(『オペラの怪人』のテクニカラー場面)
●8月16日(木)
『三人』The Unholy Three (監=トッド・ブラウニング、Metro-Goldwyn-Mayer'25.Aug.16)*86min(Original length, 86min), B/W, Silent; 日本公開昭和3年(1928年)9月 : https://youtu.be/MBvTVHKZYzw (fragment)
それを思うとトッド・ブラウニングが本作で始めた怪奇犯罪路線はいかにもアメリカ的にあざといもので、『ノートルダム~』の時にプロデューサーのアーヴィング・サルバーグ(1899-1936)が第2候補の監督に目していたという通りサルバーグはブラウニングを高く買っており、本作の監督指名と企画もサルバーグでありノンクレジットでプロデュースとフィルム編集に関わっていて(クレジット上はブラウニングの単独プロデュース、フィルム編集名義)、サルバーグは『怪物団(フリークス)』が悪評三昧の大赤字になるまでブラウニング作品のプロデュースをノンクレジットで手がけますが(サルバーグは「プロデューサーは名前を出さずに口だけ出す」主義で、ブラウニング作品に限らずプロデュース作品に自分のプロデュース・クレジットをつけない方針を貫きました。少壮映画人だったからかもしれません)、老婆に変装するチェイニー、赤ん坊に変装する小人、腹話術でオウムを売りつけクレーム電話で自宅を訪ねる詐欺と強盗の下調べの手口、と趣向自体があくどい趣味のもので、見世物小屋の芸人三人が「俺たちは"呪われた三人"だ!」とこういうせこい悪事に乗り出すのもわかりやすく荒唐無稽で、この後は作品ごとに舞台はロンドンだったりマドリッドだったりしますがブラウニング&チェイニー映画は基本的に時代背景は現代、本作の場合は現代アメリカです。サルバーグはかつてチェイニー映画『狼の心』'22の原案を手がけているくらいですし『ノートルダム~』の仕掛け人でもありますから、ブラウニング&チェイニー映画の仕切り直しの第1作である本作にはさぞかし口を出したろうと思われ、その結果がこのあざとい作風なのですから、ブラウニングやチェイニーよりも20歳近く若いサルバーグの意向がここには相当強く働いているのではないかと思えるのです。'22年までのチェイニーの映画にはまだ製作スタッフの素朴なリアリズムの意識が見えましたが、'23年の『ノートルダム~』は異国歴史ロマンス大作でしたし、'24年の『殴られる彼奴』はヨーロッパから招かれた監督によるリアリズムを突き抜けた激烈な作品でした。コメディの『魔人』は置いといて、本作では当時のダイム・ノヴェルや後のコミック、現代日本で言えばラノベやアニメの次元の程度の低い荒唐無稽さを臆面もなく映画化している塩梅です。いわばブラウニング&チェイニー映画は現実とは別次元の作り物になったので、現実を変容させてしまう強烈なシェーストレムの監督としての力量には生粋のアメリカ人スタッフでは及びもつかないとなれば最初から荒唐無稽な作り物に狙いを定めるのはひとつの手で、これでこちたきリアリティとは別種の映画が作れるというのが『三人』で考案されたチェイニー映画の新しい方向性でした。ブラウニング&チェイニー作品はこの後も感想文が続きますから『三人』の内容にはそこで具体的に触れますが、ブラウニング監督作以外のチェイニー映画はともかく、ブラウニング監督作のチェイニーは映画の怪奇性やエキセントリックさに貢献こそすれ、力量の一端を抑制しているように見えるのも確かなのです。
●8月17日(金)
『オペラの怪人』The Phantom of the Opera (監=ルパート・ジュリアン、Universal Pictures'25.Nov.25)*107min(Original length, 107min), B/W (Part Technicolor), Silent; 日本公開大正14年(125年)9月 : https://youtu.be/aI0tWZc8gP4
[ あらすじ ](同上) 1880年のこと、パリオペラ座には恐ろしい幽霊が現われるという評判が立ち、舞姫たちや道具方は恐怖に襲われた折も折、道具方の一人が縊死したのでこれも幽霊のしわざだとますます人々は恐れた。オペラ座の支配人引退興行の夜のこと、プリマドンナのカルロッタ()が突然の病気のため無名の歌手クリスティーヌ・ダーエ(メアリー・フィルビン)が「ファウスト」のマルグリットを演じ大成功を博した。シャニーの子爵ラウール(ノーマン・ケリー)は彼女に思いを寄せ、彼女の仕度部屋を訪れると、不思議や部屋の中には何者とも知れぬ男の声がし、クリスティーヌの哀訴の声が聞えたので、ラウールは嫉妬に堪えられなかった。実はクリスティーヌは、正体の分からぬその声に歌の指導を受けていた。新しい支配人は幽霊なんかと冷笑し、怪人を名乗る者からカルロッタを降板せよとの脅迫状が届くが、それを無視してカルロッタを舞台に立たせる。すると大天井のシャンデリアが墜ちて多くの人々が死傷した。その夜、クリスティーヌの元に怪人が現れる。その怪人こそ生来の恐ろしい顔を持つエリック(ロン・チャニー)であった。エリックはクリスティーヌを愛していたが、クリスティーヌは彼の恐ろしい姿に怯え、ラウールに怪人というのはオペラ座の地下の湖に棲むエリックであることを告げる。逐にある晩の開演中エリックはクリスティーヌを連れ去る。ラウールは愛人を助けに、一人のペルシャ人の案内のもと地下の湖に出かける。ラウールは果して愛人を救うことができるだろうか。かくして戦慄すべきクライマックスがいよいよ展開される。
本作は'30年2月にチェイニー以外の出演者の大半を入れ替えてサウンド・トーキー映画にリメイクされ、チェイニーはMGM専属になっていたので(その上、喉頭ガンの末期でした)チェイニーの出演部分はノンクレジットの代役俳優が最小限の台詞をダビングして公開され、これも数百万ドルの興行収入を上げる大ヒットになりました。このサウンド・リメイク版はレコードにサウンドトラックが残っているだけで散佚作品になっていますが、'50年代にユニヴァーサル社に残っていてフィルム会社のイーストマン・ハウスが購入した35mmネガフィルム版『オペラの怪人』が流通している16mm版マスターをしのぐ本作の最上の画質のプリントとされています。この35mm版もアメリカ本国では16mm版とカップリングしてDVD/Blu-ray化されていますが、どうも現存する35mm版は'30年のサウンド版公開時にさらに再編集され、部分的には最終ヴァージョン以前の試写ヴァージョン、セジウィック版、サウンド・リメイク版のカットが混じっているらしく、家庭用16mmプリントの原盤であるオリジナル'25年版ですら名義上の監督ルパート・ジュリアン単独監督ではなくチェイニー自身の監督部分が混在し、リテイクと追加撮影をしたエドワード・セジウィックの監督パートとミックスされている上に、最上画質の35mmプリントではさらにややこしいことになっているのが判明したので、結局'25年のオリジナル版『オペラの怪人』は16mmプリント版マスターでしか観ることができないわけです。そのオリジナル版も前述したようにプロデューサーのカール・レムリを頂点にスタッフが寄ってたかって引っ掻き回したもので、「映画監督に著作権はない」とはアメリカ時代のキャリアを振り返ったフリッツ・ラングへのロング・インタヴュー本のタイトルですが、アメリカ映画のヒット作の多くは大プロダクションの集団製作なので本作のような複雑な製作過程を経たものは珍しくなく、そうした製作環境の中で自分の主演映画のブランドを確立してみせたチェイニーのような存在は'20年代のサイレント時代の俳優では類例がなくて、自作のプロデューサー兼監督だったチャップリン、プロデューサーを兼ねたロイド、監督を兼ねたキートンのようにトップクラスの喜劇俳優だけがまだ'10年代後半のようなワンマン的な映画づくりを続けていられた状態でした(また最大のワンマン監督だったグリフィス、シュトロハイムは映画監督のキャリアを絶たれることになりました)。それだけにロイド、キートンが'30年代にサウンド・トーキー化してさらにマス・プロダクション化した映画界から引退を余儀なくされ、チャップリンが5年に1作、10年に1作と極端に寡作を強いられたようにはチェイニーの場合はならず、叩き上げの職業俳優としてトーキー時代にも活躍する可能性はあったと思われます。ぜんぜん本作『オペラの怪人』の感想文になっておらず調べたことを書いているだけになってしまいましたが、キートンの『セブン・チャンス』'25の初老の好人物の弁護士役のスニッツ・エドワーズが意外にもこんなところでオペラ座の裏方役でコメディ・ロール役で出番が多く、またやはり裏方の兄弟の弟役で秘密を知った兄を怪人に殺され、クライマックスで暴徒を煽動してチェイニーをリンチ虐殺する裏方シモン役をシュトロハイムがユニヴァーサルを追放されてMGMで撮ったオリジナル版8時間の大作『グリード』'24(公開版130分ヴァージョンしか現存せず)の主演俳優ギブソン・ゴーランドがこれまた結構目立っているのが、今回観直して嬉しい発見でした。本作のような文化遺産は多言無用、いまではあんまり怖くない怪奇映画の古典的名作として気軽に楽しむのがいちばんです。もし他にチェイニー映画を観る機会があれば、チェイニー映画の中心テーマの「社会的弱者」の「報われない愛」が本作にもしっかり芯を通しているのがわかる仕組みです。
●8月18日(土)『黒い鳥』The Blackbird (監=トッド・ブラウニング、Metro-Goldwyn-Mayer'26.Jan.11)*86min(Original length, 77min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/HKANgAAHNFU (fragment)
[ あらすじ ](同上) その名、世にも隠れもないロンドンはライムハウスに、仲間の通り名をブラックバード(ロン・チャニー)という1人の男がいた。彼は悪事を働いていたが、いつもその痕跡を巧みに晦ましていたので未だに縛につかないのである。その頃彼の兄と自称する足の不自由な牧師がいて、ライムハウスの教会堂で貧民たちの渇仰の的となっていたが、この牧師こそ実は何を隠そうブラックバードが世を忍ぶ仮の姿であったとは誰一人として知らなかったのである。ある夜、金持たちからなる貧民視察団が唄い女フィフィ(ルネ・アドレー)の出ている寄席を見物に来た時、ブラックバードはフィフィの歓心を買うため、一行中の女から首飾を盗もうとした。が、その視察団に入込んでいたこれも腕利きのウェストエンド・エディ(オーエン・ムーア)はブラックバードを出し抜いてその首飾を盗みフィフィに与えその心を捕えた。出し抜かれたブラックバードは怒ってエディの部屋に忍び入り首飾を盗み出したが、その時は既にエディが女の愛をかち得、結婚するために牧師の許を訪れた後であった。牧師になっていたブラックバードはエディの正体をあばき、彼を警察の手に渡そうとしたが、首飾盗難事件は警察の出勤を見、エディの部屋は警察に包囲された。その警官の一人はこの部屋に潜伏していたブラックバードによって倒された。やがて捕らえられた悪党の一味ゴースト(アンディ・マクレナン)の自白によって警官はブラックバードの逮捕に向った。警官が踏み込んだ時は恰度彼が昔の情婦ポリー(ドリス・ロイド)に諭されている時であった。彼は警官が来たので急いで牧師に変装しようとして脚を折り、終生の障害者となったが、これが計らずも彼をして善心に立帰らしめる楔となったのであった。
ただしブラウニングは、本作では原作も書き下ろしているように一種の実験的な作劇法を編み出したとも言えるので、一人二役でロンドンの場末のギャングが実は兄と偽って片足不具の松葉杖の牧師を演じて堂々と世間を騙し(情報収集と変装による身元隠しのため。顔が似ているのは兄弟だからで済ませられます)、さらに自分のシマに上流階級の紳士に化けて他のシマの実力者ウェスト・エンド・エディが荒らしにくる。キネマ旬報近着外国映画紹介では「イングランド・エディ」となっていましたが実際の映画通り直しました。ちなみに本作のあらすじは大筋は合っていますが所々実際の映画とは違っていて、どうやら試写以前にアメリカのMGM本社から届いたプレス・キットからあらすじを訳したようです。「出し抜かれたブラックバードは怒ってエディの部屋に忍び入り首飾を盗み出したが」は実際はエディの正体を暴きに面会を申し込んで悪党同士の仁義を交わし、コイントスで勝負して首飾りを勝ち取りますし、「エディの部屋は警察に包囲された。その警官の一人はこの部屋に潜伏していたブラックバードによって倒された」はフフィと婚約したエディを陥れようとチェイニーが首飾りの盗難をエディと密告したのはあらすじ通りですが、エディの逃走と警官狙撃(暖炉の中からチェイニーが撃った)はずっと後まで伏せられていて、エディは首飾り泥棒よりも警官狙撃によって追い詰められます。「警官が踏み込んだ時は……彼は警官が来たので急いで牧師に変装しようとして脚を折り、終生の障害者となったが」は前後関係が転倒していて、よれよれになって牧師館に逃走してきたチェイニーはドアに鍵をかけ、ブラックバードの服装から牧師服に着替えながら一人二役で兄のビショップを襲うブラックバード、ブラックバードを諭し抵抗するビショップ、というアクションを家具を倒しながら演じてドアの外に聞かせ、牧師服に着替え終えて窓を叩き割りブラックバードの逃走を演出して松葉杖でドアにもたれかかりますが、警官隊の強行突入で床に叩きつけられます。大丈夫ですか、もうブラックバードは逃げましたからあなたは安全です、と警官に介抱されるもチェイニーは倒れた衝撃で背骨が折れ、苦痛でもがき苦しみます。すぐ医者を呼びます、という警官に「No Doctor!」とチェイニー。別れた妻のポリーが入ってきます。警官はポリーに介抱を任せて去り、チェイニーは部屋の隅に丸めたブラックバードの服に気づきポリーに服を暖炉にくべてくれ、と頼みます。ポリーは初めて牧師が別れた夫ブラックバードの一人二役だったのに気づき愕然とします。今やおれは松葉杖すら突けない完全な不具者だ、だが医者に診られたら元から足が不自由でなかったことがバレてしまう…痛い、痛い!医者に診せないでくれ、と脊柱骨折したチェイニーは喘ぎ(腹部まで痙攣させ続けるすごい全身演技です)、チェイニーの重態を悟ったポリーはチェイニーを許して変装服を隠し、医者が来る前に眠るのよ、とチェイニーに話しかけます。眠くなってきた、もう痛くない、とチェイニーの苦痛の表情は和らぎ、眠りの顔になります。医者が到着します。ポリーはもう大丈夫です、静かに眠っていますから、と医者を帰します。もう大丈夫、医者は帰ったわよ、とポリーはチェイニーの寝顔に話しかけますが、チェイニーはすでに安らかな表情のままで息を引き取っています。映画はハネムーンに出かけようと支度を終え抱擁しあうエディとフィフィの姿で終わります。キネマ旬報のあらすじでは更正して新生活を始めるみたいに読めますが、これもMGMのプレス資料由来でしょう。『ノートルダム~』で終わりだと言っていたのにまた出た松葉杖チェイニー、という感じもしますが本作の趣向は健常者と身体障害者の一人二役変装犯罪映画という点にあり、クライマックスのチェイニーの鬼気迫る臨終演技だけでも本作は胸に迫る秀作になっていますが、『三人』同様脇役カップルの抱擁シーンで終わらせるのが大衆性で売るMGM映画の限界でもあります。『殴られる彼奴』はサーカスの一座の舞台上のカップルだったので気にならなかったのですが、『三人』や本作などはチェイニーを映したままのエンドマークだったらどんなに感動的だったか。それを思うとユニヴァーサル社長直々のプロデュース作品ながら怪人のリンチ死体が地下水路に投げこまれて水面の泡のボコボコで終わってしまう『オペラの怪人』は容赦なかったので、ブラウニングの本作(ちなみにロンドンといえば霧、ということか、路上や街角シーンはしっかり霧が焚いてあります)も悪党同士の丁々発止などなかなか柄の悪いセンスを見せ、早くにサンフランシスコの暗黒街映画『法の外』'20を撮っていただけはあります。ただしブラウニングの柄の悪さはえぐいキャラクターは描けても人間性そのものの洞察に届いているとは言えない面があり、本作もそうした弱点をチェイニー渾身の演技が補ってこその作品と思えなくもありません。
●8月16日(木)
『三人』The Unholy Three (監=トッド・ブラウニング、Metro-Goldwyn-Mayer'25.Aug.16)*86min(Original length, 86min), B/W, Silent; 日本公開昭和3年(1928年)9月 : https://youtu.be/MBvTVHKZYzw (fragment)
それを思うとトッド・ブラウニングが本作で始めた怪奇犯罪路線はいかにもアメリカ的にあざといもので、『ノートルダム~』の時にプロデューサーのアーヴィング・サルバーグ(1899-1936)が第2候補の監督に目していたという通りサルバーグはブラウニングを高く買っており、本作の監督指名と企画もサルバーグでありノンクレジットでプロデュースとフィルム編集に関わっていて(クレジット上はブラウニングの単独プロデュース、フィルム編集名義)、サルバーグは『怪物団(フリークス)』が悪評三昧の大赤字になるまでブラウニング作品のプロデュースをノンクレジットで手がけますが(サルバーグは「プロデューサーは名前を出さずに口だけ出す」主義で、ブラウニング作品に限らずプロデュース作品に自分のプロデュース・クレジットをつけない方針を貫きました。少壮映画人だったからかもしれません)、老婆に変装するチェイニー、赤ん坊に変装する小人、腹話術でオウムを売りつけクレーム電話で自宅を訪ねる詐欺と強盗の下調べの手口、と趣向自体があくどい趣味のもので、見世物小屋の芸人三人が「俺たちは"呪われた三人"だ!」とこういうせこい悪事に乗り出すのもわかりやすく荒唐無稽で、この後は作品ごとに舞台はロンドンだったりマドリッドだったりしますがブラウニング&チェイニー映画は基本的に時代背景は現代、本作の場合は現代アメリカです。サルバーグはかつてチェイニー映画『狼の心』'22の原案を手がけているくらいですし『ノートルダム~』の仕掛け人でもありますから、ブラウニング&チェイニー映画の仕切り直しの第1作である本作にはさぞかし口を出したろうと思われ、その結果がこのあざとい作風なのですから、ブラウニングやチェイニーよりも20歳近く若いサルバーグの意向がここには相当強く働いているのではないかと思えるのです。'22年までのチェイニーの映画にはまだ製作スタッフの素朴なリアリズムの意識が見えましたが、'23年の『ノートルダム~』は異国歴史ロマンス大作でしたし、'24年の『殴られる彼奴』はヨーロッパから招かれた監督によるリアリズムを突き抜けた激烈な作品でした。コメディの『魔人』は置いといて、本作では当時のダイム・ノヴェルや後のコミック、現代日本で言えばラノベやアニメの次元の程度の低い荒唐無稽さを臆面もなく映画化している塩梅です。いわばブラウニング&チェイニー映画は現実とは別次元の作り物になったので、現実を変容させてしまう強烈なシェーストレムの監督としての力量には生粋のアメリカ人スタッフでは及びもつかないとなれば最初から荒唐無稽な作り物に狙いを定めるのはひとつの手で、これでこちたきリアリティとは別種の映画が作れるというのが『三人』で考案されたチェイニー映画の新しい方向性でした。ブラウニング&チェイニー作品はこの後も感想文が続きますから『三人』の内容にはそこで具体的に触れますが、ブラウニング監督作以外のチェイニー映画はともかく、ブラウニング監督作のチェイニーは映画の怪奇性やエキセントリックさに貢献こそすれ、力量の一端を抑制しているように見えるのも確かなのです。
●8月17日(金)
『オペラの怪人』The Phantom of the Opera (監=ルパート・ジュリアン、Universal Pictures'25.Nov.25)*107min(Original length, 107min), B/W (Part Technicolor), Silent; 日本公開大正14年(125年)9月 : https://youtu.be/aI0tWZc8gP4
[ あらすじ ](同上) 1880年のこと、パリオペラ座には恐ろしい幽霊が現われるという評判が立ち、舞姫たちや道具方は恐怖に襲われた折も折、道具方の一人が縊死したのでこれも幽霊のしわざだとますます人々は恐れた。オペラ座の支配人引退興行の夜のこと、プリマドンナのカルロッタ()が突然の病気のため無名の歌手クリスティーヌ・ダーエ(メアリー・フィルビン)が「ファウスト」のマルグリットを演じ大成功を博した。シャニーの子爵ラウール(ノーマン・ケリー)は彼女に思いを寄せ、彼女の仕度部屋を訪れると、不思議や部屋の中には何者とも知れぬ男の声がし、クリスティーヌの哀訴の声が聞えたので、ラウールは嫉妬に堪えられなかった。実はクリスティーヌは、正体の分からぬその声に歌の指導を受けていた。新しい支配人は幽霊なんかと冷笑し、怪人を名乗る者からカルロッタを降板せよとの脅迫状が届くが、それを無視してカルロッタを舞台に立たせる。すると大天井のシャンデリアが墜ちて多くの人々が死傷した。その夜、クリスティーヌの元に怪人が現れる。その怪人こそ生来の恐ろしい顔を持つエリック(ロン・チャニー)であった。エリックはクリスティーヌを愛していたが、クリスティーヌは彼の恐ろしい姿に怯え、ラウールに怪人というのはオペラ座の地下の湖に棲むエリックであることを告げる。逐にある晩の開演中エリックはクリスティーヌを連れ去る。ラウールは愛人を助けに、一人のペルシャ人の案内のもと地下の湖に出かける。ラウールは果して愛人を救うことができるだろうか。かくして戦慄すべきクライマックスがいよいよ展開される。
本作は'30年2月にチェイニー以外の出演者の大半を入れ替えてサウンド・トーキー映画にリメイクされ、チェイニーはMGM専属になっていたので(その上、喉頭ガンの末期でした)チェイニーの出演部分はノンクレジットの代役俳優が最小限の台詞をダビングして公開され、これも数百万ドルの興行収入を上げる大ヒットになりました。このサウンド・リメイク版はレコードにサウンドトラックが残っているだけで散佚作品になっていますが、'50年代にユニヴァーサル社に残っていてフィルム会社のイーストマン・ハウスが購入した35mmネガフィルム版『オペラの怪人』が流通している16mm版マスターをしのぐ本作の最上の画質のプリントとされています。この35mm版もアメリカ本国では16mm版とカップリングしてDVD/Blu-ray化されていますが、どうも現存する35mm版は'30年のサウンド版公開時にさらに再編集され、部分的には最終ヴァージョン以前の試写ヴァージョン、セジウィック版、サウンド・リメイク版のカットが混じっているらしく、家庭用16mmプリントの原盤であるオリジナル'25年版ですら名義上の監督ルパート・ジュリアン単独監督ではなくチェイニー自身の監督部分が混在し、リテイクと追加撮影をしたエドワード・セジウィックの監督パートとミックスされている上に、最上画質の35mmプリントではさらにややこしいことになっているのが判明したので、結局'25年のオリジナル版『オペラの怪人』は16mmプリント版マスターでしか観ることができないわけです。そのオリジナル版も前述したようにプロデューサーのカール・レムリを頂点にスタッフが寄ってたかって引っ掻き回したもので、「映画監督に著作権はない」とはアメリカ時代のキャリアを振り返ったフリッツ・ラングへのロング・インタヴュー本のタイトルですが、アメリカ映画のヒット作の多くは大プロダクションの集団製作なので本作のような複雑な製作過程を経たものは珍しくなく、そうした製作環境の中で自分の主演映画のブランドを確立してみせたチェイニーのような存在は'20年代のサイレント時代の俳優では類例がなくて、自作のプロデューサー兼監督だったチャップリン、プロデューサーを兼ねたロイド、監督を兼ねたキートンのようにトップクラスの喜劇俳優だけがまだ'10年代後半のようなワンマン的な映画づくりを続けていられた状態でした(また最大のワンマン監督だったグリフィス、シュトロハイムは映画監督のキャリアを絶たれることになりました)。それだけにロイド、キートンが'30年代にサウンド・トーキー化してさらにマス・プロダクション化した映画界から引退を余儀なくされ、チャップリンが5年に1作、10年に1作と極端に寡作を強いられたようにはチェイニーの場合はならず、叩き上げの職業俳優としてトーキー時代にも活躍する可能性はあったと思われます。ぜんぜん本作『オペラの怪人』の感想文になっておらず調べたことを書いているだけになってしまいましたが、キートンの『セブン・チャンス』'25の初老の好人物の弁護士役のスニッツ・エドワーズが意外にもこんなところでオペラ座の裏方役でコメディ・ロール役で出番が多く、またやはり裏方の兄弟の弟役で秘密を知った兄を怪人に殺され、クライマックスで暴徒を煽動してチェイニーをリンチ虐殺する裏方シモン役をシュトロハイムがユニヴァーサルを追放されてMGMで撮ったオリジナル版8時間の大作『グリード』'24(公開版130分ヴァージョンしか現存せず)の主演俳優ギブソン・ゴーランドがこれまた結構目立っているのが、今回観直して嬉しい発見でした。本作のような文化遺産は多言無用、いまではあんまり怖くない怪奇映画の古典的名作として気軽に楽しむのがいちばんです。もし他にチェイニー映画を観る機会があれば、チェイニー映画の中心テーマの「社会的弱者」の「報われない愛」が本作にもしっかり芯を通しているのがわかる仕組みです。
●8月18日(土)『黒い鳥』The Blackbird (監=トッド・ブラウニング、Metro-Goldwyn-Mayer'26.Jan.11)*86min(Original length, 77min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/HKANgAAHNFU (fragment)
[ あらすじ ](同上) その名、世にも隠れもないロンドンはライムハウスに、仲間の通り名をブラックバード(ロン・チャニー)という1人の男がいた。彼は悪事を働いていたが、いつもその痕跡を巧みに晦ましていたので未だに縛につかないのである。その頃彼の兄と自称する足の不自由な牧師がいて、ライムハウスの教会堂で貧民たちの渇仰の的となっていたが、この牧師こそ実は何を隠そうブラックバードが世を忍ぶ仮の姿であったとは誰一人として知らなかったのである。ある夜、金持たちからなる貧民視察団が唄い女フィフィ(ルネ・アドレー)の出ている寄席を見物に来た時、ブラックバードはフィフィの歓心を買うため、一行中の女から首飾を盗もうとした。が、その視察団に入込んでいたこれも腕利きのウェストエンド・エディ(オーエン・ムーア)はブラックバードを出し抜いてその首飾を盗みフィフィに与えその心を捕えた。出し抜かれたブラックバードは怒ってエディの部屋に忍び入り首飾を盗み出したが、その時は既にエディが女の愛をかち得、結婚するために牧師の許を訪れた後であった。牧師になっていたブラックバードはエディの正体をあばき、彼を警察の手に渡そうとしたが、首飾盗難事件は警察の出勤を見、エディの部屋は警察に包囲された。その警官の一人はこの部屋に潜伏していたブラックバードによって倒された。やがて捕らえられた悪党の一味ゴースト(アンディ・マクレナン)の自白によって警官はブラックバードの逮捕に向った。警官が踏み込んだ時は恰度彼が昔の情婦ポリー(ドリス・ロイド)に諭されている時であった。彼は警官が来たので急いで牧師に変装しようとして脚を折り、終生の障害者となったが、これが計らずも彼をして善心に立帰らしめる楔となったのであった。
ただしブラウニングは、本作では原作も書き下ろしているように一種の実験的な作劇法を編み出したとも言えるので、一人二役でロンドンの場末のギャングが実は兄と偽って片足不具の松葉杖の牧師を演じて堂々と世間を騙し(情報収集と変装による身元隠しのため。顔が似ているのは兄弟だからで済ませられます)、さらに自分のシマに上流階級の紳士に化けて他のシマの実力者ウェスト・エンド・エディが荒らしにくる。キネマ旬報近着外国映画紹介では「イングランド・エディ」となっていましたが実際の映画通り直しました。ちなみに本作のあらすじは大筋は合っていますが所々実際の映画とは違っていて、どうやら試写以前にアメリカのMGM本社から届いたプレス・キットからあらすじを訳したようです。「出し抜かれたブラックバードは怒ってエディの部屋に忍び入り首飾を盗み出したが」は実際はエディの正体を暴きに面会を申し込んで悪党同士の仁義を交わし、コイントスで勝負して首飾りを勝ち取りますし、「エディの部屋は警察に包囲された。その警官の一人はこの部屋に潜伏していたブラックバードによって倒された」はフフィと婚約したエディを陥れようとチェイニーが首飾りの盗難をエディと密告したのはあらすじ通りですが、エディの逃走と警官狙撃(暖炉の中からチェイニーが撃った)はずっと後まで伏せられていて、エディは首飾り泥棒よりも警官狙撃によって追い詰められます。「警官が踏み込んだ時は……彼は警官が来たので急いで牧師に変装しようとして脚を折り、終生の障害者となったが」は前後関係が転倒していて、よれよれになって牧師館に逃走してきたチェイニーはドアに鍵をかけ、ブラックバードの服装から牧師服に着替えながら一人二役で兄のビショップを襲うブラックバード、ブラックバードを諭し抵抗するビショップ、というアクションを家具を倒しながら演じてドアの外に聞かせ、牧師服に着替え終えて窓を叩き割りブラックバードの逃走を演出して松葉杖でドアにもたれかかりますが、警官隊の強行突入で床に叩きつけられます。大丈夫ですか、もうブラックバードは逃げましたからあなたは安全です、と警官に介抱されるもチェイニーは倒れた衝撃で背骨が折れ、苦痛でもがき苦しみます。すぐ医者を呼びます、という警官に「No Doctor!」とチェイニー。別れた妻のポリーが入ってきます。警官はポリーに介抱を任せて去り、チェイニーは部屋の隅に丸めたブラックバードの服に気づきポリーに服を暖炉にくべてくれ、と頼みます。ポリーは初めて牧師が別れた夫ブラックバードの一人二役だったのに気づき愕然とします。今やおれは松葉杖すら突けない完全な不具者だ、だが医者に診られたら元から足が不自由でなかったことがバレてしまう…痛い、痛い!医者に診せないでくれ、と脊柱骨折したチェイニーは喘ぎ(腹部まで痙攣させ続けるすごい全身演技です)、チェイニーの重態を悟ったポリーはチェイニーを許して変装服を隠し、医者が来る前に眠るのよ、とチェイニーに話しかけます。眠くなってきた、もう痛くない、とチェイニーの苦痛の表情は和らぎ、眠りの顔になります。医者が到着します。ポリーはもう大丈夫です、静かに眠っていますから、と医者を帰します。もう大丈夫、医者は帰ったわよ、とポリーはチェイニーの寝顔に話しかけますが、チェイニーはすでに安らかな表情のままで息を引き取っています。映画はハネムーンに出かけようと支度を終え抱擁しあうエディとフィフィの姿で終わります。キネマ旬報のあらすじでは更正して新生活を始めるみたいに読めますが、これもMGMのプレス資料由来でしょう。『ノートルダム~』で終わりだと言っていたのにまた出た松葉杖チェイニー、という感じもしますが本作の趣向は健常者と身体障害者の一人二役変装犯罪映画という点にあり、クライマックスのチェイニーの鬼気迫る臨終演技だけでも本作は胸に迫る秀作になっていますが、『三人』同様脇役カップルの抱擁シーンで終わらせるのが大衆性で売るMGM映画の限界でもあります。『殴られる彼奴』はサーカスの一座の舞台上のカップルだったので気にならなかったのですが、『三人』や本作などはチェイニーを映したままのエンドマークだったらどんなに感動的だったか。それを思うとユニヴァーサル社長直々のプロデュース作品ながら怪人のリンチ死体が地下水路に投げこまれて水面の泡のボコボコで終わってしまう『オペラの怪人』は容赦なかったので、ブラウニングの本作(ちなみにロンドンといえば霧、ということか、路上や街角シーンはしっかり霧が焚いてあります)も悪党同士の丁々発止などなかなか柄の悪いセンスを見せ、早くにサンフランシスコの暗黒街映画『法の外』'20を撮っていただけはあります。ただしブラウニングの柄の悪さはえぐいキャラクターは描けても人間性そのものの洞察に届いているとは言えない面があり、本作もそうした弱点をチェイニー渾身の演技が補ってこその作品と思えなくもありません。