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映画日記2019年7月1~3日/ジェラール・フィリップ(1922-1959)の初期出演作(1)

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 ヤフーブログも8月末日で新規記事の投稿が終了になるようですので、1日1本の映画日記もどの辺で打ち切って他ブログに移行しようか思案中ですが、フランス映画を1か月観てきたあとは別の国・時代の切り替えたいとは思うものの前回までに取り上げたコスミック出版の『フランス映画パーフェクトコレクション』には続刊がまだ1本あります。時代・内容ともこれを取り上げないまま別ブログ移行するのも区切りが悪いので、フランス映画つづきにはなりますがご紹介することにします。
○2018年12月10日刊『フランス映画界の至宝~ジェラール・フィリップ コレクション』 (9枚組)1.『狂熱の孤独』'53、2.『美しき小さな浜辺』'49、3.『愛人ジュリエット』'51、4.『フレール河岸の娘たち』'44、5.『白痴』'46、6.『失われた想い出』'50、7.『星のない国』'46、8.『七つの大罪』'52、9.『ボルゲーゼ公園の恋人たち』'53
 ――がその続刊で、既刊の『フランス映画パーフェクトコレクション』に収録されていたジェラール・フィリップ主演・出演作『肉体の悪魔』'47、『パルムの僧院』'48、『悪魔の美しさ』'50、『輪舞』'50、『花咲ける騎士道』'52、『夜ごとの美女』'52はむしろフィリップ主演・出演の有名な代表作ながら重複を避けて外されています。パブリック・ドメイン年限の'53年までのフィリップ出演・主演作はナレーションや短いカメオ出演作品を除けば既刊分と続刊の1巻でほぼ全作揃うので、唯一即時に日本公開もされて他社から単品DVD化もされている主演作『すべての道はローマへ』'49(ジャン・ボワイエ監督、ミシュリーヌ・ブレール共演)が未収録です。また端役出演ながら映画出演2作目のイヴ・アレグレの日本未公開作『夢の箱』'45も未収録で、既刊の『フランス映画パーフェクトコレクション』は各巻10枚組ですからフィリップの巻だって『すべての道はローマへ』か『夢の箱』を入れて10枚組にしてくれれば良かったのにと思いますが、フィリップの巻には9本中日本未公開・日本初DVD化(ひょっとしたら世界的DVD化)作品が3本も含まれており、よほどのファンでも観ていないようなフィリップ初期の出演・主演作が1セットで観られる収録内容になっています。ここでは本国公開順に観ていきますが、同一俳優の出演・主演作を年代順に観るのは監督別・国別・ジャンル別で映画を観るのとも違った面白さがあり、俳優で映画を観るのはむしろごく真っ当な映画の楽しみ方でしょう。また俳優目当てで観るほど構えない映画の見方はないとも言えそうで、極端に言えば出来不出来など二の次に楽しめる気楽さがあります。俳優のキャリアには映画の出来にムラがあっても当然ですが、フィリップ出演・主演作はなかなかの出来の佳作が並ぶのが人気の高さを裏づけます。なお、このフィリップ初期作品集は日本未公開作品も多いため、DVDジャケットから各作品紹介文を引用しました。

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●7月1日(月)
『フレール河岸の娘たち』Les Petites du quai aux fleurs (CIMEP, 1944.5.27)*91min, B/W : 日本未公開、映像ソフト初発売
◎監督 : マルク・アレグレ(1900-1973)
◎出演 : オデット・ジョワイユ、ベルナール・ブリエ、ルイ・ジュールダン
○可憐な四姉妹の織りなす繊細な恋の物語。ロジーヌは姉の恋人フランシスに恋をし、家を飛び出した。その先で出会ったベルトランに説得され家に帰ることとするが……。G・フィリップの銀幕デビュー作。

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 監督のマルク・アレグレはやはり映画監督のイヴ・アレグレの長兄で、ジョセフィン・ベーカー主演作『はだかの女王』'34やブリジット・バルドー主演作『黙って抱いて』'58など職人的な娯楽映画監督のイメージが強いのですが、実は良家出身ばかりか15歳の頃から数年間アンドレ・ジイド(当時47歳)の稚児さんだった(ジイドは少年愛趣味のバイセクシュアルでした)であり、もともと父君がジイドの母方従兄弟かつ公認の親友でジイドの結婚式(もちろん相手は女性)では花婿の介添え人を勤めたという関係でした。ジイドは最初の結婚後に自分の少年愛嗜好に気づいたので、ジイドの性癖は生涯つづきましたがマルク・アレグレは愛人関係が解消してもジイドの年少の友人になり、ジイドの植民地コンゴへの取材旅行に同行してドキュメンタリー映画を撮った('27年)ことから映画界入りし、'30年に短編劇映画、'31年に長編劇映画の監督デビューを果たしています。ジイドにはマルク・アレグレとの関係以降に秘密出版した少年愛賛美の長編エッセイ『コリドン』、コンゴ取材から書いた長編ルポルタージュ『コンゴ紀行』があり、また晩年までの日記も出版され、どれも学生時代に日本語訳を読んでいるので本文訳註なり解説なりにマルク・アレグレへの言及があったかもしれませんが、ジイドの稚児さんが映画監督のこの方だったとは今回アレグレの経歴を調べて初めて知りました。ジイドの仲介でやはり少年愛嗜好の文学者ジャン・コクトーとも親交が深かったそうで、良家出身の上に文化人階層へのコネまであったと何ともフランス文化の色っぽさを感じさせる話で、おそらくアレグレ兄弟の父上本人が青少年時代からのジイドの同性愛嗜好の相手だったのでしょうが、女性と結婚したら初めて自分が少年愛者だと気づいた(ジイド夫人は生涯ジイドとプラトニックな結婚生活を送ります)、しかも親友で従兄弟の息子を稚児にしたとはジイドも相当な人で、代表的な小説『背徳者』や『狭き門』『贋金つくり』はこうしたジイドの私生活が投影されていると思うとなかなか食えない作家だったわけです。また、ジイドの稚児だった映画監督が元美少年以外に取り柄がない凡手だったかというとジェラール・フィリップを見い出したのはマルク・アレグレその人で、フィリップを君は美少年だから俳優に向いてると初めて映画に起用し劇団に入れさせたのもアレグレで、フィリップの映画デビューとなる本作ではフィリップの役柄はまだ脇役ではあるものの男性登場人物としてはベルナール・ブリエ、ルイ・ジュールダン、アンドレ・ルフォールらに混じってひけをとらない、さり気ないようでいて目を惹く存在感を放っています。
○あらすじ(フランス語版ウィキペディアほか映画サイトより) 自殺をほのめかして出奔した大古書店グリモー家の三女ロジーヌ(オデット・ジョワイユ)は、駅で家族からの通報を受けた旧知の富豪の青年ジェローム(ジェラール・フィリップ)と、青年医師ベルトラン(ベルナール・ブリエ)に出会って家に連れ戻されますが、婚約者フランシス(ルイ・ジュールダン)との結婚を控えた長姉エディット(シモーヌ・シルヴェストル)以外の次姉アンディアナ(コレット・リシャール)、妹ベレニス(ダニエル・デローム)はジェロームとベルトラン医師をめぐって恋のさやあてになり、父の店主グリモー氏(アンドレ・ルフォール)はロジーヌの起こした騒動の原因は姉エディットのへ婚約者フランシスの片思いのためと気づきます。グリモー氏は一家の平穏のためロジーヌをイギリスの親戚の家に預かってもらうように強要しますが、姉妹たちと男性たちはフランシスへの恋を断念したロジーヌをかばいます。グリモー氏はロジーヌのイギリス追放を思いとどまりますが、ひとり家を出たロジーヌは街をさまよい、映画はタクシーに乗ったロジーヌが「フレール公園まで」と告げて終わります。
 ――恋のさやあてと言ってもそれほどもつれた話ではなく、ジェロームはこの事件がきっかけでアンディアナを恋人にしようとし、末妹のベレニスは姉ロジーヌのフランシスへの恋に気づいてベルトラン医師をロジーヌとくっつけようとし、長姉エディットと次女アンディアナもベルトラン医師とロジーヌを接近させようとするのですが、婚約者フランシスのいるエディットはともかくアンディアナもベレニスも内心はベルトラン医師を憎からず思っている、という具合にベルナール・ブリエはモテモテです。クルーゾーの犯罪サスペンスの秀作『犯罪彼岸』'47は話は面白いし俳優もうまいけど何で主人公のベルナール・ブリエがモテモテなのかわからない、ぽっちゃり体型でさいずち頭かつ額の下がった童顔・小男と二枚目からはほど遠い容貌なのに、と不思議がられる映画ですが、本作のブリエは数年若いだけながらこういう実直そうなタイプの男がモテるんだなという現実味があり、こちらは一見して二枚目のフィリップが金持ちの軽そうな坊ちゃん役なのでブリエの現実的にはモテるタイプの実直な好青年ぶりが目だちます。フィリップも軽い金持ち坊ちゃんと見られるのを気にする真面目な性格なのに毎回でかい花束を抱えてグリモー家を訪ねてくるので愛嬌があり、まだ戦時下なのに戦時色のまったくないからりとした青春人情ロマンス・コメディになっている。ヒロインの悩みは丁寧に描かれ、姉の婚約者への恋の悩みから、長姉と婚約者の相思相愛ぶりを知ったのちの断念までが、姉妹や男性たちを巻きこむ展開から説得力を持って描かれており、映画の締めくくりはヒロイン自身はまだイギリス行きの取り止めを知らないまま父親の命令を受け入れて帰宅するとも、イギリス行きの前に最後に思い出のフレール公園を訪ねておきたいともどちらとも取れますが、姉の婚約者への恋の断念ははっきり描かれており父グリモー氏がロジーヌをイギリスへは行かせないと許した以上このあとは描かれなくてもヒロインの帰宅、ベルトラン医師からの求愛の受け入れということは十分暗示されています。男性登場人物たちの中でフィリップの役は展開上はあまり重要ではなくベルトラン医師のついでに出てきてコメディ・リリーフになるような役ですが、新人二枚目俳優がコメディ・リリーフになっているのも映画にふくらみを持たせていて、姉の婚約者フランシス役のルイ・ジュールダンがいたって正統的な二枚目かつ好人物で面白みはあまりないだけにフィリップの役は得をしていて、まだ演技経験も少なく初映画出演でこなした脇役としては十分すぎるほど好演していると言っていい。日本未公開・日本初DVD化(ひょっとしたら世界初DVDかも)の本作はこれまで日本ではまったく知られていなかった作品で、筆者もこのコスミック出版のリリースで初めて観ましたが、芸術・文芸映画っぽい感じもせず(アルグレとジャン・オーランシェの共作オリジナル・シナリオ)、名手アンリ・アルカンの撮影も端正で、単品でこそ物足りなさはあれフィリップの映画キャリアの第1歩に観るには満足のいく作品です。プロットとはあまり関係なくフィリップを出すためにつけ足されたような役なのがかえって軽やかな印象を与える映画デビュー作になっています。

●7月2日(火)
『星のない国』Le Pays sans etoiles (Societe Parisienne de Cinema, 1946.4.3)*91min, B/W : 日本公開平成14年(2002年)12月7日
◎監督 : ジョルジュ・ラコンブ(1902-1990)
◎出演 : ジャニー・オルト、ピエール・ブラッスール
○出張でスペインを訪れたシモン。初めて来たはずの場所に何故か懐かしさを感じ、トゥルヌピックという村を訪れる。そこでカトリーヌと出会い……。二人は100年前の悲劇の運命を知らぬ間に辿っていくのだった。

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 本作は日本公開作とはいえジェラール・フィリップ特集上映に合わせて映像ソフト化のために限定劇場公開され実質的には日本未公開・映像ソフト発売あつかいのようにしか上映されなかった作品で、本国公開から56年後にようやく特集上映されただけなので劇場でご覧になった方よりも単品DVD化されてから知った方のほうが多いのではないかと思います。フランスでのフィリップの大ブレイク作はクロード・オータン=ララの『肉体の悪魔』'47.9(日本公開昭和27年=1952年11月8日)で、日本ではクリスチャン=ジャックの『パルムの僧院』'51.4(日本公開昭和26年=1951年2月6日)やルネ・クレールの『悪魔の美しさ』'50.5(日本公開昭和26年='51年12月4日)の方が先に封切られましたが、やはりフィリップの人気のブレイク作は日本でも『肉体の悪魔』で、続いてすぐにマルセル・カルネの『愛人ジュリエット』'51.5(日本公開昭和27年='52年12月13日)が公開されフィリップの日本での人気を決定づけました。しかし『肉体の悪魔』以前の主演作は公開されず、また同作以降も派手さに欠ける作品やオムニバス作品(『美しき小さな浜辺』'49、『失われた想い出』'50、『ボルゲーゼ公園の恋人たち』'53など)は公開が見送られたので、著名作は既刊の『フランス映画パーフェクトコレクション』に収録済みだったのもありこの『ジェラール・フィリップ・コレクション』は非常に渋い稀少な作品が大半を占めることになりました。初公開時のキネマ旬報の紹介も日本盤DVD初発売程度の簡略なもので、その程度の宣伝資料しか提供されず半世紀以上前の旧作として重視されなかったのがうかがえます。また解説中「初出演映画」というのも当時まだ戦時中の映画デビュー作『フレール河岸の娘たち』や端役出演作『夢の箱』が知られていなかったということで、本作は実質的な初主演作ですが年長の先輩俳優ジャニー・オルト、ピエール・ブラッスールの方が先にクレジットされているのはよくあり、まだ1枚看板を張れる知名度もなければ映画自体もこの女一人・男二人の三角関係に絞りこんだ作りなので、クレジットも女優をトップに年功序列にしたのでしょう。ちなみに原作小説はフランスのミステリー作家ピエール・ヴェリで、脚本は監督ラコンブとヴェリの共作。ラコンブ作品ではジャン・ギャバンのフランス帰国第1作でマレーネ・ディートリッヒとの共演作『狂恋』'46の前作になります。
○解説(キネマ旬報新作外国映画紹介より) 若くしてこの世を去ったフランス映画界屈指の二枚目、ジェラール・フィリップの初出演長編映画。『生誕80周年記念特別企画 蘇るジェラール・フィリップ』として2002年12月7日に、シネ・リーブル池袋にて劇場初公開された。監督は「狂恋」のジョルジュ・ラコンブ。
○あらすじ(同上) 前世で起きた事件を巡って、現世でその悲劇を繰り返さまいと苦悩する主人公を描く。
 ――この紹介では何もわかりませんが、本作はピエール・ヴェリ原作というだけあって歴史ミステリーと現在進行形サスペンスの平行する作りになっていて、100年前のヒロインの日記を読む現在のヒロインとその恋人をカトリーヌ/過去のオレリア・タラカユ(ジャニー・オルト)、シモン/過去のフレデリク・タラカユ(ジェラール・フィリップ)、さらに第三の男ジャン=トーマ/過去のフランソワ・シャルル・タラカユ(ピエール・ブラッスール)が一人二役で演じられ、100年前の伝承ではヒロイン・オレリアは従兄フランソワ・シャルルの謀略によって遺産相続権を奪われて幽閉され、オレリアを慕う従弟のフレデリクは長い時間をかけてオレリアの脱出を手助けし、脱出したオレリアはフランソワ・シャルルの事故死によって膨大な遺産を相続したが全財産をカトリック財団に寄贈し没後聖女と呼ばれているが、無一文となった一族の末裔からは偽善者と憎まれています。映画は法律事務所に勤める青年シモンが疲労と体調不良からしばらく休職して療養することになり、友人ジャン=トーマの勧めで本作の舞台になる聖女オレリアの村に行くのですが、唯一の旅籠はタラカユ家の末裔が経営していて観光上聖女オレリアの肖像画や遺品が飾ってあるのですが、教職勉強中に貧乏画家と駆け落ちして以来転々としていたという一族の嫌われ者の女・カトリーヌが帰郷してくる。カトリーヌはオレリアの肖像画に瓜二つなので、シモンはカトリーヌのみならずオレリアへの一族の憎悪を知り、カトリーヌが譲り受けていたオレリアの日記をカトリーヌとともに読んでいくことになります。友人ジャン=トーマも村にやってきてシモンとカトリーヌが惹かれあっていく様子をうかがうようになってくる。シモンとカトリーヌがオレリアの日記を読むのが映像ではフレデリクとオレリアがフィリップとオルト、さらにフランソワ・シャルルがジャン=トーマを演じるブラッスールとそのまま同一俳優で演じられるので、過去といってもつい100年前で幽閉されているオレリア、こっそり訪ねてくるフレデリクとも粗末な身なりをしているので現在進行形のシモンとカトリーヌと混同しやすい欠点はありますが、過去の伝承を追ううちに過去の三角関係のドラマと現在の三人のドラマが相似形を描いてくるのはなかなか巧妙です。現在でもブラッスール演じるジャン=トーマは過去のフランソワ・シャルルのようにフレデリクとオレリア、シモンとカトリーヌの仲を裂こうとする存在になってくる。また一族の怨恨という設定はやはりピエール・ヴェリ原作のジャック・ベッケルの『赤い手のグッピー』'43でもありましたので、このあたりはヴェリの原作由来と見てよさそうです。しかし『赤い手のグッピー』では閉鎖的な一族の悲劇を描きながら映画のムードは決して閉鎖的ではなく、ことさら悲劇を強調せず登場人物たちが自由に躍動する群像劇だったのに対して、本作ではタラカユ家の末裔一族は逐一上げるまでもない点景人物にしかすぎませんし、主要人物は3人に絞りこまれるばかりかこの3人も運命劇のようにまずプロットありきの設定の中にはめこまれて描かれる。今回ジェラール・フィリップ出演・主演作を当たって改めて気づかされたのですが、戦後俳優の一番手のようなフィリップの出演映画は実際は本作のラコンブ(1902年生まれ)、ジョルジュ・ランパン(1901年生まれ)、オータン=ララ(1902年生まれ)、クリスチャン=ジャック(1904年生まれ)といったサイレント末期~'30年代にすでに映画監督だった映画人が手がけていて、こうした監督たちはやはりフィリップ出演・主演作を手がけたルネ・クレール(1898年生まれ)やマルク・アレグレ(1900年生まれ)、マルセル・カルネ(1906年生まれ)ら'30年代にすでに一家をなしていた監督よりも注目されるのが戦後まで遅れたので、'40年代デビューの新鋭監督だったのはアレグレ兄弟の弟イヴ・アレグレ(1907年生まれ)くらいだったということです。ラコンブの本作はジャン・ギャバン主演の次作『狂恋』よりは良く(もっとも同作はヒット作になりましたが)、手堅い作りですし、フィリップは初主演ですでに魅力ある存在感ですし本来性格俳優的なジャニー・オルト、ピエール・ブラッスールも好演で、ブラッスールなどルイ・ジューヴェを若くしたようなワルの匂いのプンプンする演技が面白く、監督ラコンブの指導だとしたらこれも気の利いた趣向ではあります。しかし映画としては人情青春メロドラマの『フレール河岸の娘たち』の方が風通しの良い仕上がりだったのに較べると本作はいかにも重苦しい結末が賛否を分けそうで、そこに面白みもかかっているだけに、実質的なフィリップの主演第1作としては陰鬱にすぎる気もするのです。

●7月3日(水)
『白痴』L'Idiot (Films Sacha Gordine, 1946.11.20)*91min, B/W : 日本公開平成10年('98年)11月28日
◎監督 : ジョルジュ・ランパン(1901-1979)
◎出演 : エドウィジュ・フィエール、リュシアン・コエデル、ナタリー・ナティエ
○ドストエフスキーの小説を映画化した作品。スイスでの療養からロシアに戻ったムイシュキン公爵は、親戚であるエパンチン将軍夫人を頼るため、将軍家を訪れる。将軍家では2組の政略結婚話が進んでいて……。

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 ジャン・ギャバンが港町の映画館主役で主演したマルセル・カルネの『港のマリィ』'50の作中の映画館で上映されている様子が写されていたのが本作で、カルネの次作はフィリップ主演の『愛人ジュリエット』'51になりますからフィリップ起用の予告にもなっていたはずですが、『港のマリィ』で映写されている本作『白痴』はいかにも日本未公開作品らしい冴えないうらぶれた二流映画に見えました。ところがこれがなかなかのもので、ドストエフスキーの後期5大長編(『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)の映画化などろくなものはないというのは原則的に言えるとは思いますが、いったん舞台劇化して明快にしたものを舞台臭さはなく巧みに映画化したというか、文学性の高さとともにもともと娯楽性に富んだ原作からきちんと娯楽性を生かして、多数の登場人物の描き分けも豊かな作品世界を感じさせる映画になっています。『白痴』自体が本作が初の映画化になり、また欧米諸国では即座に好評に公開されたクレジット上でもフィリップの初主演作になったというのもうなずける出来で、原作小説は1868年刊ですがルビンシュテイン演奏のチャイコフスキーのピアノ協奏曲のコンサート場面があるなどロシア革命前の20世紀初頭(ロシア革命後のソヴィエトだと本作の階級社会は描けません)までぎりぎり時代を現代に寄せてあるものの、原作の登場人物と物語はほとんど映画に採り入れてあり、結末は省略がありますが、くどい原作を印象的な場面で結んだうまい処理です。黒澤明の『白痴』'51もやはり結末のくどさを避けて原作とは結末を変えてありますが、変更ではなく省略法で結んだ本作の方がスマートで、かつテーマを曲げることもなく、より印象的です。監督のジョルジュ・ランパンはこれが監督第1作でサイレント時代から映画俳優だった人らしく、何とアベル・ガンスの『ナポレオン』'27にも出演しているそうで、'60年代前半までに20本ほどの監督作があるそうですが俳優出身監督でも監督デビューは遅れた人ですし、第1作でフィリップ主演の国際的ヒット作の本作でのみ知られているような監督ながらスタッフの掌握術や演出はさすが映画人キャリアの長さを感じさせる堂に入ったもので、いつもは一長一短あるヴェテラン名手シャルル・スパーク脚本も演出やカメラワークにくどさがないので巧みさが的確に活きている。ランパン自身は職人的気質の監督だったと思われますが、19世紀以来ロシアの上流階級・知識人階級はフランスとの交流が盛んだったので、ロシア革命でもフランス社交界と交流のあった旧ロシアの上流階級・知識人は多数フランスに亡命しており、実際にロシア人とロシア文化、ロシア社会を知っていたフランス映画では革命前のロシアを描くのはお手のものだったのが本作の仕上がりからも伝わります。黒澤版の意欲作『白痴』は舞台を北海道にして原作小説の忠実な翻案を目指したものでしたが、最初の編集では2部構成全4時間強になってしまい短縮を余儀なくされシーンまるごとカット(その部分は字幕タイトルで語られます)までしても2時間46分の大作になり、オリジナル編集版は現存しておらず『羅生門』'50と『生きる』'52の間に作られただけに内外でも酷評された作品でしたが、無理を押しても作りたかった意気ごみが破綻した出来ながら訴求力も生んでいてあれはあれで魅力ある映画でした。それでも黒澤版『白痴』は外国ものの翻案劇という不自然さがどうしても拭えなかったのですが、帝政時代のロシア社会を舞台にした本作は現代フランス人俳優がロシア人を演じていても不自然さはない。帝政時代のロシア文化自体が民主化されたとはいえまだ王制時代の文化様式の残る19世紀フランスから文化そのものを取り入れていたので、本作の製作は自国の時代劇を作るのと感覚的にはほとんど変わらなかったでしょう。また原作・フランス語題の「Idiot」は共通して日本語の「白痴」という病理的な用語よりは日本語で言えば日常的な「馬鹿」「阿呆」くらいのニュアンスで、本作の主人公は医師から発達障害を診断されている青年ですが、「Idiot」には侮辱的な意味と親愛感(「お馬鹿さん」のような)の両方があるので、タイトルからしてロシア語・フランス語での「Idiot」の親和性と日本語の「白痴」では異なります。黒澤版の登場人物たちが日本人ではなく外国人のような言動をするのを、あえて舞台を北海道にして(北海道は畳・ちゃぶ台ではなく椅子とテーブル文化の開拓地です)にして柔らげようとしたのも苦肉の策だったので、当時本作が日本公開されていたら黒澤も黒澤版『白痴』は断念していたかもしれない。おそらく情報くらいは伝わっていて、ドストエフスキー原作は映画化権の問題はない古典ですし、シャルル・スパーク脚本による帝政ロシア時代の舞台の映画化とは調べていたでしょうから、どのみち日本映画でロシアが舞台なのは無理な以上翻案作品になるので同一原作でもまるで別物になるだろう、と踏み切ったのでしょう。黒澤明は本作の正式日本公開(平成10年='98年11月)の2か月前に亡くなりましたが、国際的な監督だったのでこのフィリップ主演版『白痴』ものちに観る機会があったかもしれない。黒澤は標準的な映画化ならよくまとまった文芸映画だと思ったとしてもドストエフスキーの真髄に迫ったのは俺だと譲らなかったと思うので、カルネの『港のマリィ』で断片を観た方、黒澤版『白痴』を先にご覧の方のほうが多いでしょうし、著名な原作ながら文庫版で1,200ページ以上と浩瀚なので未読・読んだけど難解で不消化・読みかけたけど脱落というかたにはすっきりした出来の本作は一見の価値ある作品です。日本初公開時のキネマ旬報の紹介も詳しすぎず略しすぎず適切です。
○解説(キネマ旬報新作外国映画紹介より) 無垢な青年が直面する現実をつぶさに描いた人間ドラマ。監督は「罪と罰」のジョルジュ・ランパン。脚本はドストエフスキー原作の小説『白痴』を基に「嘆きのテレーズ」のシャルル・スパークが執筆。撮影は「モンパルナスの灯」のクリスチャン・マトラ。音楽はモーリス・ティリエ。出演は「パルムの僧院」のジェラール・フィリップ、「青い麦」のエドウィージュ・フイエールほか。
○あらすじ(同上) 心の病を抱えるムイシュキン公爵(ジェラール・フィリップ)はスイスでの療養を終えペテルブルグのエパンチン将軍(モーリス・シャンブルー)家のもとへやってきた。将軍家では娘のアグラーヤ(ナタリー・ナティエ)と大地主トーツキイ(ジャン・ドビュクール)、トーツキイの元愛人ナスターシャ(エドウィージュ・フイエール)と将軍の秘書ガーニャ(ミシェル・アンドレ)の結婚話が進んでいた。ナスターシャを不幸な女性と直感したムイシュキンは彼女を助けようとするが、純真さゆえの彼の言動は逆に周囲の人間を混乱させるだけだった。ナスターシャはムイシュキンに惹かれつつも商人ロゴージン(リュシアン・コエデル)に金で囲われ、アグラーヤはムイシュキンに好意を持つ。彼をめぐるナスターシャとアグラーヤの対立は深まり、ロゴージンの嫉妬も手伝って事態は予期せぬ方向へ展開していく。
 ――ドストエフスキー原作で成功したものはルキノ・ヴィスコンティの『白夜』'57、ロベール・ブレッソンの『やさしい女』'69、『白夜』'71(ヴィスコンティ作品と同一原作)くらいでどれも短編小説が原作ではないかという映画好きのかたも多いと思いますが、何度も映画化されている『罪と罰』だってサイレント時代のロベルト・ヴィーネ版(『ラスコーリニコフ』'23)、ピーター・ローレ主演のジョセフ・フォン・スタンバーグ版('35年)だってそれなりの映画なので、本作も(『悪霊』『未成年』ほどではないとしても)難物の原作に挑んでドストエフスキーの原作小説が実は多彩で意外性のある登場人物たち、娯楽性に富んだ筋立てがあって、普遍的な人間性の真実に到達しているのはそうしたエンタテインメントとしての充実が先にあるからというのがよくわかる、面白すぎてドストエフスキー原作ではないくらいすらすら頭に入ってくる明快な人間ドラマになっている。ドストエフスキー原作ではテーマが重層的すぎて解きほぐすのに非常に理解力が要求されるのですが、そのあたりは容貌と演技に説得力と存在感のある俳優と美術と映像と音声という映画の利点を使ってこの上なくわかりやすく、しかも帝政時代頽廃期のロシア社会の文化的背景と貴族・軍人階級から商人階級までの階層社会が時代や文化の違いこそあれ普遍的な各種の人間のタイプを、類型を感じさせず活き活きと描かれているので通俗的でありながら通俗一辺倒におちいらない。文芸映画と言ってしまえばそうですが、文芸映画がなりがちな本を読むより映画を観るほうが手っとり早いような、原作に粉飾してどうだ映画らしいだろうというような安易なものにはなっていないので、素直に原作から適度にエッセンスを圧縮して、しかも圧縮を感じさせないものになっている。フィリップ主演作としては『肉体の悪魔』がセンセーショナルな話題作になりブレイク作になったのもわかりますが、粉飾した文芸映画の見本のような同作より映画の出来は平均的な本作のフィリップのほうがより繊細で、内面的な美しさを自然に表現できる優れた俳優の素質を感じさせてくれる映画になっています。結末の省略法(改変ではなく)もそれをわきまえた脚本・演出で、力作ばかりが良い映画ではないと思い知らされるような好作です。またドストエフスキーの原作の真髄ということなら黒澤版がとらえ損ねて本作がしっかり観客に伝わるように描いている面も少なくなく、2時間46分をかけて黒澤版が描けなかった部分がわずか1時間31分の本作にはちゃんとある。そうした映画の不思議に思いをめぐらせられるのも本作の幸徳でしょう。

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