『淑女は何を忘れたか』(全)
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1937年3月3日公開のこの作品の後、小津は日中戦争(大東亜戦争に拡大中)による出征があり、兵役解除によって帰還し、次作『戸田家の兄弟』が作られ、公開されたのは1941年3月1日になりました。次の『父ありき』は1942年4月1日公開で、小津は再度徴用され(戦況は太平洋戦争に拡大していました)、俘虜期間を含む五年間を戦地で送ります。戦後初の復帰作は1947年5月17日公開の『長屋紳士録』で、次の『風の中の雌鷄』(1948年9月17日公開)とともに敗戦の時事色が強い作品。そして以後の小津作品のスタイルに完全に到達した完成型と呼べる作品『晩春』(1949年9月13日公開)が忽然として現れます。
前作の初のトーキー作品『一人息子』1936は小津のもっとも暗く地味な作品でしたがキネマ旬報4位に選ばれ、「独創性、完全さ、鋭い観察力に満ち」、小津の洞察が「すべて巧みに、聡明に、ひねりのきいた魅力で示されている」と、ドナルド・リチー氏も名著『小津安二郎の美学』1974(翻訳1978)で賞賛しています。リチー氏はさらに続けて、「人間の根本的な価値-愛、友情、人生そのものの価値-についての問いかけは後期の作品では、いわばついでになされているが、この作品ではその問いかけの声が弱められていない。これは暗く、痛切な、分別のある映画である」と最大の讃辞を送り、さらに小津はいかにして『一人息子』の独創性を作り上げたか説得力のある分析をしています。蓮實重彦『監督 小津安二郎』1983の刊行以降、佐藤忠男『小津安二郎の芸術』1971とリチー氏の著作は古い観点からの小津安二郎論と見做されていた時期が続きましたが、リチー氏の優れた批評は短い引用からも感じていただけたと思います。
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そのリチー氏は『淑女は何を忘れたか』について、こう書き始めています。「『一人息子』で自分の言いたいことをできるかぎり完全に言ってしまうと、小津は例によってほかのものを、今度は新しい環境を探し始めた」。それが山の手の中産上流階級を扱ったコメディでした。「例によって」というのは、これまで小津は連続して似通った題材、似通った切り口では監督作品を作ってこなかったからです。
アイディアは簡単なもので、かかあ天下の大学教授家庭が、ふとしたきっかけで亭主関白になるまでを描いたものです。3月3日公開というのも面白く、女性観客を意識したコメディでもあるかもしれません。
これは初期の『若き日』や『落第はしたけれど』『淑女と髯』以来久しぶりにあらすじを書いても仕方ないような作品で、推理小説と映画は右から左に忘れると言いますが、小津作品にはさすがにそういうものは少ないですが、この作品は楽しく観て、楽しさが軽い分すぐに忘れてしまうような性格の映画です。
佐藤忠男氏は小津自身が最愛の映画監督と認めるエルンスト・ルビッチ作品(『結婚哲学』1922など)からの確かな影響を小津に認め、演出でもことにコンテニュティは初期から晩年までのほとんど全時期にルビッチから学んだ手法が認められる、と指摘しています。ただし『淑女は何を忘れたか』は中産上流階級という小津がそれまで手がけなかった世界(戦後の『晩春』以後は多くなりますが)を描くのに、元々上流階級コメディの多いルビッチ作品からの安易な影響が現れてしまい、内容の薄い作品になったと見ます。ルビッチ作品を華やいだものにしているエロチシズムを小津は描けなかった、という指摘は見事です(少なくともこの作品では、と留保つきで。他の作品では小津も瑞々しいエロチシズムを描くこともあります)。ただ、佐藤氏も、それでも全編に漂うのどかさでこの作品は良しとしており、小津流の娯楽映画だってあっていいわけです。
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いちおうあらすじを書いておきます。映画を観終えるとすぐ忘れるような内容です。
大学教授・小宮(斎藤達雄)の麹町の邸宅では、連日のお茶会で小宮の妻・時子(栗島すみ子)を中心に上流階級夫人ら(飯田蝶子・吉川満子)が自分の夫の不甲斐なさを愚痴って楽しんでいます。そこに大阪から姪の節子(桑野通子)が東京見物に遊びに来ます。節子は小宮の助手でのんきな岡田(佐野周二)と意気投合します。土曜、小宮の妻・時子は無理やり夫をゴルフに行かせて自分は芝居見物に行きます。小宮は行くふりをして銀座へ向かい、そこで会った節子の頼みで芸者遊びに連れて行きます。晩は岡田の下宿に泊めてもらい、アリバイ工作でゴルフに行った友人に現地から絵はがきまで出してもらいますが、結局はすべてバレてしまいます。時子は激怒し小宮は逃げ出しますが、小宮は節子に妻への弱腰を非難されて、家へと戻り時子に平手打ちを食らわします。呆然とする時子でしたが、節子の釈明や小宮の謝罪もあり、時子もまた自分の至らなさを詫びます。翌日、大阪に帰る節子は岡田とお茶を飲みながら結婚について語り合います。また、お茶会で時子は上流階級夫人たちに夫からの平手打ちを自慢して羨ましがられるのでした。
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冒頭に書いた通り、この後小津は徴用され、次作は1941年の『戸田家の兄弟』になります。これは中産上流階級(純粋な上流階級は爵位が必要ですので、こうした表現になります)を再び描いて小津作品では初の大ヒット作となり、評価もキネマ旬報年間ベスト・ワンに輝きました。『淑女は~』で上流階級を描いた試みが次作でいっそうの成果をみた、ということになるでしょう。毎度ダメ男を演じて嫌みのない斎藤達雄、サイレント期の大スターで本作が引退作の栗島すみ子のコメディエンヌぶり、佐野周二のとぼけたコメディ演技も楽しい作品ですが、特に桑野通子の初々しく溌剌とした存在感がこの作品を大戦前夜の制作とは思えないほど明るいものにしています。