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第二章。
[ 場所 ]
・ムーミン谷に新規開店したレストラン
[ 時間 ]
・早めのディナータイム
[ 登場人物 ]
・ムーミン…ムーミン族を象徴する当代ムーミン。
・ムーミンパパ…先代ムーミンで私生児に生まれ孤児院で育つ。長じて冒険家となり世界を流浪した。
・ムーミンママ…海難事故で溺死寸前をムーミンパパに救助されたムーミン族の雌。義務感と経済的打算からムーミンパパと結婚。特技は猫かぶり。
・スノーク…スノーク族の当代当主でスノッブな趣味と知識をひけらかす俗物。軽薄だが愛嬌はある。カツラのお洒落が自慢。
・フローレン…スノークの妹で旧名ノンノン。容貌はムーミンママに瓜二つ。わがままでツンデレ。
・ヘムレンさん…市井の博物学者。初老。温厚な性格で尊敬を集める。
・ジャコウネズミ博士…傲慢な官僚的学者だが権威は非常に高い。
・トフスラン…ビフスランと双子の近親双姦夫婦。雌雄同体かもしれない。
・ビフスラン…トスフランと同じ。この夫婦は愛の巣から滅多に外出しない。
・ヘムル署長…法治国家の体裁だけに任命された警察署長。棒給より贈賄収入の方が高い。
・スティンキー…ムーミン谷唯一の泥棒。警察署の存在意義のための職業犯罪者であり贈賄によって恩赦されては再犯を繰り返す。ヘムル署長とは持ちつ持たれつの関係。
・ミムラ…ミムラ族に属する35人の兄弟姉妹の長姉。種族の名をとって「ミムラ姉さん」と呼ばれる。
・ミイ…ミムラ族に属する35人の兄弟姉妹のうちもっとも身体の発育が遅いことから蔑称としてこの呼び名が定着した。ムーミン谷の歩く壁新聞。
・スナフキン…クールでニヒルな一匹狼を気取る流れ者だが放浪範囲はムーミン谷の中に限られる。出自不明の単一種らしく生い立ち始め過去の記憶もないらしい。性格設定のわりにムーミン谷の子供たちの引率係を率先して引き受けていることから児童性愛者疑惑も持たれている。屋根の下で寝るのが苦手、人見知りなどそれなりに放浪的性癖は見られる。
・ニョロニョロ…ムーミン谷に群生する不潔な担子菌類。
・偽ムーミン…偽物。
・図書館司書…その情婦。
舞台暗転。
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ムーミンパパはさりげなくムーミン、その実は偽ムーミンを迎えましたが、ついつい息子のために椅子を引いてしまうという卑屈な行為をしてしまい、自分から屈辱感を招いてしまいました。ムーミン谷の慣習ではムーミン谷のムーミン族は家長または世帯主の逝去を待たずに、長子誕生と同時に家長の座を親から子へと譲るのです。もっともあまりに幼い頃は実質的には後見人の権威がありますが、一人前の口をきくようになれば法は家長の味方です。ムーミンは同期にコウノトリが運んできた子供たちの中でも知能の発達はひときわトロい児童でしたが、ムーミンパパはおそらく自分でも知らずに、ムーミンとは違う偽ムーミンの狡猾なオーラを感知してしまったのでしょう。
畜生、私なんか孤児院の前に捨てられてたんだぞ!
そのひと言でスノークとフローレン兄妹もぎょっとムーミンパパを見つめ、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士も分析的に見つめ、双子で夫婦のトフスランとビフスランもバカップル的に見つめ、ヘムル署長とスティンキーも犯罪の気配にわくわくしながら見つめ、ミムラとミイも35人の兄弟姉妹集団で見つめ、孤高を誇るスナフキンでさえもうニョロニョロの消えたテーブルでびくびくしながら顔を伏せました。もちろん、ここにいない人もです。
あらパパ、どうしたというんです?とムーミンママがにこやかに、テーブルの裏では持参した凶器のフライパンの柄を再び握りしめてたしなめました。先のムーミンパパの台詞はムーミン生誕以来ことあるごとにパパがぼやいてきた愚痴だったからです。
それがどうした、とはつまりこういうことです。コウノトリが飛来してくるシーズンは決まっており、ムーミン族の発情期も決まっているから、同数のムーミン族の臨月の家庭に同数のコウノトリが飛来するのが自然の摂理ですが、たとえば思いもよらぬ不幸でその条件が失われるとベビームーミンの届け先がなくなるので、やむを得ず孤児院の門前に置いてくるコウノトリもいる。孤児院も捨て子入れのダンボールを用意し、一週間くらいは引き取り手が現れるように、
・ムーミン差し上げ枡
の札を添えておく。でも臨月のムーミン家庭はどこも赤ん坊を受け取っているので無駄なのです。この傷ましくもどうしようもない生い立ちがムーミンパパをエキセントリックなムーミンに育て上げました。
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ところでママ、スープが運ばれてきてからもうどのくらい経ったかな?三分くらいだと思うよ、と偽ムーミンはスープ皿に触れて見当をつけました。
誰もお前に訊いておらん、とムーミンパパは冷たくはねつけたので、あのおやじまだ拗ねてやがる、と周囲の反感を買ったものの、スープが運ばれてきた時ムーミンが席を外していたのも事実ですから、小生意気なガキには当然だというムードもありました。これを日本語の慣用句では
・喧嘩両成敗
といいます。また、『英雄崇拝論』や『衣服哲学』で知られるスコットランド出身のイギリス文人トーマス・カーライル(1795〜1881)が広めた金言に、
・雄弁は銀、沈黙は金
というのもありますが、これはカーライルがスイス滞在中に見かけたドイツ語の碑文だそうです。カーライルのオリジナル格言でなかなかやるじゃん、というものでは、
・この国民にしてこの政府あり
というのがありますが、日本語の慣用句でも、
・割れ鍋に閉じ蓋
というのはカーライルとは無関係に存在しますので、イギリス流の風刺と思えばそれほど感心するほどの機智ではないともいえます。
誰もお前に訊いとらん、というなら同じテーブルにいるのは他にはムーミンママだけなので、最初から名指しでムーミンママに尋ねればいいことでした。しかしムーミンパパは元々行動の人、正確には行動のムーミントロールですので思いついたらすぐ口に出るタイプです。ムーミンママが即答しなかったのは、偽ムーミンがムーミンらしからぬ出しゃばりをする様子を見ようと言うのではなく、夫が次に言い出すことが見えすいていたからでした。
つまりムーミンパパは食前の一服をしたいのです。まだスープが熱いなら私が一服するまで待ってくれんかね?紙巻き煙草ならいいですよ、一応あなたも持ち歩いているでしょう?それは風の強い屋外ならの話だ。私はヴィジュアル的にもパイプ煙草でなければ決まらんのを、ママも知っているではないか。
とムーミンママは予想し、パイプ煙草というのは仕込みからして時間がかかるわけです。この際ムーミンママには根拠がなくても亭主の喫煙を食後まで禁じる権限がありました。
早くしないと醒める頃ですよ。そうか、とガッカリのムーミンパパ。ではいただこうじゃないか、とさりげなく、ムーミン、お前からお食べ。
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・前回までのあらすじ—
ムーミンパパは新規開店したムーミン谷のレストランで、コース料理最初のスープをまず息子から飲むように勧める。レストランは物見高いムーミン谷の人びとでごったがえしていた。だがその息子ムーミンは、実は食前にトイレに行ったふりをして偽ムーミンがすり替っていたのだった。
えっ、パパ、どうしてぼくからなの?
それはわれわれムーミン族では一家の大黒柱は長男だからな。ムーミン族の一家が福祉の恩恵を受けるには絶滅指定種というだけでは駄目なのだ。後継ぎの存在がなければならん。だからいずれお前もフローレン……(聞き耳に気づいて濁し)どこぞのお嬢さんを孕ませて亭主におさまり、それでこそ一人前のムーミンというものだ。わーったか?
パパ、あなたってしゃべり始めるといつも長いのね。もっとわかりやすく話してくださらない?
そんなことを言われてもこれが私のキャラクターなんだから玉子に丸いぞとケチをつけるようなものだ。サソリとカエルの話は話したことがあったかね。
ありますよ、初めてお会いした時もお話していたじゃありませんか。
あの嵐の晩にか?というとお前は船酔いしてゲーゲー吐いていたんだっけな。命が助かったんだから船酔いくらい我慢しろ、と優しく慰めたのは憶えているが、あの状況で私の与太話を憶えていたとはママもなかなか隅に置けんな。
こんな時になんて男だろうと思ったんです。
あの頃私は冒険家だったからな、良家のお嬢様の尺度で見られては困る。実際こうして夫婦になったではないか。
サソリとカエルの話?
ムーミン!
おや、まだムーミンは知らなかったようだな。では話そう。
私は聞きませんよ。
ご自由に。では……川の前でサソリが渡れなくて困っていると、カエルが泳いでいました。向こう岸に乗せてくれないか、とサソリは頼みました。嫌だよ、きみは刺すだろ?刺さないよ、とサソリは約束しましたが川の真ん中まで来た時サソリはカエルを刺しました。二匹でぶくぶく沈みながら、カエルはサソリに言いました。何で刺したんだ、おかげでどちらも死ぬんだぞ。するとサソリが言いました--だっておれ、やっぱりサソリだもん。
……パパ、よくわからなかったよ。つまり……
つまりお前がカエルならサソリを乗せるな、サソリならカエルに乗るなってことさ。ほら、スープが冷めるぞ。
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そういえばパパ、食事の前に飲み物頼んでなかったっけ?と偽ムーミンはとぼけてカマをかけました。急いで物置部屋でムーミンと入れ替ってきたので、細かいことまでは訊くのを失念していたのです。見たところテーブルにはそれらしきものはありません。
こういう場合子供はコーラかオレンジジュースと決っていますので、偽ムーミンはコーラもオレンジジュースも嫌いでしたからウーロン茶、またはアイスコーヒーにするんだぞ、とムーミンを脅していましたが、どうも裏山のニョロニョロ池から汲んできたような緑がかった水をたたえたコップしかありません。
頼んでないのかな?だったら仕方ないや、と偽ムーミンはしぶしぶやはりニョロニョロくさいコップの水を飲もうとしたところ、
待ったムーミン!
とムーミンパパが偽ムーミンを制止しました。偽ムーミンは一瞬自分が正体のばれるようなことをしたかとギクッとし、心臓が肋骨に激突しました。
な、なあにパパ。
老いては子に従えとは昔の人はよく言ったものだ、とムーミンパパは偽ムーミンのアホ毛をなんとなく見つめながら、しみじみと言いました。お前に言われるまで食前の飲み物のことなどすっかり忘れておったぞ。なにしろレストランなど子の親になってからはすっかり足が遠のいてしまったからなあ。
えっ?と偽ムーミンは演技ではなく本当に驚いて、昔はムーミン谷にレストランなんてあったの?
ムーミンママは嫌そうな顔をしてムーミンパパに肘を突きました。ああ、とムーミンパパ。簡単に言おう、それはそれは不味いレストランが一軒だけあった。その店の名は……
とムーミンパパが口にしかけると、店のすべてのテーブルからムーミン谷の人びとの、
・それは言うなオーラ
がずどん、とムーミンパパの頭上にのしかかりました。うわあ。どうしたのパパ。簡単に言う。ママに包丁を持たせると危険な晩などはレストランにも行ったものだ。だが、
……とムーミンパパはようやく呼吸を整えながら、お前が生まれ、われわれが行かなくなるとレストランは店を畳んでしまった。ざまあみろだ。とにかく私が言いたいのは、だ、息子に言われるまで食前酒も頼むのを忘れるようでは(中略)、
私はレモネード。
ぼくはアイスコーヒー。
私は黒ビール。よしよし、なんだか食事っぽくなってきたではないか。
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いやーこうやって黒ビールなどを飲んでいると、とムーミンパパは旨そうに喉を鳴らしながら言いました、私が冒険家だった頃の数々の思い出が胸をかすめて万感の思いがあるな。
どうしてなの?と偽ムーミン。別に興味があったから尋ねたわけではなく、思わせ振りなことを誰かが口にする時はたいがい訊いてほしいことがあるからです。ではこちらはどうだろう、とムーミンママを見ると、いつも通りの穏やかな微笑を浮かべていました。ということは、ムーミンママにとっては無表情と同じことです。もちろん偽ムーミンにはムーミンママがテーブルの下でフライパンの柄を握っていることなどわかりません。
冒険家というのはだな、とムーミンパパ、冒険をしている時と同じかそれ以上に冒険ができない期間が長いのだ。具体的には一国の傭兵になって大活躍、これは冒険の醍醐味で、戦争の性質次第では〓〓や〓〓なども思いのまま、〓〓〓だって〓〓放題。だが一旦浮虜となると苛酷な戦争ほど浮虜の身分など単なる奴隷でしかなく、劣悪極まりない環境でいつ明けるとも知れない強制労働が待つ身となる。これが冒険の代償というわけさ。
嫌ですよパパ、とムーミンママがおっとり、たしなめます。
まったくだ、とムーミンパパ。しかも晴れて戦争が終結し、浮虜とは名ばかりの奴隷労働から解放されても傭兵の身分では浮虜を名目に戦功報酬を踏み倒され、軍人恩給も戦慰補償金も受給できないのだぞ。自由の代償と言えるものは一杯の黒ビールだけだ。
ムーミンパパはもうひと口グッと飲むと、私が貸しのない海運国は地中海にはないに等しい!だいたいあんな海賊の末裔みたいな連中がたかだか税関詐欺だの組織的密輸だので私のような冒険家をブタ箱にぶち混むなんぞおのれを知らぬ行為にもほどがある。不正とは神のみぞ知るとはよく言ったものだ。しかも奴隷労働つきだぞ!
というわけで、とムーミンパパは言いました、世の中広しといえど、たかがパイプの一服、黒ビールの一杯にこれほど至上の喜びを感じるにもどれだけ元をかけねばたどり着けないかを理解するには冒険家としての生き方を究めなければならぬ、と悟るまでには、
とムーミンパパは文法が混乱してきたので面倒になって適当に、そういうわけだムーミン。
うんわかった、と偽ムーミンも適当に応えました。でもパパ、スープが冷めちゃうよ。
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ほら、と偽ムーミンはスプーンの底をスープの表面につけると、軽く押したり持ち上げたりしてみせ、もう皮ができてるよ。
ほう、とムーミンパパは皮肉な口調で、お前もいつの間にかずいぶん賢くなったようだな、われわれは良い息子を持ったものだなママや、しかも親に向かって聞いたような口をききおるとは実に大したものだ、将来が楽しみというものではないかね?
などなど、なんだか妙に絡んでくるので、黒ビール一杯でこんなに酔うものだろうか、まさかとは思うが今日のムーミンパパは息子が偽ムーミンと入れ替っているのに気づいているのだろうか、と偽ムーミンは冷や汗をかく思いでした。
冷や汗と言ってもたとえ話で、ムーミン族はトロールですから哺乳類のような恒温動物よりも両棲類や爬虫類のような変温生物、もっと言えば気体や粒子に近いのです。それがたまたま直立したカバに似た生物の風貌をしていても、本質的には生命すら超越した存在なのはムーミン谷のタブーになっていました。
というのは、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士、それとスノークも一致した意見では、もしムーミン族に関する真実が全世界に知られれば大変な事態が予測されるからなのです。
見たまえ、とジャコウネズミ博士は言いました、これがムーミンから採取したサンプルだよ。毛もなければ爪もなく、血液らしきものもないムーミンから何とか削りとった細胞がこれだ、もしこれを細胞と呼べるなら、ね。
ヘムレンさんは顕微鏡を覗いて愕然としました、まさか、信じがたい!
どれどれ私にも、と顕微鏡を覗いたスノークもひっくり返りました。これが細胞ですか!ムーミンそのものではないですか!
そう、それを細胞と呼べるなら、一個体のムーミンは全体が一個の細胞から出来ていると考えられる。ところが細胞とは本来他の細胞によって代謝されたエネルギーを必要とするものだ。だがムーミンはエネルギーの消費なしにエネルギーを発生させる。
永久機関…。
しかも、見たまえ。もう一つのムーミン細胞を合わせてみると…
融合した!どういうことですか博士!
……なるほど、とヘムレンさん。ムーミンは熱力学の第三法則下にない。しかも個体とは便宜的な形態に過ぎない。これが世に知れたらどうなるかわかるかね、スノークくん?
どうなるんです?
すべての個体は滅び、世界は終わるんじゃよ。
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ヘムレンさんは床に一辺が一メートル半の正三角形をチョークで描くと、それぞれの辺を二分割する位置に辺と交差する印を引きました。起き上がって描いた図形を眺め、
こんなものかな。ではお二人とも印のところに立っておくれ。条件は公平なはすだが、納得いかないならその都度遠慮なく言おうじゃないか。
私も異議はないがね、と、床と天井を見較べながら、ジャコウネズミ博士。つまりヘムレンさんの公平さには異議はない。あえて追加するなら、おのおのが位置を選ぶのを自由とすれば、われわれは譲りあってしまうだろう、というのが問題だ。それでは結局公平とは言えないやり方にもなりかねないと思うが、どうだろうか?
そうですよ、最初からヘムレンさんが残った位置につくと決めるのはおかしい。背後の空間、照明の位置、この正三角形が三辺のどれを選んでも自分以外の二人と条件は同じなのは同意します。でしたら、どの立ち位置に立つことになるかも公平、かつ無作為にすべきでしょう。
ではスノークくんには良い案はあるかね?
ジャンケンなんていかがでしょうか?
いや、ジャンケンは止めよう、とヘムレンさんもジャコウネズミ博士も同時に呻きました。あれはリスクが高すぎる。これは二人の良心の証として言うのだが、これまでムーミン谷を襲った疫病について、きみのような若者もいくつかは記憶にあるね?疫病のたびにワクチンの開発・決定をしてきたのはわれわれ二人だった。それで最終的にはA型ワクチンかB型ワクチンに決めるのだが、われわれは毎回ジャンケンで決めてきたのだ。
それで、どうなったのですか?
二回に一回の率でハズレ。だがこれは二人だから二分の一で済んだのであって、三人なら三分の一の確率になるのだぞ。
ではどうすれば…。
そうか、ならこれで行こうか、とジャコウネズミ博士が出してきたのは、六面体のサイコロでした。スノークとヘムレンさんは思わず震えあがりました。サイコロはムーミン谷では禁制品の筆頭だからです。なぜそんな物を君が…。私は科学者ではあるが、官僚でもあるからね。密輸押収品くらいはいつでも手に入るさ。たまたま今日は税関帰りでね。で、こういう場合、ルールは、(中略)
三人は棍棒を持って等間隔の三角に立ちました。これから物理的にムーミン族の秘密に関する記憶を強制消去するのです。
それから猛烈な連打。
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偽ムーミンはムーミンパパにさりげなく告げただけですが、そのひと言で思わずスノークとフローレン兄妹もぎょっとしてムーミン一家から目を逸らし、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士も意図的に無視し、トフスランとビフスラン夫婦も双子であるのを忘れたような顔で背け、ヘムル署長とスティンキーもおまわりと泥棒の立場をわきまえて無視し、ミムラとミイも35人の兄弟姉妹を忘れて呆け、あの孤高のスナフキンも今やニョロニョロのいないテーブルに思わず顔を伏せました。もちろん、ここにいない人もです。
つまりそれは、傍観者の位置、もしくは通行人の視点からムーミン一家の様子をうかがっていた間合いが一気に危うくなったので、弛んでいた緊張が一瞬にして張り詰め、レストラン内の食客たちの心拍が頂点まで高まると、回復は望めないとすら思えました。ほとんどの人が、とは言えトロールですが、この場に居合わせた不運を悔みました。
ムーミンママだけは命にかけても大切なハンドバッグを握りしめて覚悟を決めました。もしもの場合バッグの中にはムーミン谷全域を焼却処分するN2地雷の起爆スイッチが仕込んでありました。またムーミンママの生体信号を受信する距離からバッグが離れてもこのスイッチは起爆するのです。ムーミン谷随一の平凡な主婦に、生死をかけたムーミン谷の秘密が託されているとは普通思えません。それもハンドバッグに。
当然ムーミンママは舞い込んだこの誘惑に、私などその任に堪えませんわと最初は辞去しましたが、結局はムーミン谷すべての運命をハンドバッグの中に握るという陶酔には勝てなかったのです。しかも男尊女卑のムーミン族で、夫にも息子にも秘密となればこれに勝る快楽はありません。
やがて喧騒。今度はムーミン一家ばかりでなくスノークとフローレン兄妹、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士、トフスランとビフスラン、ヘムル署長とスティンキー、ミムラとミイと35人の兄弟姉妹に孤高のスナフキンまでもが焦ったようにがやがやし始めました。ニョロニョロまでも喧騒に乗じてあちこちのテーブルに生える始末です。
なんかやばいこと言ったかな?と偽ムーミンはおずおずと、ねぇみんなどうしたの?……ですが一堂は偽ムーミンを無視して一段と雑談に花を咲かせます。おかしい、いつもとは明らかに様子が違う。どうする?
次回第二章完。
(20)
スノークくんはご存知ないかもしれんが、とジャコウネズミ博士は言いました、ヘムレンさんと私は併せて69もの学位を取得しておるのだ。これはわれわれ二人でムーミン谷に国際大学を開校するに十分な資格があることを意味する。
なるほど、私はその唯一の生徒というわけですなはっはっは、とスノークは謙譲して答えましたが、どうやら今は社交辞令など問題ではない議題にさし掛っているのにすぐ気づきました。それで博士、おっしゃりたいことは…。
まあこれから話すことは、すべて一種の比喩と考えてくれたまえ、とヘムレンさん。わしらは二人ともR.D.の学位を持っておる。つまり修辞学博士だな。修辞とは時として論理的な思弁よりも真実に近づくことがあるということさ。
たとえば真実には二種類ある、とジャコウネズミ博士がすかさず言いました、雨の日は雨降り、これは帰納的真実で、雨が降ると雨の日、これは演繹的真実。だがスノークくんが一日中部屋に閉じこもっていた場合はどうかね?
博士、私もインターネットくらいはしますよ。そしたら気象情報くらいは見てみます。
ではサイトに流されている気象情報が偽情報だったらどうかね?
当然違反申告します。とんでもない!
それでは違反申告した先が必ずしも適切な対応をしてはくれず、そればかりか矛盾しあう情報のいずれも自己責任として放置しているような状態だったらどう判断するね?
ええと、何を?
天候!今日が雨降りかどうか。言っておくがきみは部屋の中にいるんだぞ。窓の外を見るのも駄目だ。
テレビを観ます。
テレビは広域気象情報しかやっとらんよ。
じゃ、地方局。ムーミン谷TVを観ます。
あそこは自社番組は天気予報やローカル・ニュースすらやらんぞ。島根県松江市や出雲市の天気を観てどうする?
じゃあ117番に電話……
駄目、ルール違反。そもそもきみは、質問の主旨がわかっているのかね?
自分は何もせずに部屋にいながら天気を知る方法なんでしょう?あ、これはルール違反ではないですよね?フローレンに訊く。
ピンポーン、とヘムレンさんとジャコウネズミ博士は微笑みました。だがそれはきみがフローレンの兄だからだ。全世界がきみなら、きみにとってのフローレンに当る存在。それが世界とムーミンの関係なのだよ。つまり、真実を媒介する唯一の存在。
第二章完。
(初出2013~14年、全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)