ただしそれが容易でなく、ファミリー的な結束力があり人材を大切にした社長でプロデューサー兼総監督のローチとロイドの人望とリーダーシップによるチームワークがあったからこそで、ロイドは採用できるギャグを提供したスタッフにポケットマネーからギャグ分のボーナスを払っていたそうですから、チャップリンの個人的で独裁的な製作姿勢に対してロイド作品はロイド=ローチの盟友関係によるファミリー・チーム製作だったところに映画作り自体の大きなアプローチの違いがあります。ロイドの'20年~'21年の中短編10編は初長編『ロイドの水兵』('21年12月)直前で、チャップリンの'16年~'17年のミューチュアル社時代の12編に相当するものですが、チャップリンのミューチュアル社作品12編はあらかじめ計画的にチャップリン作品のヴァリエーションを総ざらいした目録的な初期短編の総決算でした。ロイドの'20年~'21年度作品はミルドレッド・デイヴィスとのロマンス、という恋愛喜劇という軸は'19年末のデイヴィス出演の3作の成功から決まっていても、表現はまちまちでヴァリエーションは場当たり的な、まだ方向性にも技法にも模索が感じられるムラがあります。これもロイド=ローチは1編枚に複数のプランから試行錯誤を重ねていったと思えるので、最初の長編『ロイドの水兵』すら現場でロイドが乗って即興演出を重ねているうちに(つまり、ロイド作品は名義上の監督よりも現場での実際の監督は常にロイドだったということです)、2巻か3巻の中短編のつもりが4巻の長編になったという裏話からもうかがえるので、長編時代に大輪の花を開くロイド作品ですが、中短編の'20年~'21年には作品の出来のムラを承知でも自由奔放な映画作りが見られ、それはロイドを始め製作スタッフにとっても出来るまでわからないようなものであれば、観客にも次に何が出てくるか新作ごとに待ち遠しい、わくわくするような魅力的な連作群だったと思われるのです。
「ロイドの神出鬼没」Get Out And Get Under (監=ハル・ローチ、Hal Roach Production'20.Sep.12)*25min, B/W, Silent : https://youtu.be/v1-kR7o34cA
○電話で恋人(ミルドレッド・デイヴィス)に呼び出され、素人芝居のステージに出演することになった青年(ハロルド・ロイド)。車に乗って家を飛び出すが、途中で車が故障したり警官に追われたり、トラブル続きでなかなか劇場に辿り着けず……。
――このあらすじではとりとめのない印象しか受けませんが、いったいこの映画に設定やキャスティング以外にどれだけプロットやストーリーが用意されていたか疑わしいものです。1枚クレジットには「Harold Lloyd - The Boy / Mildred Davis - The Girl / Plot; (原文略・訳文)男が女に恋をする。あとは成り行き次第」ととぼけたプロット説明があり、最初の字幕は(訳文)「男の辞書には山ほどの言葉があるが、重要な言葉は"女"だけ」と、写真館で肖像写真を撮ってもらっているロイドの姿から始まります。笑顔を作ろうとするたびに鼻先に蠅がとまって眉間にシワが寄り困った顔のロイド。ようやく1枚撮れてロイドは写真師(ロイ・ブルックス)に「今日この娘に求婚するんだ」「その女性なら知ってます。今日の正午挙式するそうですよ」大慌てで車で教会に駆けつけると、もう花嫁(ミルドレッド・デイヴィス)花婿(フレッド・マクファーソン)が式を済ませて教会の階段を祝福を浴びながら下りてくるところで、時計台は正午を指しています。がっくりと肩をおろすロイドは花嫁花婿がオープンカーで去っていくのを見送り、式の客たちが歓声を上げる中で帰ろうと車を発進させますが、消火栓に寄せて違法駐車していたロイドの車は消火栓の鎖を引っ掛けて引き抜いてしまい、見送る列席客たちは噴き出す水でずぶ濡れのてんやわんやになります。……という悪夢で目を覚ましたロイドは電話のベルに気づき、ガールフレンド(デイヴィス)から「今日はお芝居をやる日でしょ!正午までに来てよね」と念を押されます。この素人芝居をやる仲間にデイヴィスをめぐる恋敵のマクファーソンがいるのが芝居準備中の舞台裏に映ります。前回の'20年度の3作がB/W映像そのままだったのに対し、今回の3作では場面ごとに異なる色彩(本作では舞台裏や素人芝居の場面)は美しい染色が再び施されています。観客がロイドの悪夢の原因を理解する間もなく、急いで支度したロイドは板張りの車庫から車を発進させようとしてバックし車庫をぶち抜いて裏庭で家庭菜園の手入れをしている初老の隣人の菜園を滅茶苦茶にしてしまい、隣人ともめた挙げ句ようやく発進しますが、車は間もなくエンコしてしまいます。本作はロイドが故障の絶えない自家用車のT型フォードに不満で廃車にするついでに作った作品だそうで、ロイドは遠慮なく自家用車のエンジンを無茶苦茶に修理しそうと試み、通りすがりの黒人少年(アーニー・モリソン)が興味本位で車に近づき、悪意なくロイドの修理の邪魔につきまといます。万策尽きたかと座りこんだロイドは道端でヘロインを注射し元気を取り戻す男(ウィリアム・ギレスピー)を目撃し、ギレスピーに近づいて煙草をおごるスキにポケットからヘロイン注射器をスリとり、車に戻って車にヘロインを注射します。車は猛然と走り出し、暴走して民家に突っ込みます。ロイドは弁償しますと札入れから民家の前の男に紙幣を渡しますが、男はたまたま居合わせた浮浪者で、あとから出てきた住人に責められます。ロイドは車を捨てて逃げる浮浪者を追跡し、汽車の下に潜りこんだ男を突き止め発車した汽車の底面で猛進する汽車に翻弄されながら、男と金返せの対決になります。ようやく取り返した札束は排気口の突風で吹き飛ばされ、ロイドと男は和解して煙草を分け合います。着いた町は都合良く演劇会がある町で、ロイドはタクシー中で仮面騎士の扮装に着替えて楽屋裏に乗りこみますが、間にあわなかったロイドの代わりに仮面騎士を勤めたマクファーソンといざこざの挙げ句カーテンコールではちゃっかりマクファーソンを出し抜いて舞台に上がり、デイヴィスと並んで挨拶に出て仮面を外し喝采を受け、「今日のあなたは素晴らしかったわ。プロの俳優も勤まるんじゃない?」と勘違いしてメロメロになったデイヴィスを連れて劇場を出たロイドは、デイヴィスの車に二人で乗りこんで去っていき、エンドマーク。
……と、設定とキャストだけ決めておいてあとは本当に「成り行き次第」にコミック・シークエンスを次から次へと足していったような短編ですが、家庭菜園の隣人とのトラブル、黒人少年に邪魔されるT型フォード修理、ヘロインで車が治るのは今や不適切な歴史的なギャグですが、民家への衝突に間違えて弁償金を渡してしまった浮浪者との疾走する汽車の底の台車の骨組みにしがみついての格闘までギャグ満載の見所は全編に渡っており、ミルドレッド・デイヴィスはスラップステック・ギャグ本編の枠として冒頭と結末に出てくる格好です。散漫な失敗作ともスラップステック・コメディの快作とも取れる、どこに見方の焦点を置くか次第で評価が分かれるような作品ですが、全体の明確なヴィジョンに向けて映画を作ったチャップリンやキートンに対してロイドの場合はとにかくキャラクターの魅力で押して行く作り方をしていたのがこの時期の短編でもよくわかり、後年の長編でも作風の円熟から目立ちませんが、ロイド映画の根幹はロイドが打ち出したキャラクターにあったと思い知らされます。
●1月8日(火)
「ロイドの何番々々」Number, Please? (監=フレッド・ニューメイヤー/ハル・ローチ、Hal Roach Production'20.Dec.26)*25min, B/W, Silent : https://youtu.be/pbYPUxNT-qM
○失恋の痛手を癒そうと遊園地にやってきた青年(ハロルド・ロイド)が、別の男(ロイ・ブルックス)とデートしている失恋相手(ミルドレッド・デイヴィス)に出くわす。母親が認めた相手と気球に乗るという彼女の言葉を聞いた彼は、慌てて彼女の母親に電話するが……。
――本作もクレジット・タイトルのキャスティングは1枚「Harold Lloyd - The Boy / Mildred Davis - The Girl / Roy Brooks - The Rival」とそれだけでミルドレッド・デイヴィスのヒロインをめぐるロイドと恋敵ロイ・ブルックスの三角関係の話と簡単明瞭に観客に伝えますが、映画はいきなり「失恋の痛手を癒やそうとする男」と遊園地の中をふらふらしているロイドが映ります。ハンマー遊技機で金梃を叩いて150kgのトップ計測を出して鐘を鳴らし周囲の客に得意がっている巨漢の男が映り、もうろうとしているロイドはまた男が振り下ろしたハンマーと金梃に挟まれてまたもや計測機は150kgを出して鐘が鳴ります。ハンマーから抜け出したロイドはふらふらと凹凸面鏡の列の前に進み、自分の身体が伸びたり縮んだりして映るのでさっき食らった一撃で異変が起こったかとぎょっとしますが、通りかかった客の姿も同じように映るのでようやく凹凸面鏡なのを理解して我に返ります。字幕タイトル「女は変わり身が早い」ミルドレッド・デイヴィスがロイ・ブルックスと腕を組んで歩いているのを見かけて近づきます。デイヴィスは遊園地内の公園に愛犬を放して散歩していたのですが、三人が公園に戻ると愛犬は公園からいなくなっています。ロイドとブルックスは競って犬探しに遊園地内を果てしなく走り回り、ブルックスを出し抜いて犬を見つけたロイドは柵に犬の手綱を結んでデイヴィスとブルックスを呼びますが、柵は実はメリーゴーランドの外枠で、すごい勢いで(ヒッチコックの『見知らぬ乗客』'51のクライマックスのメリーゴーランドのように)回転し始めたメリーゴーランドに犬は飛び乗りブルックスは捕まえようとして巻きこまれ、ロイドもメリーゴーランドに翻弄され……と、ここまでが前半の展開です。映画後半は愛犬探し騒動の済んだ三人が気球乗り場に通りかかり、デイヴィスの叔父さんが気球乗り場の係なのですが「お母さんの許可をもらったら乗っていいよ」。叔父さんがくれたチケットは二人分なのでロイドとブルックスは自分と乗ろうと競り合いますが、デイヴィスは「母が許可してくれた人と乗ります」。そこでブルックスは車で、出遅れたロイドは電話の方が早いと公衆電話から電話をかけようとしますが、混みあう公衆電話ボックスではさまざまな事故やロイドの早とちりのせいで一向に電話がつながりません。ようやくデイヴィスの母から二人のどちらでも乗って良いとブルックスに告げた、と聞いたロイドはブルックスの元に慌てて引き返しますが、待っていたデイヴィスは財布をスリにすられ、スリは警察に追われてとっさにロイドに渡して逃げ、デイヴィスの財布と知らないロイドはやはりその財布がデイヴィスのものとは知らないブルックスと財布の押しつけあいになりながら二人のうちどちらかをスリとにらむ警官たちに追われます。すられた財布に気球のチケットが入っているの、と途中でデイヴィスから聞いた二人は今度は警官の目を避けながら財布の奪い合いになり、ようやくロイドが取り戻してふらふらになってデイヴィスの元に戻りますが、見張っている警官から隠すために後ろ手にチェーンでぶら下げていた財布はデイヴィスに訳を話している最中、たまたま後ろにいた山羊に食べられてしまいます。残ったチェーンだけ見て唖然とするロイド。デイヴィスは怒って、ブルックスの腕にすがって去ってしまいます。立ちすくむロイド、エンドマーク、と、ロイド作品には珍しい失恋エンドで映画は終わります。
ミルドレッド・デイヴィスをヒロインに得て好評を博した'19年末の初の2巻もの「ロイドのブロードウェイ」や「其の日ぐらし」の好調から、'20年度のロイド作品は2か月1編のペースの2巻ものでデイヴィスとのロマンス喜劇を年の前半に、後半にはロマンス喜劇では稀薄だったスラップステック味を強調した傾向に戻りましたが、面白さでは及第点を維持していても後半になるほど破綻が目立つような仕上がりになっています。特に後半3作「眼が廻る」「ロイドの神出鬼没」、そして本作「ロイドの何番々々」で顕著ですが、1巻ものを2編併せて2巻ものにしたような構成が目立つことで、確かにギャグは豊富で多彩ですし展開はたたみかけるように速いのですが、ストーリー上の進展やプロットの妙と関係なくただただギャグが多いので、むしろロマンス喜劇に適度にギャグを散りばめた'19年末や'20年前半の短編の方が充実した観ごたえがある。ロイドはそれが飽き足らなかったから本来のスラップステック指向に戻ってみたのですが、デイヴィスとの恋愛コメディに1巻もの時代のスラップステック路線を融合させるには非常に困難があったということで、翌'21年最後に作り上げた第1長編『ロイドの水兵』以降は恋愛ロマンス・コメディと怒涛のスラップステック喜劇の融合に1作毎に成功していくロイドですが、そのあたりもチャップリンやキートンのような個人的な感覚的天才ではない、チームを率いて努力を重ねていった根気と才能による喜劇人であり、ロイドもまた独自の天才を持った人でしたが、ロイドの天才とはそういうものだったのがうかがえます。
●1月9日(水)
「好機逸すべからず」Now Or Never (監=フレッド・ニューメイヤー/ハル・ローチ、Rolin Film Company'21.Mar.27)*36min, B/W, Silent : https://youtu.be/rdSBdCNHFtk
○子供の頃の約束通り、幼なじみの女性(ミルドレッド・デイヴィス)と再会し喜ぶ青年(ハロルド・ロイド)。故郷を訪ねるため一緒に汽車に乗ることになるが、富豪の屋敷で子守りとして働く彼女は、両親に内緒で幼いお嬢さま(アンナ・メイ・ビルソン)を連れてきていた。しかも運悪くお嬢さまの父親(ウィリアム・ギレスピー)が同じ汽車に乗り込んできたから大変!彼女からお嬢さまを託された青年は、慣れない子供の世話に四苦八苦する。
――プロデューサーのローチは1892年生まれ、主演俳優ロイドは1893年生まれでローチはハル・ローチ・プロダクションを作るために盟友ロイドを誘って独立し、1888年生まれのニューメイヤーを監督に「ロンサム・リューク」シリーズでローチ・プロを有力会社にし、さらにロイドの眼鏡キャラクターでチャップリンに次ぐ位置につけ、興行成績では寡作時代に入ったチャップリンを抜く勢いだったので、有力スタッフのテイラー(1895年生まれ)を脚本にさらなるステップに進もう、という意欲から'21年のロイド作品は始まったと思われます。本作については勝手に幼女の令嬢(今回も「其の日ぐらし」同様、幼女を上手く使っています)を連れ出して約束の再会をしようとしたロイドを社長に会わせまいとした若い乳母のデイヴィスの懸念(とデイヴィスの懇願で社長から隠れて同じ寝台車で幼女の)は取り越し苦労で、隠れ回った挙げ句に社長とデイヴィスの前に落下してきたロイドは、実はデイヴィスに会うためだけではなく、社長に要職を約束され上京してきたのも兼ねていたのがわかる、というハッピーエンドになります。実は同乗していた社長の注意をデイヴィスが引きつける間にロイドがさんざん苦労する無賃乗車逃れや、子守りの苦労のギャグや、車掌に追われて逃げまわるギャグは、この結末のあっけなさでは「それはないだろう」と肩すかしを食う思いにさせられるのでテイラーの脚本はまだ未熟さを感じずにはいられませんし、デイヴィスとロイドをパラレルに描く工夫も伏線に生かされていないので2巻ものをギャグで水増しした域を出ていない。ギャグの豊富さが映画の密度になっていないのが前年のロイド作品の弊害と変わっておらず無念なのですが(チャップリンの「犬の生活」の33分の本格的長編規模の構想力とは比較になりません)、ロイドやローチ、ニューメイヤーやテイラーも1作で大きく飛躍できるとは思っていなかったようにも見え、力作ながら力作感を強調せずさらっと楽しませるのがこのチームの流儀だったのかもしれません。ロイドにはそういう愛嬌があり、ロイド作品というと通常は『ロイドの要心無用』を始めとする長編代表作から入る今日の観客にも感じられる中短編時代のみずみずしさが味わえれば十分楽しめるものです。