『美しき小さな浜辺』Une si jolie petite plage (C.I.C.C Dutch European, Darbor Films, 1949.1.19)*85min, B/W : 日本公開平成11年('99年)12月10日
◎監督 : イヴ・アレグレ
◎出演 : マドレーヌ・ロバンソン、ジャン・セルヴェ、クリスチャン・フェリー
○閑散期の小さな浜辺の町を訪れた一人の青年。静養中だと言う青年は、唯一営業しているホテルに滞在することに。数日後、彼の後を追うように中年の男がホテルにやって来る。二人の男の正体は果たして……。
○解説(キネマ旬報映画データベースより) 1999年12月10日に『"俳優"ジェラール・フィリップ・アンコール』として特集上映された。
○あらすじ(同上) 美しい浜辺のホテルにやってきたピエール。彼はある女性歌手のレコードをかけると過剰な反応を示した。彼は孤児で、このホテルで働いた経験があり……。
――キネマ旬報のあらすじはタネを割っていますが、映画の展開ではまず雨の多い海岸町へ、どこか影のある自称"学生"の青年ピエール(ジェラール・フィリップ)がたどりつき、女将(ジャンヌ・マルカン)のホテルに静養に来るところから始まります。ホテルでは自動車修理工の妻で通いのメイドのマルト(マドレーヌ・ロバンソン)と、孤児院から雑用夫に住みこみで酷使されている少年(クリスチャン・フェリー)が働いています。その後、自称"作曲家"のフレッド(ジャン・セルヴェ)がマルトの夫の修理屋に車を預けて同じホテルに泊まりますが、フレッドはピエールを嫌う雑用夫の少年を抱きこみ、ピエールと顔を合わせないように部屋で食事を取り、少年と示しあわせてピエールの身辺を色々探っています。キネマ旬報あらすじの「彼(ピエール)はある女性歌手のレコードをかけると過剰な反応を示した。彼は孤児で、このホテルで働いた経験があり……」とわかってくる、しかもその女性歌手はピエールが来る直前に殺害されていて、まだ女将が代替わりする5年前に今の少年と同じように孤児院から引き取られ雑用夫としてこき使われていたピエールは、旅で立ち寄った女歌手に美貌を見こまれ坊やにスカウトされましたが、パリでの5年間は頽廃した芸能界の生活に巻きこまれて耐えがたいものだった(ピエールが稚児として利用されていたのも暗示されます)のが明らかになってくる。結局ピエールはそんな生活から逃げだすため女歌手を殺害して故郷に逃げてきたのですが、かつての自分と同じような孤児院出の雑用夫の少年がいて愕然とする。またフレッドは実際に女歌手の取り巻きの作曲家で、ピエールを脅迫しに来たのは殺害現場から盗まれていた宝石が目当てとわかる。ピエールは殺害は認めますが宝石泥棒は否認し、諦めたフレッドが修理屋から去る寸前に電話で警察にピエールを通報したのを知ったマルトと夫の修理工はピエールをベルギーに逃がすトラックの手配をし、また雑用夫の少年がホテルの女客相手に売春しているのに気づいていたピエールは去る前に少年に成人して雑用夫を辞められるまで耐えるんだ、安易な道を選ぶと自分のようになると念を押しそれとなく宝石の隠し場所を教えて姿をくらましますが、少年がピエールを追って海辺の小屋を探して浜辺を走り、滞在客の夫婦が浜辺を「美しい小さな浜辺ね」と散歩する姿から急激にカメラがトラックバックして浜辺のロングになるショットで映画は終わります。川や海、砂浜の出てくる映画は泣けるのは人類のDNAレベルの感受性に訴えかけてくるのでサイレント時代ではデリュックの『狂熱』'や『洪水』'24、エプスタンの『まごころ』'23や『地の果て』'29があり、トーキー後の著名作ではヴィゴの『アタラント号』'34、デュヴィヴィエの『望郷』'37やカルネの『霧の波止場』'38、グレミヨンの『曳き船』'41、ルノワールの『素晴らしき放浪者』'32や『ピクニック』'36、『浜辺の女』'47(これは渡米中のハリウッド作品ですが)と名作目白押しなのからも実感できますが、川の場合は人生や運命について考えさせられる一方で、海となるとさらに生と死のニュアンスが強くなってくる。本作では殺人というドラマはすでに終わっていて、逃亡中のフィリップがあてもなく郷里に帰ってくる(地元の人は5年前の少年のフィリップを覚えていない)という、『望郷』や『霧の波止場』のジャン・ギャバンの役柄を謎めいた逃亡者の青年に置き換えた作りになっている。デュヴィヴィエやカルネの'30年代作品を否定的に取らず、それらと'50年代末~'60年代のもっと開放的な映画の橋渡しとなる作品に本作を位置づければ本作が「詩的リアリズム」派の控えめな長所を活かし、戦後の「心理的リアリズム」派の映画の誇張におちいらない節度を保っているのは立派です。『デデという娼婦』では『望郷』の原作小説と同じ作家の原作をアレグレと共同脚色していたジャック・シギュールが本作では単独オリジナル脚本ですが、オリジナル脚本なだけにアレグレの意向をくんだ内容でしょうから脚本偏重と目すのは不当で、カルネ作品を始め数々の名作でも素晴らしい仕事をしてきた名手アンリ・アルカンの撮影もみずみずしく、人物の運命を過剰に描きつくさないまま浜辺で終わる本作の浜辺のわびしい美しさといったらない。のちの戦後世代の新鋭批評家・監督たちは意図的に(戦略的に)本作を無視したのではないでしょうか。
●7月5日(金)
『失われた想い出』Souvenirs perdus (Les Films Jacques Roitfeld, 1950.11.11)*122min, B/W : 日本未公開、映像ソフト初発売
◎監督 : クリスチャン=ジャック
◎出演 : イヴ・モンタン、ベルナール・ブリエ、ピエール・ブラッスール、フランソワ・ペリエ
○パリのある建物には様々な落とし物が保管されている。4つの落とし物「オリシスの彫像」「花輪」「ウサギの毛皮」「バイオリン」にまつわる思い出話が描かれた作品。G・フィリップは3話目に出演している。
――そんな具合に皮肉にもフィリップ主演のエピソードがあるためにこのDVDボックスに収録され、日本初DVD化(世界初DVD化?)された本作はフィリップ主演以外のブラッスール主演、フランソワ・ペリエ主演、ベルナール・ブリエ&イヴ・モンタン主演(映画俳優としてはモンタンはまだブリエより格下だったのがわかります)のエピソードのほうが面白いのですが、フィリップ主演エピソードは同じ逃亡中の殺人犯役でもイヴ・アレグレの『美しき小さな浜辺』のような微妙なニュアンスに欠けていて、オムニバス映画中の短編映画としてもあまりまとまりがない。途中から始まって途中で終わるような話で、浮気な恋人を絞殺して逃亡中のフィリップはたまたまダニエル・ドロルムにかくまわれるのですが、自分が犯行におよんだいきさつを打ち明けているうちに興奮してきて狂乱状態におちいりドロルムを絞殺してしまい去っていくので、第1話メロドラマ、第2話コメディ、締めの第4話がコメディなので緩急をつけるためにこしらえられた犯罪サスペンスの第3話、という感じがしてしまう。フィリップ自身の演技はまずくないだけに独立した短編映画として観るには不足で、またこうした内容は長編映画でもフィリップには似合わないのではないかと疑問に思えるような演出です。フィリップはたとえ犯罪者役でもやはり観客の共感を誘うような役柄がふさわしく、『美しき小さな浜辺』のフィリップもそうでした。本作のエピソードのフィリップは卑小なサイコキラーなので、オムニバス映画中の意外性のある配役としてはいつもながらの熱演があいまってムード・チェンジの役割は果たしても良い役とは決して言えない。このエピソードは第2話同様アンリ・ジャンソンとピエール・ヴェリの共同脚本ですが、ジャック・プレヴェール脚本担当の第1話と第4話含めて全編クリスチャン=ジャックも脚色に加わっているので、メロドラマ→コメディ→犯罪サスペンス→コメディという構成に当たって意図的にあまり単独短編らしくない、全4話中もっとも断章的な内容になっている。千両役者の無駄づかいとまでは言いませんが他の3話がそれなりに気の利いた好短編なだけにフィリップ主演エピソード「ウサギの毛皮」だけがもっと別の内容にはできなかったのかと思えてきます。それでも全体的には本作はおおらかなフランス映画らしい雰囲気の漂う作品で、クリスチャン=ジャックというと時代ものの娯楽監督というイメージですが現代ものでも基本的に作風は同じようなもので、気楽に楽しめるそつない普通の映画ですし、稀少な作品を観られた満足感は十分与えてくれる。ドラノワやオータン=ララのようなハッタリもないので好感も持てるのですが、フィリップ主演の第3話はハッタリとは言わずとも刺激の強い話をと作為の目立つ挿話になっていて、この部分だけ採れば失敗に思えます。今後も単品発売化されるのも日本での正式な劇場公開も再度のテレビ放映もないだろうと珍しい作品のままでしょうが、このDVDボックスでは『美しき小さな浜辺』が比較対象になるために、フィリップの演技の表現力の繊細さが上手く活かされた例と単に熱演にとどまった例を観較べることができる。またフィリップほどの千両役者でも企画と演出によっては単にオムニバス映画中のアクセントでしかない役柄に終わるのもわかるので、どんな映画も手当たり次第に観るとそれなりに見方ができてきます。日本未公開・未DVD化作品でも本作よりは初期端役出演作のイヴ・アレグレ作品『夢の箱』'45を収録してほしかった(または同作を入れて10枚組ボックスにしてほしかった)と思いますが、本作だって観て損した気はしない、70年後には忘れられている現代映画よりはずっと観ごたえのある映画です。
●7月6日(土)
『愛人ジュリエット』Juliette ou la Cle des songes (Les Films Sacha Gordine, 1951.5.18)*89min, B/W : 日本公開昭和27年('52年)12月13日
◎監督 : マルセル・カルネ
◎出演 : シュザンヌ・クルーティエ、ロジェ・コーシモン、エドゥアール・デルモン
○囚人となってしまったミシェルは獄中、すべての人の記憶が失われている「忘却の国」で想い人ジュリエットを探す夢を見る。記憶に飢えた世界で、ミシェルはジュリエットの愛の記憶を蘇らせることができるのか。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「天井桟敷の人々」のマルセル・カルネが、「港のマリイ」についで監督した作品で原作はジョルジュ・ヌヴーの戯曲『ジュリエット或は夢の鍵』。カルネとしてはこの作品の映画化は大戦以前からの宿願であったといわれ、現実と夢との交流をリアリスティクな筆致で描くことで、逆に超現実の味わいを出そうとしている。脚色はカルネの「日は昇る」を執筆したジャック・ヴィオ(「宝石館」)とカルネの協力、台詞は原作者ヌヴウ(「想い出の瞳」)が担当している。撮影および音楽はともに「港のマリイ」のアンリ・アルカンとジョゼフ・コスマで、コスマはこの作品で五一年度カンヌ映画祭音楽賞を獲得。美術は「天井桟敷の人々」のアレクサンドル・トローネ。主演は「悪魔の美しさ」のジェラール・フィリップ、「神々の王国」のシュザンヌ・クルーティエで、以下、ロジェ・コーシモン、エドゥアール・デルモン、イヴ・ロベールらが共演する。
○あらすじ(同上) 青年ミシェル(ジェラール・フィリップ)は牢獄の中で恋人ジュリエットを想い、夢で彼女に会いに旅立った。彼の着いた処は「忘却の国」で、住民達は誰ひとり思い出をもたず、新来の彼から昔の出来事を求めようと必死になった。彼が少女を探しているのを知った貴族(ロジェ・コオシモン)は、村で美しい少女(シュザンヌ・クルウチエ)をみつけ、自分のシャトオに連帰った。村の探偵から迫害されたミシェルはシャトオに逃込み、少女のいることを知って追ったが、彼女は逃げたあとであった。森の中で、ミシェルは少女ジュリエットにめぐり合い、想いのたけを打明けた。彼は牢獄へ入る前、ジュリエットと海岸へ行きたいために店の公金を盗み、その結果捕縛されてジュリエットと別れてしまったのだった。しかし森の少女ジュリエットは過去の記憶をもっていなかった。彼女はミシェルが座を外した時、追って来た貴族(ジャン=ロジェ・コーシモン)に再び連去られ、もうミシェルを思出さなかった。ミシェルはシャトオへ追って、貴族が結婚魔「青髭」であることを知り、必死にジュリエットを呼返えそうとした――ところで眼が覚めた。彼は主人(ジャン=ロジェ・コーシモン)の温情で不起訴となり、釈放されるとすぐジュリエットの家にかけつけたが、彼女は安月給取りの彼を見返り、主人の求婚を承諾していた。現実はミシェルを裏切った。もはや彼の行く処は「忘却の国」しかない。彼は、とある工事場の「危険立入禁止」と書かれたドアを開けて何の恐れもなく進み入った。
――現実のフィリップは貧しい事務員で、同僚の恋人ジュリエットとの旅行のために職場の帳簿をごまかして詐取した横領事件が露見し入獄中なのですが、夢の中では近世風の城下町「忘却の国」のなかで貴族の城主にジュリエットを奪われようとしている。「忘却の国」の住人たちは恋人ジュリエットを含めて追放されて帰ってきた主人公のかつての友人・知人・関係者ばかりのはずなのですが、誰もが主人公のことを覚えてもいなければ人間関係すらリセットされた状態になっている。その貴族の城主の正体は伝説的な結婚詐欺師の花嫁殺害常習犯「青ひげ」だと主人公は直観するのですが、ジュリエットとの結婚宣誓式で主人公は青ひげを告発するも「忘却の国」の住人は青ひげの何たるかを知らず、恋人ジュリエットすら「忘却の国」で出会って恋を囁きあった主人公を忘れはててしまっているのです。城主を告発した主人公はかえって城下町の住人たちを怒らせ、リンチにあいそうになってしまいます。……何度目の夢(どんどん悪くなっていく悪夢)から覚めた主人公は、自分への告訴の取り下げと釈放を告げられます。それは社長が主人公の横領を職務上のミスと免訴あつかいにしたからで、ここで初めて夢の中にでてきた城主「青ひげ」が現実では社長だったのがわかる。また社長が主人公を免訴にしたのはジュリエットからの懇願で、現実のジュリエットは社長からの求婚を受け入れその代わり主人公の免訴を頼んで主人公との関係を清算したいという意向なのが社長から伝言される。現実の絶望的な結果に茫然とした主人公は再び「忘却の国」の夢の中にもどり、リンチから逃れて隠れた工事中の小屋にいる自分を見つけ、「危険につき立入禁止」と札のかかったドアを見つけてドアを明け、そのままドアの向こうの闇の中に消えていきます。映画はそこで終わります。ジャン・ジロドゥかレイモン・クノーのようなリアリズムとファンタジーの融合に巧みな文学者の作品のような趣向ですが、おそらくカルネが拠った原作戯曲、ジョルジュ・ヌヴーの『ジュリエット或は夢の鍵』もそうした系列の作品なのでしょう。監獄の描写は雑居房の囚人たち、刑務官などの様子も含めて非常にリアリスティックで、日本の監獄は亜熱帯気候のため採光窓や通風には配慮してありますが乾燥した気候のフランスの堅牢な牢獄はほとんど薄暗い地下牢と違いこそあれ、入獄経験のある観客には身にしみて伝わってくる現実味があります。一方悪夢化していく主人公の夢想は当初主人公の現実逃避的な夢で、何もかも忘れられた忘却の国で一からやり直したい願望の反映なのですが、次第に現実的な敗北的状況への不安感がそのまま投影されたものになる。カメラマンはカルネ作品常連の名手アンリ・アルカンですが刑務所のリアルな陰影と「忘却の国」の意図的に人工的な照明効果を対比的に描き分けていて、カルネ作品の常で舞台はほぼ全編がスタジオ・セットですが、アルカンはイヴ・アレグレのような屋外ロケでもスタジオ・セットでも非常に繊細な諧調のある陰影を撮影できる力量なのが本作でも遺憾なく発揮されています。本作はことさら戦後映画らしくしようとした無理のない、しかも'30年代~戦時下までのカルネ作品とも違った雰囲気を、カルネらしい丁寧さで完成度の高い作品に仕上げた意欲作でしょうし、フィリップも抑制した演技で名演なのですが、結末の意図的な完結感の放棄も効いているにもかかわらず、どうも話が出来すぎている印象が残る。他人の夢の話ほどつまらないものはないと言いますが、カルネの本作といいクレールの『夜ごとの美女』'52といいこういう夢なら面白いだろうという監督の計算に誤算はありはしないか。カルネなりクレールなりには面白い夢であっても観客には夢の話は映画であってもいくらでも恣意的に作れる分だけ物語への興味が薄れてしまう、という原則を技巧とアイディアでどうにかしようとしているのですが、ファンタジー映画としても現実との接点で夢が左右されていく映画にしても観客が期待する面白さとはどこかかみ合っていない。若手俳優中の実力派スター、ジェラール・フィリップに夢を託したとしても、大ヴェテラン監督のカルネやクレールはとっくに青年の夢想の実感から覚めた年配であり、作りこんだ話ではあるものの環境には夢の話なら都合よく転んで終わりじゃないかと物語自体にサスペンスが感じられなくなる。そうした基本的なことは知り抜いているはずの巨匠クレールやカルネが、しかし俺のは面白いんだと通してなるほど悪くない、辻褄もあってる、しかし面白くもないとなったのが本作やクレールの『夜ごとの美女』で、そういや黒澤明にも『夢』'90があったくらいで、本当に夢幻的、または悪夢的な映画は夢を意図しない時に実現するのを痛感します。無理のない作風に転換しようとした力作かつ意欲作で、ムードや構成はそつなく一貫したカルネらしい丁寧な作品だけに失敗作では決してなく、それだけに何の感銘もない映画に終わっているのが痛ましい。プラスの札をすべてそろえたのに夢という基本的なアイディア(原作の舞台劇では有効だったとしても)の1点でゼロに帰してしまったような印象を受けます。しかしそれなしには本作の企画自体がなかったでしょうし、どうにかならなかったものでしょうか。