ジッドは赤裸々な告白的作家として多くの評者からその率直さを賞賛されましたが、それは後に手札が明かされたからこそで、実際は処女作すら最初から自作として提示できなかった人でした。他人の遺稿という体裁を採らざるを得なかったのは、ジッドにとってはそうでもしなければ作者と作品を分離できなかったからです。もっとも、故人の遺稿集という形式の創作には中世にも古代にも作例があり、『ロビンソン・クルーソー』や『ガリヴァー旅行記』なども架空人物の手記という体裁です。近代フランスでもシャトーブリアンやアベ・プレヴォ、象徴主義の先駆的存在ネルヴァルや象徴主義中の異端児ロートレアモンなどの代表作がそうですし、ジッドにやや遅れてリルケの『マルテの手記』(1907)、ヴァレリー・ラルボーの『A.O.バルナブース全集』(1913)があります。ともにジッド絶賛の作品でした。
だがリルケもラルボーもマルテやバルナブースをリルケやラルボー自身とは切り離している。ジッドのワルテルは作品化されていないジッドそのままでした。
だから小説『鎖を離れたプロメテ』(1899)は意図的に「作者が作品に責任を負わない」試みとして『パリュード』(1895)に続くものでした。『地の糧』(1897)は象徴主義時代の『ユリアンの旅』『愛の試み』(1893)での詩的散文との決別が主題になっています。そして三年ごしに発表された『背徳者』(1902)はジッド32歳にして初めて書かれた本格的な小説作品でした。実にまわりくどい文学的変遷があったわけです。