ルイ・マル『地下鉄のザジ』Zazie dans le metro (Les Nouvelles Editions de Films'60)*92min, Color; フランス公開1960年10月28日・日本公開1961年2月16日
[ 解説 ] レイモン・クノーのベスト・セラー小説の映画化。「恋人たち」のルイ・マルが監督した喜劇で、脚色にマルとジャン・ポール・ラプノーの共同で、撮影はアンリ・レイシ、音楽をフィオレンツォ・カルピが担当。出演は主役の少女ザジに三百人の応募者から選ばれたカトリーヌ・ドモンジョ、ほかにフィリップ・ノワレ、ユベール・デシャン、アントワーヌ・ロブロ、アニー・フラテリニら。製作イレーネ・ルリシュ。
[ あらすじ ] 十歳の少女ザジ(カトリーヌ・ドモンジョ)は母とともに生れて初めてパリにやってきた。母はザジを弟のガブリエル(フィリップ・ノワレ)にあずけると、恋人とさっさと消えてしまった。ガブリエル叔父さんはナイト・クラブの芸人だった。パリにあこがれるザジの目的は地下鉄に乗ることだった。その地下鉄がストライキで彼女を大変失望させた。叔父さんの友達で気のいい運転手シャルル(アントワーヌ・ロブロ)の車で家につき、美しい叔母さんのアルベルチーヌ(カルラ・マルリエ)が出迎えた。翌朝、ザジは一人で部屋を抜け出し、一階で酒場を経営する家主チュランド((ユベール・デシャン)の目を盗み地下鉄の乗り場に行った。門は閉っていた。泣き出したザジのそばに一人の得体の知れぬ男が近寄った。ザジは男とノミの市に行ったり、レストランに入ったり、さんざんいいおもいをして、用がなくなるとすたこら家へ逃げこんだ。後を追ってきた男は叔母さんに色目を使って叔父さんにつまみだされた。ガブリエルはザジを連れてエッフェル塔に出かけた。叔父さんはそこで四人のドイツ娘からスターと間違えられた。帰り道、街角で話かけたエロ婆さんことムーアック未亡人に、またまたガブリエルは追いかけられる。そこに例の娘たちが現われ、彼をバスに乗せていってしまった。叫び声にかけつけた男は、今朝と同一人物のトルースカイヨン警官(ヴィットリオ・カプリオ)だった。警官は未亡人の車にザジと未亡人を乗せて、バスの後を追った。トルースカイヨンは未亡人をまいてアルベルチーヌのもとに行く。彼女は受けつけず、夫に衣裳をとどけた。シャルルが酒場の女店員マドと結婚するという。ガブリエルはレストランに結婚祝いの客たちを招待した。未亡人からドイツ娘、クラブの踊り子……。お祝いが始まり、やがて喧嘩騒ぎになった。ザジは疲れて眠りこんだ。乱闘の最中、警察官トルースカイヨンこと暗黒街の親分アラシッドが、部下たちに武器をもたせてやってきた。レストランは阿修羅の巷と化した。ガブリエルはザジを抱えて地下鉄に避難した。とたんにストの解決した地下鉄が動き出した。ザジはまだ眠っている。翌朝――ザジは約束の時間に叔母さんと母の待つ駅に行った。母親は地下鉄に乗ったかと聞いた。ザジはただ"乗らない、疲れちやった"といった。それがパリヘきた彼女の感想だった。
――実際は結末のママンとの会話は「パリはどうだった?」「私、年をとったわ」ですし、あらすじにあるいくつかのシークエンスは前後からザジの幻想、または夢なのですが、少女がパリにやって来てまた去っていくまでの二泊三日ほどのこの映画は筋らしい筋などないので、ストライキ中の地下鉄に乗れなかったザジが叔父さん宅に預けられ、中1日に地下鉄に乗れない代わりにエッフェル塔に連れて行ってもらうくらいしか具体的な出来事はなく、それを毎ショットごとに必ずギャグを織りこんだスラップスティック・コメディにしています。冒頭の列車の進む線路をクレジットのタイトルバックにした場面から音楽は西部劇調で、これは町に流れてきて去って行く流れ者西部劇を意識してもいます。叔父さんの奥さんアルベルチーヌ役のカルラ・マルリエがメイクや服装まで『恋人たち』のジャンヌ・モローそっくりで、自称警官の謎の男トルースカイヨン(ヴィットリオ・カプリオ)と会った途端に一目惚れ風の演出がなされるなど自作パロディまでやっており、頻繁なコマ送りやスローモーション、ジャンプ・カットによるギャグを数え上げればきりがありません。本作は何よりおかっぱ髪ですきっ歯の前歯の少女ザジを演じたカトリーヌ・ドモンジョの魅力によって本作だけで永遠の少女ヒロインになっていますが、今回映画感想投稿サイト類を見ると意外なことに案外賛否両論分かれているばかりか、否定的な感想には全然面白くない、と極端な批判まで多いのには昨今の観客層の嗜好の変化を痛感します。この映画は抒情味はゼロ、パリ観光映画らしい情緒もなくひたすらザジの行くところ巻き起こる馬鹿騒ぎを描いているだけですが、面白いのは徹底的に抒情も情感も排したその作りなので、肯定的な評価ですら指摘している映画の中盤になると飽きてくる難点はあります。それでも画竜点睛の結末まで手を抜かない、あまりに多いので相殺しあっている面もあるギャグの洪水には舌を巻くので、しかもシュルレアリスティックですらある原作小説には逐字的なほど忠実なので大した力業の作品になっている。フランス本国での公開時の不評と興行的失敗はやり過ぎの一言に尽きるでしょう。ゴダールは長編第3作でゴダール初のコメディ『女女である』'61でドモンジョを役名ザジ役で端役出演起用、ドモンジョは16歳、19歳でさらに2本に出演し引退します。この冗談映画(マル自身はプレスシートで作品意図を自作解説していますが)は面白おかしいコメディ映画として素直に楽しむのが全うなので、他のマルの映画のようなシリアス作品と異なる鑑賞基準でこれでもかのスラップスティック技巧に身を任せて観てこその映画で、どうも最近の観客(視聴者)ほどそれだけの映画に飽き足らなくなっている。本作は才気煥発で絞りこんだテーマを魅力にあふれた逸材の少女ヒロインを得て十分に描ききった、完成度の高い快作です。筆者は一連のシリアスなルイ・マル作品よりもよっぽど本作の方が好きなので、他愛ない見かけ・内容だけで「面白くない」と簡単に片づけられるような作品とは思いません。
●10月31日(水)
クロード・シャブロル『気のいい女たち』Les Bonnes Femmes (Paris-Film-Production, Panitalia'60)*101min, B/W; フランス公開1960年4月22日・日本公開1995年6月6日
もちろん少女のファンタジーの世界の現代パリ版『不思議の国のアリス』のような『地下鉄のザジ』と、結婚適齢期の不安定な女性たちの日常を描いた『気のいい女たち』(今風に言えば「チョロい女たち」くらいの揶揄がこめられたタイトルでしょう)では、シニカルな点では共通しても題材もアプローチも異なるのは当然ですし、この2作がどちらも興行的失敗作になったのもフランス本国の観客が期待したのとは違った、期待を満足させる映画ではなかったのに尽きるでしょう。『地下鉄のザジ』の場合は少女版『ぼくの伯父さん』みたいに世相への皮肉が暖かなユーモアで表現されて後味の爽やかな明朗快活なコメディ(ジャック・タチだって単に明朗快活なコメディではいのですが、『ぼくの伯父さん』がタチ作品中例外的に親しみのある、適度に生活感を取り入れた映画になってヒット作になったのは事実でしょう)が期待されたのに、実際の作品は躁的なまでにけたたましいスラップスティック・コメディでした。シャブロルの場合は大ヒットした『いとこ同士』の現代学生の生態や不倫殺人ミステリー映画『二重の鍵』の延長だったはずです。のちのシャブロルの作風から見ると『気のいい女たち』はむしろシャブロルの第2の処女作と言っていいほどで、登場する男たちは結末20分でついにヒロインのひとりと出会うオートバイの男がいちばんまともに見えるくらいに嫌な男たちばかりですし、ヒロインたちも友達の友達くらいならいいが直接友人になるのは遠慮したいと腰が引けるほど頼りないか、裏表があるか、少なくとも親友が自分の彼女だと連れてきたらあとで忠告したくなるような、要するに男も女も他人にこういう風に見られたらすごく嫌だ、と思わせるような描き方がされています。こうした人物像はのちの『肉屋』'69や『パーフェクトなんてありえない』'74、『主婦マリーのしたこと』'88などでも続きますし、シャブロルがちっとも懲りなかったのは次作が本作の姉妹編『伊達男たち』'60なのでもわかるので、『いとこ同士』や『二重の鍵』の悪意からもっと底意地の悪い人間ドラマに進んでいくのは本作が契機になっています。興行的失敗にもかかわらずゴダールやファスビンダーが本作を'60年代映画の傑作と称賛したのもこれがシャブロルの画期的な作品だと看破したからでしょう。ファスビンダーは監督デビュー作『愛は死よりも残酷』'69をシャブロル、ロメール、ジャン=マリー・ストローブとダミアノ・ダミアーニ『群盗荒野を行く』'67に捧げており、具体的にシャブロルからの影響かもしれませんが作風や人物造型の類縁性もあってキャリア初期はシャブロルを賞賛していましたが、'70年代半ばからはシャブロルへの批判者にまわりました。端的に言えばシャブロルの作風は真剣な人間性の洞察ではない揶揄的な発想にすぎない、と見方を正反対に変えたので、そういう面はシャブロルには確かにあります。
カイエ派ヌーヴェル・ヴァーグの5人の中でただひとり軽薄さを感じさせたのもシャブロルで、早くからカリスマ性を帯びたゴダールをやや微妙としても早く亡くなったトリュフォー、長命だったロメールやリヴェットも古典的フランス映画監督とは違った意味で巨匠の風格がありました。シャブロルは大変なヴェテランの腕前と感覚の鋭さでは現役感を誇りながらもどこか信頼に欠けるところがあって、シャブロルはロメールと共著の世界初のヒッチコック論の著者ですが、ヒッチコックやヒッチコックの1歳年下のルイス・ブニュエルにしても人を喰った映画を作って止まなかった映画監督で、もし30年遅れていればシャブロルのような監督になったかもしれないとも思えます。この映画はラスト30分頃からだんだん異常味を帯びてきて何をやろうとしている映画かまるで読めなくなり、だったらこれまで観てきた展開はいったい何だったとそうでなくてもロケーション撮影の鋭く斬新な映像(アンリ・ドカエの手持ちカメラのB/W撮影が『二重の鍵』の鮮やかなカラー撮影同様に題材に見合った効果を上げています)に妙な深読みすらさせ、さらにあと20分というところで意外なようなあっけないような伏線がこういう映画だったの?と思わせておいてとんでもない結末がずどん!と来ます。そのあと別のヒロインがディスコティークで踊る結びが蛇足のようにラスト5分くっつくのですが、このしてやったりなのかガッカリなのかわからないような結末は『いとこ同士』がそうだった鮮やかさとも違うもので、シャブロルはまったく意識していなかったと思いますがデュヴィヴィエの戦後の意欲作『巴里の空の下セーヌは流れる』'51が似たような趣向を取っていたのを思い出します。『巴里の空の下セーヌは流れる』ではあの結末は明らかに計算違いで、映画の自然な流れをねじ曲げてしまって観客の感興を削ぐものでした。しかし『気のいい女たち』では嫌で気分の悪い映画だなと思っても観おわってみればそういう映画として一貫していて、ヒロインたちの描写にムラがあり完成度など問題にしていない風なのもかえって細部の印象を強めています。本作はすごい傑作のようにも見えればとんだ拍子抜け映画にも見えて、このいかがわしさはシャブロルの前3作にはなかった図々しさでもあり、これを貫いたふてぶてしさがついにシャブロルを巨匠と呼ばせる境地に導かなかったと思うと、ゴダールに負けず劣らずシャブロルも食わせ者という気がします。