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第六章。
スヌーピーはついに頸椎を掻き切ると、握りつぶしたトマトのように溢れだす自分自身の血だまりの中に倒れ込みました。とはいえもともと犬は座高が低いので、倒れたと言っても座りこんだ程度にしか見えません。あんな不器用なやつだったかな、とチャーリー・ブラウンは妙に冷静に考えました、こんな時あいつはもっと大げさにやってのけたはずなんだ、嫌みなほどに芝居がかった調子で。そうしないのは、今はきっとこの方が効果的な演出だと計算してのことに違いない。リアリズムってやつだな。犬の考えたリアリズム、そんなのはたかだか……。
今何時でしょうな、とムーミンパパ。どちらの時間ですか?とスノーク。ムーミン谷標準時ですよ。そりゃまた面倒なことを、とスノークがおどけると、客間にいた全員が笑いました。偽ムーミンも一瞬遅れて笑いました。無理に合わせました。ムーミン谷標準時なんて初耳だからです。これはムーミンパパのジョークなのか、それとも知らないうちにムーミン谷標準時という取り決めができたのか。
そろそろ急いでくれないと、とライナスがリランに言いました、いや急かしているわけじゃない、けれどものごとには理由がいるが、こんなことで遅れるのは理由としては十分じゃない。でもね兄さん、とリランは思いました、ぼくには十分な理由になるんだよ。
オラ見下げ果てたゾ、としんのすけは地団駄を踏みました。義を見て為さねば勇なきなり……とボーくん。そんなこと言っても仕方がないよ、と風間くんはマサオくんに同意を求めて、そう思わないか、ねえ。えっ、とマサオくんは慌てて、ぼくは……ネネちゃんはどう思う?ネネちゃんは黙っていましたが、
・この男どもがーっ!
とスモッグの中からウサギのぬいぐるみを取り出すと、樹の幹に押さえつけてばしばしパンチを食らわしました。いつものネネちゃんじゃないよー、と怯えるマサオくんと風間くん。おやおや、お約束ですな、としんのすけ。
一行が歩いていくとやがて陸地のとだえる場所に近づいて、空にかかった虹がその向こうへと延びていました。その虹は陸地の端まで人を誘い出し、世界の外へと弾き出すための罠でした。世界の外に何があるかは誰にもわかりませんが、今いる世界よりはましかもしれない可能性については、誰もが暗黙のうちに触れない約束でした。そうでなくとも虹の端には、古来からの黄金伝説があるのです。
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いつまでもこんなことやってられないよ、とライナスは言いました。ですがその言葉に反応する相手は誰もいません。そんなことはわかっているとも、とライナスは重ねて言いました。ぼくも昨日や今日に気づいたわけじゃなく、たぶん最初からわかっていたとも言えるんだ。そして心の中のどこかでは、いつかぼくらにはいっせいに終わりが訪れるんだろう、と思っていた。始まった時ぼくらは貧しかったけれど、終わる時ぼくらはかつてなく裕福になっているだろう。それがわかり始めた頃から、ぼくらは次第に傲慢になっていった……。
ライナスは一瞬言葉に詰まりましたが、すぐに気を取り直して、だいたいこんなのぼくのキャラクターじゃないんだ。ライナスは自己主張しない、ライナスは振り回されている、ライナスは優しい、ライナスはいつも受け身、ライナスは他人との関係だけで生きている、それがぼくという存在なんだし、そのどこが悪いと言うのだろう?ぼくは不思議な役割を演じているのだろうか?でもそれ以外にぼく、ライナスというキャラクターが存在しないなら、もうそれは役割なんかではなくて運命とでも言うしかないじゃないか。誰かがそれに正しい答えをくれるとでもいうのだろうか?
病的と病気というのはどう違うんでしょうかね、とスノークは言いました(飽きてきたのです)、りんごとりんごジャムの違いみたいなものなんでしょうかねえ。そりゃ違うだろう、とムーミンパパ。私は冒険家時代、航海の時にはりんごよりりんごジャムを持っていくことが多かったのだが、まずりんごとりんごジャムでは日持ちが違うし、りんごを持っていっても自然にりんごジャムになりはしない。もちろんりんごジャムからりんごに戻すことはできないが、とムーミンパパは何を言いたいのか自分でもわからなくなり、ヘムレンさんはどう思われます?いやあそれは、とヘムレンさんは谷の賢者らしくもったいぶって答えようとしましたが、ふとりんごにも種類があるのに気づいて軽率な発言は控えることにし、それはスナフキンくんの方が良く知っているだろう、どうかね?
スナフキンはようやく虹の端にたどり着いたところでした。そこからは、悲惨なありさまも滑稽な景色も同じくらい鮮明に見えました。ただしあまりそこにとどまれば、スナフキンはスナフキンという実体を失い、概念として永遠に宇宙に固定されてしまうのは明らかでした。
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オルトレキシアとは、不健康だと考える食品を避けることで生じる極端、もしくは過度な先入観によって引き起こされる摂食障害や精神障害を指します。1997年にスティーブン・ブラットマン博士が神経性無食欲症といった他の摂食障害と並行する形で使用し始めました。オルトレキシアは、幅広く使われている精神障害の診断と統計マニュアルには記載されていませんが、ブラットマンが命名した病名であり、まれな症例であるものの重度の栄養失調や死につながるほどの極端な病的執着になり得る点が主張されています。
やせ衰えたスナフキンは、虹の果てから引き返しながらふと、ムーミンの声が聞こえたような気がしました。気のせいか、と立ち止まり、やはりムーミンの苦しげな息づかいが聞こえるので、そんな声が風がうねるこの荒野まで届くわけはないとすると、考えられるのはひとつ、ムーミンがスナフキンの頭の中に直線話しかけているのでした。
オルトレキシアは、体に悪いと考える食品を避けることで生じる強迫観念という特徴があります。また、さまざまなな理由で特定のダイエットを選ぶ健康的な人と、体に悪い状態やライフスタイルにつながる強迫観念的な行動をとってしまう人を区別することが重要です。健康的な食事が摂れることを約束できる均衡の手がかりは何かを求めるあまり、食品選びで極端な制限や強迫観念を課してしまうのがオルトレキシアとされ、毎日の行動において自分を見つけることが困難になります。また他人の食品や健康観に耐えられず距離をおくようになります。健康的な食品への強迫観念は、家庭習慣、社会トレンド、経済問題、最近の病気、宗教的信条、超越的思想に起因することがあり、また食品の種類に関する否定的な情報を聞いただけでも発生してしまい、最終的に自身の食事からそのような食品を排除させることになります。この症状は女性より男性、また受けた教育水準が低い場合に多く見られるといわれます。また年齢的な偏差も考えられますが、いずれも決定的な原因と見做すべきではないでしょう。
チャーリーは突然空腹を意識しました。今ようやく放浪の果ての問題が二つ、同時に解決したことが理解できたのです。その一、チャーリーはもう愛犬を連れて逃げ回る必要はない。その二、逃亡のすえ差し迫っていた食糧問題もなんとかなる。チャーリーは血溜まりに落ちているナイフを拾い上げると、思い切って目の前の
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支度は終わったよライナス、と、リランが振り返ると、ベッドに腰かけていたはずの兄の姿はありませんでした。隠れているのだろうか、それとも待ちくたびれて出ていってしまったのか。どちらにしても、もしそうだったら、気配くらい感じてもおかしくないはずなのに、その気配もない。それともぼくが鈍かっただけなのだろうか。ボーッとしていてそのことに気づかなかっただけなのだろうか。
外では風がうなり声をあげ、ガラス窓ごしでも気圧の変化が鼓膜に圧力をかけてくるようでした。やあねえ、とみさえは取り込んだ洗濯物をたたみ終えると、より分けてたんすにしまいながら、夫と息子に傘を持たせておいて良かった、と自分を安心させました。息子は幼稚園バスが家の前まで送ってくれますが、まれには工事中や通行止めで住宅街の通りの角になることもあるのです。ですから……
心配なのはきみだけじゃない、とヘムレンさんはスノークとムーミンパパに言いました。えっ、と二人は驚き、それから顔を見合わせましたが、この場合の「きみ」は二人称単数ではなく複数形の「きみ」だと了解するには、おたがいのまぬけ面に気がつくだけで十分でした。ヘムレンさんの言う通りだ、とムーミンパパとスノークは思いました。だがいったい私たちは、何が心配だと言うのだろう。
領域主権とは、国家は独立を確保するために他国の介入を排除して、領土・領海・領空などの自国領域に関し各種の国家作用を行うことができるとする、主権の一部をなす権利を指します。国家とその領域をどのように関連付けるかについて、大きく分けて二つの学説が対立します。そのうちのひとつが「客体説」であり、これによると領域主権は領域に対する使用・処分といった行為のための対物的権利とされます。これに対し「空間説」は領域主権を統治の権利として捉える考え方です。
チャーリー・ブラウンはまたひとりぼっちになった自分を感じました。空っぽになった水筒はただ重いだけでした。これから来た道を引き返さなければならないことを思うと、遠くまで来てしまったことが悔やまれてなりませんでした。地上には一滴の水もないのに、空には大きな虹がかかっていました。ここはもうチャーリーが住んでいたのとは別の国の国土かもしれませんが、たぶん虹はいくつもの国境を越えて空をまたいでいました。そして空にはダイヤモンドを光らせたルーシーが飛んでいました。
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太陽が北から差していました。チャーリーは南に長く延びる影を見てもう正午が近いのに気づき、これから日没までにどれだけ歩けるか考えていました。この荒地は乾ききって日差しを遮るものもないので、気温がピークに達する午後2時~4時頃には摂氏40度を越える高さになります。ですが日没後の冷え込みも激しく、摂氏で言えば零下20度にはなるので、凍え死なない方法は唯一地面に穴を掘って埋もれて眠ることでした。土中なら、灼熱の日中に照らされてそこそこの暖かさが保たれているのです。それは日中でも言えることで、夜間に冷えた土中の方が大気にさらされるよりも涼しいのですが、それではチャーリーはいつまでたっても土に埋もれていなければなりません。幸い湿度が極端に低いため摂氏40度は体感温度ではさほどに感じずには済みますので、凍える夜よりはなんとか活動できました。夜、星空の明かりは人工の光のない荒野では景色をフィルムのネガのように照らしていました。それはチャーリー・ブラウンから時間の感覚を奪い、起きるとチャーリーは自分が一晩眠っていたのか、それとも何日も意識を失っていたのかわからなくなるような気がするのでした。
はっ、と偽ムーミンはようやく、このままムーミンを放置して自分と入れ替わったままにしておくとそのまま元に戻れなくなる可能性に気づいて、激しく動揺しました。可能性はいくつかあり、自分がこのままムーミンを演じつづけなければならない場合もあれば、ムーミンを失えば偽ムーミンは何者でもなくなる可能性もあると考えられました。しかも偽ムーミンにはどちらにも既視感があったのです。つまりそれはこれまでも何度となく偽ムーミンがムーミンに取って代わるなり、ムーミンの消滅ともども偽ムーミンの消滅があり、その都度ムーミンと偽ムーミンは新たな存在に更新されてきた痕跡とも思えました。おそらくムーミンにはその記憶はなく、偽ムーミンは偽者だからこそかすかに上書きされた記憶を残していたのでしょう。または、自分の存在はその役割のためなのではないか、と偽ムーミンは唖然としました。
その頃リランは兄に頼まれたイボタの虫を買いに町をうろうろしていました。もしかしたらライナスは時間稼ぎのために自分に無用な買い物を任せたのかもしれない、でも何のための時間稼ぎなんだろうか。リランは自分だけ除け者にされているような気がしてくるのでした。
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嵐の吹く暗い夜でした。私たちは暖炉の前で遅い夕食の後のお茶を飲みながら、とりとめのない談義で就寝までの時間を潰していました。会話には飽きていましたが、嵐の夜では他にすることもありません。もともとその日は、地域の集会のために空けてあった夜でした。集会そのものは義務でしかないものですが、中止ならともかく突然の悪天候で日延べになったのでは面倒が先送りになっただけです。そんなわけで私たちは、今夜の議題について準備した意見も次には無駄になっているかもしれず、これなら何も急いで帰宅しなくてもよかったな、と持て余し気味になっていたのです。
お茶も飽きたな、ウィスキーにしようか、と私たちはグラスの準備と氷の準備を分担しました。アイスピックで氷を割る鋭い音が、安普請ながら一応は煉瓦造りの壁に反響しました。始めから小さなブロックに分かれた製氷皿を使えば便利なのですが、あれは凍るのが早すぎて水道水の中の次亜塩素酸カルシウム(カルキ)まで閉じ込めてしまう。なるべく純度の高い天然水を大きな容器でゆっくり凍らせた方が良質な氷が出来るのです。清涼飲料水ならまだブロック製氷皿の氷でも気になりませんが、オン・ザ・ロックとなるとてきめんに氷の質で味が変わってくる。それにアイスピックで氷を割るのは注意は必要ながら面白い作業で、氷にも密度の差があるのでしょう。上手く亀裂がはいると面白いように細かく砕けるのです。
ただし目測が外れると、どんなに力んで刺しても表面しか削れません。その晩の氷がそうでした。グラスとウィスキーがテーブルに揃っても、まだ氷はかけらほども砕けていません。苦戦してるみたいだな、そんな時ってあるよ。うん、上手く刺さらないんだ、刺す面がいけないのかな。氷の側面を上に置き直して、しっかり垂直にアイスピックを振り下ろしますが、やはり表面だけで止まってしまう。これでやるか、と私たちはハンマーを持ってきました。ひとりがアイスピックを氷に突き立てて固定し、もうひとりがハンマーで叩く、という共同作業です。これなら上手くいくぞ、と私たちは期待しましたが、そうは問屋が卸しませんでした。ハンマーの打撃はアイスピックが受け止めただけで、私たちは振り下ろしたハンマーを持つ手も、アイスピックを固定した手も無駄に痺れさせてしまいました。こうなったらこれで行くか、と私たちがスパナを握った時、あの子がやって来たのです。
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それは室内にいても外でドアに倒れかかる物音が聞こえ、私たちは何だろうと顔を見合わせました。ちょっと待ってて、と私は言うと、二階に上がって灯りをつけずに張り出した窓から玄関の前を注視して、どうやら小学生くらいの子ども、服装からは男女か区別がつきませんがこんな嵐の中を来たのだから男の子なのだろうか、と思いながら、二階に上がったついでに救急箱と、たんすから余分なタオルを多めに取り出しました。とにかくずぶ濡れなことだけは確かだからです。
どうだった?と私は二階から見た様子を知らされると、子どもを部屋に入れてもいいものか、それともその子は囮で、施錠を外したら強盗でも入ってきやしないかと懸念しました。それはなさそうだよ、と私は答えました。いくら何でもそういう気配があれば、あんなに自然に行き倒れてはいないよ、と再三強調されて、そんなものかな、それだけ言われるとたぶん自分でも同じ判断を下しただろうと思われ、私も納得した上で、とりあえずひとりは子どもを介抱しながら部屋に入れる、ひとりは猟銃を構えて万が一に備える、という手順に決まりました。役割を決めるのはコイントス、表が出たら私が猟銃です。当然猟銃の方が嫌な役目で、たとえ悪人でさえ私は人は撃ったことなどなく、しかしもしもの場合威嚇して脅威を排除するのが猟銃担当の役割です。
表だね、と私は静かにドアに近づくと、猟銃に護られているのを感じながらなるべく小さくドアを開けました。コイントスなどしなくても、前もって二階から子どもの位置を見ている方が子どもの介抱係をするのは理にかなっています。また私は、見た様子では子どもを囮に強盗が隠れてなどはない、と確信していました。子どもはひとりでこの家のドアまでやって来て、力尽きて倒れたのです。
細く開いたドアの隙間から、強い雨風が吹き込んできました。私は猟銃を構えながらドアを支えて、どうかな、と子どもの様子を尋ねました。うん、銃を下ろしてドアを閉めて……ありがとう。男の子みたいなコートだけど、女の子だ。だいぶ失血してるみたいだ。失血?うちの前じゃない、どこかで失血してから歩いてきたんだ。何があったんだろう?
しかし女の子の意識が戻らないと事情はわかりません。私たちはとりあえず子どもの体を拭いて衣服を替え、ベッドに寝かせました。医者を呼ぶべきだろうか、と考えている時、新たな来訪者がやって来たのです。
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体を拭いて着替えさせた女の子をひとまずソファーに寝かせて、私たちは暖炉の前に簡易ベッドを組み立てました。寝室のベッドの方が立派出で寝心地も良いのですが、私たちの寝室にはどちらも部屋全体を暖かくするだけの暖房がないのです。まずはこの子の冷えきった体を、十分に暖めることが先決でしょう。
私たちはまだ第二次性徴期にもならない少女の体を手分けして拭きました。髪はかなり長く、タオルでしっかり拭いてからブラッシングしてドライヤーをかけましたが、嵐に打たれた髪はなかなか乾きませんでした。傘も持たずに来たんだ、と私は呟きました。そうだね、空が崩れてからもう半日以上になる。この子は雨具もなしに嵐の中をやって来たんだ。いったい何があったんだろう?
私は毛布を取って戻ってきました。着替えは冬の客用パジャマでいいが下着はどうしよう?見映えは悪いけど、縮んじゃったTシャツがあったよね。下は?確か親戚の女の子が泊まりに来た時忘れて行ったのがある。まだ返してなかったのか、と私は呆れました。洗いはしたけど返しづらいじゃないか。でもこんな時に役に立つとはなあ。
ついでにお湯を沸かしてくるよ、と私は下着とパジャマを取りに行きました。まず台所に寄って一番大きなヤカンにお湯を沸かし、その間に下着とパジャマを居間に届けてきました。それから浴室から湯桶を持ってきて、ヤカンと湯桶をぶら下げて居間に戻りました。何だか大掛かりになってきたな、と私は言いました。でもこのままじゃ寒いだろ、と私は湯桶にお湯を張りました。
私は熱いおしぼりを作ると、なるべく毛布から体が出ないようにしながら女の子の体を拭き始めました。暖まればいいけど、とおしぼりが冷めては湯桶で熱くし、お湯が冷めれば足し湯をして両足(脚)、両腕、背中、と心臓から遠い箇所から摩擦していきました。ところで、この子はどこから失血していたの?
それがわからないんだ、と私は少女の体を支えながら、部屋に入れた時は確かに血がついていた。かなりの量らしいのは体の冷え具合から想像がつく。でも気づいたかい?濡れた体を乾いたタオルで拭くと、やはり確かに血はついたが、傷らしき箇所は見当たらない。これはいったいどういうことなんだろうか?
もしかしたら体が冷たいのは単に嵐の中を濡れてきたからで、と私は思いました、傷がないからには血は彼女の血液ではないからかもしれない。つまりこれは……
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しかし、もしかしたら少女の体が冷たいのは単に嵐の中を濡れてきたからなので、と私は思いました、傷がないからには、血は彼女の血液ではないのかもしれない。ならばそれは誰か他人の返り血という可能性もある。返り血!だけれど、こんな小さな女の子がそんな酷たらしい状況に、どうして陥ったというのだろう。この子はいったいどんな経緯で、どんなことに巻き込まれてしまったのだろうか?
私たちはふたりとも同じことを考えているようでした。ふと気づくと、少女の体を拭いたおしぼりはすっかり垢じみており、考えずともこの子が相当に不潔な環境に長くいたことがわかります。逃げてきたんだろうか、と私は呟きました。だけどいったいどこから?
それってどういうことだい、と私は自分も考えていたことを先に口に出されて、動揺を抑えきれませんでした。監禁されていたのかもしれない、と私はためらいながら答えました。監禁?誰に?それはわからない、他人にかもしれないし家族にかもしれない。まったくおぞましいことだが、子どもが監禁されるのは昔からよくあることだし、その目的もさまざまなことが考えられる。ましてや……。
ましてや?
女の子だからね、まだ子どもだから中性的な顔立ちをしているが、あと数年もすればきれいな少女になるだろう。ヒヨコだってオスのヒヨコよりメスのヒヨコは数倍の値段で売られる。シシャモなどはヒヨコどころじゃない。嫌な話だが、もしこの子がそうした目的の監禁から逃げてきたのだとすれば……
私たちは黙り込みました。しかしヒヨコやシシャモに例えることはないだろう、と私は内心腹を立てていました。露骨な表現には違いありませんが、家庭内暴力や人身売買の可能性がある、というだけで十分なはずです。それとも私たちが腹を立てているのは、そんな事情を抱えているかもしれない子どもに関わりあってしまったことかもしれず、しかしこうして一旦保護してしまった以上、この子をまた無責任に放り出すことはできないことなのでした。
いわば私たちは事件性の高い事態に巻き込まれてしまったのだ、と気づいた時にはもう引き返しようがなくなっていたのです。体は冷えきっているが熱がある、と私は少女の額に触れました。今度は氷はハンマーの一撃で砕けました。ヴィニール袋で即席の氷嚢を作り、パジャマを着せた少女を簡易ベッドに横たえた時、外からドアを激しく叩く音が聞こえたのです。
次回第六章完。
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嵐の吹く暗い夜でした。突然のノック、いやノックというよりもむしろ恫喝するような乱暴なドアへの殴打に、私たちは思わず顔を見合わせました。ひとりじゃなさそうだな。ああ、あの様子からすると……。その時私たちは即座に決断を迫られているのに気づきました。前もって約束した知り合い以外滅多に訪ねてくる客などこの家にはいませんし、その上今日は午後からの予期しない悪天候の嵐の夜です。迷い込んで、しかもおそらくどこかから逃れてきて助けを求めにきた少女と、続けて今ドアをガンガン叩いている何者たちかが無関係とはとうてい思えません。私たちは金縛りにあったように動きを止めて、額を寄せあいました。
迫られている決断は、簡単なことでした。嵐の夜の中をやってきた少女をかくまうか、それとも新たな訪問者を迎い入れて決断を先延ばしにするかです。いや、その中間もあるよ、と私は指摘しました、とりあえずあの女の子はこのまま休ませておく、どうせすぐには目を覚ましそうにない。今来ている連中が誰かはわからない、血縁者を名乗るかもしれないし私服刑事を名乗るかもしれないが本当かどうか確かめようもないことだ。この子を心配している様子をしても、それも本当かわからないだろうね、と私は肯きました。だけど少なくとも、嘘であれ真実であれ、あの子がここにやってきた経緯の情報にはなる。ただしリスクは……。
訪問者の話を聞いてしまえば、あの子を引き渡すかこちらで保護するかの押し問答になるのは目に見えている、ということだ。もし法的に正当な保護者であれば引き渡さないわけにはいかないし、もし司直の類であれば……あの子は何か悪いことをしてきたのかもしれない。だったらわれわれではかばいきれないよ。
……それはそうだが、と私は声をひそめたまま、たしかにわれわれはずぶ濡れの哀れな子猫を拾ったような気分であの子を介抱していただろう、その分あの子につきすぎた見方で事態を捉えていたのは認める。でもこんな子どもが嵐を押してひとりで知らない家まで来たのなら、何かひどい目にあったと思うのが普通じゃないか?だから私たちは……。
いや、もう考えている余地もなさそうだぞ、と私は立ち上がりました。こんな勢いでドアを打撃するからには、ドアを壊してまで入ってくるつもりだろう。血痕があるからこの家とは確信しているんだ。早くコートを。彼らが入ってくる前に逃げるんだ。
第六章完。
(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第二部・初出2014~15年、原題『ピーナッツ畑でつかまえて』全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)