●5月10日(金)
中平康(1926-1978)『月曜日のユカ』(日活'64.3.4)*94min, B&W : https://youtu.be/CI5yWQ3IQis (trailer)
[ 解説 ] 安川実の原作を「学園広場」の斎藤耕一と倉本聰が共同で脚色、「光る海」の中平康が監督した風俗ドラマ。撮影もコンビの山崎善弘。
[ あらすじ ] 横浜の外国人客が多い上流ナイトクラブ"サンフランシスコ"では、今日もユカ(加賀まりこ)と呼ばれる十八歳の女の子が人気を集めていた。さまざまな伝説を身のまわりに撒きちらす女、平気で男と寝るがキスだけはさせない、教会にもかよう。彼女にとっては当り前の生活も、人からみれば異様にうつった。横浜のユカのアパートで、ユカがパパ(加藤武)と呼んでいる船荷会社の社長は、初老の男だがユカにとってはパパを幸福にしてあげたいという気持でいっぱいだ。ある日曜日、ユカがボーイフレンドの修(中尾彬)と街を歩いていた時、ショウウィンドウをのぞいて素晴しい人形を、その娘に買ってやっている嬉しそうなパパをみた時から、ユカもそんな風にパパを喜ばせたいと思った。ユカの目的は男をよろこばすだけだったから。だが、日曜はパパが家庭ですごす日だった。そこでユカはパパに月曜日を彼女のためにあげるようにねだった。月曜日がやって来た。着飾ったユカは母(北林谷栄)とともにパパに会いにホテルのロビーに出た。今日こそパパに人形を買ってもらおうと幸福に充ちていた。だが、ユカがパパから聞されたのは、取り引きのため「外人船長と寝て欲しい」という願いだった。ユカはパパを喜ばすために、船長(ウィリアム・バッソン)と寝る決心をした。その決心を咎める修にユカはキスしても良いと告げる。ユカを殴り出て行く修。ユカは幼い頃母親の情事を見ていたのを牧師(ハロルド・S・コンウェイ)に咎められたことを思い出すのだった。修が死んだ。外人船長に抗議するために船に乗り込もうとして事故死したのだった。ユカは修にキスをして波止場を立ち去る。パパとの約束通りユカは船長に抱かれた。落ち込んだユカだったが埠頭でパパと踊り狂う。踊り疲れたパパは海へ落ちてしまう。溺れ沈むパパをしばらく見ていたユカだったが、やがて無関心に去って行った。
――ヌーヴェル・ヴァーグ的、というよりはブリジット・バルドー映画の日本版みたいに見えると言っても悪口ばかりにはならないはずですが、本作は新しいようで単に世代が若いだけで古いタイプのヒロインを新しく見せようとして映像に凝った作品のように見える。中平康に本作のユカがいつの時代にもいるありふれた娼婦型の女と気づいているのはユカが「女の生きがいは男を喜ばせること」という私娼の母の言いつけに忠実で信じて疑わず、まったく同じタイプの母娘に描いていることでも明白で、そこから結末ではユカが「パパ」を見捨てたように見えてもパパの喜びは自分の価値にではないと気づいたからにすぎないので、加賀まりこの演じるユカの性格に本質的な変化が起こったとは感じられません。中平康はヒットを連発しても映画賞とは無縁だったのでヒッチコックだって映画賞には選ばれないじゃないかと毒づいていたそうですが、本作はヒッチコックを引きあいに出すわけにはいかない。ヒッチコックは映画観客とは目的を持った主人公が犯罪者であれ被疑者であれ目的を達成しようとするのを観たがるものだ、という持論がありました。ずるずると自分の異母妹かもしれないマゾヒスト女とのSM性愛に溺れていく男を描いた『砂の上の植物群』にサスペンスがあって『月曜日のユカ』にサスペンスが不足しているのはヒロインがまったく受動的だからで、どうも本作前後の加賀まりこのヒロイン作を見ると加賀をなるべく動かさないことで周囲が動く仕組みのドラマにして新味を狙ってしくじっているようで、ヒロイン映画として本作の加賀のキャラクターを見ても『狂った果実』の北原三枝の女性像の新しさ、主要人物全員が破滅する壮絶さにはおよばない。ヌーヴェル・ヴァーグより早くヌーヴェル・ヴァーグを先取りした『狂った果実』よりも本作が後退して、その分映像だけは凝った作品になったのは人物の運命を追究するだけの構想がこの映画には欠けていたからで、それは『砂の上の植物群』では挽回されたと思えるだけに『月曜日のユカ』が手軽に観られて『砂の上の植物群』が容易に観られないのは残念です。また中平康は昭和36年~昭和43年の間の日活映画でも最重要監督だけに、鈴木清順や蔵原惟繕のDVDボックスが海外盤で出るなら中平康はまだかともどかしく、本作1作だけで語るにはもっとも不本意な監督です。
●5月11日(土)
蔵原惟繕(1927-2002)『黒い太陽』(日活'64.4.19)*95min, B&W : https://youtu.be/gQZlLTSb1Og (Full Movie)
[ 解説 ] 河野典生の原作を「駈け出し刑事」の山田信夫が脚色、「何か面白いことないか」の蔵原惟繕が監督した社会ドラマ。撮影は金宇満司。
[ あらすじ ] 明(川地民夫)は黒人のジャズに憑かれたファンキー族だ。衝動だけが明の行動を支配していた。バイタリティに溢れる黒人のムードを彼は敬愛していた。街に出た明はポンコツ車を手に入れると、ドライブへ出た。折しも、白人二人を射殺して逃走中の黒人兵ギル(チコ・ローランド)を追って、MPと日本警察が躍起になっていた。その夜、廃墟で黒人兵ギルに会った明は、黒人を見た感激に震えながら親愛感にひたったが興奮したギルは、明の黒人に対する強いあこがれを完全にくずした。姿を消していたギルが戻って来た日、やはり機関銃をつきつけて横柄な態度のギルと明はにらみ合っていた。激しい疲労の末、睡魔に襲われたギルのすきに、機関銃を奪い取り形勢を逆転した明は、その日からギルを完全にロボットにした。白ペンキでギルの顔を塗りつぶして逃走する明、臨時ニュースは、白人に変装して逃走するギルのニュースを告げていた。海に面した海岸で突然、強気なギルが泥水で顔を洗いながら嗚咽するさまをみて、明は今迄の憎しみがうすらいだ。警察の包囲のサーチライトの光りの中、明は機関銃で応戦しながらギルを抱きあげてビルの屋上に登り海を見せようとした。「海へ行かせてくれ!神さまのところへ……」広告用のアドバルンに身体をつけて黒いキリスト、ギルは太陽に迎えられて空中へと舞い上った。
――本作の音楽は黛敏郎で、'70年代以降は保守右派の文化人となった黛ですが大学生時代はジャズ・バンドを率いていた経験もあり、黛がマックス・ローチ・カルテットに依頼した音楽を全編に使用しています。映画冒頭で川内民夫がマックス・ローチ(ドラムス)のアルバム『Black Sun』のジャケットをレコード店店頭で手にとる場面があるのですが、実はそんなレコードは存在しなくて本作のサントラは'64年のローチのワンホーン・カルテット(クリフォード・ジョーダン=テナー、ロニー・マシューズ=ピアノ、エディ・カーン=ベース)と、ジョーダンがローチのバンドとチャールズ・ミンガスのバンドをかけもちしていた頃の録音(このメンバーでのローチ・カルテットは公式録音を残さず'90年代にヨーロッパ公演のライヴが2種出回っただけです)で、2007年に日本のジャズのインディー・レーベルから黛敏郎/マックス・ローチ名義の2枚組CD『黒い太陽/狂熱の季節』としてリリースされるまで存在しないアルバムでした(もちろんジャケットも違います)。初回プレスのみの発売だったため現在4万円近いプレミア価格でコレクターズ・アイテム化しています。この頃のローチ・カルテットは当時ローチ夫人だった歌手アビー・リンカーンが帯同していたので映画サントラでもアビー・リンカーンのヴォーカル曲があります。『狂熱の季節』の明も黒人ジャズの心酔者でしたが本作でも同様で、飼い犬に(セロニアス・)モンクと名をつけており、廃教会でマシンガンを抱えて負傷し隠れていた黒人兵に出会うと初めて近づいた本物の黒人に興奮し、カタカナ英語でアイ・ラヴ・ニグロ・ジャズ、アイ・ラヴ・マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズ、セロニアス・モンク、チャールズ・ミンガス、マックス・ローチ、アビー・リンカーン、アイ・アム・ユア・フレンドと熱狂的に話しかけるのですが、脱走の際に上官か民間人を殺害してきており自分も狙撃され負傷し興奮かつ焦燥している黒人兵には明のカタカナ英語は通じないしそもそも冷静な判断力を失っている。ここからディスコミュニケーションと幻滅のうちに明は黒人兵の逃走を助け、悪化する負傷の世話を焼くことになるのですが、自分が世話している黒人兵が感謝の様子もなくまるで気持が通じないので明は「歌も歌えねえ、ジャズもできねえ!ただの黒んぼじゃねえか!」と怒りを爆発させて放置してしまう。負傷した脚に蛆がわき膿が溜まって苦痛にのたうつ黒人兵が「マザー!」と叫んで、伝承歌「マザーレス・チャイルド」をうめきながら歌い出すのはその時で、明と観客はこの時初めてこの黒人兵が一人の人間であり戦勝国アメリカの駐留兵である以前に日本に連れてこられた黒人奴隷なのだ、と気づきます(アメリカ盤DVDの解説が強調しているのもこの点です)。明はナイフで黒人兵の脚を切開して銃弾を摘出しウィスキーで消毒し(この描写も違法医療に抵触します)、痛みの鎮痛した黒人兵ギルはようやく明と名前をかわすまでに信頼を寄せるようになります。しかし逃避行はついに港に二人が追いつめられるまでつづくので、十分なコミュニケーションが取れず打つ手もない明とギルは明の思いつきにギルが従う具合に真の平等な友情には発展せず、嫌がるギルの顔をペンキで白塗りにする方法を取らざるを得ない。それでも波止場に追いつめられた二人は、ギルが広告用アドバルーンの綱に昇り明がマシンガンで応戦してクライマックスを迎えますが、ギルはアドバルーンの綱を切ってくれと明に叫び明はマシンガンで綱を切ります。なおも応戦する明は組み伏せられ、ギルを下げたアドバルーンは海の彼方に消えて綱をつかんだ逆光のシルエットが十字架にかけられたまま飛んでいくように見える。カメラは太陽にパンして終わります。同じ太陽にパンして終わるラスト・ショットでも『憎いあンちくしょう』とは大違いで、山田信夫の脚本は『狂熱の季節』からさらに冴えており、本作のような黒人像を描いた映画は逆に当時アメリカでは作り得なかったと思えばこの映画は歴史的価値以上のものがあり、ヒロイン不在の逃走劇という作りといい、観客に要求される鑑賞力の高さといいプログラム・ピクチャー枠でメジャー映画社が送り出した作品としては極限まで迫った野心作であり、蔵原惟繕・山田信夫とも『狂熱の季節』の川内民夫の「明」の延長にこの黒人ジャズ心酔者の青年像から日本人が黒人ジャズに心酔するという皮肉をもっと過酷に描けないか、と再び難解な河野典生の原作に挑んだと思われます。おそらく上層部には同種の企画の成功した先例にはアメリカのヒット作『手錠のままの脱獄』'58があると通したのでしょうが、本作の川内とローランドの自発性と断絶は『手錠のままの脱獄』の図式性とはまったく異質で徹底したものであり、観客の容易な理解を拒む映画だけに娯楽映画としては失敗作とされても仕方ない作品ですが、これだけは作りたかったというモチベーションの高さと切迫感は伝わってくる点では本作には無類の価値があります。
●5月12日(日)
鈴木清順(1923-2017)『東京流れ者』(日活'66.4.10)*88min, Color : https://youtu.be/0wRw7DQK7Sk (Full Movie)
[ 解説 ] 川内康範が原作とシナリオを執筆、「河内カルメン」の鈴木清順が監督したアクションもの。撮影もコンビの峰重義。
[ あらすじ ] 流れ者の歌をくちづさむ本堂哲也(渡哲也)を、数名の男がとり囲んだ。彼らは、哲也の属する倉田組が、やくざ稼業から不動産業にかわったのを根にもち、ことごとく倉田組に喧嘩をうろうとする大塚組のものであった。だが哲也は倉田(北龍二)の無抵抗主義を守りぬいた。哲也は恋仲の歌手千春(松原智恵子)と結婚して、やくざをやめる決心をしていた。倉田は経営が苦しく金融業の吉井(日野道夫)からビルを担保に金を貸りていた。哲也はそれを知ると単身吉井に会い手形延期を申し込んだ。これを大塚(江角英明)のスパイで、事務員の睦子(浜川智子)から聞いた大塚は、部下を使い吉井に担保のビルの権利書一切を渡せと脅した。電話で権利書をとられ、吉井が殺されたことを知った哲也は、怒りに身をふるわせた。大塚は邪魔者の哲也を殺すため殺し屋辰造(川地民夫)を雇った。だが辰造は哲也の敵ではなかった。その頃大塚は倉田に哲也とひきかえにビルの問題から手をひくともちかけた。かげでこれを聞いた哲也は単身大阪に発った。だが辰造はしつこく哲也を追った。一方東京では大塚が、権利書を戻すかわりに、ビルの地下で千春にクラブ商売をさせて欲しいと申し出た。倉田は自分の利益のために哲也を見殺しにしようとしていた。東京に帰った哲也は、千春を捜した。しかし千春は、哲也が殺されたと聞かされ大塚のクラブに出ていた。哲也と千春を慕う敬一(吉田毅)は、千春に哲也の健在を知らせ哲也に千春のいる場所を知らせた。怒った哲也は、倉田、大塚に銃弾をむけた。悽惨な死闘の末、哲也はやくざのみにくさを思い知らされた。夢をなくした哲也は、千春に書置きを残すとどこへともなく去っていった。
――本作も人物配置に『錆びたナイフ』『赤い波止場』や『拳銃残酷物語』など日活の先行作品との類似がありますが、これら外国のギャング映画の日本版(さらに西部劇的要素も含む)はドラマの組み立てに大なり小なり重複する要素が入りこみやすいとも言えて、似通った要素が入ってきても相互影響や模倣とは言えないでしょう。しかしまあ、この映画日記は歴史的参考文献として初公開時のキネマ旬報の紹介を参観することが多いですが、ヨーロッパ映画の紹介など煩瑣なほど細かくあらすじが書かれているのに対し日本映画、それもプログラム・ピクチャーとなると一応記録に載せておくといった程度に映画会社のプレスシートをそのまま載せただけと思われるもので、本作は準主演級で「流れ星の健」の二谷英明が「不死鳥の哲」こと渡哲也の兄貴分として登場してきますが、敵役ならともかく渡を見守る役なのであらすじには関係ないと割愛されてしまっています。確かにあまり印象に残る役ではなく、二谷英明だからこの兄貴分は主人公の乗りこえなくてはならない何らかの役割なんだろうなと思っていると同じ英明でも日活の悪役は江角英明の担う時代になっていて、7、8年前なら二谷(昭和5年生まれ)が担っていた悪役を江角(昭和10年生まれ)が演じているのを観るとああそうだったっけと思い、忘れた頃に本作を観直すごとに渡哲也の若さに驚きます。本作出演時24歳だから当然なのですが、映画を観てしばらく経つと内容や貫禄からも本作の渡の印象は若くても20代後半くらいに変化していくので、本作作中の時間経過は3か月~半年未満でしょうが、映画冒頭から結末までの渡の精神的成長が5年分あまりに感じられるためこの印象が起こると考えられる。キネマ旬報のあらすじは意図的な歪曲ではなく日活のプレスシートをそのまま載せただけでしょうが、結末部分はこのあらすじに書かれているのとはまったく違う映画になっています。ネタバレというのではなく本作の結末は文字に起こすのが非常に困難で、映像で描かれたものを文章にするとニュアンスやこめられた意味そのものが変わってしまうようなものです。しかもおそらく台詞やト書きは脚本に忠実なので、脚本を推定して台詞と動作を文章で描いても紋切り型の果たし合いと救出した女との別れではないか、となってしまう。鈴木清順はその紋切り型の脚本だからこそ絶妙の腕の振るいがいがあったに違いなく、本作が安定したムードの持続した好作になったのも脚本全編がそういうものだったから、と言えそうです。主題歌「東京流れ者」が作曲者不明の伝承歌(歌詞違いヴァージョン多数)というのも良い話ではありませんか。また本作のジャズ喫茶(ディスコティーク)場面では'66年4月にデビュー・アルバムを出したばかりのザ・スパイダースの「フリフリ'66」が流れます。渡哲也が歌う「東京流れ者」同様テイチク盤で日活がテイチクと提携していたからですが、ここでゴダールの『軽蔑』'63(日本公開'64年11月)を思わせる音声処理がさりげなく使われているのにもご注意ください。