セルゲイ・エイゼンシュテイン(1898-1948)、前回ご紹介したフセヴォロド・プドフキン(1893-1953)とともにサイレント時代のソヴィエト映画の3大巨匠監督と並び称されるオレクサンドル・ドヴジェンコ(Olexander Petrovych Dovzhenko, 1894-1956)ですが、首都モスクワを拠点にしていた前2者に対しドヴジェンコはウクライナ共和国出身でウクライナを拠点にウクライナを舞台にした映画を作った監督で、ウクライナは13世紀には建国されていた国家ですが18世紀には帝政ロシアの支配下に置かれ、第一次大戦後には内戦状態に陥り複数の対立政権が独立建国を宣言するもボルシェヴィキ革命によって再びロシア革命後のソヴィエト連邦統治下の地方国家となった国です。ウクライナは'91年のソヴィエト連邦解体後は東欧の独立国になっているように地理的にもソヴィエト連邦の最東にあり、西にハンガリーやポーランド、スロヴァニア、ルーマニア、モルドヴァに接し、北にベラルーシ、南は黒海を挟んでトルコが位置しており、言語もウクライナ語とロシア語が公用言語となっている、アジアで言えば台湾に近い立場の国で、台湾も正式名称は中華民国(いわゆる「中国」は中華人民共和国です)、毛沢東政権と蒋介石政権が対立し蒋介石政権が台湾半島で独立建国を宣言した国で、もともとの台湾人に対して中国の野党が支配者となった例です。ドヴジェンコは心臓疾患があったため第一次大戦、ウクライナ内戦~ボルシェヴィキ革命の兵役を逃れた人でしたが、監督デビューはエイゼンシュテインやプドフキンより遅れ'26年に短編2作、'27年に中編1作を経て'28年の『ズヴェニゴーラ』が初めての本格的長編になりました。翌年の『武器庫』'29までの作品はロシア語映画ですが第3長編『大地』'30は初のウクライナ語映画になり、ドヴジェンコはプドフキンの第2長編『聖ペテルブルグの最後』'28では編集を担当していますから首都モスクワの映画人とも交流がありましたが、監督作はウクライナのプロダクションで作っていた地方映画監督なので監督デビューも国内外での注目も遅れたわけです。しかし実験的ドキュメンタリー監督ジガ・ヴェルトフ(1896-1954)と較べてすらドヴジェンコの映像表現の実験は際立っていて、エイゼンシュテインやプドフキンの映画手法が次第にのちの世界各国の映画に取り入れられた普遍性があったのに対してドヴジェンコの映画はあまりにも技法とテーマの結びつきが謎めいていて、しかも実験的という言葉から連想される難解さや情感の欠如はなく、劇映画らしい人物造型やプロット、ストーリーも備えており、観る人の感覚を直撃する衝撃的な直截さとイメージの豊さがあります。『戦艦ポチョムキン』'25や『母』'26の代表的名作を持つエイゼンシュテインやプドフキンよりもすごいんじゃないかと思わせるのが前2者が天才的才能と直観からにせよ理詰めの合理性が感じられる仕上がりなのに、ドヴジェンコの映画には発想も仕上がりもどうなったらこんな映画になったのか想像もつかない突拍子のなさがあり、それが偶然や無茶苦茶でないのは1作ごとに見事な統一感があることからもわかる。ドヴジェンコの長編第1作~第3作はいずれも革命前夜のウクライナを舞台にしていることから「ウクライナ三部作」または「戦争三部作」と呼ばれますが内容的には戦争自体を全編のテーマとするのは第2長編『武器庫』だけなので「ウクライナ三部作」の呼び名の方がよく使われます。また第4長編『イワン』'32からドヴジェンコ作品はサウンド・トーキーになるのでこれはドヴジェンコのサイレント時代の長編3作の総称にもなります。ドヴジェンコより早く監督デビューしていたエイゼンシュテインやプドフキンがスターリン独裁化の前兆に危険視され始めていた時期にドヴジェンコが野心的な「ウクライナ三部作」を作れたのも中央政府がウクライナまで目が届かなかったからと思われますが、『ズヴェニゴーラ』『武器庫』『大地』とも鮮やかな仕上がりの傑作ながら同じ映画監督が3年連続で作ったとは思えないくらい作風の振幅が大きい。1作ごとの完成度が高い分なおのことこれは驚嘆させられるので、エイゼンシュテインなら尖鋭さでは第1長編『ストライキ』'24、完成度では第2長編『戦艦ポチョムキン』、壮大な規模や集大成観では第3長編『十月』'28(プドフキンの『母』『聖ペテルブルグの最後』『アジアの嵐』'29の3長編にも同じような区分ができるでしょう)という具合にはドヴジェンコの映画はどれを代表作とも決めがたい、まるで1作1作がその1作しか作品を残さなかった監督のような極めつきのものにも見えれば、次には何が出てくるかまったく予想もつかないのが「ウクライナ三部作」の時期のドヴジェンコだったとも言えます。戦前に『大地』1作、戦国は各種の文化会館上映しかされる機会のないドヴジェンコですが、「ウクライナ三部作」はサイレント時代の映画に輝く秘宝中の秘宝です。
●4月28日(日)
『ズヴェニゴーラ』Zvenigora (Vse-Ukrains'ke Foto Kino Upravlinnia'28.Apr.13)*91min, B/W, Silent : https://youtu.be/pQ4HXgqEcqI (with English Subtitles) : 日本未公開(特殊上映)
ドヴジェンコの「ウクライナ三部作」はどれも本当に不思議な映画で、まず『ズヴェニゴーラ』で意表を突かれるのはドヴジェンコにはリアリズム映画を作る気はこれっぽっちもないということです。まずロシア革命前夜のウクライナ自体が一般的な日本の映画観客には未知の世界ですが、一応社会常識程度の歴史知識があればロシア革命前夜のウクライナはこうだったのかと理解できるので特にウクライナの歴史についての知識は不要でもありますし、一応手頃に日本語版ウィキペディアなどでウクライナの歴史を復習しておくとなお入りやすいですが、まず農本主義経済の国ならではの文化というのはかつての日本もそうでしたから理解しやすい面がありますし、そこから生じる伝承文化や生活面での価値観、宗教性も何となく昔の日本みたいなもののウクライナ版なんだなと感じられる。しかし映像表現として日本的発想からはまず出てこないような映像手法が連発され、それも他の同時期のソヴィエト映画の技法とは発想そのものが異なるのが微妙に、しかしはっきりと表れているのがドヴジェンコの映画には感じられます。映画はタイトルとクレジットのあと、民族服らしい服装で明らかにこの時代ではない、ウクライナ民族の祖先らしき人々が馬に乗って森を抜けて出てくるのをスローモーションで延々映し出し、字幕タイトルで「ウクライナ民族に伝承されたズヴェニゴーラ山の古代スキタイ人の秘宝には300年もの間、代々ある一族の老人が見張りについていた」と森と野原を行き来する老人(ニコライ・ナデムスキ)の姿が映されます。本作がリアリズム映画ではないのは冒頭のスローモーションのウクライナ民族の始祖たちだけでなく、この老人が山賊たちに脅されてズヴェニゴーラの秘宝を探しに行きやはり秘宝探しに来て森の木の上に隠れている女たち(なぜ女たち?)を猟銃で撃ち落とし、この辺ですと地面を掘ろうとするとカンテラを提げた黒衣の僧の姿の悪魔が地下から階段を上がって出てきて山賊も老人も腰を抜かして怯える(迫ってくる悪魔の姿が画面全体にオーヴァーラップします)。悪魔がカンテラを投げつけると一面が爆煙に包まれます。字幕「1世紀もの間老人は秘宝を守ってきた。そして現在」若い乙女たちが池で蓮の葉にろうそくを浮かべて流します(遊び?灯籠流しのような風習?)。そのうち1枚の蓮の葉が向こう岸に流れ、秘宝の見張りの老人(前の場面と同じ年格好のままです)は蓮の葉の上のろうそくを吹き消すと、乙女たちの一人ロクサーナ(ポリーナ・スクリア=オターヴァ)が倒れてしまいます。どうやらロクサーナには巫女的な力があるらしいのです。老人は帰宅して居間に腰を下ろします。字幕「その息子パヴロ」青年パヴロ(オレクサンドル・ポドロニイ)はしゃぼん玉遊びをしています。字幕「もう一人の息子ティミーシュコ」ティミーシュコ(セミオン・スヴァシェンコ)は板を釘で工作しています。こういった調子で本作は12のエピソード(シークエンス)に分かれているのですが、老人、二人の息子、乙女ロクサーナはどうも同一人物(同一俳優が演じますが)を表すのではなくて、映画の進行につれて同一の性格の異なる役柄を演じることになる。一種の夢の手法で作られていて、例えば老人は山賊に脅されたりのちにはパヴロに預けるためだったりと何度も秘宝を取り出しますが金の杯はその都度粘土に変わって隠し場所を変えてしまう。かと思うとリアリズム映画の手法で描かれるシークエンスもあって、パヴロはブルジョワの手先になり父を何度も騙して秘宝を奪おうとしますが上手くいかない一方で、ティミーシュコは労働者になり、ロシアの十月革命の報を知ってウクライナ内戦のボルシェヴィキ革命闘士のリーダーになり、すがりつく恋人ロクサーナを棄てます。パヴロはボルシェヴィキの闘士たちの乗った汽車を妨害するため線路に爆弾を仕掛けますがロクサーナに知らされた老人はパヴロの計画を阻止しようとします。ブルジョワたちの集会で「ウクライナのプリンス」として反革命運動の報告を求められたパヴロは壇上で「紳士淑女の皆さま、話は以上です」と引責拳銃自殺しようとし、ブルジョワたちは期待の眼で喝采しますが、パヴロは自殺を果たせず退場し場内のブルジョワたちは責任者はどうなるとパニックを起こして騒然となります。ティミーシュコたちボルシェヴィキ革命の闘士たちの運動は弾圧に抵抗し、パヴロは最後まで父から秘宝を奪おうとしますが父が秘宝を宵闇の中の汽車の線路に置いたため汽車は止まり、パヴロの線路爆破計画も阻止されます。パヴロは「紳士淑女の皆さま、話は以上です」とピストルを取り出し、老人が汽車から降りてきたティミーシュコ、駆けつけたロクサーナと振り向くと草むらの上で自害したパヴロが果てています。
――ドヴジェンコの「ウクライナ三部作」は逆順に『大地』『武器庫』『ズヴェニゴーラ』と'71年、'72年、'73年にソヴィエトで再上映プリントがレストアされましたが、そうなった理由もわからなくはないので、『ズヴェニゴーラ』はどこまでが夢でどこからがリアリズムなのか判然としない手法を使っているので、オーヴァーラップを多用した映像面ではフランス印象派映画のレルビエの『エル・ドラドウ』'21やエプスタンの『まごころ』'23や『三面鏡』'27、ルノワールの『水の娘』'24や『マッチ売りの少女』'28に近く、また労働者となった息子の働く工業風景はグルーネの『蠱惑の街』'23、ルットマンの『伯林=大都会交響楽』'27のようなドイツのポスト表現主義の即物主義映画に近い映像ですが(こうした場面ではソヴィエト国内のドキュメンタリー監督ジガ・ヴェルトフと近い指向もあります)、フランス印象派映画やドイツ即物主義映画と決定的に違うのは本作が夢の手法やセミ・ドキュメンタリー手法を混在させてまで民族革命の過程を描き出そうという筋を通している、その強烈な訴求力によります。セミ・ドキュメンタリー手法がさらに過激化して映像実験を突き詰める代わり夢の手法は排除されるのが次作『武器庫』なら、一転して実験臭のない穏やかな田園映画的リアリズムに徹底してさらにウクライナ民衆の心情に寄り添ったのが次々作『大地』なので、一般的には三部作の代表作は『大地』と目されることが多い一方で本作の異なる次元の映像表現を混在させる実験性、また本作とは異なり大胆な表現の抽象化によるセミ・ドキュメンタリー手法と話法の実験に挑んだ『武器庫』もまた高く評価されるので、エイゼンシュテインやプドフキン、またヴェルトフやバルネットでもいいですが、同時代のソヴィエト映画監督たちは作品ごとに段階を踏んだ発展や変化がたどれるのに対してドヴジェンコの三部作は1作ごとに垂直的に断絶している。普通の映画監督なら長編第1作の本作の発展から何本も映画を作っていくでしょうが、またそうした作風の発展は堅実で実りも多いのですが、ドヴジェンコという鬼才はそういう人ではなかったということです。また本作は、ドヴジェンコが後年第一線を退いて映画大学の教鞭を執ったその生徒からセルゲイ・パラジャーノフ(1924-1990)が巣立ったのもなるほどなあ、と思わせる作品でもあります。
●4月29日(月)
『武器庫』Arsenal (Vse-Ukrains'ke Foto Kino Upravlinnia'29.Feb.25)*92min, B/W, Silent : https://youtu.be/8WcJqHCL7do (with English Subtitles) : 日本未公開(特殊上映)
前作『ズヴェニゴーラ』の主要人物中ボルシェヴィキ革命闘士のリーダーになる青年の名前も同じでしたが、本作の主人公の青年ティミーシュも労働者からボルシェヴィキ革命のリーダーになります。演じているのは同じ青年俳優セミョーン・スヴァシェンコで、スヴァシェンコは次作『大地』でも主人公の青年ワシーリーを演じますから、「ウクライナ三部作」は監督が同じなのはもちろん主人公役の俳優も3作通して主演していることになります。また前作では二人の脚本家とドヴジェンコの共同脚本でしたが本作と次作はドヴジェンコの単独脚本で、撮影も前作のボリス・ザヴェレフから本作と次作はダニーロ・デムツキーに変わっている。デムツキーはウクライナ映画社のオデッサ撮影所の精鋭カメラマンで、素人が技術の世界にものを言うのもおこがましいですが、『ズヴェニゴーラ』に特に映像上の文句のつけどころもないのですが(多重露出は監督采配でしょうし)、『武器庫』と『大地』はそれぞれ性格のまるで違う映画ですし映像文体そのものが3作ともに違う(さらに『ズヴェニゴーラ』は意図的に異なる映像文体の混淆がある)ものの、デムツキー撮影の『武器庫』『大地』はショットの躍動感でも美しさでもサイレント時代の古典映画の名作の数々、それを担ってきた名カメラマンの業績でも最高水準で、ビリー・ビッツァーやカール・フロイント、ルドルフ・マテといった名手に並び立つ仕上がりです。また本作はイギリスのイギリスの映画史家のR・ディクソン・スミスがヨーエ・マイ(独)の『アスファルト』'29の世界初DVD化(英Eureka!社2005年)の解説ブックレットに寄せたエッセイ「ヨーエ・マイの『アスファルト』に見るウーファ映画社のスタイルとサイレント映画の終わり」で、映画のトーキー化ぎりぎりの時期のサイレント映画の円熟を代表する作品に、ムルナウの『サンライズ』'27(米)、ルットマンの『伯林=大都会交響楽』'27(独)、キング・ヴィダーの『群衆』'28(米)、ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』'28(仏)、パウル・レニの『笑ふ男』'28(米)、スタンバーグの『紐育の波止場』'28(米)、シェストレムの『風』'28(米)、マルコ・ド・ガスティーヌの『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』'29(仏)、E・A・デュポンの『ピカデリー』'29(英)、G・W・パプストの『パンドラの箱』'29(独)、アレクサンドル・ドヴジェンコの『武器庫』'29(ソ連)、ハンス・シュヴァルツの『ニーナ・ペトロヴナ』'29(ソ連)、アンソニー・アスキスの『ダートムーアのコテージ』'29(英)、アーノルド・ファンク=G・W・パプストの『死の銀嶺』'29(独)を上げ、『アスファルト』をそれらに並ぶ作品としています。フランス映画ではアベル・ガンスの『ナポレオン』'27やマルセル・レルビエの『金』'28、ジャン・エプスタンの『アッシャー家の末裔』'28を落としてド・ガスティーヌを入れているのは好みかと思いますし、アメリカ映画5作のうち生粋のアメリカ出身監督の作品が『群衆』『紐育の波止場』の2作というのはシュトロハイムの『結婚行進曲』'27、『キートンの蒸気船』'28、ウェルマンの『人生の乞食』'28あたりをとも思いますが(『サンライズ』『笑ふ男』『風』もハリウッドに招かれたヨーロッパ監督の大傑作ですが)筆者も上記作品中ド・ガスティーヌ、シュヴァルツ(戦前日本公開あり)、アスキス作品は未見ながら、まず妥当なリストでしょう。またこうして多彩な作品と並べてみるとプドフキンの『聖ペテルブルグの最後』やエイゼンシュテインの『十月』ではなくドヴジェンコの三部作から、しかも『武器庫』を採った見識も見えてくる。それほど『武器庫』は主人公の運命を中心としてシンプルなプロットを語り切る話法そのものが『ズヴェニゴーラ』とも『大地』とも、もちろん一般の劇映画とも断絶した実験がある。明確なプロットは存在するのに通常の劇映画のような物語話法でなくモンタージュが物語を形成していくので普通ストーリーと呼ばれるような要素は限りなく稀薄でセミ・ドキュメンタリー手法の場面の連続があるだけにもかかわらず、帝政ウクライナのキエフ武器庫での1918年の蜂起と革命軍鎮圧に向けてのウクライナじゅうの人民の悲劇が主人公ティーミッシュの運命を軸として展開していく。本作は戦争(内戦)映画ですが、それよりも小国の現代史の悲劇そのものを巨視的に、しかも極度に圧縮してとらえた壮大な歴史映画なので、90分ほどの中に描かれた内容の重量はガンスの『ナポレオン』'27(332分)、ジャック・リヴェットの『アウト1』'71(775分)、ベルトルッチの『1900年』'76(317分)、ジーバーベルグの『ヒトラーまたはドイツ映画』'77(442分)、ベルイマンの『ファニーとアレクサンデル』'82(312分)といった映画史上の5時間~12時間あまりもある怪物的大作に匹敵するか、それ以上のものにすらなっている。本作は観る人の胸を張り裂けるような苛烈な映像、しかも美しさを突き詰めた映像にあふれているので、鮮烈なイメージがストーリーを圧倒して物語性はほとんど古典悲劇的な運命譚(しかし20世紀までには起こり得なかった新たな悲劇性)のプロットだけに収斂しますが、決して散漫にならないのは物語性に負わない集中的なプロットの構築にモンタージュの連結によって大成功しているからで、これは話法の強化のためにモンタージュを駆使したエイゼンシュテインやプドフキンからさらに進めて話法を解体してしまったジガ・ヴェルトフの実験的ドキュメンタリーに近い。しかしドヴジェンコは劇映画なので話法の解体をプロットの強化に結びつける発想があり、西欧映画で同様の発想が一般化するのは'50年代末のヌーヴェル・ヴァーグ以降のことです(それまではドライヤー、ルノワール、ロッセリーニ、ブレッソンら孤立した監督の作品に現れるだけでした)。また本作は'29年当時おそらく西洋・東洋文化圏問わずどの国でも残虐にすぎる、悲惨すぎると映像化が許されなかっただろうリアルな残虐描写がドキュメンタリー手法によって大胆に描かれ、旧帝政批判を旨とするソヴィエト政権支配下のウクライナ映画としてもよくこれほどの残虐な映像が検閲を通ったものです。本作は帝政下のウクライナの農民の貧困を物語るエピソード、次いで第一次世界大戦の最後の数か月の事件から、主人公ティーミッシュを視点とする労働運動の革命過程が描かれていきます。キエフの武器庫でのボルシェビキ革命軍を手助けすることになっていた蜂起は、中央ラダ政権の軍隊によって壊滅して終わります。その後ウクライナのボルシェヴィキ闘士たちはソヴィエトのボルシェヴィキ政府と団結して帝政を打倒し、代わりにソヴィエト支配下の地方国ウクライナ共和国になるのですが、おそらくドヴジェンコは結局はウクライナの自主独立が成立しなかった現実までもを描いたらそれがソヴィエト政権支配下に委ねたウクライナの挫折であり妥協であると指摘せずにはいられない民族的自覚があった。そこで旧帝政ウクライナの悲惨と残虐を描きつくすまでで本作をまとめたものと思われます。
――本作は荒野に立つ喪服の寡婦の美しく悲しい映像から始まります。字幕「彼女は3人の息子を戦争に送った」。前線の塹壕で兵士たちが銃を構える様子の移動ショット。字幕「彼女は3人の息子を戦場で失った」。荒野でしゃがみこむ喪服の寡婦の姿。ドイツ軍将校の執務室に切り替わり、将校は日記帳を開いて満足げに書きます。日記帳「今日はカラスを撃った。良い1日だった」。荒野に倒れている喪服の寡婦の死体。次に農家の主婦が家の中で訴えかける二人の幼児に服を引っ張られといる姿が映ります。荒野で馬を連れた農夫が映り、旅仕度らしい姿から妻子を捨てて家出してきたとわかります。猛然と鞭打つ農夫。猛然と鞭打つ主婦の姿がクロスカッティングされ、農夫は疲れて倒れこみます。馬が農夫から離れて数歩歩いて止まります。泣きじゃくる幼児の姿。立ちすくむ馬の姿。冒頭の最初の2つのシークエンスは固定ショットの美しい映像なのですが、美しくまた寡黙なだけに第一次大戦下の農村国ウクライナ民衆の悲惨が胸が裂けるほど迫ってきます。映画は第一次大戦の様子をしばらく追い、やがて大戦後に主人公ティーミッシュが労働運動と国内状勢のさらなる帝政の強化からボルシェヴィキ革命を目指す闘士のリーダーとなるまでを無数の登場人物とエピソードを通して描きますが、キエフの武器庫での籠城戦が鎮圧されるまではこの映画は激しい移動ショットか、対象物もカメラも急速に移動しているショットの連続で、固定ショットも稀に出てきますが極端に短いショットのモンタージュの連続です。ティーミッシュという主人公が軸となってはいるといえ通常の視点人物の交替という話法が完全に解体されているのはこの激しく躍動的な映像文体ゆえで、にもかかわらず内戦革命の行方というプロットからは映像は外れないので実験的ドキュメンタリーに近い手法ではあっても劇映画になっている。冒頭の2つのシークエンスとクライマックスの2つのシークエンスが静的な映像に激情的な感情を託しているとすれば映画の大半を占める中間部は映像そのものが激動的で、フランスの印象主義映画、ドイツのポスト表現主義即物主義映画をしのいでいるのは内容そのものがこの実験的映像手法に拮抗しているからです。クライマックスでは武器庫の革命軍は叛乱を鎮圧されて、長い処刑の場面が続きます。ここから先は冒頭同様映像は固定ショットのみに戻り、磨き抜かれた美しくそれだけに悲痛な構図とじっくりしたモンタージュによる映像文体に回帰します。壁に一人ずつ引き出された闘士たちが帝政軍の民兵長官によって淡々と次々に機械的に射殺されていき、この軍服でも何でもないスーツ姿の長官が最初は射殺される壁の闘士たちとクロスカッティング、さらには闘士たちの姿は映されもせず長官が撃っては休み、撃っては休みと長官のバストアップだけの映像になっていくのは革命軍の闘士たちの処刑が単なる作業でしかない様子に転化していく衝撃力があり、やがてあと数人というところで叫ぶ主婦の映像と字幕「私の夫はどこに?」射殺されて崩れ落ちる中年労働者闘士、叫ぶ若い女の映像と字幕「私の恋人はどこに?」射殺されて崩れ落ちる青年労働者闘士、叫ぶ老人と字幕「私の息子はどこに?」射殺されて崩れ落ちる学生闘士、と処刑場面は終わり、最後まで武器庫で抗戦を続けていた主人公ティーミッシュがついに帝政軍兵士たちに包囲され追いつめられる最後のシークエンスを迎えます。革命軍リーダーのティーミッシュを撃とうとして兵士たちはティーミッシュに気圧されて銃身が震え、先頭に立って撃つのは誰か決断できず弱腰になってしまいます。ティーミッシュは兵士たちを一喝しますが兵士たちは顔を見合わせて困惑してしまい、ティーミッシュはさらにシャツの胸を開いて裸の胸板をさらすと兵士たちを挑発し、映画は突然そこでエンドマークが打たれます。本作は途方もない傑作でサイレント映画の究極的完成を極めたものとして『サンライズ』や『裁かるゝジャンヌ』と同等か、それ以上に映画史上に屹立している、今なお新しい作品です。先に指摘した通り'29年当時本作ほど内戦下の状況の描写とはいえリアリズム映画で人間性の喪失した残虐描写を描いた映画は西欧・東洋文化圏のいずれでもタブーだったでしょうし、本作は悲惨な史実を悲惨なまま、しかも美しい映像文体で描いていることで普遍的な真実性に迫っている点でも20世紀の悲劇を、古典悲劇に匹敵する根源的な人間の運命にまで高めてとらえた不朽の作品足りうる風格がある。ドヴジェンコの三部作は相当映画を観ている人はもちろん古今のどんな映画人でも志しの高さ、映画の格調高さと斬新さ・美しさで惰性的かつ平俗的な映画感性を恥じいらせる作品ですが、あまりの孤高さゆえに観る人を途方に暮れさせるところもあって、観たことのある人ですらついついドヴジェンコ作品は映画史上の例外的作品のようにあまり話題にしない、別格扱いしてしまうような性格がある。つまり言葉を失ってしまう。『武器庫』はそういうドヴジェンコ作品のもっとも尖った側面の出た映画だけに、さらに今後の再評価が待たれる1作とも言えるでしょう。
●4月30日(火)
『大地』Zemlya (Vse-Ukrains'ke Foto Kino Upravlinnia'30.Apr.8)*78min, B/W, Silent : https://youtu.be/A-E57eyjoao (with English Subtitles) : 日本公開昭和6年7月
ドヴジェンコの「ウクライナ三部作」中もっとも広く観られ、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』やプドフキンの『母』に匹敵するサイレント時代のソヴィエト映画の最高峰とされている公然の名作の評価を得ているのがこの『大地』です。三部作でも『ズヴェニゴーラ』『武器庫』はロシア語字幕でしたが本作はウクライナの農村と農民の話なのでオリジナル版はウクライナ語版が作られ、ロシア全土公開版はロシア語版に字幕が差し替えられましたが、'71年の再公開レストア版に当たって再びオリジナル版に復原され、輸入盤(イギリス盤)DVDなどではウクライナ語の台詞は英語字幕がつくが帝政ウクライナ官僚の使うロシア語の台詞は英語字幕がつかない(つまりウクライナ農民視点では支配層は外国語をしゃべっている)処理がなされており、字幕がつかなくても帝政ウクライナ官僚が高圧的な命令を発しているのは映像で見当がつくのでドヴジェンコの意図をくんだ処理だと思います。本作は『ズヴェニゴーラ』でも『武器庫』でも見られた、固定ショットのみによる静謐で美しい映像と落ち着いたモンタージュで全編が統一され、前2作では映像文体の意図的な混淆でこの映像文体は対比的に用いられていたのに対して本作は映像文体の統一によってリアリズム映画としての劇映画らしさが一貫しているので、観やすさ・親しみやすさでも三部作中群を抜いています。また映画冒頭やエンディングのシークエンスでじっくりと映される田園の自然描写の美しさは神秘性すら感じさせる輝かしいもので、これに匹敵する現代映画というとのちのヴィクトル・エリセのスペイン映画『ミツバチのささやき』'73や『エル・スール』'83くらいではないかと思わせられます。三部作の前2作が実験的手法・政治的性格からもいかにもアヴァンギャルド映画らしい作風(2作はそれぞれ異なる指向性の実験性も大きな特徴でしたが)だったので、サイレント時代のソヴィエト映画の名作として『大地』からドヴジェンコに入るのは観やすさや率直な感動からはいいですが、ドヴジェンコは素朴な社会主義リアリズムの映画監督なんだな、と了解して他の作品も似たようなものなのだろうとたかをくくってしまいかねないような難がある。『ズヴェニゴーラ』『武器庫』とタイトルだけでも『大地』のような農本主義的自然讃美の素朴リアリズム映画監督とは思えないのですが、日本盤の映像ソフトも出ていなければ上映の機会もめったにないので、ドヴジェンコがどんな監督で『ズヴェニゴーラ』『武器庫』がどれほどとんでもない映画かあまり日本では知られていないし、実はYouTubeで手軽に観られるといってもあまり食指がのびる人はいないでしょう。文化会館類で稀に上映されたとしてもそれなりに映画好きの友人を誘っても「ソヴィエトのサイレント映画?」で一蹴されてしまいかねない。「ウクライナ三部作」の輸入盤DVDは3枚組で1,500円の廉価版で入手できますし買えば一生もののお宝ですが、よほどのサイレント映画マニアでなければ手を出さないでしょうし、しかしこれが限定部数の日本盤発売されれば廃盤即数万円単位の高プレミアになるだろう逸品と思うと、この紹介がドヴジェンコ「ウクライナ三部作」へのご案内になれば幸いです。さて『大地』は戦前日本公開された数少ないソヴィエト映画でもあり、それは直接ロシア革命を題材にしていないからでもありますが、『戦艦ポチョムキン』や『母』が1905年の民衆蜂起とその弾圧を描いて帝政ロシア打倒の正当性を主張した映画だったように本作『大地』もモデルになった1906年のウクライナの農村開拓事件があり、帝政ウクライナ政権下の農民たちの農業改革運動とそれをめぐるブルジョワ豪農層との対立を描いています。農民たちの間から自然に起こった労働団結運動が描かれているので本作も『戦艦ポチョムキン』や『母』のように税関で検閲を通らず日本未公開、という可能性もあったでしょうが、主題が農本主義的なものだったため「赤色革命」的な危険性はないとされ、また本作では殺人事件が起こり、クライマックスの葬送では全裸でベッドに身を投げ出し乱れ悲しむヒロインの姿が現行ヴァージョンでは乳房や乳首まではっきり映りますし、労働運動リーダーの葬儀は遺族の意志によってウクライナ共産党の主催で無宗教主義で行われますが、多少まずい場面は戦前の日本公開ではカットされたと思われる。戦前の日本の映画検閲は相当に厳重で、時代劇の剣戟映画でも検閲によるカット率は多い場合原盤の30%あまりにおよんだそうですし、アメリカ映画やヨーロッパ映画でも猥褻・暴力・反社会的描写は遠慮会釈なくカットされましたから、今日観られるヴァージョンがそのまま戦前日本公開された場合の方が少ないと考えた方がよさそうです。それでも本作の日本の戦前初公開は貴重なので、幾分修正して(修正箇所はあとで言及)日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
[ 解説 ]「兵器庫」「スヴェニゴラー」の製作として知られているアレクサンドル・ドヴジェンコが自ら脚色し、監督に当った映画で、撮影はダニー・デムツキーが受持ち、L・ボディック、U・ソルンツェワ両人がアシスタントとしてドブジェンコを助けている。農場の協同化の勝利を主題としたウクライナ・キエフ撮影所作品である。無声。
[ あらすじ ] ソビエト・ウクライナの農村。実った穀物が風に波を見せて動き、向日葵の大輪が咲いている。林檎は水々しい淡紅色の顔を枝の繁みから窺わせ農場は見渡すかぎりの豊作である。一人の老人ペーテル(ミコラ・ナディムスキー)がこの農場の片隅、果樹の樹陰に横っていた。彼は七十五年の鍬と鋤の生活から今や永遠の眠りに就こうとしているのだ。老人は林檎を噛った。だがその老顔に微笑が浮んだと思った瞬間彼の体は忽ちがくりと崩れた。死!併し彼のあとには甥オパナス(ステバン・ジュクラート)夫婦がいる。それに孫の若者ワシーリー(セミョーン・スヴァシェンコ)がいる。ワシーリーはソビエトの国策たる農場協同化の先頭に立って、働く若者だ。農場にはトラクターが是非とも必要だ。そこでワシリー達はトラクターを村に使用することにきめる。今日はそれが村に着く日である。が、その機械の来るのを喜ばない奴が村にもいた。富農の息子コーマ(ペートロ・マソカ)だ。彼等は共同耕作を拒んで飽くまでも個人的利益を主張した。このソビエトの害虫の行為に憤激した一人の農民は富農の馬をやっつけようとまでする。俄かに村に人が集まった。そして何かを見張る。遠い地平線、曲折しこ道の彼方にトラクターが現われたのだ。群衆は一斉にそこへ突っ走ると機械はどういうわけか突然止まった。コーマの顔に冷笑が浮かぶ。農民は必死となって機械を押そうとする。原因が知れた。水がないからだ。そこで隣村から水が持って来られる。再びトラクターの行進。村に歓声があがる。トラクターが村の仕事を昂め出した。ワシーリー等の努力が酬いられた。だが或る夜ワシーリーは恋人ナターリャ(ユーリア・ソーンツェワ)の許をたずねて間もなく何者かに殺される。彼の家の戸口に村の僧侶が訪れるが、若きコムミュニスト、村のソビエトの指導者の体が彼等の手に委せられるが。ワシーリーの叔父は甥の葬いをソビエトの委員等に頼んだ。農民達は胸に若い指導者のための復讐を誓うため集まった。棺は彼等の歌声につつまれながら墓地に運ばれていく。この時、野原を走って来る者がある。富農コーマだ。働く農民はみな葬列に参加してしまったのだ。富農に今更何の用がある。遂いに富農は屈した。おれが殺したのだと喘ぐように叫んで彼は農民達の前に告白し哀訴する。だが農民は新しい生活に関する指導者の言葉に傾聴している。やがて雨が降ってきた。そしてそれは一滴ごとに果実や樹々や穀物を銀鼠色に濡らして行く。それはとりも直さず前進するソビエト農村の姿なのだ。
――キネマ旬報の紹介で修正した箇所は人名と姻戚関係で、これは日本公開がアメリカ公開ヴァージョンのフィルム経由だったことで生じたものと思われます。つまりアメリカ公開ヴァージョンで字幕の差し替えやカットが行われたものが日本公開ではさらにカットされた可能性があるとも、アメリカ公開ヴァージョンの時点でロシア特有のコルホーズ農業労働運動色は柔らげられていたとも考えられる。キネマ旬報の紹介ではオパネスは人名は上げられずペーテル老人の甥ではなく息子夫婦となっており、よって主人公は老人の孫なのはオリジナル版通りですが夫婦の息子ということにもなっている。主人公ワシーリーの名前はキネマ旬報ではヴァージル、恋人ナターリャはナタリーであり、また主人公に嫉妬する豪農の息子コーマはクラークという姓で、いずれもアメリカ版でつけられた名前でしょう。サイレント時代のヨーロッパ映画同様おそらく字幕タイトルそのものが英語タイトルに差し替えられた版での公開立ったと思われ、それを言えば一部のフランス映画、ドイツ映画を除いてサイレント時代の外国映画は一旦アメリカ公開版を経てから英語映画として日本公開されたのです。本作はドヴジェンコの長編映画第3作でサイレント作品としては最後の作品になり、次作『イヴァン』'32からはサウンド・トーキー作品になりましたが、同作が第2回ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を獲得したのも『大地』の国際的な大好評による振り替え受賞の意味が大きかったのではないかと思われ、イタリアを始めとするラテン諸国は農業国でもありますから20世紀初頭のトラクター導入による農業改革を描いた『大地』は普遍的なテーマを備えており、本作はソヴィエト本国でも(やや「反革命的」という留保つきながら、コルホーズ運動映画としての条件は満たしているとして)絶讃されればアメリカやヨーロッパ諸国でも絶讃される、農業国とは言えないイギリスやドイツでも映像美の高さで絶讃されると、まあ世界各国都合の悪いところはカットしたり字幕タイトルを差し替えたりしたでしょうが、農業改革映画の名作、しかも村いちばんの美女を恋人に持つ農業改革リーダーに対する豪農の息子の嫉妬が殺人事件がらみの犯罪メロドラマ展開もするという適度な艶っぼさと下世話さ込みで端正で格調高い映像美の素晴らしさ、共感しやすいキャラクターの配置と人間性の的確な描出、それらすべてを包みこむ神秘性さえ感じさせる農村の自然美とつけ入る隙すらない仕上がりで、「ウクライナ三部作」3作を通して観ると露骨な実験性があえて抑制されている点で異色の作品です。それにはエイゼンシュテインやプドフキンら中央政府モスクワの映画監督らが'29年には映画省に干渉されるようになったのが、ウクライナ共和国のドヴジェンコにも警戒がおよんだからかもしれません。しかし一方、劇映画としての構成では物語性の強さを異なる映像文体に振り分けた『ズヴェニゴーラ』、話法の解体を目指した『武器庫』に較べても本作はストレートなセミ・ドキュメンタリー作品=劇映画による実話の再現と見まがうほどドラマ性が稀薄な作品であり、農業改革と変わりゆく農村の姿の描出が大半を占めています。『ズヴェニゴーラ』『武器庫』とは違ったかたちでの話法の解体、一見オーソドックスなリアリズム映画のなりをしてハリウッド映画流の作劇術や映画技法からは決して出てこない、クライマックスぎりぎりになってからしかドラマティックな展開が起こらない大胆な映画作りをしているのに気づく。ゴダールの「ソヴィエト映画は技法の本質はハリウッド映画と同じではないか」という指摘はエイゼンシュテインやプドフキンには当てはまっても「ウクライナ三部作」のドヴジェンコには当てはまらない。丹念なフィックス・ショットによる穏やかなモンタージュ、と『武器庫』とは正反対な行き方で『大地』を作ってもハリウッド映画と似たものにはならない。サイレント時代のアメリカ映画にも田園映画の系譜がありますが基調は自然を背景にしたロマンス映画であって、ドヴジェンコは本作についてはっきりと物語に主眼はない、と言い切っています。ウクライナ三部作は主演俳優も同じセミョーン・スヴァシェンコが起用されていますし、三部作がせめぎ合ってドヴジェンコの描きたかった映画が実現されていると見るべきでしょうし、完成度も3作ともがずば抜けた仕上がりです。それだけに何度観てもまだ映画監督ドヴジェンコの真価は底が知れない気がしてくるのです。
●4月28日(日)
『ズヴェニゴーラ』Zvenigora (Vse-Ukrains'ke Foto Kino Upravlinnia'28.Apr.13)*91min, B/W, Silent : https://youtu.be/pQ4HXgqEcqI (with English Subtitles) : 日本未公開(特殊上映)
ドヴジェンコの「ウクライナ三部作」はどれも本当に不思議な映画で、まず『ズヴェニゴーラ』で意表を突かれるのはドヴジェンコにはリアリズム映画を作る気はこれっぽっちもないということです。まずロシア革命前夜のウクライナ自体が一般的な日本の映画観客には未知の世界ですが、一応社会常識程度の歴史知識があればロシア革命前夜のウクライナはこうだったのかと理解できるので特にウクライナの歴史についての知識は不要でもありますし、一応手頃に日本語版ウィキペディアなどでウクライナの歴史を復習しておくとなお入りやすいですが、まず農本主義経済の国ならではの文化というのはかつての日本もそうでしたから理解しやすい面がありますし、そこから生じる伝承文化や生活面での価値観、宗教性も何となく昔の日本みたいなもののウクライナ版なんだなと感じられる。しかし映像表現として日本的発想からはまず出てこないような映像手法が連発され、それも他の同時期のソヴィエト映画の技法とは発想そのものが異なるのが微妙に、しかしはっきりと表れているのがドヴジェンコの映画には感じられます。映画はタイトルとクレジットのあと、民族服らしい服装で明らかにこの時代ではない、ウクライナ民族の祖先らしき人々が馬に乗って森を抜けて出てくるのをスローモーションで延々映し出し、字幕タイトルで「ウクライナ民族に伝承されたズヴェニゴーラ山の古代スキタイ人の秘宝には300年もの間、代々ある一族の老人が見張りについていた」と森と野原を行き来する老人(ニコライ・ナデムスキ)の姿が映されます。本作がリアリズム映画ではないのは冒頭のスローモーションのウクライナ民族の始祖たちだけでなく、この老人が山賊たちに脅されてズヴェニゴーラの秘宝を探しに行きやはり秘宝探しに来て森の木の上に隠れている女たち(なぜ女たち?)を猟銃で撃ち落とし、この辺ですと地面を掘ろうとするとカンテラを提げた黒衣の僧の姿の悪魔が地下から階段を上がって出てきて山賊も老人も腰を抜かして怯える(迫ってくる悪魔の姿が画面全体にオーヴァーラップします)。悪魔がカンテラを投げつけると一面が爆煙に包まれます。字幕「1世紀もの間老人は秘宝を守ってきた。そして現在」若い乙女たちが池で蓮の葉にろうそくを浮かべて流します(遊び?灯籠流しのような風習?)。そのうち1枚の蓮の葉が向こう岸に流れ、秘宝の見張りの老人(前の場面と同じ年格好のままです)は蓮の葉の上のろうそくを吹き消すと、乙女たちの一人ロクサーナ(ポリーナ・スクリア=オターヴァ)が倒れてしまいます。どうやらロクサーナには巫女的な力があるらしいのです。老人は帰宅して居間に腰を下ろします。字幕「その息子パヴロ」青年パヴロ(オレクサンドル・ポドロニイ)はしゃぼん玉遊びをしています。字幕「もう一人の息子ティミーシュコ」ティミーシュコ(セミオン・スヴァシェンコ)は板を釘で工作しています。こういった調子で本作は12のエピソード(シークエンス)に分かれているのですが、老人、二人の息子、乙女ロクサーナはどうも同一人物(同一俳優が演じますが)を表すのではなくて、映画の進行につれて同一の性格の異なる役柄を演じることになる。一種の夢の手法で作られていて、例えば老人は山賊に脅されたりのちにはパヴロに預けるためだったりと何度も秘宝を取り出しますが金の杯はその都度粘土に変わって隠し場所を変えてしまう。かと思うとリアリズム映画の手法で描かれるシークエンスもあって、パヴロはブルジョワの手先になり父を何度も騙して秘宝を奪おうとしますが上手くいかない一方で、ティミーシュコは労働者になり、ロシアの十月革命の報を知ってウクライナ内戦のボルシェヴィキ革命闘士のリーダーになり、すがりつく恋人ロクサーナを棄てます。パヴロはボルシェヴィキの闘士たちの乗った汽車を妨害するため線路に爆弾を仕掛けますがロクサーナに知らされた老人はパヴロの計画を阻止しようとします。ブルジョワたちの集会で「ウクライナのプリンス」として反革命運動の報告を求められたパヴロは壇上で「紳士淑女の皆さま、話は以上です」と引責拳銃自殺しようとし、ブルジョワたちは期待の眼で喝采しますが、パヴロは自殺を果たせず退場し場内のブルジョワたちは責任者はどうなるとパニックを起こして騒然となります。ティミーシュコたちボルシェヴィキ革命の闘士たちの運動は弾圧に抵抗し、パヴロは最後まで父から秘宝を奪おうとしますが父が秘宝を宵闇の中の汽車の線路に置いたため汽車は止まり、パヴロの線路爆破計画も阻止されます。パヴロは「紳士淑女の皆さま、話は以上です」とピストルを取り出し、老人が汽車から降りてきたティミーシュコ、駆けつけたロクサーナと振り向くと草むらの上で自害したパヴロが果てています。
――ドヴジェンコの「ウクライナ三部作」は逆順に『大地』『武器庫』『ズヴェニゴーラ』と'71年、'72年、'73年にソヴィエトで再上映プリントがレストアされましたが、そうなった理由もわからなくはないので、『ズヴェニゴーラ』はどこまでが夢でどこからがリアリズムなのか判然としない手法を使っているので、オーヴァーラップを多用した映像面ではフランス印象派映画のレルビエの『エル・ドラドウ』'21やエプスタンの『まごころ』'23や『三面鏡』'27、ルノワールの『水の娘』'24や『マッチ売りの少女』'28に近く、また労働者となった息子の働く工業風景はグルーネの『蠱惑の街』'23、ルットマンの『伯林=大都会交響楽』'27のようなドイツのポスト表現主義の即物主義映画に近い映像ですが(こうした場面ではソヴィエト国内のドキュメンタリー監督ジガ・ヴェルトフと近い指向もあります)、フランス印象派映画やドイツ即物主義映画と決定的に違うのは本作が夢の手法やセミ・ドキュメンタリー手法を混在させてまで民族革命の過程を描き出そうという筋を通している、その強烈な訴求力によります。セミ・ドキュメンタリー手法がさらに過激化して映像実験を突き詰める代わり夢の手法は排除されるのが次作『武器庫』なら、一転して実験臭のない穏やかな田園映画的リアリズムに徹底してさらにウクライナ民衆の心情に寄り添ったのが次々作『大地』なので、一般的には三部作の代表作は『大地』と目されることが多い一方で本作の異なる次元の映像表現を混在させる実験性、また本作とは異なり大胆な表現の抽象化によるセミ・ドキュメンタリー手法と話法の実験に挑んだ『武器庫』もまた高く評価されるので、エイゼンシュテインやプドフキン、またヴェルトフやバルネットでもいいですが、同時代のソヴィエト映画監督たちは作品ごとに段階を踏んだ発展や変化がたどれるのに対してドヴジェンコの三部作は1作ごとに垂直的に断絶している。普通の映画監督なら長編第1作の本作の発展から何本も映画を作っていくでしょうが、またそうした作風の発展は堅実で実りも多いのですが、ドヴジェンコという鬼才はそういう人ではなかったということです。また本作は、ドヴジェンコが後年第一線を退いて映画大学の教鞭を執ったその生徒からセルゲイ・パラジャーノフ(1924-1990)が巣立ったのもなるほどなあ、と思わせる作品でもあります。
●4月29日(月)
『武器庫』Arsenal (Vse-Ukrains'ke Foto Kino Upravlinnia'29.Feb.25)*92min, B/W, Silent : https://youtu.be/8WcJqHCL7do (with English Subtitles) : 日本未公開(特殊上映)
前作『ズヴェニゴーラ』の主要人物中ボルシェヴィキ革命闘士のリーダーになる青年の名前も同じでしたが、本作の主人公の青年ティミーシュも労働者からボルシェヴィキ革命のリーダーになります。演じているのは同じ青年俳優セミョーン・スヴァシェンコで、スヴァシェンコは次作『大地』でも主人公の青年ワシーリーを演じますから、「ウクライナ三部作」は監督が同じなのはもちろん主人公役の俳優も3作通して主演していることになります。また前作では二人の脚本家とドヴジェンコの共同脚本でしたが本作と次作はドヴジェンコの単独脚本で、撮影も前作のボリス・ザヴェレフから本作と次作はダニーロ・デムツキーに変わっている。デムツキーはウクライナ映画社のオデッサ撮影所の精鋭カメラマンで、素人が技術の世界にものを言うのもおこがましいですが、『ズヴェニゴーラ』に特に映像上の文句のつけどころもないのですが(多重露出は監督采配でしょうし)、『武器庫』と『大地』はそれぞれ性格のまるで違う映画ですし映像文体そのものが3作ともに違う(さらに『ズヴェニゴーラ』は意図的に異なる映像文体の混淆がある)ものの、デムツキー撮影の『武器庫』『大地』はショットの躍動感でも美しさでもサイレント時代の古典映画の名作の数々、それを担ってきた名カメラマンの業績でも最高水準で、ビリー・ビッツァーやカール・フロイント、ルドルフ・マテといった名手に並び立つ仕上がりです。また本作はイギリスのイギリスの映画史家のR・ディクソン・スミスがヨーエ・マイ(独)の『アスファルト』'29の世界初DVD化(英Eureka!社2005年)の解説ブックレットに寄せたエッセイ「ヨーエ・マイの『アスファルト』に見るウーファ映画社のスタイルとサイレント映画の終わり」で、映画のトーキー化ぎりぎりの時期のサイレント映画の円熟を代表する作品に、ムルナウの『サンライズ』'27(米)、ルットマンの『伯林=大都会交響楽』'27(独)、キング・ヴィダーの『群衆』'28(米)、ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』'28(仏)、パウル・レニの『笑ふ男』'28(米)、スタンバーグの『紐育の波止場』'28(米)、シェストレムの『風』'28(米)、マルコ・ド・ガスティーヌの『ジャンヌ・ダルクの驚異の一生』'29(仏)、E・A・デュポンの『ピカデリー』'29(英)、G・W・パプストの『パンドラの箱』'29(独)、アレクサンドル・ドヴジェンコの『武器庫』'29(ソ連)、ハンス・シュヴァルツの『ニーナ・ペトロヴナ』'29(ソ連)、アンソニー・アスキスの『ダートムーアのコテージ』'29(英)、アーノルド・ファンク=G・W・パプストの『死の銀嶺』'29(独)を上げ、『アスファルト』をそれらに並ぶ作品としています。フランス映画ではアベル・ガンスの『ナポレオン』'27やマルセル・レルビエの『金』'28、ジャン・エプスタンの『アッシャー家の末裔』'28を落としてド・ガスティーヌを入れているのは好みかと思いますし、アメリカ映画5作のうち生粋のアメリカ出身監督の作品が『群衆』『紐育の波止場』の2作というのはシュトロハイムの『結婚行進曲』'27、『キートンの蒸気船』'28、ウェルマンの『人生の乞食』'28あたりをとも思いますが(『サンライズ』『笑ふ男』『風』もハリウッドに招かれたヨーロッパ監督の大傑作ですが)筆者も上記作品中ド・ガスティーヌ、シュヴァルツ(戦前日本公開あり)、アスキス作品は未見ながら、まず妥当なリストでしょう。またこうして多彩な作品と並べてみるとプドフキンの『聖ペテルブルグの最後』やエイゼンシュテインの『十月』ではなくドヴジェンコの三部作から、しかも『武器庫』を採った見識も見えてくる。それほど『武器庫』は主人公の運命を中心としてシンプルなプロットを語り切る話法そのものが『ズヴェニゴーラ』とも『大地』とも、もちろん一般の劇映画とも断絶した実験がある。明確なプロットは存在するのに通常の劇映画のような物語話法でなくモンタージュが物語を形成していくので普通ストーリーと呼ばれるような要素は限りなく稀薄でセミ・ドキュメンタリー手法の場面の連続があるだけにもかかわらず、帝政ウクライナのキエフ武器庫での1918年の蜂起と革命軍鎮圧に向けてのウクライナじゅうの人民の悲劇が主人公ティーミッシュの運命を軸として展開していく。本作は戦争(内戦)映画ですが、それよりも小国の現代史の悲劇そのものを巨視的に、しかも極度に圧縮してとらえた壮大な歴史映画なので、90分ほどの中に描かれた内容の重量はガンスの『ナポレオン』'27(332分)、ジャック・リヴェットの『アウト1』'71(775分)、ベルトルッチの『1900年』'76(317分)、ジーバーベルグの『ヒトラーまたはドイツ映画』'77(442分)、ベルイマンの『ファニーとアレクサンデル』'82(312分)といった映画史上の5時間~12時間あまりもある怪物的大作に匹敵するか、それ以上のものにすらなっている。本作は観る人の胸を張り裂けるような苛烈な映像、しかも美しさを突き詰めた映像にあふれているので、鮮烈なイメージがストーリーを圧倒して物語性はほとんど古典悲劇的な運命譚(しかし20世紀までには起こり得なかった新たな悲劇性)のプロットだけに収斂しますが、決して散漫にならないのは物語性に負わない集中的なプロットの構築にモンタージュの連結によって大成功しているからで、これは話法の強化のためにモンタージュを駆使したエイゼンシュテインやプドフキンからさらに進めて話法を解体してしまったジガ・ヴェルトフの実験的ドキュメンタリーに近い。しかしドヴジェンコは劇映画なので話法の解体をプロットの強化に結びつける発想があり、西欧映画で同様の発想が一般化するのは'50年代末のヌーヴェル・ヴァーグ以降のことです(それまではドライヤー、ルノワール、ロッセリーニ、ブレッソンら孤立した監督の作品に現れるだけでした)。また本作は'29年当時おそらく西洋・東洋文化圏問わずどの国でも残虐にすぎる、悲惨すぎると映像化が許されなかっただろうリアルな残虐描写がドキュメンタリー手法によって大胆に描かれ、旧帝政批判を旨とするソヴィエト政権支配下のウクライナ映画としてもよくこれほどの残虐な映像が検閲を通ったものです。本作は帝政下のウクライナの農民の貧困を物語るエピソード、次いで第一次世界大戦の最後の数か月の事件から、主人公ティーミッシュを視点とする労働運動の革命過程が描かれていきます。キエフの武器庫でのボルシェビキ革命軍を手助けすることになっていた蜂起は、中央ラダ政権の軍隊によって壊滅して終わります。その後ウクライナのボルシェヴィキ闘士たちはソヴィエトのボルシェヴィキ政府と団結して帝政を打倒し、代わりにソヴィエト支配下の地方国ウクライナ共和国になるのですが、おそらくドヴジェンコは結局はウクライナの自主独立が成立しなかった現実までもを描いたらそれがソヴィエト政権支配下に委ねたウクライナの挫折であり妥協であると指摘せずにはいられない民族的自覚があった。そこで旧帝政ウクライナの悲惨と残虐を描きつくすまでで本作をまとめたものと思われます。
――本作は荒野に立つ喪服の寡婦の美しく悲しい映像から始まります。字幕「彼女は3人の息子を戦争に送った」。前線の塹壕で兵士たちが銃を構える様子の移動ショット。字幕「彼女は3人の息子を戦場で失った」。荒野でしゃがみこむ喪服の寡婦の姿。ドイツ軍将校の執務室に切り替わり、将校は日記帳を開いて満足げに書きます。日記帳「今日はカラスを撃った。良い1日だった」。荒野に倒れている喪服の寡婦の死体。次に農家の主婦が家の中で訴えかける二人の幼児に服を引っ張られといる姿が映ります。荒野で馬を連れた農夫が映り、旅仕度らしい姿から妻子を捨てて家出してきたとわかります。猛然と鞭打つ農夫。猛然と鞭打つ主婦の姿がクロスカッティングされ、農夫は疲れて倒れこみます。馬が農夫から離れて数歩歩いて止まります。泣きじゃくる幼児の姿。立ちすくむ馬の姿。冒頭の最初の2つのシークエンスは固定ショットの美しい映像なのですが、美しくまた寡黙なだけに第一次大戦下の農村国ウクライナ民衆の悲惨が胸が裂けるほど迫ってきます。映画は第一次大戦の様子をしばらく追い、やがて大戦後に主人公ティーミッシュが労働運動と国内状勢のさらなる帝政の強化からボルシェヴィキ革命を目指す闘士のリーダーとなるまでを無数の登場人物とエピソードを通して描きますが、キエフの武器庫での籠城戦が鎮圧されるまではこの映画は激しい移動ショットか、対象物もカメラも急速に移動しているショットの連続で、固定ショットも稀に出てきますが極端に短いショットのモンタージュの連続です。ティーミッシュという主人公が軸となってはいるといえ通常の視点人物の交替という話法が完全に解体されているのはこの激しく躍動的な映像文体ゆえで、にもかかわらず内戦革命の行方というプロットからは映像は外れないので実験的ドキュメンタリーに近い手法ではあっても劇映画になっている。冒頭の2つのシークエンスとクライマックスの2つのシークエンスが静的な映像に激情的な感情を託しているとすれば映画の大半を占める中間部は映像そのものが激動的で、フランスの印象主義映画、ドイツのポスト表現主義即物主義映画をしのいでいるのは内容そのものがこの実験的映像手法に拮抗しているからです。クライマックスでは武器庫の革命軍は叛乱を鎮圧されて、長い処刑の場面が続きます。ここから先は冒頭同様映像は固定ショットのみに戻り、磨き抜かれた美しくそれだけに悲痛な構図とじっくりしたモンタージュによる映像文体に回帰します。壁に一人ずつ引き出された闘士たちが帝政軍の民兵長官によって淡々と次々に機械的に射殺されていき、この軍服でも何でもないスーツ姿の長官が最初は射殺される壁の闘士たちとクロスカッティング、さらには闘士たちの姿は映されもせず長官が撃っては休み、撃っては休みと長官のバストアップだけの映像になっていくのは革命軍の闘士たちの処刑が単なる作業でしかない様子に転化していく衝撃力があり、やがてあと数人というところで叫ぶ主婦の映像と字幕「私の夫はどこに?」射殺されて崩れ落ちる中年労働者闘士、叫ぶ若い女の映像と字幕「私の恋人はどこに?」射殺されて崩れ落ちる青年労働者闘士、叫ぶ老人と字幕「私の息子はどこに?」射殺されて崩れ落ちる学生闘士、と処刑場面は終わり、最後まで武器庫で抗戦を続けていた主人公ティーミッシュがついに帝政軍兵士たちに包囲され追いつめられる最後のシークエンスを迎えます。革命軍リーダーのティーミッシュを撃とうとして兵士たちはティーミッシュに気圧されて銃身が震え、先頭に立って撃つのは誰か決断できず弱腰になってしまいます。ティーミッシュは兵士たちを一喝しますが兵士たちは顔を見合わせて困惑してしまい、ティーミッシュはさらにシャツの胸を開いて裸の胸板をさらすと兵士たちを挑発し、映画は突然そこでエンドマークが打たれます。本作は途方もない傑作でサイレント映画の究極的完成を極めたものとして『サンライズ』や『裁かるゝジャンヌ』と同等か、それ以上に映画史上に屹立している、今なお新しい作品です。先に指摘した通り'29年当時本作ほど内戦下の状況の描写とはいえリアリズム映画で人間性の喪失した残虐描写を描いた映画は西欧・東洋文化圏のいずれでもタブーだったでしょうし、本作は悲惨な史実を悲惨なまま、しかも美しい映像文体で描いていることで普遍的な真実性に迫っている点でも20世紀の悲劇を、古典悲劇に匹敵する根源的な人間の運命にまで高めてとらえた不朽の作品足りうる風格がある。ドヴジェンコの三部作は相当映画を観ている人はもちろん古今のどんな映画人でも志しの高さ、映画の格調高さと斬新さ・美しさで惰性的かつ平俗的な映画感性を恥じいらせる作品ですが、あまりの孤高さゆえに観る人を途方に暮れさせるところもあって、観たことのある人ですらついついドヴジェンコ作品は映画史上の例外的作品のようにあまり話題にしない、別格扱いしてしまうような性格がある。つまり言葉を失ってしまう。『武器庫』はそういうドヴジェンコ作品のもっとも尖った側面の出た映画だけに、さらに今後の再評価が待たれる1作とも言えるでしょう。
●4月30日(火)
『大地』Zemlya (Vse-Ukrains'ke Foto Kino Upravlinnia'30.Apr.8)*78min, B/W, Silent : https://youtu.be/A-E57eyjoao (with English Subtitles) : 日本公開昭和6年7月
ドヴジェンコの「ウクライナ三部作」中もっとも広く観られ、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』やプドフキンの『母』に匹敵するサイレント時代のソヴィエト映画の最高峰とされている公然の名作の評価を得ているのがこの『大地』です。三部作でも『ズヴェニゴーラ』『武器庫』はロシア語字幕でしたが本作はウクライナの農村と農民の話なのでオリジナル版はウクライナ語版が作られ、ロシア全土公開版はロシア語版に字幕が差し替えられましたが、'71年の再公開レストア版に当たって再びオリジナル版に復原され、輸入盤(イギリス盤)DVDなどではウクライナ語の台詞は英語字幕がつくが帝政ウクライナ官僚の使うロシア語の台詞は英語字幕がつかない(つまりウクライナ農民視点では支配層は外国語をしゃべっている)処理がなされており、字幕がつかなくても帝政ウクライナ官僚が高圧的な命令を発しているのは映像で見当がつくのでドヴジェンコの意図をくんだ処理だと思います。本作は『ズヴェニゴーラ』でも『武器庫』でも見られた、固定ショットのみによる静謐で美しい映像と落ち着いたモンタージュで全編が統一され、前2作では映像文体の意図的な混淆でこの映像文体は対比的に用いられていたのに対して本作は映像文体の統一によってリアリズム映画としての劇映画らしさが一貫しているので、観やすさ・親しみやすさでも三部作中群を抜いています。また映画冒頭やエンディングのシークエンスでじっくりと映される田園の自然描写の美しさは神秘性すら感じさせる輝かしいもので、これに匹敵する現代映画というとのちのヴィクトル・エリセのスペイン映画『ミツバチのささやき』'73や『エル・スール』'83くらいではないかと思わせられます。三部作の前2作が実験的手法・政治的性格からもいかにもアヴァンギャルド映画らしい作風(2作はそれぞれ異なる指向性の実験性も大きな特徴でしたが)だったので、サイレント時代のソヴィエト映画の名作として『大地』からドヴジェンコに入るのは観やすさや率直な感動からはいいですが、ドヴジェンコは素朴な社会主義リアリズムの映画監督なんだな、と了解して他の作品も似たようなものなのだろうとたかをくくってしまいかねないような難がある。『ズヴェニゴーラ』『武器庫』とタイトルだけでも『大地』のような農本主義的自然讃美の素朴リアリズム映画監督とは思えないのですが、日本盤の映像ソフトも出ていなければ上映の機会もめったにないので、ドヴジェンコがどんな監督で『ズヴェニゴーラ』『武器庫』がどれほどとんでもない映画かあまり日本では知られていないし、実はYouTubeで手軽に観られるといってもあまり食指がのびる人はいないでしょう。文化会館類で稀に上映されたとしてもそれなりに映画好きの友人を誘っても「ソヴィエトのサイレント映画?」で一蹴されてしまいかねない。「ウクライナ三部作」の輸入盤DVDは3枚組で1,500円の廉価版で入手できますし買えば一生もののお宝ですが、よほどのサイレント映画マニアでなければ手を出さないでしょうし、しかしこれが限定部数の日本盤発売されれば廃盤即数万円単位の高プレミアになるだろう逸品と思うと、この紹介がドヴジェンコ「ウクライナ三部作」へのご案内になれば幸いです。さて『大地』は戦前日本公開された数少ないソヴィエト映画でもあり、それは直接ロシア革命を題材にしていないからでもありますが、『戦艦ポチョムキン』や『母』が1905年の民衆蜂起とその弾圧を描いて帝政ロシア打倒の正当性を主張した映画だったように本作『大地』もモデルになった1906年のウクライナの農村開拓事件があり、帝政ウクライナ政権下の農民たちの農業改革運動とそれをめぐるブルジョワ豪農層との対立を描いています。農民たちの間から自然に起こった労働団結運動が描かれているので本作も『戦艦ポチョムキン』や『母』のように税関で検閲を通らず日本未公開、という可能性もあったでしょうが、主題が農本主義的なものだったため「赤色革命」的な危険性はないとされ、また本作では殺人事件が起こり、クライマックスの葬送では全裸でベッドに身を投げ出し乱れ悲しむヒロインの姿が現行ヴァージョンでは乳房や乳首まではっきり映りますし、労働運動リーダーの葬儀は遺族の意志によってウクライナ共産党の主催で無宗教主義で行われますが、多少まずい場面は戦前の日本公開ではカットされたと思われる。戦前の日本の映画検閲は相当に厳重で、時代劇の剣戟映画でも検閲によるカット率は多い場合原盤の30%あまりにおよんだそうですし、アメリカ映画やヨーロッパ映画でも猥褻・暴力・反社会的描写は遠慮会釈なくカットされましたから、今日観られるヴァージョンがそのまま戦前日本公開された場合の方が少ないと考えた方がよさそうです。それでも本作の日本の戦前初公開は貴重なので、幾分修正して(修正箇所はあとで言及)日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
[ 解説 ]「兵器庫」「スヴェニゴラー」の製作として知られているアレクサンドル・ドヴジェンコが自ら脚色し、監督に当った映画で、撮影はダニー・デムツキーが受持ち、L・ボディック、U・ソルンツェワ両人がアシスタントとしてドブジェンコを助けている。農場の協同化の勝利を主題としたウクライナ・キエフ撮影所作品である。無声。
[ あらすじ ] ソビエト・ウクライナの農村。実った穀物が風に波を見せて動き、向日葵の大輪が咲いている。林檎は水々しい淡紅色の顔を枝の繁みから窺わせ農場は見渡すかぎりの豊作である。一人の老人ペーテル(ミコラ・ナディムスキー)がこの農場の片隅、果樹の樹陰に横っていた。彼は七十五年の鍬と鋤の生活から今や永遠の眠りに就こうとしているのだ。老人は林檎を噛った。だがその老顔に微笑が浮んだと思った瞬間彼の体は忽ちがくりと崩れた。死!併し彼のあとには甥オパナス(ステバン・ジュクラート)夫婦がいる。それに孫の若者ワシーリー(セミョーン・スヴァシェンコ)がいる。ワシーリーはソビエトの国策たる農場協同化の先頭に立って、働く若者だ。農場にはトラクターが是非とも必要だ。そこでワシリー達はトラクターを村に使用することにきめる。今日はそれが村に着く日である。が、その機械の来るのを喜ばない奴が村にもいた。富農の息子コーマ(ペートロ・マソカ)だ。彼等は共同耕作を拒んで飽くまでも個人的利益を主張した。このソビエトの害虫の行為に憤激した一人の農民は富農の馬をやっつけようとまでする。俄かに村に人が集まった。そして何かを見張る。遠い地平線、曲折しこ道の彼方にトラクターが現われたのだ。群衆は一斉にそこへ突っ走ると機械はどういうわけか突然止まった。コーマの顔に冷笑が浮かぶ。農民は必死となって機械を押そうとする。原因が知れた。水がないからだ。そこで隣村から水が持って来られる。再びトラクターの行進。村に歓声があがる。トラクターが村の仕事を昂め出した。ワシーリー等の努力が酬いられた。だが或る夜ワシーリーは恋人ナターリャ(ユーリア・ソーンツェワ)の許をたずねて間もなく何者かに殺される。彼の家の戸口に村の僧侶が訪れるが、若きコムミュニスト、村のソビエトの指導者の体が彼等の手に委せられるが。ワシーリーの叔父は甥の葬いをソビエトの委員等に頼んだ。農民達は胸に若い指導者のための復讐を誓うため集まった。棺は彼等の歌声につつまれながら墓地に運ばれていく。この時、野原を走って来る者がある。富農コーマだ。働く農民はみな葬列に参加してしまったのだ。富農に今更何の用がある。遂いに富農は屈した。おれが殺したのだと喘ぐように叫んで彼は農民達の前に告白し哀訴する。だが農民は新しい生活に関する指導者の言葉に傾聴している。やがて雨が降ってきた。そしてそれは一滴ごとに果実や樹々や穀物を銀鼠色に濡らして行く。それはとりも直さず前進するソビエト農村の姿なのだ。
――キネマ旬報の紹介で修正した箇所は人名と姻戚関係で、これは日本公開がアメリカ公開ヴァージョンのフィルム経由だったことで生じたものと思われます。つまりアメリカ公開ヴァージョンで字幕の差し替えやカットが行われたものが日本公開ではさらにカットされた可能性があるとも、アメリカ公開ヴァージョンの時点でロシア特有のコルホーズ農業労働運動色は柔らげられていたとも考えられる。キネマ旬報の紹介ではオパネスは人名は上げられずペーテル老人の甥ではなく息子夫婦となっており、よって主人公は老人の孫なのはオリジナル版通りですが夫婦の息子ということにもなっている。主人公ワシーリーの名前はキネマ旬報ではヴァージル、恋人ナターリャはナタリーであり、また主人公に嫉妬する豪農の息子コーマはクラークという姓で、いずれもアメリカ版でつけられた名前でしょう。サイレント時代のヨーロッパ映画同様おそらく字幕タイトルそのものが英語タイトルに差し替えられた版での公開立ったと思われ、それを言えば一部のフランス映画、ドイツ映画を除いてサイレント時代の外国映画は一旦アメリカ公開版を経てから英語映画として日本公開されたのです。本作はドヴジェンコの長編映画第3作でサイレント作品としては最後の作品になり、次作『イヴァン』'32からはサウンド・トーキー作品になりましたが、同作が第2回ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を獲得したのも『大地』の国際的な大好評による振り替え受賞の意味が大きかったのではないかと思われ、イタリアを始めとするラテン諸国は農業国でもありますから20世紀初頭のトラクター導入による農業改革を描いた『大地』は普遍的なテーマを備えており、本作はソヴィエト本国でも(やや「反革命的」という留保つきながら、コルホーズ運動映画としての条件は満たしているとして)絶讃されればアメリカやヨーロッパ諸国でも絶讃される、農業国とは言えないイギリスやドイツでも映像美の高さで絶讃されると、まあ世界各国都合の悪いところはカットしたり字幕タイトルを差し替えたりしたでしょうが、農業改革映画の名作、しかも村いちばんの美女を恋人に持つ農業改革リーダーに対する豪農の息子の嫉妬が殺人事件がらみの犯罪メロドラマ展開もするという適度な艶っぼさと下世話さ込みで端正で格調高い映像美の素晴らしさ、共感しやすいキャラクターの配置と人間性の的確な描出、それらすべてを包みこむ神秘性さえ感じさせる農村の自然美とつけ入る隙すらない仕上がりで、「ウクライナ三部作」3作を通して観ると露骨な実験性があえて抑制されている点で異色の作品です。それにはエイゼンシュテインやプドフキンら中央政府モスクワの映画監督らが'29年には映画省に干渉されるようになったのが、ウクライナ共和国のドヴジェンコにも警戒がおよんだからかもしれません。しかし一方、劇映画としての構成では物語性の強さを異なる映像文体に振り分けた『ズヴェニゴーラ』、話法の解体を目指した『武器庫』に較べても本作はストレートなセミ・ドキュメンタリー作品=劇映画による実話の再現と見まがうほどドラマ性が稀薄な作品であり、農業改革と変わりゆく農村の姿の描出が大半を占めています。『ズヴェニゴーラ』『武器庫』とは違ったかたちでの話法の解体、一見オーソドックスなリアリズム映画のなりをしてハリウッド映画流の作劇術や映画技法からは決して出てこない、クライマックスぎりぎりになってからしかドラマティックな展開が起こらない大胆な映画作りをしているのに気づく。ゴダールの「ソヴィエト映画は技法の本質はハリウッド映画と同じではないか」という指摘はエイゼンシュテインやプドフキンには当てはまっても「ウクライナ三部作」のドヴジェンコには当てはまらない。丹念なフィックス・ショットによる穏やかなモンタージュ、と『武器庫』とは正反対な行き方で『大地』を作ってもハリウッド映画と似たものにはならない。サイレント時代のアメリカ映画にも田園映画の系譜がありますが基調は自然を背景にしたロマンス映画であって、ドヴジェンコは本作についてはっきりと物語に主眼はない、と言い切っています。ウクライナ三部作は主演俳優も同じセミョーン・スヴァシェンコが起用されていますし、三部作がせめぎ合ってドヴジェンコの描きたかった映画が実現されていると見るべきでしょうし、完成度も3作ともがずば抜けた仕上がりです。それだけに何度観てもまだ映画監督ドヴジェンコの真価は底が知れない気がしてくるのです。