(『天罰(The Penalty)』'20の1シーンより)
一般的には『ノートルダム~』『オペラ~』の2作が代表作とされ、またこの2作もチェイニーの本領を発揮した名作ですが、悪役俳優からキャリアを始めたチェイニーは、さまざまな社会的弱者を演じることを生涯のテーマにしていた異色の俳優でした。それは当時のアメリカではネガティヴに見られた被差別下の状況にある人々――先住民や少数民族移民、有色人種、身体障害者、精神障害者、搾取された労働者、貧困や孤独を背景にした犯罪者ら、社会の暗部を担う役柄を演じることに表れたので、チェイニーの主演映画ではそうした社会の底辺で抑圧された主人公がしばしば残酷な境遇に反抗して反社会的な行動を重ね、無惨な破滅を迎えます。しかしストーリーの上では映画は市民的常識力に従って主人公を敗北させても、真の観客への訴えは無情な偏見にさらされた主人公と、自由と公正さを希求する必死の闘争なので、チェイニーの演じる主人公は常に自己の規律に厳しく、自己犠牲的ですらあるアンチ・ヒーローであり、映画の体裁とその真意がまったく反対でもあるのがサイレント時代の映画の限界でもあり、逆にテーマをそのまま表現できない桎梏が映画のニュアンスを複雑な味わいのものにしています。作家レイ・ブラッドベリは「チェイニーは人々の心を見抜き、精神そのものを演じることができる俳優だった。チェイニーの映画は報われない愛への怖れの歴史であり、それが決定的になればチェイニーの映画は世界を変えるかもしれなかった」と激賞しています。決して「ホラー映画の元祖」で済まされるものではなく、かつ映画俳優が精神そのものであり得たサイレント映画時代の最大の俳優の一人、ロン・チェイニーの存在は知られるよりもずっと大きく、重要なのではないかと思われるのです。
『仮面の人』The False Faces (製=トーマス・H・インス/監=アーヴィン・V・ウィラット、Paramount Pictures'19.Feb.16)*97min(Original length, 97min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/gMItFchaFgA
[ あらすじ ](同上) パリの悪漢団の中に「ローンウルフ」として知られているミカエル・ランヤード(ヘンリー・B・ウォルソール)は、今は改心して国の為に、独探カール・エックシトローム(ロン・チャニー)を捕えんとしていた。カールはかつて開戦当初独軍が北部仏蘭西へ侵入した時、彼の妻子を虐殺した男であるから、ローンウルフの復讐心は根深いものであった。カールが米国へ向かりう船の中へはローンウルフが早くも乗込んでいる。船中でローンウルフはセシリア(メアリー・アンダースン)という娘に逢う。娘は一日重要書類をローンウルフに托したが、これを知ったカールは彼を襲って来た。そして書類は得られなかったが、ローンウルフを海中に投げ込んで終う。しかし海に沈んだ彼は独逸潜航艇に助けられ、巧に敵手を逃れてカールとセシリアの居るニューヨークへ来る。カールは変名して英国の秘密探偵(ミルトン・ロス)に秘密書類を売ろうとしていた。ローンウルフは娘の為にそれ等を取返そうと金庫を破ったが書類は無かった。この時カールは現れたが、ローンウルフの計略に掛り仲間の弾に倒れる。ローンウルフは英国秘密探偵を装う敵の間諜の手より失われた秘密書類を取り戻し、娘の感謝と愛とを獲たのであった。
と、サイレント映画は無声映画だから情報量が少ないかというとまったく逆で、本作はプロットは単純なのに頻繁なカットバックや変装に次ぐ変装、不十分な描写を伏線として進んでいく展開、サスペンスのつもりで挿入された不要なエピソード(潜水艦の酔っぱらい船長のエピソードなど明らかに水増しです)、持って回った主人公と仇敵チェイニーとの戦い、同じく持って回ったヒロインとのロマンスと、原作者と監督ウィラットの共同脚本ですが脚本自体がまずく、腕っ節の強くなさそうなウォルソールらしいキャラクターとも言えますが仇敵チェイニーを直接対決で倒すのではなく敵同士で相討ちさせる罠にかけて倒したり、マイクロフィルムの奪還も相手の弱みを握って取り返すと万事颯爽としないのが著しくカタルシスに欠けています。また前述の通り映像の流れが雑然として見える箇所が多いばかりか、サイレント映画としても字幕タイトルが多すぎ、改めてほとんど字幕は最小限にとどめて、無字幕で通して十分内容の伝わるシークエンスも多いグリフィスやグリフィス門下出身監督、チャップリンやロイド、キートンらの腕前を見直します。本作は自主制作レーベルのグレイプヴァイン社のDVD-R盤でしかリリースされていないので、同社はメジャー会社どころろかインディー会社すら手をつけない日陰のサイレント・クラシック映画をDVD-R盤で細々と商品化している、ジャケットなど家庭用カラーコピー機でプリントしている通信販売メーカーですが、ニュープリントやデジタル・リマスタリングはおろか音楽も含めて残存プリントをストレートにDVD起こししているだけで、B/W映像の階調どころか白地に黒文字の字幕タイトルならまだしも、黒地に白抜きの字幕タイトルなどはほとんど潰れていて読めません。チェイニーは'17年のヒット作『The Piper's Price』でドロシー・フィリップスとウィリアム・ストーウェルの主演カップルの恋路を妨害する役でしたが、同作の成功でシリーズ化されたフィリップスとストーウェルのカップルの作品は'18年3月公開のグリフィスの『世界の心』に影響された'18年12月の『The Heart of Humanity』ではロン・チェイニーのスケジュールの都合で残虐なドイツ軍将校役を(『世界の心』でもドイツ軍将校役だった)、エリッヒ・フォン・シュトロハイム(1885-1957)が演じたので、『仮面の人』のチェイニーの役は『The Heart of Humanity』のシュトロハイムの役をヒントにしたとも言われます。チェイニーの方がシュトロハイムより2歳年上なのも意外な気がしますが、シュトロハイムが威圧感を感じさせるのに対してチェイニーはどこか脆さを感じさせる狡猾さの方が強く、同じ自滅型悪役俳優でも本作は主人公のウォルソールがあまりに成り行き任せなのでシュトロハイムではウォルソールが相手では手強すぎて、それを言えばチェイニーも本作では設定の割には小悪党に終わってしまったように感じます。1918年製作のスパイ・アクション映画と言えばもう100年前の映画ですから、突っ込み所が多いストーリーも古色蒼然たる映像もかえって面白いとも言えるのが、現代の観客の映画的常識や映画への期待からずっこけるようにして映画が展開していくからですが、それを楽しめる人と楽しめない人のどちらにも理があるような映画が本作なので、良し悪しをあげつらうようなものではないでしょう。トーマス・H・インス映画の大味さもまたサイレント時代の映画ならではの大らかな味わいがあると言えるような気がします
●8月2日(木)
『勝利』 Victory (監=モーリス・トゥーヌール、Paramount-Artcraft'19.Dec.7)*62min(Original length, 62min), B/W, Silent; 日本未公開 : https://youtu.be/YRIXYducq84
しかし映画を先に観ればともかく、壮絶な悲劇に終わるコンラッドの原作小説を読んで映画を観た観客は本作の原作からの大きな改変に呆気に取られるのではないでしょうか。マレー諸島のセレベス、交易地で観光地であるスラバヤと好色なショムベルグ(ウォーレス・ビアリー)が営む観光ホテル、主人公ヘイスト(ジャック・ホルト)が住む石炭採掘地の火山島サンビュラン島、中国人従僕ワン、ヒロインのアルマ(シーナ・オーウェン)がこき使われている観光ホテルの呼び物であるザンジャコモ女性楽団、いかさま賭博師の親玉の怪人ミスター・ジョーンズ(ベン・ディーリー)とその用心棒のナイフ使いリカルド(ロン・チェイニー)、相棒をミスター・ジョーンズに殺された挙げ句ジョーンズの下僕になっている白痴のペドロ(ブル・モンタナ)と、原作小説に出てくる人物と設定はほぼそのまま使われています。原作小説はヘイストの唯一の友人のダヴィッドソン船長(ジョージ・ニコルズ)の視点から描かれますが、ダヴィッドソン船長は映画の最初にちょっと出てくるだけです。ヒロインに手をつけようとするショムベルグを見かねて、ショムベルグの妻(ローラ・ウィンストン)が主人公とヒロインの逃走の手引きをするといった、細かい部分も原作から採られています。しかし映画は最初のうちはくどい原作をすっきり整理していてなかなか快調なのですが、中盤以降舞台がサンビュラン島に犯罪者3人組が乗り込んできてからが、ストーリーは原作に忠実なのに人物のキャラクター設定が徐々に変わっていきます。原作の登場人物たちは、主人公とヒロインも含めて非常に矛盾したものを内面に抱えている、行動と内面にも矛盾があるばかりか常に思いがけない行動に出てもおかしくないような状態に描かれています。それを映画にすると人物たちの行動が支離滅裂になりすぎる。本作の字幕タイトルはサイレント映画の劇映画としては標準的で(『仮面の人』は明らかに字幕タイトル過多でした)、コンラッドの原作通りに複雑極まりない性格設定を字幕タイトルで解説するには無理がある、と踏んだのでしょう。一例を上げれば原作ではミスター・ジョーンズは激しい女性嫌悪の持ち主で、それが悪党3人組の仲間割れの原因になりますが、映画ではミスター・ジョーンズもショムベルグやナイフ使いのリカルド同様好色漢なのでそれが原因で仲間割れになる。白痴のペドロが実は、というどんでん返しは原作にはないもので、これは映画オリジナルのアイディアが功を奏していますし、狡猾で好色なナイフ使いのリカルド(スペイン人かメキシコ人?)を演じるチェイニーはスタントなしで火山灰の積もった屋根から地面に落下しますし、初登場でホテル内で賭場を開いた自分たちを退去させようと文句をつけに来たビアリーを脅して、ドアの前に立ったビアリーの脇の下にナイフを投げつけてナイフがドアに刺さるのをこれもビアリー、チェイニーともスタントではなく本当のナイフ投げ芸をやっていて、ちんけな小悪党の役ですが『仮面の人』の元ドイツ軍将校のスパイ役より本作の厭らしい役柄のチェイニーの方が光っています。ウォーレス・ビアリーは役作りかもしれませんが『人生の乞食』'28や『チャンプ』'31より老けメイクで、主演のジャック・ホルトは『桑港』'36や『キャット・ピープル』、『コレヒドール戦記』'45、『ミズーリ横断』'51と長いキャリアを送った人ですし、日本未公開の主演作『Whirlpool』'34はジーン・アーサーと共演したプレ・フィルム・ノワールの古典とされています('49年のオットー・プレミンジャー監督の同名作とは内容は無関係)。ヒロインのシーナ・オーウェンはグリフィス『イントレランス』'16の古代バビロン編でバビロニアのお姫様役だった女優です。本作はロケーションやオープン・セットも多く、南洋らしい映像の明るさが魅力で、筆者は昨2017年発売のアルファ・ヴィデオ盤DVDで初めて観ましたが(それまでは高価なマニア向けインディー盤しか出ていませんでした)、こういうチェイニーやビアリーの出演作は助演時代の作品でもジャック・ホルトよりチェイニー、ビアリーの出演作が売りになっています。観てみたら案の定助作品でしたがウォーレス・ビアリー共演、ヒロインもシーナ・オーウェンだし、監督がトゥーヌールで原作がコンラッドだったので得した気持になりましたが、DVDジャケット裏にもジュールス・ファースマン脚本なのが強調されていて、それなりの期待感を持って視聴し、アルファ・ヴィデオは画質も作品内容も玉石混交ですがグレイプヴァイン社のDVD同様ストレートなテレシネ化の割に画質もまあまあ許せる程度で実に楽しく観ましたが、矛盾に満ちた登場人物と辻褄の合わない展開が壮大な悲劇に収斂していくコンラッドの原作を、矛盾を矯正し辻褄を合わせるとストーリーは原作通りなのに本来コンラッドが立てたプロットの意図がまるで正反対になってしまって、原作とはまったく異なる結末になってしまっていたのには唖然としてしまいました。トゥーヌールの映画では『モヒカン族の最後』も同様の指摘がされますが、映画としては人物の性格やストーリーの展開に一貫性のある作品に仕上げて原作に忠実に物語を追っていても、文学作品である原作に含まれていた大きな混沌はすっきり洗い流されてしまっているきらいがあります。原作小説の問題性が当時の読者には受け入れられるものであったとしても、それを映画で表現できるか、映画で文学作品である原作にはあった矛盾や混沌を表現しても受け入れられるかは難しかった、という事情を考えさせられます。原作小説『勝利』が'30年、'40年、'96年と間を置いて再映画化されたのもそうした理由からだったに違いなく、ただし原作の意図に忠実なのがそのまま映画としてこなれているとは限らないので、トゥーヌールの本作は原作小説から南洋犯罪ロマンスの部分だけを都合良く切り取った映画とも言えますし、逆にこうした効果的な単純化が行えたのは原作小説からの初の映画化、製作年度もサイレント映画の長編時代が定着して間もない1919年(この年はサイレント時代の映画史でも節目になった年です)と、一種条件が偶然に揃ったからでもあるように思われます。
●8月3日(金)
『天罰』The Penalty (監=ウォーレス・ワースリー、Goldwyn Pictures'20.Aug.)*93min(Original length, 90min), B/W (Tinted), Silent; 日本公開(年月日不明) : https://en.wikipedia.org/wiki/File%3AThe_Penalty_%281920%29.webm
[ あらすじ ] 小児の時に受けた手術によって、ブリザード(ロン・チャニー)は両足を失っていた。彼の望みは彼を不具にした医者(チャールズ・クラリー)に復讐することと、サンフランシスコ暗黒界の大頭目となること、他人の両足を切って自分の足の切り口につなぐこと、この3つであった。いかにして彼がこれを企み、これに失敗するかが劇の骨子である。
チェイニーの身体障害者役は『ミラクルマン』を踏襲したものになるそうですが、両脚切断まで極端ではありませんでした。この役は膝を限界まで折って革の脚絆で包んで演じられたそうですが、全体重を両脇の松葉杖で支える苦労ともどもあまりの苦痛に数分以上続けて撮影できなかったそうです。本作の原作は大衆雑誌連載の犯罪スリラーらしいので、突っ込みだらけの点(暗黒街のボスに成り上がった手段や組織の実態が謎とか、警察が無能すぎとか、仇敵に強制した手術を手下に見張らせなかったのかとか)やあんまりな結末(ロボトミー手術!)も原作通りなのでしょう。しかし本作はチェイニー演じる主人公ブリザードの復讐心と邪悪さの中に秘められた悲しみを思いきり扇情的かつ暴露的でショッキングに描くことが意図なので尋常な基準でのリアリティなど問題ではなく、このあんまりな結末さえ医師を信用して裏切られた皮肉とも取れます。しかも、かつて医療過誤で両脚切断したばかりか、本人の同意など当然なしにロボトミー手術で無害化してしまうというこのフェリス医師こそ本当の悪役なのは確かなので、このあまりにむごい残酷譚は一応首尾一貫しているとも言えるのです。チェイニーの演技も映画界入りして8年、37歳にしてつかんだ主演の座で入魂の演技です。サイレント時代の男性俳優は身体能力でこなすタイプの俳優に人気が集まりましたが、喜劇映画はまだしもこうした陰鬱な娯楽映画で、チェイニーのような芸風をこなせる人材はチェイニーしかいなかったので、本作もチェイニーの出演を前提にしなければ成り立たなかった映画です。サイレント時代の映画に限らず映画が実際のテーマと見かけが異なるのはよくあることで、せっかくだからネタバレしますが『勝利』は原作では悪党同士の仲間割れの流れ弾に当たってヒロインは死に、主人公は手遅れになって初めてヒロインへの愛に気づくも絶望して家に放火して後追い自殺し、悪党のうち2人は殺し合って死に、生き残った1人も事故死して全員死んだ後で主人公の友人ダヴィッドソン船長が到着し、真相を知ります。映画では悪党の1人が裏切って仲間を殺して自分も死に、残る1人の悪党は主人公と戦って死に、ヒロインへの愛に目覚めた主人公とヒロインは結ばれて終わります。『勝利』の場合は明らかにストーリーだけを借りてまったく逆のものにしてしまったのですが、『天罰』の場合チェイニーはロボトミー手術という暴力的手段で思考改造されてしまうまでは一貫していて、ローズが探っていたチェイニーの陰謀は1,000人のメキシコ人移民(全員ソンブレロをかぶっています)を雇ってサンフランシスコ中で同時多発武装テロを起こし、秩序を壊滅させてチェイニーの暗黒組織が恐怖支配でサンフランシスコを乗っ取る、という計画でした(チェイニーの語りにカットバックしてテロの様子が映像で流れるので、一瞬テロ決行の場面に時間が飛んだのかと錯覚します)。帽子工場はその資金作りも兼ねているのと、女性嫌悪症のチェイニーのサディズムの満足の両方のためですが、膝までしか両脚がない体で蜘蛛のように移動するチェイニーの、人目にさらされるだけで嫌悪を催される姿を見ていると世界に対する憎悪がそのくらい荒唐無稽であってもおかしくはあるまい、と思えてきます。ワースリーは『ノートルダムの傴僂男』の監督でもありますが、15世紀のフランスを舞台にした文芸歴史映画でもある同作と、現代サンフランシスコのやくざな港町バーバリー・コーストが舞台の本作では生々しさが違います。チェイニーの特異な俳優としての座は前年の『ミラクルマン』に続き、'20年の『宝島』(4月公開)と本作『天罰』の2作で決定的になったそうですが、トゥーヌール監督の『宝島』ではチェイニーは主演俳優ではなく、また同作は現在散佚作品になっています。映画として出来が良いのもありますが『ノートルダムの傴僂男』と『オペラの怪人』はフランスものという点でチェイニーの生々しい憎悪、毒気、痛々しさ、おぞましさ、まがまがしさが適度にファンタジー的なオブラートに包まれているので、万人とまではいかずともわかりやすい怪奇映画らしさが誰にでも楽しめる面があり、チェイニー版に続いてはチャールズ・ロートン版『せむし男』、クロード・レインズ版『オペラ座』といった具合にリメイクを許す内容でもある。しかし『天罰』のリメイクなどパロディでもなければ想像もつきませんし、題材からも無理ならば歴史的作品ではありながら日本版DVDの発売すらはばかられるでしょう。イギリスの映画雑誌エンパイヤ・マガジンが2009年に選んだ「知られざるギャング映画の名作20選」では本作は第17位に選ばれており、また『ノートルダムの傴僂男』『オペラの怪人』以前のチェイニー主演作では本作はもっとも成功した作品とされ、チェイニーのベストの1作の内に上げる評者も多いそうです。それはもちろん、ロボトミー手術という暴力的手段による解決の不条理さも含めたものに違いありません。このイロニーもチェイニーが演じた本作のキャラクター、ブリザードが被害者に始まり被害者に終わる因果に結びついており、『天罰』とはそうした人生の皮肉と悲劇性を表すタイトルだからこそ笑えないブラック・ユーモアになっているのです。いみじくもブラッドベリの鋭い指摘のように「愛されないのではないかという恐怖の映画」「報われない愛への怖れの映画」、つまり『仮面の人』や『勝利』とは違う、正真正銘のロン・チェイニー映画と呼べるものは、『ミラクルマン』が残っていない現在、本作から始まると言って良いかもしれません。
一般的には『ノートルダム~』『オペラ~』の2作が代表作とされ、またこの2作もチェイニーの本領を発揮した名作ですが、悪役俳優からキャリアを始めたチェイニーは、さまざまな社会的弱者を演じることを生涯のテーマにしていた異色の俳優でした。それは当時のアメリカではネガティヴに見られた被差別下の状況にある人々――先住民や少数民族移民、有色人種、身体障害者、精神障害者、搾取された労働者、貧困や孤独を背景にした犯罪者ら、社会の暗部を担う役柄を演じることに表れたので、チェイニーの主演映画ではそうした社会の底辺で抑圧された主人公がしばしば残酷な境遇に反抗して反社会的な行動を重ね、無惨な破滅を迎えます。しかしストーリーの上では映画は市民的常識力に従って主人公を敗北させても、真の観客への訴えは無情な偏見にさらされた主人公と、自由と公正さを希求する必死の闘争なので、チェイニーの演じる主人公は常に自己の規律に厳しく、自己犠牲的ですらあるアンチ・ヒーローであり、映画の体裁とその真意がまったく反対でもあるのがサイレント時代の映画の限界でもあり、逆にテーマをそのまま表現できない桎梏が映画のニュアンスを複雑な味わいのものにしています。作家レイ・ブラッドベリは「チェイニーは人々の心を見抜き、精神そのものを演じることができる俳優だった。チェイニーの映画は報われない愛への怖れの歴史であり、それが決定的になればチェイニーの映画は世界を変えるかもしれなかった」と激賞しています。決して「ホラー映画の元祖」で済まされるものではなく、かつ映画俳優が精神そのものであり得たサイレント映画時代の最大の俳優の一人、ロン・チェイニーの存在は知られるよりもずっと大きく、重要なのではないかと思われるのです。
『仮面の人』The False Faces (製=トーマス・H・インス/監=アーヴィン・V・ウィラット、Paramount Pictures'19.Feb.16)*97min(Original length, 97min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/gMItFchaFgA
[ あらすじ ](同上) パリの悪漢団の中に「ローンウルフ」として知られているミカエル・ランヤード(ヘンリー・B・ウォルソール)は、今は改心して国の為に、独探カール・エックシトローム(ロン・チャニー)を捕えんとしていた。カールはかつて開戦当初独軍が北部仏蘭西へ侵入した時、彼の妻子を虐殺した男であるから、ローンウルフの復讐心は根深いものであった。カールが米国へ向かりう船の中へはローンウルフが早くも乗込んでいる。船中でローンウルフはセシリア(メアリー・アンダースン)という娘に逢う。娘は一日重要書類をローンウルフに托したが、これを知ったカールは彼を襲って来た。そして書類は得られなかったが、ローンウルフを海中に投げ込んで終う。しかし海に沈んだ彼は独逸潜航艇に助けられ、巧に敵手を逃れてカールとセシリアの居るニューヨークへ来る。カールは変名して英国の秘密探偵(ミルトン・ロス)に秘密書類を売ろうとしていた。ローンウルフは娘の為にそれ等を取返そうと金庫を破ったが書類は無かった。この時カールは現れたが、ローンウルフの計略に掛り仲間の弾に倒れる。ローンウルフは英国秘密探偵を装う敵の間諜の手より失われた秘密書類を取り戻し、娘の感謝と愛とを獲たのであった。
と、サイレント映画は無声映画だから情報量が少ないかというとまったく逆で、本作はプロットは単純なのに頻繁なカットバックや変装に次ぐ変装、不十分な描写を伏線として進んでいく展開、サスペンスのつもりで挿入された不要なエピソード(潜水艦の酔っぱらい船長のエピソードなど明らかに水増しです)、持って回った主人公と仇敵チェイニーとの戦い、同じく持って回ったヒロインとのロマンスと、原作者と監督ウィラットの共同脚本ですが脚本自体がまずく、腕っ節の強くなさそうなウォルソールらしいキャラクターとも言えますが仇敵チェイニーを直接対決で倒すのではなく敵同士で相討ちさせる罠にかけて倒したり、マイクロフィルムの奪還も相手の弱みを握って取り返すと万事颯爽としないのが著しくカタルシスに欠けています。また前述の通り映像の流れが雑然として見える箇所が多いばかりか、サイレント映画としても字幕タイトルが多すぎ、改めてほとんど字幕は最小限にとどめて、無字幕で通して十分内容の伝わるシークエンスも多いグリフィスやグリフィス門下出身監督、チャップリンやロイド、キートンらの腕前を見直します。本作は自主制作レーベルのグレイプヴァイン社のDVD-R盤でしかリリースされていないので、同社はメジャー会社どころろかインディー会社すら手をつけない日陰のサイレント・クラシック映画をDVD-R盤で細々と商品化している、ジャケットなど家庭用カラーコピー機でプリントしている通信販売メーカーですが、ニュープリントやデジタル・リマスタリングはおろか音楽も含めて残存プリントをストレートにDVD起こししているだけで、B/W映像の階調どころか白地に黒文字の字幕タイトルならまだしも、黒地に白抜きの字幕タイトルなどはほとんど潰れていて読めません。チェイニーは'17年のヒット作『The Piper's Price』でドロシー・フィリップスとウィリアム・ストーウェルの主演カップルの恋路を妨害する役でしたが、同作の成功でシリーズ化されたフィリップスとストーウェルのカップルの作品は'18年3月公開のグリフィスの『世界の心』に影響された'18年12月の『The Heart of Humanity』ではロン・チェイニーのスケジュールの都合で残虐なドイツ軍将校役を(『世界の心』でもドイツ軍将校役だった)、エリッヒ・フォン・シュトロハイム(1885-1957)が演じたので、『仮面の人』のチェイニーの役は『The Heart of Humanity』のシュトロハイムの役をヒントにしたとも言われます。チェイニーの方がシュトロハイムより2歳年上なのも意外な気がしますが、シュトロハイムが威圧感を感じさせるのに対してチェイニーはどこか脆さを感じさせる狡猾さの方が強く、同じ自滅型悪役俳優でも本作は主人公のウォルソールがあまりに成り行き任せなのでシュトロハイムではウォルソールが相手では手強すぎて、それを言えばチェイニーも本作では設定の割には小悪党に終わってしまったように感じます。1918年製作のスパイ・アクション映画と言えばもう100年前の映画ですから、突っ込み所が多いストーリーも古色蒼然たる映像もかえって面白いとも言えるのが、現代の観客の映画的常識や映画への期待からずっこけるようにして映画が展開していくからですが、それを楽しめる人と楽しめない人のどちらにも理があるような映画が本作なので、良し悪しをあげつらうようなものではないでしょう。トーマス・H・インス映画の大味さもまたサイレント時代の映画ならではの大らかな味わいがあると言えるような気がします
●8月2日(木)
『勝利』 Victory (監=モーリス・トゥーヌール、Paramount-Artcraft'19.Dec.7)*62min(Original length, 62min), B/W, Silent; 日本未公開 : https://youtu.be/YRIXYducq84
しかし映画を先に観ればともかく、壮絶な悲劇に終わるコンラッドの原作小説を読んで映画を観た観客は本作の原作からの大きな改変に呆気に取られるのではないでしょうか。マレー諸島のセレベス、交易地で観光地であるスラバヤと好色なショムベルグ(ウォーレス・ビアリー)が営む観光ホテル、主人公ヘイスト(ジャック・ホルト)が住む石炭採掘地の火山島サンビュラン島、中国人従僕ワン、ヒロインのアルマ(シーナ・オーウェン)がこき使われている観光ホテルの呼び物であるザンジャコモ女性楽団、いかさま賭博師の親玉の怪人ミスター・ジョーンズ(ベン・ディーリー)とその用心棒のナイフ使いリカルド(ロン・チェイニー)、相棒をミスター・ジョーンズに殺された挙げ句ジョーンズの下僕になっている白痴のペドロ(ブル・モンタナ)と、原作小説に出てくる人物と設定はほぼそのまま使われています。原作小説はヘイストの唯一の友人のダヴィッドソン船長(ジョージ・ニコルズ)の視点から描かれますが、ダヴィッドソン船長は映画の最初にちょっと出てくるだけです。ヒロインに手をつけようとするショムベルグを見かねて、ショムベルグの妻(ローラ・ウィンストン)が主人公とヒロインの逃走の手引きをするといった、細かい部分も原作から採られています。しかし映画は最初のうちはくどい原作をすっきり整理していてなかなか快調なのですが、中盤以降舞台がサンビュラン島に犯罪者3人組が乗り込んできてからが、ストーリーは原作に忠実なのに人物のキャラクター設定が徐々に変わっていきます。原作の登場人物たちは、主人公とヒロインも含めて非常に矛盾したものを内面に抱えている、行動と内面にも矛盾があるばかりか常に思いがけない行動に出てもおかしくないような状態に描かれています。それを映画にすると人物たちの行動が支離滅裂になりすぎる。本作の字幕タイトルはサイレント映画の劇映画としては標準的で(『仮面の人』は明らかに字幕タイトル過多でした)、コンラッドの原作通りに複雑極まりない性格設定を字幕タイトルで解説するには無理がある、と踏んだのでしょう。一例を上げれば原作ではミスター・ジョーンズは激しい女性嫌悪の持ち主で、それが悪党3人組の仲間割れの原因になりますが、映画ではミスター・ジョーンズもショムベルグやナイフ使いのリカルド同様好色漢なのでそれが原因で仲間割れになる。白痴のペドロが実は、というどんでん返しは原作にはないもので、これは映画オリジナルのアイディアが功を奏していますし、狡猾で好色なナイフ使いのリカルド(スペイン人かメキシコ人?)を演じるチェイニーはスタントなしで火山灰の積もった屋根から地面に落下しますし、初登場でホテル内で賭場を開いた自分たちを退去させようと文句をつけに来たビアリーを脅して、ドアの前に立ったビアリーの脇の下にナイフを投げつけてナイフがドアに刺さるのをこれもビアリー、チェイニーともスタントではなく本当のナイフ投げ芸をやっていて、ちんけな小悪党の役ですが『仮面の人』の元ドイツ軍将校のスパイ役より本作の厭らしい役柄のチェイニーの方が光っています。ウォーレス・ビアリーは役作りかもしれませんが『人生の乞食』'28や『チャンプ』'31より老けメイクで、主演のジャック・ホルトは『桑港』'36や『キャット・ピープル』、『コレヒドール戦記』'45、『ミズーリ横断』'51と長いキャリアを送った人ですし、日本未公開の主演作『Whirlpool』'34はジーン・アーサーと共演したプレ・フィルム・ノワールの古典とされています('49年のオットー・プレミンジャー監督の同名作とは内容は無関係)。ヒロインのシーナ・オーウェンはグリフィス『イントレランス』'16の古代バビロン編でバビロニアのお姫様役だった女優です。本作はロケーションやオープン・セットも多く、南洋らしい映像の明るさが魅力で、筆者は昨2017年発売のアルファ・ヴィデオ盤DVDで初めて観ましたが(それまでは高価なマニア向けインディー盤しか出ていませんでした)、こういうチェイニーやビアリーの出演作は助演時代の作品でもジャック・ホルトよりチェイニー、ビアリーの出演作が売りになっています。観てみたら案の定助作品でしたがウォーレス・ビアリー共演、ヒロインもシーナ・オーウェンだし、監督がトゥーヌールで原作がコンラッドだったので得した気持になりましたが、DVDジャケット裏にもジュールス・ファースマン脚本なのが強調されていて、それなりの期待感を持って視聴し、アルファ・ヴィデオは画質も作品内容も玉石混交ですがグレイプヴァイン社のDVD同様ストレートなテレシネ化の割に画質もまあまあ許せる程度で実に楽しく観ましたが、矛盾に満ちた登場人物と辻褄の合わない展開が壮大な悲劇に収斂していくコンラッドの原作を、矛盾を矯正し辻褄を合わせるとストーリーは原作通りなのに本来コンラッドが立てたプロットの意図がまるで正反対になってしまって、原作とはまったく異なる結末になってしまっていたのには唖然としてしまいました。トゥーヌールの映画では『モヒカン族の最後』も同様の指摘がされますが、映画としては人物の性格やストーリーの展開に一貫性のある作品に仕上げて原作に忠実に物語を追っていても、文学作品である原作に含まれていた大きな混沌はすっきり洗い流されてしまっているきらいがあります。原作小説の問題性が当時の読者には受け入れられるものであったとしても、それを映画で表現できるか、映画で文学作品である原作にはあった矛盾や混沌を表現しても受け入れられるかは難しかった、という事情を考えさせられます。原作小説『勝利』が'30年、'40年、'96年と間を置いて再映画化されたのもそうした理由からだったに違いなく、ただし原作の意図に忠実なのがそのまま映画としてこなれているとは限らないので、トゥーヌールの本作は原作小説から南洋犯罪ロマンスの部分だけを都合良く切り取った映画とも言えますし、逆にこうした効果的な単純化が行えたのは原作小説からの初の映画化、製作年度もサイレント映画の長編時代が定着して間もない1919年(この年はサイレント時代の映画史でも節目になった年です)と、一種条件が偶然に揃ったからでもあるように思われます。
●8月3日(金)
『天罰』The Penalty (監=ウォーレス・ワースリー、Goldwyn Pictures'20.Aug.)*93min(Original length, 90min), B/W (Tinted), Silent; 日本公開(年月日不明) : https://en.wikipedia.org/wiki/File%3AThe_Penalty_%281920%29.webm
[ あらすじ ] 小児の時に受けた手術によって、ブリザード(ロン・チャニー)は両足を失っていた。彼の望みは彼を不具にした医者(チャールズ・クラリー)に復讐することと、サンフランシスコ暗黒界の大頭目となること、他人の両足を切って自分の足の切り口につなぐこと、この3つであった。いかにして彼がこれを企み、これに失敗するかが劇の骨子である。
チェイニーの身体障害者役は『ミラクルマン』を踏襲したものになるそうですが、両脚切断まで極端ではありませんでした。この役は膝を限界まで折って革の脚絆で包んで演じられたそうですが、全体重を両脇の松葉杖で支える苦労ともどもあまりの苦痛に数分以上続けて撮影できなかったそうです。本作の原作は大衆雑誌連載の犯罪スリラーらしいので、突っ込みだらけの点(暗黒街のボスに成り上がった手段や組織の実態が謎とか、警察が無能すぎとか、仇敵に強制した手術を手下に見張らせなかったのかとか)やあんまりな結末(ロボトミー手術!)も原作通りなのでしょう。しかし本作はチェイニー演じる主人公ブリザードの復讐心と邪悪さの中に秘められた悲しみを思いきり扇情的かつ暴露的でショッキングに描くことが意図なので尋常な基準でのリアリティなど問題ではなく、このあんまりな結末さえ医師を信用して裏切られた皮肉とも取れます。しかも、かつて医療過誤で両脚切断したばかりか、本人の同意など当然なしにロボトミー手術で無害化してしまうというこのフェリス医師こそ本当の悪役なのは確かなので、このあまりにむごい残酷譚は一応首尾一貫しているとも言えるのです。チェイニーの演技も映画界入りして8年、37歳にしてつかんだ主演の座で入魂の演技です。サイレント時代の男性俳優は身体能力でこなすタイプの俳優に人気が集まりましたが、喜劇映画はまだしもこうした陰鬱な娯楽映画で、チェイニーのような芸風をこなせる人材はチェイニーしかいなかったので、本作もチェイニーの出演を前提にしなければ成り立たなかった映画です。サイレント時代の映画に限らず映画が実際のテーマと見かけが異なるのはよくあることで、せっかくだからネタバレしますが『勝利』は原作では悪党同士の仲間割れの流れ弾に当たってヒロインは死に、主人公は手遅れになって初めてヒロインへの愛に気づくも絶望して家に放火して後追い自殺し、悪党のうち2人は殺し合って死に、生き残った1人も事故死して全員死んだ後で主人公の友人ダヴィッドソン船長が到着し、真相を知ります。映画では悪党の1人が裏切って仲間を殺して自分も死に、残る1人の悪党は主人公と戦って死に、ヒロインへの愛に目覚めた主人公とヒロインは結ばれて終わります。『勝利』の場合は明らかにストーリーだけを借りてまったく逆のものにしてしまったのですが、『天罰』の場合チェイニーはロボトミー手術という暴力的手段で思考改造されてしまうまでは一貫していて、ローズが探っていたチェイニーの陰謀は1,000人のメキシコ人移民(全員ソンブレロをかぶっています)を雇ってサンフランシスコ中で同時多発武装テロを起こし、秩序を壊滅させてチェイニーの暗黒組織が恐怖支配でサンフランシスコを乗っ取る、という計画でした(チェイニーの語りにカットバックしてテロの様子が映像で流れるので、一瞬テロ決行の場面に時間が飛んだのかと錯覚します)。帽子工場はその資金作りも兼ねているのと、女性嫌悪症のチェイニーのサディズムの満足の両方のためですが、膝までしか両脚がない体で蜘蛛のように移動するチェイニーの、人目にさらされるだけで嫌悪を催される姿を見ていると世界に対する憎悪がそのくらい荒唐無稽であってもおかしくはあるまい、と思えてきます。ワースリーは『ノートルダムの傴僂男』の監督でもありますが、15世紀のフランスを舞台にした文芸歴史映画でもある同作と、現代サンフランシスコのやくざな港町バーバリー・コーストが舞台の本作では生々しさが違います。チェイニーの特異な俳優としての座は前年の『ミラクルマン』に続き、'20年の『宝島』(4月公開)と本作『天罰』の2作で決定的になったそうですが、トゥーヌール監督の『宝島』ではチェイニーは主演俳優ではなく、また同作は現在散佚作品になっています。映画として出来が良いのもありますが『ノートルダムの傴僂男』と『オペラの怪人』はフランスものという点でチェイニーの生々しい憎悪、毒気、痛々しさ、おぞましさ、まがまがしさが適度にファンタジー的なオブラートに包まれているので、万人とまではいかずともわかりやすい怪奇映画らしさが誰にでも楽しめる面があり、チェイニー版に続いてはチャールズ・ロートン版『せむし男』、クロード・レインズ版『オペラ座』といった具合にリメイクを許す内容でもある。しかし『天罰』のリメイクなどパロディでもなければ想像もつきませんし、題材からも無理ならば歴史的作品ではありながら日本版DVDの発売すらはばかられるでしょう。イギリスの映画雑誌エンパイヤ・マガジンが2009年に選んだ「知られざるギャング映画の名作20選」では本作は第17位に選ばれており、また『ノートルダムの傴僂男』『オペラの怪人』以前のチェイニー主演作では本作はもっとも成功した作品とされ、チェイニーのベストの1作の内に上げる評者も多いそうです。それはもちろん、ロボトミー手術という暴力的手段による解決の不条理さも含めたものに違いありません。このイロニーもチェイニーが演じた本作のキャラクター、ブリザードが被害者に始まり被害者に終わる因果に結びついており、『天罰』とはそうした人生の皮肉と悲劇性を表すタイトルだからこそ笑えないブラック・ユーモアになっているのです。いみじくもブラッドベリの鋭い指摘のように「愛されないのではないかという恐怖の映画」「報われない愛への怖れの映画」、つまり『仮面の人』や『勝利』とは違う、正真正銘のロン・チェイニー映画と呼べるものは、『ミラクルマン』が残っていない現在、本作から始まると言って良いかもしれません。