'24年末の『裏町の怪老窟』で表現主義映画が最後の輝きを見せ、『最後の人』が表現主義を脱した可能性に満ちた映画であったとすれば、'25年5月公開の『喜びなき街』はすでに以降の主流となり得る、表現主義時代とは一変した作風を鮮明に打ち出した作品でした。半年足らずで起こったこの変化には当然その間に製作・公開された数十本の作品(国外を含めれば数百本)が背景になっているはずですし、そこには『喜びなき街』とは違った方向に向かっていた作品もいくつもあるでしょう。また『喜びなき街』にもドイツ映画が表現主義から無字幕手法の絶対映画まで重ねてきた成果が生かされているので、『裏町の怪老窟』『最後の人』『喜びなき街』だけでこの時期のドイツ映画を概括はできないでしょう。しかしこの3作がサイレント映画史上見逃せないのも間違いなく、そういう歴史的指標たるべく生まれてきたような作品なのも感慨を抱かせられます。
『裏町の怪老窟』Das Wachsfigurenkabinett (監=パウル・レニ、UFA'24.11.13)*88min, B/W, Silent; 日本公開大正14年(1925年)9月(93分版) : https://youtu.be/8HrgRRfA8f4 (English Version)
[ 解説 ] 昨年の暮完成された極めて新しい映画で、舞台装置にはダダイズムが加味され、真のグロテスク映画との評判が高い。監督は新進のパウル・レニ氏で、舞台装置一切は氏の指揮によって成された。主演者は「ダントン」「ファラオの恋」等のエミール・ヤニングス氏、「カリガリ博士」「ジェキル博士とハイド」等出演のコンラート・ファイト氏、「ダントン」「カリガリ博士」「成金」等出演のヴェルナー・クラウス氏等である。無声。
[ あらすじ ] 娯楽園の天幕七号に住む蝋人形作りの老人(ヨーン・ゴットウット)は、自分の作った蝋人形三つに対して面白い話を書いて貰おうと若い作家(ウィルヘルム・ディーテルレ)を呼んだ。訪れた若い作家は空想豊かな詩人であった。彼は与えられた三つの蝋人形に就て三つの物語を書いた。――第一は裏町の無頼漢ジャック(ヴェルナー・クラウス)の恐ろしい話を、第二は邦の国の王様ハールン(エミール・ヤニングス)の可笑しい話を、第三は古代の暴君イワン(コンラート・ファイト)の悲しい話を己が幻想のうちから書き上げたのであった。
――本作は本国初公開時にはエピソード配置はイワン雷帝(コンラート・ファイト)の物語、切り裂きジャック(ヴェルナー・クラウス)の物語、イスラム大帝ラシッド(エミール・ヤニングス)の物語の順だったそうですが、すぐに大帝ラシッドの物語、イワン雷帝の物語、切り裂きジャックの物語の順に再編集されて公開が続けられ、現行ヴァージョンもその通りになっています。ディーテルレ演じる語り手の詩人と蝋人形館の娘(オルガ・ベライエフ)がどのエピソードにも受難の恋人たち役で登場し、切り裂きジャックのエピソードで助かった二人が現実でも結ばれるというエピローグがついているので再編集・現行ヴァージョンは適切な改変なのですが、キネマ旬報の紹介によるとさらに順番が違って切り裂きジャック、ラシッド大帝、イワン雷帝の順のヴァージョンが日本公開されたことになり、本国初公開版とも本国再編集版(現行ヴァージョン)とも違っていたことになります。本作は蝋人形館の開館に当たってコピーライター募集の貼り紙を見て蝋人形師(ヨーン・ゴットウット)の蝋人形館にやってきた詩人(ヴィルヘルム・ディーテルレ)が、4体の蝋人形を見せられて蝋人形が由来する三つの作り話を蝋人形師と娘に即興創作して語る、という形式で、実はディーテルレ自身をモデルにした盗賊の蝋人形も冒頭出てきて4話のオムニバスにする予定だったそうですが予算と納期の不足で3話になり、またドラマ構成が凝っているラシッド大帝とイワン雷帝編に対して、切り裂きジャック編は最後に撮られたため予算不足と時間不足からオーヴァーラップ映像の多用で霧のロンドンをディーテルレとヒロインが切り裂きジャックに追いかけられて逃げ回るつけ足し風の小品になっており、助かった二人が空想から現実に帰って恋に落ちているのを自覚するエピローグのハッピーエンドに着地するための中継ぎ的なエピソードといった感じがします。ラシッド大帝編は艶笑譚、イワン雷帝編は陰惨なムードですが、枠物語形式の3エピソードのオムニバス長編、各エピソードとも同一の俳優カップルが受難に遭う構成は、若いカップルが三つの時代に転生させられ死神の試練に遭うラングの『死滅の谷』'21の継承ですが、『死滅の谷』の無常で悲劇的なムードに較べて本作はもっと遊びのある作品で、シナリオのヘンリック・ガレーンは『ゴーレム』'20や『吸血鬼ノスフェラトゥ』'22の脚本、『プラーグの大学生』'26の監督と怪奇趣味で感覚はドライな割には監督ではラング、脚本家ではマイヤーのような凄惨さや悲劇性に傾かない娯楽性への配慮があり、また本作は表現主義映画最後の輝きという位置づけ以上にコメディ・ホラー映画のジャンルを切り開いた作品とも目せます。それにレニが自覚的であったのはハリウッド進出後の作品もホラー映画、グロテスク・スリラー映画の体裁のコメディ作品で成功を収めたことでもうかがえ、そこにマイヤー脚本のシリアスな悲劇映画『裏階段』からの変貌があります。
●11月20日(火)
『最後の人』Der letzte Mann (監=F・W・ムルナウ、UFA'24.12.23)*101min, B/W, Silent; 日本公開大正15年(1926年)4月1日(90分版)キネマ旬報ベストテン外国映画2位 : https://youtu.be/W7yiZM-SlwI
[ 解説 ]「カリガリ博士」「ジルフェスター」等の作者カール・マイヤー氏が書卸した脚本により「ファントム」「ジェキル博士とハイド」等と同じくF・W・ムルナウ氏が監督したもので、主役は「ピーター大帝」「快傑ダントン」等主演のエミール・ヤニンクス氏でマリー・デルシャフト嬢、マックス・ヒルラー氏、ゲオルク・ヨーン氏等が助演している。無声。
[ あらすじ ] 大都会ベルリン。大通りに面した宮殿の様に立派なホテルの豪壮な玄関に年老いた門番(エミール・ヤニングス)が立っていた。彼は金ピカの制服を着て得意然としていた。彼はがっしりとした大男で軍人らしい頬髭をはやしていた。将軍にも見まごう自身の姿に誇りを感じ、金モールの制服を何よりも愛した。こうしてこの姿で裏町の我家に帰って来る時程幸福なことはなかった。悪戯小僧達が羨望の眼を以て彼を仰ぎ見るから。しかし重い荷物を持ちあぐねている姿を支配人(ハンス・ウンターキルヒャー)に見咎められて、地下室のトイレ係に左遷された。彼は何よりも金モールの制服を着ないで家に帰らねばならないのが悲しかった。だが娘(マリー・デルシャフト)の結婚式にはどうしても制服で出席せんと思い悩んだ末、とうとう制服を盗むに至る。やがて全ての事実が明るみとなり、裏町の人々や娘からも嘲笑の的にされる。彼は苦しみ嘆き、残すはひっそりとした死を待つのみであった。そこへ運命はこの老人に思いもかけない遺産を授けた。彼は一躍して門番どころか富豪として立派な服を着ることが出来た。かつて自分を嘲笑した支配人の驚く顔を見ながら、シャンパンの盃を傾け、呵々大笑するのであった。
――これも日本公開版は姻戚関係を変えてあったようで、現行ヴァージョンでは結婚式を上げるのは叔母(エミリー・クルツ)の娘の姪で娘ではなく、また姪の新夫(マックス・ヒルラー)や叔母は門番からトイレ番に降格された主人公に冷淡ですが、姪(マリー・デルシャフト)はヒロインらしく優しく涙にくれながら主人公の境遇をいたわります。主人公は夜中のトイレ番にうずくまり、夜警(ゲオルク・ヨーン)がうずくまる主人公にコートをかけていたわりますが、主人公はうずくまったままの場面で一旦映画は終わります。「現実の人生ならこれで終わるが、脚本家はあえて別の結末をつけ加えた」と説明字幕が入り、主人公が突然ホテルのトイレで急死した大富豪の遺産相続人になってからが描かれます。大富豪は「最後を看取った者」(本作のタイトル「最後の人」の由来。英題では本作はもっとくだけて『The Last Laugh』となっています)を全遺産の相続人としていたため主人公が新聞の大見出しを飾る時の人の大富豪になり、かつて働いていたホテルで贅沢三昧の晩餐を友人となった夜警と取り、トイレ係の老給仕をねぎらって自分の豪華送迎車に乗せるおとぎ話のハッピーエンドですが、これはあくまで蛇足の夢物語と断り書きがされているから嫌みなく観られるので、財力=高い社会的地位=強者が弱者を見下すのが人間社会とする点ではドラマ本編と観点は変わりなく、仮に主人公に金銭運の僥倖が舞いこんだらというだけの話で夢物語でなければ低俗きわまりない結末です。しかしその低俗なハッピーエンドも夢物語という前提だからこそコメディの範疇に収まるので、落魄していく主人公を不安感をあおる映像手法で伝えていたカメラはこのエピローグではどっしり悠然とした映像でご満悦の主人公を映します。その対照もこの本来なら蛇足のエピローグでは効いていて、これを「これで終えては身も蓋もないので、あえて蛇足のハッピーエンドをつければ」とはっきり明示した字幕タイトルで区切った意味が生きてきます。完全に無字幕映画にして、トイレにうずくまった主人公のカットが溶暗し、次にいきなり数日後の新聞の大見出し「新億万長者生まれる!」で続けることも前記の理屈(財力=社会的強者という前提)からはできたでしょう。そういう意味では本作は体制的価値観温存下の人情コメディで、映画手法の革新性に対して内容は他愛ないとも言えますが、それが不足感になっている映画ではなくこの小さな題材だからこそ成功した名作です。また本作の成功があれば無字幕映画の実験もこれ以上の屋上屋を重ねる必然はもはやなくなったことでも表現主義~無字幕映画のアヴァンギャルド手法に一度にきりをつけた作品と言えます(ムルナウ自身は企画が進んでいた翌'26年の2作『タルチュッフ』『ファウスト』まで表現主義時代の構想を作品化しますが)。
●11月21日(水)
『喜びなき街』Die freudlose Gasse (監=G・W・パプスト、Sofar-Film'25.5.18)*151min, B/W, Silent; 日本公開昭和3年(1928年)9月(80分版) : https://youtu.be/JR3MsxkOrnk : https://archive.org/details/TheJoylessStreet1926
[ 解説 ] ヒューゴー・ベタウァー氏作の小説からウィリー・ハース氏が脚色したものをG・W・パブスト氏が監督したもので「裏町の怪老窟」等出演のヴェルナー・クラウス氏、アスタ・ニールセン嬢及び新進のスウェーデン女優グレタ・ガルボ嬢が競演し、ヘンリー・スチュアート氏、グレゴリー・クマラ氏、アグネス・エステルハツィ伯爵夫人、アイナル・ハンソン氏、タマラ嬢、ロバート・ガリソン氏等助演者の顔振れは素晴らしいオール・スター・キャストである。無声。
[ あらすじ ] 大戦に敗れたドイツ・オーストリアの国々が悲惨な運命の試練に喘いでいた頃、小巴里と誇ったウィーンの都も今は蒼ざめていた。貧富二階級に分れてしまって、貧者の窮乏は極まった。肉屋(ヴェルナー・クラウス)には連日長い列ができているが、強欲な店主は富裕層に高額で売りつけるため、貧乏人には肉を売らない。その列の中にグレーテ(グレタ・ガルボ)とマリア(アスタ・ニールセン)という二人の美しい娘の姿があった。グレーテはタイピストとして働きながら、官吏を退職した父(ヤロ・フユルト)と幼い妹(ローニ・ネスト)を養っていたが、上司のセクハラに耐え切れず会社を辞めてしまった。父は退職金を相場につぎ込み一山当てようとしたが、株の大暴落によって全財産を失った。一家は自宅を下宿屋とし、米国士官デーヴィー(アイナル・ハンソン)に部屋を貸すが、妹が彼の部屋から缶詰を盗んだとことが発覚し、結局デーヴィーは部屋を出ていく。生活に窮したグレーテには、高級サロンで身を売るしか残される道はなかった。一方マリアにはエゴン(ヘンリー・スチュアート)という恋人がいたが、不実な彼には他にも複数人の恋人がいた。エゴンに金を貢いでいた彼女は、ついに高級サロンに身売りする決心をする。彼女がパトロンと風評の悪いホテルへ行った夜、隣室でエゴンが他の女と密会しているのを見てしまう。エゴンが帰った後、嫉妬で逆上したマリアは、相手の女を殺した上に、犯人はエゴンだと証言する。しかし我に返ったマリアが自首したため、エゴンの冤罪は晴れた。グレーテが初めてサロンに出た夜、たまたま居合わせたデーヴィーに身持ちの悪い女と誤解されてしまう。危うく魔の手に陥るすんでのところで誤解がとけて彼女はデーヴィーによって救い出された。ついに貧しい民衆は蜂起し、金持ちが集う高級サロンを襲った。混乱の中、貧しい女達を弄んでいた金持ちの肉屋の主人は血みどろの死体となっていた。
――この紹介は「上司のセクハラに耐え切れず」などデータベース化された際に表現を現代風にしたと思われる箇所もありますが(ガルボを秘書に雇った管理職男は個室のオフィスで二人きりになるといきなり襲ってきます)、ニールセンとクラウスの平行プロットも一応押さえています。他に婦人服店経営からキャバレー、娼婦斡旋にまで事業を広げる成り上がりのマダムのグライファー夫人(ヴァレスカ・ゲルト)がガルボとニールセン両方の運命を左右する夜の世界の女帝役の重要人物ですし、全長版はガルボの父が宮中顧問官の地位から没落していく過程がまず前半にありますが短縮版ではすでに没落した時点から始まっているので、この映画の意図が一言で言えば大不況に見舞われた大都会の倫理的荒廃を描いた映画なのはガルボの父親役のルムフォルト宮中顧問官、肉屋のヴェルナー・クラウス、夜の世界を仕切る女将のグライファー夫人役のヴァレスカ・ゲルトといった人物が重要で、顧問官をカモにした投機詐欺師の悪徳銀行家ローゼノフ(カール・エトリンガー)の法律顧問ライト博士(アレクサンダー・ムルスキー)の妻リア(タマラ・トルストイ)がグライファー夫人のナイトクラブで浮き名を流した末にラヴホテルで殺される、銀行員で夜の街ではホスト紛いの人物エゴンが容疑者として逮捕されるが、真犯人は以前エゴンの情婦で今はグライファー夫人の娼婦の一人になっていたマリア(アスタ・ニールセン)で、男への報復が動機だった、というのがもう一人のヒロイン・マリアの平行プロットです。一方、食いつめて職を探すがロクな職がなく、家を下宿屋にして入居者のアメリカ人青年将校と恋仲になるが、妹が缶詰を盗んだトラブルからプライドの高い父と民間への下宿はもとより反対の上官によって青年将校は衛兵所に戻り、ついにグライファー夫人を頼らねばならなくなったヒロインはキャバレーの初日に待機中に仲間に誘われて偶然寄った青年将校にそんな女だったのかと幻滅を露わにされる。そこにヒロインの父がヒロインの置き手紙を持って駆けつけ迎えにきて、手紙を見た将校は誤解を解いてヒロインに詫びて、一同はヒロインを連れてキャバレーを去っていくのがガルボ編のヒロインのプロットです。さらに庶民の怒りを買い続けたヴェルナー・クラウスの肉屋が庶民たちの暴動でリンチ処刑に遭う結末まであるとなると、投機詐欺師の悪徳銀行家ローゼノフ編(ガルボの父の宮廷顧問官の没落、グライファー夫人のナイトクラブを舞台にしたライト夫人リアらの富裕階級の頽廃のどちらにも係ります)とクラウス編、もう一人のヒロインのニールセン編のプロットがガルボ編のプロットに絞った再編集版では映画の2/5の63分に綺麗に収まってしまうので、全長版の2時間半版はもっと混沌とした内容に不況頽廃大都会映画の意図が盛りこみすぎながらもあって、全体がそういう映画だからこそ短縮版でも本作はリアリズム映画の感触は伝わってくるので、最初から63分のガルボ映画として作られていたら重心のこれほど低くない、明朗なメロドラマ作品になっていたでしょう。また短縮編集されたアメリカ公開ヴァージョンではドイツ映画の演出法がアメリカのリアリズム映画に結果的には映像文体の面で近似したものになっているのがわかり、いち早く渡米していた北欧映画監督の一群も見落とせませんが、政治状況的要因が大きいにせよ後にハリウッド映画界に移ったヨーロッパ映画人はドイツ=オーストリア出身者の比率がずば抜けて高かったのも本作のような作品を観ると腑に落ちる気がします。