラン・レネの『戦争は終った』'65との2本立てとか。レンタル店で本作を借りてきて観たのとテレビ放映で『戦争は終った』を観たのとどっちが先だったか思い出せませんが、この2作どちらもイヴ・モンタン主演で、終戦後に主人公が拠り所なくふらふらする映画という設定の共通点もあり、ミステリー映画仕立てではありませんが、戦争終結直後は物事が混乱しているので登場人物たちがつい最近まで錯綜した過去を抱えていて、本人たちにすら原因過程結果がよくわかっていないことが多く、人間関係のつながりも見えていなかったりする。映画は主人公の行動を通してそれらの諸事情が次々と明らかになり、もつれた物事に決着がつくので、結果的には探偵映画に近い展開になります。『戦争は終った』は主人公の現在・過去・未来が同時進行していく時制を取り、過去と未来の映像は主人公の主観なので事実誤認や予定や予測を含むややこしい話法(レネのそれまでの『二十四時間の情事』や『去年マリエンバートで』の手法のヴァリエーション)が使われますが、観客に親しみのあるイヴ・モンタンを主演にしたのは手法の込み入り具合を和らげるとともにカルネ=プレヴェール(脚本)の本作が念頭にあったのではないか、と思えてきます。『戦争は終った』をDVDで観直したのはずいぶん前になるので直接的な類縁を指摘できるほどはっきり覚えていませんが、イヴ・モンタンの復員兵かつ元レジスタンス活動家という役柄の共通点だけでも監督のレネ、主演のモンタンが『夜の門』を意識していないわけはないでしょう。『夜の門』はもともと大戦中ハリウッドに亡命していたジャン・ギャバンの帰国第1作として企画され、カルネ映画いつものスタッフの美術=アレクサンダー・トローネル、脚本=ジャック・プレヴェール、ひさびさの現代劇だから音楽は新進のジョセフ・コスマを起用してプレヴェール作詞・コスマ作曲の「枯葉」が作られましたが、ラヴ・ロマンス作品との予定でギャバンと映画初共演になるはずだったマレーネ・ディートリッヒが戦争絡みのプレヴェールの脚本が不満で降りてしまい、ディートリッヒとハリウッド時代からつきあっていたギャバンも降りてしまったのでモンタンの主演、ナタリー・ナッティエのヒロインになったそうで、クレジット上はナッティエの夫役のピエール・ブラッスールがトップ、次いでナッティエ、モンタンの順と変な並びになっています。俳優の格としてはキャリア、知名度ともブラッスールの方が上だったから立てたわけですが、映画はモンタンとナッティエのラヴ・ロマンスなのですからこのキャスト順もおかしい。本作を蹴ったディートリッヒとギャバンはジョルジュ・ラコンブ監督作品の『狂恋』'46に主演して、『狂恋』はあまり出来の良くない映画ですが大ヒット作になったので、商業的には本作を蹴り『狂恋』に出たディートリッヒとギャバンの判断は勘が当たったことになります。過去を引きずった男女の悲恋に終わるロマンスというプレヴェール脚本は今回はカルネにとっても不満で、監督デビュー作『ジェニイの家』'36以来のカルネ作品のプレヴェール脚本は本作が最後になります。
 この映画はミステリー映画ではないとはいえ徐々に登場人物たちの過去が明らかになり、人間関係が変化していき、全容が明らかになるという組み立てなので、あらすじを明かしては興をそぐでしょう。登場人物だけを役柄とともに上げておくと、主役の復員兵で元レジスタンス活動家主役ジャン・ディエゴにイヴ・モンタン。モンタンは本作が映画出演まだ2作目で、それも主役なのにクレジット順で3番目にされた理由でしょう。ディエゴはパリ解放から半年目、終戦の'45年2月にパリに着き、同じ部隊でレジスタンス活動を密告され処刑された鉄道員レイモン・レキュイエ(レイモン・ビュセール)の死をその夫人に報告に行きます。ここで第一のどんでん返しがあって、それがレキュイエ家の住むこのアパートに主人公を出入りさせドラマを展開させていくことになります。アパートの家主セネシャル(サテュルナン・ファーブル)は戦時中に親独派だったことで日和見主義者と評判の悪く、その息子の復員兵ギイ(セルジュ・レジアニ)は戦線の英雄だったと吹聴していますが復員兵たちからは嫌われています。アパートの隣人で子供15人の大家族の父の露天商キンキーナ氏(ジュリアン・カレット)が娘でクロワッサン売りのエチエネット(ダニー・ロバン)が恋人とのデートでしょっちゅういなくなるのにやきもきしており、映画の1/3すぎにレストランの窓越しに主人公は高級車に乗った美女マルー(ナタリー・ナッティエ)を見かけます。マルーは映画登場そうそう同乗している夫ジョルジュ(ピエール・ブラッスール)に離婚の決意を打ち明けます。以上の登場人物たちにいたるところで出会っては未来を予言し警告する謎の浮浪者のハーモニカ吹き「運命」と自称する男(ジャン・ヴィラール)がいて、謎の美女マルーが主人公とどういうつながりで出会うことになるのか、それがどういう具合に戦時中の事件の解明を含んだ愛憎メロドラマ悲劇に展開していくかが本作の見所ですが、上記の人物配置でもかなり強引なやり口がないと主人公の運命にドラマが収斂していかないのは察せられるでしょう。カルネとプレヴェールのアイディアは戦前の作風に戦後的要素を組み合わせるというものだったでしょうが、戦後的要素を戦後的題材として生に取り入れたのがメロドラマ性と上手くかみ合わなかったとも、当時の観客にはこういう形で戦後的題材を扱うのは違和感があったとも思われ、それが本作の興行的不振と不評につながったと考えられます。
 ――しかし判官贔屓かもしれませんが、『夜の門』はそうしたカルネの映画としては中途半端なところがカルネの映画が苦手な筆者には楽しめるので、本作は限られた登場人物で作中の短い経過時間内にドラマを圧縮するために無理な偶然がずいぶん目立ちますし、その辻褄合わせのように謎の予言者の浮浪者を狂言廻し的に登場させているのも効果は印象的ながら焦点はぶれてしまっている、計算や狙いが上手く合わなかったのが伝わってくる仕上がりです。日本ではカルネの戦時中~戦後作品は戦後にほぼ5年遅れで公開され、前々作『悪魔が夜来る』、前作『天井桟敷の人々』が日本公開されて好評だった時点でカルネ作品は本国ではギャバン主演作『港のマリィ』、ジェラール・フィリップ主演作『愛人ジュリエット』、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞作『嘆きのテレーズ』(昭和29年度キネマ旬報外国映画ベストテン第1位)まで進んでいたので『夜の門』は飛ばされてしまったか、復員兵の中の戦犯追及を含む内容から忌避された(おそらくフランス本国での不評もその点でしょう)と思えます。そうした時事的側面は現在では風化して単なる映画の歴史的背景になっているので、本作では映画冒頭で高架線の車中の主人公が謎の男「運命」に初めて話しかけられるシーンで列車窓外の流れる風景スクリーン・プロセスが拙くてカルネらしくもないとか、密告者の最期があまりに都合の良い因果応報だとか、完璧な職人芸で一分の隙もない完成度を誇ってきたカルネ最初の躓きでもあるわけです。また'30年代フランス映画の「詩的リアリズム」の最後の作品がカルネ&プレヴェールの監督&脚本コンビの終わりとなった本作『夜の門』と指摘し、「詩的リアリズム」に取って代わってフランス映画の主流になった「心理的リアリズム」はもっと悪いフランス映画の堕落と糾弾したのはのちにヌーヴェル・ヴァーグの監督になるトリュフォーやロメールでした。『夜の門』はカルネなりの戦後映画の試みだったと思いますが、一見器用な職人カルネも向き不向きの題材があり、本作の不手際はカルネも決して器用さだけで映画を作ってきたのではない証拠と見ればかえって本作には本作なりの良心を感じます。何よりイヴ・モンタンを始めとする配役が主演交替劇を感じさせないほどはまり役の俳優が演じていて、ヒロインのナタリー・ナッティエも好演です。ディートリッヒとギャバンだったら本作はもっと大時代的な映画になっていただろうと思えるので、この映画はモンタンとナッティエくらい線の細い若手俳優が適役で、その意味では脚本段階で出演を蹴ったディートリッヒの判断が本作の運命を左右したとも言えるかもしれません。

●9月18日(火)
『肉体の悪魔』Le diable au corps (Transcontinental Films, 1947)*117min, B/W : 1947年9月22日フランス公開(9月12日パリ公開)
監督:クロード・オータン=ララ(1901-2000)、主演:ミシュリーヌ・プレール、ジェラール・フィリップ
・第一次大戦中、まだ学生のフランソワは、年上で婚約者がいるマルトと恋に落ちる。出征中の婚約者が戻り、一度は別れた二人だったが……。若くしてこの世を去ったレイモン・ラディゲの小説が原作。

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 日本公開昭和27年(1952年)11月8日、キネマ旬報昭和27年度外国映画ベストテン第8位。この年は12月にやはりジェラール・フィリップ主演作のマルセル・カルネ監督作『愛人ジュリエット』'51がいち早く日本公開されており、日本でのジェラール・フィリップ主演作公開と人気が始まった年でもありました。のちの映画監督フランソワ・トリュフォー(1932-1984)が映画批評家時代に発表した記念碑的論文「フランス映画のある種の傾向」(「カイエ・デュ・シネマ」'54年1月号)はカルネの『夜の門』で終わった「詩的リアリズム」に代わってフランス映画の主流となった「心理的リアリズム」を文学作品を手当たり次第に「原作に忠実」と標榜しながらも恣意的な脚色で映画化する脚本家の映画とし、特にピエール・ボスト&ジャン・オーランシュの脚本家コンビの映画脚色が典型的なもので、そこで具体的に映画に即して批判・酷評している作品のひとつがこの『肉体の悪魔』です。トリュフォーの批判・酷評自体には賛否両論あるでしょうがこの時期フランス映画の話題作が有名文学作品の映画化企画中心になっていたのは指摘として見逃せず、またのちにこの時期真に優れた映画を作っていたと見なされるようになるのもトリュフォーが「心理的リアリズム」の「脚本家の映画」に対立する映画監督たちとして賞賛した「作家の映画」だったのも確かで、他にもオーランシュ&ボストを筆頭とする脚本家の脚色の特徴として原作小説にない(あっても暗示程度の)「反戦的場面」や「反カトリック的場面」を「脚色」する、という指摘は正当な批判でしょう。戦後フランスでは名作小説を「反戦・反カトリック的」に改作した映画が本来の意味で通俗的に受けていたということで、そうしたものは真摯に戦争や宗教について考えているのではなく世相風俗への媚びでしかないものであり、文学的にも純粋に映画的にもこれを文化と映画の退廃現象と見るのは良識であり正論です。ただし同時代にトリュフォーが憤ったその風潮が生んだ映画もフランス映画の一時期を代表する映画として観ると作品ごとにそれなりに見所もあるので、トリュフォーが「才能ある監督だがオーランシュ&ボスト脚本の『鉄格子の彼方』『禁じられた遊び』で才能を浪費している」と「心理的リアリズム」時代の監督では力量では第一人者としたルネ・クレマンなどはトリュフォーが上げる2作ですら脚本をねじ伏せてのけた曲者と言ってよく、また『肉体の悪魔』は本作以降何度も再映画化されますが(知られているだけで以降3回)初映画化である本作は作品自体は原作の設定にならって第一次世界大戦が背景ですが、捉えられているムードはこの映画化の行われた第二次大戦後のムードなので、のちの再三の改作映画化を知る現代の観客にはレイモン・ラディゲ(1903-1923)が17歳の時に書き上げていたとされる原作小説('23年刊)とは別物の翻案として観ることができるので、原作小説が小説ならではの抽象性で少年の自意識の心理ドラマとして読めるのに対して映画はもっと俗っぽい不倫メロドラマなので、ラディゲの原作からは「夫が出征中の若妻と高校生の不倫ドラマ」という設定と物語だけ借りてきただけとも言え、『肉体の悪魔』原作と名銘たなくとも派生作品は無数にあるでしょう。なにしろラディゲ原作と正式に謳った'70年代のにっかつロマンポルノ版もあるくらいで(現在は未成年淫行条令違反にひっかかるので自主規制がかかるか、映倫を通りませんが)、再映画化されるようになったのは著作権法期限が切れたからですが、本作は最初の映画化だったからこそ話題作にもなり、トリュフォーの攻撃も招いたのでしょう。日本公開時のキネマ旬報近着外国映画紹介は比較的控え目にあらすじを起こしています。
[ 解説 ] レイモン・ラディゲの同名の小説から「鉄格子の彼方」のジャン・オーランシュとピエール・ボストが協同脚色、「乙女の星」のクロード・オータン・ララが監督する一九四七年作品。撮影は「悪魔の美しさ」のミシェル・ケルベ、音楽は「二つの顔」のルネ・クロエレックの担当。主演は「呪われた抱擁」のミシュリーヌ・プレールと「輪舞」のジェラール・フィリップで、以下ジャン・ドビュクール、ドニーズ・グレー、ピエール・パローらが助演。
[ あらすじ ] 第一次大戦も終りを告げようとしていた頃、パリ近郊のリセに通学するフラソソワ・ジョーベエル青年(ジェラール・フィリップ)は学校に開設された臨時病院の見習看護婦マルト(ミシュリーヌ・プレール)と知り合った。彼女は出征兵ラコンブ軍曹(ジャン・ヴァラス)と婚約の間柄であったが、フランソワの強気な情熱に惹かれて動揺した。しかしこの恋は、フランソワの自制とマルトの母(ドニーズ・グレー)の牽制で中断され、フランソワが田舎へ逃避している間にマルトはラコンブと結婚した。半年後、再び学校でめぐり合った二人は再び燃上った。フランソワは家人にかくれてマルトのアパートを訪れ、のっぴきならぬ関係が生れた。恋を成就するため、すべてを戦線の夫に知らせようというフランソワと、それを肯じないマルトの意見が食違いながらも、二人は肉体の魔にひきずられつづけたが、この恋が戦争の終結と共に断ち切られなければならぬという想いは同じであった。こうしてマルトは妊娠した。それがかくせなくなった時、ついにマルトは夫にすべてを任せる気になった。フランソワには、それに抗う実力も勇気もなかった。別れの宴を思い出のレストランで過した二人は、はじめてランデヴウしたカフェに出かけ、ここで終戦の国歌を聞かねばならなかった。マルトは力つきて倒れ駆付けた母によってフランソワは引離されてしまった。凱旋した夫に手をとられつつ、産褥のマルトはフラソソワの名を呼びつつ、恋の結晶を残して死んで行った。
 ――本作はジェラール・フィリップの映画出演2年目、本数では3作目なのでキャストはヒロインのミシュリーヌ・プレールの方がトップです。トリュフォーは原作小説では単に駅で出会う主人公とヒロインを映画ではヒロインを看護婦助手にし高校の校舎を傷痍兵病院にして出会わせている脚色を難じていますが、日本公開時にも賛否両論呼んだ'86年のマルコ・ベロッキオ監督版ではクライマックスでは主人公とヒロインが起訴されヒロインが法廷でフェラチオを実演する、というほどの改作ぶりですし、'85年のオーストリアでの再映画化では第二次大戦後のオーストリアになっているそうですので、ジェラール・フィリップ版から40年も経つと原作離れはむしろ前提になったということで、前述した「夫が出征中の若妻と高校生の不倫ドラマ」という設定だけを踏襲していかにラディゲの原作とは違った作品に作り上げるかが眼目になるようになったのです。これはトリュフォーが糾弾したような原作の歪曲とは明確に次元を異なる発想なので、それだけ原作の古典化・形骸化が進みもはや改作でしか映画化できないものになったということでしょう。このオータン=ララ監督のジェラール・フィリップ版にしても設定は第一次世界大戦にもかかわらずムードは第二次大戦末期という感じなのは戦後の混乱ムードがよく出ているからで、戦前のフランス映画であれば'10年代末の雰囲気をまだ描けたでしょうがミシュリーヌ・プレール、ジェラール・フィリップとも演技の質が明らかに戦前フランス映画とは違う。第二次大戦後の映画と俳優ならではの粗っぽさがあって、映画前半1/3は快調なテンポで進み、ついに肉体関係に陥るのが映画のちょうど半分、55分目ですが、主要登場人物が極端に少ない映画なので後半は映画が進むごとにドラマ自体は停滞していき、主人公とヒロインの軽率さの方がだんだん鼻についてきて、結末もすっきりしません。期待させておいて尻すぼみに終わる映画なので出来が良いとはとても言えないのですが、主人公役のフィリップの魅力だけで持ってはいるので、文芸映画仕立てのアイドル映画みたいなものとしてはこれで十分とも言える。フィリップがアクションもこなせればもっと複雑なキャラクターを演じることもできる俳優なのは続く作品ですぐに実証されるので、本作は製作当時すでに24歳と高校生を演じるのはぎりぎりのフィリップの若さの強調のために逆に演技力より存在感に力点を置き、後半ドラマを平坦にしてでも(もともと原作自体が外的なドラマの起伏に欠けますから)ジェラール・フィリップ鑑賞映画として全うしていると言えます。登場人物の心理の説得力のない言動など突っ込みどころは多々ありますが、それをあげつらう映画ではないでしょう。本作公開時の高評価は、とにもかくにもフィリップの主演を得て旧来とは別の、フランス映画の戦後を感じさせる作品になったことに尽きると思われます。

現代詩の起源・番外編 / 西脇順三郎詩集『近代の寓話』より「無常」

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(創元社『全詩集大成・現代日本詩人全集13』昭和30年1月刊より、西脇順三郎肖像写真)

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詩集『近代の寓話』昭和28年(1953年)10月30日・創元社刊(外箱・表紙・裏表紙)

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  無 常           西脇順三郎

バルコニーの手すりによりかかる
この悲しい歴史
水仙の咲くこの目黒の山
笹やぶの生えた赤土のくずれ。
この真白い斜塔から眺めるのだ
枯れ果てた庭園の芝生のプールの中に
蓮華のような夕陽が漏れている。
アトリエに似たこのサロンには
ガンボージ色のカーテンがかかつている。
そこで古のガラスの洋杯を蒐める男が
東方の博士たちへ鉛とエナメルと
バラスターの説明をしていた。
饗宴は開かれ諸々の夫人の間に
はさまれて博士たちは恋人のように
しやがんで何事かしやべつていた。
ノーラは美しく酒をついだ。
(笹薮に雪がちらつと降って
雉子の鳴く声きけば
この失われた夜のことを憶うのだ。)
やがてもうろうとなり
女神の苦痛がやつて来たジッと
していると吐きそうになる
酒を呪う。
虎のように歩きまわる
ふと「古の歌」という本が
ひそかに見えたと思つて
もち出して読もうとするとそれは
《verres anciens》だつた。
客はもう大方去つていた。
とりのこされた今宵の運命と
かすかにおどるとは
無常を感ずるのだ
いちはつのような女と
はてしない女と
五月のそよかぜのような女と
この柔い女とこのイフィジネの女と
頬をかすり淋しい。
涙とともにおどる
このはてしない女と。

 (「GALA」昭和27年3月発表)


 詩集『近代の寓話』全52編で巻頭から10番目に置かれているこの「無常」も西脇順三郎の膨大な詩集中でもピークを示す傑作と名高い作品です。新倉俊一氏の『西脇順三郎全詩引喩集成』(筑摩書房・昭和57年9月刊)によるとこの詩は西脇が勤めていた慶応大学教授たちの家族パーティーに材を採っており、西洋グラスと浮世絵の蒐集家の家に集まった一夜の情景ですが、詩集表題作「近代の寓話」が教員の慰安温泉旅行に材を採りながら自然と死と永遠についての黙想になっていくのと同じ無常感への考察になります。書き出しの「バルコニーの手すりによりかかる/この悲しい歴史」からこの詩は決まっていますが、新倉氏が西脇順三郎に直接確かめた『西脇順三郎全詩引喩集成』によるとこれは『リルケ書簡集』(原著'47年刊)の挿画のミュゾット城にたたずむリルケの肖像写真から着想された詩行で、5行目「この真白い斜塔から眺めるのだ」の詩の舞台になっている上目黒の蒐集家の邸宅を呼び起こしています。11行目「東方の博士たち」は聖書のマタイ福音書の東方からの博士たちに、この詩の大学教授たちをなぞらえたものです。
 16行目「ノーラは美しく酒をついだ」は西脇順三郎が戦前のイギリス留学時から生涯愛読していたアイルランド出身の作家、ジェイムス・ジョイスの夫人の名前がノーラで、ジョイスは終生流浪の亡命生活を送った作家で、その夫人ノーラも波乱の生涯を送った女性で、2000年にはノーラ夫人の伝記映画映画『ノーラ・ジョイス 或る小説家の妻』(日本公開2001年)も製作されています。ジョイスは戦時中の'41年、ノーラ未亡人は'51年(この詩の前年)亡くなったので、ここでふと夫人たちの一人をノーラと呼んでみたのでしょう。21行目~25行目にかけて酒の悪酔いに襲われた詩人は26行目「ふと「古の歌」という本が」と、これはフランス語で「vers anciens」と見えたということで、ヴァレリーにも同名詩集('20年刊)がありますが、29行目「《verres anciens》だつた」つまり「古い本」ではなく「古いグラス」だったと来て、30行目~最終行40行目はギリシャ神話で女神アルテミスの恵みによって風に運ばれて救われたイピゲネイア(イフィジネ)への連想も含めて詩の大きなクライマックスになります。しかしそれら、この詩「無常」に動員された引喩の出典を知らずとも「無常」は率直で簡潔な感動を呼び起こすので、他人の家に招かれて飲み過ぎて後悔するなど成人男女なら誰にでもある経験ですが、この傑作「無常」を書けたのは西脇順三郎だけだったのは言うまでもありません。

ルー・ドナルドソン / クリフォード・ブラウン Donaldson/Brown - カーヴィン・ザ・ロック Carvin' the Rock (Blue Note, 1953)

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ルー・ドナルドソン / クリフォード・ブラウン Lou Donaldson / Clifford Brown - カーヴィン・ザ・ロック Carvin' the Rock (Elmo Hope, Sonny Rollins) (Blue Note, 1953) : https://youtu.be/eWNqOIGMEWw - 3:56
Recorded at WOR Studios, New York City, June 9, 1953
Released by Blue Note Records as the 10-inch album "Lou Donaldson/Clifford Brown - New Faces-New Sounds", BLP 5030, 1953
[ Personnel ]
Clifford Brown - trumpet, Lou Donaldson - alto saxophone, Elmo Hope - piano, Percy Heath - bass, Philly Joe Jones - drums

 エルモ・ホープ(ピアノ、1923-1967)はR&B畑でのレコーディングはありましたが(ボックス・セット『Atlantic Rhythm and Blues 1947-1974』に収録されています)モダン・ジャズの録音はブルー・ノート・レコーズでの起用が初めてで、4枚の10インチ・アルバム『Elmo Hope Trio - New Faces-New Sounds』'53、『Lou Donaldson/Clifford Brown - New Faces-New Sounds』'53、『Elmo Hope Quintet - New Faces-New Sounds, Volume 2』'54、『Lou Donaldson Sextet, Vol. 2』'54を残した後ブルー・ノートとの契約を失いました。この4作に収録された全24曲(全4曲中ホープ作曲1曲の『Lou Donaldson Sextet, Vol. 2』を除けば3作全20曲)中エルモ・ホープ自身のオリジナル曲は16曲で、うち今回の「カーヴィン・ザ・ロック」は唯一ソニー・ロリンズとの共作曲で(ホープは先輩ピアニストのセロニアス・モンク、学校で同級生だったバド・パウエルを通してロリンズと知りあい、ロリンズはホープの参加していたドナルドソン&ブラウン・クインテットの友人でもありましたから、ホープはのちにロリンズのアルバム『Moving Out』'54のサイドマンを勤めます)、『Elmo Hope Trio』でピアノ・トリオ(ピアノ、ベース、ドラムス)編成で初演され、『Lou Donaldson/Clifford Brown』ではアルバムのオープニング曲になりました。ドナルドソン&ブラウン・クインテットはブルー・ノート・レコーズの企画でホレス・シルヴァー(ピアノ)&アート・ブレイキー(ドラムス)・トリオと組まされてアート・ブレイキー・クインテットとしてライヴ録音の『At Night at The Birdland, Vol,1/2/3』を'54年2月に録音し、それをきっかけにドナルドソン&ブラウン・クインテットは解散、ドナルドソンとブラウンはそれぞれ独立し、シルヴァー&ブレイキーはホレス・シルヴァー・クインテット、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズに発展分岐していきます。そして仲間たちが皆出世し有力新人も続々デビューしてくる中で、尻すぼみ状態ながら晩年までほそぼそと活動を続けたのがエルモ・ホープというピアニストでした。
 先にエルモ・ホープ・トリオのデビュー作の方が出ていたドナルドソン&ブラウン・クインテットのデビュー作でも全6曲中ホープのオリジナル曲3曲、ドナルドソンとブラウンのオリジナル曲が1曲ずつ、1曲はスタンダードという配分で、オリジナル曲に関する限りホープの貢献の大きいバンドでした。しかしホープは「オリジナル曲はいいけどピアノの腕前は……」とあっという間にシーンの前線から押しのけられてしまい、マイルス・デイヴィスの晩年の自伝はさながら'30年代~'80年代ジャズマン人物史の観がある壮大なアメリカのジャズ界変遷史ですが、ホープの名前は1か所、マイルスが麻薬中毒で切羽詰まっていた'50年代前半にホープに頼んで調達してもらった、というエピソードだけです(当時ホープはジャズの仕事がなく売人をしていました)。このかっこいいハード・バップ曲「カーヴィン・ザ・ロック」は筆者が10年ほど前に未決囚監に収監されていた4か月の間、土日だけ流れるラジオ放送で唯一聴くことができた(偶然放送されていた)ジャズ曲でした。ああエルモ・ホープの曲だ、クインテットだからドナルドソン&ブラウン・クインテットのヴァージョンだ、と心の中で涙が流れました。結婚のための用事でさらにその10年前に秋田に出向いて、晩にホテルの部屋のラジオでかかった唯一のジャズ曲がアート・ブレイキー・クインテットの(『At Night at The Birdland』の、ホレス・シルヴァーのオリジナル曲)「Split Kick」でしたが、入獄したのは離婚がらみの事情だったので、結婚の時も離婚の時もこれかと思うと胸が裂けました。ジャズ聴いていて良かったなあ、と心から思えたひと時でした。人生の伴侶となる音楽とはそういうものです。

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Elmo Hope Trio - Carvin' the Rock (Blue Note, 1953) : https://youtu.be/KTinj7XTaSE - 2:57 (Track No.2)
Recorded at Van Gelder Studion in Hackensack, New Jersey, June 18, 1953
Released by Blue Note Records as the 10-inch album "Elmo Hope Trio - New Faces-New Sounds", BLP5029, 1953
[ Personnel ]
Elmo Hope - piano, Percy Heath - bass, Philly Joe Jones - drums

ルー・ドナルドソン / クリフォード・ブラウン - カーヴィン・ザ・ロック Carvin' the Rock (Blue Note, 1953)

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ルー・ドナルドソン / クリフォード・ブラウン Lou Donaldson / Clifford Brown - カーヴィン・ザ・ロック Carvin' the Rock (Elmo Hope, Sonny Rollins) (Blue Note, 1953) : https://youtu.be/eWNqOIGMEWw - 3:56
Recorded at WOR Studios, New York City, June 9, 1953
Released by Blue Note Records as the 10-inch album "Lou Donaldson/Clifford Brown - New Faces-New Sounds", BLP 5030, 1953
[ Personnel ]
Clifford Brown - trumpet, Lou Donaldson - alto saxophone, Elmo Hope - piano, Percy Heath - bass, Philly Joe Jones - drums

 エルモ・ホープ(ピアノ、1923-1967)はR&B畑でのレコーディングはありましたが(ボックス・セット『Atlantic Rhythm and Blues 1947-1974』に収録されています)モダン・ジャズの録音はブルー・ノート・レコーズでの起用が初めてで、3枚の10インチ・アルバム『Elmo Hope Trio - New Faces-New Sounds』'53、『Lou Donaldson/Clifford Brown - New Faces-New Sounds』'53、『Elmo Hope Quintet - New Faces-New Sounds, Volume 2』'54、『Lou Donaldson Sextet, Vol. 2』'54を残した後ブルー・ノートとの契約を失いました。この4作に収録された全24曲(1曲のみホープ作曲の『Lou Donaldson Sextet, Vol. 2』を除けば3作全20曲)中エルモ・ホープ自身のオリジナル曲は14曲で、うち今回の「カーヴィン・ザ・ロック」は唯一ソニー・ロリンズとの共作曲で(ホープは先輩ピアニストのセロニアス・モンク、学校で同級生だったバド・パウエルを通してロリンズと知りあい、ロリンズはホープの参加していたドナルドソン&ブラウン・クインテットの友人でもありましたから、ホープはのちにロリンズのアルバム『Moving Out』'54のサイドマンを勤めます)、『Elmo Hope Trio』でピアノ・トリオ(ピアノ、ベース、ドラムス)編成で初演され、『Lou Donaldson/Clifford Brown』ではアルバムのオープニング曲になりました。ドナルドソン&ブラウン・クインテットはブルー・ノート・レコーズの企画でホレス・シルヴァー(ピアノ)&アート・ブレイキー(ドラムス)・トリオと組まされてアート・ブレイキー・クインテットとしてライヴ録音の『At Night at The Birdland, Vol,1/2/3』を'54年2月に録音し、それをきっかけにドナルドソン&ブラウン・クインテットは解散、ドナルドソンとブラウンはそれぞれ独立し、シルヴァー&ブレイキーはホレス・シルヴァー・クインテット、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズに発展分岐していきます。そして仲間たちが皆出世し有力新人も続々デビューしてくる中で、尻すぼみ状態ながら晩年までほそぼそと活動を続けたのがエルモ・ホープというピアニストでした。
 先にエルモ・ホープ・トリオのデビュー作の方が出ていたドナルドソン&ブラウン・クインテットのデビュー作でも全6曲中ホープのオリジナル曲3曲、ドナルドソンとブラウンのオリジナル曲が1曲ずつ、1曲はスタンダードという配分で、オリジナル曲に関する限りホープの貢献の大きいバンドでした。しかしホープは「オリジナル曲はいいけどピアノの腕前は……」とあっという間にシーンの前線から押しのけられてしまい、マイルス・デイヴィスの晩年の自伝はさながら'30年代~'80年代ジャズマン人物史の観がある壮大なアメリカのジャズ界変遷史ですが、ホープの名前は1か所、マイルスが麻薬中毒で切羽詰まっていた'50年代前半にホープに頼んで調達してもらった、というエピソードだけです(当時ホープはジャズの仕事がなく売人をしていました)。このかっこいいハード・バップ曲「カーヴィン・ザ・ロック」は筆者が10年ほど前に未決囚監に収監されていた4か月の間、土日だけ流れるラジオ放送で唯一聴くことができた(偶然放送されていた)ジャズ曲でした。ああエルモ・ホープの曲だ、クインテットだからドナルドソン&ブラウン・クインテットのヴァージョンだ、と心の中で涙が流れました。結婚のための用事でさらにその10年前に秋田に出向いて、晩にホテルの部屋のラジオでかかった唯一のジャズ曲がアート・ブレイキー・クインテットの(『At Night at The Birdland』の、ホレス・シルヴァーのオリジナル曲)「Split Kick」でしたが、入獄したのは離婚がらみの事情だったので、結婚の時も離婚の時もこれかと思うと胸が裂けました。ジャズ聴いていて良かったなあ、と心から思えたひと時でした。人生の伴侶となる音楽とはそういうものです。

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Elmo Hope Trio - Carvin' the Rock (Blue Note, 1953) : https://youtu.be/KTinj7XTaSE - 2:57 (Track No.2)
Recorded at Van Gelder Studion in Hackensack, New Jersey, June 18, 1953
Released by Blue Note Records as the 10-inch album "Elmo Hope Trio - New Faces-New Sounds", BLP5029, 1953
[ Personnel ]
Elmo Hope - piano, Percy Heath - bass, Philly Joe Jones - drums

映画日記2018年9月19日・20日 /『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(10)

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 9月にまとめて観たコスミック出版の10枚組DVDボックス『フランス映画パーフェクトコレクション』既刊3集は『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界』既刊3集の続刊で、『天井桟敷の人々』『巴里の屋根の下』『舞踏会の手帖』の3集が今年5月~7月にかけて発売されましたが、9月末には『情婦マノン』が発売され、10月末の発売予定には『嘆きのテレーズ』が上がっており、以前コスミック出版からリリースされていた『フランス映画名作コレクション』から『ジャン・ギャバンの世界』に始まった既刊6集にまだ再収録されていない7作中、『うたかたの恋』'36、『北ホテル』'38『美女と野獣』'46は『情婦マノン』に再収録されましたし、残りの『海の牙』'47、『恐るべき子供たち』'50、『嘆きのテレーズ』'53、『恐怖の報酬』'53、また既刊の『音楽映画コレクション』『戦争映画パーフェクトコレクション』『史劇映画パーフェクトコレクション』などでもフランス映画の古典を発売しているので、『楽聖ベートーヴェン』'36、『海の沈黙』'49、『黄金の馬車』'52などが順次収録されると思われます。『情婦マノン』の巻の収録作品は以下10作品です。
[ フランス映画パーフェクトコレクション~情婦マノン] 1.『肉体の冠』'52、2.『悪魔の美しさ』'50、3.『北ホテル』'38、4.『旅路の果て』'39、5.『ピクニック』'36、6.『女だけの都』'35、7.『情婦マノン』'49、8.『罪の天使たち』'43、9.『美女と野獣』'46、10.『うたかたの恋』'36
 続刊の『フランス映画パーフェクトコレクション』も数巻まとまったところでまとめて観直し感想文を載せたいと思います。なお今回も作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。

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●9月19日(水)
『パルムの僧院』La Chartreuse de Parme (Les films Andre Paulve, Scalera Film, 1948)*166min, B/W : 1948年2月21日イタリア公開・5月21日フランス公開
監督:クリスチャン=ジャック(1904-1994)、主演:ジェラール・フィリップ、ルネ・フォール、マリア・カザレス
・エルネスト4世の圧政に苦しむパルム公国。ファブリスはナポリから帰省し、叔母ジーナのもとを訪れる。ジーナは逞しい美青年に成長した甥に恋心を抱くが……。文豪スタンダールの『赤と黒』と並ぶ代表作の映画化。

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 日本公開昭和26年(1951年)2月6日(日本公開版134分)、ジェラール・フィリップ主演作ではこの年12月にルネ・クレール監督作『悪魔の美しさ』'50が公開されますが、ミシェル・シモンの老ファウスト博士が悪魔との契約でジェラール・フィリップ演じる美青年アンリになる趣向の二人一役劇『悪魔の美しさ』はキネマ旬報外国映画ベストテン第6位と批評家には好評だったものの興行成績は不振で、フィリップの人気は翌昭和27年公開の『肉体の悪魔』'47からになるそうです。この『パルムの僧院』も文芸映画扱いだったので、伊仏合作の大作とはいえキャストにもまだ馴染みのない時代劇ということもあってまだフィリップのブレイク作にはならなかったようです。オリジナルは現行DVD通り3時間近い大作ですが日本公開は国際公開版の134分と30分以上の短縮があり、筆者は短縮版の方は観たことがありませんがオリジナル版は長さを感じさせないすこぶる快調な仕上がりです。監督クリスチャン=ジャックは5年後にフィリップ主演作の楽しいチャンバラ時代劇『花咲ける騎士道』'52をヒットさせますが、スタンダールの2大傑作でも『赤と黒』よりはぐっと渋い『パルムの僧院』を映画化した監督手腕は重量級の名作をさらっと見せる脚色・演出でこれもありかな、というものなので、原作小説は専制時代の政治小説でもあれば時代に翻弄されて主人公の青春の夢が挫折をたどる歴史の無常を描いた失意の物語でもあるのですが、そういう細かい情感は小説読者の読みこみに任せて事件に次ぐ事件で宮廷陰謀活劇に仕立てたのはそれも見識であって、ベルナルド・ベルトルッチの『革命前夜』'64がのちに現代イタリアに『パルムの僧院』を本案して主人公を挫折するコミュニストにし、伯母との近親相姦的恋愛を押し出して『パルムの僧院』本来の時代閉塞感の表現にかなりの成功を収めたのとはクリスチャン=ジャックの「映画で楽しむ名作文学」的アプローチはサイレント映画時代にまでさかのぼるような発想でまるで逆ですが、それがとかく映画に現代的な問題性を持ちこみたがる傾向のある戦後映画の中ではさっぱりした味わいをもたらしていて、文学作品『パルムの僧院』は読者にとって人生の書となるような大小説ですがそれだけに映画は宮廷陰謀活劇でも別に構わないという気がします。本作のキャストはルネ・フォールがトップでフィリップが二番目、皇帝役のルイ・サルーが三番目で主人公の庇護者の伯母役のマリア・カザレスが四番目ですが、フィリップは二番目でよくてもルネ・フォールとマリア・カザレスは役柄の重要さからも逆じゃないかと思え、皇帝役のルイ・サルーはドラマ上では単に機能的な役割しかない人物です。映画の主人公はフィリップ、もっとも重要なヒロインはカザレスなのは一目瞭然で、これも複雑な原作から適度に枝葉を払って物語の見晴らしを好くした効用です。製作年・本国公開年は本作より前の『天井桟敷の人々』や『肉体の悪魔』でカザレスやフィリップが日本に馴染みがあれば本作はもっと話題になった作品と思われ、文芸映画としては軽すぎ娯楽時代劇としてはやや派手さに乏しい(映画後半は主人公はずっと獄中です)のがいまひとつ本作が注目されなかった原因でしょう。こうした作品ではカラー映画だったらもっと映えていたとも思われ、イタリアやフランスの観客には落ちついたB/W映像でも十分に色彩感をイメージできるとしても日本人観客に19世紀イタリア初頭の色彩をB/W映像からイメージするのは難しいので、アメリカ映画でもカラー化が早かったのは現代劇では少なく、歴史映画と(やはり歴史劇である)西部劇からでした。キネマ旬報近着外国映画紹介はあらすじに人物の取り違えが散見されるので、訂正してご紹介します。
[ 解説 ] スタンダールの『パルムの僧院』の映画化で、脚本はフランスの探偵小説家ピエール・ヴェリ、ピエール・ジャリ、クリスチャン・ジャックの共同執筆で、台詞もヴェリが担当している。監督は「幻の馬」「カルメン(1946)」「幻想交響楽」のクリスチャン・ジャック、撮影は「偽れる装い」「密告」のニコラ・エイエ、音楽はレンツォ・ロッセリーニ、装置ドオボンヌ、衣裳アンネンコフというスタッフで、「王様」「オルフェ」のアンドレ・ポオルヴェ・プロダクション一九四八年度の作品である。主演者は「すべての道はローマへ」のジェラール・フィリップ、我が国に初登場のマリア・カザレス(本映画によりロカルノ映画祭女優演技賞を得ている)、「憂愁夫人」のルネ・フォール、「火の接吻」のルイ・サルー以下、アッチリオ・ドッテジオ、チュリオ・カルミナチ、リュシアン・コエデル、ルイ・セニエ、マリア・ミキ、エンリコ・グロリ、アルド・シルヴァーニ、クラウディオ・ゴーラ等が助演している。
[ あらすじ ] ナポリで気楽で放縦な学生々活を終え故郷のパルム(パルマ)に帰って来たファブリス(ジェラール・フィリップ)は伯母のサンセヴェリナ公爵夫人(マリア・カザレス)に迎えられた。数年ぶりに見る甥の姿に、肉身としての彼女の愛情は忽ち激しい恋心に変った。小胆で愚かなエルネスト四世(ルイ・サルー)が権力を振うパルムの宮殿で、大夜会が催された折典獄ファビオ・コンチ(アルド・シルヴァーニ)の娘クレリア(ルネ・フォール)もファブリスの面影を深く心に焼きつけた。だが彼女には大金特の四十男クレサンジ侯爵(クラウディオ・ゴーラ)という婚約者があった。エルネスト四世は公爵夫人に夢中であったが、彼女はとり合わず、ひたすらファブリスに思いを燃した。警視総監ラッシ(リュシアン・コエデル)は、公爵夫人の情人である総理大臣モスカ伯爵(チュリオ・カルミナチ)を憎み、彼の追放を策していた。ファブリスは可憐なマリエッタ(マリア・ミキ)という女優と恋し合ったが、彼女の前の恋人の道化役者ジレッチ(エンリコ・グロリ)に発見されたとき彼を刺し殺してしまった。ファブリスは捕われ城砦に幽閉された。彼は独房の小窓から見える庭園に清らかなクレリアの姿を見出して心を慰めていたが、毎日顔を合わす若い二人の間には無言のうちに、いつかはげしい恋が生れた。ラッシの陰謀でファブリスは二十年の禁固刑を宣告された。公爵夫人は大公の卑劣さを面罵し、自分の力で彼を脱獄させよぅと決心した。クレリアもまたファブリスを毒殺するという計画を獄卒グリロ(ルイ・セニエ)から聞き、炭焼党の首領フェラント・パラ(アッチリオ・ドッテジオ)に助力を求めた公爵夫人に加担してファブリスを脱獄させた。この事件でクレリアの父は罷免され、彼女はクレサンジ侯と結婚せねばならなかった。サンセヴェリナ公爵夫人はファブリスを追手の届かぬマジュール湖畔に伴って静養させたが、ファブリスが今も深くクレリナを恋していることを知ると、彼女の結婚の近いことを告げて諦めさせようとした。ファブリスは身の危険をかえりみずパルムに走ったが、再び捕えられた。公爵夫人は彼を救うため大公の意に屈したが、直後、彼女に思いを寄せるフェラント・パラが大公を暗殺した。間もなく彼女はモスカ伯爵と結婚し、空しい幸福を求めて遠くパルムの国外へと去った。クレリアに再会したファブリスは、ただ一度最後に許し合っただけで、彼女の幸福を乱さないために、パルムの僧院の奥深く身をかくした。
 ――この通り、あらすじだけなら原作小説『パルムの僧院』を圧縮簡略化したものなのですが、原作の粛々としたムードはジェラール・フィリップとマリア・カザレスのはじけた演技と溌剌とした存在感で一新されています。スタンダールは伯母の公爵夫人と甥の若いファブリス侯爵に近親相姦的愛情を託したと思われますし、それをもっと濃厚にしたベルトルッチの『革命前夜』はスタンダールの政治的挫折感の反映でも的はずれな解釈ではないのですが、フィリップのファブリスはもっと気分屋で軽率気楽な夢想家ですし、カザレスの公爵夫人は皇帝を手玉に取るほどあまりに堂々とした風格なので甥っ子のやんちゃ坊主とは養母と養子の愛情(しかも坊主の方は甘えん坊なので大してありがたがっていない)くらいに見え、行動も非常に理性的で現実的です。簡略化されているにせよ言動は原作小説通りなのに俳優を通して肉体化されるとこれほど根本的な性格から異なってしまうのも映画ならではの面白い現象で、脚本はジャック・ベッケルの佳作『赤い手のグッピー』の原作・脚本家ピエール・ヴェリと監督クリスチャン=ジャックの共作ですが、同じ脚本でもこれをもしファブリス役にダニエル・ジェラン、公爵夫人役にアルレッティを配していたらもっと翳りのある映画になっていたはずで、その方が原作のムードには近いかもしれませんが後味に澱の残るような作品にもなっただろうと思えます。イタリア・フランス混合スタッフ&キャストで原作と監督と主演はフランス人でも、公開もイタリア先行だったようにこれはイタリアが舞台のイタリア映画をフランス人が作った作品と見た方がよく、その場合本作の内容には軍事政権から解放されたイタリアの気分に即した時事的な側面もあるかもしれませんし、3時間近い規模、前後編に分かれる構成といいイタリア版『天井桟敷の人々』のようなものを、というイタリア側からのリクエストがあったかもしれません。だとしたら本作のあっけらかんとした仕上がりはかえってなかなかの見識なのではないか、とも思えてきます。そうして見れば本作も端役にいたるまでの人物配置や生かし方も堂に入ったもので、繊細な人間ドラマというより人を食った歴史絵巻としての大味な面白みがあります。それがサイレント時代の映画のような大味さでも構わないではありませんか。

●9月20日(木)
『双頭の鷲』L'Aigle a Deux Tetes (Les Films Ariane, Sirius Films, Les Films Vog, 1948)*87min, B/W : 1948年9月22日フランス公開
監督:ジャン・コクトー(1889-1963)、主演:エドウィジュ・フィエール、ジャン・マレー
・警官に追われた反体制派の青年が女王の部屋に逃げ込んできた。女王はその青年が亡き国王に瓜二つだったため、召使いとして任命する。その青年との間で芽生える恋の行方は……。J・コクトー監督の渾身の傑作。

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 日本公開昭和28年(1953年)6月24日、この年度のキネマ旬報外国映画ベストテンは1位『禁じられた遊び』、2位『ライムライト』、3位『探偵物語』、4位『落ちた偶像』、5位『終着駅』、6位『静かなる男』、7位『シェーン』、7位(タイ)『文化果つるところ』、9位『忘れられた人々』、10位『超音ジェット機』で、イギリス映画が3本(『ライムライト』もイギリス先行公開なのを入れれば4本)も入っているのも珍しいですし、フランス映画が1位作品のみなのも珍しいですが、コクトーの本格的商業映画第2作の本作はルネ・クレマンが監督補(実質的に共同監督)を勤めた前作『美女と野獣』'46から飛躍的に完成度を高めた傑作です。コクトーの監督作は戦前の実験映画『詩人の血』'32を含めて7作ありますが、この『双頭の鷲』が映画としては水際立っているのではないか。コクトーの映画では親しみやすさとインパクトでは『美女と野獣』と『オルフェ』'50が双璧をなし、コクトー自身が主演した自作自演の生前葬的異色作『オルフェの遺言』'60も鮮やかな作品でした。ミケランジェロ・アントニオーニが'79年に15年ぶりにモニカ・ヴィッティを起用して撮ったTVムーヴィー『オーバーヴァルトの秘密』は本作のリメイクですが、『双頭の鷲』は'46年初演のコクトー自身の舞台劇の映画化であるとしても渋さもここに極まれり、といった内容です。ヒロインの未亡人である王妃(エドウィジュ・フィレール)と、亡き王にそっくりの暗殺者の青年(ジャン・マレー)がヒロインと主人公ですが、1時間半の上映時間中ジャン・マレーが登場するまでが約30分、それまでは王宮に出入りする人物が描かれるだけでドラマらしい動きがまったくない、という徹底ぶりです。ジャン・マレーが登場後、この自分に差し向けられた暗殺失敗者を匿うのを決めた王妃によって徐々に冒頭30分の王宮関係者たちがいかに王妃暗殺の策謀をめぐらしているか、マレーはその陰謀の実行犯に利用されただけであるかが明かされていき、ドラマらしい動きのなかった冒頭30分がいかに用意周到に一触即発の人物配置を描いていたかがわかってくる。それとともに王妃が置かれたのっぴきならない立場も明らかになってきて、ジャン・マレーが暗殺に失敗しても王宮全体が王妃の死を策謀している状態は変わらず、暗殺未遂者のマレーを生かして王妃が仕えさせているうちはむしろ王宮側ではそれ以上の手は打てない、という皮肉な事態になったことも明かされます。この千日手のような事態を巧みに描き、室内劇でもあり台詞劇でもありながら密度の高い映像で画面に見入らせてしまうコクトーの腕前は台詞監修を担当したブレッソンの『ブローニュの森の貴婦人たち』そこのけで、本作について言えばフェデーやカルネのような叩き上げの技巧派監督でもこうはいくまいというほどの冴えきった切迫感がある。自作戯曲の映画化でも舞台劇的な演出ではまったくなく、逆にこの映画を舞台化しろと言われたら達者な劇作家ほど困惑するでしょう。キネマ旬報の近着外国映画紹介でも本作の内容紹介は難題だったらしく、『双頭の鷲』の倍以上の長さの『天井桟敷の人々』の倍近い長さの紹介文を載せています。
[ 解説 ]「美女と野獣」と同じくジャン・コクトーが脚本を書きおろし、自ら監督した一九四七年作品。撮影は「旅路の果て」「血の仮面」のクリスチァン・マトラが監督、音楽は「美女と野獣」「ルイ・ブラス」のジョルジュ・オーリックが作曲、美術監督は「美女と野獣」「ルイ・ブラス」のクリスチャン・ベラール、装置担当も同様ジョルジュ・ヴァケヴィッチである。主演は「しのび泣き」「フロウ氏の犯罪」のエドウィジュ・フィエールと「美女と野獣」「ルイ・ブラス」のジャン・マレーが、コクトオ原作の舞台劇と同じく顔を会わせる。助演は練達のジャン・ドビュクール及びジャック・ヴァレンヌ、舞台にも映画にも活躍しているシルヴィア・モンフォール「ルイ・ブラス」のジル・ケアン、エドワード・スターリング、アブダラー等である。
[ あらすじ ] 女王(エドウィジュ・フィエール)は絶世の美人の誉が高いけれども十年このかたベールに面を包んで、近衛の仕官達はもとより侍従のものもほとんど女王の面影に接した者はない。女王が愛するフレデリック王と結婚の祝典を挙げたのは、ちょうど十年前しかも密月を過そうとクランツの城へ赴く途中王は駅馬車の中で暗殺されたのである。それ以来十年、不思議に国民の信頼を得て覆面の女王は国を治めて来たのである。これを痛くも憎んだのは亡き王の母君の大公爵夫人(イヴォンヌ・ド・ブレー)である。彼女におもねって権勢を得ようとする警視総監フェーン伯爵(ジャック・ヴァレンヌ)は、秘密出版物を利用して女王を中傷するかたわら、偽の無政府主義者を買収して女王暗殺の機械をねらっている。若い熱心な無政府主義者のスタニスラス(ジャン・マレー)は、君主専政の封建制度を覆さんと考え、アヅラエルというペンネームで女王誹謗の詩を書き、フェーン伯一脈にそそのかされて、女王暗殺を志しているというのは、スタニスラスが故フレデリック王に生き写しの顔なので、女王に近ずかせる便宜になると思ったからである。女王が思いでのクランツの城へ行った夜、伯の命令で折からの雷雨の中を警察と犬に追われてスタニスラスはクランツ城の女王の部屋に飛込んだのである。その夜は女王が催した舞踏会の夜で、多くの客が招待されて来たが女王は侍女エディット(シルヴィア・モンフォール)を代理として出席させ、自らは部屋にとじこもった。亡夫が愛したワルツの音を聞きながら女王はあたかも故王と相対しているが如く盃を挙げ、亡き人に話かけているところへ、手傷を追って息も絶え絶えのスタニスラスが転げ込んで来たのである。女王は彼が何者であるか、その使命が何であるか知っている。彼こそは女王が十年間待ち望んでいた死の運命の使者なのである。彼女を愛する夫の許へ導いてくれる死の天使なのである。女王は死の天使を手厚く介抱する。この美しい女王をスタニスラスは殺す術を知らぬ。女王はエディットの代りに彼を「読書役」に任命する。こうして女王と故王に生写しの暗殺者との間に、不思議な愛が生れ、女王はエディットも侍従長フェリックス・ヴィレンシュタイン公爵(ジャン・ドビュクール)もともに大公爵夫人のスパイであること、スタニスラスはフェーン伯爵に使われている人形にすぎないこと等、恐ろしい宮廷の実状を話し、自らの不幸を嘆ずる。女王が黒人の召使い(アーメット・アブダラー)をつれて朝の遠乗りに出掛けている間に伯爵はスタニスラスに使命を果せば自由を与えようという。一時に女王は帰京される。それまで待ってくれと彼は答える。女王が遠乗から帰ると毒薬入の指輪が見えない。城の前庭には供奉の近衛兵が既に勢ぞろいしている。毒を仰いだスタニスラスが女王に愛の言葉をもとめると、下野の分際で無礼であろう、下らぬとむち打つぞ、女王はうそをつくのがクレオパトラ以来の習わしじゃという。逆上した男は短剣を女王の背に突き立てる。殺してほしい故にののしった、私はそなたを愛する――女王はそういうと刺されたまま階段を上って窓辺から近衛の兵隊に敬礼を返し、はたと倒れる。スタニスラスは女王の許へと駆け上ったが毒が回って力尽き階段からころげ落ちて息絶える。
 ――最小限に動きのないドラマの底流に怒涛のマグマが渦巻いているような、このじれったい千日手の結末はいわば無理心中で終わるわけで、終わりのないのが千日手ですからもういずれにせよ殺されるか、みずから死を選ぶかしかないヒロインにとって、最愛の相手に殺されるというのが唯一のハッピーエンドになるので、戦前のイメージからは軽薄才子のモダニストだったようなコクトーが実はギリシャ悲劇からフランス古典悲劇までの正統的悲劇の発想を押さえていたのを示すドラマになっています。しかしこれを発想したとしても戯曲、その上映画化もするとなるとコクトー自身による監督だから企画が通ったようなもので、他の監督では引き受け手がいないか映画化そのものが見送られてしまったでしょう。国際的成功を収めたメルヘン的趣向の作品『美女と野獣』は本作製作のための布陣だったのかもしれないと思うほどこれは映画化そのものが挑戦ですが、コクトー映画の目印とも言える『オルフェ』につながっていく鏡もちゃんと出てきますし、王妃と暗殺者が「双頭の鷲」という対照・対応関係も『美女と野獣』の変型なので、観ているうちは全体がつかめず記憶の中で整理され、観直した時に驚嘆するような仕掛けが全編にあります。ジャン・マレーが少し出るのが20分目あたり、負傷して王妃の前に転がり出るのがさらに10分後ならば、このヒロインの王妃も冒頭20分ヴェールで顔を隠したままですし、結末の背中に刺さるナイフ、階段を転落するジャン・マレーを追うカメラ自体の階段落ちなど一瞬たりとも気が抜けない張りつめた映画で、この質感はフランス映画には違いなくてもコクトーの映画以外には'30年代~'50年代を通して似たものがなく、これもむしろ'20年代のサイレント時代の映画からの(クリスチャン=ジャックの『パルムの僧院』のサイレント的大味さとも違う)直接のコクトー流発展のように見えるのです。

暫定版・2018年秋アニメ(10月~12月)首都圏版放映リスト

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 まだ新番組の第1話が完全に出揃いませんが、2018年も10月~12月の秋アニメが始まりましたので、一昨日分までさかのぼって先1週間の首都圏夜アニメ放映リストをまとめておきます。今週放映で終わる『オーバーロードIII』『天狼 Sirius the Jaeger』の後番組、10/4(木)の「番組内容未定/TOKYO MX 1 22:00~22:30」がまだ判明しませんが、来週にはほぼ完全なリストにまとめ直せると思います。首都圏以外の地方局でも曜日・時間帯は多少異なるとしても新番組のラインナップは同一なので、ご参考までにご覧ください。再放映が多い今季ですが、一昨日・昨日に第1話放映済みの『DOUBLE DECKER! ダグ&キリル』『あかねさす少女』はどちらもなかなか面白かったです。

●日曜日(9/30)

第3期放送開始記念特番『劇場版 とある魔術の禁書目録-エンデュミオンの奇蹟-』
TOKYO MX 1 19:00~21:00

「ISLAND」傑作選(2)
TOKYO MX 1 22:00~22:30

[新]DOUBLE DECKER! ダグ&キリル #1
TOKYO MX 1 22:30~23:00

[再]ラブライブ!サンシャイン!!TVアニメ2期 #1「ネクストステップ」
TOKYO MX 1 23:00~23:30

もう一度見たいあそびあそばせ
TOKYO MX 1 23:30~00:00

はねバド! #13「あの白帯のむこうに」[終]
TOKYO MX 1 00:00~00:30

バキ #14「許されぬ自由」
TOKYO MX 1 00:30~01:00

銀魂「くわっ」
テレビ東京 1 01:35~02:05

●月曜日(10/1)

[再]ドキドキ!プリキュア #30「最後の試練!伝説のプリキュア!」
TOKYO MX 2 17:00~17:30

[再] 幽☆遊☆白書 #66「戸愚呂の償い・一番の望み」[終]
TOKYO MX 1 19:00~19:30

[新] [再] 交響詩篇エウレカセブン #1「ブルーマンデー」
TOKYO MX 1 19:30~20:00

兄に付ける薬はない!2-快把我哥帯走2- #13
TOKYO MX 1 21:54~22:00

[新]Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀2 ★第一話「仙鎮城」
TOKYO MX 1 22:00~22:30

[新]あかねさす少女 #1
TOKYO MX 1 22:30~23:00

DOUBLE DECKER! ダグ&キリル #1[再]
TOKYO MX 1 23:00~23:30

[新]転生したらスライムだった件 #1
TOKYO MX 1 00:00~00:30

「蒼天の拳」第2期放送直前特番[多]
TOKYO MX 1 00:30~01:00

[新]宇宙戦艦ティラミスII #1
TOKYO MX 1 01:00~01:10

[新]転生したらスライムだった件「暴風竜ヴェルドラ」
tvk 1 01:00~01:30

キャプテン翼 第27話「栄光の瞬間」
テレビ東京 1 01:50~02:20

[新]軒轅剣・蒼き曜 第1話「濫觴之故」
テレビ東京 1 02:20~02:50

●火曜日(10/2)

[再]ドキドキ!プリキュア #31「大貝町大ピンチ!誕生!ラブリーパッド」
TOKYO MX 2 17:00~17:30

アニメの神様『ドラゴンボールZ』 #270「次元に亀裂!!ブウがキレちゃった!?」
TOKYO MX 1 22:00~22:29

アニメの神様『新機動戦記ガンダムW』 #32「死神とゼロの対決」
TOKYO MX 1 22:29~23:00

[再]転生したらスライムだった件 #1
TOKYO MX 1 23:00~23:30

オーバーロードIII #13[終]
TOKYO MX 1 00:30~01:00

[新]人外さんの嫁 #1
TOKYO MX 1 01:00~01:05

[新][再]僕の彼女がマジメ過ぎるしょびっちな件 #1「やっ、そんなに広げないで下さい…」
tvk 1 01:00~01:30

[再]やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続 #9「そして、雪ノ下雪乃は」
TOKYO MX 1 01:05~01:35

[新]風が強く吹いている #1 AnichU
日テレ 1 01:34~02:04

[新][再]おそ松さん 第1話「ふっかつ おそ松さん」
01:35~02:05
テレビ東京 1

中間管理録トネガワ Agenda13 AnichU
日テレ 1 02:04~02:34

●水曜日(10/3)

[再]ドキドキ!プリキュア #32「マナ倒れる!嵐の文化祭」
TOKYO MX 2 17:00~17:30

[再]カードファイト!!ヴァンガード #22「本気のファイト」
TOKYO MX 1 19:00~19:28

[再]魔法つかいプリキュア! #48「終わりなき混沌!デウスマストの世界!!」
TOKYO MX 1 19:28~19:55

[新]ほら、耳がみえてるよ! #1
TOKYO MX 1 22:24~22:30

[再]B-PROJECT~鼓動*アンビシャス~ #1「BOYS MEET GIRL」
TOKYO MX 1 23:30~00:00

[新]ソラとウミのアイダ ★第1話「宇宙でサカナをとっちゃうぞ!」
TOKYO MX 1 00:00~00:30

[再]エロマンガ先生 #1「妹と開かずの間」
TOKYO MX 1 00:30~01:00

カードファイト!!ヴァンガード「本気のファイト」
tvk 1 01:00~01:30

[新]RErideD-刻越えのデリダ- #1
TOKYO MX 1 01:05~01:35

●木曜日(10/4)

[再]ドキドキ!プリキュア #33「ありすパパ登場!四葉家おとまり会!」
TOKYO MX 2 17:00~17:30

[再]Yes!プリキュア5 #47「ドリームコレットを取り戻せ!」
TOKYO MX 1 19:00~19:30

番組内容未定
TOKYO MX 1 22:00~22:30

[再]RErideD-刻越えのデリダ- #1
TOKYO MX 1 22:30~23:00

バンドリ!TV
TOKYO MX 1 23:00~23:30

天狼 Sirius the Jaeger #12[終]
TOKYO MX 1 23:30~00:00

[新]ゾンビランドサガ #1
TOKYO MX 1 00:00~00:30

[新]神ノ牙-JINGA- ★episode00
TOKYO MX 1 00:30~01:00

[新][再]からかい上手の高木さん #1「消しゴム」「日直」「変顔」「百円」
tvk 1 01:00~01:30

[再]BanG Dream! ガルパ☆ピコ
TOKYO MX 1 01:20~01:35

アニ☆ステ ★古坂大魔王と超特急リョウガが送るアニソンランキング番組
TOKYO MX 2 01:30~02:00

[新]学園BASARA 第1話[字]
TBS 1 01:43~02:13

[新]BAKUMATSU 第1話[字]
TBS 1 02:13~02:43

●金曜日(10/5)

[再]ドキドキ!プリキュア #34「ママはチョーたいへん!ふきげんアイちゃん!」
TOKYO MX 2 17:00~17:30

[新]火ノ丸相撲 #1
TOKYO MX 1 22:00~22:30

[新]やがて君になる #1
TOKYO MX 1 22:30~23:00

[新]抱かれたい男1位に脅されています。 #1
TOKYO MX 1 00:00~00:30

[新]とある魔術の禁書目録III #1
TOKYO MX 1 00:30~01:00

[新]ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風 #1[デ]
TOKYO MX 1 01:05~01:35

[新]宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち
テレビ東京 1 01:23~01:53

[新]おこしやす、ちとせちゃん #1
TOKYO MX 1 01:35~01:40

[新]寄宿学校のジュリエット #1【アニメイズム】[字]
TBS 1 01:40~02:10

[新]うちのメイドがウザすぎる! #1
TOKYO MX 1 01:40~02:10

[新]色づく世界の明日から #1【アニメイズム】
TBS 1 02:10~02:40

●土曜日(10/6)

[再]はたらく細胞 ★第1話「肺炎球菌」
TOKYO MX 1 21:00~21:30

[新]となりの吸血鬼さん #1
TOKYO MX 1 22:00~22:30

カードファイト!!ヴァンガード #23
TOKYO MX 1 22:30~23:00

22/7 計算中
TOKYO MX 1 23:00~23:30

[新]青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない #1
TOKYO MX 1 23:30~00:00

[新]ソードアート・オンライン アリシゼーション #1
TOKYO MX 1 00:00~01:00

[新]SSSS.GRIDMAN #1
TOKYO MX 1 01:00~01:30

[新]ゴブリンスレイヤー ★第1話「ある冒険者たちの結末」
TOKYO MX 1 01:30~02:00

●日曜日(10/7)

HUGっと!プリキュア[デ][字]
テレビ朝日 08:30~09:00


月刊ブシロードTV with トリモン & BanG Dream!
TOKYO MX 1 11:00~11:30

[再]フューチャーカード バディファイト #14「気高き心!竜騎士と共に!!」
TOKYO MX 1 11:30~12:00

[新]ユリシーズ ジャンヌ・ダルクと錬金の騎士 #1
TOKYO MX 1 22:00~22:30

[新]DOUBLE DECKER! ダグ&キリル #2
TOKYO MX 1 22:30~23:00

[再]ラブライブ!サンシャイン!!TVアニメ2期 #2「雨の音」
TOKYO MX 1 23:00~23:30

[新]RELEASE THE SPYCE #1
TOKYO MX 1 23:30~00:00

[新]アニマエール! #1
TOKYO MX 1 00:00~00:30

バキ #15
00:30~01:00
TOKYO MX1

[新]終電後、カプセルホテルで、上司に微熱伝わる夜。 ★第1話
TOKYO MX 1 01:00~01:05

[新]ガイコツ書店員 本田さん #1
TOKYO MX 1 01:35~01:50

銀魂[終]「悪役にもやっていい事と悪いことがある」
テレビ東京 1 01:35~02:05
テレビ東京 1

[新]ひもてはうす #1
TOKYO MX 1 01:50~02:05

●月曜日(10/8)

[再]アニマエール! #1
TOKYO MX 1 19:00~19:30

[新][再]交響詩篇エウレカセブン #2「ブルースカイ・フィッシュ」
TOKYO MX 1 19:30~20:00

兄に付ける薬はない!2-快把我哥帯走2- #14
TOKYO MX 1 21:54~22:00

[新]あかねさす少女 #2
TOKYO MX 1 22:30~23:00

[新]ゴールデンカムイ #13
TOKYO MX 1 23:00~23:30

転生したらスライムだった件 #2
TOKYO MX 1 00:00~00:30

[新]蒼天の拳 REGENESIS #13
TOKYO MX 1 00:30~01:00

宇宙戦艦ティラミスII #2
TOKYO MX 1 01:00~01:10

転生したらスライムだった件「ゴブリンたちとの出会い」
tvk 1 01:00~01:30

[新]狐狸之声 #1
TOKYO MX 1 01:10~01:25

[新]おとなの防具屋さん #1
TOKYO MX 1 01:25~01:30

キャプテン翼 第28話「それぞれの旅立ち」
テレビ東京 1 01:35~02:05


●火曜日(10/9)

[新]アイドルマスターSideM 理由あってMini! #1
TOKYO MX 1 21:54~22:00

アニメの神様『ドラゴンボールZ』 #271「ブウの奥の手!!アメ玉になっちゃえ」
TOKYO MX 1 22:00~22:29

アニメの神様『新機動戦記ガンダムW』 #33「孤独な戦場」
TOKYO MX 1 22:29~23:00

[新]東京喰種:re #13
TOKYO MX 1 23:00~23:30

クラウス・シュルツェ Klaus Schulze - イン・ブルー In Blue (ZYX, 1995)

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クラウス・シュルツェ Klaus Schulze - イン・ブルー In Blue (ZYX, 1995) Full Album + Bonus Disc
Recorded at Hambuhren, KS Moldau Musik Studios, November to December 1994 (Original Album)
Released by ZYX Music ‎ZYX 90001-2, February 28, 1995
Produced and Composed by Klaus Schulze
(Tracklist)
(Disc 1) : https://youtu.be/GsgoZoCnX1g
1. Into The Blue - 78:25
>1. Into The Blue - 15:24
>2. Blowin' The Blues Away - 20:05
>3. Blue Moods - 4:29
>4. Wild And Blue - 35:35
>5. Out Of The Blue - 2:52
(Disc 2) : https://youtu.be/TztQHdnU7_g
1. Return Of The Tempel - 44:38
>1. Midnight Blue - 9:46
>2. Return Of The Tempel - 28:42
>3. Blue Spirits - 4:30
>4. True Blue - 1:40
2. Serenade In Blue - 34:19
>1. Aubade - 6:16
>2. Kind Of Blue - 18:06
>3. Blue Hour - 4:01
>4. Serenade - 5:56
(Reissued SPV CD Bonus Disc Bonus Tracks) : https://youtu.be/7-ihL_jJpEI
1. Musique Abstract (live 1994) - 7:02
2. Return of the Tempel 2 (live 1997) - 13:51
3. Out of the Blue 2 (live 1983) - 32:20
[ Personnel ]
Klaus Schulze - electronics
Manuel Goettsching - guitar (on "Return Of The Tempel")

 前年'94年に映画サウンドトラック、クラシック楽曲のエレクトロニクス録音集(2枚組)、本格的現代音楽オペラ作品(2枚組)、大作ライヴ(2枚組)と4作も力作を発表したシュルツェですが、'95年の新作単独アルバムは通算第31作(未発表音源集『Silver Edition』'93/10CDを数えれば41作目)の『イン・ブルー』1作で、この年はさらに10枚組CDの未発表音源集『Historic Edition』もリリースされますが、『イン・ブルー』は全曲英語タイトルにも表れているようにひさびさにワールド・ワイドなリスナーを意識したアルバムと思われ、それは'80年代末~前年までのサンプリングを多用したドラマティックな音楽性から『Mirage』'77~『Dune』'79頃を思わせるシークエンサーに乗せたゆったりとしたインプロヴィゼーションに回帰していることでも、'94年までのアルバム(とこのあと発表する未発表音源集『Historic Edition』)でサンプリング多用の音作りと現代音楽的な作曲・編曲にシュルツェ自身がひとまず区切りをつけたのでしょう。前年のアルバムでは映画サウンドトラックの小品集『ドーデの水車小屋』がメロディアスな小品が揃って比較的親しみやすいアルバムでしたが、それでもやはり重厚なサンプリングの多用は目立っていたので、本作の'70年代末の作風に近い、音数の少ない音楽はかえって新鮮に響きます。
 本作でもサンプリング音が完全に廃されているのではありませんが、使用法はかつてのメロトロンに準じたシンプルなものです。またマニュエル・ゲッチングがギターで1曲参加しているのも聴きもので、ゲッチングとはアシュ・ラ・テンペルのデビュー・アルバム('71)と『Join Inn』'73、名作を多数含む'73年録音のコズミック・ロッカーズ・セッションの諸作、ヴァーンフリート・プロジェクトの快作『Tonwelle』'81以来の公式録音で、ゲッチングの参加したディスク2の45分におよぶ「Return Of The Tempel」はタイトル通りゲッチングとシュルツェのアシュ・ラ・テンペル再びといった趣きがあり、これがこの二人によるデュオ編成でのアシュ・ラ・テンペルの特別再結成アルバム『Friendship』2000と1回きりのライヴ『Gin Rose at the Royal Festival Hall』2000につながっていくのですが、2005年発売の本作の再発売版ではまるまる1枚ライヴ録音のボーナス・ディスクがつき、ゲッチングとのライヴでの共演は『Friendship』に先立つ'97年に行われて「Return Of The Tempel」が再演され、また本作アルバム・タイトル曲といえるディスク1全編を使った79分の曲は'83年のライヴで原型となる演奏が行われていたのが発表されました。今回は'90年代以降のシュルツェのアルバムで全曲試聴リンクが引けるのも嬉しく、内容も初期からのシュルツェのリスナーに懐かしさを感じさせるものだけに、未聴のかたはぜひご試聴ください。曲は長大ですが適度な間があり、この良い意味での軽さ、軽やかさもシュルツェのアルバムではひさびさに感じられるものです。

映画日記2018年9月21日・22日 /『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(11)

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 いやあ観た観た。これを書いている現在では『フランス映画パーフェクトコレクション』の『天井桟敷の人々』『巴里の屋根の下』『舞踏会の手帖』の3集・30作を全部観直し終えているのですが、『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界』の既刊3集('53年度までのパブリック・ドメイン作品ですから、たぶん続刊はなし。出るとしたら助演時代の作品ばかりになります)収録作品を年代順に観てきた時は、一人の俳優の主演作品を('53年までですが)全部観る中で、趣向の違いや出来不出来もあって適度にバラつきがあるのが楽しく観続けられました。これは監督ごとに年代順に観る際でもそうです。しかし今回9月に観た3集となると『ジャン・ギャバンの世界』とは重複しない(つまりギャバン出演作品以外の)トーキー以降のパブリック・ドメイン作品、つまり'30年~'53年のフランス映画の著名作を手当たり次第に集めてあり、しかも9月末発売に『情婦マノン』、10月末に『嘆きのテレーズ』と今のところさらに続刊2セット・20作品が追加されますから、シリーズ名に謳ってあるように、個人個人の嗜好はともあれまさしくこれぞ往年のフランス映画の名作を網羅するようなセレクションがされています。はなはだ贅沢な話ですが美食ばかり続けてくると駄菓子の味も恋しくなりますし、美食というのとはちょっと違うとすれば何と言ったらいいものか。必ずしも似たような映画ばかりではないのですがうまい話が多すぎるという感じがして、いわゆる「うまい話」を破った映画でもその破り方もまたうまいので、それが文化的土壌に由来する自意識の高さでもあり限界にもなっているように思えました。文化的に不安定なアメリカやドイツ、日本のような国に突発的に鋭い映画が生まれるのもそれなりの必然があるわけです。『フランス映画パーフェクトコレクション』には10代の頃に初めて観て感激した作品も数々あり、個々の監督、映画を観れば今回30本まとめて観直してほとんどが面白かったのですが、それは別にフランス映画だからでも名作(著名作)だからでもなく、作品ごとの力から来る面白さという気がしました。なお今回も作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。

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●9月21日(金)
『オルフェ』Orphee (Les Films Andre Paulve, Films du Palais Royal, 1950)*95min, B/W : 1950年9月20日フランス公開
監督:ジャン・コクトー(1889-1963)、主演:ジャン・マレー、マリア・カザレス
・詩人で音楽家のオルフェウスは、死んだ妻を取り戻すため竪琴を鳴らし、死者の国へと乗り込んでいき……というギリシャ神話のオルフェウス伝説を、映像美と幻想的な世界観で現代に置き換えた作品。

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 日本公開昭和26年(1951年)4月17日、マリア・カザレスはこの年1月公開の『パルムの僧院』'47で出演作品が日本初紹介だったようです。この頃はまだ日本が戦局によって映画統制を始めた'39年~敗戦年の'45年までの外国映画の旧作と新作が入り混じって公開されていたので、カザレスが準ヒロインで出演している『天井桟敷の人々』も日本公開はようやく昭和27年('52年)2月なので、『天井桟敷の人々』より5年後のカザレスのヒロイン主演作『オルフェ』の方が話題性から先に公開され、これはコクトーの商業映画監督作第1作『美女と野獣』'46(日本公開昭和23年='48年1月、昭和23年度キネマ旬報外国映画ベストテン6位)の好評を受けたものだったでしょう。『美女と野獣』に続くコクトー映画『双頭の鷲』'48が昭和28年('53年)6月がその次の『恐るべき親達』'48(日本公開昭和24年='49年7月)、『オルフェ』より日本公開が遅れたのはやはり内容が高踏的すぎると見られたと思われるので、コクトー作品はジャン・マレーの主演もあって待望されていたでしょうから家庭悲劇『恐るべき親達』も公開されましたが『双頭の鷲』の難解さはなくとも重い現代劇だったので、ファンタジー映画の要素がある『オルフェ』はフランス公開から半年ほどで日本公開される歓迎を受けて昭和26年度キネマ旬報外国映画ベストテン第4位入りしたのでしょう。この年度は1位『イヴの総て』、2位『サンセット大通り』、3位『わが谷は緑なりき』、5位『邪魔者は殺せ!』で『わが谷~』は戦時中の旧作でなければ『イヴ~』『サンセット~』を退けて1位だったでしょうし、5位はキャロル・リードのこの頃の人気が反映しており、6位に興行成績は悪かったらしい『悪魔の美しさ』が入っているのはやはりルネ・クレールのカムバック作への歓迎がうかがえます。本作に戻ると、1889年生まれですからチャップリンと同年生まれのコクトーが、戦後のフランス映画界に商業映画監督としてデビューして、年齢的にはコクトーより10歳あまり若い'30年代監督や戦後映画の監督たちに較べてもずば抜けて吹っ切れた瑞々しい感覚の映画を専業商業映画監督も舌を巻くような出来ばえに仕上げているのは本当に驚異的で、戦前の実験映画『詩人の血』'32が文学者の余技らしい意欲的ながらアマチュア映画の観は拭えなかったのとは比較にならない飛躍を遂げています。コクトーは世代的には'20年代のサイレント時代の監督たちと同世代ですが、実際のコクトーと同世代のサイレント時代からの監督はアベル・ガンスとマルセル・レルビエ、ジャック・フェデーが'30年代までは健闘していたくらいで、コクトーのように60歳近くなって本格的な映画監督になり爆発的な創造力を見せたのは他にすぐ例を思いつきません。コクトー自身がずっと映画に関心を寄せていたのはチャップリンの『黄金狂時代』へのいち早い絶讃や、'53年にジャン・エプスタン(1897-1953)への追悼文でエプスタン初期の代表作『まごころ』'23をジャン・ヴィゴの『アタラント号』'34になぞらえているのでも高い見識を示しており、コクトーの映画はサイレント時代からいきなり'30年~'45年のトーキー時代をすっ飛ばして突如現れた観があります。つまりコクトーはその間のフランス映画と無関係にゼロからコクトー自身の考えるトーキー映画を作り出したような人なので、『双頭の鷲』や『オルフェ』は60歳でなお青年という恐ろしい映画監督の映画になっています。コクトーがまだ20~30代の青年作家だった頃から詩や戯曲、小説、エッセイに書いてきたオルフェや死の女王、アゴニース、天使ウルトビーズのイメージがジャン・マレーやマリア・カザレス、ジュリエット・グレコ、フランソワ・ペリエらコクトーの理想とする容姿をそなえた息子や娘の世代の現代フランスの青年俳優に演じさせているのですから、コクトーの映画はコクトーの夢の実現だったでしょうし、これほど強烈に個人的で個性的だったコクトーの映画が他の現代フランス映画には似ていなくて、映画がもっと夢の中の産物だったようなガンスやレルビエ、デリュック、エプスタンらサイレント時代の監督の映画と地続きなのはわかるような気がします。トーキー以降にコクトーに近い感覚で映画を作っていたのは早く挫折したクレールや'30年代末には亡命を余儀なくされたルノワール、夭逝したジャン・ヴィゴくらいで、やはり40歳過ぎて監督になり孤立した存在だったブレッソンと意気投合した(すぐ袂を分かちますが)のも同じような立場だったからでしょう。『双頭の鷲』『恐るべき親達』がブレッソンに通じるストイックな作風だったのに対して『オルフェ』はメルヘン作品『美女と野獣』と空想性では通うものの今ならダーク・ファンタジーと呼ばれるような奔放な発想の作品で、着想は長年コクトーがいろいろな形式の文学作品で温めてきた内容を集大成したものですが、18世紀の古典を原作とする『美女と野獣』よりも神話の現代化としてコクトー自身が原案・脚本を書いた本作の方が各段に文芸映画色もなく、シナリオ段階の完成度も高いのでリメイクが作られても良さそうなものですが、コクトー自身がこれほどの決定版を映画にしてしまったらさすがにリメイクの余地なし、作っても絶対およばないということでしょう。公開当時のキネマ旬報近着外国映画紹介も本作のあらすじは過剰な意味づけはせず、比較的簡略に紹介しています。
[ 解説 ] ギリシャ神話のオルフォイス伝説から「恐るべき親達」のジャン・コクトーがシナリオを創造(コクトーには戯曲『オルフェ』もある)、自ら監督に当った一九五〇年度ヴェニス映画祭監督賞受賞作品。撮影は「密告」のニコラ・エイエ、音楽は「恐るべき親達」のジョルジュ・オーリックで装置はジャン・ドーボンヌ。最初装置を担当する予定で物故したクリスチアン・ベラアルに作品はデディケイトされている。主演は「恐るべき親達」のジャン・マレー「パルムの僧院」のマリア・カザレス「悪魔が夜来る」のマリー・デア「バラ色の人生」のフランソワ・ペリエ。以下、エドゥアール・デルミ、ロジェ・ブラン、アンリ・クレミエ、ジュリエット・グレコらが助演する。
[ あらすじ ] 詩人オルフェ(ジャン・マレー)は、「詩人カフェ」に集る文学青年達の賞賛の的であった。或日このカフェに王女と呼ばれる女性(マリア・カザレス)が来、同行者の詩人セジェスト(エドゥアール・デルミ)がオートバイにはねられて死んだので、オルフェに手伝わせて彼女は自分のロオルス・ロイスに死体をのせた。車が着いた建物で、王女はセジェストを生返らせて鏡の中に消えた。オルフェは鏡にぶつかって気を失い、目が覚めると建物はなくなっていた。車の運転手ウルトビイズ(フランソワ・ペリエ)をゆり起してオルフェは妻のユウリディス(マリー・デア)の待つ我家へ帰ったが、彼の心は王女に飛んで、車のラジオから聞える暗号に耳を傾けるのに必死だった。王女は夜毎オルフェの夢枕に現れたが、彼はそれに気付かなかった。ユウリディスは夫の心が自分から離れたと悲観していたが、或日オートバイにはねられて死んだ。ウルトビイズからこれを聞いたオルフェは、手袋のおかげで鏡を通り抜け、死の国へ出かけた。そこでは裁判が開かれ、オルフェは二度と妻を見てはならぬという条件で、ユウリディスを連れ帰ることを許された。しかし彼女は再び夫の愛を取戻せぬことを知るとわざとオルフェを自分の方に向かせて、自ら姿を消した。その時詩人達がおしよせ、友人セジェストを奪ったと非難してオルフェを殺した。王女は死の国の入口でオルフェを待っていたが、ついに自分の恋は生ある人に返すべきことを悟ってオルフェをユウリディスの許に送り返すことにした。
 ――作品によってはくどいくらいに立ち入ったあらすじを起こすキネマ旬報近着外国映画紹介ですが、本作はそっけないくらいです。主人公オルフェと妻ユウリディスの交友関係、死の国の法廷場面と、さんざん顔を合わせないようにしていたのに妻(オルフェが見ると消えてしまう刑罰をかけられている)が車の鏡に映って偶然消え去ってしまう場面(キネマ旬報あらすじの「しかし彼女は再び夫の愛を取戻せぬことを知るとわざとオルフェを自分の方に向かせて、自ら姿を消した」ではないでしょう)や、主人公が自宅に押しかける人々に弾劾されて抵抗しピストルの暴発事故で死ぬ場面など、この映画にはブラック・コメディ演出が光る場面が数々あります。コクトーも真面目にやるほどブラックになるコメディを意識しているのが押し殺した高いテンションが続く『双頭の鷲』や陰鬱な『恐るべき親達』との違いですが、公開当時本作のブラック・コメディ的側面はフランスやイタリア(ヴェネツィア国際映画祭監督賞)、日本では伝わっていたでしょうか。本作のあとコクトーの監督作は'52年に中編『サント・ソスピール荘』があり、最後の監督作は逝去3年前の、遺作を意識した『オルフェの遺言』'60になります。そのどちらも映像エッセイ的な作品(『オルフェの遺言』は自作引用的な劇映画部分と入り混じりますが)なのは、原型となる同名戯曲は'26年にまでさかのぼる『オルフェ』でコクトーとしては劇映画はやり切った思いがあったのではないでしょうか。また、ジャン・マレーは他のコクトー映画でも印象深い名演が記憶に残りますが、マリア・カザレスの死の女王役の高飛車女ぶりは圧巻で、カザレスといえば性格のキツい美女役がはまり役ですが本作の女王様っぷりは『双頭の鷲』のエドウィジュ・フィレールと双璧で、フィレールが舞台畑らしい太い声に映画では善し悪しの観があった分カザレスの方が映画向きの声なので、歴史劇ではフィレール、現代劇ではカザレスの起用は的確です。コクトーはゲイというよりプラトニックなヘテロセクシャルのタイプだったと思いますが、それが美青年オルフェの妻に清潔感のある妻(マリー・デア)を配し、高飛車女王様のカザレスによろめかせる(本作は簡単に言えば浮気と家出の話です)のは、コクトー自身の嗜好なのかコクトーから見た(考えた)普遍的な男性像なのかちょっと悩ましいところです。

●9月22日(土)
『輪舞』 (Svanfilm, 1950)*93min, B/W : 1950年9月27日フランス公開
監督:マックス・オフュルス(1902-1957)、主演:アントン・ウォルブルック、シモーヌ・シニョレ、ジェラール・フィリップ
・A・ウォルブルック扮する恋の案内役が、メリーゴーランドに乗ってメロディを奏でる。そのリズムに乗って、まさに輪舞のように連なっていく様々な男女の恋愛模様がコメディタッチで描かれたラブロマンス。

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 日本公開昭和27年(1952年)7月25日。マックス・オフュルスはドイツ出身の監督で舞台畑から映画人になり、'29年にアナトール・リトヴァク(1902-1974)作品の脚本家から映画界でのキャリアを始めたそうですからドイツ映画の'29年はまだサイレント時代なので、リトヴァクともども意外に早くから活動していた人だったことになります。こういう所にも名前が出てくるのがウィリアム・ディターレ(オフュルスと同時期にドイツ演劇界で活動していました)やリトヴァクらドイツ出身無国籍監督の恐ろしいところで、リトヴァクはジャン・ギャバン準主演のトーキー初期の名作『リラの心』'32の頃にはフランスに移っており、'30年代後半にはハリウッドに渡りますが、オフュルスもトーキー時代になってドイツで監督デビューしますが、'33年のヒトラー政権成立以後の映画統制を避けてフランスに亡命します(戦前ドイツ映画の黄金時代が'18年~'33年とされるのは'33年が統制施行前に映画が企画製作された最後の年だったからです)。フランスを本拠にしながらもフリーの監督だったオフュルスは映画製作の機会に恵まれたとは言えず、イタリアやオランダに出向いて監督作品を残したりしていますが、この時期のフランス作品中では、ハリウッドからフランス映画界に渡ってきた早川雪洲を起用した『ヨシワラ』'37は戦後外国映画の輸入がGHQの検閲通過作品のみ許可されるようになってフランス映画では初の日本公開作品(昭和21年='46年2月)になります。これがオフュルス作品の日本初紹介で、オフュルスはドイツのフランス侵攻に伴い'41年にはハリウッドに渡りますがここでもなかなか監督依頼が取れず、ようやく戦後にダグラス・フェアバンクスJr.主演の『風雲児』'47(日本公開昭和24年='49年5月)が作られ、これが日本紹介されたオフュルスの2作目になりました。フランス映画界への復帰作である本作『輪舞』'50に続いてようやくオフュルス作品は『快楽』'52(日本公開昭和28年='53年1月)、アメリカ時代の『忘れじの面影』'48(日本公開昭和24年='49年7月)、『たそがれの女心』'53(日本公開昭和24年='49年12月)、カラー超大作の遺作『歴史は女で作られる』'56(日本公開昭和31年='56年3月)と順調に公開されるようになりますが、ジェラール・フィリップ主演作のモディリアーニの伝記映画『モンパルナスの灯』製作当初に逝去、同作はジャック・ベッケルが'58年に完成させることになります。『輪舞』はオフュルスの実り多かった晩年7年の劈頭を飾る鮮やかな成功作で、英国アカデミー賞作品賞、ヴェネツィア国際映画祭脚本賞・美術賞を受賞し、米アカデミー賞脚色賞・美術賞にノミネートされる国際的な評価を受けます。日本でも高く評価されたのにオフュルス作品のキネマ旬報ベストテン入りがないのは、見事な出来ばえだし素晴らしいが、オフュルスはあまりに大時代なメロドラマばかりで現代映画と言えるだろうか、と一種の復古主義映画として見られたからのように思われます。淀川長治氏の回想録に『歴史は女で作られる』の試写会で谷崎潤一郎と顔を合わせたら谷崎は「面白くなかった」と言うので淀川氏は同作を絶讃したそうですが、谷崎は助平親父である以上に下手物趣味の新しい物好きなのでオフュルスが肌に合わなかったのは正直な意見で、親子ほどの歳の差こそあれ映画鑑賞のプロ中のプロの淀川氏に率直な感想を洩らして失笑を買った谷崎のこのエピソードは微笑ましいものです。オフュルスはドイツ時代にも最後の年にシュニッツラー原作の『恋愛三昧』'33がありますが、ナチス政権の映画統制は'33年以前のほとんどの映画を「頽廃芸術」として上映禁止にしたので、もちろん新体制の中で映画界にとどまった映画人も数多くいましたが、この年を期に戦中~敗戦後までにハリウッドに渡ったドイツ圏の映画人(スタッフ/キャスト)は1,500人あまりにおよぶそうです。オフュルス作品がすぐに映画統制に触れることになったのは想像に難くなく、ドイツ時代・ハリウッド渡米後の作品のほとんどが上映禁止指定されてドイツの市民権を剥奪されたルビッチなどはこの時期ハリウッドから一時帰国し、一族郎党をアメリカに亡命させているほどです。サイレント時代からすでにアメリカで巨匠の地位を築いていた先輩監督ルビッチと違い、オフュルスは'30年代のフランスでも'40年代のアメリカでも恵まれた境遇とは言い難かったので、ようやく認められて製作ペースが軌道に乗ったのは『輪舞』からと言えて、『輪舞』が'50年で遺作『歴史は女で作られる』が'56です。溝口健二はオフュルスより年長(1898-1956)ですし監督歴も古く('23年デビュー)基本的には生涯映画会社勤めの監督でしたので作品数も各段に多く大きなブランク期間もない監督でしたが、爆発的に大成したのが'52年の『西鶴一代女』で遺作『赤線地帯』が'56年、少し広げても戦後の復調は'50年の『雪夫人絵図』からとオフュルスと時期まで重なっており、もちろん戦後にも『夜の女たち』'48のような単発の佳作はありますし溝口は戦前にも数回ピークがある多力者の大家ですから単純な類縁は結べませんが、溝口の遺作『赤線地帯』の公開が'56年3月と『歴史は~』日本公開と同月ですからオフュルスの『輪舞』~『歴史は~』までの作品は溝口健在中に日本公開されているので、体調を崩して次回作『大阪物語』の撮入を延期し入院療養したのが5月、当時治療法のなかった白血病の末期と本人告知されず逝去したのが8月末ですから溝口がオフュルス作品を生前観ていたのかが気になります。『怒りの日』'43以降のカール・Th・ドライヤー作品は溝口生前に1作も日本公開されませんでしたし、戦後監督のウェルズやベルイマン、アントニオーニ作品の紹介も溝口沒後になりましたが、この時期溝口が戦前に始めていた長い長いワンシーン・ワンカットの撮影法を独自の発想で行っていた監督で日本に紹介されていたのはオフュルスで、ロッセリーニもそうですがロッセリーニの場合はセミ・ドキュメンタリー的な方法と解釈されていた時代でした。もっとも人生肯定的なオフュルスの映画はルノワールに通じるもので、無常観漂う非情な溝口の映画とはまるで異なるおおらかなものです。公開当時のキネマ旬報近着外国映画紹介では次のように紹介されています。「未知の女からの手紙」とあるのは当時日本未公開だった『忘れじの面影(Letter from an Unknown Woman)』のことです。
[ 解説 ] アルトゥール・シュニッツラーの戯曲『ラ・ロンド』の映画化一九五〇年作品。監督者マックス・オフュルス(在米時代「未知の女からの手紙」や「風雲児」あり)と「赤針嶽」のジャック・ナタンソンが協同脚色した。尚オフュルス監督には最近作「快楽」がある。撮影は「青髭」のクリスチャン・マトラ、音楽はオスカー・シュトラウスの担当である。登場人物が一人づつ順ぐりに組合さる題材の性質上、俳優はトップランクのスタアが揃えられている。即ち「老兵は死なず」のアントン・ウォルブルック、「宝石館」のシモーヌ・シニョレ、「処女オリヴィア」のシモーヌ・シモン、「五本の指」のダニエル・ダリュー、「乙女の星」のオデット・ジョアイユー、「鉄格子の彼方」のイザ・ミランダ、「二百万人還る」のセルジュ・レジアニ、「狂恋」のダニエル・ジェラン、「快傑ゲクラン」のフェルナン・グラヴェ、「天井桟敷の人々」のジャン・ルイ・バロー、「愛人ジュリエット」のジェラール・フィリップである。
[ あらすじ ] 一九〇〇年のウィーン。狂言まわし(アントン・ウォルブルック)の解説によって、恋の輪舞が語られる。売笑婦(シモーヌ・シニョレ)は兵隊(セルジュ・レジアニ)を恋している。彼を強引に誘惑しようとするが、逃出した兵隊は可憐な小間使い(シモーヌ・シモン)をだましてたやすく純潔をうばってしまう。小間使いの若主人(ダニエル・ジェラン)はドン・ファンを気取る小説狂で先ず彼女を恋愛術の小手試しにした上、上流の人妻(ダニエル・ダリュー)の処へ出かけ、苦心の末やっと獲得する。この人妻の夫(フェルナン・グラヴェ)は妻がめきめき美しくなって来たので有頂天だが、彼にも売子(オデット・ジョアイユー)という相手がある。このおぼこの売子にも、後を追う男は沢山いる。その中でも一番面白いのは自惚れ屋の詩人で劇作家(ジャン・ルイ・バロー)だ。しかしこの劇作家の本当に目指す相手は情熱的な女優(イザ・ミランダ)であった。彼女はすべてを知りつくしながら情にもろい。この彼女をとりまく男のうち、最も彼女をのぼせさせたのは若い金持の伯爵士官(ジェラール・フィリップ)である。彼は女優に連れられて一晩中遊びまわりそして彼が目を覚したのは、以前彼の部下が抱いた売笑婦の部屋だった。彼は彼女を純潔の天使だと思いこんだ。
 ――このキネマ旬報のあらすじは手際よくすっきりしています。こうして男女関係ごとに片方が別の相手に出会っていく場面ごとに語り手のアントン・ウォルブルックがその場に居合わせた人物(ウェイター、劇場の案内係、などなど)に扮して登場人物に暗示的な示唆をしたり、からかったり、観客に向いて状況や進行を説明したり予告したり、ベッド・シーンではフィルムをカットしてみせたり(!)します。シュニッツラーの原作戯曲はもともと読んで面白い戯曲を意図した会話体小説というべきもので、モダンな艶笑文学として大正時代から日本でも人気があったので、森鴎外も長編小説『みれん』、戯曲『恋愛三昧』他多数のシュニッツラー作品を翻訳しています。人物のグループが構成員を替えながら場面転換していくのは小説・戯曲など物語体の常套ですが『輪舞』では男女カップル単位にまで縮小し、その一方が替わるという具合に極端に機能化したのが実験的なのに娯楽性があり、それを常に男女カップルにすれば全編色事の話になる、といういかにも頽廃したウィーン文化の香り高いのがシュニッツラーの発明で、間隔近すぎるリメイクですがロジェ・ヴァディムも'64年に『輪舞』を再映画化しています。ヴァディム版もけっこう面白かったのですがオフュルス版が成功例を見せたから、とも言えそうで、著名原作なのに本作が初の映画版『輪舞』になったのはそれまで映画化困難だと思われていたからに違いないので、原作があり本作があるから上記のキネマ旬報あらすじがあるのですが、また本作の脚本は映画賞にノミネートされたり受賞したりしていますが、このあらすじを提出して企画を通す映画会社は当時も今もないでしょう。典型的な串ダンゴ構成、本作は円環を閉じて終わるのでリングドーナッツかもしれませんが、ここには一般的なプロットの起承転結はなければテーマの集中もなく、通常なら性格や状況、物事の価値が重心を変えて変化していくのを描くのが物語でありドラマ性ならば『輪舞』では映画の最初と過程と結末まで性格も状況も価値観も何も変わらないので、「読む戯曲」なり舞台劇ならばそうした人間像は一種の抽象性を持ちますが(舞台劇では初老の女優が少女を演じることもできます)、映画のリアリティとはもっと即物的なもので、俳優の肉体に表れた実年齢や容貌、身体性を忠実に反映します。つまり現実的な生臭さが生じます。少なくともトーキー以降はそうなったので、舞台劇的な抽象性が許されていたのは映画ではサイレント時代まででした。しかし見方を変えてみればサウンド・トーキー映画でサイレント的な性格の抽象化をやってみても上手くいけばそれでいいので、年齢、容貌、身体性は配役に即すとしても「俳優が役柄を演じている」のに徹した演出ならば俳優たちは抽象化された存在で、生臭さは生じない。語り手のウォルブルックがメタ映画的存在としていたる所に先回りしている変幻自在な役柄で、直接観客に語りかけもすれば作中人物になりすましもするのは徹底した虚構の証なので、映画全体は色事ばかりに満ちあふれている人生讃歌となっているのも個々の男女関係から生臭さだけはきっちり抜いてあるからです。溝口健二が成瀬巳喜男の『浮雲』'55を観て「うまいことはうまいが」と認めた上で「成瀬にはキンタマはあるのですか?」と評したのは有名ですが、溝口の映画の苛烈さからするとオフュルスの映画にも「うまいことはうまいが」に続いて激越な苦言が出てきそうです。オフュルスもヒロイン映画の『忘れじの面影』や『たそがれの女心』ではもっと酷薄に男女関係を描いているのですが、ヒロインも観客も突き放すような描き方をしても成瀬よりも激しくはないので、これは映画で描きたい世界が違うとしか言えないでしょう。オフュルスは子息がドキュメンタリー監督のマルセル・オフュルスですから円満な家庭が想像できますが(実際は知りませんが)、溝口と成瀬は夫人が慢性化した統合失調症になった大変な私生活を持った人で、高村光太郎のようにそこから『智恵子抄』を生み出した詩人もいるのですが溝口や成瀬は女性や夫婦への見方に挫折感を持った映画監督になった感じもします。オフュルスの『輪舞』は相当の自信がないとできない企画を堂々とやり抜いていて、コクトーとは違った意味でまったく従来のフランス映画を問題にしていない独立不羈の作品で、これがもともと短い間しかいなかったフランス映画界復帰第1作なのですから規格外の映画と言えるでしょう。本作と続く遺作『歴史は女で作られる』までのオフュルスのフランス作品はぜんぶ傑作になりますし、溝口同様まだ50代での急逝など予期してもいなかったでしょうから本作には老境や晩年意識は微塵も感じられません。まだドイツ=オーストリア帝国への嫌厭感が残っていたかもしれない当時、ウィーンが舞台の映画だけでも大胆な企画だったかもしれませんが、『輪舞』は'21年の初演時に風俗紊乱で告訴され上演禁止処分にされた作品ですし、シュニッツラー(1862-1931)は第一次世界大戦時には作品中の軍隊批判描写から軍位を剥奪された体制批判者の作家で、『輪舞』は1900年に私家版でのみ刊行されましたが第一次大戦後まで上演できず、いわば敗戦文学として公刊されましたがそれも告訴・上演禁止処分となった因縁の作品でした。この事件をきっかけにシュニッツラーは離婚し、隠遁生活に近い余生を送ります。オフュルスが『輪舞』を第二次大戦後に引っ張り出してきたのもかつて『恋愛三昧』を映画化したシュニッツラーの復権への意図もあったでしょう。さもなければ、どんな執念ならばこそこれほどさり気ない力技がなし遂げられるでしょうか。

ルー・ドナルドソン / クリフォード・ブラウン Lou Donaldson / Clifford Brown - ベラローザ Bellarosa (Blue Note, 1953)

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ルー・ドナルドソン / クリフォード・ブラウン Lou Donaldson / Clifford Brown - ベラローザ Bellarosa (Elmo Hope) (Blue Note, 1953) : https://youtu.be/Swy-XZ6JQhw - 4:16
Recorded at WOR Studios, New York City, June 9, 1953
Released by Blue Note Records as the 10-inch album "Lou Donaldson/Clifford Brown - New Faces-New Sounds", BLP 5030, 1953
[ Personnel ]
Clifford Brown - trumpet, Lou Donaldson - alto saxophone, Elmo Hope - piano, Percy Heath - bass, Philly Joe Jones - drums

 ピアニストのエルモ・ホープ(1923-1967)はジョー・モリスのR&Bバンドで'48年にレコード・デビューしていましたが元々バド・パウエルと同級生で先輩セロニアス・モンクが憧れ、モリス楽団でもジョニー・グリフィン(テナーサックス)、マシュー・ジー(トロンボーン)、パーシー・ヒース(ベース)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラムス)が同僚で、1952年までには上記メンバーが次々とジャズ界に移り実力派の新人と頭角を現す中でホープだけまだモリス楽団の残留メンバーだった、ジャズ界へのデビューが出遅れた人でした。ホープはようやくブルー・ノート・レコーズからジャズ・ピアニストとしてデビューし、4枚の10インチ・アルバム『Elmo Hope Trio - New Faces-New Sounds』'53(全8曲)、『Lou Donaldson/Clifford Brown - New Faces-New Sounds』'53(全6曲)、『Elmo Hope Quintet - New Faces-New Sounds, Volume 2』'54(全6曲)、『Lou Donaldson Sextet, Vol. 2』'54(全4曲)を残した後ブルー・ノートとの契約を失います。この4作に収録された全24曲のうち16曲がホープのオリジナル曲で、『Lou Donaldson Sextet, Vol. 2』では1曲のみの採用ですから前3作の20曲中では15曲、うち「Carvin' the Rock」のみが後輩ソニー・ロリンズ(テナーサックス)との共作曲で『Elmo Hope Trio』で初演し『Lou Donaldson/Clifford Brown』でクインテット・カヴァーしていますから実際には14曲ですが、このオリジナル曲の比率でもホープはまず作曲力が買われたピアニストだったのがわかります。当時レギュラー・メンバーだったルー・ドナルドソン&クリフォード・ブラウン・クインテットの唯一のアルバムでも全6曲中3曲はホープの曲で、「Carvin' the Rock」「De-Dah」、そして今回の曲「ベラローザ(Bellarosa)」が同アルバムでのホープ曲で、「Carvin' the Rock」と「De-Dah」はアルバムA面の冒頭とA面最終曲、「Bellarosa」はアルバム全体の最終曲になるB面の最後を飾っています。ブラウンの張りと艶のあるトランペットはさすがで、ヒースのベースとフィリー・ジョーのドラムスはいつものことながらすこぶる快適、ドナルドソンのアルトサックスは好くも悪くも軽いなという感じがします。
 先の2曲「Carvin' the Rock」と「De-Dah」はホープがのちに何度も取り上げる代表曲になりましたが、「Bellarosa」は比較的地味で、ホープがロサンゼルスに移っていた'58年に珍しいロサンゼルスの黒人ハード・バップ・バンド、カーティス・カウンス(ベース)・グループ(テナーサックスは元クリフォード・ブラウン&マックス・ローチ・クインテットのハロルド・ランドでした)の前任ピアニスト、カール・パーキンス(同名ロックンローラーとは無関係)との交替でアルバム半々を分け合って録音した『Curtis Counce Group / Sonority』'58(Contemporary)で再演しているのがホープ自身が参加した唯一の再演になります。そのヴァージョンの試聴リンクは引けませんが、近年ではアート・ブレイキー晩年のジャズ・メッセンジャーズのメンバーだった中堅ピアニスト、ベニー・グリーン(1963-)が愛奏曲にしており、グリーン経由でこの曲をカヴァーしているジャズマンもちらほら出てきているようです。ブルー・ノート・レコーズ'50年代~'60年代の隠れ名曲のカヴァー8曲を収めたアルバム『These Are Soulful Days』から、ブルー・ノートらしからぬドラムレスのピアノ、ギター、ベース編成で演奏されたベニー・グリーンのヴァージョンをどうぞ。

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Benny Green Trio - Bellarosa (Blue Note, 1999) : https://youtu.be/KYnAFWYKL2k - 5:41
Recorded January 16 and 17, 1999 at Avatar Studio, NYC.
Released by Blue Note Records as the album "These Are Soulful Days", Blue Note 7243 4 99527 2 0, 1999
[ Personnel ]
Benny Green - piano, Russell Malone - guitar, Christian McBride - bass

映画日記2018年9月23日・24日 /『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(12)

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 この『フランス映画パーフェクトコレクション』は基本的な選択基準は映画のサウンド・トーキー化以降のパブリック・ドメイン(著作権期限切れ)作品、つまり'30年~'53年までのフランス映画の著名作を集めたものですが、著名作必ずしも名作とは限らず、またそこそこ珍しい作品も収録されています。今回の2作などは名画座上映されるにしても地味な2本で、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督作のベスト3、またはジャック・ベッケル監督作のベスト3という場合にはまず入らないだろうと思いますが、そういうDVD単品ならば後回しにしてしまうような作品が入っているのもこの廉価版ボックス・セットの美味しいところで、筆者も単品DVDでは持っていなかったし学生時代に観たきりなので、そういう地味な作品ながらひさびさの再視聴を喜びました。なお今回も作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。

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●9月23日(日)
『巴里の空の下セーヌは流れる』Sous le ciel de Paris (Regina Films, 1951)*112min, B/W : 1951年3月28日フランス公開
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ(1896-1967)、主演:ブリジット・オーベール、ジャック・クランシー
・田舎から上京してきた少女ドゥニーズを中心に、パリに住む様々な人間の一日を描く。職場でストライキ中のエルムノー、内気な研修医候補生ジョルジュ、彫刻家のマティアス……、個々が緩やかに結びついていく。

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 日本公開昭和27年(1952年)4月24日、キネマ旬報昭和27年度外国映画ベストテン9位(3位『天井桟敷の人々』、8位『肉体の悪魔』)。本作もマルセル・カルネの『夜の門』'46同様主題歌「パリの空の下」の方が知られていて、映画の方はあまり観られていないのではないかと思います。デュヴィヴィエの著名作はかつてテレビ放映頻度の高いフランス映画の代表格でしたが「フランス映画名作特集」などの特番で1週間連続毎晩放映されたりする時にも『望郷』や『舞踏会の手帖』はよく入りましたが、これは放映されたのは観た時きりしか思い出せず、昔の映画のテレビ放映は衛星放送くらいしかやらなくなってしまった頃からも見かけた覚えがありません。観直した感想。ブリジット・オーベールってヒッチコックの『泥棒成金』'55より前にこれに出てたんだ、と今になって気づき、ナレーションは良い声だけど古臭いなと思ったら『オルフェ』のフランソワ・ペリエが声だけ出演で、デュヴィヴィエの自作脚本がんばって戦後の新しい映画らしさと昔ながらの味を折衷させようとしてるなと飽きっぽいフランスの観客には過去の人扱いされてただろうに健闘を讃えたり、危なっかしいなと思えばこれはこれもありかなと観進めていくうちに観客を失望のどん底に突き落とす観客の期待の狙いを読み違えた二段構えの結末が待ち構えているのでした。つまりこれをやっては台無しだろうというのをやってしまい、あってもいいがこれは付け足しだろうというような脇すじの方を感動の焦点に持ってきてしまった。戦前~戦時中までのフランス映画ならぜったいにやってはいけないとされていたことを「戦後だからなあ、新しい映画にしなくちゃなあ」と戦前の大家デュヴィヴィエみずからぶち壊してしまったら、本作にもデュヴィヴィエが持ち越していた戦前の作風からの良い要素まで破綻の原因になってしまったのがこの作品で、ならば簡単に失敗作のひと言で片づけるには意欲的な力作には違いないので何だか肩を持ちたくなる面とやっぱり駄目なものは駄目と言いたくなる葛藤を観客(戦前デュヴィヴィエ作品の観客)の心の中に呼び覚ますというやっかいな映画です。特徴・技法としてはパリの一日を数人の無関係な主要人物それぞれのドラマとして平行して描いていき、それが徐々に接点を持ちそうだったりやはり無関係だったりしながら進み、クライマックスで主要人物すべてがひとつの事件に集うという作りで、デュヴィヴィエとしては戦前のシャルル・スパーク脚本に代表されるような緊密な因果関係が展開し必然的な収斂に向かっていくタイプのドラマ構成ではなく、ばらばらな庶民群像が偶然に絡みあってドラマを形成していく自然なリアリティに戦後の新しい映画の方向性を打ち出したかったと思われ、キャリアは25年を越え50代になった監督の自己革新の意欲は立派なのですが、デュヴィヴィエ本来のけっこう大味な映画づくり、時流に寄りたがる指向が'30年代の潮流から戦後映画の潮流に替わっただけで、'30年代ならドラマ作りの作法にあった抑制が戦後映画では意図的に作法を外してしまった分なんだかちぐはぐで調子外れの映画になってしまった観があります。公開当時のキネマ旬報の近着外国映画紹介を引きますが、この映画は展開の意外性を眼目とする一種のサスペンス映画なので、未見の方は紹介文だけ見て、あらすじは飛ばしてください。なお解説中に出てくる「ユナニミズム」とはフランス20世紀の作家ジュール・ロマンが大河小説『善意の人々』の自作解説で用いた造語です。
[ 解説 ]「神々の王国」につぐジュリアン・デュヴィヴィエの監督作品(一九五一年)で、デュヴィヴィエの原案を、彼とルネ・ルフェーヴルが脚色、ルフェーヴルが台詞を書いている。更に「神々の王国」のアンリ・ジャンソンがコメンタリイを執筆し「バラ色の人生」のフランソワ・ペリエがこの解説を口述する。撮影は「オルフェ」のニコラ・エイエ、音楽は「宝石館」のジャン・ヴィーネの担当。主題歌となるシャンソンが二曲、『巴里の空の下』は作詞ジャン・ドルジャク、作曲ユベール・ジロオ、『巴里の心臓』は作詞ルネ・ルーゾオ、作曲ジャン・ヴィーネである。出演者は、ブリジット・オーベエル、ジャン・ブロシャール、レイモン・エルマンチエ、ダニエル・イヴェルネル、クリスチアーヌ・レニエ、シルヴィー、ルネ・ブランカール、ポール・フランクール、ジャック・クランシー、ピエール・デタイユ、マリー・フランスら。パリを貫通するセーヌ河区域を中心舞台に、さまざまなパリジャンの織りなす人生図をエピソード風に綴った作品である。そのエピソードは個々に独立した形式をとらず、各々の時間的継起に従って撚り合わされ、全体でパリの二十四時間を描く仕組みになっている。その点これは、パリそのものを主人公としたユナニミスム(合一主義)映画とも言い得るであろう。
[ あらすじ ] 夜明けのパリに、友人のマリー=テレーズ(クリスチアーヌ・レニエ)をたよって南仏からドニーズ(ブリジット・オーベール)が上京して来た。モンマルトルの屋根裏部屋では彫刻家のマチアス(レイモン・エルマンティエ)がモデルを使って奇怪な女の顔を作っていた。彼は変質者で、すでに3人の女を殺していた。マリー=テレーズの家に落ち着いたドニーズは上京のいきさつを物語った。彼女は故郷で知りあったマキシミリアンがパリからよこす熱心な手紙にさそわれたのであった。街に出たドニーズは占女のバルタザール夫人(マルセル・プランス)に運勢を見てもらい、そのすすめに従って宝くじを買った。マキシミリアンとコンコルド広場であったドニーズは彼が飛行機事故で脚を折り障害者になっているのを知ってがっかりした。マリー=テレーズはファッションモデルであるが、恋人の医学生ジョルジュ(ダニエル・イヴェルネル)がまたもや国家試験に落ちそうなので気が気でなかった。マチアスはナイフをふところに4人貝の犠牲者を求めて街に出た。パリに夜が来た。工場にひそんでいたマチアスは通りかかったド二ーズを殺したが警官に追われて逃げ出した。警官の撃った弾丸は折りからストライキが終って家に帰る途中のエルムノー(ジャン・ブロシャール)に命中した。彼を手術したのは落第医学生ジョルジュであった。
 ――映画はクライマックスの事件が大々的に翌日の朝刊の二大トップ記事に組まれる印刷所のシーンから再びパリの全景を眺め渡すショットで終わります。観客はこの結末にはまったく空いた口がふさがらないので、これがデュヴィヴィエの描こうとした「パリの空の下」かと思うと貧困な内容に終わってしまってこんなはずじゃなかったろうと唖然としますが、公開当時のポスターを見ると抒情的庶民劇っぽい昔のルネ・クレール作品のようなタイトルなのにポスターの絵柄は犯罪スリラーっぽいので、内容のちぐはぐさと混乱がタイトルとポスター絵柄のミスマッチにもすでに予告されていたということです。ナレーションでは「死んでいく者もいれば生きていく者もいる」と言っているのでちゃんとテーマは打ち出しているとは言えますが、この映画では誰を死なせ誰を助けるかで戦後映画らしい酷薄さを意外性にしようとして映画らしい自然な伸びやかさを台無しにしている。デュヴィヴィエは戦時中はハリウッドに亡命し戦後はイギリスを通ってフランス映画界に復帰してきた人ですが、その前後約10年に渡り母国から離れていた期間にデュヴィヴィエにとっても戦後フランスは異国になっていて、観客の映画を観る目の自然な感覚について何か勘違いをしてしまい、たぶん戦後のフランスの観客はこういうのを観たがっているんだろうという見込みに生じた誤算の結果が本作です。しかしかつて'30年代フランス映画の大家だったデュヴィヴィエのこの失敗には憎めないところがあるのも前述した通りで、おのずと表れる粗い大味さといい、本質的には自己革新ではなく時流におもねった(しかもしくじった)軽さといい、デュヴィヴィエらしさは見かけは異色の意欲的失敗作の本作にも確かに感じられるのです。

●9月24日(月)
『エドワールとキャロリーヌ』Edouard et Caroline (Union Generale Cinematographique, 1951)*88min, B/W : 1951年4月6日フランス公開
監督:ジャック・ベッケル(1906-1960)、主演:ダニエル・ジェラン、アンヌ・ヴェルノン
・駆け出しのピアニストのエドワールと妻キャロリーヌ。二人は、キャロリーヌの伯父がエドワールのために開いてくれる演奏会に行く準備をするが……。何気ない夫婦喧嘩がコミカルに描かれたラブ・コメディの傑作!

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 日本公開平成4年(1992年)4月25日、本作についてはまずキネマ旬報の新作公開映画紹介を引きましょう。なぜならそこで紹介されているあらすじはまだ映画の前半1/4程度までなので登場人物が揃うのもまだまだこれからで、この感想文は映画全体がどうなっていくかを追いながら書いていくことになります。
[ 解説 ] パリの片隅に住む若い夫婦が、ピアニストである夫のミニ・コンサートの支度のことで、痴話ゲンカをする様を描くロマンチック・コメディ。監督は「穴」のジャック・ベッケル、脚本はアネット・ワドマン、撮影はロベール・ルフェーヴル、音楽はジャン・ジャック・グリュネンワルドが担当。
[ あらすじ ] パリのアパルトマンに暮らす若い夫妻エドワール(ダニエル・ジェラン)とキャロリーヌ(アンヌ・ヴェルノン)は、口ゲンカもするが睦まじくつつましく暮らしている。ある日、キャロリーヌのお金持ちの叔父ボーシャン(ジャン・ガラン)が、ピアニストであるエドワールを売り出すために、社交界の名士を集めてお披露目会を計画する。当日、キャロリーヌは自分の着ていくドレスのことで頭がいっぱい。そのうちエドワールは一枚しかないタキシードのチョッキが見あたらないと怒りだす。あわててキャロリーヌが探している所に、隣のおばさんがエドワールのピアノを是非聴かせてやって欲しいと親類を伴ってやって来る。時間がないうえにチョッキも見つからないとイライラするエドワールをなだめピアノの前に座らせると、キャロリーヌは叔父の息子アラン(ジャック・フランソワ)に電話。こっそりチョッキを持ってきてくれと頼む。それがバレてさらに怒鳴り散らすエドワールをうまくあしらってアランの所に借りに行かせる。その間彼女は、ファッション誌を開き、最新のモードを研究。古いイブニング・ドレスを今風に裾を短くリフォームする。
 ――本国フランスでは大ヒット作になったという本作はベッケルの出世作になった第4作『幸福の設計』'47(カンヌ国際映画祭グランプリ「恋愛心理映画賞」受賞、同年は部門別にグランプリ作品4作)、次の『七月のランデヴー』'49(ルイ・デリュック賞受賞)と「パリ市井三部作」として知られることになり、次作の傑作『肉体の冠』'52をまたいで姉妹編『エストラパード街』'53も作られた、代表作や名作というのではないけれどフランス公開当時非常に観客に愛された作品です。ベッケル監督作品は第3作『偽れる装い』'45が昭和24年('49年)2月、『幸福の設計』が昭和25年('50年)2月に日本公開されたもののあまり話題にならなかったので、『肉体の冠』が昭和28年('53年)2月に公開されて評判を呼んでからは新作が日本公開されるようになったものの本作や初期の『赤い手のグッピー』'43はさかのぼった日本公開を見送られ、この2作は平成になってようやく日本公開されました。この映画は若夫婦が、無名ピアニストの夫(ダニエル・ジェラン)のお披露目パーティーを開いてくれた妻(アンヌ・ヴェルノン)の裕福な叔父(ジャン・ガラン)のパーティーに出席しようとして、妻が夫の礼服の古いチョッキを捨てていたのと、妻が自分の古いドレスを流行風に短く段をつけたカットをして着ていこうとしたのが夫婦喧嘩の発端になり、つい夫は妻を平手打ちしてしまい妻はパーティーを欠席すると言い出します。夫は仕方ないので一人でパーティーに出て妻は体調が悪いと言うので、と弁明し、慣れない上流階級の社交界の雰囲気にナーヴァスになりながら姪の夫を売り込みたい叔父の勧めでなんとか1曲演奏して好評を博します。一方妻の従兄(ジャック・フランソワ)は様子を見にアパートを訪ねてキャロリーヌが離婚を決意し実家に帰ろうとしているのに気づき(妻は隠そうとしますが)、とにかくパーティーには出てそのあとちゃんと話しあった方がいいということになります。パーティーの方はエドワールのナーヴァスな様子に叔父を含め大半の客は社交界に不慣れなんだな、くらいにしか見ていないが、亡命貴婦人のフローレンス(エリナ・ラブールデット)やイギリス紳士の実業家スペンサー(ウィリアム・タッブス)、新任給仕の中年ロシア人イゴール(グレゴール・グロモフ)ら少数の人物はエドワールが私生活に悩みがあるんだな、と気づいて気づかいます。パーティーは進み、富豪バーヴィル(ジャン・トゥールー)とその夫人ルーシー(ベティ・ストックフェルド)が先頭に立ってアンコールを求める気配になってきた頃、エドワールは妻が心配なので帰ります、と言い出して叔父を困惑させます。そんなに心配しなくても、と引き留めるムードに、フローレンス夫人は芸術家は繊細だし少しでも奥さまのことが心配なら演奏に手がつかないのは仕方ないですわ、と救いを差し伸べて客一堂は納得しますが、では、とエドワールが去ろうと立ち上がったその時に従兄に連れられた元気なキャロリーヌが到着し、面目を潰されたフローレンス夫人はパーティーを辞去します。キャロリーヌは仕立て直したドレスを客たちに褒められてご機嫌です。叔父も機嫌を直します。イギリス人実業家スペンサーはエドワールの悩みの原因を察し、君は才能あるピアニストだから今後援助したい、困った事があったらいつでも連絡を、とエドワールと名刺を交換します。キャロリーヌが来たのでパーティーはエドワールのアンコール演奏なしに何となく無事に進み、エドワールは叔父に君の売り出しには失敗したな、と漏らしますがお気に入りの姪が社交界の人気者になっているのでまんざらでもありません。パーティーがお開きになり、夫婦はアパートに帰り、そこからこの映画後半1/4におよぶエドワールとキャロリーヌの夫婦喧嘩の決着編になります。
 戦後世代の青年俳優ダニエル・ジェランはジャン・ギャバン主演作『狂恋』'46や『面の皮をはげ』'47、『愛情の瞬間』'52などでは嫌なエゴイストの戦後青年という感じで良い印象を受けませんが、マックス・オフュルスの『輪舞』'50や『快楽』'52、本作などでは自然体の好演で、映画俳優は本当に作品次第だなと痛感します。またこの映画の人物描写は鮮やかな一筆描きといった感じで、パーティーに出かける間際にピアノを聴かせてくれと訪ねてくるアパートの隣りのおばさんルロイ夫人(イヴェット・リュカ)とその息子ジュリアン(ジャン・リヴィエール)を始め、キャロリーヌの叔父とその息子の従兄、亡命貴婦人のフローレンス、イギリス人実業家スペンサー、ロシア人給仕イゴール、ブルジョワ富豪のバーヴィル夫妻など突っこんだ描写でなくそれぞれが登場場面で出てきて振る舞うだけで回想場面や過去語りなどなく(エドワールとキャロリーヌの馴れ初めの過去語り、回想などもありません)、映画中盤夫がパーティーに出て妻がアパートに残るとカットバックで双方が描かれますが、これも含めてすべてが現在進行形で進んでいく映画です。こういう風に回想場面や過去語りを入れないのはベッケルが'30年代を通して助監督に就いたジャン・ルノワールの映画の特徴でもあるわけで、ベッケルが最後に助監督を勤めた大スケールの人物絵巻『ゲームの規則』'39(同作の大赤字でルノワールはハリウッドに渡ることになりました)ですら驚くべきことに回想も過去語りもない現在進行形映画だったのですから、ベッケルは良い先生についたのが『ゲームの規則』に較べるまでもなく映画としては小型の『赤い手のグッピー』や本作にも表れています。映画が小品になるほど内容を濃密にしようと使われがちなのが重層的な回想場面や過去語りなのを思うと小品だろうが大作だろうが現在形映画を貫いたルノワールが'30年代フランス映画では本当に特異な作風で、映画についての考えが基本的にまったく同時代のフランス監督と違っていたということで、ベッケルは小型ルノワールかもしれませんがやはりルノワールの周辺から出てベッケルより1歳だけ年長で29歳で夭逝したジャン・ヴィゴの遺作で唯一の長編映画『アタラント号』'34がやはり現在形映画で夫婦喧嘩映画だったのを思うと、ヴィゴが夭逝せず円熟した中年期を迎えたらヴィゴの場合もっと破調で辛辣な映画だったかもしれませんが、それでもいちばん近いのはベッケルだったはずで、この映画はオフュルスみたいに舌を巻くような手品的趣向ではありませんし、同時代に日本公開されていたら「フランスの松竹映画」扱いされていたかもしれず、ホームドラマの松竹ですら戦後は問題作路線の方が話題になっていたくらいですから見かけの保守性の方が日本公開を見送られた理由でしょう。しかし映画の本質的な部分では本作は戦後映画の話題作『肉体の悪魔』などよりずっと古びない新しさを持った作品で、それがこの小佳作を当時意外なフランスでの大ヒット作品にし、ベッケルの代表作ではなくてもベッケルの地味な良さを伝える映画として残っていて、名作力作と言うほどの作品ではないのがかえって感じの良い映画になっているのもまたベッケルらしいという気がします。力作ではないところが良い、というのは資質の良さが素直に表れている良さが出たということで、これと並べると『巴里の空の下~』のデュヴィヴィエの映画的な無理の理由もわかります。

現代詩の起源・番外編 / 山村暮鳥詩集『聖三稜玻璃』より「A' FUTUR」

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[ 山村暮鳥(1884-1924)、大正2~4年頃(1913~1915年)、第1詩集『三人の處女』(大正2年)~第2詩集『聖三稜玻璃』成立時。]

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『聖三稜玻璃』初版=にんぎよ詩社・大正4年
(1915年)12月10日発行、函・表紙

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  A' F U T U R      山 村 暮 鳥

まつてゐるのは誰。土のうへの芽の合奏の進行曲である。もがきくるしみ轉げ廻つてゐる太陽の浮かれもの、心の日向葵の音樂。永遠にうまれない畸形な胎兒の「だんす」、そのうごめく純白な無數のあしの影、わたしの肉體(からだ)は底のしれない孔だらけ……銀の長柄の投げ鎗で事實がよるの讚美をかい探る。

わたしをまつてゐるのは、誰。
黎明のあしおとが近づく。蒼褪めたともしびがなみだを滴らす。眠れる嵐よ。おお、めぐみが濡らした墓の上はいちめんに紫紺色の罪の靄、神經のきみぢかな花が顫へてゐる。それだのに病める光のない月はくさむらの消えさつた雪の匂ひに何をみつけやうといふのか。嵐よ。わたしの幻想の耳よ。

わたしをめぐる悲しい時計のうれしい針、奇蹟がわたしのやはらかな髮を梳る。誰だ、わたしを呼び還すのは。わたしの腕は、もはや、かなたの空へのびてゐる。青に朱をふくめた夢で言葉を飾るなら、まづ、醉つてる北極星を叩きおとせ。愛と沈默とをびおろんの絃のごとく貫く光。のぞみ。煙。生(いのち)。そして一切。

蝙蝠と霜と物の種子(たね)とはわたしの自由。わたしの信仰は眞赤なくちびるの上にある。いづれの海の手に落ちるのか、靈魂(たましひ)。汝(そなた)は秋の日の蜻蛉(とんぼ)のやうに慌ててゐる。汝は書籍を舐る蠧魚と小さく甦る。靈魂よ、汝の輪廓に這ひよる脆い華奢(おしやれ)な獸の哲理を知れ。翼ある聲。眞實の放逸。再び汝はほろぶる形象(かたち)に祝福を乞はねばならぬ。

靡爛せる淫慾の本質に湧く智慧。溺れて、自らの胡弓をわすれよ。わたしの祕密は蕊の中から宇宙を抱いてよろめき伸びあがる、かんばしく。

わたしのさみしさを樹木は知り、壺は傾くのである。そして肩のうしろより低語(ささや)き、なげきは見えざる玩具(おもちや)を愛す。猫の瞳孔(ひとみ)がわたしの映畫(フヰルム)の外で直立し。朦朧なる水晶のよろこび。天をさして螺旋に攀ぢのぼる汚れない妖魔の肌の香。

いたづらな蠱惑が理性の前で額づいた……

何といふ痛める風景だ。何時(いつ)うまれた。どこから來た。粘土の音(ね)と金屬の色とのいづれのかなしき樣式にでも舟の如く泛ぶわたしの神聖な泥溝(どぶ)のなかなる火の祈祷。盲目の翫賞家。自己禮拜。わたしの「ぴあの」は裂け、時雨はとほり過ぎてしまつたけれど執着の果實はまだまだ青い。

はるかに燃ゆる直覺。欺むかれて沈む鐘。棺が行く。殺された自我がはじめて自我をうむのだ。棺が行く。音もなく行く。水すましの意識がまはる。

黎明のにほひがする。落葉だ。落葉。惱むいちねん。咽びまつはる欲望に、かつて、祕めた緑の印象をやきすてるのだ。人形も考へろ。掌の平安もおよぎ出せ。かくれたる暗がりに泌み滲み、いのちの凧のうなりがする。歡樂は刹那。蛇は無限。しろがねの弦を斷ち、幸福の矢を折挫いてしくしく「きゆぴと」が現代的に泣いてゐる。それはさて、わたしは憂愁のはてなき逕をたどり急がう。

おづおづとその瞳(め)をみひらくわたしの死んだ騾馬、わたしを乘せた騾馬――――記憶。世界を失ふことだ。それが高貴で淫卑な「さろめ」が接吻の場(シイン)となる。そぷらので。すべて「そぷらの」で。殘忍なる蟋蟀は孕み、蝶は衰弱し、水仙はなぐさめなく、歸らぬ鳩は眩ゆきおもひをのみ殘し。

おお、欠伸(あくび)するのは「せらぴむ」か。黎明が頬に觸れる。わたしのろくでもない計畫の意匠、その周圍をさ迷ふ美のざんげ。微睡の信仰個條(クリイド)。むかしに離れた黒い蛆蟲。鼻から口から眼から臍から這込む「きりすと」。藝術の假面。そこで黄金色(きんいろ)に偶像が塗りかへられる。

まつてゐるのは誰。そしてわたしを呼びかへすのは。眼瞼(まぶた)のほとりを匍ふ幽靈のもの言はぬ狂亂。鉤をめぐる人魚の唄。色彩のとどめを刺すべく古風な顫律(リヅム)はふかい所にめざめてゐる。靈と肉との表裏ある淡紅色(ときいろ)の窓のがらすにあるかなきかの疵を發見(みつ)けた。(重い頭腦(あたま)の上の水甕をいたはらねばならない)

わたしの騾馬は後方(うしろ)の丘の十字架に繋がれてゐる。そして懶(ものう)くこの日長を所在なさに糧も惜まず鳴いてゐる。

(以下雑誌発表形末尾連、詩集『聖三稜玻璃』決定稿では削除)

おお、日本。私は汝(そなた)のために薔薇の戴冠式を踵の下で祝するぞ。汝は童話の胸に凭れた騾馬か。
わたしを待つのは汝ではない。それは見えぬ彼女だ。彼女と相見るところの現實の中心、おお、爪立てる黎明のゆびさき。大空を楯としてわたしと夢のながい凝視、それが、又、無始無終の刹那を創り、孤獨の無智への飛躍をする。

わたしの騾馬はうしろの丘の十字架に繋がれている。そして懶くこの日長を所在なさに糧も惜しまず鳴いてゐる。

 (大正3年=1914年5月「風景」、
かなづかい・正字表記は詩集に従いました。)


 山村暮鳥の第2詩集『聖三稜玻璃』中で唯一の散文詩にして最長の作品。この詩集は以前取り上げましたし、少し前に八木重吉の詩集をご紹介した際にも言及しました。八木重吉が明治大正詩人の中で学生時代もっとも傾倒していたのが北村透谷であり、第1詩集『秋の瞳』(大正14年8月刊)編纂中に刊行すぐに購入していたのが大正13年12月に逝去した山村暮鳥の遺稿詩集『雲』(大正14年1月刊)で、大正13年1月のノートには山村暮鳥の既刊詩集・エッセイ集全冊を購入予定の詩書の筆頭に上げており、入手し得る限り読んでいたと推定されることにも触れました。北村透谷と山村暮鳥はキリスト教伝道者を本職としていた詩人であり、やはり透谷と同時代の明治詩人・宮崎湖處子とともにキリスト教伝道者で英文学者でありながら詩人を兼ね、晩年には(湖處子の場合はもっと早く)教会本部から解職されており、八木重吉は熱烈な無教会派クリスチャンでイギリスのロマン派詩を愛読した英語教師の詩人でしたから、湖處子には言及・証言がないものの透谷と暮鳥に対する関心は詩と信仰の両面からのものであったと思われ、また具体的に暮鳥の『雲』の作風は八木重吉の『秋の瞳』の作風と近似しています。しかし八木は暮鳥が『雲』の作風に移る前から『秋の瞳』に収録される詩編を書き始めており、八木は当時(現在でも)の詩人には珍しく第1詩集刊行以前は詩の投稿も同人誌参加も詩人との交流もまったくなかったので、八木から先輩詩人の暮鳥への影響もあり得ず、結果的に暮鳥晩年の詩集『雲』の作風が、偶然にまだ世に出ない詩を書いていた八木の作風と近似していた、ということになります。
 ただし暮鳥はその変化が批判の原因にもなったほど劇的な作風の変化があった詩人で、日本の現代詩最初の口語詩運動から詩人として出発し、後期象徴詩的な第1詩集『三人の處女』'13(大正2年刊)に続く第2詩集『聖三稜玻璃』'15(大正4年刊)ではまだヨーロッパでダダイスムもシュルレアリスムも起こっていなければ当時同人誌仲間だった萩原朔太郎、室生犀星も第1詩集を出していない時期にダダ/シュルレアリスムを予告するような詩集を書いており、同詩集は室生犀星による山羊革表紙の豪華天金装丁による自費出版でしたが同人誌仲間の萩原、出版した室生も評価を留保する前代未聞の実験的詩集で、折り悪く暮鳥が英訳から翻訳出版した『ドストエフスキー書簡集』と『ドストエフスキー評伝』の翻訳書やボードレールの英訳からの重訳が誤訳だらけだったのと合わせて『聖三稜玻璃』は悪評の集中を浴びてしまいます。その後に暮鳥は意識的に作風を変えメッセージ性の強い人道主義的な平易な雄弁体の長詩の詩人となり、その時期の代表的な詩集が『風は草木にささやいた』'18(大正7年刊)で、続く詩集『梢の巣にて』'21(大正10年刊)、選詩集『穀粒』'22(大正11年刊)も『風は草木にささやいた』を継ぐものでした。
 山村暮鳥が晩年になぜ初期の口語象徴詩や『聖三稜玻璃』期の作風、『風は草木にささやいた』期の作風から淡々とした平易な短詩の詩集『雲』に作風を変えたか、第1詩集から逝去する10年足らずの間にこれだけ変遷のあった詩人ですし、晩年1年間は結核の病状悪化で休職・解職されほとんど病床にあった人ですから短詩や作風の恬淡化は健康状態に伴う変化だったかもしれません。しかし「A' FUTUR」(フランス語でfuturは香水、a'は献辞)のような詩は暮鳥の作品歴でも詩集『第三稜玻璃』の時期(『雲』と同時に暮鳥が編纂を済ませていた拾遺詩集『黒鳥集』には『第三稜玻璃』期の拾遺詩集の部があり、また大正6年刊のエッセイ集『小さな穀倉より』'17は『聖三稜玻璃』期のエッセイを集めて散文版『聖三稜玻璃』の趣向を持つものです)しかないだけに、このとびきりの突然変異的散文詩はいったい何なのだろうと読むたび驚嘆します。また雑誌発表形の末尾の「おお、日本~」の1連を詩集収録に当たって割愛したのは適切な添削と思います。なおこの詩集の山羊革表紙は当然性的な含みもあるでしょう。

2018年秋アニメ(10月~12月)首都圏版放映リスト

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 2018年秋アニメもほぼ第1話が出揃いました。見落としもあるかもしれませんし、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』のようにあと数話で終わり、まだ後続作品が判明していない枠もありますが、以下のリストで首都圏版の2018年深夜秋アニメ(10月~12月)は大体網羅しています。首都圏外の地域でも新作アニメの放映ラインナップは同一と思われますので、ご参考になれば幸いです。

●日曜日

[新]ユリシーズ ジャンヌ・ダルクと錬金の騎士
TOKYO MX 1 22:00~22:30

[新]DOUBLE DECKER! ダグ&キリル
TOKYO MX 1 22:30~23:00

[新][再]ラブライブ!サンシャイン!!TVアニメ2期
TOKYO MX 1 23:00~23:30

[新]RELEASE THE SPYCE
TOKYO MX 1 23:30~00:00

[新]アニマエール!
TOKYO MX 1 00:00~00:30

バキ
00:30~01:00
TOKYO MX1

[新]終電後、カプセルホテルで、上司に微熱伝わる夜。
TOKYO MX 1 01:00~01:05

[新]ガイコツ書店員 本田さん #1
TOKYO MX 1 01:35~01:50

[新]ひもてはうす
TOKYO MX 1 01:50~02:05

●月曜日

[再]アニマエール!
TOKYO MX 1 19:00~19:30

[新][再]交響詩篇エウレカセブン
TOKYO MX 1 19:30~20:00

[新]兄に付ける薬はない!2-快把我哥帯走2-
TOKYO MX 1 21:54~22:00

[新]あかねさす少女
TOKYO MX 1 22:30~23:00

[新]ゴールデンカムイ[第2クール]
TOKYO MX 1 23:00~23:30

[新]転生したらスライムだった件
TOKYO MX 1 00:00~00:30

[新]蒼天の拳 REGENESIS
TOKYO MX 1 00:30~01:00

[新]宇宙戦艦ティラミスII
TOKYO MX 1 01:00~01:10

[新]転生したらスライムだった件
tvk 1 01:00~01:30

[新]狐狸之声
TOKYO MX 1 01:10~01:25

[新]おとなの防具屋さん
TOKYO MX 1 01:25~01:30

キャプテン翼
テレビ東京 1 01:35~02:05


●火曜日

[新]アイドルマスターSideM 理由あってMini!
TOKYO MX 1 21:54~22:00

[再]アニメの神様『ドラゴンボールZ』
TOKYO MX 1 22:00~22:29

[再]アニメの神様『新機動戦記ガンダムW』
TOKYO MX 1 22:29~23:00

[新]東京喰種:re
TOKYO MX 1 23:00~23:30

[新][再]幼女戦記
TOKYO MX 1 00:30~01:00

[新]人外さんの嫁
TOKYO MX 1 01:00~01:05

[新][再]僕の彼女がマジメ過ぎるしょびっちな件
tvk 1 01:00~01:30

[再]やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続 *後続作品未定
TOKYO MX 1 01:05~01:35

[新]風が強く吹いている AnichU
日テレ 1 01:34~02:04

[新][再]おそ松さん
テレビ東京 1 01:35~02:05

[新]CONCEPTION
TOKYO MX 1 01:40~02:10

中間管理録トネガワ AnichU
日テレ 1 02:04~02:34

●水曜日

[新]ほら、耳がみえてるよ!
TOKYO MX 1 22:24~22:30

[新][再]B-PROJECT~鼓動*アンビシャス~
TOKYO MX 1 23:30~00:00

[新]ソラとウミのアイダ
TOKYO MX 1 00:00~00:30

カードファイト!!ヴァンガード
tvk 1 01:00~01:30

[新]RErideD-刻越えのデリダ-
TOKYO MX 1 01:05~01:35

[新]俺が好きなのは妹だけど妹じゃない
TOKYO MX 1 01:35~02:05

●木曜日

[新]特番性ミリオンアーサー Part1
TOKYO MX 1 22:00~22:30

[新]からくりサーカス
TOKYO MX 1 22:30~23:00

バンドリ!TV
TOKYO MX 1 23:00~23:30

[新]メルクストーリア -無気力少年と瓶の中の少女-
TOKYO MX 1 23:30~00:00

[新]ゾンビランドサガ
TOKYO MX 1 00:00~00:30

[新]神ノ牙-JINGA-
TOKYO MX 1 00:30~01:00

[新][再]からかい上手の高木さん
tvk 1 01:00~01:30

[新]でびどる!
TOKYO MX 1 01:05~01:20

BANANA FISH<ノイタミナ>[字]
フジテレビ 01:05~01:35

[再]BanG Dream!ガルパ☆ピコ
TOKYO MX 1 01:20~01:35

アニ☆ステ ★古坂大魔王と超特急リョウガが送るアニソンランキング番組
TOKYO MX 2 01:30~02:00

[新]学園BASARA[字]
TBS 1 01:43~02:13

[新]BAKUMATSU[字]
TBS 1 02:13~02:43

●金曜日

[新]火ノ丸相撲
TOKYO MX 1 22:00~22:30

[新]やがて君になる
TOKYO MX 1 22:30~23:00

[新]抱かれたい男1位に脅されています。
TOKYO MX 1 00:00~00:30

[新]とある魔術の禁書目録III
TOKYO MX 1 00:30~01:00

[新]ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風[デ]
TOKYO MX 1 01:05~01:35

[新]宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち
テレビ東京 1 01:23~01:53

[新]おこしやす、ちとせちゃん
TOKYO MX 1 01:35~01:40

[新]うちのメイドがウザすぎる!
TOKYO MX 1 01:40~02:10

[新]寄宿学校のジュリエット【アニメイズム】[字]
TBS 1 01:40~02:10

[新]閃乱カグラ SHINOVI MASTER -東京妖魔篇-
TOKYO MX 1 02:10~02:39

[新]色づく世界の明日から【アニメイズム】
TBS 1 02:10~02:40

●土曜日

[再]はたらく細胞
TOKYO MX 1 21:00~21:30

[新]となりの吸血鬼さん
TOKYO MX 1 22:00~22:30

カードファイト!!ヴァンガード
TOKYO MX 1 22:30~23:00

22/7 計算中
TOKYO MX 1 23:00~23:30

[新]青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない
TOKYO MX 1 23:30~00:00

[新]ソードアート・オンライン アリシゼーション
TOKYO MX 1 00:00~00:30

[新]ベルゼブブ嬢のお気に召すまま。
TOKYO MX 1 00:30~01:00

[新]SSSS.GRIDMAN
TOKYO MX 1 01:00~01:30

[新]ゴブリンスレイヤー
TOKYO MX 1 01:30~02:00

バートン・グリーン・カルテット Burton Greene Quartet - クラスター・カルテット Cluster Quartet (ESP, 1966)

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バートン・グリーン・カルテット Burton Greene Quartet - クラスター・カルテット Cluster Quartet (Burton Greene) (ESP, 1966) : https://youtu.be/Za8_jUPmhBo - 12:08
Recorded in January 1966.
Released by ESP Disk as the album "Burton Greene Quartet", ESP 1024, 1966
[ Personnel ]
Burton Greene - piano, Marion Brown - alto saxophone, Henry Grimes - bass, Dave Grant - percussion

 バートン・グリーンは'37年生まれ、ご覧のジャケット・ポートレートの通りデカダン詩人のよう容貌が目を惹く白人ジャズマンとしてフリー・ジャズ界から活動を始めた珍しいピアニストで、白人ジャズ・ピアニストでフリー・ジャズに入った人には先輩格にポール・ブレイがいましたが、ブレイはハード・バップ時代からチャールズ・ミンガスとマックス・ローチの共同レーベルのDebutからデビューしていて、ソニー・ロリンズのサイドマンも勤めており、いわば出自のしっかりしたジャズマンでした。グリーンはと言えば最初からフリー・ジャズのピアニストとしてデビューしたので、このアルバムや当時のライヴでもマリオン・ブラウンやヘンリー・グライムズ、ゲストに迎えたファロア・サンダースら黒人メンバーはいいのにグリーンのピアノは駄目、と不評で、グリーンはフリー・ジャズに見切りをつけて新発明のムーグ・シンセサイザーに活路を見出し、メジャーのコロンビアにシンセサイザー音楽のアーティストとして迎えられることになります。
 グリーンが不運だったのはフリー・ジャズ支持者はインテリの批評家が白人黒人批評家問わず多くフリー・ジャズは急進的かつ尖鋭的な黒人ジャズ運動とされたので、一部の白人ジャズマンを除いては認められるのが難しかった事情があります。フリー・ジャズというと滅茶苦茶や出鱈目という安易なイメージがありますが実際のフリー・ジャズのほとんど全部が調性もあれば和声も旋律(音階)もある音楽なので、西洋楽器を使っている以上当然そうなり、ジャズマンは演奏に肉声やノイズ的ニュアンスを与えることで新しい響きを出そうとしました。この曲などはABB=12小節形式のシンプルでオーソドックスなブルース曲で、楽曲自体に新しいアイディアはまったくありませんし、グリーンだけでなく駆け出し時代のマリオン・ブラウンも稚拙な演奏で凄腕ベーシストのグライムズでもっているような演奏です。しかしこれは稚拙だからこそチャーミングな演奏で、この曲だけの輝きがあります。グリーンはのちジャズ界に復帰しますが処女作ならではの若気のいたりの良さがある本作は今でもひっそりと愛聴されていて、このアルバム巻頭曲だけでも忘れがたいアルバムになっているのです。

映画日記2018年9月25日・26日 /『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(13)

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 廉価版ボックスセット『フランス映画パーフェクトコレクション』の『ジャン・ギャバンの世界』既刊3集には数本の日本初DVD化・世界初DVD化作品が収録されていましたが、今回ご紹介するサッシャ・ギトリ監督、ミシェル・シモン主演の日本未公開作品『毒薬』'51は昨年2017年にアメリカの古典映画復刻レーベル、Critirion社から世界初Blu-ray化された作品で、日本盤もこれが初DVD化となる見逃せない発売です。コスミック出版の10枚組の海外パブリック・ドメイン映画の各種『パーフェクトコレクション』シリーズが油断がならないのはこうして毎月2セットずつ西部劇や戦争映画やミュージカル映画、ホラー映画、冒険映画などをリリースしており、日本未公開、日本初DVD化、世界初DVD化作品を著名作と組み合わせて発売していることで、しかもコスミック出版の場合は書籍扱いの書店売り作品としてリリースしているため(つまり「本」扱いのため)に映画雑誌や映画情報サイトでは正規の映像ソフト会社による「DVDリリース」として記録されないので、公式には日本盤DVD化作品とは見なされないのです。なのでコスミック出版のDVDボックスを取り扱っている通販サイトか、直接コスミック出版の通販か書店売りにしか情報がないため、この『毒薬』は映画誌のDVDリリース情報にも各種映画データベースにも載らずじまいになります。ギトリはフランスでは国民的劇作家・俳優・映画監督と見なされているそうですが欧米諸国全般でもまだ再評価の途上にある映画監督で、日本にはほとんど紹介されておらず筆者も数本学生時代にシネクラブ上映で観る機会があったきりで、この『毒薬』はコスミック出版のボックスセットで初めて観る作品になりましたが、フランスの怪優ミシェル・シモンをご存知の方なら見逃せないシモンの野卑な魅力の爆発した怪作です。合わせて『花咲ける騎士道』'52はジェラール・フィリップ主演の著名作で、戦後のフランス映画でも人気の高い娯楽作で昔は毎年のように地上波テレビ放映されていた定番中の定番ですから、こちらは安心して楽しんで観直しました。なお今回も作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。

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●9月25日(火)
『毒薬』La Poison (Gaumont, 1951)*82min, B/W : 1951年9月25日フランス公開
監督:サッシャ・ギトリ(1885-1957)、主演:ミシェル・シモン、ジャン・ドビュクール
・寂れきったフランスの片田舎。ポールと妻の関係は完全に冷えきっていた。夫婦は互いを殺そうと思案し、妻は毒薬を手に入れ、夫は腕のいい弁護士からうまい殺し方を聞き出した。そして夕食時ポールは妻を刺し殺し……。

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 上のDVDパッケージのあらすじで設定は簡潔に紹介されています。主演俳優のミシェル・シモンはジャン・ルノワールの『素晴らしき放浪者』'32、ジャン・ヴィゴの『アタラント号』'34を一度でも観た観客には忘れることはない強烈な傍若無人のおっさん俳優で、シモン戦後の主演作というだけでも本作は待望の日本版DVD発売です。『フランス映画パーフェクトコレクション』に収録されていたギトリ監督作『あなたの目になりたい』'43はギトリ自身が主演でしたが、同作では高級レストランのショーで有名俳優の物真似芸人が出てきて同じ台詞と芝居を俳優ごとに物真似芸する、という趣向でミシェル・シモンの物真似から始めてルイ・ジューヴェの物真似で締める、ギトリ演じる主人公は「上手いもんだ」と喜ぶ、というシーンがありましたが、本作はギトリは脚本・監督に専念して出演はせず、ギトリのお気に入り俳優であろう本物のミシェル・シモンを起用してノリノリで作ったのが伝わってくる、シモン自身も乗りに乗って演じているのがわかる楽しい殺人コメディ映画になっています。この題材が楽しいというのはそれだけで十分不謹慎なのですが、本作はギトリの戦前作『夢を見ましょう』'37以来のギトリ作品へのシモン主演作で、「ギトリ晩年のブラック・コメディ傾向を示した傑作」(英語版映画サイト「The Film de France」の評、星は満点の★★★★★)とされています。映画の舞台は田舎町リュモンヴィルで、結婚30年を越えた不仲で憎みあう初老のポール(ミシェル・シモン)と悪妻ブランディン(ジェルメーヌ・リューヴェ)のブラコニエ夫妻がいがみあっている様子から始まり、庭師のポールは友人のアンドレ(フランスの喜劇王ルイ・ド・フュネスが演じています)を始め町の人気者ですし、夫婦の不仲の噂は町中に広まっていて巨体で太ったガミガミ婆さんの悪妻ブランディンは町のおかみさん連中にも嫌われています。ある日ポールはラジオで殺人事件の被告を100人無罪にした弁護士、オーバネル(ジャン・ドビュクール)のインタヴュー番組を聴き、「殺しは必ずしも殺人ではない」というオーバネル弁護士の雄弁を傾聴します。夫婦の仲はいよいよ一触即発の様相を体し、毎晩決まりきった食卓で妻がワイングラスを睨む目つきにポールはナイフを握りしめます。翌日妻ブランディンは町の薬屋(ジョルジュ・ビュベール)に砒素を買いに行き、ポールはオーバネル弁護士を訪ねます。「妻を殺しました」とポールは切り出し、食卓のナイフで刺し殺してしまったこと、口喧嘩の末で計画的ではなく衝動的であることを話し、オーバネル弁護士からどういう状況なら弁護に有利であるかを尋ね、妻の方に殺意はあったか、格闘になったか、などなどを聞き出します。では弁護を依頼します、とポールは辞去し、その晩の夕食で妻はワインに砒素を入れてグラスに注ぎますが、ポールは妻と大げさに手短かに口論すると腹部に食卓のナイフを突き刺します。花瓶を投げて格闘の痕跡を作るとポールは「妻を殺した!」とドアを開けて大騒ぎします。たちまち町中にいいかげんに噂が広まり、「ブラコニエさんの奥さんが砒素を買ったんだ!」と(ポールが毒殺されたと勘違いして)現場に駆けつけてきた薬屋は、アンドレにまあ落ち着け、とポールのワインを勧められて飲み、即死して昏倒します。
 ここまでで映画は折り返し点で、いわば一種の倒叙推理小説仕立てになります。倒叙推理ものとは犯人側の視点から犯行を描く手法で、ヒッチコックの『ロープ』'48や『見知らぬ乗客』'51、『ダイヤルMを廻せ!』'54がそうで、『断崖』'41や『疑惑の影』'42、『汚名』'46もその変種ですし、『サイコ』'60は倒叙ものに見せかけて実は、という手法で、テレビシリーズ「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」がそのものずばりです。さて、妻殺しの容疑で拘置されたポールはオーバネル弁護士との接見を求めます。依頼通りお願いします、とにやにやするポールに弁護士は相談に来た時はまだ事件は起きていなかったではないか、と絶句しますが、ポールはだから先生に教わった通りにやりましたよ、と悪びれるそぶりもありません。裁判が始まり、夕食すぐに口論になり花瓶を投げつけられたので身の危険を感じカッとなって食卓のナイフで刺した、毒入りワインのことは知らなかった、というポールの自供は薬屋から妻が砒素を買った記録と薬屋自身の証言、知らずに毒入りワインを飲んでしまった薬屋の死という異様な状況もあって圧倒的にポールに有利に進みます。オーバネル弁護士は被告に不利な証言はできませんし、ポールが事前にラジオ番組を聴いていたことをアンドレ始め友人たちは知っていますがポールの味方なので不利なことは忘れています。オーバネル弁護士が雄弁をふるうまでもなく町中がポールの味方ですし、警察、検察側も完全に飲まれてしまいます。ポール自身は妻殺しを堂々と認めていますし、町中の人々が夫婦の不仲と悪妻ブランディンの日頃の言動や人柄を知っていますから誰もがポールの無罪に有利な証言をします。ついにはオーバネル弁護士よりもポール自身が積極的に弁論するようになり、町中の人々が喝采を送ります。裁判は進み、とうとう判決が言い渡される日がやってきます。そして……。
 ――と、一応結末はぼかしておきますが、こういう具合にたいへん人を食った殺人コメディ映画です。作者ギトリは本作製作時65歳ですから、60代の現役映画監督など映画史上ほとんどいなかった当時、これだけやりたい放題やってのけていたギトリと同年輩の映画監督はなく、ハリウッドではセシル・B・デミルやヘンリー・キング、ラオール・ウォルシュらが数少ない60代監督でしたがハリウッド映画の倫理コードとプロデューサー・システムに従った「本音と建て前」的な、本音はもっと違うメッセージを秘めているにしても見かけは健全な市民道徳に忠実な映画を作っていたので、ハリウッド映画が面白いのはそのあたりの多重性が表向きの物語と映画自体が与える感動にしばしば複雑な歪みを与えているからですが(ヘンリー・キングの『拳銃王』'50や『キリマンジャロの雪』'52が何を伝えたい映画なのか即座に説明できる人はいないでしょう)、ギトリはもう本当に誰にも何の遠慮もしていなくて、ただただ面白おかしく「こういうのがあったっていいじゃないか」という思いつきをそのまま映画にしています。こういう話をいつもギトリは考えていて、その時々で映画にしてきたのが、今回『夢を見ましょう』以来ひさしぶりにミシェル・シモンをキャスティングできたのが先か、『毒』の企画を立ててからシモンを呼んだのかわかりませんが、とにかくギトリの監督、シモンの主演でなければ『毒』は成り立たなかった映画でしょう。当然これを可能にしたのもギトリの実績とフランスの映画界で、ギトリの再評価は「カイエ・デュ・シネマ」派の批評家・監督から始まったのですがヒッチコック全作品へのロング・インタヴュー『映画術』'66を敢行したフランソワ・トリフォーが倒叙形式の犯罪スリラーを際立って多く作ったヒッチコックに「サッシャ・ギトリの『毒』という映画が……」と話題に持ち出した形跡はないようですから、田舎町の夫婦喧嘩殺人(実は謀殺)という地味な題材の本作は当時トリフォーも見逃していたかもしれませんし、アメリカ公開されたとは思えませんが(当時は内容的にも不可能だったでしょう)、ヒッチコックは前記の諸作で犯罪者がまんまと成功するラストをやりたかったとも発言していますので、『毒』を観たらギトリにしきりに羨望し、「ハリウッドではできないな」と苦笑したのではないでしょうか。またミシェル・シモンの役ができるハリウッドのスター俳優も思いつかないですし、ヒッチコック自身の発想がもっと次々とサスペンスが重なっていくツイストの効いた作風なので、比較的『毒』に近いのはオフビートな殺人コメディ『ハリーの災難』'56ですがヒッチコックがもっとも趣味に走って興行成績不振だった作品です。今でこそ『毒』のような趣向の映画は少なくとも倫理コードには引っかからなくなりましたが、それでも本作の人を食った仕上がりは結末まで観客を面食らわせるもので、オフュルスの映画同様フランス映画でもまったく規格外の観があり、しかもギトリは亡命監督オフュルスと違ってずっと好き勝手な映画を作ってきたのです。

●9月26日(水)
『花咲ける騎士道』Fanfan la Tulipe (Les Films Ariane, Filmsonor, Les Films Amato, 1952)*100min, B/W : 1952年3月21日フランス公開
監督:クリスチャン=ジャック(1904-1994)、主演:ジェラール・フィリップ、ジーナ・ロロブリジーダ
・ジプシー娘に「軍人になれば末は王女のお婿様」と予言されたファンファン。入隊した彼は王女と会うために城に忍び込むが……。シンプルなストーリーと、テンポのよい展開で、フランス剣戟映画の最高傑作とされる。

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 日本公開昭和28年(1953年)1月24日、ベルリン国際映画祭銀熊賞(準グランプリ)、カンヌ国際映画祭監督賞受賞作。原題は王女が賊に襲われているのを助けた主人公ファンファン(ジェラール・フィリップ、1922-1959)が馬車の女性が王女と知ってチューリップの花を与えられ、「チューリップの騎士ね」と呼ばれたことから取った『チューリップの騎士ファンファン』で、本作の底抜けに明るい色男の騎士ファンファン役は本作の日本公開年昭和28年10月のフィリップ来日時にはフィリップの愛称として定着していたほどで、和製フィリップとして売り出した岡田真澄も「日本のファンファン」と呼ばれたくらいなので、フィリップは出世作『肉体の悪魔』'52から晩年の『モンパルナスの灯』'58、『危険な関係』'59までどちらかと言えば翳りのある官能的な色男役が多いのですが、こんなので映画賞穫っちゃっていいのというくらい楽天的な近世フランスチャンバラ活劇の本作一発で快男児ファンファンのフィリップのキャラクターが愛されることになった作品です。映画は田舎の村の青年ファンファンが村娘といちゃついているのを見つかり「責任を取って結婚しろ!」と娘の父親始め村人たちに追いかけられるのを振り切って逃げる途中でジプシーの占い師の娘に「あなたは軍人になって軍功を上げて王女と結婚するわ」と言われて志願兵募集所に逃げこみ、村人たちに追いつめられますが「王の兵士に手は出させん」とすんでの所で兵卒登録して村娘との結婚を免れます。入隊したファンファンはすぐにジプシー娘と再会し、これで軍功を上げて王女を妃にめとるんだ、と浮かれますが、ジプシー娘は募兵官で軍隊長(ジャン・パレデス)の娘アドリーヌ(ジーナ・ロロブリジーダ)の扮装で、周りの新兵たちも「おれは将軍になると言われた」「おれもおれも」と志願兵集めのための偽占いだとからかわれるも、「ぼくへの予言は本物だ」と信じて疑いません。そしていろいろあってこの田舎の小部隊の新兵ファンファンが本当に軍功を上げて褒美に王女を妃に迎えるまでが、西洋チャンバラ・コメディ映画『花咲ける騎士道』です。本作は本国公開翌年にすぐに日本公開されたので、当時のキネマ旬報の近着外国映画紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ]「青ひげ」のクリスチャン・ジャックが監督した一九五二年作の時代活劇で、「春の凱歌」のルネ・ウェレルとルネ・ファレが合作したストーリーをクリスチャン・ジャック、アンリ・ジャンソン(「青ひげ」)、ルネ・ウェレルの三人が脚色し、台詞はジャンソンが担当している。撮影は「快楽」のクリスチャン・マトラ、音楽は「沈黙は金」のジョルジュ・ヴァン・パリスと「天井桟敷の人々」のモーリス・ティリエの共同である。主演は「愛人ジュリエット」のジェラール・フィリップと「街は自衛する」のジーナ・ロロブリジーダで、以下「二百万人還る」のノエル・ロックヴェール、「港のマリイ」のオリヴィエ・ユスノ、「天井桟敷の人々」のマルセル・エラン、ジャン・パレデス(「巴里の醜聞」)、アンリ・ロラン(「青ひげ」)、ジャン・マルク・テンベールなどが出演する。なお、この映画はカンヌ映画祭で監督賞をうけた。
[ あらすじ ] 十八世紀、レエス戦争が続いていたころ、ジプシイ娘に「軍人になれば末は王女のお婿様」と予言されたファンファン(ジェラール・フィリップ)は早速募兵官のところに行き契約書に署名したが、実ばジプシイ娘は募兵官(ジャン・パレデス)の娘アドリーヌ(ジーナ・ロロブリジーダ)で彼女の予言は軍人集めのためのてであった。事情を知っても予言を信じこんだファンファンは連隊に向う途中偶然王女の危難を救い、ますます自分の将来に自信をもってしまったが、入営して軍隊に厭気がさし演習を怠けて営倉に入れられ、すぐ脱獄して隊内に大騒ぎを起した。しかしその時膠着状態だった戦争が再開され彼の軍も前線に行くことになった。連隊の駐屯地は王城の近くで、彼は王女(シルヴィ・ペライオ)に会おうと城に忍びこんだが忽ち捕って死刑の宣告をうけた。前から彼に愛情を抱いていたアドリーヌは自分のインチキ予言にも責任を感じ単身王の許に行き特赦を願った。彼女の美貌に感じ入った王(マルセル・エラン)は特赦の勅命を出し、お礼に参上した彼女によからぬ振舞いに及ぼうとしたが彼女は夢中で王に平手打ちを喰わして逃げ出し事情を知った侯爵夫人(ジュヌヴィエーヴ・パージュ)によって修道院に匿まわれた。報せをうけたファンファンは早速修道院に向ったが、先廻りした王の部下とアドリーヌの奪い合いになり、力尽きたファンファンたちは地下道に落ちのびた。地下道の終りは意外にも敵軍の司令部で、彼らは咄嗟の機転で敵の司令官を捕虜にし司令部にフランス国旗を立てた。彼らの殊勲でさしも長かったレエス戦争も終り、ファンファンはめでたくアドリーヌと結婚することができた。
 ――本作公開の昭和28年('53年)度のキネマ旬報外国映画ベストテンは1位『禁じられた遊び』、2位『ライムライト』、3位『探偵物語』で、『禁じられた遊び』がなければ『ライムライト』と『探偵物語』の一騎打ちだったでしょうが『禁じられた遊び』が好くも悪くも10年に1本というような強力な映画だったので2位と3位はこうなった観があり、こういう年には『花咲ける騎士道』のような娯楽に徹した時代劇コメディは高い人気とヒット実績があってもベストテンには入りません。フィリップの秋の来日は外国の映画スターの来日などめったになかった当時話題を席巻し、ジャーナリズムはこぞって日本の映画スターとのフィリップの対面を記事にして俳優たちからフィリップへの印象記を聞き出し、自然体で優雅で繊細なフィリップへの好印象が強調されました。この映画ではフィリップ演じる新兵ファンファンにすべてが都合が良く運ぶようにできており、王女と王の愛人の侯爵夫人(ジュヌヴィエーヴ・パージュ)が乗り合わせる馬車を盗賊から偶然救うのも、隊長に取り入りアドリーヌに懸想しファンファンを罠にはめようとする軍曹(ノエル・ロックヴェール)が自滅するのも、ルイ15世王が王宮侵入で獄中に送り死刑判決を下したファンファンの恩赦のために訪れたアドリーヌを気に入り愛人にしようと迫るのを侯爵夫人が匿うのも、アドリーヌへの愛を自覚し獄から逃れたファンファンが追っ手の隊長と友人の中年新兵と合流するうちににらみ合いになっていた敵軍をかき乱し軍勢を混乱させ、秘密の通路に逃げこむと敵軍指令基地作戦会議室の真下に通じていて、たった3人で敵軍司令部を占拠しあっぱれ戦勝してしまい、勝手な戦術であったが見事であった、褒美に昇進と王女を姫に取らせる、といって出てくるのが王が養女にしたアドリーヌ、という結末にいたるまで一分の隙もない御都合主義で貫かれており、そこが楽しいおとぎ話の騎士物語に徹した本作の良さなので、カンヌ国際映画祭監督賞受賞作にしては脚本も演出も荒っぽいですし、このくらいの映画はいつの時代にもいくらでもあるとも言えますが、逆に'50年代前半は世界的に映画がリアリティや現代性を重視し始めていて、映画のカラー化が進んだのも'50年代前半からですがそれも'40年代までの華やかさではなくリアリティの強調から作られるカラー映画が増えてきた。そうした傾向に逆行するように戦後映画のスターのフィリップを起用して健全明朗なチャンバラ活劇を作ったのが真面目で重厚な映画ばかりの中では異彩を放ち、過大評価かもしれないがたまにはこういう映画を持ち上げたっていいじゃないか、とヴェテラン監督クリスチャン=ジャックへの慰労もこめてカンヌとベルリンでの受賞につながったのでしょう。これでヴェネツィアでも受賞していたら世界三大国際映画祭トリプル受賞になっていたところですが、同年のヴェネツィアのグランプリは『禁じられた遊び』だったのでフランス映画への枠は埋まっており、また自国映画は軽喜劇が主流のイタリアでは『花咲ける騎士道』はノミネートされてもさほど高くは買われなかった作風に思えます。本作の荒っぽさは美点でもあって、結末で結局ルイ15世はアドリーヌに手を出したのか、愛人の侯爵夫人が策を弄して上手くまとめたか、何の説明もなく王の養女になって出てきて主人公と結ばれてめでたしなので、どうせ都合の良い話なのだから都合の良い部分は全部主人公にとって具合良く運んだと観客が解釈してほしいという作りなので、映画全体が主人公(とヒロイン)を幸福にするためにお膳立てされているのですから作中省略されている箇所が目立つのも荒っぽさなら、映画のテンポを良くしているのもその効用です。フィリップはけっこうアクションもこなしていますし大したアクションではなくてもアクション俳優ではなく色男のフィリップがやるから見ものなので、本作の次作はルネ・クレール作品では『悪魔の美しさ』'50に続く『夜ごとの美女』'52でやはりコメディ作品で好演し、'54年には『パルムの僧院』'48以来のスタンダール原作映画『赤と黒』(監督クロード・オータン=ララ、脚本 ジャン・オーランシュ&ピエール・ボスト)で悲劇路線の大ヒット作を放つ、とフィリップ人気はまだまだ続きます。フィリップ程度の二枚目俳優なら今の日本だってと見えるかもしれませんが、西洋映画(日本映画でも)の俳優はこの時代まだ乗馬は演技力の基本中の基本で、乗馬に必要な体幹力がいかに高度かつ体幹力が運動能力の基礎となるのを思えば、フィリップはアクション能力を備えた二枚目スターのそろそろ最後の世代('30年代以降生まれの映画俳優はアクションが決まらないのがリアリティになっていきます)だった感慨も湧きます。

クラウス・シュルツェ Klaus Schulze - Are You Sequenced ? (WEA, 1996)

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クラウス・シュルツェ Klaus Schulze - アー・ユー・シークエンスド? Are You Sequenced ? (WEA, 1996)
Recorded at Hambuhren, KS Moldau Musik Studios, February to March 1996 & at the concert in Derby, England, 27 April 1996. Bonus studio track from 1993
Released by WEA Records Eye Of The Storm ‎0630 16324-2, September 27, 1996
Reissued by Revisited Records REV 048 SPV 304982 DCD, May 19, 2006
Produced and Composed by Klaus Schulze
(Tracklist)
(Disc 1) Are You Sequenced ? (excerpt) : https://youtu.be/9ZWz8yt_tto
1. Welcome To The Moog Brothers - 6:28
2. Vocs In The Dark I - 4:23
3. Vocs In The Dark II - 10:04
4. No Frets - No Bass - 9:39
5. Valle De La Luna - 9:00
6. Are You Sequenced ? - 3:14
7. Moogie Baby Goes Solo - 7:18
8. Moldanya - 10:21
9. Vidanya - 2:11
10. The Wizard Of Doz - 10:22
11. Are We Getting Lost ? - 6:50
(Original WEA Eye Of The Storm Disc 2)
1. SQ 1 (Essentials) - 17:25 (Edited by Pete Namlook)
2. Voices In The Dark I (Lite Mix) - 8:13 (Remixed by Thomas Fehlmann)
3. SQ 2 (Extended Mix) - 8:10 (Remixed by Sam Pels)
4. Flutish Baby (Humate Mix) - 7:38 (Remixed by Humate)
5. SQ 3 (Subsonic Affair Mix) - 7:43 (Remixed by Jorg Schaaf)
6. Voices In The Dark II (Chill Mix) - 8:32 (Remixed by Peter Kuhlmann)
7. SQ 4 (Short Cut) - 4:29 (Remixed by Pete Namlook)
(Reissued SPV CD Bonus Disc 2)
1. Vat Was Dat ? : https://youtu.be/x-pjBKWwm20 - 77:35
[ Personnel ]
Klaus Schulze - electronics

(Reissued SPV "Are You Sequenced ?" 2CD Liner Cover)

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 前作『In Blue』は原文の英文インサート・ノートによると「ライヴ、テクノ、サウンドトラック、オペラ、ボックスセットなどの企画を除くと4年ぶりの新作」と名打ったものでしたから、シュルツェにとってはスタジオ録音のレギュラー・アルバムの前作は'90年の『Miditerranean Pads』か'91年の『Beyond Recall』がスタジオ録音のレギュラー・アルバムで、その間10枚におよぶアルバム(大半は2枚組大作)は企画アルバムだった、という意識があったことになります。『In Blue』が'77年の『Mirage』から'79年の『Dune』、聴きようによっては'74年~'75年の『Picture Music』や『Timewind』まで彷彿とさせる往年のファンへのサーヴィス精神に満ちたアルバムで、アシュ・ラ・テンペル~コズミック・ジョーカーズ・セッション~ヴァーンフリート・プロジェクト以来のマニュアル・ゲッチング(ギター)との共演を含んでシュルツェ&ゲッチングのコラボレーションの最良の部分を抽出したトラックを含むのも胸のすくものでした。
 翌'96年にリリースされたシュルツェ通算32作目、2つの10枚組未発表音源ボックスセット『Silver Edition』'93、『Historic Edition』'95を入れると52作目になる本作は、ワーナー傘下のWEAレコーズのEye Of The Stormレーベルからの初発売ではディスク1にアルバム『Are You Sequenced ?』本体、ディスク2に現代テクノのアーティストによるリミックス・ヴァージョンを収めていました。'90年代にシュルツェは現代テクノのオリジネイターとして新しい世代から見直されたので、アルバム『Are You Sequenced ?』自体は『In Blue』よりはテクノ寄りとはいえシュルツェ旧来の作風(11曲に分かれていますがシームレスで全曲を通して1曲です)をアップ・トゥ・デイトした趣きがありますから、これを現代テクノのアーティストがどう料理するかは興味深い試みでしたが、シュルツェの音楽はミックス込みでシュルツェの音楽なのを理解していてあまり大胆ではなく、これならいっそ『Blackdance』'73~『Dune』'79までのシュルツェの古典的アルバムから勝手にリミックスさせた方が面白いリミックス・ディスクになったのではないかという気がします。シュルツェはSPV版決定版再発リリース時にはリミックス・ディスクは外し、ディスク2には1枚1曲の長大な未発表曲「Vat Was Dat ?」に収めました。この改訂もリミックスに気をとられずに済む分妥当に思われます。今回はアルバム本編からは試聴用サンプル音源のリンクしか引けませんでしたがボーナス・トラック曲はまるごと聴けますので、主客転倒ですがご容赦ください。なおタイトルはやはり『Are You Experienced ?』のもじりなのでしょう。この辺の微妙なセンスもシュルツェらしい感じがします。

映画日記2018年9月27日・28日 /『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(14)

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 フランスの20世紀後半の映画の中で、おそらくもっとも広く観られていて人気が高く、特に映画好きの人でなくてもタイトルが浸透している作品は候補はいくつか上げられますが、中でもポピュラー性の点でずば抜けて際だっているのは『禁じられた遊び』'52ではないでしょうか。イタリアの少年残酷物語『靴みがき』'46(監督ヴィットリオ・デ・シーカ、アカデミー賞外国語映画賞受賞作)を(皮肉をこめて)「戦後映画唯一の傑作」と絶讃したのはオーソン・ウェルズですが、メキシコ版『靴みがき』の少年残酷物語『忘れられた人々』'50の監督、ルイス・ブニュエルが人に勧められて観て絶讃を惜しまなかったのがアカデミー賞外国語映画賞受賞作『禁じられた遊び』で、ナルシソ・イエペスのギターだけの主題曲もあって、映画の実物を観ていない人にもよく知られているように『禁じられた遊び』は戦災孤児の少女(というより5歳ですからほとんど幼女、童女)のお墓作りごっこの映画、という陰惨極まりない物語です。ヴェネツィア国際映画祭グランプリに輝いた同作はアメリカでもアカデミー賞最優秀外国映画賞受賞作となり(当時の外国語映画賞の呼称はアカデミー賞名誉賞でしたが)、日本でも反戦映画の感動的名作と大評判になりぶっちぎりでキネマ旬報外国映画ベストテン1位を獲得して名画座の定番になり、ゴールデンタイムにテレビ放映もされ原作小説のロングセラーとともに長い人気を誇り、この2018年9月にはデジタル修復版のリヴァイヴァル上映もされました。また今回ご紹介するもう1本『白い馬』'53は中編映画ですが、カンヌ国際映画祭グランプリ(短編賞)を受賞し、監督のアルベール・ラモリスはその後も『赤い風船』'56(再びカンヌ国際映画祭グランプリ短編賞受賞)、長編『素晴らしい風船旅行』'60などで「映像詩人」と呼ばれた人で、『禁じられた遊び』といい『白い馬』といいうさんくさいことこの上ないと正常な感覚の人(タイトルだけで『この世界の片隅に』とか『君の膵臓を食べたい』などという映画には拒否反応が起こる人)には思えるような映画ですが、さて『禁じられた遊び』や『白い馬』はどうか。なるべく楽しい感想文になればいいなと思います。なお今回も作品解説文はボックス・セットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、映画監督の生没年、フランス本国公開年月日を添えました。

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●9月27日(木)
『禁じられた遊び』Jeux interdits (Silver Films=Les Films Corona, 1952)*87min, B/W : 1952年5月9日フランス公開
監督:ルネ・クレマン(1913-1996)、主演:ブリジット・フォッセー、ジョルジュ・プージュリイ
・第二次大戦下の南仏、幼いポーレットは両親と愛犬を失う。以来、彼女は墓を飾る十字架を盗むようになり、大騒動を巻き起こしてしまう。N・イエペスの主題曲も有名な傑作。第25回アカデミー賞で名誉賞を受賞。

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 日本公開昭和28年(1953年)9月6日、キネマ旬報昭和28年度外国映画ベストテン1位(2位『ライムライト』、3位『探偵物語』)、ヴェネツィア国際映画祭グランプリ、アカデミー賞名誉賞(のちの外国語映画賞)、NY批評家協会賞外国映画賞、英国アカデミー賞作品賞(総合)、ブルーリボン賞外国作品賞と世界の映画賞を総なめにした本作は、公開当時キネマ旬報近着外国映画紹介では「戦争映画」のジャンルで紹介されていましたし、映画の設定も大戦まっただ中の1940年のフランスの田舎の村の一家に拾われた戦災孤児の5歳の女の子の話ですから、実際に戦災孤児問題がまだなまなましかった終戦7年目の1952年には戦災孤児問題を扱った反戦映画と観られたでしょうし、そういう見方で観客は本作に感動し全世界がぼろぼろ泣いた国際版『二十四の瞳』'54(監督・木下恵介)のような映画ではないか、というのが歴史的な位置づけとしては一応の前提だと思います。戦後フランス映画の潮流である「心理的リアリズム」は脚本家ジャン・オーランシュ&ピエール・ボストのコンビが悪しき典型をなしている、と指弾したのは批評家時代のフランソワ・トリュフォーの'54年1月発表の評論「フランス映画のある種の傾向」で、トリュフォーは人気脚本家コンビのオーランシュ&ボストが手当たり次第に文学作品を脚色・映画化し、「原作に忠実」と謳いながら反戦・反宗教(カトリック)的場面を隙あらば創作挿入すること、結果原作に忠実でもなければ戦後の反戦・反宗教思潮のムードにおもねって映画自体が類型化していることを激しく糾弾したものでしたが、映画監督たちについてはルネ・クレマンだけをコラムに設け「才能ある監督だがオーランシュ&ボスト脚本の『鉄格子の彼方』『禁じられた遊び』で才能を浪費している」として次回作『しのび逢い』はレイモン・クノーの脚本というから期待したい、としています。トリュフォーが批判する反戦・反宗教(カトリック)要素は本作には満ち満ちていますし、筆者は読んだことがありませんが角川文庫のロングセラーだった原作小説もオーランシュ&ボストの脚色以前にそういう小説なんじゃないかと思いますが、トリュフォーも映画監督としての力量は当時の監督中随一と認めたクレマンは『居酒屋』'56や『太陽がいっぱい』'60の監督になる人でもあるわけで、映画に本心なんかちっともこめてはいないし人間やら心理やらを描く気などもこれっぽっちもない、技巧的なのではなく技巧そのものにしか関心のない徹底した冷血映画監督で、要は映画の腕前で観客を振り回すことに全力を尽くしている人なので、性格としてはアメリカのスクリューボール・コメディの監督に近いし、フランスの監督では少し年長のジョルジュ=アンリ・クルーゾーに近く、もっと言えばはっきりと技巧家を自負したアルフレッド・ヒッチコックに近い自覚から映画を作っていた節があります。オーランシュ&ボスト脚本でもジャン・ギャバン主演作『鉄格子の彼方』'48はクレマンの手腕で戦前のギャバン主演作『地の果てを行く』'35や『望郷』'37、『霧の波止場』'38の戦後版リメイクのようなパロディ寸前の作品ながら戦後のギャバン主演作が軒並み監督の腕前が悪いのに較べると段違いに優れた映画でしたし、シャーリー・テンプル映画に発情したエッセイを書いて非難を浴びたグレアム・グリーンのような小説家も戦前にいましたが、『禁じられた遊び』は反戦・反宗教は隠れ蓑で、端的に言えば5歳の幼女に魅惑された10歳くらいの少年がせっせと貢ぎ物をする話です。この場合少年も幼すぎますから性的な感情はありませんし幼女の方も誘惑している気はさらさらない。亡命ロシア人作家ウラジーミル・ナボコフが英語で書いた長編小説『ロリータ』をフランスで刊行するのは'55年8月ですから(真っ先に絶讃したのはナボコフと同世代のグレアム・グリーンです)『禁じられた遊び』の方が早い。しかも5歳児のヒロイン映画とは映画史上初の実験だったはずで(映画史上で子供視点から子供たちの世界を描いた映画は小津安二郎『生まれてはみたけれど』'32、ジャン・ヴィゴ『新学期・操行ゼロ』'33というのが定説ですが、小学生たちが主人公でした)、また本作は小学生が観ても理解はできない映画なので(その点も小学生の感性で理解できる『生まれてはみたけれど』『新学期・操行ゼロ』とは違います)、大人の観客にとって本作は幼女鑑賞映画になっているのが反戦・反宗教メッセージ以前の楽しみになっている。フランス映画はのちに母を亡くした幼稚園児の幼女映画『ポネット』'96(監督ジャック・ドワイヨン)を記録的大ヒット作にし、同作のヒロインは5歳でヴェネツィア国際映画祭主演女優賞を受賞しましたが(出演は4歳時)、『ポネット』も原型は『禁じられた遊び』にある「肉親の死に直面した幼女」の設定を引き継いでいるので、ドワイヨンは母親を交通事故死で亡くした幼女が母の死を認識するまでを丁寧に描きましたが、クレマンは直截に観客へのショックを目的に作っているのでまかり間違ってもメッセージありきの映画ではないのです。本作のキネマ旬報近着外国映画紹介はあらすじを伝えて手際が良いので資料的価値込みで引いておきます。解説末尾のリヴァイヴァル上映の付記はデータベース上で追加されたものです。
[ 解説 ]「ガラスの城」のルネ・クレマンが監督した一九五二年作品。戦争孤児になった一少女と農家の少年の純心な交情を描くフランソワ・ボワイエの原作小説を「肉体の悪魔」のコンビ、ジャン・オーランシュとピエール・ボスト、それにクレマンが共同で脚色した。台詞はオーランシュ、ボスト、原作者ボワイエの三人。撮影は「ドイツ零年」のロベール・ジュイヤール、音楽はナルシソ・イープスの担当。出演者はクレマンが見出したブリジット・フォッセーとジョルジュ・プージュリーの二人の子役を中心に、リュシアン・ユベール、スザンヌ・クールタル、ジャック・マラン、ローレンス・バディら無名の人たち。なおこの作品は五二年のヴェニス映画祭のグランプリとアカデミー外国映画賞を受賞した。2018年9月1日より2Kデジタル版(日本語字幕新訳)を上映(配給:パンドラ)。
[ あらすじ ] 一九四〇年六月のフランス。パリは独軍の手におち、田舎道を南へ急ぐ難民の群にもナチの爆撃機は襲いかかって来た。五歳の少女ポーレット(ブリジット・フォッセー)は、機銃掃射に両親を奪われ、死んだ小犬を抱いたままひとりぼっちになってしまった。彼女は難民の列からはなれてさ迷ううち、牛を追って来た農家の少年ミシェル(ジョルジュ・プージュリー)に出会った。彼は十歳になるドレ家の末っ子で、ポーレットの不幸に同情して自分の家へ連れ帰った。ドレ(リュシアン・ユベール、スザンヌ・クールタル)家では丁度長男のジョルジュ(ジャック・マラン)が牛に蹴られて重傷を負い、大騒ぎしているところだった。ポーレットはミシェルから死んだものは土に埋めるということを始めて知り、廃屋になった水車小屋の中に彼女の小犬を埋め十字架を立てた。墓に十字架が必要なことを知ったのも彼女にとって新知識であり、以来彼女はこのお墓あそびがすっかり気に入ってしまった。ジョルジュは容態が悪化して急死した。そのとき、隣家のグーアル(アンドレ・ワスリー)の息子フランシス(アメデー)が軍隊を脱走して帰って来た。グーアル家とドレ家は犬猿の仲だったが、フランシスとドレの娘ベルト(ローレンス・バディ)とは恋仲であった。ジョルジュの葬式の日、ドレは葬式馬車の十字架がなくなったことに気づいたが、これはミシェルがポーレットを喜ばすために盗んだのだった。ミシェルは更に教会の十字架を盗もうとして司祭(ルイ・サンテーブ)にみつかり、大叱言を喰った。しかしミシェルとポーレットはとうとう教会の墓地まで出かけて、たくさんの十字架を持ち出した。ジョルジュが死んではじめての日曜日、ドレ一家は墓参に出かけたが、ジョルジュの墓の十字架がなくなっているのを見て、ドレは、グーアルの仕業にちがいないと思い込み、そこへ来たグーアルと大格闘をはじめた。しかし司祭の言葉で盗んだのはミシェルだとわかり、ドレはミシェルが何のために十字架を盗んだのか理解に苦しんだ。翌朝、ドレ家に二人の憲兵が訪れた。ドレはてっきり十字架泥棒がばれたものと思ったが、実はポーレットを孤児院にひきとりに来たのだった。ミシェルの必死の懇願にもかかわらずポーレットは連れさられた。雑踏する駅の一角、ポーレットは悲しく母を呼び求めて、ひとり人々の間を駈け去って行った。
 ――この突き放すような結末に公開当時の観客は唖然とし、今観ても本作がすごいのは基本は不幸のジェットコースター・ムーヴィーで、機銃掃射で父親も母親も同時に死に(この両親役は実際にヒロインの両親が演じており、児童心理カウンセラーが撮影に付き添って幼女をケアする配慮を配ったという『ポネット』とやり方は違いますが、映画と現実は別物と納得させる配慮が『禁じられた遊び』でも行われたことを示します)、抱いていた愛犬も死んで「死んでるじゃないか」と通りかかった人に橋下の川に投げ捨てられ、その犬の死骸を追って川辺に下りていくうちに農家ドレ家のミシェル少年と出会うわけですが、少年の家では長男が牛に蹴られて瀕死の騒ぎでどさくさ紛れに幼女は屋根裏部屋においてもらえることになります。少年の姉娘はいがみ合っているグーアル家の息子と恋してしょっちゅう逢い引きしており、幼女ポーレットはミシェル少年に教わって犬の墓を作りますがそれをきっかけに小動物の墓作りに熱中し始めます。ミシェル少年の姉娘ベルテはたがいの家にばれないように納屋や野原を恋人との逢い引きの場所にしていて、ポーレットの墓作りのためにせっせと十字架を自作したり盗んでいる弟ミシェルの行動に気づきますがおたがいが秘密を握っているので明かせない。牛に蹴られた長男は亡くなりますが、葬儀の場で棺に掲げた十字架の紛失(ミシェル少年が盗んでいた)にいがみあうグーアル家の仕業と思い込み、さらに墓地からの大量の十字架盗難事件(姉娘ベルテは目撃していましたが逢い引きの最中だったので隠しています)もグーアル家の仕業と思いグーアル家の墓地を滅茶苦茶にして復讐しますが、ミシェル少年の教会の十字架盗難未遂を見咎めていた司祭によって十字架盗難事件はすべてミシェル少年の仕業と明かされ、賠償金に悩むドレ家に警察がついに訪ねてきて、グーアル家とのいざこざではなく届け出を出していた戦災孤児ポーレットの引き取りと気づいてミシェル少年は十字架は全部返すからポーレットを家に置いてやってと頼んで隠し場所の水車小屋を白状しますが、ポーレットは引き取られていってしまいます。ミシェル少年は水車小屋に駆けつけ十字架を次々と川に投げ捨てます。一方ポーレットは赤十字のシスターと施設に向かうためごった返す駅にいますが、シスターがちょっと待っててね、と離れた隙に雑踏の中で「ミシェル!」と呼ぶ声を聞き、ミシェルの名を呼びながら一目散に雑踏の中に消えていきます。5歳の女児が雑踏の中に行方不明になるという衝撃的な結末は今観てもすごいので、戦災孤児の映画には違いありませんし十字架を小動物のお墓作りにして、結末ではポーレットを失ったミシェル少年が川にどしどし盗んで貯めていた十字架を捨てるのは反宗教的・涜神的には違いないですがエモーションは反戦メッセージや反宗教にはないので、ポーレットのお墓作りは突然の両親や愛犬の死に直面して生き残った幼女が思いついた(ミシェル少年から教わった)鎮魂の儀式なのが直接的に伝わってきますし、ミシェル少年が水車小屋に貯めこんだ十字架を川に投げ捨てるのは十字架の宗教的意味ではなく十字架を貢ぐ相手だったポーレットが突然連れ去られて二度と会う可能性すら無くなったからです。ポーレットがどさくさ紛れでドレ家に置いてもらえたのは長男ジョルジュが牛に蹴られててんやわんやという谷岡ヤスジ的状況だったからですし、ミシェルがポーレットに貢ぐための十字架泥棒に姉娘ベルテが気づいていながら話せないのはグーアル家のフランシスとの逢い引きといつもかちあってしまう(これも谷岡ヤスジ的)からで、ジョルジュの葬儀が終わってようやくドレ夫妻が戦災孤児の届け出を出していたのもドレ家とグーアル家の格闘で本人たちも損害賠償の方で警察のお世話になるのを心配していて閑却していましたがしっかり届け出をしていたわけで、この田舎ホームドラマはコメディではあってもメロドラマではなく、徹底してドライで猛スピードで展開し、古代ギリシャ演劇からドラマはバッドエンドで終わるのが悲劇(トラジェディ)、ハッピーエンドで終わるのが喜劇(コメディ)ですが『禁じられた遊び』はバッドエンド・コメディ、しかも幼女と少年二人だけの秘密の遊びというメルヘン的で抒情的設定を設けながらやっていることは十字架泥棒と小動物のお墓作りという陰惨さなので、この脚本はオーランシュ&ボストのものだとしても完璧な均整の茹で玉子のようにツルッと仕上げてみせたのはクレマンの冴えに冴えた演出・監督技巧です。ロッセリーニの『ドイツ零年』'51のロベール・ジュイヤールの撮影も素晴らしく、ポーレットとミシェル少年ばかりか素人キャストばかりを起用し、撮影予算で経費を使い切ったから音楽はナルシソ・イエペスのスパニッシュ・ギター独奏だけなのも全部成功しています。10年に1本の映画というのはこういう奇跡の映画を言います。真に名作かどうかとは別の次元で、ここでは空前の達成がすんなり行われており、あのブニュエルすら惜しげもなく絶讃したのは本作の残酷映画としての完成度と本質的な諧謔味を見抜いたからこそであり、『ロリータ』以前の『ロリータ』映画という先見性を予知していたからと思われるのです。

●9月28日(金)
『白い馬』Crin-Blanc (Films Montsouris, 1953)*40min, B/W : 1953年3月フランス公開
監督:アルベール・ラモリス(1922-1970)、主演:アラン・エムリイ、ローラン・ロッシュ
・フランス南部のカマルグに生息する野生馬の群れ。群れを率いるのは「白毛」と呼ばれる気性の荒い白馬だった。人間嫌いの白毛は、漁師の少年フォルコにだけ次第に心を開いていくが、牧夫たちは執拗に白毛を追い……。

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 日本公開平成19年(2008年)7月26日、公式な日本劇場公開は『赤い風船』'56のリヴァイヴァル上映の併映作かつ『赤い風船』との2枚組で日本初DVD・Blu-ray化されるのを機に先行劇場公開された同年になりますが、本作は手頃な中編でもあればカンヌ国際映画祭グランプリ(短編賞)受賞作でもあり、VHSソフト時代のリリースや民生用プリントによる上映会、テレビ放映の機会もあって、よく知られた作品でした。ラモリスはセミ・ドキュメンタリー的な手法で野生動物や航空撮影の映画を撮った監督で、40代で航空撮影中の事故で亡くなりましたが、何しろ発想が野生動物や風船、飛行船とわかりやすい「映像詩」の監督だったので作品も常にポピュラーな成功を収めており、例によって批評家時代のトリュフォーはラモリスの『白い馬』や『赤い風船』を酷評しています。まあ『白い馬』はのちの日本の『キタキツネ物語』やフランス映画『仔熊物語』の原点みたいなもので、『白い馬』の場合は白い野生馬と少年の話ですが、野生馬の群れの中でリーダーに君臨する誇り高い白いたてがみの馬が無垢な漁師の少年にだけは近づかせ、背中に乗せることを許すが、つなぎ留めると逃げて行ってしまう。一方地元のカウボーイ(ボーイといっても当然おっさん)たちは野生馬の群れを訓治しようとして鞭で追い、野生馬の群れの秩序はばらばらになり、たてがみの馬は怒って群れをまた自分に従わせる。カウボーイたちはたてがみの馬に狙いをつけて追い回すが上手くいかず、少年を「お前が捕まえたらくれてやるよ」とからかう。たてがみの馬は追われて少年の元に来て、ついに少年を乗せた馬はカウボーイたちから草原に火を放って追い立てられて海辺に逃れ、そのまま海を渡って向こう岸まで行こうと海に入っていく。潮の流れで流される少年と馬にカウボーイたちは「馬はやるから戻れ!」と呼びかけるが少年も馬もカウボーイの言葉など信じず、ナレーション「そして白いたてがみは少年を人と馬に隔てのない世界に連れて行った」と、はるか彼方の波間に少年を乗せた馬が浮かぶ遠景の映像で終わります。ファミリー映画でも通用するわかりやすい感動の焦点があるのは構わないのでそれをもって通俗的とは言えませんし、40分の中編映画ながらオール・ロケの撮影には野生馬の撮影という困難もあって手間のかかった力作なのもわかります。肝心の野生馬中の野生馬、白いたてがみの馬が実際には映画の設定とは反対によく調教された名馬(そうでなければこの物語の撮影が成り立たない)なのは皮肉ですが、トリュフォーが気にくわなかったのはこの映画がナレーション過剰で、映像を解説して物語っているナレーションが全編に流れていて、極端に言えばナレーションだけ聴いていれば映像不要な映画になってしまっている。スチール写真構成でも大差ないような、映画である必要がない仕上がりになっていることにあるでしょう。この物語には台詞自体は最小限しかありませんから、台詞は音声を使うとしても場面ごとの状況説明はいっそサイレント映画のように簡潔な字幕で示すか、サイレント映画の字幕程度の簡潔なナレーションに抑えて映像に語らしめるべきだったものを、本作は画面上のアクションまでぜんぶナレーションで語ってしまいます。早い話がテレビのドキュメンタリー番組のようにながら観で観ていられる安易なナレーションの用法が決定的に本作を安っぽい作品にしてしまっているので、撮影監督と脚本はラモリスにしてもプロデューサーが実権を握ってちゃんと映像と音声の効果をわきまえた監督に完成させれば相応の佳作になったと思われる。ど素人が観てもそのくらいわかるのですが、公開当時は本作は題材と撮影だけで大評判をとったということでしょう。本作もキネマ旬報新作公開映画紹介のデータを引いておきます。
[ 解説 ] 南フランスの荒地を舞台に美しい白馬と、彼に心を通わせ、次第に深い絆で結ばれていく少年との物語。監督・脚本は「素晴らしい風船旅行」のアルベール・ラモリス。出演は「ブラコ」のアラン・エムリー、「赤い風船」のパスカル・ラモリスほか。1953年カンヌ国際映画祭グランプリ(短編)受賞作。
[ あらすじ ] 南仏カマルダの荒地に野生馬の一群が生息していた。群れのリーダーは"白いたてがみ"と呼ばれる美しい馬だった。地元の牧童たちは、なんとかしてこの馬を捕らえようとしていたがいつも逃げられてばかりいた。ある日、近くに住む漁師の少年フォルコ(アラン・エムリー)は、白い馬が牧童たちに捕まっているのを目撃する。白い馬は檻を破って逃げ出すが、フォルコは馬を見つけて忍び寄った。白い馬はフォルコからも逃げようと、手綱を掴んだままのフォルコを引きずりながら駆け出す。しかし、いつまでたってもフォルコは手綱を放さなかった。やがて、ようやく白い馬は立ち止まる。フォルコは白い馬を家に連れて帰るが、牧童たちがつながれている馬を見つけ、再び馬は逃げ出してしまう。群れの元へ戻った白い馬だったが、すでに新しいリーダーが群れを支配しており、二頭の激しい争いが始まる。結局、怪我を負って群れから追い出されてしまった白い馬を、フォルコが再びかくまおうとする。しつこく追ってくる牧童たち。どこまでも逃げるフォルコと白い馬は、とうとう陸の果てまで来てしまうが、立ち止まりもせずにそのまま海の中へと飛び込んでいく。牧童たちが必死に呼び戻そうとする中、フォルコと白い馬は波の彼方へと消えていくのだった……。
 ――そんな具合で、撮影の労力も工夫も並大抵ではなかっただろう本作は波の彼方へ消えていき、決して褒められた出来ではないのですが観て損はないので(短いですし)、監督も故人ならナレーションをカットした再編集版もその後作られなかったのですが、サイレント映画ではなくてサウンド映画である効果は自然音の扱いに出ているので(それも音楽が邪魔していますが)、これはこれで映画史上の珠玉作と見なされて歴史に名を残している作品です。カット割りや構図の平坦なのは被写体の都合上仕方ないという感じもし、草原に火が放たれる場面でも緊迫感が稀薄なのは起こっている事態は大変でも画面は地味なので(「燎原の火」のように派手に燃えたりはしないので)ナレーションが緊急事態を声高に強調しても何だか作り事っぽい感じしかしないのです。ラストシーンの海だけはさすがに迫力があり、水平線まで何もない広大な荒海の映像というのは人類の遺伝子レベルの感受性に訴えかけてくるものがあって、臭いナレーションが最後のひと言だけ光る部分でもあります。本当にナレーションはこの締めくくりの一文だけだったらどんなに良かったかと思えるので、そういう意味でも本作は映画の見方を教えてくれる作品ではあります。馬と少年と海という道具立てはかなり必殺の取り合わせですし、この映画の取り柄もそれだけですが映画監督の力量がいかんせんアイディア止まりでそれ以上の映画にはならなかった残念賞映画でしょう。まさかカンヌ映画祭が残念賞の意味をこめて表彰したとは思えませんが、残念賞映画の系譜というのがあるとすれば本作はその好例に上がる1作とも言えそうです。

ローウェル・ダヴィッドソン・トリオ Lowell Davidson Trio - "L" (ESP, 1965)

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ローウェル・ダヴィッドソン・トリオ Lowell Davidson Trio - "L" (Lowell Davidson) (ESP, 1965) : https://youtu.be/xomcmbbKJH8 - 8:10
Recorded July 27, 1965.
Released by ESP Disk as the album "Lowell Davidson Trio", ESP 1012, 1965
[ Personnel ]
Lowell Davidson - piano, Gary Peacock - bass, Milford Graves - percussion

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 ローウェル・ダヴィッドソンは1941年生まれで中流家庭に育ち学生時代は吹奏楽団でチューバを吹いていたそうで、大学進学して化学の学士号を取得しているくらいですから大学進学率が30パーセント程度だった当時では家庭も裕福、学業も優秀だったと想像されます。セロニアス・モンクとハービー・ニコルスの影響の下にジャズ・ピアノを始め、ドラムスも叩けたのでラズウェル・ラッドとジョン・チカイのニューヨーク・アート・カルテットの初期メンバーにドラムスで参加した(レコーディングはなし)のを経て最初で最後のアルバムを新興レーベルESPに吹き込みました。ダヴィッドソン24歳、全曲がダヴィッドソン自身の書き下ろしオリジナル曲で、ベースにゲイリー・ピーコック、ドラムスにミルフォード・グレイヴスという格上のサポートを得た録音です。仕上がりは、フリー・ジャズのESPの中ではフリー・ジャズのピアノ・トリオではくくれない珠玉のアルバムになりました。本当はA面2曲目「スタンリー1(Stanley 1)」がさらに名曲なのですが(「スタンリー」とは同世代の新人ジャズ・ピアニスト、スタンリー・カウエルでしょうか)、A面冒頭の、作者自身のイニシャルから採ったと思われる「"L"」もそれに準じる名品です。
 主流ジャズからフリーに移った白人ピアニスト、ポール・ブレイはビル・エヴァンスの影響をくぐってきた人でしたが、ダヴィッドソンもモンク、ニコルスの名を上げながらエヴァンスのヴォイシングから相当学んだ節があり、セシル・テイラーやアンドリュー・ヒルを始めとする黒人の尖鋭的ピアニストの渦巻くような加速感のある演奏とは違った、思索的で沈鬱な印象派的な作曲と演奏に趣味の良さが光ります。音数は最小限に少なく、オスティナート(リフレイン)やブロック・コードもほとんど弾かないのに持続した定則リズムを感じさせるのはベースとドラムスとの息が合い、しっかりした体内ビートをキープしているからで、非常に将来性のあるピアニストでした。
 このアルバム発表後にダヴィッドソンはクラブ出演の契約を獲得しますが、精神疾患の発症から契約をキャンセルし、アルバムも本作きりのままジャズ界から姿を消しました。このアルバムが初CD化されたのは'92年ですが、前年の'91年に逝去していたのが判明し、闘病に明け暮れた生涯だったそうです。日本盤CDは廃盤ですが輸入盤ともども入手は難しくなく、フリー・ジャズながら異色の抒情的印象派ピアノ・トリオ作品として一度聴けばたまに無性に聴き返したくなるアルバムです。こういうオブスキュアなジャズマンこそが歴史の厚みを担っているような気もしてきます。

感謝の20万アクセス到達

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 昨日までで19万1,985アクセスに達していたのでそろそろかな、と思いきや、本日朝方には20万アクセスに到達しておりました。
 ブログの始めが2011年5月12日(だったはず)ですので、始めて最初の夏に2週間緊急入院で中断しましたが、8年5か月もの間毎日更新するのをちまちま続けてきました。記事数は4,500を超えています。
 書いたことは片っ端から忘れているので覚えていることの方が少ないですが、文体・内容とも体裁が整ったのは一昨年(2016年半ば)頃からで、その後でサン・ラのアルバム紹介を書き直して再掲載したのも文体の統一を図ってのことでした。最近2年半くらいに載せた分は出来不出来こそあれ納得していますが、それ以前のものはなくもがなで、何度か過去ログから抹消しようかとしましたがそれも面倒なのと、一度公けにしたのを取り消すのも何ですから残したままです。
 それ以前に載せた創作童話『偽ムーミン谷のレストラン』『ピーナツ畑でつかまえて』『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』『NAGISAの国のアリス』『夜ノアンパンマン』五部作(各原稿用紙換算200枚・総計1,000枚)も内容に問題満載なので改訂版に置き換えるべきでしょうが、きりがないので手つかずです。最近の掲載分だけで十分なのですが、実はこれまでのアクセス数はけっこう無茶苦茶な内容で閲覧いただいたものと思うと冷や汗もので、なんとも畏れ多い気持がします。
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