歴史は誰かが作ったみたいに良くできているといいますが、大手デクラ社が'20年2月に公開した『蜘蛛 第2部 : ダイヤの船』と『カリガリ博士』がドイツ表現主義映画出現の分かれ目だったなら、大手ウーファ社が'24年11月に公開した『裏町の怪老窟』が表現主義映画の掉尾を飾る作品で、翌12月公開の『最後の人』はすでに表現主義を脱したポスト表現主義的革新がなされているのは出来過ぎな気がするくらいに鮮やかな現象です。今回観直しているドイツ=オーストリアのサイレント映画30選はまだまだ主要作品が落ちていて、エルンスト・ルビッチをまるまる落としてフリッツ・ラングも『不滅の谷』'21以降の絶頂期はあえて入れず、またE・A・デュポンやリヒャルト・オズヴァルト、ドイツ映画空前のヒット作『ヴァリタス』'18-'19三部作を持つヨーエ・マイなどはドイツ映画界ではルビッチ、ラング、ムルナウと同等以上の地位にあったとも思える多作家かつヒット実績を誇るので、代表作の1、2本では真価はわかりません。『愛怨峡』'37や『父ありき』'42だけ観ても溝口健二や小津安二郎の名作ですが、それ1本だけしか知らずに観た印象と、30本あまり溝口や小津の映画を観て観直す『愛怨峡』や『父ありき』では全然違うのと理屈は一緒で、マイやオズヴァルト、デュポンらは代表作以外は本国ローカルにとどまって今日観る機会がほとんどなくなっている監督だけに確たる感想が持てないのです。
'24年末の『裏町の怪老窟』で表現主義映画が最後の輝きを見せ、『最後の人』が表現主義を脱した可能性に満ちた映画であったとすれば、'25年5月公開の『喜びなき街』はすでに以降の主流となり得る、表現主義時代とは一変した作風を鮮明に打ち出した作品でした。半年足らずで起こったこの変化には当然その間に製作・公開された数十本の作品(国外を含めれば数百本)が背景になっているはずですし、そこには『喜びなき街』とは違った方向に向かっていた作品もいくつもあるでしょう。また『喜びなき街』にもドイツ映画が表現主義から無字幕手法の絶対映画まで重ねてきた成果が生かされているので、『裏町の怪老窟』『最後の人』『喜びなき街』だけでこの時期のドイツ映画を概括はできないでしょう。しかしこの3作がサイレント映画史上見逃せないのも間違いなく、そういう歴史的指標たるべく生まれてきたような作品なのも感慨を抱かせられます。
●11月19日(月)
『裏町の怪老窟』Das Wachsfigurenkabinett (監=パウル・レニ、UFA'24.11.13)*88min, B/W, Silent; 日本公開大正14年(1925年)9月(93分版) : https://youtu.be/8HrgRRfA8f4 (English Version)
パウル・レニ(1885-1929)は表現主義映画の頂点と謳われる本作を国際的ヒット作にしてルビッチに次ぎ、ムルナウ、ラングらに先立ってハリウッドに招かれ、『猫とカナリア』'27、『支那の鸚鵡』'27、『笑ふ男』'28と後世に影響力の大きいヒット作を連発するも歯科手術後の敗血症で急逝した、ムルナウ同様早逝が惜しまれる監督で、マイケル・カーティスやウィリアム・ディターレのようにもっとアメリカ映画界で活躍し得た人たちです。特にレニは美術監督としてヨーエ・マイ、エルンスト・ルビッチ、リヒャルト・オズヴァルト、E・A・デュポン、カール・グルーネらの諸作に演出進出前から携わってきたキャリアがあり、ドイツ時代の『裏階段』'21や本作、お化け屋敷映画『猫とカナリア』やコンラート・ファイトの特殊メイクが評判になり『バットマン』のジョーカーの原型になった『笑ふ男』など凝った装置やヴィジュアルに監督自身が美術監督を兼ねられる強みがありました。満を持して製作されたと思われるオムニバス映画形式の本作はエミール・ヤニングス、コンラート・ファイト、ヴェルナー・クラウスにすでに監督進出も果たしていたウィルヘルム・ディーテルレ(後のウィリアム・ディターレ)と、ドイツ映画の顔と言える俳優たちが勢ぞろいし、もっと早くから映画界に進出していたパウル・ヴェゲナーやこの年に渡米していたルビッチともども全員マックス・ラインハルト門下生と思うとドイツ映画の確立に果たしたラインハルト劇団の役割の大きさには今さらながら感嘆します。レニはムルナウ(1888年生)やラング(1890年生)、ルビッチ(1892年生)よりも年長で、ムルナウやラングらより10歳年長のマイやオズヴァルトらドイツ映画創生期からの監督の美術監督から映画人になった世代的には過渡期の人ですが、監督としては古さの方に引っ張られず豊富なキャリアを新しさの方に上手く生かした先取の気性があり、演劇プロデューサーのレオポルド・イェスナーとの共同監督作品の室内劇無字幕映画『裏階段』はイェスナーはプロデュースとしての役割で、カール・マイヤー脚本によるレニの監督作と見ていいでしょう。同作は下層庶民悲劇メロドラマですがサスペンス劇でもあって、サスペンス/スリラー色は本作、『猫とカナリア』『笑ふ男』などレニの成功作に共通した特徴になります。凝った装置ばかりではなくカメラワーク全体に構図やモンタージュの鋭さがあり、視覚的感覚の優れている点ではムルナウやラングと同様ですが、ラングの映画が視覚的密度や厳密さを求めて流露感が乏しくなりがちな面をレニやムルナウは上手く回避する軽やかさがあり、気づかないほどさりげない一人称視点の切り返しでテンポ良く進める語り口の上手さは一見息苦しい『裏階段』にも見られました。本作『裏町の怪老窟(原題『蝋人形館』Das Wachsfigurenkabinett)』はディーテルレを狂言廻し役の詩人に、ディーテルレが即興創作する3体の蝋人形の逸話の形式でヤニングス、ファイト、クラウスが主役の歴史的怪奇譚が描かれるという一種のオムニバス映画で、俳優の顔ぶれと凝りに凝ったセット、撮影でドイツ表現主義映画の掉尾を飾る傑作と評判になったものです。本作は実験的無字幕映画ではなく、馴染みのあるドイツ表現主義映画の評判作だけに日本公開は早かったので、日本の観客も『最後の人』より本作を先に観ることができたことになります。キネマ旬報近着外国映画紹介も現行ヴァージョンとの違いを含んだ興味深いものです。
[ 解説 ] 昨年の暮完成された極めて新しい映画で、舞台装置にはダダイズムが加味され、真のグロテスク映画との評判が高い。監督は新進のパウル・レニ氏で、舞台装置一切は氏の指揮によって成された。主演者は「ダントン」「ファラオの恋」等のエミール・ヤニングス氏、「カリガリ博士」「ジェキル博士とハイド」等出演のコンラート・ファイト氏、「ダントン」「カリガリ博士」「成金」等出演のヴェルナー・クラウス氏等である。無声。
[ あらすじ ] 娯楽園の天幕七号に住む蝋人形作りの老人(ヨーン・ゴットウット)は、自分の作った蝋人形三つに対して面白い話を書いて貰おうと若い作家(ウィルヘルム・ディーテルレ)を呼んだ。訪れた若い作家は空想豊かな詩人であった。彼は与えられた三つの蝋人形に就て三つの物語を書いた。――第一は裏町の無頼漢ジャック(ヴェルナー・クラウス)の恐ろしい話を、第二は邦の国の王様ハールン(エミール・ヤニングス)の可笑しい話を、第三は古代の暴君イワン(コンラート・ファイト)の悲しい話を己が幻想のうちから書き上げたのであった。
――本作は本国初公開時にはエピソード配置はイワン雷帝(コンラート・ファイト)の物語、切り裂きジャック(ヴェルナー・クラウス)の物語、イスラム大帝ラシッド(エミール・ヤニングス)の物語の順だったそうですが、すぐに大帝ラシッドの物語、イワン雷帝の物語、切り裂きジャックの物語の順に再編集されて公開が続けられ、現行ヴァージョンもその通りになっています。ディーテルレ演じる語り手の詩人と蝋人形館の娘(オルガ・ベライエフ)がどのエピソードにも受難の恋人たち役で登場し、切り裂きジャックのエピソードで助かった二人が現実でも結ばれるというエピローグがついているので再編集・現行ヴァージョンは適切な改変なのですが、キネマ旬報の紹介によるとさらに順番が違って切り裂きジャック、ラシッド大帝、イワン雷帝の順のヴァージョンが日本公開されたことになり、本国初公開版とも本国再編集版(現行ヴァージョン)とも違っていたことになります。本作は蝋人形館の開館に当たってコピーライター募集の貼り紙を見て蝋人形師(ヨーン・ゴットウット)の蝋人形館にやってきた詩人(ヴィルヘルム・ディーテルレ)が、4体の蝋人形を見せられて蝋人形が由来する三つの作り話を蝋人形師と娘に即興創作して語る、という形式で、実はディーテルレ自身をモデルにした盗賊の蝋人形も冒頭出てきて4話のオムニバスにする予定だったそうですが予算と納期の不足で3話になり、またドラマ構成が凝っているラシッド大帝とイワン雷帝編に対して、切り裂きジャック編は最後に撮られたため予算不足と時間不足からオーヴァーラップ映像の多用で霧のロンドンをディーテルレとヒロインが切り裂きジャックに追いかけられて逃げ回るつけ足し風の小品になっており、助かった二人が空想から現実に帰って恋に落ちているのを自覚するエピローグのハッピーエンドに着地するための中継ぎ的なエピソードといった感じがします。ラシッド大帝編は艶笑譚、イワン雷帝編は陰惨なムードですが、枠物語形式の3エピソードのオムニバス長編、各エピソードとも同一の俳優カップルが受難に遭う構成は、若いカップルが三つの時代に転生させられ死神の試練に遭うラングの『死滅の谷』'21の継承ですが、『死滅の谷』の無常で悲劇的なムードに較べて本作はもっと遊びのある作品で、シナリオのヘンリック・ガレーンは『ゴーレム』'20や『吸血鬼ノスフェラトゥ』'22の脚本、『プラーグの大学生』'26の監督と怪奇趣味で感覚はドライな割には監督ではラング、脚本家ではマイヤーのような凄惨さや悲劇性に傾かない娯楽性への配慮があり、また本作は表現主義映画最後の輝きという位置づけ以上にコメディ・ホラー映画のジャンルを切り開いた作品とも目せます。それにレニが自覚的であったのはハリウッド進出後の作品もホラー映画、グロテスク・スリラー映画の体裁のコメディ作品で成功を収めたことでもうかがえ、そこにマイヤー脚本のシリアスな悲劇映画『裏階段』からの変貌があります。
●11月20日(火)
『最後の人』Der letzte Mann (監=F・W・ムルナウ、UFA'24.12.23)*101min, B/W, Silent; 日本公開大正15年(1926年)4月1日(90分版)キネマ旬報ベストテン外国映画2位 : https://youtu.be/W7yiZM-SlwI
前書きでも触れた通りに『裏町の怪老窟』の翌月に本作『最後の人』が公開されたのは映画史上のもっともダイナミックな展開のひとつと言ってよく、本作の登場には同時代のドイツ監督が全員ひっくり返ることになります。本作の成功からハリウッドに招かれたムルナウの『サンライズ』'27は第1回アカデミー賞最優秀作品賞(芸術映画部門)に輝き、アメリカ映画界は『サンライズ』の撮影技法に追いつき追い越せで躍起になりますが、内容的にはリアリズム映画といえる地味な題材の『最後の人』は脚本こそあれコンテなしの即興演出・撮影によって、ループ・ピックが『除夜の悲劇』で導入していた手持ちカメラ撮影をカール・フロイントによって一人称ショットにも用い、さまざまな視点の交錯する多彩なモンタージュがリアリズム映画でもあれば主観的な幻覚映画にもなるような多義的な映像の流れを生み、映画末尾のエピローグ的シークエンス前にただ1枚のエピローグを示す字幕が使われる以外はクレジット・タイトル以外の字幕は一切ない徹底無字幕映画でもあります。話自体は豪華ホテルのドアマンが老いたためにトイレの番人に格下げされ、自慢の制服を脱がされて絶望しそれが最後の勤務日になるまでの二日間の出来事を描いた単純化された話であり、同じマイヤー脚本の室内劇悲劇無字幕映画三部作『破片』『裏階段』『除夜の悲劇』、マイヤー原案の無字幕映画『蠱惑の街』よりもさらにドラマ性の稀薄な内容です。老人の住むアパートの隣の叔母と結婚式を上げたばかりの新婚の姪夫婦、さらに意地の悪いアパートの隣人の主婦たちの陰口の伝播がリアリスティックに描かれるのはこれまでのマイヤー脚本にない俗っぽさと風刺性で、それが映画を低俗にするのてはなく現実的な主人公の落魄を強調し、庶民生活の模様への等身大の位置からの観察の広さになっているのもそれまでのマイヤー関連作にはなかった平易で誇張のない内容につながっています。本作は公開されるやドイツ本国でもアメリカ映画の最新ヒット作に匹敵する国際性をそなえた画期的名作と即時に古典視された作品になり、ムルナウは企画が進んでいた『タルチュッフ』'26、『ファウスト』'26完成後にハリウッドに招かれます。やや遅れた日本公開でも本作は大絶賛を博し、キネマ旬報ベストテンでは1位がチャップリン『黄金狂時代』'25だったため2位でしたが対抗馬が『黄金狂時代』なら事実上の1位タイも同然でしょう。本作は実験的無字幕映画、映像技法の抜本的改革(ほとんどグリフィス以来の革新)を抜きにして市井の庶民の人情映画としても観られるので、キネマ旬報近着外国映画紹介でもあらすじだけ抜き出せば普通の人情映画になるのです。引いておきましょう。
[ 解説 ]「カリガリ博士」「ジルフェスター」等の作者カール・マイヤー氏が書卸した脚本により「ファントム」「ジェキル博士とハイド」等と同じくF・W・ムルナウ氏が監督したもので、主役は「ピーター大帝」「快傑ダントン」等主演のエミール・ヤニンクス氏でマリー・デルシャフト嬢、マックス・ヒルラー氏、ゲオルク・ヨーン氏等が助演している。無声。
[ あらすじ ] 大都会ベルリン。大通りに面した宮殿の様に立派なホテルの豪壮な玄関に年老いた門番(エミール・ヤニングス)が立っていた。彼は金ピカの制服を着て得意然としていた。彼はがっしりとした大男で軍人らしい頬髭をはやしていた。将軍にも見まごう自身の姿に誇りを感じ、金モールの制服を何よりも愛した。こうしてこの姿で裏町の我家に帰って来る時程幸福なことはなかった。悪戯小僧達が羨望の眼を以て彼を仰ぎ見るから。しかし重い荷物を持ちあぐねている姿を支配人(ハンス・ウンターキルヒャー)に見咎められて、地下室のトイレ係に左遷された。彼は何よりも金モールの制服を着ないで家に帰らねばならないのが悲しかった。だが娘(マリー・デルシャフト)の結婚式にはどうしても制服で出席せんと思い悩んだ末、とうとう制服を盗むに至る。やがて全ての事実が明るみとなり、裏町の人々や娘からも嘲笑の的にされる。彼は苦しみ嘆き、残すはひっそりとした死を待つのみであった。そこへ運命はこの老人に思いもかけない遺産を授けた。彼は一躍して門番どころか富豪として立派な服を着ることが出来た。かつて自分を嘲笑した支配人の驚く顔を見ながら、シャンパンの盃を傾け、呵々大笑するのであった。
――これも日本公開版は姻戚関係を変えてあったようで、現行ヴァージョンでは結婚式を上げるのは叔母(エミリー・クルツ)の娘の姪で娘ではなく、また姪の新夫(マックス・ヒルラー)や叔母は門番からトイレ番に降格された主人公に冷淡ですが、姪(マリー・デルシャフト)はヒロインらしく優しく涙にくれながら主人公の境遇をいたわります。主人公は夜中のトイレ番にうずくまり、夜警(ゲオルク・ヨーン)がうずくまる主人公にコートをかけていたわりますが、主人公はうずくまったままの場面で一旦映画は終わります。「現実の人生ならこれで終わるが、脚本家はあえて別の結末をつけ加えた」と説明字幕が入り、主人公が突然ホテルのトイレで急死した大富豪の遺産相続人になってからが描かれます。大富豪は「最後を看取った者」(本作のタイトル「最後の人」の由来。英題では本作はもっとくだけて『The Last Laugh』となっています)を全遺産の相続人としていたため主人公が新聞の大見出しを飾る時の人の大富豪になり、かつて働いていたホテルで贅沢三昧の晩餐を友人となった夜警と取り、トイレ係の老給仕をねぎらって自分の豪華送迎車に乗せるおとぎ話のハッピーエンドですが、これはあくまで蛇足の夢物語と断り書きがされているから嫌みなく観られるので、財力=高い社会的地位=強者が弱者を見下すのが人間社会とする点ではドラマ本編と観点は変わりなく、仮に主人公に金銭運の僥倖が舞いこんだらというだけの話で夢物語でなければ低俗きわまりない結末です。しかしその低俗なハッピーエンドも夢物語という前提だからこそコメディの範疇に収まるので、落魄していく主人公を不安感をあおる映像手法で伝えていたカメラはこのエピローグではどっしり悠然とした映像でご満悦の主人公を映します。その対照もこの本来なら蛇足のエピローグでは効いていて、これを「これで終えては身も蓋もないので、あえて蛇足のハッピーエンドをつければ」とはっきり明示した字幕タイトルで区切った意味が生きてきます。完全に無字幕映画にして、トイレにうずくまった主人公のカットが溶暗し、次にいきなり数日後の新聞の大見出し「新億万長者生まれる!」で続けることも前記の理屈(財力=社会的強者という前提)からはできたでしょう。そういう意味では本作は体制的価値観温存下の人情コメディで、映画手法の革新性に対して内容は他愛ないとも言えますが、それが不足感になっている映画ではなくこの小さな題材だからこそ成功した名作です。また本作の成功があれば無字幕映画の実験もこれ以上の屋上屋を重ねる必然はもはやなくなったことでも表現主義~無字幕映画のアヴァンギャルド手法に一度にきりをつけた作品と言えます(ムルナウ自身は企画が進んでいた翌'26年の2作『タルチュッフ』『ファウスト』まで表現主義時代の構想を作品化しますが)。
●11月21日(水)
『喜びなき街』Die freudlose Gasse (監=G・W・パプスト、Sofar-Film'25.5.18)*151min, B/W, Silent; 日本公開昭和3年(1928年)9月(80分版) : https://youtu.be/JR3MsxkOrnk : https://archive.org/details/TheJoylessStreet1926
年代順にドイツの映画を追ってきて本作を観るといきなり質感の違いに愕然とします。『最後の人』も画期的な映像革新では突出した作品でしたし、後のサウンド・トーキー映画の技法も左右した影響力を持ちますが、『最後の人』自体はサイレント作品としての完成の極みを感じせるものでした。『喜びなき街』では、後述の理由もあって手放しにとは言いませんが、もう映画はサウンドさえ入ればトーキーと変わりがない感触になっています。本作はデンマーク映画界のスター女優アスタ・ニールセン(1881-1972)、スウェーデン映画界でマウリス・スティッツレル監督作品の主演女優を勤めていたグレタ・ガルボ(1900-1995)を対照的な運命をたどる二人の主演ヒロインに迎え、ポスト表現主義のスタイルとして芸術一般に広がっていた新即物主義の映画としてオーストリア=ハンガリー帝国出身監督G・W・パプスト(1885-1967)が手がけたもので、パプストは演劇畑でのキャリアが長かったので映画監督は'23年に長編第1作『財宝』、'24年に第2作と映画監督としては遅れ、その分表現主義には染まらずリアリズム映画の革新から映画を発想していたので、北欧映画との親近性はベルリン中心のドイツ映画界よりも強かったと思われます。演劇出身だけにデビュー作から上映時にはオリジナル音楽も欠かさなかった先進性もあり、ウィーンは美術や演劇のみならずベルリンより遥かに進んだ音楽都市で、パプストは'23年のデビュー作からシェーンベルク門下生に委託した無調性12音技法ライトモチーフ音楽を採用していたそうですから、監督デビューは遅くても芸術的素養は十分に蓄積されていた点で新しいドイツ映画の潮流に貢献しました。第3作『喜びなき街』で初の国際的ヒットをものしたパプストは'29年の第8、9作『パンドラの箱』『淪落の女の日記』のサイレント最後の2作の頃には巨匠と目されており、またサイレント時代に業績を残した監督では'31年のトーキー第1作~3作の三部作『西部戦線一九一八年』『三文オペラ』『炭坑』、'33年の『ドン・キホーテ』『上から下まで』とトーキー時代にも成功し本格的開戦戦前にはフランス映画界にも招かれた有数の監督のひとりでしたが、ナチス政権成立後の'33年以降は亡命はしましたが本来の大胆な作風がかなわず抑圧された環境に陥り、大戦後はドイツでの製作状況の逼迫からイタリアに渡り'56年まで作品を残した波乱に富むキャリアをたどった監督でした。安定した評価を得ているのは'25年の『喜びなき街』から'33年の『上から下まで』の間ですが、パプストのような監督こそ全キャリアを展望した作品集成と詳細な作品解説を含む評伝が望まれます。キャストを並べたポスターからもうかがえるように本作は国際キャストを配した大作であり、レストア版DVDで観られる通りオリジナルは151分と2時間半におよぶ大規模な映画ですが、グレタ・ガルボが渡米して大ブレイクした『肉体と悪魔』'27の封切りに次いで前年に用意されていた63分の再編集版『The Joyless Street』がアメリカ公開されて大ヒットしたので、日本初公開は80分ヴァージョンだったようですがホームヴィデオ時代にリリースされた日本版映像ソフトはアメリカ版の63分版になっていました。パブリック・ドメイン化しているのはリンクにも引いた'27年の再編集アメリカ公開版なので、全貌を示すレストア版の151分版を観るには高価で入手しづらい輸入ソフトに頼らねばなりません。おそらくヨーロッパ諸国でも日本公開版同様に千差万別の短縮版が公開されてきたと思われ、また二人のヒロインでは本来アスタ・ニールセンがガルボより格上にクレジットされていたように、151分版を観ると本作は非常に平行プロットの多い、巨視的に'20年代半ばのウィーン社会を描いた大都会映画を意図したものなのが感じられ、複数の境遇の異なる人物たちの平行するドラマから大都市全体の時代相を描き出す指向は'20年代のモダニズム文学に国際的に見られた方向でした。そうした面から見ると、本作は部分において成功し全体にはまだ十分には意図の実現をなし得なかった映画と見られます。再編集アメリカ版はオリジナル全長版の2/5(40パーセント)と本当に短縮版なのですが、グレタ・ガルボをヒロインとした部分のみを集めて平行プロットは割愛・再編集すると、サイレント時代の小品メロドラマとしてはごく標準的な63分のそれなりにまとまりの良く首尾一貫した無駄のない完成度の高い小品にもなってしまうのは平行プロットだけで独立性の高い構成の映画なのを証してしまっているので、アスタ・ニールセンがヒロインの破滅的メロドラマやヴェルナー・クラウスがリンチ処刑されるにいたる市民暴動劇は本質的にはガルボのパートと結びつく必然を持たないことでもあります。ニールセンの平行プロットが割愛されたのは二人のヒロインの対照劇にしてもガルボ映画としての再編集にはあまり効果的でなく、嫉妬から情痴殺人を犯す娼婦のヒロインというニールセンの役柄自体がアメリカ版では割愛された理由でしょうし、強欲な肉屋のヴェルナー・クラウスが庶民の憎悪の的になりリンチ処刑される平行プロットがアメリカ版では割愛されたのもあまりにアナーキズム的で勧善懲悪の域を越えているからでしょう。日本公開版はどの程度原型を留めていたかわかりませんが、初公開時のキネマ旬報近着外国映画紹介ではあるいはプロモート資料に依るものか、ほぼ全長版のプロットを伝えたものが掲載されています。
[ 解説 ] ヒューゴー・ベタウァー氏作の小説からウィリー・ハース氏が脚色したものをG・W・パブスト氏が監督したもので「裏町の怪老窟」等出演のヴェルナー・クラウス氏、アスタ・ニールセン嬢及び新進のスウェーデン女優グレタ・ガルボ嬢が競演し、ヘンリー・スチュアート氏、グレゴリー・クマラ氏、アグネス・エステルハツィ伯爵夫人、アイナル・ハンソン氏、タマラ嬢、ロバート・ガリソン氏等助演者の顔振れは素晴らしいオール・スター・キャストである。無声。
[ あらすじ ] 大戦に敗れたドイツ・オーストリアの国々が悲惨な運命の試練に喘いでいた頃、小巴里と誇ったウィーンの都も今は蒼ざめていた。貧富二階級に分れてしまって、貧者の窮乏は極まった。肉屋(ヴェルナー・クラウス)には連日長い列ができているが、強欲な店主は富裕層に高額で売りつけるため、貧乏人には肉を売らない。その列の中にグレーテ(グレタ・ガルボ)とマリア(アスタ・ニールセン)という二人の美しい娘の姿があった。グレーテはタイピストとして働きながら、官吏を退職した父(ヤロ・フユルト)と幼い妹(ローニ・ネスト)を養っていたが、上司のセクハラに耐え切れず会社を辞めてしまった。父は退職金を相場につぎ込み一山当てようとしたが、株の大暴落によって全財産を失った。一家は自宅を下宿屋とし、米国士官デーヴィー(アイナル・ハンソン)に部屋を貸すが、妹が彼の部屋から缶詰を盗んだとことが発覚し、結局デーヴィーは部屋を出ていく。生活に窮したグレーテには、高級サロンで身を売るしか残される道はなかった。一方マリアにはエゴン(ヘンリー・スチュアート)という恋人がいたが、不実な彼には他にも複数人の恋人がいた。エゴンに金を貢いでいた彼女は、ついに高級サロンに身売りする決心をする。彼女がパトロンと風評の悪いホテルへ行った夜、隣室でエゴンが他の女と密会しているのを見てしまう。エゴンが帰った後、嫉妬で逆上したマリアは、相手の女を殺した上に、犯人はエゴンだと証言する。しかし我に返ったマリアが自首したため、エゴンの冤罪は晴れた。グレーテが初めてサロンに出た夜、たまたま居合わせたデーヴィーに身持ちの悪い女と誤解されてしまう。危うく魔の手に陥るすんでのところで誤解がとけて彼女はデーヴィーによって救い出された。ついに貧しい民衆は蜂起し、金持ちが集う高級サロンを襲った。混乱の中、貧しい女達を弄んでいた金持ちの肉屋の主人は血みどろの死体となっていた。
――この紹介は「上司のセクハラに耐え切れず」などデータベース化された際に表現を現代風にしたと思われる箇所もありますが(ガルボを秘書に雇った管理職男は個室のオフィスで二人きりになるといきなり襲ってきます)、ニールセンとクラウスの平行プロットも一応押さえています。他に婦人服店経営からキャバレー、娼婦斡旋にまで事業を広げる成り上がりのマダムのグライファー夫人(ヴァレスカ・ゲルト)がガルボとニールセン両方の運命を左右する夜の世界の女帝役の重要人物ですし、全長版はガルボの父が宮中顧問官の地位から没落していく過程がまず前半にありますが短縮版ではすでに没落した時点から始まっているので、この映画の意図が一言で言えば大不況に見舞われた大都会の倫理的荒廃を描いた映画なのはガルボの父親役のルムフォルト宮中顧問官、肉屋のヴェルナー・クラウス、夜の世界を仕切る女将のグライファー夫人役のヴァレスカ・ゲルトといった人物が重要で、顧問官をカモにした投機詐欺師の悪徳銀行家ローゼノフ(カール・エトリンガー)の法律顧問ライト博士(アレクサンダー・ムルスキー)の妻リア(タマラ・トルストイ)がグライファー夫人のナイトクラブで浮き名を流した末にラヴホテルで殺される、銀行員で夜の街ではホスト紛いの人物エゴンが容疑者として逮捕されるが、真犯人は以前エゴンの情婦で今はグライファー夫人の娼婦の一人になっていたマリア(アスタ・ニールセン)で、男への報復が動機だった、というのがもう一人のヒロイン・マリアの平行プロットです。一方、食いつめて職を探すがロクな職がなく、家を下宿屋にして入居者のアメリカ人青年将校と恋仲になるが、妹が缶詰を盗んだトラブルからプライドの高い父と民間への下宿はもとより反対の上官によって青年将校は衛兵所に戻り、ついにグライファー夫人を頼らねばならなくなったヒロインはキャバレーの初日に待機中に仲間に誘われて偶然寄った青年将校にそんな女だったのかと幻滅を露わにされる。そこにヒロインの父がヒロインの置き手紙を持って駆けつけ迎えにきて、手紙を見た将校は誤解を解いてヒロインに詫びて、一同はヒロインを連れてキャバレーを去っていくのがガルボ編のヒロインのプロットです。さらに庶民の怒りを買い続けたヴェルナー・クラウスの肉屋が庶民たちの暴動でリンチ処刑に遭う結末まであるとなると、投機詐欺師の悪徳銀行家ローゼノフ編(ガルボの父の宮廷顧問官の没落、グライファー夫人のナイトクラブを舞台にしたライト夫人リアらの富裕階級の頽廃のどちらにも係ります)とクラウス編、もう一人のヒロインのニールセン編のプロットがガルボ編のプロットに絞った再編集版では映画の2/5の63分に綺麗に収まってしまうので、全長版の2時間半版はもっと混沌とした内容に不況頽廃大都会映画の意図が盛りこみすぎながらもあって、全体がそういう映画だからこそ短縮版でも本作はリアリズム映画の感触は伝わってくるので、最初から63分のガルボ映画として作られていたら重心のこれほど低くない、明朗なメロドラマ作品になっていたでしょう。また短縮編集されたアメリカ公開ヴァージョンではドイツ映画の演出法がアメリカのリアリズム映画に結果的には映像文体の面で近似したものになっているのがわかり、いち早く渡米していた北欧映画監督の一群も見落とせませんが、政治状況的要因が大きいにせよ後にハリウッド映画界に移ったヨーロッパ映画人はドイツ=オーストリア出身者の比率がずば抜けて高かったのも本作のような作品を観ると腑に落ちる気がします。
'24年末の『裏町の怪老窟』で表現主義映画が最後の輝きを見せ、『最後の人』が表現主義を脱した可能性に満ちた映画であったとすれば、'25年5月公開の『喜びなき街』はすでに以降の主流となり得る、表現主義時代とは一変した作風を鮮明に打ち出した作品でした。半年足らずで起こったこの変化には当然その間に製作・公開された数十本の作品(国外を含めれば数百本)が背景になっているはずですし、そこには『喜びなき街』とは違った方向に向かっていた作品もいくつもあるでしょう。また『喜びなき街』にもドイツ映画が表現主義から無字幕手法の絶対映画まで重ねてきた成果が生かされているので、『裏町の怪老窟』『最後の人』『喜びなき街』だけでこの時期のドイツ映画を概括はできないでしょう。しかしこの3作がサイレント映画史上見逃せないのも間違いなく、そういう歴史的指標たるべく生まれてきたような作品なのも感慨を抱かせられます。
●11月19日(月)
『裏町の怪老窟』Das Wachsfigurenkabinett (監=パウル・レニ、UFA'24.11.13)*88min, B/W, Silent; 日本公開大正14年(1925年)9月(93分版) : https://youtu.be/8HrgRRfA8f4 (English Version)
パウル・レニ(1885-1929)は表現主義映画の頂点と謳われる本作を国際的ヒット作にしてルビッチに次ぎ、ムルナウ、ラングらに先立ってハリウッドに招かれ、『猫とカナリア』'27、『支那の鸚鵡』'27、『笑ふ男』'28と後世に影響力の大きいヒット作を連発するも歯科手術後の敗血症で急逝した、ムルナウ同様早逝が惜しまれる監督で、マイケル・カーティスやウィリアム・ディターレのようにもっとアメリカ映画界で活躍し得た人たちです。特にレニは美術監督としてヨーエ・マイ、エルンスト・ルビッチ、リヒャルト・オズヴァルト、E・A・デュポン、カール・グルーネらの諸作に演出進出前から携わってきたキャリアがあり、ドイツ時代の『裏階段』'21や本作、お化け屋敷映画『猫とカナリア』やコンラート・ファイトの特殊メイクが評判になり『バットマン』のジョーカーの原型になった『笑ふ男』など凝った装置やヴィジュアルに監督自身が美術監督を兼ねられる強みがありました。満を持して製作されたと思われるオムニバス映画形式の本作はエミール・ヤニングス、コンラート・ファイト、ヴェルナー・クラウスにすでに監督進出も果たしていたウィルヘルム・ディーテルレ(後のウィリアム・ディターレ)と、ドイツ映画の顔と言える俳優たちが勢ぞろいし、もっと早くから映画界に進出していたパウル・ヴェゲナーやこの年に渡米していたルビッチともども全員マックス・ラインハルト門下生と思うとドイツ映画の確立に果たしたラインハルト劇団の役割の大きさには今さらながら感嘆します。レニはムルナウ(1888年生)やラング(1890年生)、ルビッチ(1892年生)よりも年長で、ムルナウやラングらより10歳年長のマイやオズヴァルトらドイツ映画創生期からの監督の美術監督から映画人になった世代的には過渡期の人ですが、監督としては古さの方に引っ張られず豊富なキャリアを新しさの方に上手く生かした先取の気性があり、演劇プロデューサーのレオポルド・イェスナーとの共同監督作品の室内劇無字幕映画『裏階段』はイェスナーはプロデュースとしての役割で、カール・マイヤー脚本によるレニの監督作と見ていいでしょう。同作は下層庶民悲劇メロドラマですがサスペンス劇でもあって、サスペンス/スリラー色は本作、『猫とカナリア』『笑ふ男』などレニの成功作に共通した特徴になります。凝った装置ばかりではなくカメラワーク全体に構図やモンタージュの鋭さがあり、視覚的感覚の優れている点ではムルナウやラングと同様ですが、ラングの映画が視覚的密度や厳密さを求めて流露感が乏しくなりがちな面をレニやムルナウは上手く回避する軽やかさがあり、気づかないほどさりげない一人称視点の切り返しでテンポ良く進める語り口の上手さは一見息苦しい『裏階段』にも見られました。本作『裏町の怪老窟(原題『蝋人形館』Das Wachsfigurenkabinett)』はディーテルレを狂言廻し役の詩人に、ディーテルレが即興創作する3体の蝋人形の逸話の形式でヤニングス、ファイト、クラウスが主役の歴史的怪奇譚が描かれるという一種のオムニバス映画で、俳優の顔ぶれと凝りに凝ったセット、撮影でドイツ表現主義映画の掉尾を飾る傑作と評判になったものです。本作は実験的無字幕映画ではなく、馴染みのあるドイツ表現主義映画の評判作だけに日本公開は早かったので、日本の観客も『最後の人』より本作を先に観ることができたことになります。キネマ旬報近着外国映画紹介も現行ヴァージョンとの違いを含んだ興味深いものです。
[ 解説 ] 昨年の暮完成された極めて新しい映画で、舞台装置にはダダイズムが加味され、真のグロテスク映画との評判が高い。監督は新進のパウル・レニ氏で、舞台装置一切は氏の指揮によって成された。主演者は「ダントン」「ファラオの恋」等のエミール・ヤニングス氏、「カリガリ博士」「ジェキル博士とハイド」等出演のコンラート・ファイト氏、「ダントン」「カリガリ博士」「成金」等出演のヴェルナー・クラウス氏等である。無声。
[ あらすじ ] 娯楽園の天幕七号に住む蝋人形作りの老人(ヨーン・ゴットウット)は、自分の作った蝋人形三つに対して面白い話を書いて貰おうと若い作家(ウィルヘルム・ディーテルレ)を呼んだ。訪れた若い作家は空想豊かな詩人であった。彼は与えられた三つの蝋人形に就て三つの物語を書いた。――第一は裏町の無頼漢ジャック(ヴェルナー・クラウス)の恐ろしい話を、第二は邦の国の王様ハールン(エミール・ヤニングス)の可笑しい話を、第三は古代の暴君イワン(コンラート・ファイト)の悲しい話を己が幻想のうちから書き上げたのであった。
――本作は本国初公開時にはエピソード配置はイワン雷帝(コンラート・ファイト)の物語、切り裂きジャック(ヴェルナー・クラウス)の物語、イスラム大帝ラシッド(エミール・ヤニングス)の物語の順だったそうですが、すぐに大帝ラシッドの物語、イワン雷帝の物語、切り裂きジャックの物語の順に再編集されて公開が続けられ、現行ヴァージョンもその通りになっています。ディーテルレ演じる語り手の詩人と蝋人形館の娘(オルガ・ベライエフ)がどのエピソードにも受難の恋人たち役で登場し、切り裂きジャックのエピソードで助かった二人が現実でも結ばれるというエピローグがついているので再編集・現行ヴァージョンは適切な改変なのですが、キネマ旬報の紹介によるとさらに順番が違って切り裂きジャック、ラシッド大帝、イワン雷帝の順のヴァージョンが日本公開されたことになり、本国初公開版とも本国再編集版(現行ヴァージョン)とも違っていたことになります。本作は蝋人形館の開館に当たってコピーライター募集の貼り紙を見て蝋人形師(ヨーン・ゴットウット)の蝋人形館にやってきた詩人(ヴィルヘルム・ディーテルレ)が、4体の蝋人形を見せられて蝋人形が由来する三つの作り話を蝋人形師と娘に即興創作して語る、という形式で、実はディーテルレ自身をモデルにした盗賊の蝋人形も冒頭出てきて4話のオムニバスにする予定だったそうですが予算と納期の不足で3話になり、またドラマ構成が凝っているラシッド大帝とイワン雷帝編に対して、切り裂きジャック編は最後に撮られたため予算不足と時間不足からオーヴァーラップ映像の多用で霧のロンドンをディーテルレとヒロインが切り裂きジャックに追いかけられて逃げ回るつけ足し風の小品になっており、助かった二人が空想から現実に帰って恋に落ちているのを自覚するエピローグのハッピーエンドに着地するための中継ぎ的なエピソードといった感じがします。ラシッド大帝編は艶笑譚、イワン雷帝編は陰惨なムードですが、枠物語形式の3エピソードのオムニバス長編、各エピソードとも同一の俳優カップルが受難に遭う構成は、若いカップルが三つの時代に転生させられ死神の試練に遭うラングの『死滅の谷』'21の継承ですが、『死滅の谷』の無常で悲劇的なムードに較べて本作はもっと遊びのある作品で、シナリオのヘンリック・ガレーンは『ゴーレム』'20や『吸血鬼ノスフェラトゥ』'22の脚本、『プラーグの大学生』'26の監督と怪奇趣味で感覚はドライな割には監督ではラング、脚本家ではマイヤーのような凄惨さや悲劇性に傾かない娯楽性への配慮があり、また本作は表現主義映画最後の輝きという位置づけ以上にコメディ・ホラー映画のジャンルを切り開いた作品とも目せます。それにレニが自覚的であったのはハリウッド進出後の作品もホラー映画、グロテスク・スリラー映画の体裁のコメディ作品で成功を収めたことでもうかがえ、そこにマイヤー脚本のシリアスな悲劇映画『裏階段』からの変貌があります。
●11月20日(火)
『最後の人』Der letzte Mann (監=F・W・ムルナウ、UFA'24.12.23)*101min, B/W, Silent; 日本公開大正15年(1926年)4月1日(90分版)キネマ旬報ベストテン外国映画2位 : https://youtu.be/W7yiZM-SlwI
前書きでも触れた通りに『裏町の怪老窟』の翌月に本作『最後の人』が公開されたのは映画史上のもっともダイナミックな展開のひとつと言ってよく、本作の登場には同時代のドイツ監督が全員ひっくり返ることになります。本作の成功からハリウッドに招かれたムルナウの『サンライズ』'27は第1回アカデミー賞最優秀作品賞(芸術映画部門)に輝き、アメリカ映画界は『サンライズ』の撮影技法に追いつき追い越せで躍起になりますが、内容的にはリアリズム映画といえる地味な題材の『最後の人』は脚本こそあれコンテなしの即興演出・撮影によって、ループ・ピックが『除夜の悲劇』で導入していた手持ちカメラ撮影をカール・フロイントによって一人称ショットにも用い、さまざまな視点の交錯する多彩なモンタージュがリアリズム映画でもあれば主観的な幻覚映画にもなるような多義的な映像の流れを生み、映画末尾のエピローグ的シークエンス前にただ1枚のエピローグを示す字幕が使われる以外はクレジット・タイトル以外の字幕は一切ない徹底無字幕映画でもあります。話自体は豪華ホテルのドアマンが老いたためにトイレの番人に格下げされ、自慢の制服を脱がされて絶望しそれが最後の勤務日になるまでの二日間の出来事を描いた単純化された話であり、同じマイヤー脚本の室内劇悲劇無字幕映画三部作『破片』『裏階段』『除夜の悲劇』、マイヤー原案の無字幕映画『蠱惑の街』よりもさらにドラマ性の稀薄な内容です。老人の住むアパートの隣の叔母と結婚式を上げたばかりの新婚の姪夫婦、さらに意地の悪いアパートの隣人の主婦たちの陰口の伝播がリアリスティックに描かれるのはこれまでのマイヤー脚本にない俗っぽさと風刺性で、それが映画を低俗にするのてはなく現実的な主人公の落魄を強調し、庶民生活の模様への等身大の位置からの観察の広さになっているのもそれまでのマイヤー関連作にはなかった平易で誇張のない内容につながっています。本作は公開されるやドイツ本国でもアメリカ映画の最新ヒット作に匹敵する国際性をそなえた画期的名作と即時に古典視された作品になり、ムルナウは企画が進んでいた『タルチュッフ』'26、『ファウスト』'26完成後にハリウッドに招かれます。やや遅れた日本公開でも本作は大絶賛を博し、キネマ旬報ベストテンでは1位がチャップリン『黄金狂時代』'25だったため2位でしたが対抗馬が『黄金狂時代』なら事実上の1位タイも同然でしょう。本作は実験的無字幕映画、映像技法の抜本的改革(ほとんどグリフィス以来の革新)を抜きにして市井の庶民の人情映画としても観られるので、キネマ旬報近着外国映画紹介でもあらすじだけ抜き出せば普通の人情映画になるのです。引いておきましょう。
[ 解説 ]「カリガリ博士」「ジルフェスター」等の作者カール・マイヤー氏が書卸した脚本により「ファントム」「ジェキル博士とハイド」等と同じくF・W・ムルナウ氏が監督したもので、主役は「ピーター大帝」「快傑ダントン」等主演のエミール・ヤニンクス氏でマリー・デルシャフト嬢、マックス・ヒルラー氏、ゲオルク・ヨーン氏等が助演している。無声。
[ あらすじ ] 大都会ベルリン。大通りに面した宮殿の様に立派なホテルの豪壮な玄関に年老いた門番(エミール・ヤニングス)が立っていた。彼は金ピカの制服を着て得意然としていた。彼はがっしりとした大男で軍人らしい頬髭をはやしていた。将軍にも見まごう自身の姿に誇りを感じ、金モールの制服を何よりも愛した。こうしてこの姿で裏町の我家に帰って来る時程幸福なことはなかった。悪戯小僧達が羨望の眼を以て彼を仰ぎ見るから。しかし重い荷物を持ちあぐねている姿を支配人(ハンス・ウンターキルヒャー)に見咎められて、地下室のトイレ係に左遷された。彼は何よりも金モールの制服を着ないで家に帰らねばならないのが悲しかった。だが娘(マリー・デルシャフト)の結婚式にはどうしても制服で出席せんと思い悩んだ末、とうとう制服を盗むに至る。やがて全ての事実が明るみとなり、裏町の人々や娘からも嘲笑の的にされる。彼は苦しみ嘆き、残すはひっそりとした死を待つのみであった。そこへ運命はこの老人に思いもかけない遺産を授けた。彼は一躍して門番どころか富豪として立派な服を着ることが出来た。かつて自分を嘲笑した支配人の驚く顔を見ながら、シャンパンの盃を傾け、呵々大笑するのであった。
――これも日本公開版は姻戚関係を変えてあったようで、現行ヴァージョンでは結婚式を上げるのは叔母(エミリー・クルツ)の娘の姪で娘ではなく、また姪の新夫(マックス・ヒルラー)や叔母は門番からトイレ番に降格された主人公に冷淡ですが、姪(マリー・デルシャフト)はヒロインらしく優しく涙にくれながら主人公の境遇をいたわります。主人公は夜中のトイレ番にうずくまり、夜警(ゲオルク・ヨーン)がうずくまる主人公にコートをかけていたわりますが、主人公はうずくまったままの場面で一旦映画は終わります。「現実の人生ならこれで終わるが、脚本家はあえて別の結末をつけ加えた」と説明字幕が入り、主人公が突然ホテルのトイレで急死した大富豪の遺産相続人になってからが描かれます。大富豪は「最後を看取った者」(本作のタイトル「最後の人」の由来。英題では本作はもっとくだけて『The Last Laugh』となっています)を全遺産の相続人としていたため主人公が新聞の大見出しを飾る時の人の大富豪になり、かつて働いていたホテルで贅沢三昧の晩餐を友人となった夜警と取り、トイレ係の老給仕をねぎらって自分の豪華送迎車に乗せるおとぎ話のハッピーエンドですが、これはあくまで蛇足の夢物語と断り書きがされているから嫌みなく観られるので、財力=高い社会的地位=強者が弱者を見下すのが人間社会とする点ではドラマ本編と観点は変わりなく、仮に主人公に金銭運の僥倖が舞いこんだらというだけの話で夢物語でなければ低俗きわまりない結末です。しかしその低俗なハッピーエンドも夢物語という前提だからこそコメディの範疇に収まるので、落魄していく主人公を不安感をあおる映像手法で伝えていたカメラはこのエピローグではどっしり悠然とした映像でご満悦の主人公を映します。その対照もこの本来なら蛇足のエピローグでは効いていて、これを「これで終えては身も蓋もないので、あえて蛇足のハッピーエンドをつければ」とはっきり明示した字幕タイトルで区切った意味が生きてきます。完全に無字幕映画にして、トイレにうずくまった主人公のカットが溶暗し、次にいきなり数日後の新聞の大見出し「新億万長者生まれる!」で続けることも前記の理屈(財力=社会的強者という前提)からはできたでしょう。そういう意味では本作は体制的価値観温存下の人情コメディで、映画手法の革新性に対して内容は他愛ないとも言えますが、それが不足感になっている映画ではなくこの小さな題材だからこそ成功した名作です。また本作の成功があれば無字幕映画の実験もこれ以上の屋上屋を重ねる必然はもはやなくなったことでも表現主義~無字幕映画のアヴァンギャルド手法に一度にきりをつけた作品と言えます(ムルナウ自身は企画が進んでいた翌'26年の2作『タルチュッフ』『ファウスト』まで表現主義時代の構想を作品化しますが)。
●11月21日(水)
『喜びなき街』Die freudlose Gasse (監=G・W・パプスト、Sofar-Film'25.5.18)*151min, B/W, Silent; 日本公開昭和3年(1928年)9月(80分版) : https://youtu.be/JR3MsxkOrnk : https://archive.org/details/TheJoylessStreet1926
年代順にドイツの映画を追ってきて本作を観るといきなり質感の違いに愕然とします。『最後の人』も画期的な映像革新では突出した作品でしたし、後のサウンド・トーキー映画の技法も左右した影響力を持ちますが、『最後の人』自体はサイレント作品としての完成の極みを感じせるものでした。『喜びなき街』では、後述の理由もあって手放しにとは言いませんが、もう映画はサウンドさえ入ればトーキーと変わりがない感触になっています。本作はデンマーク映画界のスター女優アスタ・ニールセン(1881-1972)、スウェーデン映画界でマウリス・スティッツレル監督作品の主演女優を勤めていたグレタ・ガルボ(1900-1995)を対照的な運命をたどる二人の主演ヒロインに迎え、ポスト表現主義のスタイルとして芸術一般に広がっていた新即物主義の映画としてオーストリア=ハンガリー帝国出身監督G・W・パプスト(1885-1967)が手がけたもので、パプストは演劇畑でのキャリアが長かったので映画監督は'23年に長編第1作『財宝』、'24年に第2作と映画監督としては遅れ、その分表現主義には染まらずリアリズム映画の革新から映画を発想していたので、北欧映画との親近性はベルリン中心のドイツ映画界よりも強かったと思われます。演劇出身だけにデビュー作から上映時にはオリジナル音楽も欠かさなかった先進性もあり、ウィーンは美術や演劇のみならずベルリンより遥かに進んだ音楽都市で、パプストは'23年のデビュー作からシェーンベルク門下生に委託した無調性12音技法ライトモチーフ音楽を採用していたそうですから、監督デビューは遅くても芸術的素養は十分に蓄積されていた点で新しいドイツ映画の潮流に貢献しました。第3作『喜びなき街』で初の国際的ヒットをものしたパプストは'29年の第8、9作『パンドラの箱』『淪落の女の日記』のサイレント最後の2作の頃には巨匠と目されており、またサイレント時代に業績を残した監督では'31年のトーキー第1作~3作の三部作『西部戦線一九一八年』『三文オペラ』『炭坑』、'33年の『ドン・キホーテ』『上から下まで』とトーキー時代にも成功し本格的開戦戦前にはフランス映画界にも招かれた有数の監督のひとりでしたが、ナチス政権成立後の'33年以降は亡命はしましたが本来の大胆な作風がかなわず抑圧された環境に陥り、大戦後はドイツでの製作状況の逼迫からイタリアに渡り'56年まで作品を残した波乱に富むキャリアをたどった監督でした。安定した評価を得ているのは'25年の『喜びなき街』から'33年の『上から下まで』の間ですが、パプストのような監督こそ全キャリアを展望した作品集成と詳細な作品解説を含む評伝が望まれます。キャストを並べたポスターからもうかがえるように本作は国際キャストを配した大作であり、レストア版DVDで観られる通りオリジナルは151分と2時間半におよぶ大規模な映画ですが、グレタ・ガルボが渡米して大ブレイクした『肉体と悪魔』'27の封切りに次いで前年に用意されていた63分の再編集版『The Joyless Street』がアメリカ公開されて大ヒットしたので、日本初公開は80分ヴァージョンだったようですがホームヴィデオ時代にリリースされた日本版映像ソフトはアメリカ版の63分版になっていました。パブリック・ドメイン化しているのはリンクにも引いた'27年の再編集アメリカ公開版なので、全貌を示すレストア版の151分版を観るには高価で入手しづらい輸入ソフトに頼らねばなりません。おそらくヨーロッパ諸国でも日本公開版同様に千差万別の短縮版が公開されてきたと思われ、また二人のヒロインでは本来アスタ・ニールセンがガルボより格上にクレジットされていたように、151分版を観ると本作は非常に平行プロットの多い、巨視的に'20年代半ばのウィーン社会を描いた大都会映画を意図したものなのが感じられ、複数の境遇の異なる人物たちの平行するドラマから大都市全体の時代相を描き出す指向は'20年代のモダニズム文学に国際的に見られた方向でした。そうした面から見ると、本作は部分において成功し全体にはまだ十分には意図の実現をなし得なかった映画と見られます。再編集アメリカ版はオリジナル全長版の2/5(40パーセント)と本当に短縮版なのですが、グレタ・ガルボをヒロインとした部分のみを集めて平行プロットは割愛・再編集すると、サイレント時代の小品メロドラマとしてはごく標準的な63分のそれなりにまとまりの良く首尾一貫した無駄のない完成度の高い小品にもなってしまうのは平行プロットだけで独立性の高い構成の映画なのを証してしまっているので、アスタ・ニールセンがヒロインの破滅的メロドラマやヴェルナー・クラウスがリンチ処刑されるにいたる市民暴動劇は本質的にはガルボのパートと結びつく必然を持たないことでもあります。ニールセンの平行プロットが割愛されたのは二人のヒロインの対照劇にしてもガルボ映画としての再編集にはあまり効果的でなく、嫉妬から情痴殺人を犯す娼婦のヒロインというニールセンの役柄自体がアメリカ版では割愛された理由でしょうし、強欲な肉屋のヴェルナー・クラウスが庶民の憎悪の的になりリンチ処刑される平行プロットがアメリカ版では割愛されたのもあまりにアナーキズム的で勧善懲悪の域を越えているからでしょう。日本公開版はどの程度原型を留めていたかわかりませんが、初公開時のキネマ旬報近着外国映画紹介ではあるいはプロモート資料に依るものか、ほぼ全長版のプロットを伝えたものが掲載されています。
[ 解説 ] ヒューゴー・ベタウァー氏作の小説からウィリー・ハース氏が脚色したものをG・W・パブスト氏が監督したもので「裏町の怪老窟」等出演のヴェルナー・クラウス氏、アスタ・ニールセン嬢及び新進のスウェーデン女優グレタ・ガルボ嬢が競演し、ヘンリー・スチュアート氏、グレゴリー・クマラ氏、アグネス・エステルハツィ伯爵夫人、アイナル・ハンソン氏、タマラ嬢、ロバート・ガリソン氏等助演者の顔振れは素晴らしいオール・スター・キャストである。無声。
[ あらすじ ] 大戦に敗れたドイツ・オーストリアの国々が悲惨な運命の試練に喘いでいた頃、小巴里と誇ったウィーンの都も今は蒼ざめていた。貧富二階級に分れてしまって、貧者の窮乏は極まった。肉屋(ヴェルナー・クラウス)には連日長い列ができているが、強欲な店主は富裕層に高額で売りつけるため、貧乏人には肉を売らない。その列の中にグレーテ(グレタ・ガルボ)とマリア(アスタ・ニールセン)という二人の美しい娘の姿があった。グレーテはタイピストとして働きながら、官吏を退職した父(ヤロ・フユルト)と幼い妹(ローニ・ネスト)を養っていたが、上司のセクハラに耐え切れず会社を辞めてしまった。父は退職金を相場につぎ込み一山当てようとしたが、株の大暴落によって全財産を失った。一家は自宅を下宿屋とし、米国士官デーヴィー(アイナル・ハンソン)に部屋を貸すが、妹が彼の部屋から缶詰を盗んだとことが発覚し、結局デーヴィーは部屋を出ていく。生活に窮したグレーテには、高級サロンで身を売るしか残される道はなかった。一方マリアにはエゴン(ヘンリー・スチュアート)という恋人がいたが、不実な彼には他にも複数人の恋人がいた。エゴンに金を貢いでいた彼女は、ついに高級サロンに身売りする決心をする。彼女がパトロンと風評の悪いホテルへ行った夜、隣室でエゴンが他の女と密会しているのを見てしまう。エゴンが帰った後、嫉妬で逆上したマリアは、相手の女を殺した上に、犯人はエゴンだと証言する。しかし我に返ったマリアが自首したため、エゴンの冤罪は晴れた。グレーテが初めてサロンに出た夜、たまたま居合わせたデーヴィーに身持ちの悪い女と誤解されてしまう。危うく魔の手に陥るすんでのところで誤解がとけて彼女はデーヴィーによって救い出された。ついに貧しい民衆は蜂起し、金持ちが集う高級サロンを襲った。混乱の中、貧しい女達を弄んでいた金持ちの肉屋の主人は血みどろの死体となっていた。
――この紹介は「上司のセクハラに耐え切れず」などデータベース化された際に表現を現代風にしたと思われる箇所もありますが(ガルボを秘書に雇った管理職男は個室のオフィスで二人きりになるといきなり襲ってきます)、ニールセンとクラウスの平行プロットも一応押さえています。他に婦人服店経営からキャバレー、娼婦斡旋にまで事業を広げる成り上がりのマダムのグライファー夫人(ヴァレスカ・ゲルト)がガルボとニールセン両方の運命を左右する夜の世界の女帝役の重要人物ですし、全長版はガルボの父が宮中顧問官の地位から没落していく過程がまず前半にありますが短縮版ではすでに没落した時点から始まっているので、この映画の意図が一言で言えば大不況に見舞われた大都会の倫理的荒廃を描いた映画なのはガルボの父親役のルムフォルト宮中顧問官、肉屋のヴェルナー・クラウス、夜の世界を仕切る女将のグライファー夫人役のヴァレスカ・ゲルトといった人物が重要で、顧問官をカモにした投機詐欺師の悪徳銀行家ローゼノフ(カール・エトリンガー)の法律顧問ライト博士(アレクサンダー・ムルスキー)の妻リア(タマラ・トルストイ)がグライファー夫人のナイトクラブで浮き名を流した末にラヴホテルで殺される、銀行員で夜の街ではホスト紛いの人物エゴンが容疑者として逮捕されるが、真犯人は以前エゴンの情婦で今はグライファー夫人の娼婦の一人になっていたマリア(アスタ・ニールセン)で、男への報復が動機だった、というのがもう一人のヒロイン・マリアの平行プロットです。一方、食いつめて職を探すがロクな職がなく、家を下宿屋にして入居者のアメリカ人青年将校と恋仲になるが、妹が缶詰を盗んだトラブルからプライドの高い父と民間への下宿はもとより反対の上官によって青年将校は衛兵所に戻り、ついにグライファー夫人を頼らねばならなくなったヒロインはキャバレーの初日に待機中に仲間に誘われて偶然寄った青年将校にそんな女だったのかと幻滅を露わにされる。そこにヒロインの父がヒロインの置き手紙を持って駆けつけ迎えにきて、手紙を見た将校は誤解を解いてヒロインに詫びて、一同はヒロインを連れてキャバレーを去っていくのがガルボ編のヒロインのプロットです。さらに庶民の怒りを買い続けたヴェルナー・クラウスの肉屋が庶民たちの暴動でリンチ処刑に遭う結末まであるとなると、投機詐欺師の悪徳銀行家ローゼノフ編(ガルボの父の宮廷顧問官の没落、グライファー夫人のナイトクラブを舞台にしたライト夫人リアらの富裕階級の頽廃のどちらにも係ります)とクラウス編、もう一人のヒロインのニールセン編のプロットがガルボ編のプロットに絞った再編集版では映画の2/5の63分に綺麗に収まってしまうので、全長版の2時間半版はもっと混沌とした内容に不況頽廃大都会映画の意図が盛りこみすぎながらもあって、全体がそういう映画だからこそ短縮版でも本作はリアリズム映画の感触は伝わってくるので、最初から63分のガルボ映画として作られていたら重心のこれほど低くない、明朗なメロドラマ作品になっていたでしょう。また短縮編集されたアメリカ公開ヴァージョンではドイツ映画の演出法がアメリカのリアリズム映画に結果的には映像文体の面で近似したものになっているのがわかり、いち早く渡米していた北欧映画監督の一群も見落とせませんが、政治状況的要因が大きいにせよ後にハリウッド映画界に移ったヨーロッパ映画人はドイツ=オーストリア出身者の比率がずば抜けて高かったのも本作のような作品を観ると腑に落ちる気がします。