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映画日記2019年2月25日・26日/アラン・レネ(1922-2014)の初期4長編(前)

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 アラン・レネ(1922-2014)はヌーヴェル・ヴァーグ関連のフランス監督ではエリック・ロメール(1920-2010)と並んで年長者だった人ですが、晩年まで現役感が強かった存在で、ヌーヴェル・ヴァーグに先立って'50年代~'60年代のヨーロッパ映画を先導したアントニオーニ(1912-2007)やベルイマン(1918-2007)も生誕100年を過ぎましたが両者は'40年代後半には監督デビューしていた第二次大戦後間もない世代の映画監督でしたし、'80年代半ばには現役を退いていたのもあって余生の境地を感じさせる単発的な作品を稀に送りながら晩年を迎えた印象でした。ロメールやレネはむしろ60代を過ぎた'80年代以降にそれまでの高踏的なイメージから一転して広く迎えられる作品を長命に恵まれてのびのびと旺盛に製作し続けたので、フェリーニ(1920-1993)のように早く亡くなった監督とは違いつい先頃まで活躍していた現役監督だったので、あと数年で生誕100年になるとはロメールやレネの旧作・新作をスクリーンで観てきた世代の観客としては感慨深いものがあります。ロメールの初期作品は日本への紹介は遅れましたし『獅子座』や「六つの教訓劇」連作は本国公開と時差を置かず日本公開されていても大きな反響を呼んだとは思えない渋い性格のものですが、短編ドキュメンタリーを含むアラン・レネの初期作品は欧米でも日本でも批評家や観客に驚きを持って迎えられ、この時期長年のメキシコ映画界からフランス映画界に戻ってきた長老格で元祖シュルレアリスム映画監督のルイス・ブニュエル(1900-1983)とともにアントニオーニ、ベルイマン、フェリーニ、ゴダールと並んでレネはヨーロッパ映画の最前線に立つ革新的映画監督としてもっとも注目され、論じられ、研究される監督になりました。特に映像スタイルや技法の点で際立っていたためにアントニオーニとレネが同時代や後続の映画監督に与えた影響は大きく、ベルイマンやフェリーニ、ゴダールの作品にすらその痕跡が折衷・抵抗・挑戦といった具合に見られるくらいです。日本映画でも中平康の『砂の上の植物群』'64、勅使河原宏の『砂の女』'65、吉田喜重の『女のみづうみ』'66などアントニオーニとレネからの技法の摂取が明らかな一群の作品が作られており、アメリカ映画ではそうした作品は'70年代以降にようやく現れるので、これはアメリカ映画が遅れていたというよりも'60年代半ばには衰退を見せ始めていた日本の映画状況がかえって実験的な作品を可能にしたのに対して、アメリカ映画界はまだ'60年代中には大胆な変化を必要しなかったということだと思われます。また、革新性の面ではアントニオーニが重視されたのは『さすらい』'57から『情事』'60、『夜』'61、『太陽はひとりぼっち』'62の4作の時期に尽き、レネも「夜と霧」'56を頂点とする重要な中短編時代がありますがもっとも重視されるのは長編第1作『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』'59からの最初の4長編で、それ以前に瑞々しい初期作品があり、それ以降にもまた充実した作品があるにしても、時代を画した特筆すべき革新性があり今なお問題作とするに足るのはアントニオーニ、レネとも時期的に集中している観は否めません。興味深いのはアントニオーニが方法的自覚があまりなく直観的な試行錯誤から傑作を生み出したように見えるのに対してレネは徹底した方法意識の映画監督であることで、それが一見共通して難解な両者を異なる性格の映画の映画監督にしています。アントニオーニの上記の4傑作はわかる人には解説を要さずそうでない人にはどう説明しても無駄ですが、レネの映画は難解であっても注意して観れば解読できる明晰さがあって、観る人に必ず報いてくれる映画です。またそういった論評や研究はさんざんされている作品群ですので、ここでは一観客としての率直な感想文にとどめたいと思います。

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●2月25日(月)
『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』Hiroshima mon amour (Argos Films, Como Films, Daiei Motion Picture Company LTD et Pathe Overseas Productions'59.6.10)*86min, B/W*日本公開昭和34年6月20日

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 アナトール・ドーマンのアルゴス・フィルムがパテ映画社と大映の日仏合作で製作した本作は現在のパートが大映スタッフによる広島ロケ、ヒロインの過去の回想パートがフランス本国撮影と半分は外国人監督による日本映画といってもいいもので、ナチスの強制収容所跡地に取材したドキュメンタリー中編「夜と霧」'56も戦後は親交国であるドイツへの配慮からカンヌ国際映画祭の正式出品を見送られた(国内評価は高く、ジャン・ヴィゴ賞とフランス・シネマ大賞を受賞)経緯がありますが、日本では記録フィルム部分の残虐性が問題になり公開中止になりかけ部分削除の上昭和36年10月にようやく公開されました。試写会はそれ以前に行われていたので、本作の日本公開時に映画関係者は公開延期作品として「夜と霧」を観ており、一般の観客はまだ「夜と霧」を観ることはかなわなかったことになります。「夜と霧」のテーマは戦後10年を経て廃屋となった収容所跡地から記録フィルムにあるような史実を想像し得るか、という直接この『二十四時間の情事』につながるテーマをあつかったものでした。本作は過酷な戦争体験を持つ日本人とフランス人の男女が15年近く時を経てたがいの別々の国の戦争体験を理解し得るか、という劇映画ですが、今度も原爆投下国であるアメリカへの配慮からカンヌ国際映画祭の正式出品を外され、それでもコンペ外としてカンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞を受賞し、アメリカでもニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞を受賞しました。キネマ旬報ベストテンでは7位でしたが、この年のベストテンの6位までは1位ルメット『十二人の怒れる男』、2位ワイダ『灰とダイヤモンド』、3位アントニオーニ『さすらい』、4位シャブロル『いとこ同志』、5位マル『恋人たち』、6位カワレロヴィッチ『影』で、『さすらい』は当時映画誌「映画芸術」で編集長の品田雄吉氏が採録シナリオ掲載号で「映画史上の画期的作品ではないだろうか」と絶讃したのも評価の呼び水になったのではないかと思われます。また戦後のイタリアのネオ・レアリズモ映画に続くポーランド映画への注目は台頭してきたばかりのフランスのヌーヴェル・ヴァーグ勢と並ぶものだったのもベストテンに表れ、ヨーロッパ映画がアメリカ映画を圧倒していますが(8位ジェルミ『わらの男』、9位クレイトン『年上の女』、10位ゼーマン『悪魔の発明』でした)、どう見てもこのベストテンの10作では『さすらい』と『二十四時間の情事』が突出していて、その代わりこの2作は1位・2位を争うような親しみやすい性格には欠いているとも感じます。この年の日本映画5位には小林正樹『人間の條件 第一部・第二部』が入っていますし、日本映画ベストテンの1位~4位は今井正『キクとイサム』、市川崑『野火』、今村昌平『にあんちゃん』、山本薩夫『荷車の歌』といかにも戦後映画らしい顔ぶれですが、『さすらい』と『二十四時間の情事』はシャブロルやルイ・マルを含めた外国映画ベストテンに並ぶ作品とも当時日本映画の達成していた次元ともまったく発想の異なる映画表現の飛躍があり、直接'60年代のヨーロッパ映画の変貌の原点になった観があります。アントニオーニの場合『さすらい』の次にようやく完成した『情事』'60を上げるとさらにはっきりしますが、映画の見かけではアントニオーニの映画とレネの映画ほど対照的なものはなく、どちらも極端に主要登場人物の少ないドラマながらカット割りが少なくモノローグはおろか極端に台詞が少ないアントニオーニに対して、レネの映画はカット数が多いばかりかインサートされるカットも膨大なら映画全編がモノローグや台詞の洪水でしかも過剰なレネの映画は、かたや極端に寡黙、かたや極端に饒舌なので、見かけは対照的なのに映像や音声のあつかいがストーリーの伝達の効率から逸脱している点では、鑑賞に当たって観客に過大な負担をかける映画となっています。アントニオーニの場合もレネの場合も登場人物たちはどんなプロットに基づいて動いているのか、それがどんなストーリーを形成しているのかも判別し難いばかりか登場人物たち自体が明確な性格を付与されているようには描かれず、キャラクターによって物語が推進していくという作りのドラマでもありません。しかし映画を観終えて迫ってくるのはごく人間的な、こうした晦渋な手法を経て初めて映画で描かれた種類の真実性であり生きることへの洞察なので、製作60年を経ても本作は丁寧に向きあえばそれだけの手応えを与えてくれる映画です。本作の公開当時のキネマ旬報の新作紹介は宣伝資料によるものか編集部作成によるものか、現行版で観られる映画とやや異なるあらすじが興味深いので、ご紹介しておきます。
[ 解説 ] 日本で公開中止になりかけた「夜と霧」の監督アラン・レネが、はじめて監督した、日仏合作のかたちの劇映画。日本ロケにやってきた、戦時中ドイツ人を恋人に持ったフランス女優と、広島の日本人技師との一日の恋が描かれる。原作・脚色はマルグリット・デュラス。撮影を仏側サッシャ・ヴィエルニー、日本側を高橋通夫が担当している。音楽はジョヴァンニ・フスコとジョルジュ・ドルリューの共同。主要出演者は仏側の新人エマニュエル・リヴァと、日本側の岡田英次のみである。製作ジャック・アンドレフェーと永田雅一。
[ あらすじ ] 薄闇。男女が抱きあう。彼女(エマニュエル・リヴァ)がつぶやく、《私、広島で何もかも見たわ》彼(岡田英次)が答える、《君は何も見ちゃいない》病院、被爆者の顔、苦しみの図、あの影、焼けた石。博物館のきのこ雲の模型。平和広場。記念アーチ。橋や川。《何も見ちゃいない》午前四時だ。彼はあの時、夏休みで広島にいなかった。彼女は映画出演でパリから広島へきた。その前はイヨンヌ県のヌベールにいた。二人は偶然知り合った。彼は建築技師だ。彼女は広島の映画で看護婦に扮していた。《あしたの今頃、フランスへ発つの》二人はホテルの彼女の室を出た。《ヌベールで気が狂ったことがあるの》彼女が歩きながらいう。――病院の前で、彼女の映画のロケが行われる。彼は彼女を探す。女は木蔭で休んでいた。撮影隊はデモ行進を撮った。二人はデモを眺める。彼にさそわれ、女は男の家へ行く。妻は留守だ。《私だって夫と幸福よ》二人は抱きあう。彼女が戦争中に愛した男(ベルナール・フレッソン)はドイツ人だった。《そして、彼は死んだの》その時、彼女は今日の女になり始めたのだろう。出発まで十六時間しかない。女は悲痛な顔で室を見廻す。もう夕暮だ。――川べりの喫茶店に二人がいる。女の意識のなかで、彼と、ドイツ人の恋人がひとつになる。恋人が死んだあと、女は突然叫びだす。父(ピエール・バルボー)に地下室に閉じこめられる。地下で彼女は二十の誕生日を迎えた。永遠が過ぎる。何も覚えてはいない。《私はあなたが好きで気が狂いそうなの》髪の毛は徐々にのびた。若い男達が彼女を丸坊主にしたのだ。彼女の死んだ恋はフランスの敵なのだ。《怖いわ》女はふるえだす、《あれだけの愛情を忘れてしまうのは》ロワール河の橋で彼とあい一緒に出発するはずだった。着いた時、まだ彼は息があった。庭の誰かに撃たれたのだ。女は死骸のそばに一昼夜とどまった。その夜、ヌベールは解放された。――ある日、母(ステラ・ダサス)が彼女を夜のうちパリへ発たせてくれた。翌々日パリに着くと、広島の名がすべての新聞に出ていた。その名は平和を意味していた。《あれから十四年も経ったのね》彼女は目覚めたようにいう。ヌベールの話は夫にも話さなかった。《頭に剃刀をあてられると、人間の愚かさをはっきり知らされるものね。私はあの時間を生きたかったの》夜は更けてい、二人は店を出た。彼は別れたくなかった。――彼女はホテルへ帰ったが、涙を流している。洗面台に顔を沈める。《私は今夜あの異邦人と共にあなたを裏切ったの。……私はあなたを忘れて行く。私を見て》彼女はホテルを走るように出た。彼を求めて川の店の前まで行く。彼が暗闇から近づく。《広島に残らない?》《もちろん残るわ》彼女は広島の街々をさまよう。彼がついていく。雨が降りだした。《残ることはできない?》《よく判っているくせに。別れることより不可能よ》雨がやみ、彼女は明るい駅の待合室へ入っていく。彼はもう争おうとしない。彼女がすでに失われてしまったことを知っているのだ。《私が忘れていたヌベールよ、私は今夜おまえに会いたい》彼女は彼をみつめる。《この男の恋があの愚かしいヌベールの地下室の私にまでやってきたのだわ》地下のナイト・クラブでは、彼はすでに遠くにいるように見えた。――彼女はホテルの室へ帰る。彼が入ってきた。二人は向きあったまま立ちつくす。広島はまだ眠っていた。女は急に目をおおってうめく。暗い悲嘆の声だ。彼は歩み寄り、女を烈しく抱く。彼女は叫んだ。《私はあなたのこと忘れるわ。もう忘れてしまったわ。私が忘れていくのを見て。私を見て》明け方の駅前広場ではもうネオンが消えた。
 ――このあらすじは会話を多く引用していながらもっとも決定的で映画の焦点を結ぶ結末の台詞を落としています。映画のラストシーンはそれまで名前のなかった二人が最後の別れに相対して、男が「僕の名前はヒロシマだ。……そして君の名前はヌベールだ」と決して交わることのない戦争体験とその体験の懸隔、映画全編に渡って二人が直面してきた戦後15年近くが経過した歴史の風化と、生きている人間にとって不可抗力な記憶の忘却への無力を痛切に切り取っており、忘れ難い印象を残します。本作は次作『去年マリエンバートで』と同様、登場人物に名前がなく、しかもたまたまナイト・クラブで居合わせた客の男、ベンチで挟んで座った老婆くらいしか台詞がない徹底して主役のフランス人女性と日本人男性だけの対話劇です。広島の原爆投下時女は20歳、男は22歳という会話がありますから、この広島の戦災を描いた作中作の日仏合作映画のため来日した女優のヒロインが広島を訪れてこの出来事が起こったのは前年昭和33年=1958年で、ヒロインは33歳、日本人建築家の男は35歳という設定になります。それはベッドの中から始まり翌日の女優の最後の撮影場面完了からさらに広島の街中の散策に続き、喫茶店、男の自宅、ナイト・クラブ、さらに女優の泊まるホテルの部屋での別れまで続きます。脚本のマルグリット・デュラスはのちに自らも優れた映画作家になりましたし、本作の女性映画としての側面はデュラスの脚本によるものでしょう。エマニュエル・リヴァは本作のイメージが強すぎて女優としては大成しなかったと言われるのもうなずけるほどこの映画のヒロインとして唯一無二の存在感があり、岡田英次も本作あってこそのちに『砂の女』に起用されたのが納得のいく堂々とした国際俳優ぶりです。音声のうち現実音はともかく台詞はすべてオーヴァーダビングによると思われますが、フランス語ができなかった岡田英次は口伝てで教わった通りに台詞をしゃべったそうで、フランス語のエロキューションのニュアンスがわかる観客にはどうかわかりませんが、本作のような日常的なリアリズム劇とは異なる次元で人物が描かれている作品の場合には、リヴァと岡田の会話もフィクションとして成立しているため十分説得力があるように見えます。映画冒頭からこの二人は会話というよりも交わらないモノローグを交錯させているので、冒頭のシークエンスに関して言えば実際に交わされた会話というよりも会話体のナレーションを男女のモノローグの形式で分けあっていると解した方が自然でしょう。映画は中盤以降にヒロインの戦時下の回想シーンに入ってから俄然切迫感を増しますが、そこで広島市とヌベール、太田川とロワール川、広島の街中の白猫と回想の中のヌベールの黒猫などの対照が次々と喚起されてくる。ヒロインの戦争体験があまりに個人的で痛切なものだけに、かえって広島の個人の想像の域を超えるほどの巨大すぎる災禍が遠景に退いてしまう、そのためなおさら体験とその忘却・風化が生き続けている人間にとって不可抗力であり、ヒロインが戦時下で愛したドイツ兵との蜜月のようにこの日本での短い恋愛もはかないものであることを結末ではヒロインも主人公も理解しています。日本人建築家の主人公はヒロインに「僕の名前はヒロシマだ。……そして君の名前はヌベールだ」とこの恋愛の意味を告げるしかないので、二人の間を隔てる懸隔がこの男女を結びつけ、また別れさせるものという認識がこの恋愛映画に筋を通しています。背景にある戦争体験がこの映画を戦争体験への考察を重ね合わせる映画にしているにしても、二人の人間、それも性愛を含めた男女にあっても逃れようがない人生の交錯の限界を描いて切実な情感を伝える映画になっているのはこうした人間性への洞察によるものであって、本作はスタイリッシュなアート・ムーヴィーとして審美的に楽しむこともできますし、くり返し観るたびにスタイルを超えて本質的なテーマが心に沁みてくる作品です。レネの映画は「夜と霧」と本作『二十四時間の情事』がもっとも飾らず訴求力のある作品ではないかと思われます。

●2月26日(火)
『去年マリエンバートで』L'Annee derniere a Marienbad (Argos Films, Cinetel, Les Films Tamara, Precitel, Societe Nouvelle des Films Cormoran, Cineriz, Como Film, Silver Films, Terra Film Produktion'61.6.25)*93min, B/W*日本公開昭和39年5月2日

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 学生時代に観てこんなに面白い映画があるのか、と仰天した映画を上げるときりがありませんが、この映画は十代の頃つきあっていた女の子とリヴァイヴァル上映を観に行ってすっかり煙に巻かれ、彼女が図書館から借りてきたシナリオの訳書を回し読みして二度目に観たら面白くてたまらず、上映が済んで灯りがつくと顔を見合わせてこんなに面白い映画だったんだねと二人して快哉を叫んだ思い出があり、他にも観終わって一緒に観た恋人と楽しみを分かちあった映画は数ありますがわざわざシナリオを読んで二度目に挑んだ映画、その二度目でこれほどわくわくした映画となると他にないので、その時の好印象がどうしても先立ってしまいます。その後レンタルビデオ、テレビ放映の録画で何度となく観ましたし、廉価版のBlu-rayディスクが出た時はすぐ買って今回は何回目の鑑賞になるかわからないくらいくり返し観てきた作品ですが、今レネの初期作品でどちらに感動するかと言うと本作より「夜と霧」や『二十四時間の情事』、次作『ミュリエル』'63に感動するようにはこの『去年マリエンバートで』には感動しないのが正直な感想で、見事な工芸品を見るような感嘆は変わりませんが、レネ原案の『二十四時間の情事』がマルグリット・デュラスの脚本によって豊かな情感を湛えた女性映画として人間味を備えた映画になっていたのに対して、黒澤明の『羅生門』'50を発想源にレネがアラン・ロブ=グリエに脚本を委ねた本作はロブ=グリエの指向が強く出たもので、ロブ=グリエものちにデュラス同様に監督作品を作るようになりますが、デュラスの監督作品が『二十四時間の情事』の美点を引き継いだ好作品が並ぶのとは違ってロブ=グリエの監督作品は『去年マリエンバートで』をますますエキセントリックにして悪趣味に踏みこんだようなものです。ロブ=グリエの悪趣味を端的に言うとネクロフィリア的な非人間性への偏愛であり、ネクロフィリア的な側面はレネにもあって「夜と霧」ははっきり死者についての映画でしたし『二十四時間の情事』も生きながら死んでいるような人物たちの映画でした。しかし『二十四時間の情事』は女性映画であり愛の映画でもあることでネクロフィリズムに埋没することに抵抗する要素がありましたが、『去年マリエンバートで』は劇映画から人間的要素を徹底して排除しようという意図に徹して成功した映画で、商業映画の中でどれだけ実験的試みが可能か限界まで迫ろうとして際どいところで審美的作品として成立しています。ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞、キネマ旬報ベストテン3位とは本作がいかに注目を集めたかを物語るもので、この年のキネマ旬報ベストテンの日本映画の1位~3位は1位勅使河原宏『砂の女』、2位小林正樹『怪談』、3位木下惠介『香華』、外国映画ベストテンは1位コルピ『かくも長き不在』、2位トリュフォー『突然炎のごとく』、4位ムンク『パサジェルカ』、5位、カザン『アメリカ、アメリカ』、6位ヴァルリーニ『家族日誌』、7位ゴダール『軽蔑』、8位リチャードソン『トム・ジョーンズの華麗な冒険』、9位ベルイマン『沈黙』、10位コージンツェフ『ハムレット』となっています。『かくも長き不在』が1位というほどかはともかく『突然炎のごとく』が本作より上位なのは当然でしょうし、『パサジェルカ』『軽蔑』『沈黙』は『去年マリエンバートで』よりはるかに優れた映画だと思います。本作は技巧の複雑さと冴えで卓越した作品で、たぶんこの後継者がラウール・ルイスやピーター・グリーナウェイだろうと思いますし、ルイスやグリーナウェイの映画はロブ=グリエの映画のような悪趣味に陥っていません。ロブ=グリエも本職の小説では自作映画で見せてしまったような破綻を来していないので、本作はレネの演出あってこそ端正な仕上がりになった作品なのを感じます。『二十四時間の情事』が名前のないフランス人女性と日本人男性二人の対話劇だったように、本作の主要人物は観光地に滞在している男とその男が映画全編で口説き落とそうとする女性と、その女性の夫らしき男の三人だけの対話と対決のドラマで、シナリオでは男をX、女性をA、夫らしき男をMとしています。男Xが映画全編に渡って女性に迫るのは「去年(別の観光地の)マリエンバートであなたと駆け落ちする約束だったがあなたは来なかった」と今回こそ駆け落ちしようという要求ですが、女性Aはあなたとは初対面でそんなことは知らない、と退けます。夫Mは二人の様子をうかがい、たびたび暇つぶしのニム・ゲーム(この数学的必勝法の法則のある卓上ゲームのくり返しがドラマの上で印象的な効果を上げています)を男Xに誘ってゲームに勝ち続けます。男Xが女性Aに迫るごとに、または無関係に男Xが主張する去年のマリエンバートでの駆け落ち未遂のシーンが挿入され、真実を知る第三者の視点からの説明や描写は一切ないため男Xの主張が真実か、それを否定する女性Aの方が真実を語っているのか、また夫Mにとって去年妻である女性Aの駆け落ち未遂があったと認識されているのかそれも事実無根のことなのか、観客は「去年」の駆け落ち未遂の真偽も登場人物たちの台詞の真偽・真意も特定できないまま映画は進んでいきます。本作も日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
[ 解説 ] アラン・ロブ・グリエの脚本を「二十四時間の情事」のアラン・レネが監督した心理ドラマ。撮影はサッシャ・ヴィエルニー、音楽はフランシス・セイリグ。ピエール・クーロー、レイモン・フレーメンが共同で製作を担当した。出演はデルフィーヌ・セイリグ、「エヴァの匂い」のジョルジョ・アルベルタッツィ、「スパイ」のサッシャ・ピトエフなど。ベニス映画祭でグランプリを受賞している。黒白・ディアリスコープ。
[ あらすじ ] 豪奢だが、どこか冷たいたたずまいを見せる城館に、今日も富裕らしい客が、テーブルを囲み、踊り、語って、つれづれをなぐさめている。まるで凝結したような、変化のない秩序に従った生活。誰も逃げ出すことの出来ない毎日なのだ。この城館の客である一人の男(ジョルジョ・アルベルタッツィ)が、一人の若い女(デルフィーヌ・セイリグ)に興味をもった。そして男は女に、「過去に二人は愛しあっていた、彼は女自身が定めたこの会合に彼女を連れ去るために来た」と告げた。男はありふれた誘惑者なのか、異常者か?女はこの突飛な男の出現にとまどった。だが男は真面目に、真剣に、そして執拗に、少しづつ過去の物語を話して聞かせながら言葉をくり返し、証拠を見せる……。女はだんだん相手を認めるようになった。しかし、女は今迄自分が安住していた世界を離れることに恐怖を感じた。それはやさしく、遠くから彼女を監視しているようなもう一人の男、多分彼女の夫である男(サッシャ・ピトエフ)によって表現される世界であった。だが、彼女は、男によって、真実性を帯びてくるつくられた話に抵抗できず、ためらい、苦悩する。今や苦悩は女の現実であり真実となった。現在と過去はついに混り合った。三人の間の緊張は女に悲劇の幻想さえおこさせたが、ついに女は男の望んだ通りの存在であることを受け入れ男とともに、何ものかに向って立ち去った。それは、愛か、詩か、自由か……それとも死かもしれないのだが……。
 ――キネマ旬報の解説は本作を「心理ドラマ」としていますが、『二十四時間の情事』にはそう言えても本作はそういうものではないでしょう。『二十四時間の情事』は記録フィルムとのモンタージュの多用の必要もあってかスタンダード・サイズ(4 : 3)で、本作はBlu-rayディスクではヴィスタサイズ(16 : 9)に収められていますが実際にはシネマスコープに近い2 : 1あまりの比率のワイドスクリーン作品で、『二十四時間の情事』同様に室内シーンと対話が大半を占めるのに、古い城館を改築した広大なホテルを現在形のドラマの背景にした本作の映像はワイドスクリーンによってあえて冷たく、突き放したような印象を与えるものになっています。この映画は脚本を(1)現在、(2)男Xの視点による回想、(3)女性Aの視点による回想、(4)夫Mによる視点に分けられてそれをシャッフルして撮影(演出)・編集されたそうで、俳優にはそうした脚本・演出意図を知らせず全編のカットやシークエンスの演技をさせて撮影したので俳優は自分が映画のどのパートをどんな意味を持つかが一切知らずに演技したとのことです。また結末は監督のレネと脚本のロブ=グリエでは「男Xと女性Aはついに駆け落ちした」「今度も駆け落ちにはいたらなかった」と完成作品にいたっても別々の解釈を持っていたようですが、観客のほとんどは挿入ショットの誘導と1時間半の映画の結末ですから「拒んでいた女性Aは男Xと駆け落ちした」という印象を持つと思います。なぜ「去年」の駆け落ちが未遂に終わったか、女性Aが男Xにしらを切り続けるかというのは、'70年代以降に本作の女性視点を重視した批評では「去年」の駆け落ち未遂に関して女性Aが記憶を抑圧している要因があるのではないか、つまり男Xと女性Aの性関係が暴力、具体的にはレイプに近い脅迫的な関係だったのではないか、または夫Mによる女性Aへの夫婦間の性的暴力があったのではないか、と映画全編のヒロインの女性Aの男性忌避的な様子を解釈しているのですが、それが本作を心理映画と見せてはいないので、監督のレネと脚本のロブ=グリエですら解釈が異なるように本作は幾様にも解釈できるよう単一のシチュエーションに相矛盾した解釈が並列してある映画が意図されている。『羅生門』、またその原作である芥川龍之介の「藪の中」では強盗殺人事件をめぐる相矛盾する証言が最終的にはそれらすべてを包括する死者の証言(イタコの口寄せによる)という合理的解釈がありました。本作の場合観客は「拒んでいた女性Aは男Xと駆け落ちする」という結末の印象を持ちますが、それは男Xと女性A、男Xのどの視点が事実だったというより、食い違う男Xと女性Aの対立が男Xの観察下にどちらも真偽不明のまま飽和状態を来して爆発し、第3のフィクションである「女性Aは男Xと駆け落ちする」という事態が生起してしまった印象です。俗に「嘘も言い張り続けると真実になる」と言われるようなことをスマートなアート・フィルムに純粋に結晶化した映画と見るのがおそらく本作のもっとも穏当な見方で、ことさら映画による高度な鑑賞力を要求する知的パズルと持ち上げなくても、また最初観ると面食らうとしても、全体像をつかんで二度目に観れば映像の審美性を楽しみながら三人の主要人物による駆け引きのドラマとして斬新な手法の見事なスリラー映画に見える平易さもあります。「夜と霧」『二十四時間の情事』とレネのテーマだった「記憶と現在」は本作ではレネの指向性の中でもアブストラクトな方面にもっとも傾いた形を取ったので、現代史への関心や戦争といったテーマを本作では一旦排除して純粋芸術的試みに徹したからこそ成り立った作品とも言えるでしょうし、そこが本作を傑作としても「夜と霧」『二十四時間の情事』、また次作『ミュリエル』のような痛切な訴求力を持つ種類の作品とは言えない映画にとどめています。純粋な美術的完成度を追求した映画としてはこれほど見事なものはないと思えるだけに、この映画は高度な達成の代わりに削ぎ落としたものの大きさも感じられる作品であることも痛感させられます。またそれがネクロフィリア的な異常性を感じさせるのも先に述べた通りです。

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