『一人息子』(全)
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厳密には前年に、海外への日本文化紹介を目的とした歌舞伎の舞台ドキュメンタリー短編(英語クレジット、英語ナレーション)『鏡獅子』がありますが、通常の劇映画では小津の初めてのトーキー作品がこの『一人息子』です。佐藤忠男氏の『小津安二郎の美学』には、1930年生れの佐藤氏がどのように小津作品に接してきたかが率直に語られていますが、それはごく庶民的な所感なので、氏のように映画雑誌の編集者を経てフリーの映画批評家になったほどの専門家でなくても戦後の小津はどんな映画の、どんな映画監督というイメージがついて回っていたかがわかりますが、佐藤氏が心から小津作品を観て感動し、それまで感じていた距離感が縮まって小津作品への見方が変わったのは『生れてはみたけれど』と『一人息子』を日本近代美術館フィルムセンターで観てからで、小津の逝去間近い頃だった、とありました。遺作となった『秋刀魚の味』は1962年11月公開、同月27日に映画人としては初めて芸術院会員に選ばれます。1963年2月13日にホテル・オークラでその祝賀パーティがあり、佐藤氏はジャーナリストとしてパーティに招かれています。4月に悪性腫瘍のため治療が始まり、12月12日逝去。ちょうど小津の満60歳の誕生日でした。
日本の年間映画観客数が激減し始めるのも、テレビで映画放映が行われるようになるのも1963年です。小津は日本映画が斜陽化にさしかかった年に亡くなりました。また、佐藤氏ほどの専門家でも小津のサイレント期の代表作とトーキー第一作を、官立研究機関所蔵の非商業上映でしか観ることができないのがそれまでの映画環境だったのです。80年代後半には『生れてはみたけれど』や『一人息子』などの戦前作品は、戦後の『晩春』や『東京物語』と並んで(しばしば『晩春』以前の作品と『晩春』以後の作品との組合せの二本立てで)名画座や各種学校のシネマテークで再上映されていました。没後25年以上を経て、かえって若い観客を含む幅広い年齢層から、純粋に面白くて胸にしみる映画として、どの年代に制作された小津作品も楽しまれているのです。
それには、小津の逝去後の日本映画の制作本数の激減もありますし、小津の死からの50年間が生み出した日本映画と、それまでの30年間の日本映画をふるいにかけると今日でも巨匠たちの作品は際立って見えるということでもあり、また佐藤氏の証言からは小津は逝去まで戦後世代からは容易に全体像の見えない映画作家だった、ともわかります。高度成長期の日本映画の制作本数は過去の作品の回顧条件など必要とはしないほどだったのです。しかし小津作品は最新のものでも50年の歳月を越えて観客を集めてきた。今年封切られた新作映画が2065年になっても観客を呼べるかはまったく予測がつきませんが、小津作品は実証済みというのは恐るべきことです。
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佐藤氏が初めて観た小津作品は1948年の『風の中の雌鷄』といいますから、氏は戦後の小津作品をすべて封切り時に観てきた人です。ですが60年代の始めまで『生れてはみたけれど』や『一人息子』を観る機会はなかったのは、佐藤氏が関心がなかったのではなく実際に戦前の小津作品が上映されなかった、ということです。また、敗戦後の日本で小津の新作をすべて観てきた佐藤氏が、『生れてはみたけれど』と『一人息子』を観て初めて小津作品の備えている本質的な素晴らしさに気づいた、というのも貴重な証言でしょう。
佐藤氏は社会主義的な批評家ではなく、日本独自の戦後民主主義を慎重に立場としてきた人ですが、小津作品は『晩春』以後はブルジョワ階級を描き続けてきた、その領域では第一人者だが、ブルジョワ的生活感覚にとどまる映画作家、という印象から評価を踏み出せなかった。ですから『生れては~』と『一人息子』は題材の上で社会的被抑圧階級の世界を扱っており、しかも作者は問題を本質的に見据えて痛切に訴えかけている。ならば『晩春』以後の戦後作品も、作品世界はブルジョワ階級になったとはいえ、『生れては~』や『一人息子』で登場人物たちを描いたのと同じまなざしを持ち続けていたのではないか。
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佐藤忠男『小津安二郎の芸術』からの孫引きが長くなりましたが、同書はドナルド・リチー『小津安二郎の美学』、蓮實重彦『監督 小津安二郎』と較べて不当に軽視、または安易に重視(蓮實氏の著作とは異なる読者層から)されており、この三冊はどれも名著ですが、同じ映画作家を論じてこうも違うのか、というくらい調子の異なる著作です。それこそ管楽器と打楽器と弦楽器ほど違う。
佐藤氏の著作に長々触れたのは、『小津安二郎の芸術』中の『一人息子』論は素晴らしいもので、情理兼ね備えた批評の最上のものでしょう。蓮實重彦『監督 小津安二郎』を賞揚して、佐藤氏の著作を「感想文」呼ばわりする風潮は80年代からありましたが、佐藤氏の著作も初版から45年近く経って今日なお読むに耐える誠実な批評です。だから『小津安二郎の芸術』から『一人息子』の章をまるごと引用すればそれ以上の付け足しは要らないようなものですが、さすがにそうもいかない。ただ、『一人息子』は『生れてはみたけれど』とともに、戦後の小津作品を封切りですべて観てきた優れた批評家さえも、小津監督観を一変させるほどのものだった、ということです。
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松竹、そして小津にはホームドラマに特化した映画制作、という意図があった。しかし佐藤氏の著作(1971年)もリチー氏の著作(原書1974年)も指摘しているのは、小津の一貫したテーマは家族の崩壊であることです。それは蓮實氏の著作(1983年)ではよりいっそう精緻に解読されているので、蓮實氏の著作が多くの若い読者を惑わしたのは蓮實氏による小津作品の解読作業の鮮やかさにテーマ自体が先験的なもののように隠れてしまったからでした。
小津のホームドラマでは家庭はあらかじめ崩壊しているか、崩壊の危機に瀕しているか、ついに崩壊してしまうかです。この自己破壊的なホームドラマが一見崩壊と見えないのは、なんとか最小単位(核家族、または母子家庭)では食い止められているからですが、当時の家父長制の姻戚構成を単位とすれば「戸田家」や「小早川家」といった家系こそが単位でした。
日本映画は、映画だからかというべきか、家父長制的な制約からはアウトローである人間関係や個人を描くことが多かった。なんらかの責務を負わされ、それがドラマを生み出しているにしても、基本的には自由人が主人公であり、ドラマの多くは自由人が不自由と戦う、というものでした。集団が描かれるにせよ、それは志を一つにした自主参加的な集団になります。
小津と並ぶ巨匠たちでも、個人を束縛するものとして描くならともかく、家父長制的な人間関係や具体的な大家族を一定の調和として把握し、その上で家父長制に支えられていた家族を、家父長制の破産とともに崩壊する、という視点から描いた映画作家はいませんでした。危機をはらんだホームドラマという点でよく比較される成瀬巳喜男は早くから核家族化の現実を前提にしています。溝口健二は家庭を描かないことで徹底したアウトロー映画の作家でしたし、黒澤明と家父長制、というのはホームドラマではなく組織集団の描かれ方に現れていますので、しばしば問題にされます。小津は晩年の病床で、見舞いに来た城戸四郎プロデューサーに「やはりホームドラマですよ」と片言のようにつぶやいていたそうですが、観客数の減少から当時制作方針について映画界全体で議論があったことに憂いた発言だとしても、小津自身が描いてきたホームドラマは家父長制の崩壊による家族の解体だったのは、小津没後の観客によって再発見されたことでした。
父親の失権、ということがしきりに論じられ始めたのは60年代半ば以降で、文学では安岡章太郎『海辺の光景』1959、吉行淳之介『砂の上の植物群』1963に続き、決定打というべき小島信夫『抱擁家族』1965の発表から前記の作品群を論じた江藤淳の長編文学批評『成熟と喪失』1966があり、安岡章太郎『幕が下りてから』1967が発表されます。小津の『生れてはみたけれど』は1932年にすでに(前年の『東京の合唱』でも家長の失権は明らかですが)父親の失権を描いていたわけです。
『一人息子』はというと、核家族よりさらに小さい母子家庭の行く末を描いています。今回もゼームズ槇こと小津安二郎自身の原作によるもので、映画について作家主義が問われるようになったのは50年代半ば以降のフランスの映画批評界からですが、小津はデビュー間もない時期から自身の原案で監督作品を作り続けてきました。(以下次回)