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映画日記2018年8月1日~3日/「千の顔を持つ男」ロン・チェイニー(1883-1930)主演映画(1)

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 (『天罰(The Penalty)』'20の1シーンより)

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 ロン・チェイニー(Lon Chaney, 1880-1930)は『ノートルダムの傴僂男』'23、『オペラの怪人』'25(邦題『オペラ座の怪人』はリメイク作品以降のタイトル)の2作だけでも映画史に残る俳優ですが、映画がサウンド・トーキー化した直後に早逝(享年47歳)した、生粋のサイレント映画俳優と言うべき映画人でした。息子のロン・チェイニー・ジュニア(1906-1973)も映画のトーキー化後にデビューし、小柄だった父とは違う巨体を生かしてユニヴァーサルの怪奇映画のスターになり、'40年代に狼男、ミイラ男、フランケンシュタインの怪物、ドラキュラの4大モンスターをすべて演じ、戦後は性格俳優として『真昼の決闘』などにも出演しましたが、普通ロン・チェイニーと言うとサイレント時代の大俳優である父チェイニーを指し、息子の方はジュニアをつけて呼ばれます。さて、移民1世の両親がともに聾唖者だったためパントマイムを身につけて育ったというチェイニーは、舞台俳優デビューは19歳の'02年と当時としては遅い出発ながら、'12年にパラマウント社の前身フェイマス=ラスキー・コーポレーションで映画デビューし、D・W・グリフィス(1875-1948)と並んでアメリカ映画の父とも言える早逝の映画監督=プロデューサー、西部劇を得意としたトーマス・H・インス(1880-1924)の短編に多く出演した後、'18年には特異な性格俳優の地位を固めてフリーとなり同年だけでも長編9作に出演。日本公開された中でも最古のチェイニー出演作でインス製作、アメリカ映画初の西部劇スターの座をハリー・ケリー(シニア、1878-1947)と分けあうウィリアム・S・ハート(1864-1946)主演の『リッドル・ゴウン』'18の撮影を見学した夭逝の鬼才監督、ジョージ・ローン・タッカー(1872-1921)がチェイニーに注目し、意欲作『ミラクルマン』The Miracle Man (Famous Players-Lasky'19.Aug.29)の主演に抜擢し、同作は制作費12万ドルに対して興行収入300万ドルの年間No.1の大ヒット作になり、タッカー最大のヒット作かつチェイニーの大ブレイク作となりました。『ミラクルマン』はアメリカ本国でも日本でもグリフィスをしのぐ映画的革新性を謳われましたが、同作が日本公開中の'21年6月のタッカーは急逝し、『ミラクルマン』の後1作を残して早逝してしまったため忘れられるのも早く、また映画のトーキー化以後に次々とサイレント時代の映画の大半は再上映の需要なしと放置され、廃棄、紛失、焼失(サイレント時代の映画フィルムは常温ですら可燃性の高い、自然発火すら珍しくない材質でした)してしまったことから『ミラクルマン』は'30年代に作られたサイレント映画名場面集のオムニバス映画に抜粋された2分半程度の断片(https://youtu.be/Z_Mk4pjydBk)しか残っておらず、同作の散佚はアメリカ映画史最大の損失の一つとされています。タッカーの作品自体が長編12作のうち長編第1作の『暗黒街の大掃蕩(Traffic in Souls)』'13しかフィルムが現存しておらず、タッカーはアメリカ映画創生期の幻の巨匠としてもっともミステリアスな映画監督とされています。ロン・チェイニーにしても'12年のデビュー短編から'17年の短編最終作まで84本('12年と'17年は1本きりで、'13年~'16年にに82本)、'14年の初長編から'30年の遺作まで長編83編と、判明しているだけでも167本の映画に出演したうち100本以上が失われているとされ、長編83作のうち36作は散佚し、残る47作も不完全版や短縮版を含み、短編のほとんども現存する最古のチェイニー出演作の西部劇「By the Sun's Rays」'14(監=チャールズ・ギブリン、主演=マードック・マッカーリー、Universal Pictures'14.Jul.22, 11min : https://youtu.be/RcOHfzVXlRQ)ほか数編を除いて、現在ではほとんどが散佚作品になっています。
 一般的には『ノートルダム~』『オペラ~』の2作が代表作とされ、またこの2作もチェイニーの本領を発揮した名作ですが、悪役俳優からキャリアを始めたチェイニーは、さまざまな社会的弱者を演じることを生涯のテーマにしていた異色の俳優でした。それは当時のアメリカではネガティヴに見られた被差別下の状況にある人々――先住民や少数民族移民、有色人種、身体障害者、精神障害者、搾取された労働者、貧困や孤独を背景にした犯罪者ら、社会の暗部を担う役柄を演じることに表れたので、チェイニーの主演映画ではそうした社会の底辺で抑圧された主人公がしばしば残酷な境遇に反抗して反社会的な行動を重ね、無惨な破滅を迎えます。しかしストーリーの上では映画は市民的常識力に従って主人公を敗北させても、真の観客への訴えは無情な偏見にさらされた主人公と、自由と公正さを希求する必死の闘争なので、チェイニーの演じる主人公は常に自己の規律に厳しく、自己犠牲的ですらあるアンチ・ヒーローであり、映画の体裁とその真意がまったく反対でもあるのがサイレント時代の映画の限界でもあり、逆にテーマをそのまま表現できない桎梏が映画のニュアンスを複雑な味わいのものにしています。作家レイ・ブラッドベリは「チェイニーは人々の心を見抜き、精神そのものを演じることができる俳優だった。チェイニーの映画は報われない愛への怖れの歴史であり、それが決定的になればチェイニーの映画は世界を変えるかもしれなかった」と激賞しています。決して「ホラー映画の元祖」で済まされるものではなく、かつ映画俳優が精神そのものであり得たサイレント映画時代の最大の俳優の一人、ロン・チェイニーの存在は知られるよりもずっと大きく、重要なのではないかと思われるのです。

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●8月1日(水)
『仮面の人』The False Faces (製=トーマス・H・インス/監=アーヴィン・V・ウィラット、Paramount Pictures'19.Feb.16)*97min(Original length, 97min), B/W, Silent; 日本公開(年月日不明) : https://youtu.be/gMItFchaFgA

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[ 解説 ](キネマ旬報近着外国映画紹介より) かつて紹介された「ローンウルフ」やグローム嬢主演の「ローンウルフの娘」と同じく、ルイス・ジョセフ・ヴァンス氏の原作になったローンウルフ譚の一篇でトーマス・H・インス氏の製作、ヘンリー・B・ウォルソール氏の主演である。対手はユ社に居た適役の名手ロン・チャニー氏と、ヴ社映画で紹介されたメアリー・アンダースン嬢である。
[ あらすじ ](同上) パリの悪漢団の中に「ローンウルフ」として知られているミカエル・ランヤード(ヘンリー・B・ウォルソール)は、今は改心して国の為に、独探カール・エックシトローム(ロン・チャニー)を捕えんとしていた。カールはかつて開戦当初独軍が北部仏蘭西へ侵入した時、彼の妻子を虐殺した男であるから、ローンウルフの復讐心は根深いものであった。カールが米国へ向かりう船の中へはローンウルフが早くも乗込んでいる。船中でローンウルフはセシリア(メアリー・アンダースン)という娘に逢う。娘は一日重要書類をローンウルフに托したが、これを知ったカールは彼を襲って来た。そして書類は得られなかったが、ローンウルフを海中に投げ込んで終う。しかし海に沈んだ彼は独逸潜航艇に助けられ、巧に敵手を逃れてカールとセシリアの居るニューヨークへ来る。カールは変名して英国の秘密探偵(ミルトン・ロス)に秘密書類を売ろうとしていた。ローンウルフは娘の為にそれ等を取返そうと金庫を破ったが書類は無かった。この時カールは現れたが、ローンウルフの計略に掛り仲間の弾に倒れる。ローンウルフは英国秘密探偵を装う敵の間諜の手より失われた秘密書類を取り戻し、娘の感謝と愛とを獲たのであった。

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 アヴァン・タイトルに「Part One」と出るのでどうやらシリーズ1作目(製作順は第1作ではないようですが、内容では)のスパイ映画「ローン・ウルフ」シリーズの本作は、クレジット・タイトルの後で「No man can be justified in surrendering while life and love endure.」(人生と愛が耐え忍んでいる内は、誰も降伏を正当化することはできない)という格言から始まります。チェイニー出演の長編映画は1919年度の最初の公開作(クレジットには'18年の著作登録が出てきます)は'14年の長編初出演から数えてもう33作目で、'14年~'17年の4年間にすでに32作もの長編(と70編の短編)に出演していることになりますが、本作以前の長編はほとんど失われています。本作の次作は『気儘な女』The Wicked Darling (監=トッド・ブラウニング、Universal Studios'19.Feb.24、日本公開作)とすぐ同月で、『気儘な女』や次に取り上げる'19年度最後の作品『勝利』ともどもまだチェイニーは助演です。'19年8月公開の『ミラクルマン』での大ブレイクからチェイニーが本格的に主演俳優に昇格するのは'20年からになるので、'19年度作品はまだ助演出演の契約をこなしていたということです。『気儘な女』はチェイニーと10作で組むグリフィス門下出身の鬼才監督トッド・ブラウニング(1880-1962)との初顔合わせで長い間散佚していましたが'90年代にヨーロッパで発掘された貴重な作品で、面白い犯罪絡みのラヴ・ロマンスですがチェイニーはスリの役で出番は少なく、『仮面の男』『気儘な女』『勝利』と'19年度作品3作だと助演時代の作品ばかりの第1回になってしまうので、主人公ローン・ウルフを演じるヘンリー・B・ウォルソール(1878-1936)、ヒロインのメアリー・アンダースン(名前の前にハートマーク3つ)に次いでビリング3番目にチェイニーがクレジット(名前の前にナイフが3本)されており、「初期助演作品でも、もっとも溌剌と悪役を演じるチェイニーの姿が観られる」とされる本作と『勝利』を採って『気儘な女』は今回割愛することにしました。日本未公開作『勝利』はモーリス・トゥーヌール監督作でも幻の傑作と名高いものですが、ほぼ同時に本国公開された『仮面の人』『気儘な女』では都会犯罪サスペンス・ラヴ・ロマンスの『気儘な女』の方が映画としては面白い作品です。トーマス・H・インスの映画は当時グリフィスと並ぶ大家だけあって戦争スパイ冒険映画としてスケールは大きく、派手な夜間の爆撃戦闘シーンから始まって大がかりな海上撮影、潜水艦シーンにアクション・シーンも盛りだくさんと見せ場は多く、撮影もしっかりしているのですが(インス門下生の監督、アーヴィン・V・ウィラットの兄弟のエドウィン・W・ウィラット撮影)、カット割りや編集にグリフィスやグリフィス門下生系統の監督作品のような密度や緊密感が欠けているのがサイレント作品としては長めの97分をやや冗長にしています。改めてグリフィスやグリフィス派監督は感覚が鋭かったんだな、と思ってしまいます。ウォルソールはグリフィスの『国民の創生』'15の主人公の一人であるキャメロン大佐役やウェルマンの『つばさ』'27で主人公のリチャード・アーレンの父親の名家の主人役で知られる渋い俳優ですが、改心した元盗賊の国際スパイの役には向いていないように見え、妹と妹の子供(キネマ旬報あらすじの「妻子」は誤り)を殺したドイツ将校(ロン・チェイニー)が今ではドイツ軍スパイになっているのですが、船で乗り合わせたヒロインのセシリア(メアリー・アンダースン)がドイツのスパイに身元がバレて狙われているからとサッカレー少尉(ソートン・エドワーズ)から秘密書類(紙巻き煙草に仕込んだマイクロフィルム)を奪ってウォルソールに託す、変装したチェイニーがウォルソールからマイクロフィルムを奪ってウォルソールを海に突き落とす。ウォルソールはドイツ軍潜水艦に救助され、ドイツ軍密偵になりすましたウォルソールは潜水艦船長(ウィリアム・ボーマン)に気に入られ、船長の誘いで酒盛りしているうちに副船長がウォルソールの正体を知って殺そうとすると、泥酔した船長はウォルソールをかばって副船長を射殺していまい、船長が酔っ払って寝込んでしまうとウォルソールは潜水艦から脱出してきます。一方、チェイニーは架空のドイツ人スパイに変装し、民間イギリス人諜報部員に化けたドイツ人スパイのラルフ・クレイン(ミルトン・ロス)と従者のブレンソップ(アーネスト・パスク)に偽のマイクロフィルムを3,000ドルで売りつける。ウォルソールはチェイニーのアジトに潜入して見つかり、アジト中を逃げまわった挙げ句、自分を待ち伏せするチェイニーの仲間たちの部屋にチェイニーを誘導して敵同士を相討ちさせます。マイクロフィルムのありかを突き止めたウォルソールは降参したブレンソップから3.000ドルでマイクロフィルムを奪い返してセシリアとサッカレー大尉に渡し、「愛が勝ったのよ!」と喜ぶセシリアに黙って去ろうとしますが、セシリアに引き止められ、兄のためにありがとう、と礼を言われます。大尉は恋人ではなく兄だったのか、と呆気にとられたウォルソールはセシリアに寄り添われ、家に招かれていきます。
 と、サイレント映画は無声映画だから情報量が少ないかというとまったく逆で、本作はプロットは単純なのに頻繁なカットバックや変装に次ぐ変装、不十分な描写を伏線として進んでいく展開、サスペンスのつもりで挿入された不要なエピソード(潜水艦の酔っぱらい船長のエピソードなど明らかに水増しです)、持って回った主人公と仇敵チェイニーとの戦い、同じく持って回ったヒロインとのロマンスと、原作者と監督ウィラットの共同脚本ですが脚本自体がまずく、腕っ節の強くなさそうなウォルソールらしいキャラクターとも言えますが仇敵チェイニーを直接対決で倒すのではなく敵同士で相討ちさせる罠にかけて倒したり、マイクロフィルムの奪還も相手の弱みを握って取り返すと万事颯爽としないのが著しくカタルシスに欠けています。また前述の通り映像の流れが雑然として見える箇所が多いばかりか、サイレント映画としても字幕タイトルが多すぎ、改めてほとんど字幕は最小限にとどめて、無字幕で通して十分内容の伝わるシークエンスも多いグリフィスやグリフィス門下出身監督、チャップリンやロイド、キートンらの腕前を見直します。本作は自主制作レーベルのグレイプヴァイン社のDVD-R盤でしかリリースされていないので、同社はメジャー会社どころろかインディー会社すら手をつけない日陰のサイレント・クラシック映画をDVD-R盤で細々と商品化している、ジャケットなど家庭用カラーコピー機でプリントしている通信販売メーカーですが、ニュープリントやデジタル・リマスタリングはおろか音楽も含めて残存プリントをストレートにDVD起こししているだけで、B/W映像の階調どころか白地に黒文字の字幕タイトルならまだしも、黒地に白抜きの字幕タイトルなどはほとんど潰れていて読めません。チェイニーは'17年のヒット作『The Piper's Price』でドロシー・フィリップスとウィリアム・ストーウェルの主演カップルの恋路を妨害する役でしたが、同作の成功でシリーズ化されたフィリップスとストーウェルのカップルの作品は'18年3月公開のグリフィスの『世界の心』に影響された'18年12月の『The Heart of Humanity』ではロン・チェイニーのスケジュールの都合で残虐なドイツ軍将校役を(『世界の心』でもドイツ軍将校役だった)、エリッヒ・フォン・シュトロハイム(1885-1957)が演じたので、『仮面の人』のチェイニーの役は『The Heart of Humanity』のシュトロハイムの役をヒントにしたとも言われます。チェイニーの方がシュトロハイムより2歳年上なのも意外な気がしますが、シュトロハイムが威圧感を感じさせるのに対してチェイニーはどこか脆さを感じさせる狡猾さの方が強く、同じ自滅型悪役俳優でも本作は主人公のウォルソールがあまりに成り行き任せなのでシュトロハイムではウォルソールが相手では手強すぎて、それを言えばチェイニーも本作では設定の割には小悪党に終わってしまったように感じます。1918年製作のスパイ・アクション映画と言えばもう100年前の映画ですから、突っ込み所が多いストーリーも古色蒼然たる映像もかえって面白いとも言えるのが、現代の観客の映画的常識や映画への期待からずっこけるようにして映画が展開していくからですが、それを楽しめる人と楽しめない人のどちらにも理があるような映画が本作なので、良し悪しをあげつらうようなものではないでしょう。トーマス・H・インス映画の大味さもまたサイレント時代の映画ならではの大らかな味わいがあると言えるような気がします

●8月2日(木)
『勝利』 Victory (監=モーリス・トゥーヌール、Paramount-Artcraft'19.Dec.7)*62min(Original length, 62min), B/W, Silent; 日本未公開 : https://youtu.be/YRIXYducq84

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○あらすじ(Alpha Video社版DVDより) 殺人と妄執をめぐるジョセフ・コンラッドの古典的原作小説をロン・チェイニー、ウォーレス・ビアリーを始めとするサイレント時代のスター出演で映画化!現代社会に幻滅し疲れ果てたアクセル・ヘイスト(ジャック・ホルト)はカリブ海の孤島に隠者となって暮らしていた。最後の商用に交易地に出向いた彼は、観光ホテルの主人ショムベルグ(ウォーレス・ビアリー)から逃げてきた美しいアルマ(シーナ・オーウェン)と出会う。ショムベルグの追跡を恐れて、アルマはアクセルの住む孤島に逃れたいと頼む。個人主義者であるアクセルの主義にもかかわらず、アルマはアクセルにとってのイヴとなっていく。アルマがアクセルのもとにいると知ったショムベルグは、犯罪者の三人組(ベン・ディーリー、ロン・チェイニー、ブル・モンタナ)を島に差し向ける。もしアルマがわがものにならないのなら、誰にも渡すまいと……。

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 ロン・チェイニーは'19年に7作の長編映画に出演していますが本作は'19年度最後の作品で、チェイニーの大ブレイク作になった8月公開の『ミラクルマン』の後の公開になります。監督は翌'20年に『モヒカン族の最後』を大ヒットさせるフランス出身のモーリス・トゥーヌール(モーリス・ターナー、1876-1961)と言うと意外な印象も受けますが、'11年に本国フランスで映画界入りしたトゥーヌールは'14年に早くもアメリカに渡り、現在アメリカ国立フィルム登録簿には『The Poor Little Rich Girl』'17、『The Blue Bird』'18、『モヒカン族の最後』が文化財登録されており、大成したのはアメリカの映画監督になってからでした。『キャット・ピープル』'42で知られるジャック・ターナー(1904-1977)はトゥーヌールの子息です。トゥーヌールはイプセン原作の『人形の家』'18、スティーヴンソン原作の『宝島』'20でもチェイニーを起用しており、この2作は残念ながら散佚にになっていますが、チェイニー出演作ではありませんが'18年の『ウーマン』は淀川長治氏が映画史ベスト10の裏ベスト2位に上げており、上記作品も日本公開されていて、1920年以前にはすでに一流監督と認められていた人でした。グリフィスをもっとも尊敬していたトゥーヌールは『青い鳥』『人形の家』『モヒカン族の最後』『宝島』を撮っている通り文芸映画の監督でもあって、本作はジョセフ・コンラッド(1857-1924)の'15年の同名ベストセラー小説(翻訳あり)の最初の映画化であり、同じ原作小説から'30年にウィリアム・ウェルマン監督版(リチャード・アーレン主演)、'40年にジョン・クロムウェル監督版(フレデリック・マーチ主演)と10年おきにリメイクされ、さらに55年あまりを経て'96年にマーク・ペプロー監督版(ウィリアム・デフォー主演)も製作されています。コンラッドは没落ポーランド貴族の末裔に生まれて10代から船員になり、27歳でイギリスに帰化した後に38歳で英語による作品でデビューした異色の大作家で、題材が異国情緒とドラマティックなシチュエーションに富んでいるので多数の映画化作品があり、『ロード・ジム』'25(ヴィクター・フレミング)/'65(リチャード・ブルックス)やヒッチコックの『サボタージュ』'36(リメイクがクリストファー・ハンプトンの『シークレット・エージェント』'96)、キャロル・リードの『文化果つるところ』'51、リドリー・スコットの『デュエリスト/決闘者』'77、フランシス・F・コッポラの『地獄の黙示録』'79、ビーバン・キドロンの『輝きの海』'97、パトリス・シェローの『ガブリエル』2005、シャンタル・アケルマンの『オルメイヤーの阿房宮』2011と、アケルマン作品のみ日本未公開ですが、まだまだあるでしょう。ドストエフスキーと比較される難解なテーマと作風で早くからイギリス文学界の巨匠となっていたコンラッドの小説が初めて一般の読者にも読まれるようになったのが'13年の『運命(Chance)』で、日本でも初めて翻訳出版されたコンラッド作品です。そして英米で大衆誌に連載されてコンラッド最大のベストセラー小説になったのが『勝利』で、コンラッド沒後には文学的評価では『運命』『勝利』以降の晩年の作品は'11年の『西欧の眼の下に』までの全盛期の作品と比較すると著しく落ちる、というのが定説になりましたが、『勝利』はコンラッドの生前に映画化されているばかりか4度の映画化はコンラッド作品中でも目立っていて、また原作小説より映画化作品の方が古典になっている例も『国民の創生』『グリード』『風と共に去りぬ』『怒りの葡萄』『わが谷は緑なりき』『タバコ・ロード』『ローラ殺人事件』『脱出』『ミルドレッド・ピアース』『翼にかける命』などきりがありません。本作もトゥーヌールの隠れた傑作の一つとされており、異国情緒と異常な人物設定、異常なシチュエーションをなかなか全貌の見えない複雑な話法で展開するコンラッド得意の手法を解きほぐして、難解な原作をよくもまあと呆れるくらい明解な映画に仕立てています。これはスティーヴン・フォックス名義で脚本を手がけたジュールス・ファースマン(1888-1966)の功績が大きく、'15年から映画原作・脚本家として活動したファースマンは生涯120本に上がる映画化脚本があり、ルビッチの『ロモラ』'424やモンテ・ベルの『帝国ホテル』'27を経て『非常線』'28から『ジェット・パイロット』'57までのほとんどのジョゼフ・フォン・スタンバーグ作品(『ジェット・パイロット』は遺作)、スタンバーグの凋落と入れ違いに'35年の大ヒット作『支那海』(テイ・ガーネット監督)、『戦艦バウンティ号の叛乱』(フランク・ロイド監督)、『大自然の凱歌』'36から『リオ・ブラヴォー』'59の間のハワード・ホークス作品の大半を手がけています。
 しかし映画を先に観ればともかく、壮絶な悲劇に終わるコンラッドの原作小説を読んで映画を観た観客は本作の原作からの大きな改変に呆気に取られるのではないでしょうか。マレー諸島のセレベス、交易地で観光地であるスラバヤと好色なショムベルグ(ウォーレス・ビアリー)が営む観光ホテル、主人公ヘイスト(ジャック・ホルト)が住む石炭採掘地の火山島サンビュラン島、中国人従僕ワン、ヒロインのアルマ(シーナ・オーウェン)がこき使われている観光ホテルの呼び物であるザンジャコモ女性楽団、いかさま賭博師の親玉の怪人ミスター・ジョーンズ(ベン・ディーリー)とその用心棒のナイフ使いリカルド(ロン・チェイニー)、相棒をミスター・ジョーンズに殺された挙げ句ジョーンズの下僕になっている白痴のペドロ(ブル・モンタナ)と、原作小説に出てくる人物と設定はほぼそのまま使われています。原作小説はヘイストの唯一の友人のダヴィッドソン船長(ジョージ・ニコルズ)の視点から描かれますが、ダヴィッドソン船長は映画の最初にちょっと出てくるだけです。ヒロインに手をつけようとするショムベルグを見かねて、ショムベルグの妻(ローラ・ウィンストン)が主人公とヒロインの逃走の手引きをするといった、細かい部分も原作から採られています。しかし映画は最初のうちはくどい原作をすっきり整理していてなかなか快調なのですが、中盤以降舞台がサンビュラン島に犯罪者3人組が乗り込んできてからが、ストーリーは原作に忠実なのに人物のキャラクター設定が徐々に変わっていきます。原作の登場人物たちは、主人公とヒロインも含めて非常に矛盾したものを内面に抱えている、行動と内面にも矛盾があるばかりか常に思いがけない行動に出てもおかしくないような状態に描かれています。それを映画にすると人物たちの行動が支離滅裂になりすぎる。本作の字幕タイトルはサイレント映画の劇映画としては標準的で(『仮面の人』は明らかに字幕タイトル過多でした)、コンラッドの原作通りに複雑極まりない性格設定を字幕タイトルで解説するには無理がある、と踏んだのでしょう。一例を上げれば原作ではミスター・ジョーンズは激しい女性嫌悪の持ち主で、それが悪党3人組の仲間割れの原因になりますが、映画ではミスター・ジョーンズもショムベルグやナイフ使いのリカルド同様好色漢なのでそれが原因で仲間割れになる。白痴のペドロが実は、というどんでん返しは原作にはないもので、これは映画オリジナルのアイディアが功を奏していますし、狡猾で好色なナイフ使いのリカルド(スペイン人かメキシコ人?)を演じるチェイニーはスタントなしで火山灰の積もった屋根から地面に落下しますし、初登場でホテル内で賭場を開いた自分たちを退去させようと文句をつけに来たビアリーを脅して、ドアの前に立ったビアリーの脇の下にナイフを投げつけてナイフがドアに刺さるのをこれもビアリー、チェイニーともスタントではなく本当のナイフ投げ芸をやっていて、ちんけな小悪党の役ですが『仮面の人』の元ドイツ軍将校のスパイ役より本作の厭らしい役柄のチェイニーの方が光っています。ウォーレス・ビアリーは役作りかもしれませんが『人生の乞食』'28や『チャンプ』'31より老けメイクで、主演のジャック・ホルトは『桑港』'36や『キャット・ピープル』、『コレヒドール戦記』'45、『ミズーリ横断』'51と長いキャリアを送った人ですし、日本未公開の主演作『Whirlpool』'34はジーン・アーサーと共演したプレ・フィルム・ノワールの古典とされています('49年のオットー・プレミンジャー監督の同名作とは内容は無関係)。ヒロインのシーナ・オーウェンはグリフィス『イントレランス』'16の古代バビロン編でバビロニアのお姫様役だった女優です。本作はロケーションやオープン・セットも多く、南洋らしい映像の明るさが魅力で、筆者は昨2017年発売のアルファ・ヴィデオ盤DVDで初めて観ましたが(それまでは高価なマニア向けインディー盤しか出ていませんでした)、こういうチェイニーやビアリーの出演作は助演時代の作品でもジャック・ホルトよりチェイニー、ビアリーの出演作が売りになっています。観てみたら案の定助作品でしたがウォーレス・ビアリー共演、ヒロインもシーナ・オーウェンだし、監督がトゥーヌールで原作がコンラッドだったので得した気持になりましたが、DVDジャケット裏にもジュールス・ファースマン脚本なのが強調されていて、それなりの期待感を持って視聴し、アルファ・ヴィデオは画質も作品内容も玉石混交ですがグレイプヴァイン社のDVD同様ストレートなテレシネ化の割に画質もまあまあ許せる程度で実に楽しく観ましたが、矛盾に満ちた登場人物と辻褄の合わない展開が壮大な悲劇に収斂していくコンラッドの原作を、矛盾を矯正し辻褄を合わせるとストーリーは原作通りなのに本来コンラッドが立てたプロットの意図がまるで正反対になってしまって、原作とはまったく異なる結末になってしまっていたのには唖然としてしまいました。トゥーヌールの映画では『モヒカン族の最後』も同様の指摘がされますが、映画としては人物の性格やストーリーの展開に一貫性のある作品に仕上げて原作に忠実に物語を追っていても、文学作品である原作に含まれていた大きな混沌はすっきり洗い流されてしまっているきらいがあります。原作小説の問題性が当時の読者には受け入れられるものであったとしても、それを映画で表現できるか、映画で文学作品である原作にはあった矛盾や混沌を表現しても受け入れられるかは難しかった、という事情を考えさせられます。原作小説『勝利』が'30年、'40年、'96年と間を置いて再映画化されたのもそうした理由からだったに違いなく、ただし原作の意図に忠実なのがそのまま映画としてこなれているとは限らないので、トゥーヌールの本作は原作小説から南洋犯罪ロマンスの部分だけを都合良く切り取った映画とも言えますし、逆にこうした効果的な単純化が行えたのは原作小説からの初の映画化、製作年度もサイレント映画の長編時代が定着して間もない1919年(この年はサイレント時代の映画史でも節目になった年です)と、一種条件が偶然に揃ったからでもあるように思われます。

●8月3日(金)
『天罰』The Penalty (監=ウォーレス・ワースリー、Goldwyn Pictures'20.Aug.)*93min(Original length, 90min), B/W (Tinted), Silent; 日本公開(年月日不明) : https://en.wikipedia.org/wiki/File%3AThe_Penalty_%281920%29.webm

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[ 解説 ](キネマ旬報近着外国映画紹介より) ガヴァナー・モリス氏原作の小説を脚色したもので、性格俳優の名手ロン・チャニー氏が主役ブリザードに扮して得意の腕を振っている。米誌は筋としてはこの映画を格別褒めておらぬが、技術的方面及びチャニー氏の演技を激賞している。チャニー氏の外にケネス・ハーラン氏、クレア・アダムス嬢等が出演している。
[ あらすじ ] 小児の時に受けた手術によって、ブリザード(ロン・チャニー)は両足を失っていた。彼の望みは彼を不具にした医者(チャールズ・クラリー)に復讐することと、サンフランシスコ暗黒界の大頭目となること、他人の両足を切って自分の足の切り口につなぐこと、この3つであった。いかにして彼がこれを企み、これに失敗するかが劇の骨子である。

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 1920年になると前年8月公開の『ミラクルマン』での大ブレイクを受けて、チェイニーもいよいよ本格的な主演作品が作られるようになります。この年の出演作は6作ですが、特に強烈な作品としてチェイニーのキャリアでも重要視されているのがこの年4作目の、トッド・ブラウニングに次いでチェイニー主演作を多く手がけたウォーレス・ワースリー(1878-1944)監督による本作で、『The Penalty』を『天罰』と訳した大正時代の日本の映画会社のセンスもすごいですが、映画の内容はもっとすごい。映画はまずプロローグで「交通事故の犠牲者」と、ベッドに横たえられた少年と二人の医師がいる病室が映されます。若い医師は両脚の切断を主張し、年長の医師は誤診の可能性を指摘しますが、若い医師に押し切られてしまいます。少年の両親が到着し、息子は助かるのか医師に問い、若い医師は任せてくださいと請け負って、医師たちの話を聞いていた少年は必死で抗議するも両脚の切断手術は施術されてしまいます。「27年後、アメリカ有数の大都会サンフランシスコ」といきなり時代は飛び、大衆食堂でテーブルに突っ伏して眠りこんだ男の財布をすり盗ろうとした女が、ヤクザのフリスコ・ピート(ジェームズ・メイソン)に捕まって連れて行かれそうになり、店を出たところで揉めてフリスコ・ピートは女を殺し、階段から投げ落とし往来は騒然となります。ピートが路地裏に逃げると小路から両脚が膝までしかない、松葉杖をついた男、ブリザード(ロン・チェイニー)が手引きしてピートは小路奥のアジトに隠れます。追ってきた警官がチェイニーに逃げてきた男はいなかったか尋ねますがチェイニーはとぼけてみせ、警官は異形のチェイニーに怯んで追究はせずに去っていきます。チェイニーはオフィスに戻り、隠し窓から様子見をした後で隠し扉から地下の女工ばかりの帽子工場を視察し、不機嫌に女工たちの作業をにらんで不出来な帽子を作っていた女工の髪をつかんで激しく叱責し、逃げたければ逃げてもいいぞ、ただし逃げれば殺すがな、とフリスコ・ピートが女を殺してきたことを知らせます。チェイニーはまた別の隠し部屋に入るとそこはピアノが置かれた音楽室で、チェイニーはペダル係の女にフットペダルを押させて演奏しますが女のミスに怒り、役立たずのペダル係は殺すぞ、と脅します。警察は相次ぐ犯罪事件の黒幕がチェイニーではないかと女性捜査官のローズ(エセル・グレイ・テリー)を潜入捜査に送りこみます。一方、チェイニーは、出世して財をなしサンフランシスコ医師会の重職になった、27年前にチェイニーの両脚を医療過誤で切断したフェリス医師(チャールズ・クラリー)の館の門番をスパイにしています。フェリス医師は後継者として若い医師アレン(ケネス・ハーラン)を娘のバーバラ(クレア・アダムズ)と婚約させていますが、バーバラは彫刻家志望で縁談に消極的です。バーバラが彫刻のモデルの新聞広告を出しているとスパイから知ったチェイニーは、バーバラにサタンの胸像のモデルにしないかと売りこみます。チェイニーの帽子工場の女工になった潜入捜査官のローズは新顔なのでチェイニーのピアノのペダル係を兼務するようになりますが、サンフランシスコの暗黒街を支配し、両脚を奪った医師に復讐するつもりの自分がペダル係の助けを借りないではピアノも弾けないのか、と泣き崩れる姿にショックを受け、献身的にチェイニーのピアノのペダル係を勤めるようになります。チェイニーは定期的にバーバラのモデルになり、父にも婚約者にも彫刻を子供の遊び扱いされていたバーバラは、真剣にバーバラのモデルを勤めるチェイニーを信頼するようになります。ローズは帽子工場の天窓から通信文を警察の連絡員に投げ渡しますが、警察の連絡員はチェイニーの手下につかまってローズの身元は露見してしまいます。チェイニーはバーバラを籠絡しようと愛を訴えますがバーバラを抱擁しようとして台座から転落してしまい、バーバラがひるむのを見て作戦を変え、自分の惨めさを嘆いて同情を買います。帰宅したチェイニーはローズの身元を手下から知らされ、最高のペダル係だったよ、とほくそ笑むチェイニーにローズは忠誠を誓い、チェイニーへの愛を明かしますが、チェイニーは同情はいらない、ペダル係だけでいい!と激怒します。チェイニーはついにフェリス医師が在宅する日にモデルを勤めに行き、フェリス医師は蒼ざめてもう来ないでくれと嘆願しますが、それはお嬢さん次第でしょうとせせら笑います。チェイニーはローズに青年医師アレンとフェリス医師にバーバラの身元は預かった、と偽の誘拐電話をかけさせ、バーバラの身の安全を守りたいならアレン医師の両脚を切断して自分に接合手術せよ、と両医師に迫ります。バーバラが警官隊とともに駆けつけると、手術は済んだ、とフェリス医師がアレン医師ともども出てきます。フェリス医師はチェイニーの脳を切開してロボトミー手術を行ったので、今やチェイニーはローズにつき添われて自分の罪を懺悔しています。一方犯罪組織には震撼が走り、チェイニーを殺すか自分たちが殺られるかだ、とかつての手下たちが話し合います。チェイニーはローズと結婚し、術後の見舞いと祝いを兼ねてフェリス医師が訪ねて帰っていきます。晴ればれした表情でローズの助けでピアノを弾くチェイニーは、窓からフリスコ・ピートに狙撃されます。ローズの腕の中でチェイニーは、これが天罰さ、と息を引き取ります。そしてフェリス医師邸のアトリエで、バーバラがアレン医師とうなだれたサタンの胸像を見ながら、「これだけが彼の残していってくれたものだわ」とバーバラ。エンドマーク代わりにゴールドウィン映画社の咆哮するライオンのTMタイトルで、映画は終わります。
 チェイニーの身体障害者役は『ミラクルマン』を踏襲したものになるそうですが、両脚切断まで極端ではありませんでした。この役は膝を限界まで折って革の脚絆で包んで演じられたそうですが、全体重を両脇の松葉杖で支える苦労ともどもあまりの苦痛に数分以上続けて撮影できなかったそうです。本作の原作は大衆雑誌連載の犯罪スリラーらしいので、突っ込みだらけの点(暗黒街のボスに成り上がった手段や組織の実態が謎とか、警察が無能すぎとか、仇敵に強制した手術を手下に見張らせなかったのかとか)やあんまりな結末(ロボトミー手術!)も原作通りなのでしょう。しかし本作はチェイニー演じる主人公ブリザードの復讐心と邪悪さの中に秘められた悲しみを思いきり扇情的かつ暴露的でショッキングに描くことが意図なので尋常な基準でのリアリティなど問題ではなく、このあんまりな結末さえ医師を信用して裏切られた皮肉とも取れます。しかも、かつて医療過誤で両脚切断したばかりか、本人の同意など当然なしにロボトミー手術で無害化してしまうというこのフェリス医師こそ本当の悪役なのは確かなので、このあまりにむごい残酷譚は一応首尾一貫しているとも言えるのです。チェイニーの演技も映画界入りして8年、37歳にしてつかんだ主演の座で入魂の演技です。サイレント時代の男性俳優は身体能力でこなすタイプの俳優に人気が集まりましたが、喜劇映画はまだしもこうした陰鬱な娯楽映画で、チェイニーのような芸風をこなせる人材はチェイニーしかいなかったので、本作もチェイニーの出演を前提にしなければ成り立たなかった映画です。サイレント時代の映画に限らず映画が実際のテーマと見かけが異なるのはよくあることで、せっかくだからネタバレしますが『勝利』は原作では悪党同士の仲間割れの流れ弾に当たってヒロインは死に、主人公は手遅れになって初めてヒロインへの愛に気づくも絶望して家に放火して後追い自殺し、悪党のうち2人は殺し合って死に、生き残った1人も事故死して全員死んだ後で主人公の友人ダヴィッドソン船長が到着し、真相を知ります。映画では悪党の1人が裏切って仲間を殺して自分も死に、残る1人の悪党は主人公と戦って死に、ヒロインへの愛に目覚めた主人公とヒロインは結ばれて終わります。『勝利』の場合は明らかにストーリーだけを借りてまったく逆のものにしてしまったのですが、『天罰』の場合チェイニーはロボトミー手術という暴力的手段で思考改造されてしまうまでは一貫していて、ローズが探っていたチェイニーの陰謀は1,000人のメキシコ人移民(全員ソンブレロをかぶっています)を雇ってサンフランシスコ中で同時多発武装テロを起こし、秩序を壊滅させてチェイニーの暗黒組織が恐怖支配でサンフランシスコを乗っ取る、という計画でした(チェイニーの語りにカットバックしてテロの様子が映像で流れるので、一瞬テロ決行の場面に時間が飛んだのかと錯覚します)。帽子工場はその資金作りも兼ねているのと、女性嫌悪症のチェイニーのサディズムの満足の両方のためですが、膝までしか両脚がない体で蜘蛛のように移動するチェイニーの、人目にさらされるだけで嫌悪を催される姿を見ていると世界に対する憎悪がそのくらい荒唐無稽であってもおかしくはあるまい、と思えてきます。ワースリーは『ノートルダムの傴僂男』の監督でもありますが、15世紀のフランスを舞台にした文芸歴史映画でもある同作と、現代サンフランシスコのやくざな港町バーバリー・コーストが舞台の本作では生々しさが違います。チェイニーの特異な俳優としての座は前年の『ミラクルマン』に続き、'20年の『宝島』(4月公開)と本作『天罰』の2作で決定的になったそうですが、トゥーヌール監督の『宝島』ではチェイニーは主演俳優ではなく、また同作は現在散佚作品になっています。映画として出来が良いのもありますが『ノートルダムの傴僂男』と『オペラの怪人』はフランスものという点でチェイニーの生々しい憎悪、毒気、痛々しさ、おぞましさ、まがまがしさが適度にファンタジー的なオブラートに包まれているので、万人とまではいかずともわかりやすい怪奇映画らしさが誰にでも楽しめる面があり、チェイニー版に続いてはチャールズ・ロートン版『せむし男』、クロード・レインズ版『オペラ座』といった具合にリメイクを許す内容でもある。しかし『天罰』のリメイクなどパロディでもなければ想像もつきませんし、題材からも無理ならば歴史的作品ではありながら日本版DVDの発売すらはばかられるでしょう。イギリスの映画雑誌エンパイヤ・マガジンが2009年に選んだ「知られざるギャング映画の名作20選」では本作は第17位に選ばれており、また『ノートルダムの傴僂男』『オペラの怪人』以前のチェイニー主演作では本作はもっとも成功した作品とされ、チェイニーのベストの1作の内に上げる評者も多いそうです。それはもちろん、ロボトミー手術という暴力的手段による解決の不条理さも含めたものに違いありません。このイロニーもチェイニーが演じた本作のキャラクター、ブリザードが被害者に始まり被害者に終わる因果に結びついており、『天罰』とはそうした人生の皮肉と悲劇性を表すタイトルだからこそ笑えないブラック・ユーモアになっているのです。いみじくもブラッドベリの鋭い指摘のように「愛されないのではないかという恐怖の映画」「報われない愛への怖れの映画」、つまり『仮面の人』や『勝利』とは違う、正真正銘のロン・チェイニー映画と呼べるものは、『ミラクルマン』が残っていない現在、本作から始まると言って良いかもしれません。

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