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『モンパルナスの夜』La tete d'un homme (Le Film d'Art'33.2.18)*92min, B/W : 日本公開昭和10年('35年)12月12日
◎監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ(1896-1967)
◎主演:アリ・ボール、インキジノフ
○借金がかさむフェリエールのもとに、資産家のおばの殺害を請け負うというメモが届く。その後おばは殺され、ウルタンという男が疑われるが、メグレ警視が追うのは別の男だった。G・シムノンの『男の首』が原作。
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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) ジュリアン・デュヴィヴィエが「にんじん」に先んじて監督した映画で、ジョルジュ・シムノン作の犯罪小説『男の頭』により、デュヴィヴィエ自らルイ・ドゥラプレ及びピエール・カルマンと協力して脚色し、「にんじん」「商船テナシチー」のアルマン・ティラールがエミール・ピエールと共同して撮影したもの。主なる出演俳優は「にんじん」「ゴルダー」のアリ・ボール、「吼えろ!ヴォルガ」「アジアの嵐」のインキジノフ、「沐浴」「居酒屋(1933)」のアレキサンダー・リニョオ、「バラライカ」「テレーズ・ラカン」のジナ・マネス、「居酒屋(1933)」のリーヌ・ノロ、「ゴルダー」のガストン・ジャッケ、「にんじん」のルイ・ゴーチエ、コメディー・フランセーズのエシューラン等で、流行歌手のダミア及びミッシアが特別出演。
○あらすじ(同上) フェリエール(ガストン・ジャッケ)は怠惰な遊民だった。行きつけの酒場にまでも借金が嵩んでいるのだ。借金に苦しんでいる彼は不図、誰か俺の伯母のアンデルソン夫人を殺してくれたら十万フラン出すんだが、と独語した。そして酒場の給仕が拾って渡してくれた紙片に、「十万フランで承知した。夫人の所書と鍵と見取図をBR郵便局留置MV宛送れ」と読んだ時、フェリエールは電撃にあった心地がした、……ヴェルサイユのアンデルソン夫人邸、貧しげな、愚直な顔の男が手にした見取図を頼りに、階段を上って夫人の寝室に忍び込んだ。寝台に突き当たって手にぬるいものが触ったので驚いた男は、思わず壁のスイッチをひねる。寝床は血で汚れ、今転げ落ちた夫人は胸を刺されて死んでいる。仰天した男は血まみれの手で壁にもたれる、その時、奥の扉から、靴にボロ布を巻き付け手に皮手袋をはめた黄色い顔の男が現れる。最初の男はユルタン(アレクサンダー・リニョオ)、第二の男はラデック(インキジノフ)というチェコスロヴァキアの留学生だった。愚かなユルタンは、安全な窃盗をするという口実でラデックに誘われて来たのだ。ラデックは見取図を受け取り、悪いようにはしないから何も言うな、と命じた。ユルタンは容疑者として捕縛された。メエグレ警部(アリ・ボール)はユルタンの背後に狡智なる真犯人が隠れて居る事を察し、実地検証に行った帰途、故意にユルタンを逃がして、敏腕な刑事二名に跡を付けさせた。夜更けて、ユルタンは例のモンパルナスの酒場の外に現れた。急報に接した警部は客を装って酒場に張り込むと、一人残った客がある。病身らしい黄色い顔の青年――ラデックだ。警部は彼が真犯人だと解った。だが証拠が無い。数日後ラデックはフェリエールを訪れた。十万フランの報酬を受け取りに。が肺を病んで余命六ヶ月のラデックは十万フランよりも、フェリエールの情婦エドナ(ジナ・マネス)を望んだ。フェリエールもエドナもそれを拒み得ない立場にある。つけられて居ることを知っているラデックは大胆にも警部と二人の刑事をフェリエール邸に招じ、更にカフェへ皆で豪遊に出かける。ラデックはフェリエールの嫉妬をしり目に、到頭エドナを連れ出して彼の部屋に引きずり込んだ。その時、警部の鋭い追求に嫉妬と悔恨に責められたフェリエールはピストル自殺してしまう。警部等はラデック逮捕にやって来る。衣類を破かれたエドナが跳出すのと入違いに来た一人の刑事をナイフで刺してラデックは往来に走り出た。六ヶ月の命であるが、灰色の生活であるが、彼は命が惜しくなったのだ。ひた走りに走った。が息切れのした彼は遂に乗合自動車の下敷きとなった。そして、駆け付けた警部に犯罪の告白をし、ユルタンの無罪を証言してラデックは死んだ。
――先に書いた通りこの映画は、犯罪者ラディックの名前とキャラクターだけを原作小説『男の首』から使ったまったくのオリジナル・シナリオで、デュヴィヴィエにもともと委託殺人サスペンス・スリラーの構想があったのか、『男の首』を読んでもっと色気とサスペンス色の強いプロットにできないかと改作したのか、そこらへんの継ぎ目がないほど上手くできています。ルノワールが大胆なのはデュヴィヴィエのような計算なしに原作をそのまま使って破綻も構わない野放図な映画にしてしまう直観頼りの映画監督だからですが、デュヴィヴィエは緩急心得た構成と演出で、ギャバン出演作を連続して作るようになると臭みに近いはったりの効いた作風が今観るとちょっと古くさく見えますが、本作や『にんじん』『商船テナシチー』あたりは抑制から激情まで細やかに描いて無理がない。メグレ警視役のアリ・ボールも好演ですが遺産相続のために伯母殺しを委託する遊び人フェリエール役のガストン・ジャッケ、その情婦エドナ役のジナ・マネス、真犯人の身代わりの囮のため共犯者に雇われる愚昧なウルタン役のアレクサンダー・リニョオも好演で、良い意味アメリカ映画的簡潔さでくどくなく人物像がきっちり描いている。また真犯人の犯罪者ラディック役が強烈で、インキジノフって確か、と思ったらつい先日観直したプドフキンの『アジアの嵐』'29のジンギスカンの末裔役の主人公をやっていたモンゴル人俳優で、この頃にはフランスに渡っていたのかと昔本作、『アジアの嵐』を観た時には気づかなかっただけに改めて発見した気分でした。『アジアの嵐』も本作もインキジノフ(1895-1973)の主演によって成功している映画だけに、容貌が容貌ですから東洋人や東欧人役の助演が主なキャリアですが、'71年の引退作まで『カトマンズの男』'65にも出ている、とインキジノフのファンという渋い好みの人もいるのではないでしょうか。また短躯と黒髪、ぎょろりとした目つきの凶暴な童顔とペーター・ローレと共通する雰囲気があるのもラングの『M』'31のローレに重ねてデュヴィヴィエがインキジノフをキャスティングした狙いかもしれません。大都市の暗黒面を描いた映画として犯罪者の追究が社会的スケールで迫ってくる大傑作『M』に比べると本作はいかにも小粒にまとまった犯罪サスペンス・スリラーですし、ルノワールの『十字路の夜』のように現実と悪夢の境目に放り出される眩暈感に満ちた底知れない映画でもありませんが、別に映画はラングやルノワールのようでなければならないわけはないので、本作は本作で満足のいく高い完成度の犯罪サスペンス・スリラーです。デュヴィヴィエ作品でも臭みのある『白き処女地』'34や『我等の仲間』'36、『望郷』'37よりすっきりと楽しめる作品ではないでしょうか。
●6月5日(水)
『新学期・操行ゼロ』Zero de conduite: Jeunes diables au college (Production Jean Vigo=Gaumont'33.4.7/'45.11)*44min, B/W : 日本公開昭和56年('76年)8月14日
◎監督:ジャン・ヴィゴ(1905-1934)
◎主演:ルイ・ルフェーブル、ジルベール・プリュション
○寄宿学校のコサ、ブリュエル、コランの三人組は、いつも教師や校則に反抗し「操行ゼロ」という日曜外出禁止の罰則を与えられていた。新学期が始まって、新任の舎監ユゲと転入生のタバールが加わり……。
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○解説(キネマ旬報新作外国映画紹介より) 寄宿舎生活をおくるいたずら盛りの中学生たちの自由奔放な日常を、硬直した大人と対比させて描くジャン・ヴィゴの代表作で、一九三三年に完成したが教育制度に対する批判を理由に上映禁止処分され、第二次大戦後の一九四五年にやっと公開された。監督・脚本・台詞・編集はジャン・ヴィゴ、撮影はボリス・カウフマン、音楽はモーリス・ジョーベールが各々担当。出演はルイ・ルフェーヴル、ジルベール・プリュション、ココ・ゴルステン、ジェラール・ド・ベダリュー、ジャン・ダステ、ロベール・ル・フロン、デルファンなど。2018年12月29日より4Kレストア版が公開(配給:アイ・ヴィー・シー)。
○あらすじ(同上) 夏休みが終ると、新学期。寄宿学校の子供たちは休みの間に覚えた新しいいたずらを級友たちに披露するのを楽しみに学園に帰ってくる。もちろんまた、勉強と規則づくめの生活に戻る不安感とそれなりの覚悟をそなえて――。登校の日、列車の中でコサ(ルイ・ルフェーヴル)とブリュエル(ココ・ゴルステン)は一緒になった。もう一人、変な男が同席したがこれは新任のユゲ先生(ジャン・ダステ)だった。駅につくと、さっそく生徒監の号令が待っていた。転入したばかりのタバール(ジェラール・ド・ベダリュー)は、その号令だけで気分が悪くなって、つきそってきた母親にそのままつきそわれて、翌日の夜から寄宿舎に入るという。コサとブリュエルはこれくらいは慣れっこだ。もう一人、大将のコラン(ジルベール・プリュション)がおり、三人揃えば鬼に金棒だ。しかし、その三人にとっても、他の生徒たちにとっても何より恐いのは、いつ宣告されるかわからない「操行ゼロ!日曜外出禁止」の宣告だ。寄宿舎生活では、ふだんから自由のかけらもないのに、週に一度しかない日曜日に、おしおきされて外出禁止なんかされたら、それは死の宣告と同じではないか。三人組の秘密は、いつの日か大人たちを徹底的にビックリさせてやることだが、男だか女だかわからないタバールを仲間にいれるかどうか問題だった。しかしそのタバールが火ぶたを切った。化学の先生に向って、さらに厳格先生(ロベール・ル・フロン)、校長先生(デルファン)にも面と向かって"糞ったれ!"と、大胆にもいいきったのがキッカケだった。羽毛が舞い、小さな革命宣言が読み上げられ、先生があわてふためき、学園の生徒全員が異常な夜の祭りに喜び勇んで参加する。翌日、タバールを加えた四人組みは、他の生徒が眠りこける間に、そっと起き上がる。町のお偉方が集まる、今日は年に一度の学園祭なのだ。校長先生たちも着飾って緊張しているそのとき、空カンや古靴が雨あられのように屋根裏を占拠した四人組の手で、大人たちの頭上に浴びせられる。"規則くたばれ! 操行ゼロ、くたばれ!自由、万才!"の喚声と歌声と共に……。
――本作は「日曜日、帰宅」というシークエンスで、部屋で目隠ししたコランの隣で踏み台に登った幼女が高い所から金魚鉢を取って下りるとコランの目隠しを取って金魚鉢を見せる、というごく短い(幼女がコランの妹なのか近所の友達なのかもはっきりしない)エピソードがあります。のちヴィゴの遺稿で、これは本来女の子のスカートの中をコランが覗こうとするので目隠しする、という前半を検閲を考慮して事前にカットしたものと判明しました。『アタラント号』にもおそらく同様のカットがあり、後半1/4の新妻ディタ・パルロの無断外出に怒って夫のジャン・ダステが川の輸送船を出航させてしまってから夫婦再会・和解までの時間経過や出来事がはっきりしないのがそうで、ヴィゴの遺稿ではパルロは街娼に身を落とすとはっきり書いてある。実際の映画ではそこまではっきりした描写はないのでこれも検閲を考慮した事前のカットでしょうが、『新学期・操行ゼロ』でも『アタラント号』でもこうした欠落がかえって夢のような効果を上げているのは映画の僥倖で、コンテやシナリオ、演出も多くは即興で編集段階で欠落リールすらあっても1本の映画にしてしまうと魔法が生じるルノワールの映画と同じようなことが起こっています。唯一少年たちと心を通わせる大人のジャン・ダステはクレールやルノワール作品では端役出演があるだけですがヴィゴの2作の劇映画ではヴィゴ自身の分身のような素晴らしい存在感を見せる。本作で逆立ちするダステ、チャップリン歩きをするダステ、少年たちの球戯に混じってフットボールの真似を決めるダステはシナリオや演出が存在していないかのように気まぐれで自然で、少年たちが演じる中学生(といっても11、2歳でしょう)も演技を感じさせない、強いて言えば遊戯のように演じている。羽毛が舞ってスローモーションで少年たちが行進するシーンはアーサー・ペンの『左きゝの拳銃』'58にそのまま同じ手法が引用されてアメリカ映画の流行手法になった名高い場面です。ヴィゴ自身はチャップリンの『黄金狂時代』'25の羽毛のシーンが念頭にあったでしょう。またヴィゴの劇映画2作の音楽を担当したモーリス・ジョーベールをのちのトリュフォーが重用して迎えたのはいうまでもありません。クライマックスの式典で教員たちの後ろに「町のお偉方」として不格好なマネキン人形が並んでいる完全にリアリズム映画を逸脱したギャグ。校長先生役の小人役者デルファンは、これも今回連続して観て初めて気づいたのですが、ジャック・フェデーの『女だけの都』のスペイン軍の小人従者役と同一人物で、当時のフランスの名物小人コメディアンだそうです。学生時代から30年あまり20回以上ジャン・ヴィゴの短編2作・劇映画2作を観ていると思いますが、『女だけの都』と連続して観たのは今回が初めてだったのでちっとも気がつきませんでした。しつこく映画を観直してようやく気づくこともあるものです。
●6月6日(木)
『女だけの都』La Kermesse heroique (Tobis'35.12.30)*109min, B/W : 日本公開昭和12年('37年)3月11日 : フランス・シネマ大賞、ヴェネツィア国際映画祭監督賞、ニューヨーク批評家協会外国映画賞、キネマ旬報ベストテン1位
◎監督:ジャック・フェデー(1885-1948)
◎主演:フランソワーズ・ロゼー、ジャン・ミュラー
○フランドル地方のボーム市。祭りの準備で町中が賑わう最中、スペインの従者が現れ、公爵たちのボーム来訪を知らせる。スペイン軍を恐れて役に立たない男たちにかわり、市長の妻は女たちだけでもてなそうとする。
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「最高!『アタラント号』ほど繰り返し観てはおらずほぼ20年ぶりに観たが、ルノワールの最高作に匹敵する。フェデーは『外人部隊』に感動しつつも辟易していた面もあり、つい先日観たサイレント期の『グリビシュ』『成金紳士たち』も抜群の面白さがどこか胡散臭かったが、本作は辟易も胡散臭さも全部プラスに働いた奇跡の一作。スペイン軍の一時駐屯を宣告された田舎町が、町長は急死して男はほとんど留守ということにして町長夫人が町中の主婦を指揮してスペイン軍が去るまで平和接待にいそしむ、とアリストパネスとモリエールを足して割ったような艶笑喜劇で、本当に17世紀のフランドルを撮影してきたかのような迫真の嘘くささがたまらない。時代劇だからオーヴァーな演技も当時の礼儀作法というリアリティがあって、狐と狸の化かしあいのような話だが人間の知性と理性への信頼が根底にあるから嫌な感じはしない。ルノワールの場合はエロスとセンシビリティへの信頼だから化かす話を描くと混沌としてきてしまうから、この題材はフェデーだからこそ大成功した。やりすぎなくらいふざけた映画だが、それもすべてがお見事。」
何か20年ぶりに観直して妙に感心したみたいですが、今回観直してフェデー監督&シャルル・スパーク脚本の『外人部隊』『ミモザ館』に続くフランス帰国三部作(サイレント末期からフェデーはハリウッドに移り、スパーク脚本の三部作を作って再びイギリスに渡りました)の中では前2作のような現代ものの悲劇ではなく時代ものの喜劇ですが、前回観た時から2年半の間に900本近い映画を観直しているわけです。その間にフリッツ・ラングの全作品、ヒッチコックの全作品、ベルイマンの全作品やアントニオーニの全作品やロン・チェイニーの現存する全出演作、ラオール・ウォルシュやハワード・ホークス、ウィリアム・ウェルマンなども取りこぼしていた映画は極力埋めて観てきて、『フランス映画パーフェクトコレクション』も既刊中6セット60作あまり観て、中には初めて観る名作、ようやく真価に気づいた傑作もずいぶんありました。ルノワールの最高作に匹敵するというのはまず撤回します。ルノワールのあまり調子の出ていない作品ですらフェデー&スパークの三部作よりずっと観ごたえがあると今では思えるので、フェデーの最良の作品はサイレント時代ではないかと見るのが妥当なような気がします。中学生の頃テレビの深夜放映で『外人部隊』『ミモザ館』を観て感動したのはごく通俗的な泣かせのツボを突く映画だったからで、戦後フランス映画の「心理的リアリズム」の潮流をトリュフォーが批判した際にフェデー&スパークの三部作が生んだ「詩的リアリズム」の派生物としており、トリュフォーは'52年初頭発表のその批評文で「フェデーが完全に忘れ去られる前に、フェデー論争が必要だろう」と19歳の時の批評文ですし若かった頃のトリュフォーの批評は知ったかぶりも多いのでうのみは危ないのですが、昨年観直した『外人部隊』『ミモザ館』も今回観直した『女だけの都』も辻褄合わせに映画の焦点を置きすぎる。いかにも伏線を張ってきれいに回収しましたの次元で映画に磨きをかけているようで、鑑賞の感興も結局そこにとどまってしまう味気なさを感じます。たぶんフェデー作品はすっかり忘れた頃に観るのがいいかもともと2度観るようには出来ていないので、サイレント時代の作品は音がついていない分だけ観直す面白さがあってもサウンド・トーキー作品はあまりに全部に説明がつきすぎる。一応本作も日本初公開時のキネマ旬報の紹介を見ておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「ミモザ館」に次ぐジャック・フェーデ監督作品で、彼の前二作及び「みどりの園」「地の果てを行く」の脚色者シャルル・スパークが書卸し、「第二情報部」「リリオム」のベルナール・ジンメルが台詞を書いた。撮影は「外人部隊(1933)」のハリー・ストラドリング、音楽は新人ルイ・ベーツが当たった。出演者は「ミモザ館」のフランソワーズ・ロゼー及びアレルム、「装へる夜」のジャン・ミュラー、フランス劇壇の大立者たるルイ・ジューヴェを始め、「外人部隊(1933)」のリーヌ・クレヴェルス、新人ベルナール・ランクレ、新人女優ミシュリーヌ・シェイレル、「最後の戦闘機」のピエール・ラブリ、「最後の億万長者」のマルセル・カルパンチェ、「プレジャンの舟唄」のジネット・ゴーベールという顔ぶれである。
○あらすじ(同上) 一六一六年の或る日、フランドルの一小市ボームは、明日に控えた祭りの準備で町を挙げての騒ぎであった。この騒ぎをよそに青年画家ジュリアン(ベルナール・ランクレ)は、着飾った市長(アンドレ・アレルム)や助役達の姿を描いている。ジュリアンは市長の娘シスカ(ミシュリーヌ・シェイレル)を愛していた。シスカも彼を好いていたが、市長は首席助役をしている肉屋(アルフレ・アダン)に娘をやろうと思っている。そうすれば彼に自分の家畜をうんと買って貰えるからだ。しかし市長夫人コルネリア(フランソワーズ・ロゼー)は若い二人の後ろ楯となって力を添えていた。この時、三人の騎士が人々を蹄に蹴散らして市役所へ駈けつけた。投げ出した封書に依れば、スペイン特使ドリヴァレス公(ジャン・ミュラー)が扈従の軍隊を率いてボームに一夜を過ごすと云うのである。かつてフランドルはスペイン軍の残虐に、殺戮、掠奪の惨禍を蒙った事がある。戦き騒ぐ助役達に向かい市長は天来の妙計を述べた。即ち市長は急死を装い、凡ての男子を喪に服さしめて一歩も戸外に出さず、以てスペイン軍を事なく通過させ様と云うのである。男の意気地なさに憤慨した婦人達は、市長夫人を先頭に特使一行の到着を城門に出迎えた。彼女達は公爵に市長の喪を伝え、軍隊は静粛に一夜を送って立ち去る事になった。全市の女等は夜を徹して軍隊を歓迎した。酒と踊りと唄。死を装った市長と喪に服した男達は、彼等の妻や娘がスペインの軍人と戯れている声を聞いて心穏やかでなかったが、どうにも仕方がない。市長夫人も公爵の接待につとめる中に、空しく去った青春を顧みて不図浮気心を起こすが、その時思い出されたのは娘シスカの身の上である。この一日の実権が自分にあるを幸い、公爵に願って彼女はシスカとジュリアンをスペイン軍附添の牧師(ルイ・ジューヴェ)に結婚させた。公爵附添の侏儒(デルファン)は市長の死が偽りであるのを知り、彼を脅迫して二百金を捲き上げたが、牧師は更に侏儒から百金を取ってしまう。その夜明け妻の態度を誤解した市長は、肉屋と協力して公爵を討たんとするが、失敗した上肉屋は家来の手で殴り倒される。夜が明けて集合の太鼓が鳴り響く。兵士と女達の名残りが家毎の門口で惜しまれている。いよいよ軍隊は群がる女達を分けて出発した。市長夫人は群集に向かい、市が一年間の免税を許された事、之は一に市長の犠牲的精神に依るものと発表する。群集の歓呼の前に市長は挨拶をしている。スペインの軍隊は城門を遠く平野の彼方へ消えて行った。
――ルイ・ジューヴェの演じる僧侶はキネマ旬報のあらすじの牧師というより(牧師はプロテスタント用語です)カトリックの神父というよりも従軍司祭と言うべきですが、この従軍司祭の生臭坊主ぶりとデルファン演じる従者の小人が実は本作ではいちばん面白くて、市長が死んだふりをして隠れているのをふとしたことから気づいてしまう。まず小人が金貨を口止め料にゆすりとり、それを司祭が巻き上げるのですが、スペイン軍隊長で特使のドリヴァレス公爵もうすうす町の策略に気づいているけれど事態を平穏に進めたいので女たちの歓待をたっぷり楽しむだけ楽しんで去っていくので、全体的には非常におおらかな喜劇になっている。その点だけでもペシミスティックな(でも雰囲気だけで、スタンバーグの映画のような真の冷徹さには迫っていない)『外人部隊』『ミモザ館』よりずっと良いのですが、フェデー夫人の名優フランソワーズ・ロゼーは本作でも確かに名演ながらロゼー中心のメイン・プロットに興味を集中して観るとたかだか2年半の間を空けて観直してみた場合話が機械的に進みすぎ、前回あれだけ面白かったのがなんだか白々しく見えてくる。そうなると従軍司祭のジューヴェや小人従者のデルファンみたいないてもいなくても本筋にはあまり関係ないいいかげんな人物の出入りに面白みを感じるようになる。これは喜劇作品だからと入れた遊び要素でもあり、結末近くではスペイン特使軍は隊長の公爵をトップに町を挙げての都合の良い歓待の裏事情にだいたい感づいているのですが、スマートに事を収めたいためにまんまと騙されたふりをして去っていくので、辻褄合わせに汲々としている窮屈さはあまり感じなくて済む作品で、それもロゼーと公爵、死んだことになっている市長と主要人物に集中して観るよりも生臭坊主のジューヴェや小人従者デルファンの真面目くさった道化ぶりが映画の風通しを良くしています。この見方は『外人部隊』『ミモザ館』とは異なる性格の映画と思って観る上では正当なはずで、部隊トップが市長の急死と喪に伏す市民というでまかせに気づく前段階という伏線にとどまらず、従軍司祭や小人従者も口止め料で簡単に事なかれ主義に転じる礼儀正しくも厄介事は避けたいまるで攻撃的でも侵略的でもないスペイン軍だった、という取り越し苦労の話で、風刺とか抵抗とかそういう説教抜きに生臭くも後味の良い喜劇として上出来で、演劇の原則ではバッドエンドは悲劇、ハッピーエンドは喜劇ですが、本作の場合は喜劇にして茶番劇であることがスパーク脚本の三部作中唯一、辻褄合わせに終わらない余裕を感じさせる作品になっている。しかしサイレント時代のフランスでの最終作『成金紳士たち』に続いて『外人部隊』『ミモザ館』『女だけの都』はマルセル・カルネがトップ助監督を勤めたと思うと、カルネはフェデーの見かけの巧みさと窮屈な密度から出発したように思え、ルノワールの助監督を10年続けたジャック・ベッケルの伸びやかさと思いあわせるとやはりフェデーの映画はあまりに自己完結的でありすぎたようにも思えます。