『舞踏会の手帖』Un carnet de bal (Productions Sigma, 1937)*129min, B/W : 1937年9月9日フランス公開
監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ(1896-1967)、主演:マリー・ベル、アリ・ボール
・未亡人となったクリスティーヌが夫の遺品を片づけていると、16歳の時の思い出の手帖を見つける。手帖には当時、彼女に思いを寄せていた男たちの名前が綴られていた。クリスティーヌは彼らに会おうと旅に出る……。
[ 解説 ]「シュヴァリエの流行児」「望郷」に次ぐジュリアン・デュヴィヴィエ作品で、彼自ら脚本を書卸したものである。但し台詞は「或る映画監督の一生」のアンリ・ジャンソンがジャン・サルマン及び「女だけの都」のベルナール・ジンメルの協力を得て書いている。出演者は「外人部隊」のマリー・ベル、「巨人ゴーレム(1936)」のアリ・ボール、「生けるパスカル(1936)」のピエール・ブランシャール、「女だけの都」のルイ・ジューヴェ、「南方飛行」のピエール・リシャール・ウィルム、「ミモザ館」のフランソワーズ・ロゼー、「沐浴」のフェルナンデル、我国には初紹介の名優レイミュという素晴らしい顔触れで、助演者も「シュヴァリエの流行児」のロベール・リナン、「上から下まで」のミリー・マチス、「罪と罰(1936)」のシルヴィー、「どん底」のジェナン、「生けるパスカル(1936)」のアルコヴェー、新顔のベナール等が競演している。、キャメラは「赤ちゃん」のミシェル・ケルベがアゴスチニ、レヴァンと共に担任、装置は「リリオム」のポール・コランのデザインによってセルジュ・ピメノフ及びドゥーアルニヨンが設計した。音楽は「巴里祭」「最後の億万長者」のモーリス・ジョーベールが作曲している。
[ あらすじ ] 秋も終わろうとする11月のイタリア、コモ湖畔に立つ宏荘な古城は霧こめて憂愁であった。クリスチーヌ(マリー・ベル)は年かさの夫の野辺の送りを済ませたばかりである。非常に人の良い夫ではあったが、年齢が離れすぎていた為にクリスチーヌは夫に愛を感じないでしまった。美しい若妻をいとおしむ余りか、夫は彼女に何人との交際も許さなかった。36歳の今、クリスチーヌは過ぎた20年の結婚生活に青春の悦びを味わった事のなかった淋しさを今更の様に感じるのである。夫を失ったクリスチーヌは誰ひとりの身寄りもなく、訪ねるべき友もない。が彼女はまだ若い。もう一度人生を新しく出直そう。クリスチーヌは夫の形見をすべて召使達に与え、思い出の品を炉に投げた。その中からふと取り落とした一片の手帖。それはクリスチーヌが一人前の女として初めて舞踏会に出た折の、ダンス相手の男の名を書き記したものだ。あの時の十人の若者達は、どうしているのであろう。想い出そうとしても二十年の歳月は記憶を消してしまった。否いな、ジェラールをどうして忘れ得よう。あの時は十八歳だった。金髪で、ギリシャ神話の神の様に美しかったジェラール。十六歳のクリスチーヌが秘かに愛を感じたジェラール。彼女は目を閉じた。瞼に浮かぶのは美しいシャンデリヤのもと、甘いワルツの曲に乗って、白いレースの裳も軽く、踊りに酔った20年昔の舞踏会だ。亡き夫の秘書であったブレモン(ベナール)に頼んで、十人の男達の住所を調べて貰うと、その二人はすでに他界していた。そして皮肉にもジェラールだけが、住所が解らない。思い立った事だ、クリスチーヌは旅装を整えた。 先ず訪れたジョルジュ・オーディエの家で、出迎えたのは母のオーディエ夫人(フランソワーズ・ロゼー)であった。夫人は彼女と対座すると、貴女はクリスチーヌでしょう、いまはジョルジュは戻ります、是非会って、貴女の娘さんと結婚させて下さい、と言う。ジョルジュは20年前クリスチーヌの婚約を聞いた時自殺したのだ。動転した母親はその死亡通知も出さなかったので、クリスチーヌも今初めて知ったのだ。狂気の母は彼女を追い出した。 次はキャバレエの経営者となっているピエール・ヴェルディエだ。今はジョウ(ルイ・ジューヴェ)と名も変わって、夜盗団の采配を振る前科者だ。ヴェルレーヌの詩を誦した昔日の面影はすでに失せている。それでも昔話に夜の更けるのも忘れたが、踏み込んで来た官憲にジョウは曳かれて行った。 ピアニストのアラン・レニョオを訪ねると、今は神父ドミニック(アリ・ボール)であった。児童聖歌隊に讚美歌を教えている老僧も、かつてはクリスチーヌを想って死のうとした事もあった、と聞いて彼女の心はまた痛むのだ。 次にアルプスに登ってエリック・イレヴァン(ピエール・リシャール・ウィルム)に会った。詩人を志した彼はいま山案内人である。昔を語り合って、二人の心は溶け合った。彼とならば新生をともに出来ようか。しかしエリックは雪崩の警鐘を聞くと彼女を捨てて義務へ走った。 南フランス海岸の田舎町には、政治家志望だったフランソワ・パテュセ(レイミュ)が町長をしている。彼女が訪れた日、彼は女中を後妻に迎える結婚式に忙しかった。 マルセイユで医師ティェリー(ピエール・ブランシャール)を訪れたが、彼は既に反狂乱の廃疾者だった。 彼女は生まれ故郷で理髪師になっているファビアン(フェルナンデル)と、日曜の夜の舞踏会へ出て見た。それは彼女が瞼に描く舞踏会とは似もやらぬ侘びしい田舎びたものだった。 幻滅と共に帰った彼女はジェラールが湖の対岸に住むと初めて知り訪れると彼は一週間前に死んでいた。彼女はその忘れ形見ジャック(ロベール・リナン)を養子に迎えた。何か母性愛に似た愛情を抱いて。
――という具合で、結局ヒロインが知るのは時間の流れは人を否応なしに変え、失われた青春は戻っては来ず人はつねに現在に生きるしかない、というありふれた人生の真実なのですが、これをきちんと説得力のあり情感のあふれた映画にするのはデュヴィヴィエほどの腕前の映画監督ならではで、本作はシナリオや小説の書き方講座の類ではいちばん悪い例とされる構成を意図的に取っています。長編映画や小説はだいたい10章前後の構成で出来ていますが、因果関係のある伏線とその回収で進んでいき全体が結末に収斂する筋立てが上出来とされ、エピソードの羅列からなる構成は「串ダンゴ」と呼ばれてもっとも初心者の陥りがちな悪い構成とされます。しかし古代ギリシャ・ローマ時代の物語文学や中世の『源氏物語』『カンタベリー物語』『デカメロン』、近世でも18世紀までの物語文学はみんな串ダンゴ構成で名作を生んできたので、因果関係や伏線などは19世紀から現在までの近代思潮の合理化・効率化が生んだ方法で人生の実相には関係がないとも言えて、小説や映画の優劣は実際は創作講座で教えられているようなことはほとんど関係ないので、それは実際に優れた作品を多く知るほど理解できます。本作も実は串ダンゴに見えて7人への訪問への順序と各エピソードの内容は巧みな緩急がついていて、実はヒロインが会いに行った相手は早逝していて息子の自殺を信じられない老母(フランソワーズ・ロゼー)に応対されるうちに徐々にこの母が狂っているのがわかる一人目、昔はヴェルレーヌの詩を教えてくれた文学青年がギャングの親玉(ルイ・ジューヴェ)になっていた二人目、ピアニストだった男が今は教会の聖歌隊指導者の神父(アリ・ボール)になっていた三人目、アルプスで山岳ガイドになっている今も若々しい元詩人(ピエール・リシャール・ウィルム)でヒロインにこれから二人で第二の人生を歩もうと申し出るも緊急の遭難の報に駆けつけていく四人目、世慣れた田舎町長(レイミュ)になって町長再選とともに長年勤めた所帯じみた女中と再婚しようとしている五人目、波止場街のスラムで違法堕胎医(ピエール・ブランシャール)をしている隻眼眼帯の麻薬中毒者でヒロインが立ち去った後に錯乱して情婦を殺害する六人目、町の人気美容師で妻と子と円満な家庭を営んでいる七人目と実に巧妙にまるで別々の人生模様が描かれ、この人気喜劇役者フェルナンデル演じる美容師が「きみと結婚していたら今の幸福はなかったなあ」と心から妻子を愛し今の人生を楽しんでいて、妻は得意でないから一緒じゃないけど毎週一人で踊りに行くよという男で、そこでヒロインは20年ぶりにこの美容師と町の舞踏会に行き16歳の初舞踏会にときめく少女と会い自分の時も16歳の初舞踏会という魔法だったのだ、と感慨を深くします。帰ったヒロインは秘書から八人目の男の消息を知りますが、訪ねていくとつい先週亡くなったばかりで、両親に先立たれた10代半ばの少年(ロベール・リナン)が空っぽの館で明日には借財で館も地所も人手に渡る、と途方に暮れています。ヒロインは20年前の青年そっくりのその少年を引き取り、ラストシーンはヒロインが少年を初めての舞踏会に送り出して終わります。キネマ旬報はこれを「彼女はその忘れ形見ジャックを養子に迎えた。何か母性愛に似た愛情を抱いて」とご丁寧に解釈までしていますが、七人目で幸福な妻子持ちの美容師のと20年ぶりの舞踏会で初舞踏会にときめいている少女と出会うのがエピローグというべき遺児の少年ジャックを引き取り若い世代を見守るヒロインの心の動きに自然につながっており、訪ねていく七人はヒロインのマリー・ベルがいちばん格下なくらい全員当時のフランス映画界の名優で短い出演場面だけで鮮やかに人生の年輪を感じさせてくれる見事なキャスティングです。元文学青年で、今やキャバレー経営者でギャングの親玉のルイ・ジューヴェが永井荷風の『珊瑚集』でも知られる「道行(寂しい会話)」の第1連「寒く寂しき古庭に/二人の恋人通りけり」を手下からヒロインに伝言され、これはジューヴェがヒロインに教えた詩なのですが警察の手が伸びているジューヴェはヒロインに面会するまで思い出せず、「何のつもりだ!?」とギャングの隠語と勘違いするなど描写も細かく、かつジューヴェの人生変転もこれだけで伝わってくる。息子の自殺を信じじられず20年前で時間が止まりヒロインをヒロインの母と思いこんで面会する狂母のロゼーから訪問が始まるのも異常なエピソードですが、エピソード完結型の串ダンゴのようでいてきちんと累積的な効果があり、充実したオムニバス構成と観終えた後で映画の全体像が中年にさしかかった世間知らずの未亡人のヒロインの人生認識の過程を描いた映画として迫ってくる。デュヴィヴィエ作品としては例外的な作品かもしれませんが'30年代フランスのオールスター映画としてこれは見事な成果で、広く人生への洞察を映画の焦点にした結果異例の構成が成功した映画です。『にんじん』や本作について言えば、ペシミスティックな「詩的リアリズム」映画ではなく人生への暖かい眼差し(酷薄な要素もありますが)が映画を潤いのあるものにしているのではないでしょうか。
●9月10日(月)
『ゲームの規則』La Regle du jeu (Nouvelle Edition Francaise, 1939)*106min, B/W : 1939年7月7日フランス公開
監督:ジャン・ルノワール(1894-1979)、主演:マルセル・ダリオ、ノラ・グレゴール
・狩りに集まった人々のインモラルな男女関係を風刺した群集劇風のラブ・コメディ。フランスの上流階級の恋のかけひきと、その召使達の恋のかけひきを描いている。監督自身も狂言回として出演している。
[ 解説 ] 狩りに集まった上流階級の恋愛遊戯を描く社会風刺劇。ミュッセの戯曲『マリアンヌの気まぐれ』に想を得て、ジャン・ルノワール監督自身が脚本を執筆している。撮影はルノワール映画常連のジャン・バシュレ、音楽はロジェ・デゾルミエール、美術はのちに米英で監督になるユージーン・ローリー、衣裳はココ・シャネルが担当。出演はマルセル・ダリオ、ノラ・グレゴール、ローラン・トゥータン、ジャン・ルノワール、ガストン・モドなど。
[ あらすじ ] ブールジェ飛行場に到着した飛行家アンドレ・ジュリユー(ローラン・トゥータン)は、熱狂した群衆に迎えられた。彼は大西洋を23時間で横断したのだ。しかし、彼は差し出されたマイクに「自分がこの冒険に挑んだのはある女性のためだったが、その彼女が出迎えに来ていない」と不満を表明した。その女性、ラ・シェネイ候爵夫人クリスチーヌ(ノラ・グレゴール)は、パリの邸で小間使いのリゼット(ポーレット・デュボー)に着替えを手伝わせながら、そのラジオ放送を聞いていた。夫のロベール(マルセル・ダリオ)を含め、二人の仲は社交界で周知の事実なのだ。ロベールもまた、愛人ジュヌビエーブ(ミラ・パレリー)と秘かに関係を続けていた。アンドレの親友であり、クリスチーヌの相談相手でもあるオクターブ(ジャン・ルノワール)は、クリスチーヌに働きかけ、ラ・シュネイ家の領地コリニエールで催される狩猟の集いにアンドレを招待させる。コリニエールの密猟監視人シュマシェール(ガストン・モド)は妻のリゼツトと別居しているのが不満の種だが、ある日、密猟人のマルソー(ジュリアン・カレット)をつかまえる。そこに通りかかったロベールは、マルソーが気に入り使用人としてやとうことにした。狩猟の日、ジュヌビエーブと別れることにしたロベールは彼女と別れのキスを交す。それを偶然に目撃したクリスチーヌの目には、密会のようにうつった。翌日、クリスチーヌは彼女に愛を打ち明けるサン=オーバン(ピエール・ナイ)と姿を消し、アンドレはサン=オーバンを殴る。台所ではマルソーがリゼットを口説いているのをみて、シュマシェールが追いかけまわす。候爵はクリスチーヌとアンドレが抱き合っているのを見つけ、アンドレを殴り倒した。大混乱のあと、平静を取りもどしたロベールはアンドレと和解し、騒ぎをおこしたシュマシェールとマルソーを解雇した。解雇された二人が庭で話しあっていると、ベランダにオクターブとリゼットの姿が見えた。実はそれはリゼットのマントをはおったクリスチーヌだった。クリスチーヌはオクターブに、自分が本当に愛しているのは貴方だと打ちあけた。二人は一緒に逃げる約束をし、オクターブはコートを取りにもどる。しかし、リゼットにたしなめられ、アンドレに出くわしたオクターブはコートを彼に渡した。嫉妬にかられたシュマシェールの銃が火を吹き、アンドレはその場で息絶えた。ロベールは、この事件を、仕事熱心な密猟監視人が職務に忠実なあまり起した事故として処埋。お客も何事もなかったかのように、それぞれの部屋に引き返すのだった。
――本作はプレミア公開の時点で批評家と観客の両方から不評で、ルノワールは113分のオリジナル版を85分に短縮して一般公開しましたがそれでも不評で、戦後長いこと85分版でしか再上映されていなかったのですが、ルノワール全作品への再評価が高まった'56年にヴェネツィア国際映画祭でようやく現在観ることができる短縮前のオリジナル版に近い版が復原公開され、その版が'59年に一般公開されて、以降ルノワール最高の作品と見なされるようになったそうです。現行版もオリジナルの113分版までは復原できなかったわけですが、このややこしいドタバタ社交界喜劇が公開時に30分近く短縮された85分版にされたというのが本作の不遇を物語っていて、250万フランの大作級の予算を組んでさらに50万フラン以上予算を超過した自信作作だったため本作の興行的・批評的失敗はルノワールに大きな打撃を与え(ルノワール自身が「『ゲームの規則』のあと、私は進退極まってしまい……」と語っています)、翌'40年にルノワールは再婚相手となる秘書とともにアメリカに渡り、『ゲームの規則』の次作はハリウッド作品『スワンプ・ウォーター』'41で、その後10年ルノワールはフランスに戻りませんでした。本作の復原版が公開された時に批評家や観客を驚嘆させたのは階級崩壊というテーマの先見性とともに、ようやく評価が定着しつつあったオーソン・ウェルズの『市民ケーン』'41で撮影監督のグレッグ・トーランドによる画期的な撮影手法と見られた焦点深度の深いパン・フォーカス技法がすでにルノワール作品のカメラマン、ジャン・バシュレによって『ゲームの規則』に先取りされていたことで、これはやはり後からウィリアム・ワイラーの『嵐が丘』'39や溝口健二の『残菊物語』'39でも行われていたのが再発見されるのですが、特にルノワールと溝口はカットを割らない長いショットのシークエンスでもパン・フォーカスを試みて成功させている点でも感嘆されました。『大いなる幻影』'37と『獣人』'38が興行的にも批評的にも大成功を収めたためルノワールは本作の構想に取りかかり、先にフランス革命の史劇『ラ・マルセイエーズ』'38を仕上げて、当初ルノワールは本作の主要キャストに『獣人』のキャストを予定したのですが、ジャン・ギャバンが飛行士アンドレ役を一旦引き受けるもマルセル・カルネの『陽は昇る』'39の主役に誘われて降り、シモーヌ・シモンはエージェントの指示で本作の予算の1/3近い80万フランを出演料に要求してきたのでこれも無理となり、結局諸事情で『獣人』キャストの起用は全員流れてしまい、またオクターヴ役には専門俳優だったルノワールの兄、ピエールを考えていたそうです。『巴里の屋根の下』で悪党役だったガストン・モドが演じた森番シュマシェール役には『獣人』のフェルナン・ルドゥーを予定していたといい、つまりルノワールには『ゲームの規則』は『獣人』の庶民姦通悲劇を上流階級喜劇に置き換えたもの、というイメージがあったようです。そういう背景を知るとなるほど『獣人』の人間関係を背景を変えて悲劇から喜劇に反転させると『ゲームの規則』か、と頷けるのですが、『ゲームの規則』はヒロインにシモーヌ・シモンは出演料の面で無理で、人づてにノラ・グレゴールという本物の貴族夫人をヒロインに迎えることになってからキャスト全体が見直されたので、結果的に最終的なキャスティングは監督自身の出演も含めて他の俳優では考えられないほど見事なものになり、もしシモンとギャバンを起用していたら『獣人』の上流階級喜劇版にとどまってしまって『ゲームの規則』ではない映画になっていたでしょう。『獣人』と本作を観て、もし本作のヒロインがシモーヌ・シモンで飛行士アンドレ役がギャバンだったらと思うとゾッとするので、『獣人』もルノワールの傑作ですが『獣人』キャストによる本作など想像もつきません。ノラ・グレゴールはたまたまこの年亡命してフランスにいたわけで、こんな所にも本作の成り立ちには不思議な因縁が働いていたような感じがします。